「という訳で」 委員長が、持っていたチョークをカッと黒板に打ちつけた。 「このいずれかに決めたいと思います。よろしいですか? よろしいですね? はい、以上」 黒板には、物語の題名が4つ、並んでいた。 『白雪姫』 『シンデレラ』 『ロミオとジュリエット』 『かちかち山』 3月である。 すでに3年生はほぼ進路を決め(決まってない者もいるにはいるが)、高校生活もラストへ向けてカウントダウンの毎日だ。そして在校生といえば。……とくに何と言う事もない日常の連続だった。 渋谷有利が在籍するクラスでもそうだった。 「来週、私たちは劇を発表する事となりました」という、委員長の宣言さえなければ。 『新しい世界へ向けてレッツーゴー集会』。 一体どういうネーミングセンスを持った人物が、何を考えてつけたのかさっぱり分からない名称をもつそれは、学校側が用意した年中行事の一つだ。つまりは3年生追い出し会、堅苦しい言葉で言えば「予餞会」である。演劇部が寸劇を演じ、合唱部が歌い、ブラスバンド部が演奏し、かと思えば、いつもは密かに地下に潜っているバンドが、この日だけは公認でライブを行い、そして教師が宴会芸でウケた手品を披露したりする。ついでに、1年生と2年生の1クラスだけが学年代表となって、何でもいいから芸をしてみせなくてはならない決まりにもなっている。学年代表と言えば聞こえがいいが、結局は籤かじゃんけんで負けた運の悪いクラスのコトだ。 そしてまた、この日は別の意味でも特別な日となっていた。 3年生はその日半日、体育館に座っているだけで済むのだが、1、2年生は違う。集会が終わった午後になると、急転直下にイヤな行事、すなわち、三者面談が待っているのである。親が学校に来て、日頃の生活態度を暴露するやらされるやら、まだ考えてもいない将来を問い質されるやらと、生徒にとって楽しくない事甚だしい。しかし、学校側にとっては、この日に面談をぶつけるのはすばらしく意味のあることだった。それはつまり、わざわざ学校に足を運んで下さるご家族の皆様に、お早くお出で頂ければ、お子さま達の楽しい集会も堪能できますよという、保護者サービスまでもができるということなのだ。 よって、集会が行われる体育館の後ろ半分には、生徒のためではない、在校生の保護者、父兄のための席が大量に設けられることとなる。 そんな3年生追い出し会、つまり予餞会、口に出すのはとっても恥ずかしい『新しい世界に向けてレッツゴー集会』に、有利達のクラスが学年代表となってしまったのである。 何を発表するか、が、その日のホームルームの議題だったはず、だった。 しかし、黒板の前に立った委員長はものも言わずに4つの題名を書き上げ、この中から発表する「劇」を決めると宣言した。 「えー?」 「何だよ、それー?」 「勝手に決めんなよー?」 次々に上がる文句は、何故か棒読み。 「…なー、渋谷ー? 劇なんて、やってらんねーよなー? ……お前はどれがいいと思うー?」 質問の前後が微妙に繋がっていない。 渋谷有利の隣に座る男子が、なぜかちらちらと机に置いたノートに目をやり、言い終えた途端に「しまった」とばかりに顔を顰めた。どうやら言いたかった言葉を、丸々1行飛ばしてしまったらしい。後方から「ちっ」という舌打ちがかすかに響いてくる。 だが、質問された窓際に座る有利は、そんな不自然さに全く気づいていなかった。 ただでさえ食事の後。窓からは、初春の柔らかな陽射し。大して自分に関係なさそうな議題に、何の関心も湧いてはこない。 「……いーよ、別にどれだって。皆がいいって言うならさー。大道具でも照明でも、スギ花粉の役でもやって……ふわぁ…ねむ……、けどあのラインナップって委員長が考えたんかなあ。…『かちかち山』って……」 どうでもいいけど。ふと前を見ると、担任もうつらうつらと頭を上下させている。見ていたら、ますます眠くなってきた。あふ、と有利がまた一つ、大きなあくびをした。 「さて。単に、分かり切ったストーリーを演じても、面白くも可笑しくもありません」 教壇にふんぞり返り、教師よりも偉そうに、委員長が「決定事項」を説明している。 「よって、考えました。この劇においては、男女の役を交代致します。つまり。女性の役を男子が。男性の役を女子が演じるのです」 えー!? という、不満の声が一斉に上がる。が、声は異様に平板で、ひとかけらの熱意もない。 もちろん委員長は眉一つ動かさない。 「この4作品を選んだのには訳があります。白雪姫は、男子の出演者は主人公1人だけ。後の小人と王子は女子が演じます」 ……白雪姫の母親の存在は? 「逆にシンデレラは、王子役の女子が1名だけ。主人公、その継母、3人の姉は男子が演じます。ロミオとジュリエットは、男女多数が、かちかち山は人間外なので、男女関わりなく出演できます。……どうです? 偏りなく、とても公平な演目選びだと思いませんか!?」 すっごく得意そうだ。何と言っても、理屈が通っているのかいないのか、誰にも判断できないトコロがすごい。 「美しくない女装はいやー」 「俺、絶対出ねーぞー」 「女子はいいけどー。男子は出演者を選んで下さーい」 「そーよねー。鑑賞に耐えられる男子じゃないとダメだと思いまーす!」 「さんせー! でもそうなると、かなり出演者は限られてくるからー……」 「皆で候補者を上げていくのはどーですかあ? で、皆が賛成した人は、クラスの総意に従って、必ず出演すること!」 「それがいいと思いまーす! ではさっそく推せ……」 「似合わねーのばっかで女装させて、笑いを取る方がいーんじゃねーの?」 唐突に口を挟んだのは有利だ。眠気の中でふと思いついて、何の気なしに言葉にしてみたのだ。 しん、と、教室内に異様な沈黙が降りる。 「……え? ……あれ、どうしたんだ? 皆…?」 クラス発表の劇なら、いかにもありがちな、そして無難な提案のはずなのに。 どうしたんだよ。と不安げにきょろきょろしながら、有利は周りを見回した。……なぜか誰も有利と目を合わそうとしない。 「どうしました、渋谷君? 出演者について意見があるならどうぞ」 壇上から委員長が声を掛けてきた。 いや、その、別にー、と口を閉じる。 「では決を取ります」 委員長の決定はやたらと早い。 「白雪姫がいいと思う人!」 はいっ!! 一斉に手が、約1名を除き、全員の手が上がった。 「…はあっ!? ど、どうして……」 その光景を、渋谷有利だけが呆気に取られて見つめていた。何でだ? どうしてここで、全員が揃うんだ? 頭を捻った有利は、あっ、と、一つの可能性に気づいた。 「………お前ら、自分が女装したくないからって、1人に押し付けようってんだろ? それって、そいつが可哀想じゃないか!? 苛めかよ? ……なるべくたくさん出るのにしようぜ。皆で女装すれば、恥ずかしさも少なくなるって。 ほら、ケーキは分け合った分だけ美味しくなって、苦労は分かち合った分だけ軽くなるって言うじゃん」 出典は母親だ。もっともそれを聞かされたのは、ケーキじゃなく、1人で羊羹1本丸食いに挑戦していた時の事ったが。 「……渋谷……」 隣に座る友人が、どこか潤んだような瞳で立ち上がった有利を見上げてきた。あれ、と周囲を見渡すと、そこかしこの男子が、有利の男前な発言に感銘を受けたような、真摯な眼差しを送り返してきている。 分かってくれたんだ、と有利はにこりと笑った。 「……では、決を取り直します。白雪姫がいいと思う人!」 はいっっ!! 全員の手が、勢い良く上がった。 「なにーっ!?」 「はい、では、主人公白雪姫役を推薦して下さい!」 「渋谷君がいいと思いますっ!」 「はあっ!?」 「決を取ります。渋谷君がいいと思う人!」 はいっ!! またも全員の声と手が揃う。 「おいっ、ちょっと待……っ」 「渋谷君、クラスの総意に従って下さい。先程決めたでしょう?」 「いつ決まった!? 大体、どうして推薦が1人だけで決とっちまうんだよっ!?」 「それではっ。我がクラスの出し物は、渋谷有利主演、『白雪姫のキスは誰のもの? 小人 vs 王子、決戦の時!!』に決定致しました!」 「何じゃ、そりゃーっ!!?」 すまん、渋谷。クラスメート男子一同は、心の中で友人にひたすら謝っていた。 自分達ごときが、委員長と女子一同にどうして逆らう事ができるだろう。いやできない。絶対に。 それに。 ケーキはやっぱり1ホール丸まる自分のものにした方が嬉しいに決まってるし、苦労は人に押し付けた方が楽に決まってる。 がんばれ、渋谷。俺達はステージの陰からお前の災難を見守っているぞ。………それに、ちょっとだけ、いや、正直言うと、ものすごく、渋谷有利の女装姿を見てみたいし。 満場の拍手の中、男子は怒る有利に、心の籠った生温い眼差しを送った。 「完璧な作戦です」 委員長がにやりと笑った。この人物の笑いは常に、「にやり」だったり「にんまり」だったり「ほくそ笑んだ」り「せせら笑った」り、何を言っても「一笑に付」したりばっかりで、「にっこり笑」ったり、「微笑」んだりになったことがない。 いつもの会議室。という名のファミレスで、委員長とその同士達は集っていた。絶対に自分達は同士なんかじゃない、と主張したい男子一同もいた。いさせられた。 「……集会の出演に、立候補したかいがあったというものです。皆の協力を得て、出し物も白雪姫に決まったし。……渋谷君のキス、本気で争って下さいね」 視線を向けられた先では、王子役と小人役に決まった女子8名が、しっかりと頷いている。 「任せて下さい、委員長。……もうとっくに本気です」 女子達の瞳がきらりと光る。それを見つめる委員長、そして同士の皆さんは満足げに頷いた。 「後は。この催しの内容が、渋谷君の片思いの相手に伝わる事ですね。それでその相手の男性が、渋谷君の事をどう思っているかが判明します」 「………その男性が渋谷君に無関心とは思えません。渋谷君……何だか日に日に可愛くなっている……というか……」 美しくなっている、ではなくて、可愛くなっているというところが、いかにも有利らしいのだが。 「恋心が募っているからこそ、ということですね。丸っきり望みのない恋なら、ああも輝く程に麗しくなっていくとは思えません。……皆さん、いよいよ現実に、すばらしいカップルを目にすることができそうですねっ!」 はいっ、と煌々しく瞳を輝かせながら、同士一同(俺達は違う! by男子一同)が頷いた。 「……愛する人の唇が、他の、それも女性に、まして衆人環視の下で奪われるなど、許せるはずがありません。白雪姫の唇が、王子、もしくは戦いに勝利した小人に奪われそうになったその瞬間、噂を聞きつけ駆け付けてきたその男性が、必ずや姿を現すはずです! 渋谷君の唇を救うために! 自分こそが姫の目覚めを誘う王子なのだと宣言するためにっ! そしてっ!!」 感極まった委員長が、拳を握って立ち上がる。「お客さま、どうかもうちょっとお静かに…」という言葉が、はるか彼方から聞こえるような気がしないでもないが、気にしない。 「白雪姫に扮した渋谷君と、王子に扮したその男性が、スポットライトを浴びて、見つめあうのです。『君は僕のものだ、有利。誰にも渡しはしない』『本当? 僕の片思いじゃなかったの? 僕のこと……好き…?』『もちろんだよ、有利。…ごめんね、長い間、辛い思いをさせて』『ううん、そんなこと! ……嬉しい…!』 そして、舞台の上、二人はしっかりと抱き合い、初めての口づけを……!」 むっちゃくちゃ、無理がある。 うっとりする委員長と女子を横目に、男子一同は深々とため息をついた。 噂って何なんだ? どうやって広めて、どうやってその男の耳に入れるんだ? そもそもその男、一体どこに住んでるんだ? それに。 渋谷が女子とキスするのを阻止するために、王子のコスチュームに着替える必要性があるのか? コスプレマニアじゃあるまいし(たぶん)、いくら舞台に上がるからといって、わざわざ着替えるか、普通? ていうか、わざわざ着替えていたら、劇が終わってしまうんじゃないのか? 「……そんな設定、今どきどんな売れない漫画家だって描かねーよ……」 ベタすぎて、恥ずかしい。 「ものすごい偶然と幸運に支えられた完璧さだねえ、その計画」 楽しげな、笑い混じりの声が、いきなり彼らの頭上に降り掛かった。 「……! あなた…っ!?」 村田健が立っていた。 「夢見るのはいいけどさあ、噂って何? ものすごい美少年が女装する劇があるんだよーって? でもって、女子が本気でキスを狙ってるんだってさ、ってかい? そういえば、結構スカウトが渋谷狙ってうろついてんだってねー」 一体、この男の神出鬼没さは何なんだろう? 委員長はきゅっと眉を顰めて思った。 いつでもどこでも突如現れては、話の主導権を全てもぎ取っていく。 「ええ、そうね」驚いてなんか、やるもんか。「どうしてだか、美少年じゃなくて、美少女だって思い込んだスカウトが、何人も学校に来てたわ。渋谷君が『バカにすんじゃねーっ』って、スポーツバックでアッパーカット決めてたけど。……どうも彼は自分の容姿についての自覚が皆無のようね」 「それは僕も常々思ってるよ。……で? 君の計画を成功させる根本をなしている噂だけど。どうやってその『彼』の耳に届けるつもり?」 「……そ、それは……」 委員長だって馬鹿ではない。それが一番の問題だということくらいちゃんと分かっているのだ。 「渋谷君はほとんど町を出ることはないわ。学校と家と、せいぜい草野球の練習に河原のグラウンドに行くくらいでしょう? バイトも、あるとしても市外には出ていない。だとすれば、その男性は広くても市内、狭く考えれば、学校と家を結ぶ動線上、そして練習グラウンド、もしくは草野球チームそのものの周囲にいると考えられるわ。私はそちらの方の可能性が高いと思ってるの。そこから、お友だちの協力を得て、少々脚色した噂を流すつもりよ。……アイドルとしてデビューすることになった渋谷君が、女装して舞台に出るって。そして、そんな彼のキスを、女子がみんなで狙ってるって。噂なんて、後は勝手に成長して広がっていってくれるわ」 少し呆れた表情を浮かべたまま、村田はくすくすと笑い続けている。 「考えてるんだかどうなんだか、さっぱり分からない話だね。実際、ズレまくってるけど。……そんなバカげた噂、勝手に流されても困るんだよ。…ねえ、君」 村田がテーブルに近づき、委員長の顔を下から覗き込む様に首を傾げた。……同じ動きなのに、なぜか有利がするような愛らしさが欠片もない。むしろ見上げてくる目に、背筋が冷たくなるような怖さを感じる。 「…な……何、よ…?」 「噂なんて、流さなくてもいいよ。……僕が、きっちり『彼』に伝えてやるから」 「………え?」 委員長と、同士の皆さん一同が、きょとんと村田を見る。 「ぼやぼやしてると、渋谷のファーストキスが好きでもない女の子に、それも遊び半分に奪われちゃうよってね。君たちは何もしなくていい。せいぜい劇の練習に励むんだね」 話は終わったとでも言う様に、村田はあっさりと踵を返した。そしてすたすたとその場を去ろうとする。 「…ま、待って、村田君!」 村田が、顔を半分だけ彼らに向ける。 「…………どうして…?」 委員長の疑問に、村田は軽く肩を竦めた。 「面白そうだからさ」 くすり、と、不思議な程に大人びた笑みを顔に浮かべると、村田は今度こそ前を向き、振り返ることなくその場を去った。 「……なあ」男子の1人が呆然と口を開く。「あいつ……まじで俺達と同い年なワケ……?」 なぜか誰も答えられなかった。 「しーぶやっ」 なに気に肩を落として歩く有利の背後から、脳天気な声が掛かった。けだる気に有利が振り向く。 「……うわー、くらー」 ふざけた声は、もちろん村田健だ。 「………暗かねー。……疲れてるだけだ」 「お姫さま役の練習で?」 ぴたっと有利の歩みが止まる。次の瞬間、有利の手が村田の胸ぐらを掴んだ。 「どうして知ってる!? 何で知ってる!? 誰にきいた!? どこから聞いたっ!?」 「そんなコト大した問題じゃないよ、渋谷。それよりも、君は自分の唇を護らなくちゃね」 「……くちびる……?」 そう。と村田が頷く。 「練習してて、何か我が身に危険を感じたりしない?」 有利はぽかんと村田を見た。 「……危険、なんてドコから出てくんだよ? 白雪姫だぞ? ………ああでも、よく分かんねーコトならあるけど」 「分からないこと?」 うん、と有利が頷く。 「白雪姫が毒りんごを食べてから後の練習が全然ないんだよな。……ここから後はアドリブとか言ってさ。何をどうアドリブにするんだか、さっぱり分かんねー」 「なるほどね。……無防備に横たわる姫の唇を、そこで一斉に奪い合うワケか。がんばってファーストキスを死守しなよ、渋谷。王子役の女子に、無理矢理唇を奪われたりしないようにね」 何言ってンだよ、村田、と、有利が呆れた声を上げた。 「…王子様のキスなんて、フリだけに決まってんじゃん。…大体さあ、キスって女の子にとっては大切なもんだろ? 面白半分でんなコトできるワケねーって! そもそも女の子にそんな大胆な真似…っ」 女の子だからやるんだよ。 村田は胸の中で呟いた。ホントにこの友人は、いったいどこまで異性に夢を持っているのだろう。あちらに行けば、地球の女子高生なんぞ足元にも及ばないスゴイ女性が、わんさと彼を取り囲んでいるというのに。 「キスは好きな人とするもんだもんね」 「とーぜん!」 「渋谷も好きな人とキスしたい?」 「そりゃ……っ」 不自然に詰まると、ゴホゲホとわざとらしく咳きをする。 「おやあ? 今誰かの顔を思い浮かべたりしませんでしたか、渋谷さん? 顔が赤いよー」 「…っじゃねーよ!」 「分かったっ」 「えっ? ええっ!?」 「……フォンビーレフェルト卿、とか…?」 一瞬顔色を変えた有利の肩が、がくーと落ちる。 「気色わりーことぬかすんじゃねー。なーんで俺がヴォルフと……!」 「婚約者じゃん。それにあれほどの美少年、どこが気色悪いんだか」 「でかい声で婚約者とか言うなっ。どんな美少年だろうと、俺達男同士………」 そこでまたもやぐぐっと詰まって、瞬間、きゅっと眉を寄せた有利は、ぷいと横を向いた。そして殊更足を早めて歩き出す。 分かりやすいなあ。分かりやす過ぎるよ、渋谷ぁ。 くすくすと、有利にしか見せない朗らかな笑みを零しながら、村田は友人を追った。 じれったい気分を楽しむのも中々乙なものだが、あまりにも膠着状態が長過ぎる。有利には、一つ所にいつまでも立ち止まってもらっていては困るのだ。彼の使命はあまりにも重く、それを成し遂げるために必要な時間も、またあまりにも長い。 彼もなあ……。 村田は長身の男の姿を目に浮かべて、苦笑とため息を洩らした。 逡巡する気持ちも分かるけど……いや、最初から諦めてしまっているのかな?……まあ、どちらにしても、僕も渋谷同様、君にすると決めたんだからね。諦めて身を引くことこそ諦めてもらうよ。それに。 村田はそっと掌を、有利の背後から翳した。有利の、ちょうど腰の辺りに向けて。 ………やっぱり、変化し始めてる。 有利の身体の中、生まれてからこれまで、ずっと止まったままでいた部分が、急激に成長し始めている。 渋谷の想いが変化を促したのか、それとも逆か……。でもそれも結局は………。 「ここんトコ、あちらに行けないねえ」 有利の横に並び、村田は前を向いたまま口を開いた。 「……だな……」 寂し気に有利が頷く。 「会いたいだろ?」 誰に、とは聞かない。ただその一言で、有利はふと目線を上に上げた。目の前にいる、誰かを見上げるように。 「………会いたい、な………皆に」 とってつけたような最後の言葉。揚げ足を取ることはせず、村田も「そうだね」と笑った。 予餞会前日。 「こっ、こんなの着ろってのかよーっ!!」 目の前に広げられたドレスに、有利が絶叫している。 「……すげー」 「派手っつーか……、何だこのフリルの量は」 「くはー、手作りかよ。うう、ショッキングピンクが目に突き刺さるぜ」 「夜、これ着て外に出たらさ、ドレスだけ光って歩いて見えるな」 「ホラーだな」 「すばらしいですねっ、委員長!」 「渋谷君の愛らしさにぴったりです!」 「コスプレ系とドール系とアクセサリー系のお友だちが、長年鍛えた技を凝らし、腕によりを掛けて完成させたドレスですからね! 彼女達も、これを着こなす渋谷君を楽しみにしてます」 「その方々も『レッツゴー集会』を見に?」 「ええ、もちろん。父兄の振りして来る予定です」 やはり「父兄のコスプレ」姿だろうか。 「委員長!」有利が叫んだ。「これ、長過ぎねえ? 裾、めちゃくちゃ長いよ! 引きずっちまうぞ!」 「渋谷君。それを引きずりながらも優雅に歩く事が重要なんです」 「転んじまうって!!」 ぐはーっ。可愛い顔にきっぱり似合わない雄叫びを上げる有利を眺めつつ、委員長は声を潜めて傍らを見た。 「……補欠のバスケ選手はどうでしたか?」 「はい。もうすっかりその気になってます」 やはり小さな声で答えたのは、クラスの図書委員だ。ショートカットできりっとした顔立ちの彼女は、某秘密組織では「司令の書記官」と呼ばれている。秘密組織の一員である事は広く知れ渡っていて、全然秘密じゃなくなっているが、関西出身である事は意外と知られていない。 「自分のためにお膳立てしてもらったと思い込んでいるようです。『渋谷君のファーストキスは、ぼぼぼ、僕のもの……うひゃーっ!』とか叫んでました」 「なるほど。ま、あくまで補欠ですが。それはそれでよろしい。さて」 視線の向こうでは、有利が男子に囲まれて、まだわいのわいのと騒いでいる。 「……いよいよ明日、ですね」 その日の夕方。練習を終えて、有利は自宅のドアを開いた。 「おかえり、ゆーちゃん!」 母親がいそいそと出迎えてくれる。……異様に機嫌がいい。 「……ま」 ぐったりと靴を脱ぎ、リビングへ。そこで。 「………うわっ。何だよ、これ。すげーっ!」 思わず大きな声を上げてしまった。 リビングの陽当たりのいい窓際に、正月以外姿を見せない、巨大な花瓶いっぱいに盛られた花が飾られていたからだ。 色とりどりの何種類もの花が、それも余程センスのいい人間が選んだからなのか、派手ではあるが下品ではなく、華麗に優雅に花開いている。見れば、テーブルやキッチンのカウンターの上にも同じ種類の花が活けてあるから、これはもう相当な量の花だ。 ………こんなに買ったら…すげ−高そう。 すぐに金額に換算するのが、庶民の哀しい性だ。 「……どーしたんだよ、これ?」 有利の問いかけに、うっふっふと笑いながら母、美子が近づいてくる。 「今日ねー。パパとママの、むかーしのお友だちが訪ねてきて下さったのよお。これはあ、ママへのプレゼント! 素敵でしょうっ!?」 はあ。よく分からない顔で、有利は首を捻った。 人の家を訪ねるのに、花束を持って来るというのは、あんまり日本人的ではない気がする。 「パパにはね、お国の地酒を持ってきて下さったの」 ますます有利の眉が寄った。 ………大量の花束と一升瓶……? 「他にも色々。……まあ、そんなコトはいいのよ、ゆーちゃん。ねえねえ、明日、三者面談だったわよね?」 「…えっ!? あ、ああ、そう、えっと……午後から、1時頃来てくれればいいから!」 「あら、確か午前中に……」 「俺っ、それかんけーねーからっ!!」 脱兎とリビングを駆け出す有利。1時だから、絶対1時だからなっ。足音と共に遠くなる声。 「……ゆーちゃんたら……」 あんなに必死になっては、嘘をついてるのがバレバレだ。 お間抜けな息子に、美子は思わず深いため息をついた。 ………ご苦労おかけしちゃってるわよねえ……。 美子はそっと花瓶から、花を1本抜き取った。 「これって、ゆーちゃんが好きな色ね。……きれいだわ、なんて名前のお花かしら?」 勝馬が帰ってきて、今日の話をしたら、夫はかなり複雑な顔をして見せるだろう。長男に至ってはいまだ何も知らない。 「でもね、ゆーちゃん」 指でくるくると花を玩びながら、美子はにこっと笑った。 「ママは、いつでもどこでも何があっても、ゆーちゃんの味方よ」 美子の手の中で、地球にはない青い花が、光を弾いて輝いていた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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