愛し君へのセレナーデ・4 |
「カールは良い男だったな」 もうこうなったら下手にごまかす方が不自然だ。そう思ったのだろう、クラリスの問いかけに反応したのはコンラートだった。 はい、とクラリスが微笑む。間近で見てしまったユーリが、思わず目を瞠るほど、静かで優しい笑みだった。 「……兄は、とにかく大きな人でした」 胸の奥の引き出しにしまった思い出をそっと取り出すように、クラリスは瞳を閉じてゆっくりと言葉を綴った。 「身体つきも顔立ちも、荒削りという表現がぴったりだったように思います。大きな岩から人の形を彫り出したようだと言った人もいますね。……何をするにも豪快で、思い切りがよくて、迷いというものがありませんでした。まあ………救い様のない程頭が悪かったともいえますが」 げほごほげほと、ソファで誰かが咽せている。 「沈思黙考のタイプから程遠いことは、誰より本人が自覚していたと思います。およそ悩むということのできない人でした。だから、一旦この道を行くと決めたら、脇目も振らずただ一直線に突き進んでいましたね。まさしく羊突猛進でした。そして……」 兄が決めた道とは。クラリスが真直ぐにコンラートを見つめる。 「隊長、あなたについて行く、ということです」 クラリスの視線を真正面から受け止めて、コンラートはやがて「ああ」と頷いた。 数瞬の間の後、クラリスが笑みの形を変えた。そしてその笑顔のまま、ユーリに視線を向けた。 「陛下はお聞き及びかもしれませんが、兄が生きていた頃の私は、今程丈夫ではありませんでした」 表現としては、かなり控えめだろう。 「嵐が起こるだけで、世界が壊れてしまうのではと怖れおののくような気の弱いところもあったのですよ?」 くすくすと笑うクラリスに、「そ、そうなんだー」と笑うしかないユーリ。 「そんな時、家の屋根も壁も、そしてベッドも、私を取り巻く全てが儚くて、脆くて、弱々しいものにしか感じられなくて……私は本当に、今にも大地が崩れて地の底に転がり落ちて行くような恐怖に襲われていたのです。でも……兄といる時だけは違いました」 室内はしんと静まり返って、皆がクラリスの語る言葉に耳を傾けている。 「兄がいれば、あの太い腕で抱き上げてもらえれば、厚くて固い胸に顔を埋める事ができれば、世界からはあやふやさが消え、大地は確固とした形と強さを持ち、安心して命を預けることのできるものに変わりました。兄がいる、それだけで、私は……ちゃんと生きていると実感できたのです。兄が私に笑いかけてくれるから。抱き締めて……くれるから……」 「お兄さんのこと……大好きだったんだね……?」 ユーリの言葉に、クラリスが切なく笑う。 「大好きです。だった、じゃなく。今も……大好きです」 ユーリの視界に、ソファから腰を浮かせ、今にも何か言い出しそうな透と、それを無理矢理押し止めているお庭番、そして何か告げているらしい村田の姿が映った。 乱れる空気を感じたのか、クラリスがふと振り返りそうになる。 「あっ、あのっ、じゃ、じゃあ、さ……」思わず声を上げるユーリ。「えっと、そのー……」 クラリスが視線を戻し、ユーリを見ている。 「……えっと、あの………じゃあ、お兄さんが亡くなったの……辛かった、よね……?」 しばらく沈黙して、それから「はい」とクラリスが頷いた。 「とても……辛かったです。辛いなんて言葉では追い付かない程、悲しくて、辛くて、苦しかったです。報せを受けてから、毎日毎日、ただひたすら泣き暮らしておりました。………兄がこの世にいないのに、どうして太陽は毎日上るのだろうとか、どうして鳥はあんなに明るく囀っていられるのだろうとか、果ては、どうして私は生きているのだろうとか、理不尽な思いにぐちゃぐちゃになっていましたね……。自分の生きている意味が分からなくなり、兄の後を追って、死のうとしたこともありました」 「クラリス……」 痛ましさに、ユーリの眉が曇った。ソファで透が膝を掴み、肩を震わせているのが見える。 「でも、ある夜」 クラリスの声の調子が変わった。 「枕元に、兄の亡霊が立ったのです」 へ? 思わず全員の─透も含めて─視線がクラリスに集中し、次の瞬間、その視線は一斉に透に向かった。 慌てふためいて、ぶんぶんと手と頭を振る透。……かなり混乱している。 「私の嘆き様をあの世で見て、きっと心配になったのでしょうね。兄は、私に帰還することができなかったことを詫び、そして私を抱き締めて囁いてくれました。『生きてくれ』と」 クラリスの瞳が窓ガラスの向こう、澄んだ青空に向けられた。 「眞魔国の大気に溶け、木々に溶け、水に溶け、光に溶けて、兄ちゃんはずっとクラリスを見守ってるぞ、と。……あの兄にしては、気のきいたセリフを言ったものです」 後方では、透が頭を抱え、必死の形相で悩んでいた。無駄なことをするなと言いたげに、村田が透の肩をぽんぽんと叩いている。 「兄の遺志を継ぎ、剣を取る事にしてから、私は何度も兄を感じました。挫けそうになる度、肉体的な力や、権力を笠に着た者の理不尽な力に負けそうになる度に、私は背後に兄の存在を感じました。それを感じる事ができれば、私は襲いかかってくるどんな強力な力も跳ね返し、打ち負かす事ができました。兄が……私に乗り移って、力を貸してくれていたのかもしれませんね」 そりゃ違うだろう。 全員が思わず遠い目を宙に向けた。 それって、単に本性が出ただけだから。 「今こうしていても」クラリスが窓辺に寄り、ゆっくりと空を見上げる。「あの空に兄の存在を感じるのです。ずっと私を見守り続けてくれている兄の優しい瞳を。……私が強くなった事を一番喜んで、そして応援してくれているのは、誰でもない兄だと思っています。ですから私は」 空に向け、ぐっと拳を握る。 「兄の想いを継ぎ、兄にもっともっと喜んでもらえるよう、今より更に強くなろうと決意しております!」 ………………立派だ、クラリス。 だけど。 空を見上げて決意表明するクラリスの後ろでは、図らずも魔王陛下始め全員が揃って瞑目し、塩っぱい表情でほとんど反射的に首を大きく左右に振っていた。 クラリス。君のお兄ちゃんは、見上げるその空の上にはいない。 お兄ちゃんの魂は、今、君のすぐ後ろのソファから床にずり落ちて、そこで膝を抱えて滝の涙を流している。 「………私事を長々と、失礼致しました」 クラリスが、どこか照れくさそうな笑みを浮かべ、ユーリに向かって頭を下げた。 「書類の方はよろしいでしょうか?」 「しょ…? あ、ああっ、う、うんっ、だいじょーぶ! ほら、サインならこの通り!」 バッと勢いよく差し出された書類を受け取って、クラリスは改めて一礼した。そして、「ではこれで失礼致します」と告げると、踵を返して扉に向かった。と。 クラリスの視線が、妙な場所─ソファとテーブルの隙間、で蹲る透に向けられた。 「………その諮問委員殿は、一体何をしておいでなのでしょうか?」 その疑問はもっともだ。もっともだけど、答えようがない。ひくぅ、とユーリの喉が鳴った。 苦しい沈黙が支配する執務室。クラリスの眉が、きゅっと顰められた。 「私は」 いっそ重々しい程に威厳のある、低い声が親衛隊長の口から漏れた。 「私は、軟弱な男とヘタレな男が大嫌いです。目にすると、思わず首と胴を切り離したくなる衝動に襲われて、どうしようもなくなります。いずれ…やってしまうかもしれません。………よろしいですね? 隊長?」 それだけ告げると、後は振り返りもせず、クラリスは部屋を出て行った。 「………あのさ」どこか戸惑ったようなユーリの声が、静まり返った執務室に響いた。「クラリスの言いたい事は大体分かったんだけど………。何で最後にコンラッドに念を押していったわけ?」 視線を向けられたコンラートが、「さあ」と首を捻った。 「俺も、今それを考えていたんです。……一体何が言いたかったんでしょう……?」 二人揃って首を傾げて考え込んでいる。 分からねーのか。そーか。分からねーんだな? ソファの背もたれにぐったりと身体を預けていたヨザックが、げっそりと息を吐いた。そしてそれから、目の前で魂を宙に飛ばしているかつての友人、の、生まれ変わりで、たぶんこれから新たに友人関係を結んでいくだろう青年に目を向けた。 「……まあ、何だ、その…………今夜も飲みに行くか?」 「頼むね、ヨザック」 ヨザックの言葉に答えたのは、ソファの向いに座る大賢者だ。 「1人にしとくのは、何だかとっても可哀想だしねー。でも、僕や渋谷がいたんじゃ気を遣って逆に辛いだろうし」 「俺もつきあおう」 いつの間にかコンラートとユーリがソファに歩み寄ってきていた。 「今夜、お側を離れるお許しを頂けますか? 陛下」 陛下って呼ぶなー。いつも通りの言葉をユーリが返す。 「いいよ。おれもつきあいたいけど、村田の言う事ももっともだし。……凉宮さんのこと、頼むね? コンラッド、ヨザック」 御意、と魔王陛下の忠実な臣下である二人が、揃って頭を下げた。 コンコン、と頭を拳で軽く小突いて、透はほうっと息をついた。 行政諮問委員会での書類仕事を終え、眞魔国と地球世界の法整備と解釈の違いについての簡単な講議とディスカッションを、つい先程こなしてきたばかりだ。その後、同僚の食事の誘いを断って、今、透は1人、血盟城内をそぞろ歩いているのだった。 透が眞魔国に来てから4日目。 何だか怒濤の勢いという感じで時間が過ぎてしまい、様々な事をじっくりと考えることができないままでいる。もうそろそろ、1人でゆっくり頭の整理をしたい。そう思った。 何せこれまで常に誰かが側にいて、おまけに……夕べまで、結局三夜連続で宴会に突入してしまったのだ。 第一夜は、ヨザックと再会して、それから……変わり果てた(?)クラリスの姿を目にし、意識がなくなるまで飲んだ。 第二夜は、イロイロとショックを受けた自分を慰めようと、コンラートとヨザックが誘ってくれたが、その日は諮問委員会の歓迎会が予定されていたため、結局そちらを優先することになった。最初は胸が重かったが、学者や官僚といったイメージからかなり外れた個性的な、だが総じて気の良い同僚達と酒を酌み交わしていると、元々好きな分野の話題が多いせいか、やがて自然と話が弾んだ。地球世界のこと、眞魔国のこと、語り合う内夜は順調に更けていった。この国で共に酒を飲むとすれば、荒くれた武人ばかりという記憶しか持たない透には、中々新鮮な経験だったように思う。飲みに飲んで、意識を失うことはさすがになかったが、部屋に帰った時はシャワーを浴びることもできずにベッドに沈んだ。おかげで余計なことを考えずに済んだことは助かったと思う。が、翌日、痛みが音になって跳ね回る頭を抱え出勤してみれば、誰1人として二日酔いの顔をした者がいなかったことに、ちょっとだけショックを受けた。ミゲルによると「ここにいれば、否でも応でも鍛えられる」らしいのだが……。 そして夕べ。 前日誘いを断った「償い」だと、コンラートとヨザックに引っ張り出され、連れていかれたのはベルンの店だった。 コンラートがベルンの元に顔を出したのは、どうやらかなり久し振りの事だったらしい。一瞬絶句した大男が言葉もなく元隊長の手を取ると、今にも泣き出しそうにその顔が崩れた。しばらくそうして溢れてくる感情に堪えていた男は、ようやく三人を席に案内すると、注文も聞かずに酒や出来上がったばかりの料理(もしかすると他の客が注文したものも混じっていたかも知れない)を次から次へと運んできた。その間幾度か、「なぜお前が隊長と一緒にいるのか」と問い質したそうな視線を透に向けてきたが、結局それを口にする事はなかった。 そして、テーブルに溢れんばかりの「自慢料理」と酒とグラスが揃ったところで、ベルンが前掛けを外し、威儀を正して彼らのテーブルに歩み寄ってきた。 「隊長」 ベルンの呼び掛けに、コンラートが笑って顔を見上げる。その顔に、ベルンが深々と頭を下げた。 「御婚約、おめでとうございます!」 ………え? グラスを取り上げようとした透の手が、瞬間ぴたっと止まった。 「……話を聞いた時、この店で昔の仲間と集まって乾杯したんですよ。俺も、皆も、心底嬉しくて、本当に、嬉しくて嬉しくて……正直泣けちまいました。……でも、こうなったらもう俺なんぞ、隊長とは二度とお会いできないと思ってましたから……こうして直にお祝できて……嬉しいです」 感極まってきたのか、ベルンがぐすっと鼻を啜った。 「ベルン」 コンラートが立ち上がり、ベルンの肩に腕を回して抱き寄せた。 「ありがとう」 「……あっ、あの……っ」 今この声を上げるのは、何だかひどく間の抜けたことの様に思えるけども。 「たっ、隊長」 コンラートが中腰になった透を見下ろす。 「あのっ、け、結婚……されるのですか……!?」 「……バカか、てめーは!」 一瞬の間の後に上がったのは、ベルンの声だった。 「一体どこの田舎から出てきやがった!? この間抜け……!」 「おいおい、ベルン、違うんだ」 大男の肩を叩いて間に入ったのはヨザックだ。 「違うって……」 「トールは長いことこの国を離れててな。つい先日……って、ほら、こいつを初めてここに連れてきたあの日! やっと眞魔国に帰ってきたのさ。だから隊長のコトも知らなくて当然なんだよ」 本当か? ベルンが睨み付ける様に透に問いかけてくる。そして思わず何度も頷く透に、そうか、とようやくその怒らせた肩を下ろした。 「……なんだ、そうか。そりゃまあ……でかい声を上げて悪かったな……」 いや、と首を振りながら、透はふと不審に思った。 ………忙しかったし、クラリスのこととか色々あったにしても、どうして誰もその事を自分に教えてくれなかったのだろう? 隊長も、そう、陛下や猊下もそうだ。こちらはもちろん、あちらでお会いした時にも、そんな話は全く出なかった。それに……ヨザックとはつい先日、かなり時間を掛けて近況を語り合ったはずなのに。 そう思いつつ、ふと見ると、コンラートはなぜかバツが悪そうに目もとを指先で掻いているし、ヨザックは人が悪そうににやにやと笑っている。 「とにかく、隊長!」 ベルンがどこからか大きな陶器の壺─酒樽と違って、高級な酒を貯蔵するための容器─を取り出した。 「とっておきの酒です。隊長のご成婚の日に、祝い酒をやろうと大事に取っておいたんですよ。まさか隊長にお出で頂けるなんて思ってもいなかったから……。前祝いに、一緒に飲んでくれませんか?」 顔を赤らめて嬉しそうにそう申し出るベルンに、コンラートも笑って頷いた。 この店にこんなグラスがあったのかと、思わず目を瞠るような高級なグラスが配られ、酒が注がれる。「てめえにも相伴させてやるから、ありがたく飲みな」と言われて、透は逆らわずに「了解」と頷いた。 「では」 ベルンが乾杯の音頭を取るべくグラスを掲げる。それに合わせて、コンラートとヨザックと透もグラスを持ち上げた。 「隊長と、我らの偉大なる魔王陛下との御婚約を祝って! かん……」 ガッシャーン! 床に、透のグラスが落ちて弾けて粉々に砕けた。 「てっ、てめっ、何やってやが……」 「隊長!!」 ベルンの怒りの叫びも無視して、透はコンラートに掴み掛かるように迫った。 「まっ、まままっ、魔王陛下って、まっ、まさか、あのっ、魔王陛下、ですか……っ!!?」 目もとをちょっとだけ赤く染めて、コンラートが小さく頷いた。 魔王陛下に、あのもこのもあるか、バカやろう! ベルンが怒鳴っているが、全く透の耳には入ってこない。 「たっ、隊長! そ、そそ、それって……っ!」 何か抗議するかのような透の様子に、何を思ったのかコンラートがキッと鋭い眼差しを向けた。 「俺がユーリと結婚するのはっ、俺が変態でも変質者でもロリコンでもなければ、児童虐待でもないからなっ!!」 「…………………って、言われちゃったんですね、隊長……」 う、とコンラートが詰まる。透の視界の隅で、ベルンがヨザックにろりこーって何だ? と尋ねている。 ほう、と息を吐き出して、透は椅子にどすんと腰を落とした。……吃驚した。 有利の誕生にコンラートが深く関わっているのは知っている。名付け親であることも。 コンラートが、有利をどれだけ大事にしているかも聞いている。でもまさか、それが恋愛に発展するとはこれっぽっちも考えていなかった。 それに……。 ……確かに、眞魔国では同性の結婚は珍しくない。というか、同性婚とか異性婚とか、最初から区別して考えていない。しかし、有利は地球世界の、日本人として生まれて育ったのだ。かなり意識が変化しているといるとはいえ、同性同士の恋愛は、まだまだ異端の内にあるはずだ。眞魔国人としての記憶がある自分ですら、かなり心に引っ掛かるものを感じるくらいなのだ。有利は一体……どう感じたのだろう? 少なくとも、渋谷有利は日本の極々平凡な家庭で、平凡な高校生として成長したはずなのに……。 「……やっぱり魂がこちらのものだから、陛下も、その、同性ということにあまり抵抗がなかったのでしょうか……?」 日本で生まれて暮らしてきた透だからこその疑問に、コンラートは苦笑を返した。 「いや、かなり……悩んだらしいな……。もっともそれは俺も同じだが」 コンラートの言葉に、透も笑みを浮かべた。 「隊長、同性には全く興味持ちませんでしたよね」 スザナ・ジュリアは別格として、透が知る限り、コンラートの相手となったのは、全て酸いも甘いも噛み分けた大人の女ばかりだった。見かけはああでも、よもや10代の子供、それも少年に本気になるとは到底思えないというか……。 「……ああ、だからか」 コンラートの先ほどの言葉を思い出し、思わずくすりと笑ってしまった。 「でも……いくら何でも、ロリコンは違いますよね? ……渋谷君、渋谷勝利、ですか? それを言ったの」 あの兄貴なら言いかねない。ブラコンとは、渋谷勝利のために存在する言葉だ。ちなみにそう評したのは従姉妹の繭里で、透ではない。 だが案に相違して、コンラートは力なく首を振った。表情も、どこか困ったように眉を寄せている。 「……勝利じゃない。………勝馬、ユーリの父親だ……」 へえ、と透は目を瞠った。 「勝馬は、ユーリが生まれるずっと前から俺を知っているし、な……。美子さんには喜んで貰えたんだが。……勝利は……どうも以前から薄々気づいていたらしい。まだ早すぎる、少なくとも大学卒業まで待て、それと、いずれ1発殴らせろ。彼が言ったのはそれだけだ」 あの勝利が。意外だ。一体どういう心境の変化だろう? ……それにしても。 「つまり……あちらの……渋谷家の了解はまだ完全には得ていない訳ですね?」 ああ、そうだ。とコンラートが頷く。 「でも、それは『魔王陛下』の結婚には、特に障害になるものではないのでしょう?」 「まあ、そうだな」コンラートが再び頷く。「勝馬達には申し訳ない話だが……我々にとって、渋谷家の人々の存在は、さほど意味のあるものではない。ユーリの地球世界での生活も、多くの者がないも同然のものだと考えいているし、事情を知る者にしても、近々縁が切れ、すぐに無関係になるものでしかないと、その程度にしか捉えていない。……だが、俺は彼らを知っているし、ユーリにとっても大切な家族だ。無視などできないしな……」 「そうですよねえ……」 何となく、二人揃ってため息をついてしまった。 「………あのー」 呼ばれてふと顔を上げてみれば、ヨザックが困ったように苦笑しながら二人を見ている。 「ベルンが乾杯したがってるんですけどねえ……。いいスか?」 隣でベルンももじもじ(……)している。 ああ、すまない、とコンラートが笑い、あらためてグラスを手にした。透には、上等なグラスを割った罰として、普段の曇ったグラスに酒が注ぎ直された。 「それじゃあ改めて」 ベルンが大きく咳払いする。 「俺達の隊長と、偉大なる魔王陛下の御婚約を祝って……乾杯!!」 乾杯! 吃驚し過ぎて、感情が追い付いてこない気がするし、まだまだ聞きたいことは山のようにある。それでもめでたい話である事は確かだ。 考える事も尋ねることも全て後回しにして、透はとにかく、敬愛する隊長とあの可愛らしい魔王陛下の婚約を祝ってグラスを掲げた。 朝まで残っていた頭痛はもうなくなった。頭を小突いてみても、痛みはない。ただ、脳の中で酒がまだ波打ってるような感覚だけが残っている。 血盟城の回廊から外へ出て、透はほうっと息をついた。 風が心地よく、降り注く陽射しはほんのりと暖かい。 ………新しい情報が、怒濤のように一気に雪崩れ込んできた、って感じだよな。 ベルンも加えての酒盛りが進む間に、ぽつぽつとコンラートの話を聞いた。 可愛い名付け子であり、生涯をかけて仕えるべき主という有利への思いが、一体いつ自分の中で変化してしまったのか正直分からないという述懐は、不思議な程すんなりと透の胸に染み込んできた。 だが、何より仰天したのは。 魔王陛下が、男性であると同時に女性でもある、という事実だ。 真性半陰陽。 医学的な知識に自信はないが、これが「平凡な人生」にどれほど大きな障害となるか、素人考えでも理解できる。 学校生活、社会生活、結婚、出産。 男と女。二つの性に属し、同時にどちらの性に属するものでもない。 何かの本で読んだ覚えがあるが、華々しく活躍していた陸上選手が、ある日半陰陽と診断されてしまったところ、それまで積み上げてきた全ての記録が公式記録から抹消されてしまったのだという。そしてその選手は、それ以降公式の大会に出場する事ができなくなり、出場したとしても記録は一切認められない事となった。本人の意志も意識も全く関係のない所で、その身体が二つの性の機能を持つというそれだけで、それまで当たり前だった生活から弾き出されてしまったのだ。 周囲の人々の困惑も理解できる。その相手を男と扱って良いのか、女と扱って良いのか。それが学校関係者なら、尚の事悩みは深いだろう。 もしも渋谷有利の通う学校の教師や学生達がそれを知ったら。 有利の学校生活は、おそらく想像以上に窮屈なものになるはずだ。その事実を知らされた渋谷家の面々もかなり悩んだらしいが、外見は紛れもない男性だということもあるし、有利がそもそも「男」の意識しか持っていない(それでどうして同性に恋したかは、また別の話、らしい)ということもあり、学校に知らせるのは今のところ控えているという。そしてそれが正しい事なのかどうかも、今はまだ判断がつかないらしい。 翻って、眞魔国ではどうなのか。 有利の身体の事が判明した時、やはり周囲に動揺は走った。だがそれは結局「驚いた」というレベルの話に過ぎなかったという。 「では、子供を生ませる事も、生む事もできる訳だ。それはまた便利な話だ。さすがに魔王陛下だ」 集約する所、事実を知った人々の思う所は、結局この程度だったそうだ。 わずかに深刻だったのは宰相始め側近達だった。 「どうりで近頃頓に美しさが増したと思った」、というのが彼らが最初に口にした感想で、それ故にこそ、側近達は新たな課題を抱える事となった。 それまでは前王の三兄弟の末弟、フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムが魔王陛下の婚約者(さんざん新聞を読んでいたにも関わらず、それも透は昨夜初めて知った)となっていたのだが、陛下のあの美貌と、両性という希有にして神秘的な特性をその身に持つことが知れ渡れば、おそらく婚約者の存在などものともせず、我こそが魔王陛下の伴侶にふさわしいと、自薦他薦の恋人志願者が男女を問わず一気に増えるだろうと考えられたのだ。 そしてもう一つ。魔王陛下が女性でもあるならば、護衛がウェラー卿だけではいらぬ詮索をされる可能性がないでもない、ということだ。詰まる所、ウェラー卿は同性との浮いた話は皆無だが、女性には身分の上下に関係なく実にモテるし、これまでの魔族人生、数多の女生と繰り広げた華々しい経歴も、これまたよく知られている。陛下が危険だと言い募り、魔王陛下の警護にいらぬ嘴や横やりを入れてくるしたり顔のバカが、現実に幾人か現れたのだという。 結局、フォンビーレフェルト卿には、しっかり陛下の防波堤となる様に、というお達しが兄宰相から出され、同時に、これはコンラート本人の進言で、女性の護衛官を揃えることとなった。魔王陛下本人の意識がどうあれ、側近くに仕える女性の存在が必ず必要になる、というコンラートの言葉に、大賢者始め全員が頷いたのだ。 そこで抜擢されたのがクラリス他女性親衛隊員、という訳だ。 それで当面の問題はほぼ解決し、有利の生活がその事実によって変化したり、周囲の態度が変わったために不快な思いをしたり、という問題は全く起きていないらしい。 「身体の機能がどうなっていようが、ユーリはユーリだ。何も変わらない。変わるはずもない」 コンラートが発した言葉は、単純な、だが本来あるべき認識なのだと思う。だがそれを地球世界で、あの日本で貫くのは難しいのではないだろうか……? ………やはり陛下は、こちらでお暮らしになった方がいい、のかな……? 陛下のためにも、この国のためにも……。 とりとめもない思考を遊ばせながら、特に目的もなく進んでいく内、透の耳にふと剣を交わす鋭い響きが聞こえてきた。 何となく懐かしくなって、その音を辿っていくと、やがて城とは雰囲気の違う建物とかなり大きな、だが殺風景な広場に出た。 「……ああ、ここは……」 懐かしいな。思わず口から言葉が漏れでる。 建物は、血盟城内や王都での任につく兵士達の宿舎や、訓練施設が集まったものだ。透、いや、カールも昔、戦争が激しくなるまでしばらくの間、この中で暮らした事がある。 そして今、建物の前の広場では、時間が空いているらしい兵士達が剣の訓練に励んでいた。 「…………あ」 クラリスがいた。 ワインレッドの上着を脱ぎ、シャツの袖をまくり上げて、男性兵士と剣を戦わせている。すぐ近くに同じ色の軍服を着た女性兵士が数人いるから、親衛隊員の訓練時間なのかもしれない。 ………クラリス達がここにいるということは、陛下は執務室で書類仕事の真っ最中か、でなきゃ王佐閣下とお勉強中、か……。 フォンクライスト卿が、「へいか〜〜!」と泣き叫びながら突進してきたと思ったら、目の前を駆け抜けて行った時には、あの教官殿の余りの無惨な変わり様に、気がついたら持っていた書類も本も全て放り投げて、廊下の壁に貼り付いていた。 「あらまあ、閣下がまた汁だらけになって」 年がら年中あの調子よ。同僚女性のけろりとした言葉に、ため息も笑いも出なかった。ただ呆然としたまま、遠くから聞こえてくる王佐閣下の絶叫を聞いていた。 ……………あれは、誰の言葉、だったっけ……? 広場を囲む樹の根元に腰を下ろし、その幹に身体を預けて、透は瞳を閉じた。 剣と剣が弾きあう音が懐かしくも心地よいリズムを刻む。鋭い音なのに、聞いているとなぜか眠気を誘われる。 何だっけ。あれは……。 「………僕だ。あれは……僕が言ったんだ」 時間は流れ続け、世界は動き続け、全ては一瞬の停滞もなく変化し続け、たくさんの命が生まれ、たくさんの人生が懸命にその生を生き、出会い、交わり、別れを繰り返し、そして。 『その全ての変化の果てで今……僕達は、ここに集っている』 あの時、僕はそう言った。 カールが死んで、その人生はあの砂の地で終わった。 でも、クラリスは、そして生き残った人々は、懸命に今日までの日々を生き抜いてきた。 あれから30年近く。 魔王陛下は代替わりし、眞魔国建国以来初めて混血の魔王が即位した。そして同時に伝説の大賢者が帰還した。 今や、世界地図は大きく様変わりし、その勢力図の変化と共に、魔族と人間の関係も急激に変わろうとしている。 スザナ・ジュリアの死を乗り越えて、ウェラー卿コンラートは自分がその誕生に力を尽くした魔王陛下の伴侶となる。 クラリスは、病弱で臆病な少女から逞しい女性士官へと変貌し、魔王陛下の親衛隊長を務めている。 フォンクライスト卿ギュンター閣下は………なんだかイロイロ壊れたらしい。 人の事だけじゃない。 僕が。ここにいる。カールの記憶を抱えたまま、全く別の人間として。 一気に目の前に現れたこの変化。 でもそれは、これだけの年月をかけて変わるべくして変わってきたものなのだ。 生きていく、ということは、変化していくということなのだから。 今ここに至った僕にできることは。 その変化を、あるがままに受け入れることだ。 ……とはいっても、今のクラリスと、蟠りなく向かい合うには、かなり時間が……。 「こんなところで何をやっている?」 バッと目を開けると、目の前にクラリスが立っていた。思わず息を吸い込む、と。 「また叫ぶのか?」 息が止まった。 樹の根元に坐り込む透を、クラリスが面白くもなさそうに見下ろしている。 見愡れる様にその顔をじっと見つめることしばし、ハッと我に返ると、透は慌てて立ち上がった。 「…………あ、あー、えっと……」 言うべき言葉を探しながら、お尻をぱたぱたと叩く。 「…えっと……どうも、失礼しました。その……イロイロと……」 振り返ってみると、何だか最初からカッコ悪い姿ばかりを見られている。 何となく情けない気分になりながらも、透はぺこっと頭を下げた。 ふん、とクラリスが鼻で笑った。 ………昔はこんなコトをする子じゃなかったのに、と文句を言う資格も権利も今の自分にはない。 「学者が、こんな所で何をしているのか尋ねているのだが?」 「………懐かしいなって思って……」 「懐かしい?」 しまった。 思わず口を押さえる。胃がきゅっと絞られるような感覚が襲ってくる。 見れば、クラリスははっきりと不審を顔に現している。 「………あー、あの」透は一度、きゅっと唇を結んで、それからゆっくりと答えた。「……昔、軍にいたことがあって……」 「お前がか!?」 ろくに知らない人を、「お前」呼ばわりは止めなさい、と言いたい。 う、と眉を顰めた透に何を思ったのか、クラリスがふう、とため息をついた。 「除隊したのは正しい選択だったな。今ならまだしも、ほんの少し前なら、お前などあっという間に命を落としていただろう」 まあ、実際に落としているので何もいえない。が。 それでも何か言い返したい気分になって、透は逸らしていた視線を真直ぐクラリスに向けた。 「……僕は………!」 透の視界に。 その時飛び込んできたもの。 「………どうした?」 自分を、いや、自分の胸元をまじまじと凝視する男に、クラリスが怪訝な声を上げる。 「それ……」 透は大きく目を瞠いて、「それ」を見つめた。 「………その……指輪……!」 クラリスの胸元。細い鎖を通してぶら下がるその小さな物体。 あの時。 アルノルドへ向かう事になったカールが、妹に残した「形見」の品。 無骨な指の割に細やかな作業が得意だった彼が、妹のために作った「指輪」。 それが、今、鎖を通されてクラリスの胸元を飾っている。 「……持っててくれたんだね、その指輪……」 一瞬、何もかも忘れて、透は思わず呟いた。それを渡した時の思いが胸に熱と共に蘇ってくる。 だが。 次の瞬間、透はいきなり襟首をクラリスに掴まれ、ぐいっと引き寄せられた。……すごい力だ。 「………何故だ?」 「…え?」 透を睨み付けるクラリスの瞳に鋭さが増す。 「どうしてこれが指輪だと分かるっ!?」 クラリスの低い叫びに、透はハッと目を瞠いた。 しまった。 今仕出かしてしまった己の失態に、透は今度こそ血の出る程唇を噛み締めた。 その「指輪」は、ただのリングではない。 それは、カールが時間を掛けて作り上げた自慢の一品で、しなやかなつる草が指に巻き付くような、螺旋形をしているのだ。 それに鎖を通して首に掛けてしまえば、誰が見ても「指輪」には見えない。 剣の使い手は、本来指輪はしない。邪魔でしかないからだ。おそらくクラリスも、そのためにあの「指輪」を指から外し、ペンダントにしているのだろうが……。 これが「指輪」だと分かるのは、カールとクラリスの二人だけだ。 「答えろ。貴様はなぜこれが指輪だと知っているんだ!?」 それは。言いかけて、透は口を閉ざした。 考えろ。考えろ。 クラリスは生き続けなくてはならない。 過去に後戻りさせてはいけない。だからこそ……透とカールの関係を知られてはならない。 もう終わってしまった過去に、クラリスを取り込んではいけない。 「………カールに話を聞いたんだ。僕が…軍にいた時に。……アルノルドに向かう時に」 驚いたように、クラリスが透から手を離した。まるで突き飛ばすように。 「……アルノルド……? まさか……お前もルッテンベルク師団に……いたのか……?」 呆然と透を見つめるクラリス。 その顔を見つめながら、透はゆっくりと首を左右に振った。 透がルッテンベルク師団に所属して、その上生き残った、というのでは、あまりにも無理があり過ぎる。 「途中で彼らが立ち寄った駐留地で会ったんだよ。……ちょっとしたきっかけで知り合って、その地を離れるまで色々と話をしたんだ。その時に……」 透はクラリスの胸元で光る、金色の小さなつる草を見つめた。 「その指輪の話を聞いたんだ。……特徴的な形だったから、覚えていたんだな」 泣き出しそうな顔で、クラリスが「指輪」を手にとった。 どこか頼り無げなその表情には覚えがある。たっぷりと。ああ、やっぱりこの人はあの愛しい少女なのだと、透もまた泣きそうな思いを噛み殺しながら、その顔を見つめた。 「………カールに、会ったのか……」 ああ、と透が頷く。そうか、とクラリスも頷く。 しばし沈黙が、しかし気詰まりではない静けさが、二人を覆った。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい
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