愛し君へのセレナーデ・5


「その指輪……」
 透の唐突な声に、クラリスが顔を上げる。
「まだ完成してないんだ」
「………え?」
 クラリスがきょとんと透を見る。その表情に、透は柔らかな笑みを浮かべた。
「カールはね」透はゆっくりと話し始めた。「きっと帰ろうと。ダメかもしれないけれど、その覚悟は決めているけれど、それでも、できることなら帰ろうと、そう思って……そのために……未練を一つ、残したんだ」
「………未練」
 クラリスが小さくその言葉を口にする。透がそれを受けて、「うん」と頷く。

「もちろん君がカールの一番の未練だ。君のために生き延びたい。カールは必死にそう願ってた。でも、未練はあればあるほど生きることに執着できるからね。残せるだけの未練を残しておこうと、カールはそう思ったんだよ。だから……その指輪も未練の、この世に執着して、何としても生きて帰ろうとするための大事な道具だったんだ。生きて帰って、その指輪を必ず完成させるんだ、ってね」
 胸元にぶら下がる「指輪」を手に、クラリスが考え込んでいる。
「……これの、どこが未完成なんだ? ちゃんと形はできあがっているし……」
「そこに」透の指が、つる草の一部分を示した。「一枚だけ、不自然に大きな葉っぱがあるだろう? そこにね、朝露を模した石を乗せるつもりだったんだよ」
指し示された部分を、クラリスの瞳がじっと見つめる。
「………ここに……」
「カールの工具箱に、魔石や宝玉の、欠片とか削り屑のような小さな破片を集めた袋があったはずだ。その中に小さな、涙の形をした七色水晶がある。それをここに乗せて完成させるつもりだったんだ」
 透の言葉に、じっと「指輪」を見つめるクラリス。その瞳が、ふいに上がって透を見た。
「……そこまで詳しい話を、カールがお前に……?」
 瞬間言葉につまりながら、それでも透は頷いた。
 そうか、とクラリスが再び頷いた。
「兄の工具箱なら、ちゃんと残してある。石の欠片が入った袋もある。……探せば、その石も見つかるのだろうな……」

 王都に小さな宝飾店がある。貴族や金持ちが足を向けるような店ではないが、廉価の割に質もセンスもいいと、街のおかみさんや娘達の評判が高い店だ。その店の主が、カールの細工の技術を高く評価し、事あるごとに軍を辞めて職人になれと口説いていた。戦が激しくなり、混血への目が厳しくなってもその態度は変わらず、いざとなったら妹を連れて俺の店に逃げて来い、とまで言ってくれた。
 軍が副業を禁じていない事もあって、カールはその店─ドルムントの店から時折ちょっとした細工を請け負っては小金を得ていた。そしてその店を訪れる度、工房に散らばる宝石の削りくずや、割れて商品にならなくなった石だの金属だのを貰ってきては趣味の細工に使っていたのだ。
 ………ドルムントの親父さんも元気かな……。
 今度、さりげなく顔を見に行ってこよう。そう心に決めながら、透は考え込むクラリスに笑みを向けた。

「……七色水晶はそれ一つだけだから、すぐに見つかると思うよ。ドルムントの店に持っていけばいい。あそこの親父さんなら、ちゃんと仕上げてくれるから」
 透の言葉に、クラリスがふいに顔を上げると、まじまじと透を見つめてきた。
「きっとカールが思い描いていたのと同じものにしてくれるよ……」

 そう告げる透の顔を、クラリスが無言のまま見つめ続けている。
 だがやがて、すっとその視線を外すと、クラリスは「いや」と首を左右に振った。

「その必要はない」

 風が広場を抜け、彼らの足元から頬や髪を撫で上げるように吹き上がり、木々の緑をそよがせると天へと上っていく。

 顔にかかった髪をそっと払い除け、クラリスはわずかの間閉じていた瞳を開いた。
 その目に、きょとんと自分を見つめるひ弱そうな青年が映る。

「この指輪はカールが、兄が私のために心を込めて作ってくれたものだ。だから仕上げるのも、兄でなくては意味がない。……違うか?」
 兄が還らない以上、これは永遠にこのままでいいのだ。
 そう結論づけると、クラリスは指輪をそっと手にとって唇を寄せた。

「………そうか」
 掌の中の小さな指輪に頬を寄せるクラリス。カールを今も変わらず慕ってくれるクラリス。
 光と風の中に佇む、いもうと。
「うん。……そうだね」
 あの戦場で散っていった多くの仲間の中で、カールただ1人だろう。死した後にこんな幸福を経験できたのは。

 ……よかったね、カール。本当に………よかった。

 透の中のカールが、ぐすぐすと鼻を啜りながら頷いている。そんなイメージが頭の中に浮かんで、透は思わずぷっと吹き出した。

「……何を笑っている!?」
「…えっ!? あ……あー、いや、何でもないよ」
 誤解させてしまったらしい。クラリスの表情と声が、ちょっとだけお怒りモードだ。
「ちょっとした思い出し笑い……かな?」
 えへ、と小首を傾げて笑ってみせたが、とてもとても魔王陛下の様にはいかない。ふんっ、とあからさまにバカにしたような顔をされてしまった。が。
「…………お前、は……?」
「え?」
 唐突にクラリスの表情が変わって、何かを探るように透を見据えている。
「お前は………細工ができるのか?」
 あ、と思わず自分の手を目の前に掲げて、それから苦笑を浮かべると、透は首を左右に振った。
「残念だけど、手先は人並外れて無器用なんだ」
「そんな細い指をしていてもか? ……カールの半分程の太さしかないじゃないか」
「半分は大袈裟じゃないか!?」
 いくら何でも、僕はそこまで華奢じゃない。そう反論しようとした透に、クラリスが切ない眼差しを向けている。瞬間、胸を突かれて、透は口を閉ざした。

「……カールは、本当に大きかった。大きくて、全てが逞しくて、指もとっても太くて、節くれ立っていて、でも、信じられないくらい繊細な細工を見事に作ったんだ」
「………うん。そうだね」
「何でもできた。料理だって上手かった。動きは豪快なのに、神経は細やかで……優しかった」
「うん」
「強くて……強くて。護りたいものを、しっかり護れる本物の強さを持っていた。どんな敵にも怖じ気づいたりしないで、全身全霊で立ち向かっていった。そして、勝ち続けた。ずっと……勝ち続けると……信じていた……」
 うん。瞳を閉ざして、透はただ頷いた。

「……ごめん」

 帰れなくて。その信頼に応えることができなくて。……泣かせて。

「………どうしてお前が謝る」
「…うん……そうだね。でも……」

 ごめんね。

 剣を持ち上げる事もできないこんな自分が、君の大切な人の歴史を、その思いを受け継いでしまって。
 君をもう護ることも、支えることもできない自分になってしまって。
 そして、彼がどれほど君を思っていたか、それを伝えることもできなくて。

 ごめんね。

 そして。

「ありがとう」

 生きていてくれて。強く、生きていてくれて。
 彼を忘れずに、その思い出をずっと大切にしてくれて。

「だから……なぜお前が礼を言う……」

 もう別人だけど、この人生はもうカールのものではないけれど。
 それでも。

 世界で一番。
 君を、愛しているよ。

 決して口にすることは許されないけれど。

 クラリス。

 ぼくの、いもうと。

「…本当に……おかしな男だな……」

 柔らかな風に吹かれながら。
 透とクラリスはそれぞれ別の方向の、それでも、同じ空を瞬きもせずに見つめ続けていた。



「珍しいね、君が僕を訪ねてくるなんて」
 眞王廟の中庭、噴水の縁に腰掛けていたクラリスがさっと立ち上がって背筋を伸ばす。
 そんな畏まらなくてもいいよ。村田健が笑いながら近づいていく。

「……突然申し訳ありません。猊下に、少々お伺いしたいことがありまして」
「うん。何かな?」
 中庭に設えられたテーブルに向かい合って座ったところで、徐にクラリスが口を開いた。
「あの、行政諮問委員会にこの度新たに加わった人物についてなのですが」
 うん、と頷きながら、村田はお茶のカップを傾ける。
「彼がどういう人物なのかを……」
「君が」村田がクラリスの言葉を遮って続ける。「どういう興味を抱いたか知らないけれど、別にどうってことのない人物だよ。新しい委員、それだけさ」
 しばし、平然とお茶を喫する大賢者を見つめてから、クラリスは「いいえ」と首を振った。
「彼がどういう人物かは、今朝方フォンクライスト卿から伺いました」
 ぴたりと、カップを傾ける村田の手が止まった。
「陛下の親衛隊長として、私にも知らされていると思われたようですね。ちょっとカマを掛けたら、あっさり答えて下さいました」
「…………クラリス、君……」
 賢者を絶句させたのが嬉しいのか、クラリスが人の悪い笑みを浮かべて村田を見ている。
「……でも、僕は彼がかつて何者だったかを君に教える気はないよ?」
「その必要はありません。別に聞きたいとも思いません。私が猊下にお伺いしたいのは、そのような事ではないのです」
 凉宮透が、かつてどういう名前を持っていたのか。それを知るつもりはないと、きっぱり首を振るクラリスに、村田は怪訝な瞳を向けた。
「………じゃあ、何を聞きたいのかな?」

「生まれ変わるということは……いいえ……全く別の人物の記憶を持ったまま、新たな人生を生きるということは、一体どのような気分のものなのでしょうか……?」

 真剣に問いかけるクラリスをまじまじと見つめて、村田は深く息をついた。
「………確かに、それは僕以外答えることはできないね……」
 やれやれ、と視線を落として、村田はカップをテーブルに戻した。そして顔を上げると、クラリスの瞳を真直ぐに見つめて、どこか厳かにその言葉を発した。

「苦しいよ。とてもね」

 今度はクラリスが、そっとその視線を外す。
「想像してみてごらんよ。朝目を覚ましたら、全く別人になっている自分をね。自分はハインツホッファー・クラリスだと、君はちゃんと分かっている。間違いなくそうなのに、鏡に映る姿は全くの別人だ。周囲の人も皆、ハインツホッファーなんて人物は知らない、君はそんな名前じゃないと言う。分かるかい?」
 少し考えて、クラリスは「はい」と頷いた。
「そして同時に君は、自分がクラリスではない別の人物でもあることもまた知っている。それこそ、皆が認める今現在の『自分』だ。君はその別の人物として、ちゃんと人生を歩んでいる。そして記憶の中にある人生は世界のどこを探しても存在していない。……当然だね。それは、もうとっくに終わってしまった過去の人生なのだから。でも、それは端から見ればであって、記憶を持っている君にとって、それは決して過去のものなんかじゃない。今生きている以上、どちらも紛れもなく存在している、『自分自身』の人生なんだから。……いいかい?」
 こくり、とクラリスが頷く。
「だから……辛いよ。僕のように覚悟の上でこうなってしまっても、やっぱり辛くて苦しい思いを重ねてきたんだ。長く重ねたからといって慣れるものでもないしね……。まして、ほんの弾みで過去を記憶を持ったまま新たな人生を歩むというのは、ね」
 そうそう割り切ることなんかできないよ。
 村田の瞳が、そこにいない誰かを痛ましげに見つめる。
「どちらも自分なんだから。掛け替えのない、自分自身の人生なんだから。……一体どちらの自分が本当の『自分』なのか、そもそもその記憶は本物なのか、妄想ではないのか、自分は狂っているのではないか、存在しない世界の、存在しない『自分』を抱えて、今自分はどう生きればいいのか。疑問や不安や恐怖が振り子のようにあちらに揺れ、こちらに揺れ、やがて精神は疲れ果ててしまう。……記憶の中の人生も人物も、すでに終わった過去のもの、それは自分ではないし、今を生きる自分の人生でもない。そう思い切れればいい。思いきる気になるだけでもいい。新しい一歩を進めていくことができる。でもそれができなかったら……心が壊れてしまうことも、ある。だから本当に……辛いんだよ」
 まあ、こればっかりは体験した者じゃないと分からないけどね。
 そう言って苦笑を浮かべると、村田は改めてお茶のカップを持ち上げた。
「では彼は……」
 クラリスは言葉を噛み締めるように、ゆっくりと言った。
「そんな思いを乗り越えてきた、と……?」
「乗り越えつつあるね。………本人は無自覚のようだけど、ああ見えて芯はかなり強い男だから」
 小さく微笑んで、クラリスは頷いた。
「それで、猊下」
「うん?」
「その………前世の記憶を乗り越えて、新たな人生を生きる者にとって、過去の……以前の生を知る者の存在というのは……どうなのでしょう……?」
「どう、とは?」
 つまり。そう口にしてから、クラリスは苦しげに眉を顰めた。
「…………疎ましいものでしょうか……?」
 恐る恐るそう尋ねるクラリスの気弱げな様子に、村田は思わず瞬きも忘れてまじまじとその姿を見つめた。
 もうすでにない、病弱で儚げだった美少女の亡霊(……)を見た思いだ。
「……猊下…?」
「…え? あ、ああ、えっと…」
 コホン、と小さく咳払いして、村田は姿勢を正した。そして真直ぐにクラリスの瞳を見つめる。
 今は無表情のまま、ただ村田の次の言葉を待つクラリス。
「これは大事なことだから確認するけれど、例え前世の記憶を持っていたとしても、かつて生きていた人物と今生きている人物は全くの別人なんだよ。記憶はある。でも、言い切ってしまえば、ただそれだけのことなんだ。考え方も感じ方も、そして生き方そのものも全く違う赤の他人だ。記憶を持っているからといって、決して過去に生きていた人物と今生きている人物を混同してはいけない。それは絶対に間違っている。………でもね」

 愛する人を忘れられるわけがないじゃないか。

「家族でも、恋人でも、その魂が愛した人を疎ましく思えるはずがないじゃないか。……哀しいし、切ないよ。だって、僕はあなたが愛したあの人の生れ変わりです、なんて絶対言えないんだしね。そんなことは、かつて生きて、そして人生を終えた人物と、その愛する人、そして今生きている自分自身の人生を愚弄する行為だ。記憶があるだけ。全くの別人。別の人生。その自覚は、決してなくしてはならない。……それでもやっぱり、かつて愛した大切な人が目の前にいれば、愛しいと思うのはどうしようもない人の情だよ。当然じゃないか。だからといって、その思いを口にも態度にも現すことことは許されない。だからね……切ないだろ?」
 人間ならね。
 村田のしみじみとした声がクラリスの耳を打つ。
「何年、何十年で、周囲にいた人々の姿も人生も変わっているだろうし、亡くなっている場合も多い。でも魔族はねえ……」
 くすり、と村田が笑った。
「20年や30年じゃ、ほとんど何も変化してないからね。彼の切なさは並じゃないよ」
 分かる? と問われて、クラリスはゆっくりと頷いた。
「それでも、愛しいと思う気持に変わりはない、と」
 ああ、と村田が頷く。
「切なくて、苦しくても?」
「ああ、そうだ。……彼は強い男だと言っただろう? どんな思いを抱えようと、彼は必ず乗り越える。そして、今の人生を立派に生き抜いて、自分自身の手でちゃんと幸せを掴むさ」
 きっぱりと言い切る村田に、クラリスは瞑目すると静かに呼吸を整えた。そして深く息をつくと、目を開き、にっこりと晴れやかな笑みをその顔に浮かべた。

「よく分かりました。ありがとうございました、猊下」

 席を立ち、背筋を伸ばして一礼する親衛隊長に、村田も柔らかな笑みを浮かべて頷いた。



「いいいっ、いまっ、何ておお、仰ったんでしょーかっ、クラリスさんっ!?」

 魔王陛下の執務室で、素頓狂な声が上がった。
「落ち着いて下さい、陛下」
 コンラートが椅子から飛び上がった魔王陛下の傍らで、肩を抱くように囁いている。
「如何なさいましたか? 陛下」
 その様子を、クラリスがいつも通りのポーカーフェイスで見遣りながら、いつも通りの冷静な声を出す。

 その日、その時、魔王陛下の執務室で何やら内輪のお喋りに興じていたのは、魔王ユーリとコンラート、大賢者、ヨザック、そして新米諮問委員のスズミヤ・トール、という、近頃常連になりつつあるメンバーだった。彼らが揃うと、大賢者辺りから何故かいきなり別の仕事を与えられ、さりげなく陛下のお側から遠ざけられてしまうことから、王佐閣下などは以前に増して汁だらけになっているという巷の噂だ。
 そして今、宰相閣下から渡された魔王陛下の決裁を求める書類を手に、やはり陛下の側を離れていた親衛隊長が執務室に入ってきたのだが。

「私はただ、スズミヤ殿が地球世界から派遣されてきた方なのですね、と申し上げただけですが?」
 ちらりと横目で見れば、そこには引きつった顔のスズミヤ・トールが棒立ちになって固まっている。
「いっ、いや、クラリス、だから、その後……」
「あちらの世界で、このようなひ弱な男しか陛下のお側にいないというのは、由々しき事態ではないかと愚考致します、と」
「でもって……」
「ですから」
 クラリスが、今度は身体をしっかりと透の真正面に向けて、きっぱりと言った。

「せめてこちらにいる間、不肖このハインツホッファー・クラリス自ら剣を取り、スズミヤ殿をきっちりみっちりがっつり鍛えてやりましょう! と」

 がっつりは違うだろ? 誰もが一瞬思ったが、声高に主張する者はいない。

「クラリス」コンラートが殊更穏やかに口を挟む。「あちらでは、剣で陛下を護衛する必要は……」
「うるさい、ヘタレ」
 かつての部下の容赦ない言葉に、「う」と詰まったコンラートとユーリが、二人手を取り合って数歩引く。
「あっ、あの…っ!」
 呆然と固まっていた透が、ようやく目覚めたかのように慌てふためいた声を上げた。
「ぼ、僕は、剣どころか、運動はからきし……」
「黙れ、軟弱者」
 言ったかと思うと、クラリスは透に迫り、その襟首を締め上げた。顔面引きつりまくって蒼白の透。
「………ひぇ……」
「お前ごとき剣の持ち方もろくに知らないような男が、陛下の側近顔するとは図々しいにも程がある。親衛隊長であるこの私が直々に鍛えてやろうというのだ。男らしく覚悟を決めて剣を取れ!」
 今にも惨劇が起こりそうな予感に、ユーリは部屋の奥、ソファセットにくつろぐ親友に必死のサインを送った。
「むっ、むらっ、たた頼むっ、ここを何とか……!」
 もうこうなったら、口八丁で場を納められるのはダイケンジャー唯1人だ。
 なのに。
 なぜか村田はお茶のカップを優雅に傾け、にこにこ(にやにや?)と笑いながら、いきなり起こった一幕芝居を、のんびりゆったり鑑賞している。

「……あの、スミマセン、僕、何か気に障るような……」
「お前の存在自体が気に障る」
「…………………」
 瞬間、泣き出しそうに顔を歪めた透に、クラリスがくすっと、まるで悪戯っ子の様な笑みを浮かべた。
 かつて確かに見た、どこか無邪気なその笑顔に、思わず透が息を飲む。
「それでも」
 囁くように、クラリスが透に話しかけた。

「私に構ってもらえるのは、嬉しいだろう?」

 こくりと。喉を鳴らす透の襟首をふいに離すと、クラリスはすっと後ろに下がった。
「という訳で」
 クラリスが唐突にユーリに向かうと、軽やかに一礼した。
「これから毎日、スズミヤ殿の訓練を一日の予定に組み込みますので、その旨、何とぞよろしくお願い申し上げます」
 そう告げると、サイン済みの書類を机から取り上げ、颯爽と部屋を出て行った。
 呆然とその背を見つめる全員(一名除く)をその場に残して。


 宰相閣下の執務室に向かう回廊を歩きながら。
 クラリスはふと、澄んだ青空を見上げ、ようとして、止めた。

 もう空に誰かの面影を求めなくても、自分はちゃんと生きていける。

 大股で、潔いほどの音を立てながら回廊を歩くクラリスの歩調に、一切の迷いはない。


「…もっ、もう僕はっ、クラリスにみっともないトコは見せたくないんですっ!」
 僕、ホントにスポーツ全般ダメなんです! すでに泣きが入る透を囲んで、皆が懸命に慰めの言葉を掛けている。
「安心しろ! もうとことん情けないヤツだと思われてんだから、これ以上落ちることはねえっ」
「ヨ、ヨザック、それ、全然慰めになってないから!」
「でっ、でも僕、一体どうしたら……」
「凉宮さん」ユーリが透を見上げ、真摯な声を発する。「その………がんばってね」
 ありがたいけれど何の役にも立たない助言に、透は涙目をコンラートに向けた。
「隊長……!」
 顳かみをくりくりと擦っていたコンラートが、思い出したように透に視線を向ける。
「まあ、その………殺されることはない、と思うから」
 全っ然役に立たない。

 思わず天を仰ぐ透を見つめて、ソファに座ったままの村田はくすっと小さく笑った。
「………世は事もなし、か……」
 執務室の大きな窓から見える青空は、今日も澄んで美しい。
「平和だねえ」

「僕は一体どうしたらいいんですかーっ!?」

 受難の止まない青年の叫びが、偉大なる魔王陛下の執務室に響き渡った。


                                 終わり。(2006/8/17)


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過去を過去と割り切って、それに取り込まれずに生きる必要は、透だけでなく、クラリスにもあったようで…。

またも分かりにくい語りが長々ありますが、どうかご容赦下さいませ(泣)。

ご感想、お待ちしております。