愛し君へのセレナーデ・3 |
『おにいちゃん』 小首を傾げて、自分を呼ぶ少女。 クリーム色と表現した方が似合う、淡い金髪。 『おにいちゃん?』 ぱちぱちと瞬く、澄んだ藍色の瞳。 『待ってるわ。ずっと待ってる! 帰ってきてね? 絶対帰ってきてね!? ずっとずっとずっと…待ってるからっ!!』 ぼろぼろぼろぼろと涙を零す愛しい存在に、「笑って見送ってくれや」とことさら軽く言えば、彼女は必死で笑顔を作ろうとがんばってくれた。それでも……溢れる涙は止まらなくて。 たぶん、もう、二度と会えない。 太く節くれ立った指で、そっとその眦を拭えば、指に残った涙はほんのりと暖かかった……。 「……ク…ラ……」 思わず呼び掛けようとした透に、女がバッと顔を向ける。と、同時に、透の胸に軽い衝撃が当たった。 「……え……?」 紙包みが、胸に押し付けられている。 「持っていろ」 言われて、きょとんと顔を上げる。 少しも色褪せない思い出。 ただの一日として忘れた事のない人。愛してやまないたった1人の妹。 少しも変わらない柔らかそうな淡い金髪。愛らしくも美しい、兄としては自慢でたまらなかった顔立ち。大好きだった藍色の瞳……は、何だかえらく鋭い様な気がするが、きっと気のせいに違いない。妹の瞳は、いつも優しく輝いていて、時にとっても無邪気な光に満ちるのだから。 「それを持って、退いていろ」 こら。 いつからそんな乱暴な口をきくようになったんだ? お兄ちゃんは……。 その場の状況も、そして今自分が誰であるのかも忘れて、透はふらふらと女に向かって腕を伸ばした。荷物を持たされていたので、片手だけだったが。 男達に対峙しようとしていた女は、透の様子に気づいて、「チッ」と小さく舌を打つと、いきなりその肩を突き飛ばした。 「邪魔だ!」 一撃で吹っ飛ばされた透の身体を、背後で誰かががっちりと支える。 「おーい、大丈夫かあ?」 ヨザックだ。 中腰で支えられた透は、目に映った光景─女の背後を狙って拳を繰り出す男の姿─に目を瞠っていた。 「っ、危な…っ!」 しかし。 透の方を向いているはずの女は、まるで後頭部に目があるかのようにすいっと男の拳を避けると、肘を曲げ、たたらを踏んだ男の喉笛に容赦なくその肘を叩き込んだ。 「ご…はっ……!」 男が喉を押えて前のめりに倒れこむ。その無防備な後頭部に、女は両手を握りあわせて作った拳を振り上げ、一瞬の迷いもなく振り下ろした。 男が声もなく、突き刺さるような勢いで地面に沈む。 「……こっ、このアマ……っ!」 呆然としていたらしい次の男が、猛然と飛び掛かってくる。 それもひょいと躱すと、女は手刀を男の目に叩き付けた。……とことん急所を逃さない女だ。 「…がっ……!」 目を押え、よろめく男。その鳩尾に、女の拳がめり込む。 第二の男も沈んだ。 「……うわー、ありゃ相手が悪いぜ」 透達の傍らから、誰かの声が聞こえてくる。 「知ってるのか?」 連れらしい男の声が聞いている。 「ああ。ありゃ、ハインツホッファー・クラリスだ。ほら、魔王陛下の親衛隊長さ」 「あれが!? 確か……『寄らば切るぞのハインツホッファー』だっけ? ウェラー卿が抜擢なされたとかいう……」 それそれ、と男の声が頷く様子で答える。 そして、最後の男の番になった。 女の強さに当てが外れたのか、明らかに慌てふためいている。捨て台詞を投げて逃げようにも、すでに周囲は野次馬に囲まれてしまった。 意を決したのか、開き直ったのか、自暴自棄に陥ったのか、男は「うおぉぉぉぉぉっ!」と雄叫びを上げて女、クラリスに向かって突進していった。 彼女の四肢の内で、最も攻撃力と破壊力に優れた自慢の武器、長くしなやかな足、を、思い切り良く跳ね上げる。……男の股間を狙って。 「……ごふぉっ!!」 男の断末魔。口だけは絶叫の形を作っているが、悲鳴を上げる余裕はすでにない、らしい。 悶絶した男が地面を転げ回るその姿に、成りゆきを見つめていた女性達から一斉に歓声と拍手が上がった。どうやら元々、女達の評判のあまりよろしくない連中だったらしい。 だが同時に、野次馬の男達の口からは、何とも言えないうめき声が漏れた。中には身につまされたのか、己の股間を押え顔を顰める男もいる。 ヨザックに支えられたまま、一連の光景を、透はただもう呆然と見つめていた。 病弱で。気が弱くて。人とまともに話もできない程臆病で。 でも、朗らかで、優しくて、思いやりがあって、それはもう羽虫一匹殺せないほどで。 魔王陛下の親衛隊長? 寄らば切るぞのハインツホッファー? 押し付けられた荷物を抱き締めて、透はただただ呆然と最愛の妹、のはずの女性を見つめ続けていた。 ありがとうございます! と頭を下げる娘に、「気をつけて帰りなさい」と、これは優しい言葉を投げかけて、クラリスが透達の元に歩み寄ってきた。 そして、今だ呆然としたままの透の腕から荷物を抜き取ると、ふと眉を顰めた。 「………匂うな。なるほど、酒の勢いか……」 荷物を手に、すっと背筋を伸ばす。 「酒の力を借りて出来もしないことに首を突っ込むのは、愚か者の振る舞いだな」 そう言うと、クラリスは透を支えるヨザックに顔を向けた。 「お久し振りですね、グリエ殿」 「え、あ……ああ、そ、そうだな………。えーと……変わりなさそうで何よりだ。……あー、どうしてまたこんな所に?」 「非番ですので、買い物に」 あっさりと答えるクラリス。そして彼女の視線が、改めてヨザックと透、交互に向けられた。 「……お知り合いですか?」 透が、ヨザックの、ということだろう。 「ああ、その……。新しい行政諮問委員なんだ。隊長に言われてな、付き合ってた、というか……」 「ああ……学者ですか……」 クラリスの藍色の瞳に、どこかバカにしたような色が浮かぶ。 「ところで。その委員殿は、どうしてこうも引きつった顔をして、私を見ておいでなのでしょうね?」 「それはその……」ヨザックの表情が歪む。「お前さんの勇姿に感動した……とか…?」 かなり苦しい。 「私には、怖がっているように見えますが……?」 う、とヨザックが詰まる。透は……目を瞠いたまま一言の言葉もない。 透のその様子を目を眇めて見遣ると、クラリスはふん、と鼻で笑い、冷たく言い放った。 「軟弱者」 大股で颯爽と歩み去るクラリス。それを見送るともなく見送った透の身体が、ずるずると地面に落ちた。 人垣はとうに崩れ、地面にへたり込んだ透は、すでに人々の障害物でしかない。 「……あーまー、何つーか………ほら! 女は変わるモンだって言うし!」 それはちょっと違う。 行き交う人の足に小突かれながら、何の反応も見せない透に、ヨザックがはあ〜〜っと息を吐く。 そして透の傍らに同じようにしゃがみ込むと、ヨザックは透の肩を抱き寄せた。 「飲もうぜ? 今夜はとことん付き合ってやるから。……いい店があるんだ。いい女がてんこ盛りでな。まあ、胸はどれもまっ平だけどよ。とにかく、今夜は俺が奢るから」 これが俺の巡り合わせっつーか、運命っつーか……しょうがねーよな。 何となく遠いトコロを見つめながら、ヨザックが呟く。 それも全く気づかぬ様子で、透はただひたすら呆然とその場に坐り込んでいた。 『おにいちゃん、おにいちゃん! 持ち上げてっ、ねっ、うんと高く持ち上げて!』 緑豊かな美しい村で、溢れる陽射しをいっぱいに浴びて妹が駆け寄ってくる。 『おっしゃ、兄ちゃんの腕に掴まれ、クラリス』 『うん!』 手首にしっかりとしがみついた妹を、そのままぐいと持ち上げていく。妹の身体は、時に切なくなる程軽く、彼は手首にぶらさがる妹を、難なく自分の目の高さまで持ち上げてやる事ができた。 きゃあきゃあと笑いながら、彼の手首に掴まり、宙に浮く身体を揺らして遊ぶ妹。 『きゃあっ、たかーい! ねっ、おにいちゃん! こんな高いとこから地面を見てたら、目が回らない?』 愛しくて愛しくて愛しくて。 『クラリスね、おにいちゃんが世界で一番大好きだよ! 誰よりおっきくて、強くて、力持ちのおにちゃんが、世界で一番かっこいいよ! あのね、クラリスが大きくなったらね、おにいちゃん、クラリスをお嫁さんにしてくれる?』 『兄ちゃんのか?』 『うん! だって、おにいちゃんより大きくて、強くて、かっこいい人なんて、どこにもいないもん!』 そうかそうかと笑う彼に、愛らしい妹は『うんっ!』と頷き、彼をさらに喜ばせてくれる。 『……でもねー、おにいちゃん?』 『何だ?』 『あんまりお酒を飲み過ぎちゃダメだよ?』 ぽとんと地面に下り立った妹は、腰に手を当てて、いきなりお説教モードに入った。その姿に、彼はますます楽しそうに笑う。 『酒かぁ……クラリス、酒ってのはなあ……』 『酒の力を借りて出来もしないことに首を突っ込むのは、愚か者の振る舞いだからな』 いきなりの言葉に、彼は驚いて妹に目を向けた。 なぜか、妹はいきなり成長していて、男物の衣服に身を包み、質量を感じさせる程鋭い眼差しを彼に向けている。 『……クラ……?』 『軟弱者』 「……うわぁぁぁぁぁぁーっ!」 がばっと跳ね起きて………。 透は、自分が今どこにいるのか、どういう状況なのか、一切認知しないまま、ただぜぇぜぇと肩で息をし続けていた。 何故か、たまらなく頭が痛い。……吐き気もする、気がする。 しばらく、そのままじっと頭を抱えていて、それからようやく透は今の自分の状態に意識を向けた。 ベッドの上にいる。まだ暗くて良く見えないが、身につけているのは夜着だろう。部屋は………。 「……………いつ……城に戻ってきたんだろ……?」 血盟城の透の部屋だった。 ……何があったんだっけ……? 痛む額に手を押し当てて、透は記憶をゆっくりと探っていった。 ヨザックに再会した。そして、市場に出かけ、ベルンの店に行き、懐かしい顔と味を十分に堪能して、それから……。 「……ああっ!!」 蘇った記憶に、勢い良く顔を上げ……たら、一気に目眩に教われ、透はばたんとベッドに倒れ込んだ。 クラリスに。妹に。……会ったんだ。 天井を向いたまま、透は、はあ〜〜っ、と大きなため息をついた。 そうだ。あの後、ヨザックに連れられていった店で、妙に威勢よく迎えられて。 ヨザックに、自分が、いや、彼がアルノルドで死んだ後の、クラリスの話を聞かせてもらったんだった。 兄の戦死の報を聞いて。彼女はおそらく嘆き悲しんだに違いない。泣いて泣いて泣いて。 だが、その後の展開は、透の予想の範囲を遥かに超えていた。 クラリスは。 涙を振り払い、ついでに刺繍針も本も打ち捨てて……剣を取った。 身体を鍛え、病弱だの気が弱いだのという、己のために作られた様な言葉を、やがて思いきり踏みにじり、無きものにした後、軍に入った。 ウェラー卿コンラート率いる王都警備隊に所属して活躍することしばし、そのウェラー卿によって何と魔王陛下の親衛隊長に大抜擢されたのだという。 ついた二つ名が「寄らば斬るぞのハインツホッファー」。 弱きを助け、強きを徹底的に、完膚なきまでに挫く、そのすさまじさで勇名を馳せた。 彼女の怒りを買った相手は、ぼこぼこにされ、またぼこぼこにされ、徹底的にぼこぼこにされ、ほぼ再起不能なまでにぼこぼこにされて、ようやく解放されるという。脛に傷持つものは、クラリスの影を感じただけで逃げまどい、うっかり間合いに入った者は地獄を見る、とすら噂されたそうだ。 「……よかったよ、な……うん……」 ぼんやりと薄暗がりに浮かぶ天井を見つめたまま、透はひとりごちた。 病弱な身体を抱え、ただひとり、寂しく暮らしていると聞かされるよりずっと。 元気になって、1人で立派に生きていける程逞しくなって、見事に出世していた方がずっと……。 ………でも。 透は、ゆっくりと身体を反転させ、枕に顔を押し付けた。 「……なにも……あそこまで……強くならなくても………」 頭痛がひどい。だからだろう。何だか泣いてしまいそうな気分なのは……。 しばらくじっとベッドに身を横たえている内、部屋の中がだんだんと明るくなってきた。 近年ない程痛飲したにも関わらず、こうも早くに目が覚めてしまったのは、やはり夢見が悪かったということなのだろうか…? ………もう、起きよう。 頭痛と目眩と吐き気は、なるべく見ない振り感じない振りをしながら、ゆっくりと身体を起こす。 今日からこの国での本格的な仕事が始まるのだ。初日から二日酔いでモノになりません、ということになったら、あるコトないコト並べ立て、透が歓迎されるように仕向けてくれた陛下や猊下に申し訳が立たない。何より地球世界の恥になる。 水指しの水を飲み干す勢いで喉に流し込んでから、重い身体を引きずってバスルームに向かい、透は汗ばんだ夜着を篭に放り込んだ。 冷たい水で頭や顔を冷やすと、熱いシャワーを浴びる。それを何度か繰り替えしている内、だんだんと頭が冴えてくる。まだ頭痛が治まった訳ではないが、人がましい気分が蘇ってきた。 シャワーを止め、透はバスルームの壁に両手を突っ張るようについて、大きく息を吐き出した。 ……僕はもうカールじゃない。クラリスは、僕の妹じゃ、ない。………クラリスは、立派に一人立ちしていた。よかったじゃないか。カールにとって、一番心配だったのは彼女のことだ。もう何の心配もいらないんだ……。もう、何も………。 それでもやっぱり。ため息は胸の奥から溢れて溢れて止まらない……。 「おはようございます、皆さん! 今日も実によいお天気ですねっ。頭すっきり、気分も晴れやか、実験の結果も万々歳! さあ皆さん! 本日も眞魔国のため、魔族のため、そして何より女性の地位向上のため、力の限り頑張ろうではありませんか!」 ……テンション、高いなあ……。 フォンカーベルニコフ卿アニシナ、というよりも、「毒女」の名が遥かに知れ渡るその女性の顔を見たのは、実はこれが初めてだった。 名前と噂ばかりが喧しく、実物が存在しているという実感は、あの頃でも実は乏しかったように思う。 意外と小柄で、また何とも可愛い人だったんだな、というのが、透の第一印象だった。 「おや? 見かけない顔ですね。あなた、どなたです!?」 いきなりビシッと指差されて、思わず飛び上がってしまった。何だか、レーザー光線が胸を貫いていったような気がする。 「アニシナ様、彼が地球世界から派遣されてきた行政と法律の専門家です。スズミヤ・トール殿と仰います。今、皆に紹介していた所でした。スズミヤさん、フォンカーベルニコフ卿アニシナ様でいらっしゃいます」 「…あっ、あのっ、スズミヤ・トールです! よ、よろしくお願い致します!」 グレイスの紹介にがばっと頭を下げると、いきなり両肩にドンッと勢い良く腕が振り下ろされた。衝撃が脳を貫き、反射的に顔を上げる、と、視界にシャム猫の様に大きな、真っ青な瞳が飛び込んできた。 「あなたがそうですかっ! 聞いています、ええ、聞いていますとも! 陛下からも猊下からもコンラートからも、ちゃんと聞かされておりますとも! ……ちなみに、あなた」 「…は、はい……?」 小柄な身体から溢れる気迫が怖い。身体を離したいが、がっちり掴まれた肩はぴくりとも動かない。……一体どこからこの力が出ているのだろう…? 「あなた、女性の自立と社会進出について、どのような考えを持っていますか?」 「…………は……?」 展開についていけない。 だが、アニシナは透を逃すつもりはないらしく、じっと瞬きすらせずに透の答えを待っている。 「……あ、あの……女性であろうと男性であろうと……あの、性別によって社会的差別がなされるべきではないと考えております。意欲と能力があれば、自立を妨げられるべきではなく、社会進出もできて当然のことですし、政策的にも法的にも、それは徹底されるべきかと思います。……えっと……」 よろしいでしょうか…? 思わずお伺いを立ててしまう。 じっと透を見つめていたアニシナは、やがてにっと笑うと、透の肩から手を離した。 「少々優等生的で面白みには欠けますが、男にしてはなかなか見どころのある答えでした。よろしい。これから眞魔国と女性の地位向上のために、しっかり働いて頂きますよ!」 さあ皆さん! 今日もはりきってまいりましょう! アニシナがくるりと振り向いて、檄を飛ばす。「はいっ」という、主に女性委員達の元気な声がそれに応えた。 「………あのお……」 透は、傍らに佇む男性委員にそっと声を掛けた。 「女性問題が、行政諮問委員会の最重要課題なんですか?」 透の言葉に、大柄な委員がは〜、と力のないため息をついた。どうしたんだろう、と首を傾げて男を見上げる透の反対側から、いきなり声が上がった。 「そんなことは全くない!」 え、と見ると、そこには人間年齢20歳になるかどうかの、なかなか美青年が腕組みしてふんぞり返っていた。 「そもそもここは魔王陛下の直属機関であり、管理者はフォンヴォルテール卿なんだ! なのに、どうしてフォンカーベルニコフ卿に命令されなくてはならないんだ!? おかげでここの女共ときたら、日に日に扱い辛くなってくる! ああも性悪揃いでは、どれもこれも到底嫁には行けな………」 「ミッ、ミゲル…っ!」 透の隣にいた男性が、慌てて美青年─ミゲルという名前らしい─の注意を引こうと手を振った。が、時既に遅く、ミゲルと、そしてなぜか透も隣の男性も、いつの間にか女性委員達に取り囲まれていた。 「ミーゲールー? 今何て言ってたのかしらー?」 「またもや聞き捨てならないセリフがあったわよね?」 「あんたも、ホントに学習できない子よねえ」 「こっちへいらっしゃいな。お姉さま達がいつも通り、きっちりと教育してあげるわ」 止めろ! 離せ! と暴れる青年を、女性委員達がずるずると引きずっていく。 呆気に取られてそれを見つめる透の二の腕を、誰かが軽く叩いた。 「どうぞ気になさらないで下さいね?」グレイスだった。「まあ、毎朝の恒例行事のようなものですから。これがないと、どうも1日が始まったような気がしないんですよ?」 にっこり。透に笑いかけると、グレイスもまた女性達の集団を追って去っていった。 「………ここで重要なのは」 それまでずっと黙っていた隣の男性が、重々しく声を上げる。 「女には決して逆らわない、だ」 「……は、はあ……」 思わずその顔を見上げると、男性が、やがてくすっと小さく笑った。 「ま、アレにも慣れてくると、結構居心地もいいし、実に働きがいのある職場なんだ。……改めて、よろしく。僕はサディンだ」 ごく自然に右手を差し出してくることに軽い驚きを感じながら、透も手を差し出した。 「こちらこそ、よろしくお願いします。スズミヤ・トールです。トールと呼んで下さい」 「では、僕もサディン、と」 そんな二人の様子を見ていたのか、すぐに男性委員達が揃って透の回りに集まってきた。 1人1人と握手を交わし、自己紹介と挨拶を交わしあう。 きゃーきゃー、どたばたと、官僚の職場としてはかなり騒がしいし、イロイロ慣れる必要がありそうだが、それでも結構楽しそうな職場だと、透は内心で深い安堵の吐息をついた。 今日はとにかく、日常の業務をテキストとしながら、眞魔国の行政と法律の現状についてレクチャーを受けることとなり、グレイスとサディンが透の担当としてついてくれた。 地球の、というより、日本の行政と法律については、おいおい話をしていく事になるだろう。元々、地球的なものをこちらにそのまま移すということではなく、行政諮問委員達の視野を広げる一助となるために透は呼ばれたのだ。かなり気楽に構えてもいいらしい状況も、透の気分をぐっと楽にしてくれていた。 「トール!」 半日で、すでにすっかりその呼び方に慣れたグレイスが透を呼ぶ。 「魔王陛下がお戻りになられたわ。執務室に行きましょう」 「凉宮さん!」 魔王陛下の執務室に入った途端、聞き覚えのある朗らかな少年の声に迎えられた。 少年王の傍らには、軍服姿のコンラートもいる。 「陛下! 隊長!」 応えて、前に進み出、一礼する、つもりだった。 だが、透の動きは、最初に呼び掛けで、完全に一時停止した。 「……へ、い……」 やり直そうとしてもできない。 透の視線は、執務席で立ち上がり、自分に笑みを投げかけている魔王陛下の瞳に、縫い止められたかのように動けなくなっていた。 ………違う……! 胸の内側で、叫ぶような声がする。 絶対に違う。これは、この人は……渋谷有利では、ない……。 透の知る少年、埼玉の県立高校に通う、アイドルも裸足で逃げ出しそうな、美少年、というより、可愛い、だが平凡な高校生である渋谷有利と、似て非なる存在がそこにいた。 同じ目鼻立ち、同じ声、だが違う。 唐突に気づいた。 「渋谷有利」という名で表される存在は、この人を、その本質を隠すために被せられたベールなのだ。 震えが来る程、目の前にいる人は美しかった。 その内側から放たれる圧倒的な光。その輝き。それを「威厳」と呼ぶことも、「カリスマ」と評することもあるだろう。「神々しい」と表現する者もいるにちがいない。 だが、そんなありきたりの表現の全てが軽い。そんな言葉をどれだけ使っても、この人の輝きを表現する事はできない。 相手をひれ伏させるような威圧感ではない、と思う。むしろ、向かい合った者の魂を、闇から救い上げるような温もり満ちている。 「渋谷有利」ではない。 この人、いや、この方が、この方こそが、この世界の魔族を統べる、偉大なる第27代魔王、ユーリ陛下なのだ。 止めていた息を大きく吐き出して、透は胸の鼓動を押さえるために、もう一度大きく深呼吸した。 ………勝利は知らないだろう。自分の弟だと、この人が、「有利」以外の何者でもない存在だと信じているあの友人は……。 勝利がこの人の真の姿を知ったら。彼と彼の家族は、一体……。 「凉宮さん?」 きょとんと陛下が首を傾げる。 執務室の中は、大きな窓から射し込む午後の陽射しがいっぱいに溢れている。 誰より何より、光に包まれる姿が一番似合う魔王陛下。 透は意識してにっこり笑うと、ユーリの前に進み出た。 「ご無沙汰致しております、陛下。こちらでこうして御意を得ました事、心より光栄に思っております」 深く頭を下げる透に、慌てる気配がすぐ前で感じられた。 「やっ、止めてよ、凉宮さん! あっちの知り合いにそんな風にされたら、何か照れくさいよ〜」 普通にして、普通に。ねっ、ねっ? 顔を上げると、ユーリが困った様に顔の前で手を振りながら、懸命に訴えてくる。 ああ、この人は、自分がどんな存在か、全く無自覚なままなんだ……。 あちらで会っている時と全く変わりのないその言葉と仕種に、透の笑みと、複雑な思いが同時に深まった。 「今ここには事情に通じてる者しかいないからね。気楽にしていいよ」 掛けられた声にふと振り返ると、魔王陛下の執務机と相対した場所に据えられたソファセットに、大賢者がゆったり座って軽く手を上げている。 言われて見回すと、確かに先ほどまでいたはずのグレイスがいない。いつも執務室にいるという話だった宰相閣下も王佐閣下もいない。いるのは、陛下と大賢者猊下、陛下の隣に隊長と、それから…。 「……ヨザック!」 思わず声を上げると、無礼ではないのかと不安になる程砕けた格好のヨザックが、「よっ」と笑って凭れていた壁から身体を起こした。 「なんだ、結構強いんじゃねーか。……何せ夕べは凄かったからなー。てっきり二日酔いで寝込んでるに違いねえと踏んでたんだけどよ」 ちぇ、と小さく舌打ちすると、ヨザックはいきなり己の懐に手を突っ込んだ。そして何かを引き出すと、ピンと指で弾く。弾かれたソレは、陽射しの中を金色に輝きながら宙を飛び、まるで糸で引き寄せられたかのようにコンラートの掌に納まった。 にこにこと、変わらぬ笑みのまま、飛んできた硬貨をひょいとポケットに納めるコンラート。 「…………………隊長……賭けてましたね………」 「俺は、お前がちゃんと責任を果たす方に賭けたんだぞ? 信じてたんだからな」 爽やかな笑顔の、その爽やかさがうさんくさい。透の笑顔も思わず引きつる。 そう言えば、人の幸でも不幸でも、何でもかんでもネタにしては賭をするのがかつての彼ら─便利屋部隊と呼ばれた彼らの楽しみの一つだった。 「……一体何やってるんだよー? 凉宮さん、こっち来てもらったばっかりなんだから、いぢめるなよなー」 「あ、ひどーい、坊っちゃんたらっ。いぢめてなんていませんよー。グリエったら、そりゃもうかいがいしくお世話しちゃったんだからー」 呆れ顔の陛下に、ヨザックが頬に手を当て、くねくねと身体を振りながら泣きまねで抗議する。 思わず二の腕と頬の辺りに鳥肌が立つのを自覚して、透は2、3歩後退った。 何だこの、むちゃくちゃ慣れた、異様に色っぽい仕種は!? というか、いいのか? 魔王陛下にこんな態度をとってもっ!? ………確かに、時々発作的にふざけてみせることはあったが、この雰囲気はまた何だかその……以前に比べてグレードアップしているような気がする。 20数年の間に、この男に何が起きたのだろう………。これではまるでゲイバーの………。 ゲイバー? あれ? 何だろう。思い出しちゃいけない記憶が、頭の中でとぐろを巻いているようないないような……? 「凉宮さん、こっち来て。お茶しようよ」 気楽に席を離れ、ソファに向かって歩きながら、これまた気楽に声を賭けてくる王に、透は一瞬きょとんと目を瞠り、それからようやく気を取り直して、はい、と頷いた。だがすぐにはソファに向かわず、側に近づいてきたヨザックを呼び止めると、頭を下げた。 「昨日は、その、色々とありがとう。……実は全然覚えてないんだが、たぶんその……かなり面倒を掛けたんだろうな……?」 実際、連れていかれた店でクラリスの話を聞き、それから飲んだ最初の1杯から後のコトを全く覚えていない。なので、何をどう感謝して、同時に謝ればいいのか、さっぱり分からないのだが……。 ヨザックは、困ったように右に左にと首を傾ける透の様子にプッと吹き出すと、ドンッと透の背中をどやしつけた。 「気にすんなって。飲ませたのは俺なんだから。……店の『娘』達が、またお前を連れて来いと言ってたぜ。お前の見せてくれた芸が、えらく気に入ったんだとさ」 「………芸……?」 きょとんとヨザックの顔を見上げる。自慢じゃないが、人に見せる芸なんて、これっぽっちも持ってない。歌もダメだし、手先が無器用だから手品もできないし……。 「…ヨ、ヨザック……? おれ、いや、僕は一体何をしたんだ? 芸なんて全然……。教えてくれ! 僕は一体……!?」 おろおろと慌てる透に、「だーかーら、気にすんなって!」とヨザックが、思い出し笑いをしながらその背を押し、ユーリ達がすでに待つソファへと追いやった。 ………僕は、一体何をしたんだー……っ! 透の叫びに、誰も答えを与えてくれない。 「えっと、最初に凉宮さんに謝りたいんだけど……」 どたばたしながらも、ソファに全員が落ち着き、お茶とお菓子を配ったメイドが部屋を去ったところで、魔王陛下が最初の一声を放った。 「………陛下……?」 ユーリに謝られる覚えはない。 きょとんとその顔を見つめる透に、大賢者が笑みを含んだ声を上げた。 「君の……じゃあないな、カールのね、妹さんについて、だよ。クラリスに会ったんだってね。ヨザックに聞いたよ」 あ、と透は陛下と賢者の顔を交互に見つめた。 「勝利に話を聞いて」ユーリが言葉を続ける。「コンラッドに確認を取ったときから、知ってたんだよな、おれたち。凉宮さんが、じゃなくて、えーと、凉宮さんが前世でクラリスのお兄さんだったってこと。……その、クラリスがすっごく変わっちゃってるっての、コンラッドから聞いてさ。……言い辛かったっていうか……。ごめんなさいっ」 ぺこん、とユーリが頭を下げる。さすがにこれには透も慌てた。 「へっ、陛下! お止め下さい! 陛下に謝って頂くことではございません!」 「でも……」 いいえ、と透は首を左右に振った。そしてそれから、ふっと息を吐いて、透は柔らかな笑みをユーリに向けた。 「吃驚したのは確かです。僕が覚えているいも…いえ、クラリスは、本当に身体が弱くて、人とまともに話をする事もできなくて……。カールは、自分がもしも死んでしまったら、妹が生きていけるのかどうか、ただそれだけを心配し続けていました。……ああいう世情でしたから、もしかしたら最悪、病がちな身体を抱えて、独りぼっちでのたれ死んでしまうのではないかと、本当に怖がっていたんです。だから……」 今は、むしろ嬉しいんです。 透の明るい笑顔に、皆の視線が集中する。 「あんなに元気になって、強くなって………まあ、ちょっと強くなり過ぎって気もしないではないですが……でも、あんなに堂々と生きて、立派な地位にも就いているんですから……。本当によかったなって思うんです。何て言うか……僕の中のカールも……とても喜んでます。そんな気がします」 「そう言ってもらえると、正直助かる」 ホッとしたように言葉を挟んだのはコンラートだ。 「軍に入りたいと頼ってきたクラリスの、推薦人となったのは俺だ。王都警備隊に入れたのも俺だし、そして…陛下の親衛隊長に抜擢したのも俺だからな……。こうなってみると、少なからず……責任を感じているというか……」 何言ってるんですか、隊長。本当に申し訳なさそうなコンラートの態度に、透が破顔した。 「僕はもうカールじゃないんですよ? 僕に責任を感じる必要なんて、ないじゃないですか。驚きはしたけど、たった一つの心配事も解決した訳だし、もうすっかり吹っ切れました! これからは、同じ血盟城で働く者同士、付き合っていければいいなと思ってます」 そうか、と、コンラート、そしてユーリ達も頷いた。と。そこへ。 コンコン、とノックの音が響いた。扉が開く。 「失礼致します。御歓談中、大変申しわ………」 「うっ…うわぁぁぁっ!!」 入室してきたのはクラリス。 深みのあるワイン・レッドの隊服に身を包んだ彼女の登場と同時に、悲鳴を上げて飛び上がったのは透。 執務室に、しん、と沈黙が下りた。 飛び上がった姿のまま、悲鳴を上げて引きつった顔のまま、彫像の様に固まる透。そんな彼を訝しげに見つめ、すぐに軽蔑したように表情を変えると、目を眇めて透を睨み付けるクラリス。 「………………全然吹っ切れてねーじゃん……」 魔王陛下の呟きに、同席した全員が一斉に深ーく頷いた。 「……どうした? クラリス。緊急の用か?」 コンラートが、クラリスに顔を向けて尋ねる。 透の存在は無視する事に決めたらしいクラリスが、すいっと視線をコンラート達に向けて「は」と頷いた。 「申し訳ございません、陛下。王佐閣下より書類を預かってまいりました。至急決裁の署名を頂きたいそうです」 「あ、ああっ、そうなんだ! うん、いいよ、こっち持ってきて!」 そう言って慌てて席を立つと、ユーリはいそいそと執務机に戻った。コンラートも後に続く。残されたソファでは、ヨザックが透の頬をぺちぺちと叩いて正気づかせている。 ─そこはかとなく、微妙な緊張感が部屋の中に充満していた。 書類を手に、執務の席についたユーリの元へ歩み寄るクラリスが、それに気づいたのかどうか。 ふと歩みを止めると、眉を顰め、ユーリとコンラート、そしてその反対側に陣取る賢者とヨザックと新人諮問委員に視線を巡らせた。 「どどど、どーしたの? クラリス?」 必要もないのに吃る魔王陛下。コホンと小さく咳払いするコンラート。気配を隠すかの様に、身じろぎ一つしないソファ組(除、万年マイペースの大賢者)。 いえ。クラリスが低く答える。 「重大な会議中にお邪魔してしまい、とんでもないご無礼をしてしまったかと……」 「そそそっ、そんなコトないよっ! 重大でも、会議してたワケでもっ!」 クラリスが下ろした釣り針に、気持良い程あっさり食い付くユーリ。 「おや? そうだったのですか?」 「うん、そう! あの…………あ……」 何か答えを出さなくてはならない状況に、自分で自分を追い込んでしまった。 そもそも、そんな「重大」な「会議」に、宰相も王佐も不在のはずがない。まして同席しているのはヨザックと、昨日着任したばかりの諮問委員だ。クラリスがそれを分からないはずがない。これが大賢者なら、「うん、そうなんだ。とーっても大事な会議中だから、悪いけど書類を置いたら席を外してね?」とあっさり答えてクラリスを追っ払っただろう。 簡単そうに見えて、ユーリにはできない高等技だ。 そっとコンラートが額を押えた。 「ちょっとした雑談だよ。実はね、クラリス、今ちょうど昨日の君の活躍について聞いていたところさ」 ナイス助け舟。 ユーリはソファにゆったりと座ってくつろぐ親友に、心の声を送った。 ああ、とクラリスが納得の声を上げた。それであの悲鳴かと、クラリスはちらっと、ソファに縮こまる透に視線を向けた。 「…つ、強かったんだってね、クラリス! 街の悪いやつを、あっという間にやっつけちゃったんだろ?」 「あいつらが弱過ぎただけです。あの程度の輩、訓練を受けた者なら誰でも簡単に倒せます」 「そんなコトないって。クラリスが強いんだよ。いつもきびきびしてて、ホントにかっこいいって思うもんな! やっぱ遺伝なのかなっ。お兄さんもすっごく強かったって…………」 ユーリの言葉から、最後は空気が漏れるように力が抜けた。 クラリスの身体越し、ソファに座る村田がその瞬間天を仰ぎ、ヨザックが頭を抱えた。透もびくっ顔を上げ、目を瞠っているのが見えた。 視線を隣に向けて、そっと上目遣いに見上げると、コンラートの瞳が「やっちゃいましたねー」と語っている。 ………………おれ様の……バカぁ…………。 「……私の、兄のことをお話になっておられたのですか……?」 クラリスの、静かな声が響いた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい
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