愛し君へのセレナーデ・2


「初めまして。オースターシア・グレイスと申します」

 引き合わされたのは、魔王陛下直属の機関、行政諮問委員会に属する女性だった。
 その仕事の性質上、透も便宜的にではあるが、その機関に所属することになっている。

「スズミヤ・トールです。よろしくお願いします」
 こちらこそ、と女性、グレイスが微笑む。透より心持ち背が高い。女性としてはかなり長身の部類だろう。
 肩の辺りでばっさりと切り揃えた銀髪。頬にちらばるそばかす。魔族としては決して美女とはいえないが、その瞳には漲る知性と、きらきらと零れるように明るい好奇心と探究心が見て取れる。だがグレイスの態度には、好奇心旺盛な人物が時として見せる押し付けがましさも、図々しさもない。
 彼女のような人物が同僚なら、ここでも結構楽しくやっていけるかも知れない。ホッとしながら透は思った。

「この徽章を常につけておいて下さい。諮問委員の証です。これがあれば、血盟城のほぼどの部署も自由に出入りできますし、魔王陛下に対し奉りましても、直接言上することができます」
 滞在中寝起きする部屋に案内されがてら、手渡された金色の小さなバッジを、透は歩きながら胸の辺りにつけた。
「スズミヤさんは、陛下と、それに猊下ともご面識があるそうですね」
「はい。……あちらで、何度かお話をさせて頂いています」
 そうですか、とグレイスが頷いた。
「本日、陛下はウェラー卿やフォンビーレフェルト卿とご一緒に、国境の視察にお出かけになっておいでですが……」
「猊下から伺っています」
「明日の午後にはお戻りになられるご予定ですわ。ご挨拶はその時になりますでしょう」
 そして、一つの部屋の扉の前で「こちらです」と立ち止まった。

「明朝、私がお迎えに参りまして、諮問委員のメンバーに紹介させて頂きます。皆、大変楽しみにしているのですよ。あちらがどのような世界なのか、皆興味津々です。様々な点において、我が国よりも遥かに進んだ行政と、法整備がなされていると聞いておりますし。……明日の夕刻には、歓迎会も予定しておりますので、そのつもりでいて下さい。あの…それで、今日はこれからどうなさいますか? 食事はお部屋でも食堂でもとれますが、よろしければ今からでも食堂にご案内を……」
 いいえ、と透は首を振った。
「今日特に予定がないのでしたら、これから王都に下りてみようと思います。食事も街で勝手に済ませますので、どうぞお気遣いなさらないで下さい」
 でも、とグレイスが首を傾げる。
「あの……こちらには初めておいでになったのでは……」
 では、彼女は透がどういう人物なのか、詳しくは知らされていないということだ。
 透は笑顔をグレイスに向けた。
「事前の学習は済ませていますし、習うより慣れろという言葉があちらにはあります。何事も実践が一番ということですね。大丈夫です」
「そう、ですか…?」
 分かりました、それでは、と、グレイスはそこで戻って行った。

 グレイスの背中を見送って、透は部屋に入った。
 眞王廟で預けた時に聞かされた通り、荷物はすでに運び込まれている。
 それを確認してから、透はざっと中を見回してみた。
 部屋は八畳程の広さで、ベッドと机、そしてクロゼットが備え付けられている。
 部屋の中にもう一つ扉があるのに気づいて、開けてみる。と。

 ……バストイレ付きかあ……。

 日本のビジネスホテルのものより、ひと回り以上大きなバスルームがあった。
 トイレもしっかり水洗だ。風呂にはちゃんとシャワー設備も整っている。
 聞いてはいたが、正直驚いた。
 上下水道がちゃんと整備されている。
 地球時間にして、20と数年。人の姿に変化は見られなくても、世界は確実に変化していた。

 部屋に戻り、窓を開けてみる。サッシじゃない窓は久し振りだ。
 気を使ってくれたのか、窓の外は大きく開けて、瑞々しい緑とその向こうの王都の町並みを臨むことができる。
 透は大きく深呼吸した。

 空気の味が違うような気がする。
 爽やかなのに、何かとても濃密な「生命」の匂い。

 ああ、眞魔国の大気だ……。

 ひとしきりその感覚を楽しんで、透は窓を閉めると、荷物の中からこちらの通貨を詰め込んだ財布を抜き出した。

『全く別の人物だ、という理屈は当然のことだろうがね。それでもやっぱり懐かしいものは懐かしいだろう。仕事は別にして、存分に楽しんできなさい』
 そう言ってくれたのは、公安特務部の部長だ。
 滝川というその男性は、とても公安で部長職についているとは思えない程の穏やかな、というか、のんびりと眠る猫のような雰囲気の人物で、出かける直前、透にずっしりと思い財布を渡してくれた。
 少し多めにしといたから。にこにこと笑う部長に、透は感謝を込めて頭を下げた。

 実は日用品をほとんど持ってきていない。現地調達するつもりだったからだ。
 時間はまだ昼を過ぎたばかりだし、のんびりと王都の賑わいを楽しんでこよう。
 透は、浮き立つ思いのまま、軽い足取りで扉を開いた。

「んじゃま、新人諮問委員殿を街までご案内しましょうかね〜」

 廊下を出た途端に掛けられた声。
 誰かと認識する前に、身体がぴくりと反応した。
 こくりと息を飲んで。それから声のした方向にゆっくりと身体を向けた。

 廊下の壁に、ゆったりと背を預けて立つ男。

 長身。鍛え上げられた筋肉。明るい瞳。ちょっと皮肉っぽい、だが嫌味のない笑み。そして何より特徴的な、オレンジ色の髪。

 笑いたくて、泣きたい。
 胸の奥が、喉の奥が、目の奥が。何だかこそばゆくて仕方がない。

「………グリエ……ヨザック……っ!」

 潤んで、なのに掠れた透の声に、男─魔王陛下のお庭番、グリエ・ヨザックがゆっくりと壁から身体を離した。
 そして、どこかにやにやと笑いながら、透に近づいてくる。と、わずか1メートル程まで近づいたところで、ぴたりとその歩みを止めた。そしてわざとらしく腕を組み、しげしげと透を観察し始めた。

「……こいつは驚いた」
 芝居気たっぷりに上げられた声に、きょとんと透が目を瞠る。
「何てこった。あんなにでかくてごついヤツだったのに、こりゃまたえらく縮んじまったもんだなー…?」
 腕を組んで「見下ろして」くる男に、「う」と透が呻く。
「あのなぁ!」
 負けてたまるかと、透も1歩踏み出して拳を突き出した。
「勘違いしないでもらいたいな! 俺、いや、僕はもう……!」
「あいつじゃねーんだよな?」
 笑いながら、ヨザックが確認してくる。
 言葉を攫われて、透が一瞬まごついた。

「それでも……俺の昔なじみで、いい友達だったあいつの記憶を、あいつだったという記憶を、お前さんは持ってるんだよな? 俺のことも、ちゃんと覚えてるか……?」

 ふと見れば、ヨザックの顔から笑みが消えていた。

 そのたまらなく懐かしい顔をじっと見つめ、視線を外さないまま、透はゆっくりと大きく頷いた。

「そうか……」
 ヨザックは、ほんのわずかの間、何かを心の中で整理するように瞳を閉じてから、すぐにぱちりと目を開いた。その時にはもう、笑みが顔に戻っている。

「で? これからお前さんを何と呼べば良いんだ? ちなみに、俺のことは、グリエさんでもヨザック様でも何でもいいぜ?」
 誰がヨザック様だ、と透が睨み付ける。が、口元が綻ぶのは止められない。
「……スズミヤ・トール、だ。スズミヤさんでも、トール君でもいいけど、トールと呼んでくれれば一番嬉しいかな…?」
 トール、かぁ。ヨザックがそっと口に上せる。
「誰かの名前と似てる気もするな。……ま、いいか。これからよろしくな、トール?」
「ああ、こちらこそ、よろしく。グリエ…ヨザック」
 そう言って差し出した右手を、ヨザックがじっと見つめる。
「………握手、だったっけ? あちら流の挨拶だな」
 握手はこちらの世界にない風習だ。あ、と思って引っ込めようとした手は、だがすかさず大きな手に掴まれた。そしてぶんぶんと上下に振られる。
「陛下が結構あちこちでやってるんだよな。おかげで、こちらでも割と知られるようになってきてる」
「……そうか」
「ああ、そうだ」
 確かに、世界は変化している。

「………僕はもう彼じゃない……でも」
 透はヨザックを見上げて笑みを浮かべた。
「会えて嬉しい。……生きててくれて……本当に嬉しい。嬉しいよ。………泣けてきそうだ」
「俺もだ。……あいつとは似ても似つかねーってのにな。それでも……嬉しいぜ…?」
 しっかりと手を握りあって、二人はしみじみと、もうこの世にいない男の姿を思い浮かべながら、どこか静かな笑みを交わしあった。


「……じゃあ、陛下と隊長が……?」
「ああ。どうもすれ違いになりそうだから、俺に面倒みてやってくれってな。……ところで、王都に出るつもりなんだろう?」
「ああ、今日は特に予定もないらしいし」
 だったら、と、ヨザックは指を透の胸に突き付けた。
「その懐のいかにも重そうな財布、銀貨と銅貨を2、3枚抜いたら、後は部屋に置いていきな」
 え? と透が首を傾げる。
 その様に、ヨザックがやれやれと肩を竦めた。
「……そんな大金抱えて市場をぶらついてみろ、100歩と行かない内に掏られちまうぜ」
「……………治安、悪くなってるのか? どうして……?」
 暗澹とした透の表情に、ヨザックがはあ〜っ、と、大きくため息をついて、がっくり項垂れる。
 確かに、昔のあいつから金を掏ろうなんて命知らずはいなかったよなあ…、と、しみじみ呟いてから、ヨザックは透の両肩にがしっと手を置いた。
「あのな、トール。……眞魔国の治安はものすごく良くなってる。昔とは比べ物にならないくらいだ。けどな、それでも小悪党ってのはなくならねーんだよ。賑やかな市場があれば、泥棒もいるし、掏摸もいるし、無銭飲食するやつだっている。そんなヤツらは、いつでもカモを求めて目をぎらぎらさせてるんだ。でもって!」
 ヨザックは、呆気に取られて自分を見つめる上品そうな青年の顔を、しみじみと見つめた。
「昔のおま…いや、あいつが市場を歩けば、そんなヤツらは恐れをなして、瞬く間に路地の奥に逃げていった。けどな、今のお前が街を歩いてみろ。それこそ砂糖に群がる蟻みたいに先を争ってお前を取り囲み、瞬く間に身ぐるみ剥いじまうぞ!?」
「……失礼だぞ、ヨザック!」
 ぱん、と両肩の手を振り払うと、透は腰に手をあて、ふんぞり返って昔なじみを睨み付けた。
「人をバカにするのも大概にしろ! そんなつまらないヤツらに、みすみす俺が……」
 その時。
 やれやれと肩を竦めながら透に背を向けたヨザックが、やおら振り返ったと思うと、間髪入れずに拳を繰り出してきた。
 鍛え抜かれた拳が、空を切って透の眼前に迫る。
 だが透は動けない。
 瞬間の警報を頭の奥にはっきりと感じながら、身体は硬直したまま、微動だにすることができなかった。
 拳は……透の眉間ギリギリの所で、ぴたりと止まった。

「……反応、できなかったな?」

 ヨザックの拳が、すっと引かれる。そこで初めて、透は止まっていた息を大きく吐き出した。

「お前はもう、昔のあいつじゃない。そして今のお前は……どこからどう見ても、良いトコのお坊っちゃんだ。それが王都を嬉しそうにきょろきょろしながら歩いてみな。こいつぁ間違いなく田舎から出てきたばかりの若旦那に違いないって、100人が100人そう思うさ。……もうこれ以上言わなくても分かるな? よし、だったら金を置いてこい。どうせ大層な買い物をする訳じゃねーんだろ? 足りなかったら俺が貸してやるから安心しろ」
「………わ、分かった……。おれ、いや、僕が間違ってた……」
 どこか毒気を抜かれたような、呆然とした声で透は頷いた。



「ヨザック! すごい……すごい人だなっ! 昔よりずっと……あっ、この匂い! ほら、ヨザック、アレだ、あの……!」
「分かった! 分かってるから、俺の側から離れるなっつってんだろーが!」

 満面笑顔で、人波の中に飛び込んでいこうとする透の腕を、すんでの所でひっ捕まえる。
 それにも気づいていないのか、透はヨザックを引きずって、嬉しそうに前へ前へと進んでいく。

 王都最大の市場は、それこそ日用品から武器宝石類まで、何でもありの充実した品揃えを誇っており、朝から晩まで人出の切れることはない。もちろん、王都には立派な店構えの商店も多くあるが、庶民が足を運ぶのはもっぱらこういう市場の類いだ。
 店の種類や数も多ければ、どの売り物も品数豊富で、今にも台から零れ落ちそうになっている。呼び込みの声も元気なら、客達の顔も明るい。買い物を終えた人々はどっさりと品物を抱え、満足げにいそいそと道を行く。その様子だけでも、眞魔国の繁栄の度合いが分かるようであった。

「……あーっ、あれっ、パロネだ! だよなっ? なっ!?」
「ああ、そ……」
「おっさん! 1本くれ!」
 あいよ、と中年の男が揚げたてのパロネ─甘味のあるパン生地で、独特の香辛料を効かせた野菜や肉を巻き、串に射して揚げたもの─を差し出す。
 その場でぱっくんとかぶりついて、透は「うーっ」と感に堪えない声を上げた。
「……おい、若いの。お前さん、まだ金を払って……」
「あー、悪ぃ悪ぃ。俺が払うから」
 横合いから、ヨザックが愛想笑いをしながら小銭を差し出す。
 そこでようやくヨザックの存在を思い出したのか、透が齧りかけのパロネをずいっと差し出した。
「ほばえぼふーは?」
「……食わねーよ、ってか、ガキじゃあるまいし、口一杯に頬張ってンじゃねーよ!」
 その言葉が聞こえているのかどうか、ごっくんと揚げパンを飲み下した透は、まさしく子供のようにきらきらさせた瞳を賑やかな周囲に巡らせた。そして、またある一点に視線を留めると、ぱあっと明るい笑みを浮かべた。
「カチュネだ!」
「おいこら、ちょっと待て! 何でまたそんなガキの食いモンや飲みモンばっかり……」
「おばちゃん! 冷えたの1杯おくれ!」
「はい、どうぞ…………あら、お客さん! あんたまだ払いを……」
「あーっ、悪ぃな、俺が………って、何でまた俺が払うんだよっ!?」
 地球には存在しない果汁をぐいっと飲み干して、ぷはーっと満足げに息をつく。
「うまいっ!」
「……………そりゃよかったなー………」
 何だかこのノリには覚えがある。ヨザックはしみじみ思ってため息をついた。……確か、どこぞの坊っちゃんを初めて街に、それも誰かさんでは絶対できない裏町を案内して回った時……。
 楽しくてたまらないという顔で、きょろきょろと周囲を見回す青年に、ヨザックはふうと息をついて苦笑を浮かべた。瞳に、どこかやるせない切なさを浮かべて……。


「……買い物はこれで全部か?」
「ああ。着替えも大体揃えたし………なあ、洗濯とか、本当にメイドに頼んでいいのか……?」
「当然だろ? あのな、行政諮問委員ってのは、血盟城の官僚の中でも群を抜いた高官なんだぜ? 浴室に篭があったはずだ。そこに洗濯物を入れとけば、仕事してる間に全部洗濯してくれてるさ。もちろん掃除もだ。着替え以外の日用品も、言えばすぐに揃えてくれる。石鹸とかタオルとか洗髪水とかな。気にしねーで、堂々とご奉仕されろ」
 気にするさ。かつて最下級の兵卒だった記憶を持つ青年は、深々と息を吐き出した。

 あっちの屋台、こっちの露店、はしゃぎまわる子供のような透を懸命に押し止め、まずは必要な買い物をしろとヨザックが言い聞かせたのは、つい先ほどの事だ。
 それもそうだと日用品を扱う店に向かい、必要なものを買い揃えた頃には、浮かれまくっていた透も大分落ち着きを取り戻していた。
「……それにしても、ヨザックがいてくれて本当によかったなあ。……あの頃に比べたら、想像もつかないくらい人が増えてるし、賑やかさが段違いだ。………おれ…僕1人だったら、きっとかなり戸惑ってたと思うよ。それに、確かにこれじゃ掏摸に狙われても、今の僕には全く防げない」
 ちょっと情けないな。照れくさそうに笑う透に、「分かりゃーいいんだよ」とヨザックも笑う。

 賑やかさの質が違う。
 眞魔国の記憶は、結局頭の中の記憶にしかすぎないのだと、透はようやく実感しつつあった。
 凉宮透という日本人の青年が肌で覚えた「都会」の感覚とは、この世界はあまりにも異なっている。
 多分……ヨーロッパ、それも東欧辺りに今も残る古い街で暮らしていれば、少しは違っていたのかもしれないが。
 何となく切ない痛みを胸に感じながら、透は雑踏の中を歩いていた。

「なあ……分からないか……?」
 突然ヨザックにそう声を掛けられて、透は「え?」と顔を上げた。
「この通りだよ。……分からないか?」
 そう言われて、ようやく透は辺りを見回した。
 いつの間にか、細い路地に入り込んでいた。ほんの少し遠くから、市場の喧噪の気配だけが感じ取れる、そんな場所だ。
「………あ……あれ……?」
 見覚えがある、気がする。
 四つ角の壁の色。二軒向こうの軒に掛かる看板。その向いの家の凝った形の格子窓……。すぐそこの角を右に曲れば。曲がってまっすぐ進めば、確か、その奥、狭い路地のどん詰まりに……。
「……ベルンの店……!?」
 瞳を輝かせて見上げる透に、ヨザックが「おう」と笑って頷く。
 ベルンはその昔、純血魔族でありながらコンラートに心酔し、彼らの隊に所属していた兵士の1人だ。
 アルノルドの戦いが始まる直前、戦闘で足を負傷して隊を離脱した。その後店を開いたのだが、その店はすぐに、カールやヨザック、そしてたまにはコンラートも含めて、彼の仲間達の馴染みの店となった。安い酒と量だけはたっぷりの自慢料理。そこでカールもさんざん管を巻き……。
「今も……あるのか?」
「当たり前だろ。20年やそこらでなくなるかよ。……寄ってかねーか? 別に予定もないってんなら、1杯や2杯、構わねーだろ?」
 一瞬の迷いもなく、透はぶんぶんと頭を上下に振った。


「……このいかにも場末の雰囲気! きったない、今にも腐り落ちそうなテーブルと椅子! クモの巣だらけの煤けた天井! 何を料理してるんだかさっぱり分からない怪しさ満載の厨房! どいつもこいつも人相の悪さは天下一品の客!」
 懐かしいなー。
 うっとりする透。
 その背後で、「何だ、このヤロー」「何様だ、てめぇ!」「文句あんのか、こらっ!」といきり立つ客達を、「まーまー」と懸命に宥めるヨザック……の姿は全く目に入っていない。

「…おい、そこの田舎モン」
 ふと掛けられた声に記憶巣を刺激されて、透はハッと振り返った。
 髭面の大男が、包丁を掌でぴたぴたいわせながら、透を睨み付けている。
「てめ……」
「ベルンっ!」
 いきなり満面の笑顔で呼び掛けられて、大男─店主のベルンは、気合いを削がれた様にきょとんと、目の前の青年と視線を会わせてしまった。
「うわぁ、全っ然変わってないな!」
 すでに瞳がうるうるし出した透を、ベルンはしばらくじいっと見つめてから、どうにも分からないとヨザックに顔を向けた。
「……おい、グリエよ。この若造、俺の知り合いか……?」
 さっぱり覚えがねーんだが。首を捻る男に、ヨザックは苦笑を浮かべるしかない。
「なあ、ベルン!」
 透の元気な呼び掛けに、ベルンが「何だ?」と視線を戻す。
「赤肉の煮込み、まだあるか? それと、山羊乳のチーズ、後は、キアナの一番安い蒸留酒!」
「………てめぇがそんなモン食うのか……?」
 いかにも良い家のお坊っちゃん、もしくは若旦那然とした透を、頭の先から爪先までじろじろと眺めてから、ベルンは「ふん」と鼻を鳴らして踵を返した。
 そして足を引きずりながら2、3歩進んで、ふいに何か思い出した様にその足を止めた。
「……なあ、グリエ」振り返らずにベルンがヨザックを呼ぶ。「昔いたよな。年がら年中煮込みとチーズで、不味くて安い酒ばっかり飲んじゃあ暴れまわるバカがよ……」
「ああ、いたなあ」
 今だにこにこと自分を見つめる青年をちらっと眇め見て、それからまた「ふんっ」と鼻を鳴らすと、ベルンは真直ぐ厨房に向かった。


「……く、は…っ」
 すっ、すごい。ぐいと呷った酒に思わず咽せて、透はケホケホと咳き込んだ。
「舌だって変わってるだろうに。美味いはずがねーだろ。そいつは安モンってだけじゃねー。とんでもなく強いんだぜ?」
 呆れた様に言うヨザックに、透が首を振った。
「………味わうどころじゃ………アルコール度数がすご過ぎ………ケホっ」
 よく胃と肝臓をやられなかったな−。しみじみ呟く透に、自分は自分で頼んだ酒を飲みながら、ヨザックがくっくと笑う。
「ほれ、煮込みとチーズが来たぜ」
 言葉と同時に、どんっと音を立てて赤黒いシチューとチーズの盛り合わせがテーブルに乗る。同時に、頼んだ覚えのない厚切りパンとバター、そして幾種類かの酒のつまみらしき皿も並んだ。
「……ベルン?」
「久し振りだからな。……おい、その酒はお前みたいなガキには強過ぎる。ほら、これで薄めて飲め」
 答えと同時に、たっぷり汗をかいた水指しが透の前に据えられた。
「……まあ、何だ……」
 どこか言い難そうに口ごもってから、ベルンの視線が透に向いた。
「……この若造……何か、あのバカに似てるような気がしてな……」
「……似てねーよ、全然」
「ああ、似ても似つかん。だが………こいつの、その、いかにも頭が空っぽな笑い顔が……似てる、気が、しないでもない」
 それだけ言うと、テーブルに用意してあった払いを手に取り、そそくさとその場を去っていった。
 しばし。
 透とヨザックは、呆気に取られて互いの顔を見つめあい。
 二人同時に吹き出した。

 ベルンが持ってきてくれた水指しの中身は、果汁に冷えた水を加えたものだった。これを酒に加えると、気分はすっかり酎ハイで、気持良く喉を通る。
 煮込みもチーズも、日本人の舌には初体験の味だったものの、吃驚しているのは舌だけで、記憶を抱えた頭の方は大満足という、複雑怪奇な感覚が透を包んだ。それを楽しみつつ、がつがつと食物を咀嚼する内、舌は記憶に支配され、すっかり馴染んだ懐かしい味覚が、たまらない幸福感と充足感を運んでくる。
 「よく食いやがる」と笑う友人に、「ほっとけ」と返す。食事をし、酒を酌み交わし、その合間にそれぞれの現状について情報交換し、たわいない会話を重ねていく内、話はやがて、当代魔王陛下のこととなった、のだが……。

「じゃあ、陛下が即位されて、相当の年数が経っているんだよな……?」
「ああ、そうだな。最初の頃は気合いばっかり先走ってて、このお方で一体国はどうなるんだろうと、俺も不安に思った1人だったんだけどな。けど、坊っちゃ…陛下は、そりゃもう頑張られたぜ?」
「………かなりの数の国々と平和条約を結ぶに至っていると聞いたが……。それは陛下の御尽力によるものなのか? フォンヴォルテール卿のお力ではなく?」
 ああ、そうだ、とヨザックが頷く。
「多くの国が、陛下のお人柄に惚れ込んで、それまでの偏見を捨ててくれたと言っても間違いじゃない。そうなるまでに、陛下が立ち向かわれた苦難は並み大抵のものじゃなかったぜ? それこそ、命を落とす瀬戸際に立たれる事もあった。それも1度や2度じゃない。それでもあの方は……何度も挫けそうになりながら、その時ご自分がなされるべきことを、必死でやり通されたんだ。それこそ、この酒瓶1本空けるくらいじゃ語り尽くせない程にな。……捻くれモノのこの俺でも、さすがに胸にぐっとくる、っつーか」
 グリエったらもう恋しちゃいそうでー。
 最後はふざけてみせたものの、こういう時のこの男が、実は結構大真面目だということを、透は知っている。
「……人間の国が滅びかけてるって話は聞いたか?」
 ああ、と透は頷いた。
 長い長い年月、歪んだ力で支配され続けた大地は、ついにその歪みに耐え切れなくなり、異常気象を伴いながら滅びに向かって突き進んでいるという。
「それを救えるのは、精霊の王たる魔王、ユーリ陛下だけだ。何といっても、眞王陛下に匹敵するとさえいわれる魔力の持ち主だしな。だから、その力が欲しくて友好を結ぼうという国もある。それは確かだ。それでも、世界の半分近い人間達が、魔族と手を結んだんだ。大したモンだと思わねーか?」
「……ああ、まったくだ。………内政の方も、公共の福祉や公衆衛生、特に教育と医療にかなりの改革と進展があったようだな」
「上下水道、汚水の浄化処理と海水の淡水化処理を含む公衆衛生の拡充。これで疫病や旱魃の害が起こる可能性がほとんど消えちまったんだからな、民は大喜びさ。それに教育と医療も無料化されたし。ああ、義務教育制度ってのもできた。まあ他にもイロイロとな。最初はワケが分からね−ってんで、貴族や官僚連中の反発も多かったが、今じゃ民の心をがっちり掴んで、どの制度もしっかりこの国に根付きつつあるぜ?」

 では。透は指を軽く顎の下に添えて、考えを巡らせた。
 資料や新聞で読んだ通り、有利は、地球の、そしておそらくは日本の行政をモデルに政治を行っているという事だ。いや、教育と医療の無料化など、今日の日本でも到底できない制度すら現実化させている。

 眞魔国という、地球世界とは全く異なるこの世界で。古い因習がはびこるこの国で。
 本当にそれはきちんと機能しているのか? そもそも。

 ……それは果たして正しい事なのか……?

 一国の行政、税制、法制を、大きく変化させるには、有利の在位期間はむしろ短か過ぎる。
 拙速ではないのか?
 この国、そして民、いや、この世界そのものの性質と、有利の理想はきちんと整合しているのか?
 どこかに致命的な齟齬が存在しているのではないのか?
 一度、時間を掛けて徹底的にその辺りを精査してみる必要があるかもしれない………。

 それにしても。
 透はしみじみと思った。
 ヨザックの言葉が本当なら、有利はまさしく稀代の名君ということになる。

 透の脳裏に、友人であり、有利の兄である、渋谷勝利の顔が浮かんだ。

 未熟な弟が王となったことを、申し訳ないと透に頭を下げた勝利。

 有利が眞魔国に呼び戻され、即位したのは、高校に入学したての春のこと。地球時間にして、わずか1年と少々。
 勝利の目に映る有利の現状は、王としての能力が皆無でありながら、勢いで就いてしまった地位に、ただおろおろと戸惑っている、というものでしかないはずだ。

 このすれ違いの持つ意味は、おそらく有利が想像している以上に大きい。

 認識のギャップは、いつか決定的な溝を、有利とその家族、いや、地球世界との間に作るのではないか。
 何度も日本を訪れている隊長は、それをどうみているのだろうか……? それに、猊下は……?

 そして。誰より陛下、あなたはそれに気づいておられますか……?

「……そうしてると、やっぱり別人だな」
 ふいに耳に飛び込んできた声に、透はハッと我に返った。目の前で、ヨザックがにやにやと笑っている。
「何考えてたのか知らね−が、そうやって考え込むってのは、あいつの一番苦手なコトだったしな。覚えてるか? 悩むと頭痛がするから、何だろうが俺は悩まねえって宣言してたの」
 言われて思い出し、透は吹き出しながら「ああ」と頷いた。
 彼は、本当に悩んだり考え込んだりが苦手でどうしようもない男だった。

 嘘のように爽やかに薫る酒をぐいっと呷って、透は意識して気分を変えた。

「それほどご立派になさっておいでなら、隊長もさぞかし鼻が高いだろうな。名付け子が民に愛される名君にお育ちになったのだし……」
「そりゃな。それに、もう陛下は隊長にとってただの名付け子でも、主君というのでもないわけだし」
 え?
 ヨザックの言葉に首を傾げる透。その様子に、ヨザックは「ありゃ?」と、どこか間の抜けた声を上げた。
「………もしかして、これも知らないのか? 陛下と隊長のコト……」
「陛下と隊長? ……って……何だ? っていうか、『も』って何だ? 他にあるのか?」
 ありゃりゃ、と不可思議な声を上げ、それから「しまった」と口を押えたヨザックは、すぐにニヤリと人の悪げな笑みを浮かべ、透の目を覗き込んだ。
「つまり」声があからさまに何かを含んでいる。「お前がまだ知らない事が、この国には山ほどあるってことさ」

 一体何なんだ!? 食い下がっても、ヨザックはさらに意地の悪い笑みを深めるだけで、教えようとしない。
「一度に何でもかんでも手に入れようとすんじゃねーよ。ま、じっくりとな。さてと……」
 そろそろ行くか。
 言いながら立ち上がり、ベルンに「また来るぜ」と声を掛けてさっさと歩き出すヨザック。
「待てよ! おい!」
 酒の最後の一口を飲み干して、透も慌てて後を追った。

 外はいつの間にか夕刻になろうとしている。
「いきなり何なんだ!?」
「べつにー。お前も長旅で疲れてるだろ? ま、今日はこれでゆっくり休みな」
「長旅なんてしてない!」

 すたすたと歩くヨザックの後を懸命に追う内に、道は大通りへと変わった。一気に通りを歩く人の数が多くなる。
 ヨザックの背中を見失うまいと足を速める透の耳に。
 その時、ふいに「いやぁっ!」という女性の悲鳴が飛び込んで来た。

「……おいっ、ヨザック!」
 友を呼び止めて、辺りを見回す。
 と。
 大通りと路地が交差する境目で、数人の男達が若い娘を取り囲んでいた。

「……だからっ、イヤだって言ってるでしょ! 離してよっ。あっちに行って!」
「つれないこと言ってんじゃねえよ、お嬢さん?」
「別に悪さしようってんじゃねーんだからさあ」

 買い物の大きな包みを、身を護る唯一の武器であるかのように抱き締めて、娘は背を壁に押し付けていた。
 男達がさらに1歩踏み出す。

「……おいっ! お前達、止めろっ!」

 気がついたら、透は男達の背後に駆け寄って、怒りの声を上げていた。

「…………何だ、こら」
「てめーには関係ないだろうが。……あっちへ行ってな」
「この人は嫌がってるだろう!? 卑しい真似をするのは止せ! 魔族の恥だぞ!」
 さらに言い募ろうとする透を、男達の嘲笑が遮った。
「何だ、このバカは」
「女の前だからって、カッコつけてんじゃねえよ!」
「どこのお坊っちゃんだか知らね−が、この辺りであんまりふざけた真似をするとな、そりゃもう痛い目にあうんだぜ?」
「例えば、こんな感じでな……!」

 来る。
 男の身体の動きが見える。力がどこに入り、どう自分に向かってくるのか全て分かる。そして、それに対して、自分がどう動くべきかも。
 身体をどう動かして、どう反撃するか。一瞬で全てが頭の中に浮かぶ。なのに。
 身体が反応しない。
 全ての動きも、対応も、全て頭の中に見えているのに、身体がついてこれない。
 記憶しているのは脳だけで、それは「経験」ではない。透の肉体は、何も知らない。
 透の腕は、ただの一度も人を殴った事はない。
 受け継いだのは記憶だけ。その意味を、今度こそ痛感した。

 やられる。完膚なきまでに。

 勢い良く透の顔面めがけて延びて来た腕。だがそれは。
 次の瞬間、横から延びて来た別の手に、がっちりと止められた。

 いきなり手首を掴まれた男が、驚いて顔を横に向ける。
 節くれ立った男の手首を掴んで微動だにしないその手は、繊手といっていいほどしなやかで、ほっそりとした、紛れもない女性の手だった。
 透も、思わず視線をそちらに向ける。救い主である、その手の持ち主がいる方向に。

「非力な者をいたぶるな。卑怯者」

 声。
 まだ若い女性の声。その声に。そして。
 その、姿に。

「…………え……?」

 動きが止まり、呼吸が止まり、世界の全てが。止まった。

 わずか数十センチ。すぐ目の前。
 心臓が耳元までせり上がってきたらしい。激しい鼓動が視界を揺るがす。

 わななく唇が、何かを形作ろうとして、果たせずただ震えている。

「なっ、なんでこんな所に……!?」
 すぐ後ろで上がる、焦ったような友人の声だけが、ストップモーションの世界の中で、不思議なくらい自然に耳に流れ込んで来た。
 


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ああ、ここまでできてついに字数オーバーのエラーが……。
絶対書くぞ! と心に決めていたシーンまで行き着きませんでした。いつものコトです〜…。 中途半端ですみません。

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