愛し君へのセレナーデ


 彼は。
 ごくごく当たり前に一日を始め、大学の講議を無事に終えた後、夏の終わりの陽射しがいまだ燦々と降り注ぐ午後の街を、のんびりとバイト先に向かって歩いていた。
 今日は、連日の茹だるような暑さがちょっとだけ和らいでいた。とはいえ、まだまだ残暑は厳しく、行き交う人々は皆、帽子や日傘で陽射しを遮り、時折ハンカチで額や襟元を拭いつつ、目的地を目指している。
 そんな中、彼はただ1人、不思議な程涼しげな顔で、足取りも軽やかに歩道を歩いていた。
 もちろん、暑くないわけではない。汗だって浮いている。
 だが、そんなことがどうでもよくなる程、今、彼、凉宮透の精神は充実しているのであった。

 理由は、今現在のバイト先にある。

 歩いている内にふと、透の脳裏にバイト先の情景が浮かんだ。
 我知らず、笑みが浮かんでくる。

 よもや霞ヶ関のあんな場所に、この日本における、あちらの世界との接点を管理する部署があろうとは。そもそもそんなものが、地球上の様々な国家、様々な機関に密かに設置されていようとは。それも1000年の昔から。
 1000年前、地球と異世界との通路、もしくは扉、を管理するための組織「委員会」の基礎を作った人物本人、いや、その人の何代目かの生まれ変わりである人物の紹介を受けて、彼、凉宮透は1ヶ月程前から「委員会」の特別臨時職員となっている。バイトと言えばいいのにそうもいかず、妙に面倒な名称がついているのは、その組織が警察庁に属する歴とした公の機関の一部であるからだ。本来学生の身分で臨時とはいえ職員になれるはずもないのだが……。

『凉宮透さんですね?』
 祖父の研究室に突然やってきた、いかにも怪しげな一団。本人達は目立たないようにと配慮しているつもりかもしれないが、お仕着せのような濃紺のスーツにサングラスというスタイルで統一された集団は、街中ではどう考えても悪目立ちするだろう。まして世間は夏真っ盛り。
そんな怪しい集団の唯一の女性が、濃い色のガラスの奥から透を見据えて問いかけてきた。
 差し出された名刺を見て、祖父が表情を厳しくする。
『……公安がいきなり何の用だい? いや、名刺なんかじゃなく、ちゃんと警察手帳を見せな。持ってないとは言わせねえぞ。それから、人に話をしにきて色付きメガネを掛けたままってのは、いかにも無礼だろうがよ。とっとと外しな。………で? こんな大勢で押し掛けて来やがって、ウチの孫にどういう用件だい。こちとらまじめな学究の徒ってやつだぜ? 公安の捜査官にお出まし頂くような大層な真似は、これっぽっちも仕出かしちゃいねえよ』
 国家公安の仕事に、言論統制時代の強圧的なイメージを重ねているのか、国家権力に対して元々反骨の精神が旺盛なのか、祖父は最初から喧嘩腰だ。
 森下早苗を名乗る公安の捜査官、らしき人物は、そんな祖父の態度に苦笑しながらサングラスを外した。
『大変失礼しました。…香坂教授でいらっしゃいますね? ご心配には及びません。私達は本日、お孫さんに少々お願いがあってまいりました』
『……お願い……?』
『あの……僕に、ですか…?』
 はい、と頷いた森下女史が『どうぞ』と差し出した書類。それを受け取った透は、思わず目を瞠いてそれを凝視した。
『こっ、これ……っ!?』
 公文書らしい装釘の書類に印字された文字。それは紛れもなく。
『これは……上級魔族語!?』
 はあっ!? 透の言葉に驚いた祖父や繭里、そして近頃祖父の研究室をたまり場にしている学生の一人である高沢逸美が、声を上げて透の傍らにやってきた。そして透が手にする書類を覗き込む。
『翻訳して頂けないでしょうか?』
 森下捜査官の言葉に驚いて顔を上げ、まじまじとその女性の顔を見つめる。
『……あの……これは……』
『お願いします。概略で結構ですので』
 訳が分からないなりに、透は再び書類に視線を向けた。文字自体は読むのに何の支障もない。わずかも褪せる事のない記憶の中で、慣れ親しんだ懐かしい文字だ。
『……………これは、警告となってますね。ええと、貴世界において、冬期に主に流行するとされる細菌性の感冒……いんふぉーる……? ……ええと……ああ、どうやらこれ当て字ですね。こちらの固有名詞にあたる言葉が向こうにないから、それらしい発音を当ててるんだな。えっと……『細菌性の感冒』で、いんふぉーる、えーんじ…………』
 透はしばらく頭を捻っていたが、すぐに「ああ!」と声を上げた。顔が笑っている。
『インフルエンザだ! これ、インフルエンザに対する警告書ですよ。ええと』
 ざっと書類全体に目を通して、透はきゅっと眉を寄せた。
『透?』
 繭里が心配そうに従兄弟を見つめている。
 それに気づかぬ様子で、透は改めて書類の端から端までじっくりと目を走らせた。
『これ………あちらの世界には、インフルエンザウィルスに該当する細菌が存在しないことを報せて来てます。だから、地球世界からあちらに人員を派遣する場合には、くれぐれも身体検査を徹底して欲しいと……。もしも過って未知のウィルスが蔓延した場合には、あちらの世界の存亡に関わるからと……。そうか、そういう問題もあるんだ……』
『やっぱりインフルエンザなんですね!?』
 森下の弾んだ声に、考え込んでいた透が思わず顔を上げる。
『係長、当たってましたね!』
 森下の背後に控えていて男の一人が、笑顔で声を上げる。『そうじゃないかと思ったのよ!』と森下が振り返って頷いている。森下に対してなのか、それとも翻訳した透に対してなのかは不明だが、森下の部下らしい男達が一斉に拍手を始めた。─見た目の割に明るい集団だ。
『凉宮さん!』
 訳が分からずきょとんとする透の腕を、森下が飛び掛かるようにして掴む。

『お願いします! ウチでバイトして下さいっ!!』

 実は村田健から透の存在を教えてもらったのだと森下が言った。
『猊下が?』
 はい、と森下が頷く。そして、自分達の組織、「委員会」について、透、そしてその場に居合わせた祖父と繭里、そして逸美に説明を始めた。……祖父達が全て知っている事も、もうとうに分かっているらしい。
『なんでまた公安にその組織があるんだい?』
『逮捕権が必要だからです』祖父の質問に、森下が答える。『昔はそんな必要もなかったのですが、今はそうもいかなくて…。どれだけ『扉』を監視していても、ちょっとした拍子に迷い込んでくる者─渡界者と呼びます─は年間でもちょっとした数に上るのです。もちろん逆の場合もあります。私共も、国内の全ての『扉』の把握が出来ている訳ではありませんし……。ただ単に次元の狭間に迷い込み、こちらに来てしまったというのなら保護するだけで済みますが……たまに、ほんのたまにですけれど、異世界の存在を知って、自分達の世界にはない文物や、最悪の場合は兵器を運び出そうとする輩、不法渡界者もいない訳ではないのです。保護するにしても、捕らえるにしても、やはりこちらも警察である事がもっとも自然で、誰にも疑問を抱かれないと申しますか……』
 なるほど、と全員が頷く。
『ご存知かもしれませんが、警察というところは縄張り意識が大変強く、国内だからといって地元警察を無視して不用意に人の身柄を拘束する事はできないのです。異世界人も地球人も見た目が全く変わらないのですから、下手に地元警察が関わると、身元や罪状を明らかにするように要請されるのは間違いありませんし。しかし、捕えた人物が異世界人だなどとは口が裂けても申せません』
うんうん、と大きく頷く一同。
『しかし、公安ということになると話は別です。特に我々は特務部という、その、いかにも秘密めいた部署となっておりますので、それをちらつかせれば一般警察も何となく腰が引けるのですね。公安特務の国家機密に関わる任務だとふんぞり返って宣言すれば、大抵の警察官は引き下がります』
 くすくすと笑いながら説明する森下に、なるほどなあ、うまいもんだと祖父達も納得の声を上げた。
『でも、私達はちゃんと国家公務員試験を受けて合格しておりますので、その旨どうか誤解のないようお願い申し上げます』

 森下の説明によると、眞魔国内の「委員会」にあたる組織からの様々な通達は、全て上級魔族語でなされるのだという。だが、言語体系が根本から異なっているため、これを修得している地球世界の魔族はそう多くない。書類が回ってきても、翻訳ソフトはもちろん、長年の交流の割には何故か辞書もないため、結局修得している人物に翻訳を頼むか、その人物が所属する国の「委員会」に頼み込んで出向してもらうかしないのだそうだ。
『あのー』繭里が首を傾げながら口を挟んだ。『あなた方は、つまりその委員会の日本支部、なんですよね? だったら、本部みたいな所があるんじゃないんですか? そこで書類を一括して翻訳してから各支部に回せば、何の問題もないんじゃ……』
『仰る通りです!』
 森下が、そして部下らしき男達が一斉に大きく頷く。
『確かに、地球の魔王ボブが拠点とする場所がスイスにあるのです。そこが本部といえば言えるのです。魔族語に堪能な者もいて、重要書類の翻訳も行っているのです。しかし……』

 眞魔国から齎される書類が、近年急激に増えたのだという。
 それも、単なる通達や事務連絡だけでなく、地球世界に対する、というか、あちらの世界の魔王陛下の言動に関する様々な疑問をぶつけてきては、早急の答えを求めてくるようになったのだ。
『あちらの委員会の責任者は、フォンカーベルニコフ卿アニシナ、という、どうやら科学者らしい人物なのですが……』
『フォンカーベルニコフ卿アニシナぁっ!!?』
『……ご存知なのですか?』
『………………名前だけは………その、イロイロ、と………』
 毒女だ……、という呟きは、幸い誰の耳にも入らなかった。
『非常に好奇心の強い方のようで、何でまたこんな事までという細かい事、それこそ天体の運行から猫の鳴き声まで、次から次へと質問を重ねてこられて……。特にそれがこの日本に関わる事が大変多いのです。やはり、その……魔王陛下と大賢者猊下が揃って日本人であるという事実が大きいようでして……』
 いい加減面倒になった本部の誰かの差し金か、あちらの魔王陛下が関係する質問状や通達は、いつの間にか本部を通さず直接日本支部に届くようになってしまったのだ。
 そうして、『陛下がお散歩中に鳥の死骸を見つけしまった所、手を合わせて『なむあみだぶつ』と呟いおられた。何らかの魔術かと思い、鳥を回収し観察したが変化はない。一体『なむあみだぶつ』とは何を意味するのか。陛下は鳥がどうなることを望んでおられたのか。そしてまた、『先日陛下が「そんな事をしたらバチが当たるぞ」と仰られたが、バチとはどうやって現れるのか。飛んでくるのか。当たると何がもらえるのか』、果ては『せりーぐとぱりーぐが一つになったら、白い獅子はオレンジ色のうさぎに勝てるのか。その時虎はどこにいるのか』という、意味が分かって質問しているのかさっぱり不明なものまでが、原文のまま届くようになってしまったのだと森下がため息と共に言った。
『……野球はともかく……魔族語で南無阿弥陀仏を語らなくてはならないのかと思うと……思わず目の前が真っ暗になりました……』
 そりゃそうだろうと、透達も思わず瞑目する。というか、そもそも魔王が仏教徒というのはどうなんだろう。
『先月まで中国から人を借りていたのですが、これがどうにも役立たずで……。あちらも分かっていて押し付けてきたらしいのですが……。無駄飯喰らいだからと追い返したのはいいのですが、おかげで書類は溜まる一方。困り果てていた所、猊下が凉宮さんの事を教えて下さいまして……!』
 森下とその部下達が熱い眼差しを透に向けてくる。
『言葉は完璧、あちらの習慣も風俗も全て身につけておられる、でもって、100%日本人! そんな絵に描いたように都合の良い…いえっ、すばらしい人材がおいでになるとは夢にも思いませんでした! お願いします、涼宮さん!』

 私達の救世主となって下さいっ!!

 全員に拝まれるように頼まれて、結局透は公安でのバイトを了承した。
 あちらの世界と地球世界の掛け橋になる。そう思うと、自分の存在意義が嬉しくなる程大きくなものに感じられる。だが、透がバイトを決意した決定的な理由は、森下のこの一言だった。

『凉宮さんは魔族語やあちらの習俗を身につけておいでなので、講習なしで出張をお願いすると思います。眞魔国への出張、行って頂けますよね?』

 あの世界へ、あの国へ、また行ける。平和になった、混血でも貶められる事のない、渋谷有利の治める眞魔国へ。

『行きます! やります! バイト、やらせて下さいっ!』
 気がついたら、森下の手をがっちり掴んで叫んでいた。

 バイトを始めてほぼ1ヶ月、まだ眞魔国への出張はないが、透は時間があれば霞ヶ関に入り浸っていた。翻訳には全く苦労しない。日本語も魔族語も、ついでにあの世界の共通語である大陸公用語も、透にとっては母国語と変わりない。これでバイト代を貰うのは、むしろ申し訳ないくらいだ。
 書類を見た瞬間からパソコンに打ち込みを開始し、データベースへの記録も遅滞なく進め、確実に書類の山を減らしていく透に、表向き「国家公安特務部特務三課」、実は「異世界との扉を監視し、二つの世界の自主自立と秩序を護る委員会日本支部」の職員達は、揃って感動の涙を流していた。

 まさかなあ……。
 歩きながら、思わず笑みを浮かべる透。
 まさか、コンビ二弁当とペットボトルのお茶をお供に、シンニチを捲る日が来るとは夢にも思わなかった。

 公安のその部屋には、送られてくる書類の他に、あちらの世界の様々な参考文献や書籍が揃っている。中でも、新聞は相当昔のものから揃えられている。一定の時間が立つとデジタル化され現物は処理されるが、比較的新しいものは新聞そのものがちゃんと取り揃えてある。政治経済から芸能ゴシップまで何でも有りの眞魔国日報、略してシンニチと、特に時事問題に見識がある王都日日新聞が代表的だ。
 仕事の合間にひと休みしながら、それらをじっくりと眺めるのが近頃の透の楽しみだった。何といっても、有利が即位してからの眞魔国の変化が、時間の経過と共に記事に如実に現れていて、読んでいると胸が熱く滾ってくる。そこに描かれている人々の多くは、透にとってあまりにも身近で慕わしい名前ばかりなのだ。
 かなり以前のものからゆっくりと読んでいるため、まだ現在の記事には行き着いていない。しかし焦る必要は何もないのだし、読み物としても面白くて仕方がないから、ゆっくりじっくり記事を追う事で時間を埋めていこうと思う。
 読み物といえば。
 本棚に、フォンカーベルニコフ卿の労作、「毒女」シリーズが並んでいたっけ。それと、先日新たに入った「ウェラー卿の大冒険」シリーズ。
 このタイトルにはびっくりしたが、書かれた経緯を賢者から教えられてさらに仰天した。
 相変わらず、己に厳しい道を選ぶ人だとしみじみ思った。
 だがこの本は、ウェラー卿を実際に知る人にとっては、かなり抱腹絶倒ものの大トンデモ本らしい。
 何でもウェラー卿がこの本を剣で細切れに切り刻んでいるのを、陛下を始め多くの人が目にしているという。
 早く読みたいような、読むのが怖いような。
「ま、先に楽しみがあるっていうのは良いことだよな」
 司法試験の準備という点ではかなりブレーキが掛かる気もするが、それ以上に充実した毎日に、透は心から満足していた。

 そして弾む気持で訪れたバイト先で、透を待っていたのは。

 「ついに眞魔国へ出張よ。お願いね、凉宮君」という森下の一言だった。  




「……スズミヤ・トール、か」

 はっ! と背筋を伸ばして、透は汗に温む両の拳にきゅっと力を込めた。
 余りにも久し振り過ぎて、どうにも格好がつかないこの軍隊式の対面。
 目の前の巨大な机の向こう側に座り、緊張して立つ自分を見上げているのは、この国の宰相閣下だ。
 ……………フォンヴォルテール卿、だぁ……。

 思わず、コクリと喉がなる。
 そして、その隣に立つのは、懐かしき鬼教官フォンクライスト卿。

 この国を離れていたのは「わずか」20と数年。記憶のまま、ほとんど変化のない姿が今目の前に並んでいる。

 とうとう来たのだ、この国に。

 事の起こりは、眞魔国から地球の魔王への、「地球の行政及び法律に詳しい人物を派遣してもらいたい」という依頼だった。
 法律に詳しい魔族なら、それこそ選り取り見取り山のようにいる。数だけなら。
 そこに、「魔族語に堪能」で、「眞魔国の風土習慣に対しての順応性が高い」という条件をつけられると、数は一気にゼロに近くなる。
 だが、地球の魔王陛下の側近達は、ただ1人、完璧なまでにその条件を満たしている人物を見付けてしまった。
 もちろん、凉宮透、その人だ。

 前世も含めた彼の経歴は本部に伝えられており、透はその存在の特殊性から、有力な「眞魔国出張要員」として名簿のトップに上げられていたらしい。
 また、眞魔国の魔王陛下が日本人であることから、行政にしろ法律にしろ、日本のものが最も受け入れやすかろうと判断されたことも、透が今回選ばれた理由の一つでもある。
 とにかく。
 出張命令が出たその日の内に、必要書類だの参考文献だの基本六法だのを鞄に詰め込み、用意されていた文官らしい衣装に着替え、やっぱり双黒はまずかろうと、そのまま家に戻っても驚かれない程度の茶色に髪を染め、同じく茶色のカラコンを目に入れて、透は公安の奥深くに密かに設置管理されていた異世界への扉─眞王廟の隠された一画と繋がる─を開いたのだった………。


「…………お前のことは、報告を受けている。……コンラートからもな」

 宰相フォンヴォルテール卿の言葉に、透はハッと表情を引き締めた。

「……ルッテンベルク師団の一員としてアルノルドに向かい……戦死した、と。猊下と同じように、その記憶を有したまま転生したと聞いている。……かつての人物と混同するのはよくないとの猊下の仰せで、当時の名前などは聞いていないが……確かなのだな……?」

 自分を見つめる宰相と王佐閣下の表情、そしてその瞳に、やるせない痛みがあるように感じるのは、自分の目の錯覚に過ぎないのだろうか……?

 透は二人を静かに見返してから、ゆっくりと頷いた。

「はい。シマロンから眞魔国へと渡り、一兵士として軍に、後にルッテンベルク師団の一員となり、そしてあの戦争で、アルノルドに赴き戦死した人物の記憶を………最期の瞬間、意識が闇に閉ざされるその時までの記憶を……全て、己のものとして覚えております」

 そうか。フォンヴォルテール卿とフォンクライスト卿が、深く息をついた。
「……兵学校には所属していたのですよね?」
 フォンクライスト卿が穏やかに質問してくる。
 はい、と頷いて、透は微笑んだ。
「閣下には、それは厳しく鍛えて頂きました」
「…そうでしたか。あの頃の、私の教え子でしたか………」

 フォンクライスト卿ギュンター閣下は、その身分からいえば、本来貴族の子弟達が集まる士官学校の教官であるだけで充分のはずだった。しかし彼は、士官だろうが一兵卒だろうが、国に尽くすことに変わりはないとして、身分の低い者が集まる兵学校の教官も、自ら率先して勤めていたのだ。
 そして、純血であろうが混血であろうが何一つ差別も区別もせず、皆同じように徹底的に鍛えてくれた。
 眞魔国一の美貌と優雅さを誇る人物であると同時に、恐ろしい程厳しく容赦のない教官だったが、透がフォンクライスト卿に抱いているのは、純然たる尊敬と好意だけだ。

「……猊下からも、陛下からも話は聞いている」
 フォンヴォルテール卿の、重々しく威厳に満ちた声に変化はない。
「お前は、あちらの世界でも有数の、猊下に勝るとも劣らぬ優秀な頭脳の持ち主だそうだな。あちらの世界で最難関とされる、何でも上級学校を卒業して何年掛けてもそうそう合格できぬという厳しい試験に、学生の身分で既に合格しているというではないか。その知性、並の学者など足元にも及ばぬと猊下より聞き及んでいる」
「………え……あ、あの………」
 何だか、とんでもないことになっている。慌てる透に、宰相閣下と王佐閣下が大きくため息をついた。

「私は」フォンヴォルテール卿の声が重い。「……コンラートの部下の兵といえば、どれも戦う以外に取り柄のない荒くれ者揃いと思い込んでいた。まして、ルッテンベルク師団に属するとなれば……。よもやその中にお前のような……」
 フォンヴォルテール卿がしみじみと、透のほっそりとした品の良さげな姿体に視線を滑らせた。
「お前のような、知性と教養に秀でたものも加わっていたとはな……」
 宰相閣下の呟くような声に、「全くです」と王佐閣下が応える。

 ………………勘違いされている。力一杯。全身全霊で。

 ハインツホッファー・カールは、何より考えるのが苦手な男だった。

 考えるより先に手が出る、いや、拳が空を切り、剣が走る。
 彼の巨躯に立ち向かおうとする勇気のある者はそうそういなかったが、たまに現れたとしても、剣を抜く前に、大抵はその拳の威力に吹っ飛ばされて消えていった。
 ウェラー卿コンラートの旗下、「便利屋部隊」、そしてルッテンベルク師団。
 その名が持つイメージそのままの、荒くれ者、そして喧嘩屋、戦争屋を体現したような人物だったのだ。

 考える事は、全て隊長と昔なじみの副官に任せ切り、自分はただ隊長の命じるままに剣を奮って突き進む。
 ただそれだけで日々の充実を喜ぶような男だったのだが……。

「……一体どれほどの貴重な才能が無為に失われたのかと、私達は今頃になって痛感しているのですよ……」
 フォンクライスト卿が、痛ましげに透を見つめて言った。
「あなたの様に、ただ混血であるというそれだけで、持てる才能を正当に評価されることもなく……あのような戦いで命を落とさねばならなかった者達が、一体どれだけいたのかと思うと……胸が痛みます……」

 ………どうしよう。

 この誤解を、解くべきなのか。そもそもそこからもう分からなくなってきた。

 困り果てた透の逡巡は、だがフォンヴォルテール卿の次の言葉で脳裏から消えた。

「……お前は……この国を恨んではいないのか…?」

 いいえ。一瞬、宰相閣下のほとんど表に現れない、だが確かにあると確信できる苦悩を読み取って、透は首をはっきりと左右に振った。

「………確かに……色々なことがありました。それはご存知の通りです。怒りがあり、悔しさがあり、涙があり、そして……たくさんの死がありました。しかし、先程……」

 眞王廟で透を出迎えたのは、大賢者村田健だった。
 村田とはそれまで何度か顔を合わせていたし、眞王廟そのものに、カールは何の思い出もなかった。だからその時までは良く分からなかった。
 だが、村田に案内されて廟を出た透のその目に、視界いっぱいに、血盟城が飛び込んできた瞬間。
 それが血盟城だと理解した瞬間。

 何かが、透の中で爆発するように弾けた。
 その衝撃が、痙攣するような震えとなって、全身を駆け巡り。渦となって胸を内側から叩き。
 息すらできないまま、透は耐え切れずに身を折ると、そのまま地面に膝をついた。
 そして。
 いつしか、声を上げて泣いていた。

 それからどれだけの時間が経ったのか、やがて村田の手が、労る様に透の肩に置かれた。
 肩の上でぽんぽんと数回弾んだ手に、ぐっと力が込められる。
 我に帰るその時まで、透はそうして地面に跪いたまま、涙も拭わずに、ただ血盟城とそれを囲む美しい自然、そして抜けるような青空を見つめ続けていた。

「……その時の感情を一言で表すなら……懐かしい、という言葉が最も近いかと思います。ひたすら懐かしい……。ただ、それだけでした」

 恨みも怒りもありません。

 透はフォンヴォルテール卿の目をしっかりと見据えてきっぱりと言った。

「もう僕、いえ、私は彼ではありません。彼は、アルノルドの地で亡くなりました。この国のため、家族のため、力の限り戦い、戦い抜き、そして果てました。その最期の瞬間ですら、もう彼のどこにも、虐げられた混血の恨みなど存在してはいませんでした。無念の思いがなかったとは言いません。しかし彼は隊長、ウェラー卿の下で生きてきた人生を、己なりに全うできたことに、満足すら感じて死んでいったのです。……閣下」
 透は、フォンヴォルテール卿とフォンクライスト卿を交互に、真直ぐに視線を送り、そしてあらためて姿勢を正した。

「私は、奇跡とも言える巡り合わせで、この国に生きた人物の記憶を受け継いで生まれてきました。夢かとも思い、妄想かとも悩んだこともありましたが、この記憶を消したいと望んだことはただの一度もありませんでした。彼の生涯の記憶は、私にとって掛け替えのない大切なものです。今、さらなる奇跡的な出会いによって、こうしてまたこの国を訪れる事が叶いました。それだけではありません。眞魔国の魔族であったこの記憶と、今現在の人生があるが故に、私は二つの世界を繋ぐ大きな力の中に加わる事ができました。それは私にとって、言葉にならない程の歓びです。……閣下、私は」
 透は、すう、と息を吸って、一度閉じた瞳を大きく開いた。

「かつて生きていた彼の、魔族としての誇りも受け継いだのだと確信しております。微力ではありますが、ユーリ陛下が治められるこの眞魔国のお役に立つため、全力を尽くさせて頂く所存でおります」

 がたんと音を立てて、フォンヴォルテール卿が立ち上がった。

「……よく言ってくれた。感謝する」
 隣で、フォンクライスト卿も大きく頷いている。
「スズミヤ・トール。貴公の来訪を、いや、帰還を、我々は心から歓迎する」

 ありがとうございます!

 20数年振りの敬礼。
 驚く程自然にそれをしてしまう自分に苦笑しつつも。

 結構様になってるよな……?

 こそばゆいような幸福感が、透の胸一杯に満ちていた。



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このタイトルはどこかで聞いた事があるぞと……。何だっけなー。

予定したシーンまで行けなくて残念。
希望は前後編だったのですがー…。

ご感想、お待ち申しております。