青 空・8



 若手漫才コンビよろしく、にっこーと笑って拍手を待つ少年2人(1人はつきあい)。
 呆気にとられて、ぽかんと口を開けてそれを見つめる大人一同。除、渋谷兄。

「…………ノリがイマイチだなー……」
「ノリの問題じゃねーだろ」
 やれやれと頭を掻く渋谷弟。
 その様子をげっそりと見て、勝利は引きつった顔のまま固まっている透に歩み寄った。
「……悪いな、凉宮、ホントにこんなんで……」
 ぽん、と肩に手を置いた瞬間、透の目が電気が通ったようにカッと見開かれた。
 その目が、勝利に鋭く向けられる。
「…お、おい……?」
「ひっ、ひどいよ! 渋谷君!!」
 は? と聞き返しつつ、向けられる視線の迫力にたじろぐ勝利。そんな友に、さらに詰め寄る透。
「どうして教えてくれなかったんだっ!? ちゃんと知ってたらっ、ぼっ、僕は、こんな見窄らしい恰好してこなかったのにっ!」
「………みすぼらしい……?」
 きょとんとする勝利。今日の透は、シャツにカジュアルなジャケットとそれに揃いのパンツ、勝利同様おそらく母親がきちんとしてくれているのだろうが、どれも清潔そうだしアイロンも行き届いているように見える。ついでに靴もちゃんと磨いてあり、泥はね一つない。
 それにそもそも、何も話していない段階で、「今日、魔王と大賢者が来るから」などと言えるはずもないではないか。
「おまえな……」
「こんなっ」透はほとんど涙目だ。「こんなっ、恥ずかしい姿でっ、恐れ多くも陛下や猊下に拝謁させて頂くなんてっ、ああっ、どうしたらいいんだ、せめてスーツで…ああっ、ダメだっ! ぼっ、僕は……ここしばらく……床屋にも行ってないんだーーっっ!!」
 だからどうしたっ! 思わず心の中で怒鳴り返す勝利。それが聞こえたかのように、さらに何か言い募ろうと透が口を開いたその瞬間。「あたっ!」という奇声と共に、いきなりその姿が勝利の目の前から消えてしまった。
 あれ、と下を見ると、透が頭を抱えてしゃがみ込んでいる。そして視線を戻せば、透の背後に拳を握った香坂教授が、苦りきった顔で立っていた。
「錯乱するんじゃねえよ、バカ孫が」
 よほど痛かったのか、透は「あたた…」と唸って頭を抱えたままだ。
 はあ…、とどこからともなく、複数の疲れたようなため息が聞こえてきた。
 と、その場に。
「……あ、あのー……」
 有利の、おずおずとした声が上がった。
 途端、透がハッと顔を上げる。と思った次の瞬間、素早く立ち上がると、応接セットを踏み越え蹴散らすような勢いで有利と村田の前に飛び出した。そして二人の前に立つと、いきなり直立不動となり、一体どうするつもりなのかとまじまじ見つめる全員の視線を浴びながら、やおら床に片膝をついた。
「……あの……」
「ごっ、ご無礼をっ、お許しっ、下さい!」
 凉宮透、必死の叫び。
「こ、こ、このような場所で、よもや魔王陛下、そして! 大賢者猊下にお目文字叶うとは夢にも思わず……! そっ、その…っ、まことに、夢のような……! 今こうしていても、信じられなくて……。あ、あのっ、私ごとき卑しき身分の者が、このように……! その……」
「凉宮さん」
 ごくごく自然に呼び掛けられて、ハッと顔を上げた透は、すぐ目の前に渋谷有利の、魔王の、ちょっと困ったように苦笑する顔をみつけて、たじろいだように目を伏せた。
 魔王が一兵士の前にしゃがんで、同じ高さで顔を覗き込んでいる。その事実に、透は半ば呆然となりつつも、更に頭を低く下げた。
「…………あの…興奮してしまい……とんでもない醜態を……その、ご無礼致しました。……私は、かつてルッテンベルク師団に……」
 うん、と頷く魔王の声がすぐ側で聞こえる。
「分かってるよ。勝利にも聞いたし、それから……コンラッドにも確認をとった」
「……っ!!」
 齎された言葉に、透は思わず顔を上げ、無礼も忘れて至上の君の顔をまじまじと見つめた。
「……隊長、に……?」
「うん」再び頷く魔王陛下。「勝利から聞いた凉宮さんの前世の様子……体つきとか、『豪腕』って呼ばれてたこととか、それから、どんな風に亡くなったかとかをね。……びっくりしてたよ。ものすごくびっくりしてた。あのコンラッドがさ、しばらく言葉も出なかったくらい」
「隊長は……おれ、いえ、私のことを覚えて……?」
「当たり前じゃん! コンラッドはあなた達のことを忘れたりなんかしないって! ……あんな記憶を持ったまま転生するなんて、きっと辛かっただろうって。コンラッド、そう言ってた。でも、日本で法律の勉強しながら、家族や友達に囲まれて、幸せな人生送ってるって話したら、すごく喜んでたよ? よかったって、何だか自分も救われたような気がするって、ちょっと涙ぐんでるみたいだった。あんなコンラッド初めて見たから、おれもびっくりしちゃった」
「………隊長が……」
 感極まったように、透の目からぽろぽろぽろぽろと、大粒の涙が転がり流れた。
「はい!」
 パンパン、と、いきなり手を打つ音と同時に、村田の声がその場に響いた。
「そういう話は後にしよう。さあ、立って、二人とも。凉宮さん、あなたが僕達の前で跪く理由は何もない。気持は分からなくもないが、とにかく立って」
「…しかし……!」

「君は誰だ?」

 低く、ふいに叩き付けられた言葉に。透が、そしてその場に居合わせた全ての人間が、目を瞠り、全ての動きを止めた。

「答えたまえ。君は誰だ?」

「…ぼ、ぼく、は……」

 四千年という長い生の果てに、今、村田健という名を持つ存在の、凍る程に澄んだ大きな黒い瞳が透の視界を支配する。脳に、その視線が突き刺さる。

 誰だ? 自分は一体……誰なんだろう……。

 今まで思いもしなかった、頭にわずかなりとも浮かぶ事のなかった疑問が、ふいに透の中に湧き上がった。
「……僕は……」
 唇を戦慄かせながら、ついに俯いてしまった透を見下ろして、村田の視線が和らいだ。
「…ああ、人に名を聞く時は、まず自分から、だったね」
 村田の声に少年らしい無邪気さが─おそらくは作られたものではあろうが─戻ってくる。
「僕は村田健だ。都内の私立高校2年になったばかり。両親は共働きで海外赴任とかしてるから、あまり顔を合わせる事はないな。マンションにほとんど独り住まいで、ペットはハムスターが2匹。趣味は読書とレコード鑑賞と古い映画やアニメや特撮ビデオを集める事。それから、暇つぶしに時々世界史の教科書や参考書のあら探しなんかもやってる。好きなスポーツはサッカー。ブンデスリーガがお気に入りで、崇拝してるのは守護神オリバー・カーン様! …ワールドカップで、彼が控えに回されるってニュースを聞いた時にはもうすごいショックで…って、まあそれはいいんだけど、いやちっとも良くないんだけど……。えーと、そんなサッカー好きの僕なのに、なぜか友達が主催してる草野球チームのマネージャーを勤めたりしてる。ちなみに、その友達ってのは、ここにいる渋谷だけどね。で? 渋谷、君の自己紹介は?」
 突然話を向けられて、ぽかんと友人をみつめていた有利が慌てて顔を透達に向けた。
「えとっ、おれ、渋谷有利です! 埼玉の県立高校、同じく2年になったばっかで16歳です。えーと、家族は親父とおふくろと兄貴と、それから犬2匹! 親父は銀行員で、おふくろは専業主婦で、兄貴は……は、いいか。趣味は野球! 好きなスポーツも野球! 中学で監督殴って野球部クビになったりしたもんで、高校では部活はしてません。でも、代わりに草野球チーム作って代表やってます! 後は、えーと、あ、そうそう、職業は異世界の魔王ですっ。………お給料はもらってないけど……あれ? お小遣いももらってない気がする……」
 ……魔王って、職業なのか…? 眉を寄せて思わず考え込む一同。
 ゴホンゴホン、とわざとらしく村田の咳が響いた。
「渋谷、魔王は給料制じゃないから。まあ、それは置いといて。……異世界では、僕も渋谷もそれぞれ違う立場がある。でもね、地球、そしてこの日本では、僕達はただの平凡な高校生に過ぎないんだよ。僕にしても、確かに僕には四千年分の記憶が全て残ってる。でも僕は、僕が抱える記憶に支配されるつもりは全くないんだ。僕は僕だ。村田健だ。なぜなら、僕が覚えている全ての人々は、皆、長かろうが短かろうが、それぞれにちゃんと人生を全うして、そして死んでいったからだよ。彼らの人生は、もう終わっているんだ。僕はね、凉宮さん。たとえそれが大賢者と呼ばれた男のものであろうとも」
 村田の瞳が、透の瞳を射抜くように輝きを増す。

「過去に死んだ人間の、人生の続きを生きるつもりはない……!」

 こくり、と、透の喉が鳴った。

「さあ、答えたまえ。君は誰だ? ここにいる君は誰だ? 君はアルノルドで死んだ男の亡霊か? その男は、肉体を持った亡霊に成り果てる程、未練を残して逝ったのか?」
「いいえっ」咄嗟に透は叫んでいた。「それは! それは違います! おれは……いっ、いいえっ!」
 叫ぶように言い募りながら、透は思わず自分の手を目の前に翳していた。
 肉の薄い手。ほっそりとした長い指。綺麗に切り揃えられた爪。
 ……大きな男の、大きな手だった。ごつくて、何もかもが太くて、節くれだって、傷だの剣胼胝だのに飾られた、それはもう………。
「………君のその手は、ただの1度でも剣を握った事があるのか?」
 静かな声に、透はゆっくりと首を左右に振った。なぜか視界が潤んで揺れる。
「……君は、誰だ……?」
 それはきっと最後の問いかけだ。

「僕は……」
 顔を上げる。偉大な賢者である前に、平凡な高校生だと言い切る少年と、真直ぐに視線が合う。

「僕は、凉宮透、です……!」

 透の背後で、安堵ともとれる複数のため息が同時に漏れた。それにそっと微笑んで、村田が頷く。
「という訳で。さ、立って下さいね。凉宮さんは僕の友達のお兄さんのお友だちで、だから凉宮さんが自分の友達の弟とその友達に跪く必要なんてないんです。でしょ?」
 えーと、とちょっと考えてから、小さく吹き出して、透は立ち上がった。そして、「はい」とはっきりと答えた。
「むらたー」胸元で手を組んで、有利が力の抜けた声を上げた。「お前って、時々無駄に男前だなー」
「無駄って何だよ、無駄ってー」
 言いながら、有利の頬っぺたをぎゅむーと左右に引っ張る村田。
「こらっ、ゆーちゃんの可愛い顔が崩れたらどうするっ!?」
 怒鳴りつけながら、二人を引き離そうとする勝利。
「伸びろーのーびーろー」
「あひゃっ、ほみゃっ、あひゃほへふひゃ……」

「……私ったら、高校生にときめいちゃいましたよ〜…」
「私もドキドキしちゃったわ。……ラストでコケたけど」
 逸美と繭里が額を寄せてひそひそと囁きあうのを背後で聞きながら、透はどう口を挟んでいいのか分からないまま、絡まりあって騒いでいる3人の傍らでおろおろとしていた。そこへ。
「あー」コホン、と軽い咳払い。「とにかく皆座ったらどうだい?」
 香坂教授のダンディな通りのいい声に、暴れていた3人の動きもぴたりと止まる。
「…おじいさん…」
 困ったような顔で口元をぽりぽりと掻きながら、香坂教授が透の隣に立っている。
「せっかく来てもらったんだし、あらためてお茶にしようじゃねえか。渋谷君も……その、渋谷君の………ええと……」
「あ、おれ、名前でいーです」有利が自分を指差す。「有利って。そっちで呼んで下さい!」
 自分を指差したまま、にこっと笑う有利をしばし見つめた香坂教授は、やがてうん、と大きく頷くとこれもにっこりと晴れやかに笑った。
「よし、分かった! さ、ま、座んな、渋谷君、有利君、それから、村田君も」
 有利と村田の「はーい!」というよい子のお返事と、透の「おじいさん!」という悲鳴のような声が重なる。ちょっと煩そうに顔を顰めてから、香坂教授は透に渋い顔を見せた。
「勘違いすんじゃねえよ、透。この二人はだからって、『無礼者!』なんて言ったりしねえよ。それに全国1位の秀才だろうが、ただの高校生にエラそうな顔をされる謂れはねえよ。だろ?」
「秀才なのは村田だけですけどねー」
 えへへと有利が笑う。


「………凉宮さんが混乱しても、仕方がないんです。僕だって、昔はかなりキツかったし、失敗だって何度も繰り替えしましたよ」
「……猊下も、ですか…?」
「もちろん」村田が饅頭を飲み下しながら頷く。

 ここまでくるのに、実はまだ一悶着があった。
 繭里が、出せるお茶請けが学生のお土産の温泉饅頭しか残ってないと言い出した時だ。
 透がやおら財布を握りしめ、研究室を飛び出そうとしたのだ。
「へっ、陛下と猊下にっ、温泉饅頭なんて……っっ!! 繭っ、付き合ってくれ! 日本一有名な店で、最高級のケーキか上生菓子を……っ!」
「凉宮さんっ、おれ、黒糖味の饅頭、好物ですからっ!」
 何とか押し止め、ソファに座らせたのはいいが、次にお茶の問題が起きた。
「繭、玉露だよ、玉露! 一番いいお茶をお出しして……」
「………ごめん、この前スーパーの特売で買った煎茶とほうじ茶と。えっと、ティーバックのジャスミン茶があるけど……」
 くくっ、と透が拳を握りしめる。
「あ、お菓子がお饅頭なら、僕、ほうじ茶でお願いしますー」
「おれも。マグカップとかで、たっぷり貰えたら嬉しいです!」
「そうそう。ほうじ茶はやっぱり熱々のやつが、なみなみとたっぷりなきゃあなあ」
「ですよねー。僕、お饅頭とか大福とか美味しい和菓子を食べながらお茶を啜ってると、しみじみ日本人に生まれてよかったなーって思いますよ」
「おお、若いのになかなかいいこと言うじゃねえか!」
 周囲から「香坂教授って、年の割に頭が柔らかいって言うか、適応力があるっていうか…」「っていうか、彼を『若い』って言うのは合ってるのか……?」などと囁きあう声が漏れ聞こえてくる。
 結局、ひきつり顔の透を他所に、テーブルの真ん中で土産物の箱が開かれ、全員にマグカップで溢れんばかりに注がれたほうじ茶が配られた。

「僕の場合は、覚悟の上だったんだけどね。それでも、その時に生きる人格と過去の記憶が、頭の中で支配権を争っている様な状態が長く続いたよ。記憶が増えていくと、ますます自分が誰なのか分からなくなったりして。でもその内開き直ったんだ。前世は前世。もう終わった人生だ。今生きてる自分こそが本物の自分なんだってね。でも、時々その重さに耐えかねて、この人こそと思う人物に打ち明けたこともあった。おかげでとんでもない目にもさんざんあったよ」
「とんでもない、目……?」
「確かお前、火炙りにされそうになった事があるって言ってたよな」
 勝利の言葉に、透達がげっと仰け反る。
「時代が悪かったなー」
 うんうんと頷く村田。
「だからね、凉宮さんが記憶の中の人物と今の自分をごっちゃにしてしまうのも、仕方がないんです。でも、そろそろ一線引かなきゃね。ここでくれぐれも間違えて欲しくないんだけど」
 視線を向けられて、「はいっ」と透が姿勢を正す。
「僕は、前世なんか忘れて今を生きろ、なんてことは言わない。できるはずがないからだ。それは誰より僕が分かっている。君の場合、偶然こんな状態になってしまった事を幸と思うか不幸ととるかは君の問題だ。しかし、どう思おうが、その記憶は君の人生に大きく影響してきたし、これからも影響するだろう。それはもう仕方のない事だ。忘れる事も、忘れる振りをする事もできないし、しようとしても無駄だ。だとしたら折り合いをつけていくしかない。そこで、転生の先輩としてただ1点だけ言っておく。……支配されるな。凉宮透を終わってしまった過去に奪われるな」
「……………」
 くっと唇を噛み、大賢者を見つめる透。
「自分が凉宮透という人間である、という大前提だけは崩すな。その上で、過去と向き合うなり、過去の記憶を活かすなりすればいい。………大丈夫、君ならできるよ。もしも君が自分の前世に夢中になった挙げ句、現在の自分も社会も全てを否定して引きこもってるとかいうなら僕も不味いと思うけどね。でも、傷ついたり苦しんだりしながらも、君はちゃんと今を生きてる。割り切ることさえできれば、もう何も問題はないよ。だからもちろん、カウンセリングなんて必要ない」
 微笑ながら視線を向けた先では、香坂教授が「いやはや」と苦笑しながら頭を掻き、今井田教授が反応に困るという顔で渋面を作っている。
「ま、とりあえず、前世の男は自分じゃない、ってことだけきちんと押えとけばいいよ。全てはそこから。………このお饅頭、結構美味しいですねー……って、渋谷! 君、一体幾つ食べたんだ!?」
 有利の前には饅頭の包み紙が積まれて、山をなしている。んぐんぐと口を動かしていた有利がマグカップを呷り、お茶と一緒に饅頭を飲み下してから、ケロッとした顔を友人に向けた。
「……だって、今日は村田に任せときゃ全部オッケーじゃん? 村田以上に説得力のある話ができるのいないんだし。だから本日のおれは単なるつきそい」
「……それとお饅頭を食べることと、どう繋がるんだい……?」
「猊下」
 呆れた顔で友人を見ていた村田は、透に呼び掛けられて再び彼に視線を戻した。
「…あの、ではその……僕は、隊長にお会いしたいとか、あの国が今どうなってるか知りたいとか、そう考えることはいけないのでしょうか…?」
「君も渋谷と同じことを聞くんだね」
 小さく苦笑を浮かべて、村田は首を左右に振った。
「言っただろう? 過去に取り込まれて現在生きてる自分を忘れるなって。それさえきちんとしてれば、僕は全然構わないと思うよ。まあ、言葉で言っても実感としてよく分からないと思うけど、それはちゃんと毎日の生活を大切にしていけば、その内感覚として分かってくることだから、今はあまり気にしなくていいんだけどね。気になるなら、僕を見ればいいよ。さっきも言ったけど、僕は過去の人物の人生の続きを生きてるつもりは全然ないんだ。でも、僕は渋谷と一緒に眞魔国へ行ったし、『猊下』と呼ばれることを納得してるし、『大賢者』の記憶を活かして渋谷の手助けをしている。ある意味、矛盾してると思わないかい?」
「……あ…そう、言われれば……」
 透が頷くのに少し遅れて、しばし考え込んでいた教授達や学生達も同じように頷いた。
「そうか…」駒井がなるほどと声を上げた。「過去の人物と完全に別人だと主張するなら、『大賢者』であることも否定するはずですよね?」
 その通り、と村田が頷く。
「渋谷にも言ったことだけどね。僕は『大賢者』だから魔王を支えてる訳じゃない。『大賢者』の記憶を利用して、村田健が親友である渋谷有利を手助けしてるんだ。……詭弁に聞こえるかもしれないけど、僕はそのつもり。僕の中ではこの違いはものすごく大きいんだよ。たぶん凉宮さんは、今はまだ実感として分からないかもしれないけれど、その内必ず理解してくれると思う。凉宮さんの中で、過去のピースが全て埋まり、今と繋げていくことで、その時間の流れがきれいに整えられていけばね。……だから、せっかく前世の関係者が生きてるんだから、会って、話して、この20数年の間の世界の変化を知っておくのは、ちっともおかしな事でも許されない事でもないと思うよ。記憶が残ってしまったんだから、ちゃんと知りたいと思うのは当たり前の事なんだから。自然な気持を押さえることはない」
「はい。ありがとうございます!」
 ようやくホッとした顔で透が笑った。
「コンラッドも会いたがってたしね」
「ほ、ほんとですか!?」
 有利の言葉に、透の顔がぱあっと輝いた。
「うん。それと……もう1人」
「……え?」
 有利と村田が顔を合わせ、楽しそうに笑みを浮かべた。
「…あ、あの……?」
「凉宮さん」
「は、はい」
「この約束、覚えてるかなあ」
 ちょっと悪戯小僧っぽい有利の顔に、透がどきまぎと頬を赤らめた。
「……やくそく…ですか……」
「うん。『あの緑の瞳の可愛い娘がいる居酒屋で、死んじまったあいつのオゴリで飲む約束。もし覚えてんなら、あいつの記憶を受け継いだのを災難と思って、きっちりすっきり実行しやがれ』 これ、そのもう1人からの伝言なんだけど……分かる?」
「………もしかしてそれ……」透がまたも泣き笑いの顔になった。「それ…もしかして……グリエ…ですか……?」
 グリエ・ヨザック? 確認する言葉が涙で濡れ始める。
 うん、と有利が頷くのを見て、透が瞳を潤ませながら、それでも明るい笑みをその顔に浮かべた。
「……透と、その前世の人と、小さい頃一緒に施設にいた人よね? えっと、隊長さんの副官をしてた人」
 繭里の言葉に、ああ! と駒井達が頷いた。
「…生きてたんですね、あいつ……」
「そりゃもう元気だよ」
 よかった、と笑みを深めて、それからふと表情を改めた。
「……あいつの記憶を受け継いだのを災難と思って……ですか……」
 うん、と村田が大きく頷いた。
「ちゃんとそこに気づいたね。よかったよ。……そのセリフ聞いた時に、さすがヨザックと思ったね。彼は大した男だ。ちゃんと事の本質を理解している。……分かるね?」
「はい。分かる…と思います。僕は……『彼』の記憶を受け継いだ凉宮透なんですよね……」
 有利と村田が、じっと透を見つめている。

「僕は『彼』の亡霊じゃない。僕は『彼』を生きてるんじゃない。『彼』もそんなことは望んでいない」
 無念の思いはあった。やり残したことは山のようにあった。会いたい人もいた。それでも。『彼』は、自分の人生も、世界も、恨みもせず、呪いもせず、穏やかな満足感すら抱いて逝ったのだ。
「陛下、猊下。……僕は、『彼』のことが、そして『彼』の人生と、『彼』を取り巻いていた世界の全てが大好きなんです。辛い最後だったけれど、でも、それすらとても愛しいと今では思えるんです。だから……『彼』から預けられた記憶を大切にして、僕は今のこの人生を、凉宮透の人生を……生きていきます」

 魔王と大賢者が、にっこりと笑って頷いた。

「そうだ」
 温泉饅頭の最後の1個に、有利が遠慮皆無の手を伸ばした時、勝利がふと思いついたように声を上げた。
「もう凉宮の、その、前世の人物の事がコンラッドにも分かってるなら、そいつの妹の消息とかも分かるんじゃないのか?」
 饅頭に掛かっていた有利の手が、ぴたりと止まった。
「あ、そ、そうだ! そうだよね! あの、陛下、猊下、その……僕には妹が1人いたんですが、今どうしているか調べて頂くことはできるでしょうか……?」
 饅頭を掴むことなく、有利の手がそろそろと引っ込められる。
「あの! 申し訳ありません、勝手なことを! ただ本当に、何よりあの子の事が気に掛かっていて……」
「独りぼっちだし、ひどく病弱な少女だったんだよな?」
「………………………………………病弱……?」
 有利の口から、ふと力のない呟きが漏れる。
「そうなんです。……僕が、いえ、『彼』が戦死したと聞いて、どれほど悲しんだかと思うと……。とても繊細な子でしたし」
「………………………………………繊細……?」
「はい! 頼るものは僕、じゃない『彼』だけで、世話をしてくれる夫婦はいましたが、きっと心細く、寂しい思いをして生きているんじゃないかって…。本当に気の弱い子で、人見知りもするところがありましたし……」
「………………………………………気が弱い……?」
「………………………………………人見知り……?」
 有利と村田の顔に、どこか複雑な表情が浮かんだ。
「でも、少しでも元気になって、良い人と結婚して母となって、幸せな家庭を築いてくれていたら嬉しいんですが。優しい子だから、きっといいお母さんになれる………あの……?」
 もはやコメントを返す気力もないような、かつ、塩っぱいものでも口にしたような顔を見合わせると、魔王陛下と大賢者猊下はそれぞれ明後日の方向に視線を向けた。
「おい、お前ら何かあるのか?」
「べつにっべつにっべーつーにーっ。な? な? 村田?」
「そうっ、そうだよ、別に何もないよ! ……えーと、妹さんの事は、ウェラー卿に伝えておくよ」
「ありがとうございます! お願いします!」
 やたら挙動不振な両名の様子に、勝利のうさん臭さそうな表情は変わらなかったが、それでもそれ以上の追求はしなかった。なぜか気の毒そうに透を見る有利と村田の顔を見ていたら、答えを聞くのが急に怖くなってしまったからだ。
「すみませーん、お茶のお代りいいですかー?」
 村田が笑って、マグカップを持ち上げた。


「野球が国技〜〜〜っ!?」
 繭里の数オクターブ高くひっくり返った声が響く。ぶっ飛んだ顔の透他一同。
「そう!」
 えっへんと胸を張る有利。
「もう国のあちこちにちゃんと球場もあるんだ! 一番最初のは、コンラッドが俺のために作ってくれたんだよ! 王様って何ていいモンなんだろうって、さすがにあの時はしみじみしちゃったな〜。だっておれ、いきなり王立チームのオーナーだよ、オーナー!」
「有利! お前は税金ってものを何だと……!」
「ちなみに第二国技はサッカーでーす! 王都で作ったチームのオーナーは大賢者! 近頃かなりサッカー人口も増えてきてねー、そろそろ第一国技に成り代わろうかって勢いなんだな、これが!」
「お、お前たち……」わなわなと震える未来の都知事。「あっちで一体何やってンだ……っ!?」
「こっちのペナントレースをモデルにして、まあ期間は短いんだけどさ、眞魔国リーグも開催されてます!」
「うわ、本格的」
 勝山が嬉しそうに言う。どうやら野球ファンらしい。
「そうなんだ! 今じゃ、人間の国も参加してきてさ。カヴァルゲートとかフランシアとかカロリアとか!」
「人間の国!? へっ、陛下! まさか、あの、人間の国にまで野球が!?」
「そっ。ウチと友好条約結んでくれた国に野球を紹介したらさ、結構気に入ってくれたみたいで。ルールブックとかユニフォームとか野球道具一式贈呈したら、ちゃんとチーム作ってくれたんだー。最初は町内の草野球より遥かにレベル低かったけど、今じゃかなりのモンだよっ」
 嬉しそうにそう報告してから、ふと有利が表情を変えた。
「……凉宮さんは分かると思うけど………あっちの世界には、スポーツって考え方がないんだよね」
「スポーツが…ない…?」
 香坂教授が怪訝な声を上げた。そしてそのまま視線を透に向ける。その視線を受けた透は、しばし考え込むような仕種を見せてから、「そう言われれば…」と眉を開いた。
「あっちで身体を動かすって言ったら」有利がどこか静かに説明を始めた。「……働くことか、でなかったら軍の訓練だけなんだよ。走ることも、投げることも、飛ぶことも、全部闘うためのもの。ただ楽しむために身体を動かすっていうのがないんだよね。これは眞魔国だけじゃなくて、あの世界のどの国もみんなそうなんだ。…おれも、しばらくそれに気づかなかったんだけど。だからおれ、おれが知ってることで、野球で、皆にただ身体を思いきり動かすことを楽しんでもらいたかったんだ。そしてできれば、魔族も人間もなく、皆一緒にバットを振って、走って、それから野球ができない人は応援して、楽しんでくれたらいいなーって。そしたら、少しでもそんな楽しみをあの世界に広げることができたら、戦争とかもなくなっていくんじゃないかなって……。甘い考えだってのは分かってるんだけどさ」
 てへ、と有利が笑う。照れくさそうな魔王陛下の姿に、透が思わず身を乗り出した。
「甘くなんかないです、陛下! ………ご立派なお考えだと思います!」
 心からの誠意を込めて、透は有利の目を見つめた。今だから、地球人で日本人である凉宮透だからこそ、有利のその思いが理解できる。その事実を己の中で認識できた瞬間、例えようもない歓びが透の胸を満たした。
「陛下の仰せの通りです。俺達は、あの世界で常に戦う準備だけをしてきました。生き延びるために、勝つために、ただそれだけのために身体を鍛えて…。それを疑問に思ったこともない。身体を鍛えることを楽しむなんて、そんな考え方がそもそもなかったから……。ああ、でも、純粋なスポーツがあの世界に広がっていったら……。国の名誉が戦争に勝利することじゃなく、スポーツで得ることができたら……。それは、素晴しいことだ思います!」
 本当に。あの世界で、剣を持たない「英雄」を生み出すことができれば。例えば……。
「オリンピックみたいなものができれば一番いいんだろうなあ」
 と、声に出したのは、意外なことに今井田教授だった。その場にいた全員が、思わず老齢の心理学者に注目する。思いを馳せるように宙を見つめていた教授が、自分に集まる視線に気づいて、慌てたように目を逸らした。その頬が心なし赤い。
「……やっぱりそう思います!?」
 弾んだ声でそう確認したのは有利だった。
「おれもそう思うんです! 野球とかサッカーだと、結局できる人しか参加できないでしょ? だから、そういうことに関係なく、誰でもできるスポーツで国際大会ができないかなーって! でもどういう形にしたらいいのかよく分からなくて……」
「国際大会だからって、大げさに考えなくてもいいんじゃねえかなあ」
 次の言葉は香坂教授だった。
「スポーツって概念がない世界で、いきなりオリンピック級の内容を考えても誰もついてこれねえだろ? むしろ、そうだな、老若男女を問わずに参加できるものを考えちゃどうかな。なあ、イマさん、あんたもそう思わねえか?」
 香坂教授に話を振られて、今井田教授がコホン、と小さく咳払いした。
「……ああまあ、そうだね。……むしろ、国際大運動会という感じで気軽なものから始めてはどうかな」
「国際……」
「大運動会……?」
 そうだ、と今井田教授が頷く。
「スポーツと大上段に構えて考えるより、その概念がないなら、まずは『遊び』として始めるのが最もとっつきがいいと思うね。マラソンや短距離走、それから綱引きとかは特に説明もいらないだろう。後は借り物競争とか、パン食い競争とか、障害物競争、それから薬玉割りというのもあるな」
「なるほどー」村田が楽しそうに笑った。「確かにそれなら子供から大人まで、誰でも参加できますよね。国を代表する小学生とかがいてもいいわけだ」
「それで運動会の最後は、キャンプファイヤーとフォークダンスで締めくくるわけよね」
 繭里がピッと指を立てて言う。くすっと笑って勝利が頷く。
「もちろん、最後のダンスはオクラホマミキサーと秩父音頭だな」
「あ、それならおれ、ちゃんと踊れるぞ!」
 手を上げて宣言する魔王陛下に、研究室にいた全員が爆笑した。

「………お手伝いできればと思います……」
 がんばって企画するぞー、と宣言する有利に、透がしみじみと呟いた。
 かつての、前世の自分なら、もし『彼』が今も生きていたら、魔王のこの思いを理解するのは難しかっただろう。速く走ること、高く飛ぶこと、ただそれだけを目的に自らを鍛えるという意識は、あの時あの世界に生きていた誰にもなかった。しかし、自分になら、凉宮透になら理解できる。
「僕は、あの世界も知っているし、そして、こうして日本人として生まれて生きてきて、スポーツという概念はもちろん、陛下のお気持も理解できます。……陛下が実現なさりたいとお考えのそれらについても、僕は本当ならお手伝いできるはずだと…思います。でも……」
 もう自分は『彼』ではなく、この奇跡的な出会いによってあちらの情報は知らされても、直接関わっていくことはもうできないだろう。
 透はその事実がたまらなく切なかった。だが。

「あ、ホント!? 手伝ってくれる? 助かるよ〜。今んトコ、そういったことを理解できるの、おれ達の他にはコンラッドしかいないもんな〜」

 けろっと笑う魔王陛下に、透はぱちくりと目を瞬いた。

「…………………あ、あのぉ………」
「ん? 何?」
「あの、僕……お手伝いしても、よろしいんですか…? だって、あの、僕はもう、眞魔国とは何の関係も……」
「さっきもちらっと言ったんだけど」村田が笑みを浮かべながら言った。「君が過去に対してけじめをつける覚悟ができたなら、後の生き方は君が決めればいいんだよ。さっくり前世を過去と割り切って、もう関係ありませんって生きてくのもいいし、眞魔国での記憶や知識を活かして、僕と同じように何の因果か魔王になっちゃった高校生渋谷有利君16歳を手助けするんでもいいし。……どう決めようとそれは君の生き方の問題だよ。そして、君が渋谷や眞魔国に関わって生きていきたいと思うなら、僕達はその方法を示すことができる」
「……ほんとうに……できるんですか……?」
「現に僕がまさしくそれじゃないか。だろ?」
「しかし! あなたは大賢者猊下で、僕はただの一兵卒……!」
「僕は日本一テストの成績がいい高校生で、君は在学中に司法試験合格間違いなしの優秀な大学生。ねえ、香坂教授、今井田教授、僕達の間に何か差があると思います?」
「…そうさなー、透だって全国模試の成績優秀者ランキングに必ず名前が載っとったしなあ」
「しかし、さすがに一番になったことはなかったねえ、残念ながら。……ま、差があるとしたらそんな程度かな?」
「後は……顔かしら。透だって結構いい感じなんだけど、さすがに村田君と有利君には比べられないわ!」
「………そういうことは聞いてないんだよ、繭……」
 あははと少年のように繭里が笑い、つられるように透が、そして居合わせた皆の間に軽やかな笑いが広がった。


「おれさ、あの世界から戦争なくしたいんだ。魔族も人間も、種族が違っても対等に、仲良く生きていけるような世界を目指してがんばりたい。……手伝ってくれる? 凉宮さん」
「はい! 僕でできることでしたら喜んで。陛下、猊下」
 透の視線がまっすぐ二人に向けられた。

「これから、よろしくお願い致します!」

 迷いのない透の言葉に、有利と村田も、満面の笑を浮かべて頷いた。




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これで「おしまい」にしてもいいような気が……おや?
もうちょっと遊びの部分を入れるつもりで書いてみたりしたのですが、あまりに冗長な気がしてばっさりカットしました。でも…終わらない。
次でホントのラスト、そしてエピローグといきたいと思います。
しかしまさかここまで長くなるとは…。
それにまさかオリバー様が控えにされるとはなあ…。

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