青 空・9



「きゃー、やだやだ、この浴衣、浮世絵柄じゃないのーっ。やだもう似合っちゃってるしーっ」
「繭里さん、ほらこっちの、浴衣姿で綿菓子食べながら輪投げなんかしちゃってますよ!」
「あーんもう、この角度もステキっ! 何て言うの? どんなカッコしててもサマになるっていうか、この笑顔があれば他はどうでもいいというか! ああもう、写真じゃなくてナマもの、じゃない、ナマで本物にお会いしたいわっ!」
「こんな素敵な人、巷にそうそう転がってませんモンね! 見た目が同年代なんですから、この際中味が100歳だろうがどうでもいいですよねっ」
「よねっ!」
 繭里と逸美が寄り添って、有利達が「厳選」した写真を片っ端から眺めては歓声を上げている。
 写真のほとんどは、つい先日の渋谷家&ムラケンによるコンラッド歓迎お台場浅草1泊旅行のスナップだった。ちなみに浮世絵柄の浴衣とは、お台場某江戸的温泉プチテーマパーク内の「越後屋」にて、有利が名付け親のために選んだものだ。この浴衣を着て、入浴後は駄菓子を食べたり、輪投げだの吹き矢だの射的だのして楽しんだのだ。
「ほお、お台場から水上バスで浅草かあ。……桜はどうだったい?」
 香坂教授が有利達に笑顔を向ける。女子大生二人の興奮した様子にぐったり疲れた男達は、早々に有利達の近くに集まっていた。
 すべき話をし終えた今、研究室は魔王陛下と大賢者猊下を囲んでの気楽な雑談の場となっている。
「ちょっとだけ早くてダメだったんです。蕾は膨らんでたんですけど……。でもコンラッドは喜んでくれました」
「そうかい。それで浅草寺へ行ったんだな?」
「そーです。やっぱり日本的なトコへ案内したくて。あちらとは全く雰囲気が違いますから」
「王都にしても、あちらはヨーロッパの古い田舎の街って感じですものね」
「そうそう。おれ、初めてあっちに行った時、国境の村に着いちゃったんだけど、思わずアルプスの少女ハイジ? とか思っちゃったよ」
 分かります、と透が笑う。
「……何か、境内で女子中学生らしき団体に囲まれちゃってるねえ」
 勝山が1枚の写真を取り上げて笑う。
「あ、それ、おれがトイレいってる間に起きてたらしいんだけど……写したの、村田だよな?」
「ん? ……ああ、これ? うん、そうだよ。春休みに修学旅行でもないと思うけど、制服姿のグループがいたんだよね。で、渋谷を待って佇んでるウェラー卿に1人が勇気だして『スミマセン! 一緒に写真撮って下さい!』って申し出てきたんだ。頬っぺた真っ赤にしてさあ。彼ってああいう男だろ? 盗み撮りするんじゃなくて、けなげに申し出てきた子を相手に邪険にする人じゃないからさ。『いいですよ』ってさらっと。そしたら結果としてまあ、こうなっちゃったワケなんだよね」
「……この写真は、こっちの続き……みたいに見えるんだけど?」
 駒井が拾い上げた1枚には、その女子中学生の団体の間に割り込むような形で乱入している私服の少女達が映っている。雰囲気的には高校生ぽい。
「おう、モテるじゃねえか、さすが隊長さん」
「……でも、おれがトイレから戻ってきたら、コンラッド1人だったんだよ? 村田、見てたか?」
「そうだねー。この女子高生達がどこからともなく現れて、中学生を蹴散らしてたように見えたような見えなかったような……」
「これ、何かおかしいんだよな……」
 写真をしげしげと見つめて、有利が首を傾げる。
「この、高校生らしい女子……。何か見た顔っていうか、この……」中の1人を指差して。「どうもおれのクラスの委員長にそっくりなんだよなー。……って言っても、村田には分からないよな」
「うん。全然分かんないなー」
 苦笑する有利に、村田・某組織名誉顧問・健もにっこりと無邪気な笑みを返した。
 研究室に和気あいあいとした空気が流れる。

「……隊長は、陛下が本当に大切なんですね……」
 写真はほとんどが、コンラッドが有利の側に寄り添う姿で写っている。そしてその瞳が常に有利に向けられているのを確かめて、透は微笑んだ。
「こっちで何が起こるってわけじゃないんだけどね。コンラッドって、結構心配性だし。城の皆からは、過保護だってさんざん言われてるらしいけど」
「……心配性で…過保護………? 隊長が……?」
 それはまた、以前のかの人にはあまりにも似つかわしくない言葉だ。
 透の知るウェラー卿コンラートは、ほとんど表情を見せないながら、周囲に対しては穏やかな人当たりのいい態度を崩さず、その実、身に纏っていたのは常に氷の鎧だった。その中に荒れ狂う激情や怒りを押し込めて、決して外に洩らすこともなく、誰かを寄せつけることもなかった。まして「過保護」と揶揄される程あからさまに、誰かを己の懐の中で護ろうとするなど……。
 彼が感情を見せたり、気を緩めることがあったとしたら、それは彼に命を預け、共に戦う混血の同胞達と過す時だけだったはずだと思う。
 ………いや、もう1人………。
「おれはコンラッドがこっちに来てくれるの、すっごく嬉しいんだけどね。前は……こっちにいる間、これを見てコンラッドや皆の事を思い出すより他になかったんだけど……」
 そう言いながら、有利が服の襟の奥から何かを引き出す。
 その仕種に、何気なく視線を向けていた透が、ハッと目を瞠いた。
「……っ! それは……っ!」

 有利の胸元から引き出された─ペンダント。
 紐の先に輝く、青い石。

「それは………隊長の……っ!?」

「あれ? 凉宮さん、これ知ってた?」
 石を手に、有利が首を傾げて透を見上げる。
「………アルノルドに向かう道中………隊長が大切そうに手に持って、見つめているのを何度か……」

『……隊長、それどうしたんです? 隊長がそんなモン首に掛けてるなんて、珍しいじゃないですか』
『…ああ、いや……ジュリアがお守りにといって出発前にくれたんだ』
『フォンウィンコット卿スザナ・ジュリア様が!? ……へーえ、そいつはまた……』
『……何だ、その笑いは。誤解するなよ、ジュリアは友人だ』
『へいへい、そういうコトにしときましょ! ところで、きれいな石ですねえ』
『………ったく。………これはジュリアのもの、というより、あの家のものだな。石の中にウィンコットの紋章が埋め込まれている』
『そいつはまた大層なお宝じゃないですか。……よかったですねえ、隊長?』
『だから妙な笑い方をするなというのに。ジュリアは友人だ! 何度も言わせるなよ』

 フォンウィンコット家は、十貴族でも最も古い家系を誇る由緒ある一族だ。だが、当主始め跡継ぎの若君も、そして姫君であるスザナ・ジュリアも、不思議なほど混血に偏見がなく、他の貴族と違ってウェラー卿を見下したりはしなかった。それでころか、「剣聖」とすら讃えられる腕を持ち、軍でも抜きん出た信望を集めるコンラッドの実力を公正に評価し、上級貴族達と同等に接してくれた貴重な存在だったのだ。そして眞魔国三大魔女の1人に数えられる女性でもあったスザナ・ジュリアは、コンラッドの部隊が王都に戻ってくると、供も連れずに平然と彼らの元にやってきては、にこやかに、そして限り無い優しさをその光のない瞳に乗せて、彼ら混血の戦士達の労をねぎらっていた。

 ……スザナ・ジュリアと二人で話している時の隊長の……あの笑顔を見るのが好きだった……。

 鎧も、仮面もない。なんの構えもない、自然な笑顔。二人を取り巻く柔らかな空気。優しい風。

『なあ、知ってるか?』笑いながらそう話しかけてきたのはグリエだ。『ウィンコットのご当主殿は、愛娘をグランツにやるのを躊躇ってるらしいぜ?』
『本当か、それ!?』
『ああ。魔王陛下にその旨御相談になってるんだとさ。つまり……』
 意味ありげににやりと笑って、わざと言葉を切る。
『つまり……そういうことか?』
『そういうことだ。魔王陛下も、次男坊がウィンコットの婿養子になれば、もう侮られることもなくなって一安心だしな。グランツさえ大人しく身を引いてくれりゃ、あっちもこっちも万々歳ってことだ』
『そいつぁいい!』
 思わず快哉を叫んだあの時………。

「……そう、だ……。あっ、あの、陛下! フォンウィンコット卿スザナ・ジュリア様は今……?」
 透のその言葉に、有利の顔が強ばった。村田がそれを見て眉を顰める。
「お、また初めての名前が出やがったな」
「誰? それ。ね、透」
 外野の気楽な声を他所に、有利の顔の強ばりは解けない。
「…あ、あの……陛下……?」
「ゆーちゃん、どうした?」
 勝利の声も、どこか心配げに響く。
「フォンウィンコット卿スザナ・ジュリアは」
「村田!」
「戦死した」
「…………え?」
 ぽかんとする透を見据えて、村田はさらに言葉を綴った。
「彼女は、眞魔国三大魔女に数えられる強力な魔力の持ち主だったからね。例え盲目といえども、重要な戦力として戦地に狩り出されたんだよ。君たち、いや、ルッテンベルク師団がアルノルドへ向かったすぐ後のことだ。そして、ウェラー卿達が、命からがら帰国した時には、すでに彼女はこの世の人ではなかった」
「………そんな………」
 大きく目を瞠き、唇を震わせると、項垂れるように視線を落とす。
「………隊長……!」
 スザナ・ジュリアの死に衝撃を受け、同時にコンラッドの心情を思いやっているのだろう、その声に込められた悲痛な思いを感じ取って、有利は我知らず唇を噛んでいた。
「……俺達にも、当たり前に笑顔を向けて下さる……素晴しい女性だったんです……。あんな、大貴族の姫君だったのに……。本当に当たり前に、何のためらいもなく俺達の、泥だらけの手をとって…傷を癒してくれた……」
 透の述懐に、有利の強ばりがふっと解けた。どこか申し訳なさそうに俯いて、手の中の石に視線を移す。
「………これ、コンラッドがジュリアさんからもらったペンダントなんだよな」
「そのように聞いてます」透が顔を上げて答える。「……ご存知だったんですね……?」
 うん、と頷く有利。
「それを、今度はコンラッドがおれに、お守りにって掛けてくれたんだ」
「そうでしたか………あの、陛下」
 おずおずとした透の声に呼ばれて、有利も顔を上げる。
「あの……それを、その……手に取らせて頂いてもよろしいでしょうか……?」
 ご無礼とは存じますが。そう言って、どこか切なげに瞳を揺らす透に、有利はわずかな躊躇いもみせず、ペンダントを首から外した。
 テーブル越しに差し出されたペンダントをそっと丁重に受け取って、青い石を両手の平の中に納める。

 見覚えのある石。見覚えのある紋章。その形。大切に大切に、手の中に握りしめていたあの人。

 掌の上で、確かに感じる固い感触。伝わるこの温もりは、少年の体温だろうか。

「………物心ついた頃からずっと、この記憶を抱えて生きてきました……」
 透の、今までにない程静かな、静か過ぎる声にその場に居合わせた人々の視線が集まった。
「目の前の世界と、記憶の世界があまりにも違っていて。幼い頃は、記憶の中の殺伐とした映像がただ恐ろしくて、苦しくて……。どんなに周りに訴えても、誰1人として信じてくれなくて、それが辛くて。なのに成長してからは、怖いだけだったあの世界が、いえ、あの世界で共に生きた人々が懐かしくて、会いたくて、でも、誰からも彼らの存在を否定されて。………ずっと抱えていくんだと思ってました。まったく繋がりのない、隔絶した二つの世界の記憶を抱えて。でも……違っていた」
 手の中の青い石にひたすらに注がれていた透の視線がふと上がり、今度は真直ぐに有利に向けられた。
「陛下。……僕はとんでもなく低い確率の、奇跡的な幸運に恵まれて渋谷君と出会い、そして陛下と猊下にこうしてお目にかかることができました。そして、あの世界の事、隊長や仲間達の事を教えて頂き、写真を見せて頂きました。でも……」
 透がふと笑みを浮かべて、再びペンダントに視線を移す。
「あの世界で目にし、そして触れた様々な物の中で、こうして再び手にすることができたのは、この石が初めてです。これは間違いなく、あの時隊長が首に掛けていたペンダント。そして、あの世界での僕、いいえ『彼』がその目で見て、そして手で触れたもの、その実物です。あの世界の、僕の記憶の確かな物証、『彼』があの世界で確かに生きて、生き抜いて、そしてその生を終えた証、です……」
 うん、と頷く有利達の前で、透が手の中に包み込むように持つ石をそっと額に押し当てた。

「……『彼』の最期の時……その瞳が映していたのは……」

 青空。

 その瞬間から、透の記憶する世界の時間は凍りついた。

「………記憶だけじゃない、僕の世界そのものが、あの瞬間に終わってしまっていたんです」

 でも違っていた。

「僕が、いえ、『彼』が亡くなり、でもその後も戦いは続き、たくさんの大切な命が…失われた。そして魔族はからくも勝利し、生き残った人々は懸命に壊れかけた人生と国を立て直そうとした。そんな中、隊長は眞王陛下のご命令を受け、魔王陛下の魂をこちらの世界に運び、数年の月日をこの世界で過した。その間、渋谷君が生まれ、魂がこちらに転がりこんでいた僕も新たな生を受け……。そうして陛下と猊下が生まれ、同じ空の下で、どんな縁で結ばれているのかも全く知らないまま、僕達は 平凡な日本人として育ち、生きてきた。やがて陛下は眞魔国の魔王陛下として即位なされ、猊下もまた大賢者としてあの国にご帰還になられ、ここで二つの世界ははっきりと繋がった。陛下と猊下の人生と、隊長やグリエや、隔絶していたはずのあちらの世界の人々の人生がそこで交わったんだ。そして僕は世界の秘密を知らないまま、ちょっと変わった大学生となり、全くの偶然で渋谷君に出会った……」
「あの時、お前の蹴った携帯が俺の後頭部を直撃しなけりゃなかった出会いだな」
 勝利の言葉に、透が笑って頷いた。その笑みは、どこか切なそうに皆の目に映った。
「世界って……すごいよね」
 透の瞳が、どこか遠くを懐かしそうに見つめている。
「たくさんの人生を乗せて、動き続け、変化し続けているんだ……。そう考えると、何だか時間が流れる音が、怒濤の勢いでうねるすごい音が、聞こえてくるような気がするよ。そのうねりの中で、たくさんの人生が生まれ、そして消えていく……」
 『彼』もその中の1人。胸の中で、何かが納まるべき所に、コトリと音を立てて納まるような感触を透は覚えていた。
「『彼』もまた、かつて必死に生きて、そして、死んでいった、たくさんの生とたくさんの死の中のひとつ……。時間は流れ続け、世界は動き続け、全ては一瞬の停滞もなく変化し続け、たくさんの命が生まれ、たくさんの人生が懸命にその生を生き、出会い、交わり、別れを繰り返し、そしてその全ての変化の果てで今……」
 透は、ゆっくりとそこに居合わせた全ての人々にその視線を巡らせた。

「僕達は、ここに集っているんだ」

 そしてペンダントの紐を手にして、目の前に青い石をぶら下げた。
 ゆっくりと揺れるペンダント。

「…………やっと……世界が、そして全部の時間が僕の中で繋がったような気がします……」

 透の言葉が、青い石に向かって流れるように呟かれる。

「……『彼』はもう……目を瞑ってもいいんですね……」

「そうだよ」

 村田に即答されて、透は苦笑に似た笑みを浮かべて賢者を見た。村田もまた微笑んでいる。

「もう『彼』ではない君がここにいるんだからね。……『彼』のことは、共に生きてきたあの世界の仲間達と、そして君が覚えている。だからもう、君の手で『彼』の目を閉じてやるといいよ」


 茫漠とした青空。
 その虚ろな瞳に『青』だけを映して荒れ地に横たわる男。
 その「時」のまま止まった世界で、動くのは流れる白い雲だけか。

 もう終わった。
 もうその瞳を閉じて、眠ればいい。
 あの時見た、真っ青な空で骸を包み、凍ってしまった世界ごと荒れ地の砂にその身を還そう。

 あなたの人生をやり直してやることはできないけれど。
 ずっと覚えているから。
 あなたの記憶を胸に大切に抱き締めて、僕は僕の人生を歩んでいくから。
 だから。もう。

 お休み。お疲れさま。
 そして、さよなら。永遠に。

 さようなら。



 ハインツホッファー・カール。




                                  おしまい。(2006.04.25)  




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えっ、凉宮さんって、クラリスのお兄さんだったのーっ!? ……と、ラストのラストで吃驚してもらう、というのが、当初のもくろみ(…せこい)だったのですが。
2話で、すでに見破られておりましたし。
どんどんバレバレになっていって、最後数話はもうほとんど開き直りの境地でした。ふう……。

しっかし、長くなっちゃいましたねっ。
ラスト、急いだ訳ではないのですが、どうも文章力の限界でうまく透君の思いを言葉にすることが出来ませんでした。
精進の必要性を感じております。

皆様のご感想をお待ち申しております。
そして、次回もよろしくお願い申し上げます。

ということで、以下、エピローグとなります。









《エピローグ》

 若葉の頃はとうに過ぎ、すでに梅雨も終りに差し掛かり、空もほとんど夏の色に変わろうかという頃。
 都内某大学、香坂教授の研究室に数人の学生達が集まっていた。
 香坂教授、今井田教授、透、繭里、逸美、駒井、勝山の7名である。実はこれから、後3名ほど加えて、食事に繰り出そうとしているのだった。
 香坂教授馴染みの小料理屋の一部屋はすでに予約済みだ。本日予定メンバーの内2名はまだ未成年だが、昨今のその手の店はファミリーもしっかり照準に入っているので何ら問題はないだろう。

「……そろそろ出たいんだがな。ちょいと遅いな、渋谷兄弟と村田君は」
 時計を見ながら、香坂教授が呟いた。
 まだ飲み会に走るには少々早い。その証拠に、梅雨の晴れ間の空はまだ青く、陽の光は少しばかり傾いたものの、まだ燦々と地上に降り注いでいる。
「………老人はせっかちだから……」
 繭里が小さく呟いて、祖父にじろりと睨まれた。
 その時。
 かすかな携帯の呼び出し音が鳴った。
 あ、と小さな声を上げて、透がぱたぱたと上着やズボンのポケットを探り、それから次にバックを探った。ようやく見つけたらしい小さな通信装置をバックの外に引き出すと、音が更に高く研究室に響いた。
 携帯を開き、耳に当て、応答する。
 一連の、しごく自然な仕種を見るとはなしに見ながら、そこに居合わせたメンバーはお茶を啜っていた。
「……そう? そうだね、じゃあこれから出るよ。うん、それじゃ外で」
 パタンと携帯を閉じた透が、軽く室内を見回した。
「渋谷君達、今着いたそうです。こっちに向かってるけど、もう時間なら外に出てきてくれないかって。いいですよね?」
「おう、時間的にはぴったりだ」香坂教授が言いながら腰を上げる。「じゃあ出発するとしようか」

 研究室棟の階段を降り、建物の外へ出る。
 途端、ほんの少し力を失った太陽の光が、透の視界いっぱいに広がった。
 わずかに斜めに傾いた陽射しは、見渡す風景に柔らかなグラデーションを伴った、複雑で繊細な形の影を作っている。それがなぜかとてつもなく美しく感じてしまい……。
「凉宮」
 一瞬の放心状態にあった透は、呼び掛ける声に顔を上げた。すぐ傍らに渋谷勝利が立っている。
「やあ、渋谷君。ごめん、またおじいさんが無理を言って……」
 そこまで言って、ふと透は、勝利の背後にいる人に視線を向けた。
 そこにいるのは、魔王陛下である渋谷有利と、大賢者の村田健と………そしてなぜかもう、ひとり。
 言葉を発することも、瞬きすることも忘れて、透はぽかんとその場に立ち尽くした。

「……だから、今から行きゃあぴったりだってんだよ!」
「まだこんなに陽が高いのに? 早すぎるわよ」
「釣瓶落としにすぐ真っ暗になるさ」
「教授、それ秋の話でしょ? まだ梅雨も明けてませんよ」
「若ぇくせに、細かい突っ込みをするんじゃねえよ。ゆっくり飲めて嬉しいとか言えねえのかい? ……おお、渋谷君、久し振りだな! 元気だったかい? 弟さん達も……おい? 透、何ぼけっと突っ立ってやがるんだ? 何見て…………っ!」
「香坂教授、済みませんが」勝利が、孫と同じように口を開けて固まる教授に話しかけた。「今日の飲み会、1人増やしても構いませんか?」
 本当に分かっているのか、正面を凝視したまま香坂教授がぶんぶんと頭を大きく縦に振った。
 多くの学生達が行き交う何の変哲もないキャンパス。その中で彼らだけが一様に驚愕の表情を顔に乗せ、石のように硬直して立っている。


 真っ青な空。ほんの少しだけ西に傾いた太陽。
 斜に降り注ぐ、帯のような陽の光。
 それを全身に浴びて、その人はそこにいた。


 日本人とは違う、だが欧米人ともどこか違う顔立ち。
 すっきりとした、彫の深い、だが深すぎない、清々しい程に整った容貌。見上げる程の長身。カジュアルなサマースーツに包んだその身体は、着痩せするのだろう、逞しさを全く強調しないスマートなラインが憎たらしい程恰好良い。
 同じ男ですら、見愡れる程の好青年。

「………髪、短くしたんですね……」
 まさかそれが第一声だとは、自分でも想像してなかった。心の隅でそう思いつつ、透はそっと足を一歩、前に踏み出した。
 ブラウンの髪。あの頃は結構長かった、というより、ほとんど無頓着に放ったらかされていた。写真で見た通り、今は短く、きちんと整えられている。
「…でも、瞳は変わらないですよね……」
 かつて街の女達がたまらないと声を上げ、その目で自分を見つめて欲しいと身を揉んでいたあの瞳。ブラウンの瞳の中に鏤められた、銀色の星。
 透がまた一歩、前に進み出た。彼もまた、ゆっくりと近づいてくる。

 一歩近づく毎に視界がぼやけてくる。それを懸命に振り払うようにしながら、透はやがて彼の真正面に立った。
 彼はまだ何も言わない。彼らを見つめる誰も言葉を発しない。
 透は、すぐに湿っぽくなる目もとをぐいと拳で拭うと、子供のように大きく深呼吸した。
 そうして、目をしっかりと開いて、自分より心持ち高いところにあるその懐かしい顔をゆっくりと見上げた。
 ………昔は、『彼』は、隊長を見下ろしていたのだけれど。
 それがふいに可笑しくなって、透は思わず吹き出してしまった。
 彼も見上げられて同じことを思ったのかもしれない。透とほぼ同時にくすりと笑った。

 笑みを。交わす。

 透はもう一度大きく息を吸った。

「初めまして。凉宮透と申します」

 笑顔のままでそう言えば、彼はほんの少しだけ目を瞠いて、それから浮かべていた笑みをさらに深くすると、こくりと小さく頷いた。

「初めまして。コンラート・ウェラーです」

 懐かしい懐かしい懐かしい声。胸の奥から、熱いうねりがこみ上げてくる。

 握りあう手と手。

 乾いた手。
 その顔立ちに似合わない節くれだった指。見覚えのある傷。剣胼胝。


 交差する人生。

 命を生み出し、命を呑み込み、怒濤のように流れる時間、変化し続ける世界。
 生き続ける命。
 出会い。別れ。そしてまた出会い。

 今日また、僕はあなたに出会った。

 僕は今、生きています。
 あなたもまた、生きてくれていましたね。

 それが嬉しい。とても嬉しい。

 今、あなたに会えて、本当に嬉しい。

 だから。

 次の別れが来るその時まで、僕達、一生懸命生きていきましょう。



 空は青空。