青 空・5



 透は立ち上がると、ゆっくりと窓に向かっていった。皆の視線がそれを追う。
 窓の傍らに立ち、桟に指を掛けると、透は空を眺めて、それから口を開いた。
「………見回す世界は……死体で覆われていた。そんな光景、映画ではよくあるよね。……でも、スクリーンは臭いも感触も伝えてはくれない。あの世界のまっただ中で生きるということがどんなものなのか、生臭い風に心を侵される感覚が、自分の身体の肌という肌、肉という肉全てで死を実感する毎日がどんなものなのか、俺には伝える術がない……」
 透は勝利達に目を向けると、窓に寄り掛かる様にして話を再開した。だが瞳だけが、ここではない別の場所を見つめている。
「戦場に風呂なんかない。どれほど血を浴び、砂と泥に塗れても、身体を洗う事も出来ない。血と泥と汚物を身体中にこびり着かせて、俺達はこれ以上ないほどぼろぼろの姿で日々を過ごしていた。動かずにいたら、死体と区別もつかないくらいに。その日の戦いが終わって、革手袋を外そうとすると、バリバリと音を立てて手からどす黒い何かが剥がれ落ちていく。それが今日殺した敵の乾いた血なのか、泥なのか、垢なのか、それともひび割れて剥がれた皮膚なのかも分からなかった。………夜になるとね」
 また何か思い出したのか、ふと透が微笑みを浮かべる。
「死体をずらして場所を作って夜営するんだ。じっとりと湿った地面に腰を下ろして、何人かづつ集まって火を囲んで……。少しでも建物が残っている場所ならそこに入るんだけど、もうほとんどまともな建物などなくて、大抵は外だったな。そしてそこで、干し肉とか乾パンとかをとにかく喉に押し込むんだ。食欲がなかろうが、気分が悪かろうが、無理矢理にでも食べる。食べる力をなくした者は、遠からず必ず死ぬ。そしてそんな貧しい食事の後に必ず、いつの間にか儀式の様な習慣になっていったことがあった。それは……酒をね、酒といっても、気つけとか傷の消毒のために配付されていたものだったんだけど、それをね、毎晩皆で一口づつ飲むんだよ。カップに酒をついで、それを一口飲んで、それからそれを隣に座るやつに渡す。それを繰り返して、中味がなくなったら、それに当たったやつがまた自分の酒をカップに注いで……。一口づつ皆で回すんだ。血と泥の味がして、飲むと口の中に何かが残るようなものだったけれど、それは……確かに儀式だった。俺達が飲んでいたのは酒じゃない。仲間の……命だったんだ……」
「……いのち……?」
 勝利の問いかけに、透が頷く。
「明日になれば、そこにいる仲間の少なくとも半数が消える。夜営のために脇に寄せられた死体の山の一つになる。それは、自分かも知れない。隣のヤツかも知れない。誰にも分からない。それでも確実に誰かが死ぬ。だから……酒を回しながら、俺達は自分の命を皆に分けて、そして回していたんだ。頼んだぞと。明日俺が死んだら、この命お前が継いでくれ、と。そしてお前が死ぬ時には、またその命、俺の分も合わせて誰かに繋いでくれ、と。隊長も、俺達も、そして素人同然の新兵も、そんなものは関係なかった。その場で、皆が一つの命になっていた。皆が仲間の命を一口づつ飲み込んで、最後の最後に生き残った者がいるならば、そいつに全員の命を、想いを受け止めてもらうために……」

 そうして。勝利は思った。
 コンラッド。あんたは生き残った。
 受け止めたんだろう? 今も、背負っているんだろう?
 あんたを信じて、あんたに従ったこいつらの命の重みを……。
 柔らかい笑みをいつも浮かべていた男。いつも真直ぐに背筋を伸ばし、揺るぎない視線で弟を見つめていた男。彼が背負い続けてきたものの重みを思った瞬間、胸の中心を何かに鷲掴みされたような痛みを感じて、勝利は思わず瞳をきつく閉じた。

「信じられない事に、俺達は次第に優勢になっていった。仲間は次々に倒れていったが、敵はそれよりはるかに多く俺達の手で倒されていった。そうなると現金なもので、国も大急ぎで補給や援護を送ってくれる事になった。俺達をどうこうするより先に、国の存亡に関わる重大な問題がある事に、さすがの摂政達も気づいたらしい。そうなると、補給線の短い俺達の方が有利になる。敵の本拠地は俺達より遥かに遠くて、こちらが補給路を押さえてしまえば、どれほど数が多かろうと戦い続ける事はできないからだ。もしかしたら、勝てる。俺達は生きて帰る事ができる。仲間はもう9割方減っていたけれど、それでも生き残った皆の顔は希望に輝くようになっていた。ただ……それでも続く戦いは悲惨だった。敵も、当初の俺達と同じくらい死に物狂いになっていたし。………援護の師団が来てくれる事が分かって、隊長はできる限りの兵を早期に帰還させようとした。特に若い新兵達を……。でもそれが、逆に仇になって……」

 そこまで話して、透はふう、と息を吐いて目を閉じた。
 疲れた。
 ここまで詳しく話をしたのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 年齢が進むと共に記憶もはっきりとしていたが、しかし高校生だった3年間、そして大学に入ってからも今日に至るまで、ほとんどその記憶を胸に秘めて口外する事もなく過してきた。今井田教授はたぶんまた、「空想を広げた」と眉を顰めている事だろう。作った訳じゃない。記憶が蘇って、次第に鮮明になってきただけだ。……そう主張しても何の役にも立たない事は、もう分かり切っているけれど。

 透は、ソファに座る勝利に視線を向けた。
ひどく辛そうな顔で、目を閉じている。彼も疲れているようだ。……他の3人は好奇心をはっきり顔に浮かべているのに、どうしてだか勝利はその場にいるのが苦痛の様に見える。
 彼なら信じてもらえると思ったのは、やはり間違いだったのだろうか。
 トンデモ話は嫌いだと言っていた。もううんざりしているのだろうか。
 しかし、ここまで来てしまったら、後はもうわずかだ。……聞いて欲しい。彼に。

 透の脳裏に、忘れられない姿が浮かぶ。

「……隊長は、新兵達を先に帰還させる事にして、残って共に戦いたがる彼らに、戦えなくなった傷病兵を無事に王都に送り届けるという命令を与えて、半ば無理矢理送りだした。その頃にはもう、無傷な者など皆無だったしね……。でも……確実に生き残らせるために離脱させた新兵と重症の怪我人達は、帰路の途中、敵に遭遇してしまったんだ。……知らせを聞いて俺達が駆け付けた時にはもう……ほとんど全滅してた……」
 ああ、と、ため息とも嗚咽ともつかない声がする。だが、透の目に映るのは、ただ、あの時の隊長の後ろ姿だけだった。
「……死体の散らばる荒野で、隊長は、無言のまま膝をついて、そして、仲間の死体の間に見える土を両手で救い取った。それはもうすっかり変色した、握りしめれば血が滴るような土だった。隊長はそれを……額に押し当てて、それから……天を、仰いだ……。何も言わなかった。身体が震える事も、涙もなかった。ただ、地面に坐り込んで、そして苦しそうに、本当に苦しそうに顔を歪めて、瞳を固く閉じて、天を……仰いでいた……」
 部隊の誰も、泣きもしなければ、何かに対して呪いの言葉を吐きだすこともなかった。痛ましいという思いはあったものの、それでもそれは、あまりにも身近になった死の、一つの形に過ぎなかったからだ。
「……ここまできて、生き残る希望も生まれた今になって、こんな形でより若い混血達の命が失われたことを、隊長は心底苦しんで、そして追い立てるように彼らを送りだした事を悔やんでいたんだろうと思う。隊長のせいじゃなかったのに。…………そしてそれから、戦闘はさらに激化していった。互いに数は激減し、でも生き残るには相手を倒す以外にない事も分かっていた。来るという援軍はなかなか到着しない。もう少し、後もうちょっと、そう念じながら戦い続けたある日……」

 敵の一団を遭遇し、ほとんど一撃で蹴散らした。もう追走する必要も力も残っていなかったから、敵が逃げるのを幸い、自分達も退いて少し早めに夜営の準備をする事にした。
 剣を納め、累々たる死体に背を向けて、仲間と共に歩き出したその時。

 足元に倒れていた死体、だったはずのものがいきなり叫びと共に起き上がった。

『……仲間の仇! 滅びろ、悪魔!!』

 少年兵だった。まだ幼い、彼から見ればまだまるきり子供だった。

 剣を構えて決死の形相で向かってくるその子供に、一瞬、たじろいだ。

 赤黒い泥のこびりついた髪が、クリーム色に近い金髪だったからかもしれない。
 歪んだ顔が、泣いている少女に見えたからかもしれない。

 一瞬。剣を抜く事をためらった。

 次の瞬間、その剣は彼の腹を貫いていた。

 副官が、収容所にいた幼い頃からの友人が、少年兵に向けて剣を振り上げた。

『殺すな!』

 友人が、ハッと彼を見た。

『殺さんでくれ……。頼む……』

 若かろうが、年寄りだろうが、殺して殺して殺し続けて、今さら俺は何を言っているのだろうと思う。
 まして自分を殺す相手を。
 それにしても、なんでまたあんなガキに。……バカだなあと、しみじみ思う。

 しかし友人は剣を納めてくれ、少年兵は悲鳴を上げて逃げ去っていった。
 それを見届けて、彼はどうと大地に仰向けに倒れた。

『しっかりしろ!!』
『死ぬんじゃねーぞ! てめえみたいにでかい身体のやつが、こんな剣1本でやられてどうするってんだよ!?』
『もう少しで帰れるんだ! 気をしっかり持て!』

 自分の名を呼ぶ隊長と仲間達の顔が視界を埋める。
 その隙間に。
 空。

 隊長のことを頼むぞ、とか。
 俺って、やっぱり間が抜けてるよな、とか。
 いい仲間がいて俺は幸せだった、とか。
 妹をよろしく、とか。

 言いたいこととか、言わなくてはならないこととか、幾つもあったような気がする。
『帰ったら、あの娘のいる居酒屋で飲む約束しただろうが。てめえの奢りのはずだぜ? 約束を反故にするつもりかよ?』
 友人の泣き笑いのような声。思わず笑ってしまった。
『……済まん、済まない、置いていく……許してくれ……』
 握られた手が、震えているのが分かる。
 いいんですよ、隊長。気にしないで下さい。ただ、そう、俺の順番がきたってだけですから。
 言葉は。ちゃんとあの人に届いただろうか。
 耳元で、シャリシャリと音がした。
 髪を切っているのだとわかった。
 こんな戦場で、遺体を家族の元に返すことはもうできない。だからせめて、髪を一房、切って届けるのだ。自分も何度かそうした。そして、今、自分が切ってもらう立場になった。
 悲惨な戦闘で、形見の髪を切ることも出来ないままの仲間は山の様にいる。だったら、俺はよっぽど幸せじゃないか。
 髪を切り取ったら、仲間はすぐにその場から立ち去るだろう。同じ場所に無駄に長く留まるのは危険だ。

 ひとり、またひとり、視界から仲間の顔が消えていく。ひとり。またひとり。

 そして最後に残されたのは。


 青空。


 目を大きく開けてみた。

 天空に広がる青空。ぽっかりと浮かぶ白い雲。

 伝えたかった言葉は、もう何も残ってない。

 なあ、隊長、ほら、ちょいと上を見てみろよ。

 返る言葉はもうないけれど。自分の口が動いているのかどうかも分からないけれど。

 青いなあ。目に沁みるなあ。

 村で、妹と二人で見上げた空とおんなじだよ。
 ちゃんと繋がってるんだなあ。今、あいつも空を眺めててくれたら嬉しいなあ。

 ああ、透き通るみたいにきれいな色だ。

 隊長。長いこと、まともに息をしてなかったような気がしないか?

 あんまり何でも1人で背負い込むなよ? 1人だけで頑張り過ぎるんじゃねえよ?

 隊長。たまには深呼吸くらいしろよ。

 空が きれいだぞ。

 なあ 隊長 なあ………



 ぐす、と鼻を啜る音がする。見ると、逸美がどこからか出したハンカチで目もとを押さえていた。駒井も勝山も、じっと俯いたままだ。
 透は窓から空を眺め、微動だにしない。勝利は、いつの間にか止めていた息を、大きく吐き出した。
「………これでお終いだ。もうその後の事は何も分からない。隊長や皆がどうなったのかも、戦争が最終的にどうなったのかも、勝てたのか、それとも魔族は滅んだのか、……何も分からない……」
 透は大きくため息をつくと、空を指差した。
「あの空と、そっくり同じだった。透き通るような青さも、そして信じられないくらいゆっくりと動く雲も。雲が白くて、白過ぎて、色々と濁ったものを見続けた目には痛いくらいだったな。同時に、ものすごく新鮮だった。………地上にどれほど血が流され、呪いや恨みの声が溢れても、空はこんなにも、無垢なくらい美しいままなんだなって……。空の色をあの時程美しいと思ったことはなかったよ……」
 それから透は振り返ると、小さく笑った。
「………堪能して頂けたかな?」

 なんとも言えない沈黙が広がる室内で、勝利はため息をつくとメガネを外した。
 内側から溢れ出そうとするものを止めるように、きゅっと目を閉じ、眉間を指で挟むように押さえる。
 閉じた瞳に、笑顔の男の顔が浮かぶ。

 悪かったな、あんた。
 勝手に過去を覗き見してしまって。
 でも俺は、あんたに聞きたいことがある。
 あんた、今も背負ってるはずだ。自分の過去。そしてあんたに従って、そして死んでいったこいつ等の命。    その想い、を……。
 そのあんたが……。
 なあ。コンラッド。

 有利でいいのか?

 ウチの野球バカときた日には、成績は上がらないし、そもそも勉強が嫌いだし。
 熱血漢と言えば聞こえはいいが、実はおっちょこちょいの考えなしで。
 小心者のくせに気ばっかり強くて。
 何度失敗しても懲りなくて。

『ユーリが笑顔でいてくれれば、もうそれだけで全てがうまくいくと思うんだ。ユーリが笑ってる。だから絶対大丈夫だって。俺だけじゃない。皆がそうなんだ。なあ勝利。これってすごいことだと思わないか?』

 ………あんたも大概バカだよなあ……。

 おい、弟。
 お前、分かってるのか? 自分が、どんな男に護られてるか。どんなすごい男に大切にされてるか。ちゃんと分かってるのか?
 お前を、どんな思いであいつが見つめてるか。とんでもなく重いものを背負って、それでも胸張って生きてるあの男が、お前をああも大切にしてくれてるってことがどういうことなのか、本当に分かってるのか?
 お前自身もまた、背負っていかなきゃならないものがあるってこと、お前、実はよく分かってないだろ?
 虫食いだらけの日記なんぞ書いて、悠長に言葉の勉強なんてやってていいのかよ!?
 大体親父とおふくろも何なんだ。
 一国の王になると分かってるなら、それらしい教育くらい考えろよ。っつーか、どうしてウチみたいな庶民の家が選ばれたんだよっ!?

 どんどん論点がズレていることにも気づかないまま、勝利が思考をぐるぐるとさせている間に、3人の学生達が発言を始めていた。
「あの……済みません、本当に何ていうか……心理学的に分析できる内容とは思えなくて……」
 駒井が困り果てたように意見を代表して言った。
「俺……僕は分析して欲しいなんて、一言も言ってません」
 疲れ果てたような声で、吐き捨てるように透が反応した。
「僕にはもう、そんなものは必要無い」
「とにかく」香坂教授が割って入る様に声を上げた。「もう充分だろう? 心理学の勉強をしたければ、ここじゃない所でやってくれ。いいな? イマさん?」
 香坂教授の問いかけに、今井田教授が「うーん」と唸って首を傾げた。
「僕としてはねえ………以前聞いた時よりも話が膨らんで、さらに悲惨になってるところが気になるんだがねえ……。なあ、透君、やっぱり一度カウンセリング………」
「いい加減にして下さい!」窓際の壁を拳で叩いて、透が叫んだ。「必要無いと言ったでしょう!? 僕を見て下さい! 僕はこの現実を、今の生活を蔑ろにしてますか!? 現実を拒絶しているように見えますかっ!? ちゃんとやってる。僕はあなた方が言った通りにちゃんとやってるじゃないですか!!」
「透! イマさんは、お前の事を心配して……」
「迷惑だ!」
 そう叫んで、透は両手で顔を覆った。
「………だからイヤだったのよ……」
 声に勝利がふと見ると、繭里が立ち上がって苦しそうに透を見ていた。
「話にのめり込んで、夢の中の人になりきって………それでいつも苦しくなるんじゃない……。もうすっかり昔の事にできたと思ってたのに………。どれだけ時間が経ったら、どうしたら、そんな夢物語、捨ててしまうことができるの? ……教えてよ、透……」

「…あっ、あの……っ」
 勝山が突然、何かを思いついたように声を上げた。いまからしようという発言に、かなり自信があるらしい。顔が輝いている。
「僕、思うんですけど、凉宮さんにとって大切なことは、物語の主人公やストーリーそのものを対象化することじゃないでしょうか!? 自分の前世だと思い込んでいる話を、第三者の視点で見直すことで、自分自身から切り離す作業が効果的なんじゃないかと。それで、あの、どうでしょうか。今の話、ファンタジー小説として文章化するというのは!?」
 どうだ! という顔の勝山を、勝利は呆気に取られる思いで見た。
「完全に小説化するんです! 話にもうちょっと演出を加えて、あ、ヒロインとかも作って。ほら、その鈴宮さんの、って言ったら変ですけど、えと、妹さん? その人と、そう、隊長さんが実は恋人同士だったとか! それで………」
 くっくっく……。明るいとは到底言えない含み笑いが、勝山の饒舌を遮った。
「……透」
 透が、腕を組み、顔を伏せて、肩を細かく震わせている。そして気まずい沈黙の中、上げた透の顔には張り付けたような薄い笑いと、ほとんど憎悪に近い表情が浮かんでいた。
「いたな、昔そういうのが」
「透!」
「中学生の時。ものすごく真剣に聞いてくれて、聞き終わった後も馬鹿にしたりしないで、色々と真面目な顔で質問してくれたりして。やっと分かってくれる友達ができたと思ったら、数日もしない内にノートを持ってきた。僕の話を元に小説を書き始めたといって、それはもう楽しそうに……。教えた隊長や妹や仲間の名前をそのまま使って、僕が話した記憶に陳腐なエピソードを加えて……。ラストでは隊長が反乱を起こして国を乗っ取るというのはどうかなって、真面目に聞き返されて言葉も出なかった。他にも彼が考えたというストーリーを……僕の、大切な人達が勝手におもちゃにされていくのを延々聞かされて、だんだん……堪らなくなっていって。彼が、書き上げたらどこかの賞に応募するんだとか、共同執筆者ということにしてもいいとか言い出した時にはもう……。気がついたら、ノートを破り捨てて、そのクラスメートをぶん殴っていた。彼は鼻の骨が折れて、まあ、かなり大問題になった。親や教師は喚くし、しばらく大騒ぎだったけど、そんな事はどうでもよかった。僕がその時気になっていたのは、彼が小説とやらをデータに残しているんじゃないかということだけだった。そんなものが残ることは……絶対に許せなかった。結局彼はアナログ派で、文字は自分の手で書くことにしていたらしいけど、もしパソコンとかにデータが残っていたら、僕は彼の家に乗り込んでいって、それを粉々に叩き潰していただろうな」
 う、と喉の奥で声を上げ、勝山がこそこそとソファの上で身を縮める。
「あの、済みません」
 友人の失態をものともせず、駒井がすぐに新たな声を上げた。また妙なことを口走ってくれるなと、勝利は友人のために心の中で祈った。
「ちょっと荒唐無稽は承知の上なんですけど………、鈴宮さんのその記憶、実は本当に前世の記憶という可能性はないんでしょうか?」
 びっくりしたのは香坂教授、繭里、そして今井田教授の3名だ。思いも掛けない言葉に、3人揃って目を瞬かせている。そして勝利も、まさかこの学生達の中からそんな意見が出てくるとは思ってもみず、思わず駒井を凝視してしまった。
「その……あまりにもリアルすぎるんですよね。もしこの話が、ここ数年の間に語られたというなら、それこそ妄想だとか空想だとか、判別することは簡単だと思うんですけど。でも、保育園児の頃からなんでしょう?いくら何でもその……」
「あのっ、私もそう思うんです!」
 駒井の隣に座っていた逸美が、咳き込むような様子でいきなり割り込んでくる。
「私もっ、鈴宮さんの様子を見ても、これって意外とホントなんじゃないかなって。実は、知られていないだけで、いつか、どこかの国で……」

「いつかって何時よ! どこかって、どこの国よっ!?」

 我慢ならないという様に、繭里が息巻く。
「無責任なこと、簡単に口にするのは止めてよねっ! 何よ、ちょっと話を聞いただけでそんな勝手な……! あんた達なんか何も知らないクセに。透がどんな思いをしてきたか、凉宮のご両親がどんなに心配なさってたか……! やっと、やっと落ち着いてきて……おじさんもおばさんも、透が普通に大学生活してること、どんなに喜んでると思うの!? おばさんは『透が司法試験受けて、検事を目指したいなんてすごいこと言ってるのよ』って、ものすごく嬉しそうにしてて。おじさんも『昔は色々あったけど、透ももうすっかり大人になってくれた。これで一安心だ』って、透の将来の事とか、ウチのお父さんに自慢したりして……。もう全部昔の話になったと思ってたのに、こんな風に蒸し返してっ! その挙げ句に何!? ホントの前世じゃないか?  バカにしないでよっ!!」
「……言ってることが無茶苦茶だぜ、繭。ちっとも筋が通ってねえぞ。ちょっとは落ち着け」
「だって、だってお爺ちゃん!」
「落ち着けって言ってんだ。大体、お前が怒ってどうするよ?」
「だってこれでまた透が夢にのめり込んじゃったら、どうしたらいいのよ!?」
「大丈夫だよ、繭」
 静かだが、意外な程力強い声に、繭里がハッと顔を従兄弟に向けた。透は窓辺に佇んだまま、哀しげに微笑んで彼女を見ていた。
「言っただろう? 僕は過去の記憶にのめり込んで、今この現実を忘れたりなんかしないよ。これからも、いつも通り大学に通うし、コンパにもいくし、司法試験も目指すつもりだ。繭の心配なんて、全然必要無いんだよ。今日は久し振りに話をしたからちょっと興奮してしまったけど、でもこんなこと位で今さら自分を見失ったりしないよ」
「………透……」
 祖父と従姉妹が、半ば呆然と透を見つめている。
「繭達には悪いけど………本当言うと僕は、あの日々を忘れたことなんかない。忘れかけた昔の事だなんて思ってもいないし、卒業も……してない……。いつも、いつでも思い続けてきた。妹や仲間と過したあの世界での人生を……。特に………こんな日は………」
 透の瞳が、ガラス窓を通して空を見上げる。
 そこにあるのは、日本の、のどかで平和な青空。
「………そう、いつも……思ってた。……もしかしたら、僕は………凉宮透なんて、本当はどこにも存在してないんじゃないかって……。僕という日本人だと信じているこの存在も、この国も、この世界も、本当は……全部幻なんじゃないかって………。この世界こそが夢で………そして僕は、本当は………アル…あの場所にまだいるんじゃないかって。……汚れた地面に大の字になって動かないまま、瞳にはただ……青空だけを映して、そしてこんなあり得ない世界の夢を見ているんじゃないかって………!」

 パンッ! と小気味いい音が響いて、勝利はハッと目を瞠いた。

 透が呆然とした顔で、頬を押えている。その前には、いつの間に移動したのか香坂教授が立っていた。
「バカやろうっ!」
 ぴくり、と透の肩が跳ねる。
「ふざけたこと吐かしてんじゃねーぞ、このど阿呆! するってえと何かっ!? この俺も幻かいっ。人がぜえぜえ青息吐息で老骨に鞭打って頑張ってるってえのによ、てめえ、それを幻だって吐かししゃがるのか! 生憎だったな。俺ぁこの70年ばかし、自慢じゃねえがてめぇのその何だ? 魔族の男? そんな野郎にも負けねえくらいの人生送ってきてんだよ! エラそうに辛い人生自慢するんじゃねえよっ! いいか? はっきり言っといてやる。俺の人生は幻なんかじゃねえ! そして、お前は! 俺の孫だ! 俺が可愛い可愛いって大事に見守ってきた、大切な孫息子だ! お前は幻なんかじゃねえ。夢なんかじゃねえ! たとえ当人だろうとなっ、俺の大事な孫の人生、幻なんぞと吐かしやがったらタダじゃおかねえぞ! 俺はお前をなくすつもりはねえからな。大切な孫を、そんなそれこそ夢の世界の男なんかに、渡すつもりはねえからなっ!! いいか? よく聞けよ?」
 お前は。教授は透の肩を力強く掴んで、その身体を引き寄せた。

「お前は凉宮透だ! それ以外の何者でもねえ!!」

「…………おじいさん………」
 泣いているような、笑っているような顔で、透が祖父を呼んだ。
「……ごめんなさい………」
 呟くように謝罪する透を、香坂教授がぐっと抱き寄せ、そしてしばらくそのままでいたかと思うと、やがてぽんぽんと背中を叩いた。その様子を、勝利のすぐ側で繭里が涙を浮かべながら見つめている。
「辛ぇのはお前なのにな。俺もちょいと言い過ぎた。悪かったな」
 身体を離し、小さく首を振る透は、伏せていた瞳を真直ぐに祖父に向けた。
「……本当に、ごめんなさい……。でも……分かって欲しいんです……」
 一つ大きく息をして、透はそこに居合わせた全員をゆっくりと見回した。
「お爺さんや繭達が、僕の事を思ってくれてることは分かっているんです。でも…時々、どうしようもなく辛くなる……。僕を思ってくれる皆の優しさは、同時に絶対に僕の記憶を認めてはくれない。確かに、あの記憶は、あり得ない世界の、あり得ない歴史で、夢物語と言われるのも仕方がないと思います。でも、それでも、あの記憶の中で、僕も、そして仲間達も、皆一生懸命生きていた。毎日を必死に、家族を愛して、仲間を信じて、そして……いつか色んな思いが報われて、皆であの国で幸せに暮らすという夢と希望を抱いて……。隊長の思い。後を頼むと言い残して死んでいった仲間の涙。汚れて、傷ついて、ぼろぼろになって、でも抱き合って感じた肩の温もり。握りあった手の確かな感触。掛け合った言葉にこもる信頼……! 生きていた。確かにあの時、あの瞬間、辛かったけれど、苦しかったけれど、色んなものを呪いたくなったけれど、それでも……確かに生きていた。愛して、そして信じて……! それを、あの思いを、仲間の、皆の必死の祈りを……映画だの小説だのマンガだの、そんなものから生まれた空想だとか、夢物語だとか、そう決めつけられるのが、何より、何より辛いんです! 僕の妄想だって、ないものにされてしまうのが堪らないんです! 僕はいい。僕は……。でも、幻にされてしまったら………あんな辛い思いに耐えて頑張ってた隊長や、皆に……申し訳なくて! ぼ…僕ばっかり……こうして、生きて、生き直して……こんなに幸せに暮らしてる……のに……」
「………透ぅ……」
 繭里がべそをかいているような声で従兄弟を呼んだ。
「とことん馬鹿やろうだなあ、おめぇは」香坂教授がため息をついた。「そんな無駄な罪悪感まで背負ってやがったのか……」

 全くだと、勝利は思った。そんな罪悪感、何の意味もない。
 なぜなら。

「………凉宮、お前、本当にまだ戦場にいるんだな」
 ハッと、透が、そして教授や繭里達が一斉に勝利に目を向けた。
「この世界で、どれほど見た目普通に生きていても、お前の心はまだ戦場を彷徨ってるんだ。もう……」

 もう。とっくに戦争は終わってしまっているのに。
 なぜなら。
 コンラッドは、笑顔で生きているんだぞ?

 あいつは、戦争から少なくとも20年以上の時を過し、今、胸を張って「幸せだ」と言い切れるようになっているのに。
 お前は、記憶が途切れたその瞬間から、一歩も進んでいないんだ。
 その瞬間に足踏みしたまま、お前はただ荒れ果てた戦場に立ち尽くしている。

「……透君」
 今井田教授が穏やかな声を掛けた。
「僕の言葉を不愉快に思うかもしれないが、僕は……君の気持を完全に理解してやれなくて、辛い思いをさせ続けて申し訳ないと思っているよ。……なあ透君、カウンセリングは決して君を傷つけるものじゃないんだ。今君が吐露したその思いを、もう一度きちんと聞かせたもらえんかね? 君を理解したいんだよ。このままにしておいたら、君の中に固まった苦しいものは、ますます大きくなって君を苦しめるだろう。君が『記憶』と称するものが、何時の間にかここまで肥大化していることでもそれが分かる。……ちゃんとじっくり専門家と話し合って、君の記憶が何を意味するものか、一緒に考えてみてはくれないかね? ここにいる駒井君や高宮君は、何かとんでもない勘違いをしているが、記憶というのは成長に伴う経験によって、いくらでも書き換えや置き換えが繰り返されるものなんだよ。実際に経験していないことでも、人生経験による様々な学習が、空想上の感覚に実感を与えてしまうものなんだ。人物だってそうだ。例えば、君が尊敬すると言っていた『隊長』というのもね、君には実在するように思えるかもしれないが、実際は君の無意識下にある様々な感情や願望の象徴として作り上げられ、君の経験によって肉付けされた姿に他ならないんだよ。認めるのは辛いだろうが……」

「おい、ちょっと待て」

 いや、待つのは俺だ。落ち着け、俺。何を言い出すつもりだ。
 理性が決死の叫びを上げる。だが、勝利の地を這う様に低められた声に振り返る今井田教授と透、そして香坂教授と繭里の、訝しげな、一部うさん臭げな顔を見た瞬間、攻勢を掛けていた理性は瞬く間に敗北を宣言した。
「いい加減にしろよ、あんたら」
「……渋谷君……?」
「な、何だね、君……?」
「あんたも」と今井田教授を睨み付け、「それから、あんた達も」と香坂教授と繭里に対しても同様に厳しい視線を送る。
「あんた達全員、根本的に間違ってる!」
「何よ、あなた!」繭里がいきり立って叫んだ。「あなたなんかに何が分かるのよ! 私達は、お爺ちゃんも今井田先生も、もう何年もずっと透を助けたくて頑張ってきたのよ! 透を本当に大切に思って……!」
「だったらどうして!」
 つられる様に叫んで、それから勝利は徐に息を整え直した。
「凉宮を大切だと思うなら、どうして、こいつの話を無条件に信じてやらなかったんだ?」
「………え……?」
 繭里が、そして香坂教授と今井田教授が、呆気にとられたように勝利をまじまじと見つめてきた。そのすぐ側で、同じように透も、駒井や逸美達も、勝利が何を言い出すのかと瞬きもせずに立っている。
「渋谷君、お前さん、一体何を言いたいんだい……」
 香坂教授に問い返されて、勝利は深く息を吸い込んだ。
「荒唐無稽な夢物語に聞こえても、ファンタジー小説にしか思えなくても、そしてこいつの話す歴史が、俺達の世界のどの時代にも、どの国にも存在しないことが分かり切ってても、それが何だって言うんですか? 別にいいじゃないですか。地球じゃない、別の世界がどこかに存在してるんだ。そして、そこでは当然地球と違う歴史が綴られている。凉宮は、その世界で死んで、そして魂だけがこちらに転がり落ちてきた。本当だったら生まれ変わった時点で過去の事なんか忘れるはずだけれど、こいつはたまたま覚えていた。言ってみれば、ただそれだけの事じゃないか。どうしてそんな風に考えてやれなかったんですか?」
「…………驚いたな。そいつは考えたこともなかったぜ……」
 香坂教授がぽかんとした顔でそう呟いた。
「まっ、待ちたまえ! 何を非科学的な……! そういうバカげた発想で……」
「そう考えれば」今井田教授の発言を、ばっさり切って勝利は続ける。「過去に起こった事実を心理学的に分析するなんて愚の骨頂だ。大笑いだ。そもそも、自分達が知らないからあり得ない、あり得ないからウソだ、夢だ、病んだ心が生んだ妄想だとする事自体が間違ってる。科学的という言葉を使うなら、状況や経過を吟味してから結論を出すべきなんだ。それをあんた達は、これは妄想だと一番最初に結論付けてしまった。そしてその結論を全く疑いもせずに、凉宮が口にする事全てをその結論に合わせて解釈してしまった。頭が固くて視野の狭い学者が陥り易い穴だな」
「……き、詭弁……っ」
 確かに、他の場合だったら勝利もそう思うだろう。しかし。
「凉宮は事実を語ってる。凉宮を信じる。こいつが本当に大切だと言うのなら、あんた達は先ず最初にそう決断するべきだった。誰が何と言おうと、親が泣こうが喚こうが、世界中の人間が笑おうが、あんた達は無条件に凉宮の味方にならなきゃいけなかったんだ。それなのに、お前のためにとか、お前が心配だからとか、そんな言葉でこいつの言葉を、凉宮自身を否定して………。無理解をベースにした優しさなんてものが、どれだけこいつを傷つけて苦しめてるか、あんた達、全然分かってないんじゃないのか…? だからこいつは何時まで経っても、戦場に魂を置き去りにしたまんまで、彷徨うみたいに生きてるしかないんじゃないか……!」
「渋谷君……!」
 声に呼ばれて視線を転じた先に、透が泣き笑いの顔で立っていた。
「…………もう、いいよ……もういい……」
 指先で浮かんだ涙を拭い、透は再び笑顔を勝利に向けた。
「ありがとう、渋谷君。………君に信じて欲しいと思ってたけど……まさかここまで言ってもらえるなんて想像もしてなかったよ……。本当に、ありがとう……。でも、おじいさん達を責めるのはもう止めてくれ。僕が皆をさんざん心配させて、そして苦しめてきた事も事実なんだから………」
「透…! わ、私は………」
 繭里が何か懸命に訴えようとするが、それは感情のうねりの中で言葉にならないらしく、彼女はただ顔を歪めて唇を噛んだ。
「ごめん、繭。………大丈夫だよ、そんな顔をしないで」
「待ちたまえ!」
 我慢ならないという激しい口調で、今井田教授が声を上げた。勝利を睨み付けてくる。
「君の考え方こそとんでもない誤りだ! 何が別の世界だね、全く下らないにも程がある! いいかねっ!? 一刻も早くカウンセラーや精神医が協力して、透君の『前世』なるものを精査し、一体何故このような物語が生み出されたのか、どこに問題があるのか、どうすればそれを、その世界も、それから隊長とやらも、全てが虚像だと認識できるのか、徹底的に調べなくては、透君の精神はこれからずっと歪み続けて、ついに破綻してしまうかもしれないんだぞ!」
「…おい、落ち着けよ、イマさん」
「落ち着いていられるかね!? こんな事を言い出す友人が側にいては、透君のためにはならん……」
「おい! 今何て言った!?」
「だから、君のような友人が……」
「じゃなくて!」教授相手に勝利が怒鳴り付ける。「………今、虚像だとか言ったな……?」
 え、と一瞬首を傾げてから、ああ、と今井田教授が頷いた。
「そうだ。その世界だの、仲間だの、全てが彼の妄想、もしくは願望から生まれた虚像に過ぎない。特に『隊長』という人物はその最たるものだ。おそらくは透君の無意識下における……」

「いい加減にしろっ、バカ野郎!!」

 ひゅっと息を呑んで、教授が硬直する。
 透が、そしてその場の全員が、突然の勝利の激昂に、呆然とその場に立ち尽くしている。


「コンラッドは虚像でも幻でもない! あいつはちゃんと生きている!!」






「……………で。何でそこで飛び出してくるかなあ………」
 呆れちゃうねー、と肩を竦めるのは、絶対頼りにしたくなかった弟のお友だちだった。
    



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お兄ちゃん、爆発しました。もう弟さんそっくりですねー……。ゴホゴホ。

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