青 空・4



「………その頃のあの国は」
 透が、ふと口調を変えて話し始めた。
「魔王陛下、隊長の母上であるあの女王陛下が玉座に座っておいでだったけれど、実際の権力を握っていたのは、陛下の兄、摂政の座にある男だった……」
 あの人の、隊長の伯父にあたる人物だ。
 冷たい、憎悪すら感じさせる声。少なくとも、凉宮透には似つかわしくない。なのに何故だろう。迸りそうな激情を氷で固めたようなその声が、今目の前にいる男に、最も似合うような気がしてしまうのは……。     このまま、透の話を聞いていていいのだろうか。
 ふと、勝利の中にそんなとまどいと疑問がわき起こった。
 透は、自分が語る過去にのめり込みすぎている。それが酷く危なっかしいというか……。だがそれよりも何よりも、当人の許しもなく、勝手に人の過去を覗き見ているのだという現実が、勝利には堪らなかった。
 恥ずかしさや罪悪感にも似た、ざわめくような感覚が勝利の胸に広がっていく。と、同時に、とことんあの男を、ウェラー卿コンラートという男を知りたいという、誤魔化しようのない欲求もまた、同じように勝利の中に確かな根を張り始めている。それが分かるから余計に……。

「…その男、摂政は、権力の座に固執していて、自分の地位を狙う可能性のある者を潰す事に血道を上げるような俗物だった。そして隊長を心底憎んでいた。隊長の人となりがどうとかいう事じゃない。こともあろうに自分の血族に、卑しく汚らわしい人間の血が混じったという事実が、どうしても許せなかったんだ。もし隊長が母親の姓を選んでいたら、摂政の怒りは瞬く間に隊長の命を奪っただろう」
「姓を名乗る…?」
 駒井の問いかけに、透が頷く。
「魔族は16歳で成人する。というか、成人したと見なされる。400年の生のわずか16年で成人というのは、どういう意味があるのか今では良く分からない。見た目は3歳程度だしね。あの頃は……それが当然で疑問にも思わなかったけれど……」
 成人したらね。透の説明は続く。
「父親か母親、どちらの姓を名乗るか自分で決めるんだ。こちらのように戸籍が定まっていて、家の名を自動的に名乗るのとは違ってね。そして、本人がそれを決めたら、原則としてその一族は、新しく一族の一員となることを望む者を拒絶する事はできない。そして成人した者は、それからその一族のために、特にそれが貴族なら、一族の名誉を担う1人として精進していく事を期待される。そしてまたその一族も、その者のあらゆる権利、そして名誉を護っていく義務が課せられる。あの頃、母上の一族の当主は摂政だったから、もしも隊長が母上の姓を名乗った場合、あの男は隊長の庇護していかなくてはならなかったんだ。……そんな事、あの男は絶対に我慢ならなかっただろうな……」
「でも、コ……そ、そいつ、は、母親の一族には入らなかったんだ、な?」
 ああ、そうだ、と透が頷いた。
「陛下は自分の姓を名乗る事を望んでいたという話も聞くが……どうかな? とにかく、隊長は父上の姓を名乗った。人間の姓だ。当然、国内に全く係累も何もなくて、だから父上以外、誰1人として護ってくれる人も、支えてくれる人もない。あの国で、いや、父上が亡くなられたならば、世界でたった1人きりになることが、最初から決まっていた名だ。………血族の繋がりの強いあの国では、それはとんでもなく孤独な選択なんだよ。あの人は……たった16歳で、己の力だけを頼りに、1人で生きていく道を選んだんだ……」
 ぐ、と唇を噛み締めて、勝利は視線を太股の上で握りしめられた自分の拳に向けた。
 決して美貌というのではないが、王子様らしい上品な、穏やかで優しい顔立ち。一見して勝利と変わらぬ均整のとれたしなやかな体格。弟を見る暖かい眼差し。甘い声。ただ向かい合っているだけでは、苦労など微塵も感じさせない、育ちの良さそうな雰囲気。

 コンラッド。

 あんた、あんたは、本当に……。そんな思いをして生きてきて、それでもあんたは……。

「………強い人、ね。とても実在しているとは思えないわ」
 呟くように、どこか思わずといった様子でそう口にしてから、逸美は慌てたように顔を上げた。苦笑を浮かべる透に、慌てて両手を振り始める。
「あ、あ、あのっ、だからそのっ……別に凉宮さんのお話をバカにしてるワケでも、その、エラそうに批評してるワケでもなくて……えええと、その……っ」
「いいんだよ」
 透が苦笑を深めて頷いた。そして、突然大きく深呼吸したかと思うと、目を閉じて、しばらくじっとしていた。
「……ごめん」次に透の口から飛び出したのは謝罪だった。「また、あの人の話ばかりになってしまってるよね」
 ようやく自分を取り戻したのか、少し疲れたような顔で、透はソファの背もたれにぐったりと沈み込んだ。
「でも、これからの話をしていくには、あの人の、隊長の話が不可欠なんだ。だから、悪いけど、このまま聞いてもらいたい。おれ……ああ、ごめん、僕の知ってる、僕がかつて僕じゃなかった時に、心の底から尊敬して、憧れて、生涯従っていこうと決めたただ1人の人の話を……。僕が作ったファンタジー小説のヒーローだって思っててくれればいいからさ……。本当に、こうしてあの人のことを思い浮かべると、まさしくその通りとしか言い様がないんだから……」

 何かを諦めたよう天を仰いで透が言う。
 その男が夢物語の主人公などではないことを、今、勝利だけが知っている─。

「……戦争がどんどん泥沼化していって、時間と共に魔族の旗色は悪くなる一方だった。それに従って、人々の心もますます荒れて、そしてますます混血に向けられる目は厳しくなった。僕達便利屋部隊も、それはもう大忙しで戦場を渡り歩いていたよ。でも、扱いの酷さは加速するばかりだった。それまでの働きから名前だけは売れていたから、名指しの援護依頼はひっきりなしだったけど……一旦敵を撃退できた途端、元の部隊のヤツ等は、それこそ追い払うように俺達をその場から叩きだした。混血部隊などに援護を頼んだのが恥だとでも言わんばかりにね。混血風情が、我々の栄誉に寄与できただけでも名誉に思えと、包囲されて絶体絶命のところを助けてやった部隊の指揮官にそう言われた事もあったな。それでも……俺達は、耐えた」
「その…」勝山が口を挟む。「そんな目にあわされて、どうして魔族の国でがんばったのかな。そんな国、こっちの方で捨ててやる、とか思わなかったのかな?」
「あなた、話を聞いてなかったの?」
 そう反論したのは、意外にも逸美だった。
「最初に言われてたでしょ? 魔族は魔物だって、人間からずっと迫害されてたのよ。捨ててどこにいくのよ。それに、敵は魔族の血を引いているってだけで、子供を収容所に入れるような国よ。もしその人達が魔族の国を捨てても、今度は人間達から迫害されるのがオチよ。そうですよね? 涼宮さん」
 うん、とちょっと驚いたように透が頷いた。苦笑ではない笑みが、ようやくその顔に浮かんでいる。
「そういうことだよ。お…僕達が人間の捕虜になった場合、人間の血を引く癖に魔族に従ったと嬲り殺しにされることも知れ渡っていたし。なにせ、混血部隊の兵士は隊長を除いてどれも下っ端で、捕虜にしておいても意味がないんだから。それに……その頃にはもう、僕達はあの国、魔族の国にすっかり馴染んでいて、皆の家族の中にはあの国で生れ育った者も多くいたんだ。……混血の僕達が魔族として生きると決め、忠誠を誓ったあの国こそが、もうとっくに僕達の故郷になっていたんだよ」
 済みません、と勝山が頭を下げる。
「その……ここまで具体的な、すごい濃い内容の話だとは思わなくて……。録音するのもダメだって言われてましたし、えっと、……だから、そのー……」
「ちょっと休憩しない?」
 そこで、ようやく繭里が口を挟んだ。
「この話をすると、透、とっても疲れるのよ。ひと休み、いいでしょ?」

 改めて、今度は紅茶とスコーンが─レンジで暖めた上に、本格的にクロテッドクリームとジャムを添えて─全員に並べられる。これだけされると、何となく真剣に休憩を取らなくてはならないような気がして来るから不思議だ。
「……透、本当に大丈夫?」
「疲れてないかってことかい? だったら大丈夫だよ。久し振りだったから、ちょっと夢中になっちゃったけどね」
「確かに夢中になってたな」
 ずっと無言でいた香坂教授が、どこか苦い口調で言った。
「雰囲気がどうもおかしくなっていやがったぜ? ああなるのはよくねえって、記憶だろうが何だろうが、ちゃんと冷静に話せるようにならないとダメだって、イマさん達からも言われてただろうによ」
「透はあの隊長さんの話になると、ホントに我を忘れちゃうのよね」
 からかうような繭里の言葉に、透は「うん」と真面目に頷いた。
「その……そいつ、のこと、お前本当に好きだったんだな」
 勝利が確かめるように問いかけると、透はスコーンを飲み下しながら、嬉しそうに「そうなんだ」と笑った。
「軍人としてはもちろんだけど、人として、男として、本当に素晴しい人なんだよ! あの人への気持っていうか、尊敬の念というのは、今も全く変わってない」
 にこやかにそう言い切る透を、香坂教授達がそっと眉を顰める様に見守っている。その様を、勝利は視界の端で捉え、突然こみ上げてきた不快感に顔を背けた。紛れもない愛情から出発していながら、それでも彼らは透の話を無条件で信じてやる事はできないのだ。それは確かに当たり前の事かもしれない。勝利にしても、家族の秘密を知らなければ、今頃半ば心を病んだとしか思えない友人を、哀れみの目で見ていた事だろう……。
 それにしても。
 勝利は軍隊を知らない。戦争ももちろん知らない。だから軍人として素晴しいというのがどういう事なのか全く分からない。そして、剣を構え、兵を率いるコンラッドというのが、どんな姿だったのかも全く想像することができない。
 勝利が知っているコンラッドといえば、一晩中酒を飲みながら、有利の可愛さと、有利がいかに歴史に残る名君かを、瞳をきらきらさせながら真面目に語っていたりとか、無気味な携帯ストラップをじーっと見つめて悩んでいたりとか、温泉で、有利が髪を洗うのを手伝おうと手を伸ばして、有利に恥ずかしがられ、勝利に叱られ、村田にからかわれて、しょんぼり肩を落として湯舟に浸かっていたりとか……。
 つい半月前のプチ旅行を思い出して、勝利は思わず額に手を当て、それからハッと目を瞠いた。
 ………コンラッドの身体の無数の傷跡。
 剣の達人と聞けば、全国大会優勝者とかそんな次元でしか考えられない勝利は、その傷が何なのか見当がつかなかった。他の客は色んな意味で注目していたものの、有利も村田も彼の傷についてはまったく気に止めた様子も見せず、だから勝利も何となく尋ねるのが憚られたのだ。
 ………だったら、あの傷は……。
 剣で人と斬りあう。テレビや映画で見る以上の感覚を勝利は知らない。

「……想像してた雰囲気と全然違うんで、実はちょっと困ってます」
 苦笑を浮かべながら、駒井が率直そう言った。
「心理療法の一種のように考えていたんですよね。凉宮さんの、済みません、その、心の問題というか、歪みっていうか、そんなものの根っ子が物語に現れていて、心理状態のプロセスみたいなものが読み取れるんじゃないかと思って最初は聞いていたんですけど……」
 私もそう、と逸美が小さく笑った。
「分析できると思って。保育園の頃からそれを話し始めたって聞いてたし。だから……。でも全然違ってたわ。何だか、その、凉宮さんがストーリーテラーとしてすごい才能を持っているんじゃなかったら、その……何ていうか……ものすごく真に迫っているし、まるで現実の事みたいに聞こえるというか……」
 隣で勝山も頷いている。
「研究者がそういう事では困るねえ」
 嗜めるような今井田教授の声に、3人が小さく肩を竦めた。
「自分が記憶していると思い込んでいる事が、実は後の経験から導かれたものである場合も多いと、講議で教えてあったはずだね? 特に幼少期の記憶はね。人から聞いた話や、テレビや映画でみたワンシーンの強烈な記憶が脳に記銘され、保持され、やがて何かの折にそれが自分自身の経験として想起されてしまう事があり得るんだよ? 透君には悪いが、魔族という設定や、軍隊の記憶、それからいかにも映画のヒーローらしい隊長のエピソードなどは、まず間違いなく童話や映画、その他数種類の媒体から集められた素材が練りあわされ、それが透君の成長と共に熟成されていったものであると言える。それは……」
「おい、イマさん……」
「透君の話を聞いたカウンセラーや精神科の医師も同じ意見で……」
「イマさんっ!」
 香坂教授の厳しい声に、ハッと目を瞠いた今井田教授は、次にしまったという様に顔を歪めた。
 透が。
 冷たく、軽蔑したような眼差しで祖父の友人を見つめている。
「心理学的考察など無用だと、申し上げていたはずですよ。今井田先生」
 あーとかうーとか、意味のない言葉が教授の口から洩れてくる。その姿からふいと視線を外して、透は嘲笑にしか見えない笑みをその顔に浮かべた。
「……僕のあの頃の記憶が、全て幼児期に見た映画やマンガの影響だというなら。そしてそれが、僕の後からの経験で肉付けされたものだというのなら。だったら……あの、人の肉を剣で切り裂く感触も、腱や筋が切れる音も、血飛沫の熱さも、全部僕の成長してからの経験なんですね? 死にかけた兵士の呻き声も、戦場で腐っていく死体の臭いも、そし山をなす死体の真ん中で噛み千切った干し肉の味も……!」
 勝利を除く全員が、困ったように身を竦めた。透の嘲笑は、顔に貼り付いたままだ。

 ずっとこんなだったのなら。どれほど真面目に聞いて貰えても、ずっとこんな調子だったのなら。
 透は全く救われない。
 勝利は、自分の傍らにあるバッグにちらと目を遣った。
 透を救う術を、勝利だけが持っている。

「……戦況が悪化していって」唐突に、透が話の続きを始めた。「混血の置かれた状況は悪くなるばっかりだったけれど、それでも仲間と共にいれば、そこには笑いもあった。どいつもこいつも気性は荒いし、無茶ばっかりやるし、品はないし、頭も良くないし。でもイザとなれば背中を預ける事のできる大切な、掛け替えのない友ばかりだった。そして全員が隊長を心底敬愛してた。色んな話をして、喚いて、怒鳴って、時には殴り合いの喧嘩もして。でも最後には、『隊長と共に!』と、そう叫んでいた。隊長もしょっちゅう俺達と一緒に酒を酌み交わしていたっけな。本当に、身分なんかには目もくれない人で……。でもあの人は……。俺達には友も家族もいたけれど、あの人は部下である俺達を除けば、本当に独りぼっちだったんだ」
 こんな事があった。透がふと思い出したように言った。
「何だったかな、書類か何かを大量に運ばなけりゃならなくなって、隊長に言われて俺と、それから隊の副官が一緒に王宮に入っていったんだ。めったに入る事のない城の中だから、俺は結構楽しんできょろきょろしてたっけな。一緒にいるのは隊長と、それからあの収容所で幼い頃から一緒にいたヤツだったから気も楽で、わいわい話を弾ませながら歩いていた。そしたら、反対側から何人かがやってきたんだ。それは……隊長の弟と、その取り巻き連中だったんだな。まあつまり、殿下と上流貴族の若君様方だった訳だ。俺達を見つけた途端、そりゃもう盛大に眉を顰めてくれてね」

『……イヤな臭いがすると思ったら、ほら、混ざり物がこんな所に紛れ込んでいるぞ』
『お前達ごときがどうしてこのような場所にいる!? 人間に流す情報でも集めようというのではあるまいな!』
『おお、人間臭い! 城の空気が汚れる。とっとと出ていけ!』

「……隊長は冷静に、表情一つ変えず『任務だ』と答えた。でもその態度がヤツ等の癇に障ったんだろうな」

『……無礼者! 殿下の御前であるにも関わらず、何だその不遜な態度は!』
『殿下に対してお詫び申し上げろ!』

「…その殿下は、隊長の実の弟だ。隊長は、弟と、それから取り巻きの貴族連中の顔を見回してから、ゆっくりと頭を下げた。そして『申し訳ありませんでした』と……弟に向かって臣下の礼をもって謝罪したんだ……」
「その…弟はどうした?」
 以前有利に聞かされていた話を思い出して、勝利は思わず問い返した。
「……その間ずっと無言のままでいたな……。そして、隊長が頭を下げて、だから俺達も一緒になって頭を下げて、そしたら、あの弟がそこでようやく口を開いた……」

『……失せろ』

「それだけ言って、そのまま取り巻きを引き連れて去っていったよ……」
 それはたぶん、兄貴が自分の取り巻きに蔑ろにされているのを見るに忍びなかったんじゃないかな。
 と、言いそうになって、勝利は慌てて口を噤んだ。
 勝利がそれを言えるのは、弟の話を聞いているからだ。
 兄貴が大好きなのに、いまだに意地を張っているというコンラッドの弟。その理由は、今ようやく分かったが。
 おそらくは戦時中、敵である人間の血を引く兄を慕ってみせることができず、そして戦後も、仲を改善する機会をつかまえる事ができないまま今に至っているのだろう、コンラッドの無器用な弟。確か有利からも、かなりプライドが高いという話を聞いているし……。
 しかしコンラッドは、そんな弟への土産を当然の様に用意していた。
 三日月を象った、繊細な彫が美しい銀細工のストラップ。
 その弟は、コンラッドの土産をちゃんと受け取ってくれただろうか……?

「……敗色が濃厚になって、ついにある一つの都市が陥落すれば本格的な本土決戦となり、状況は最悪になる。そういう所まで来た時だった。その都市から、中央に救援要請が届いたんだ」
 その時をあらためて思い出したのか、透の顔が苦しげに歪んだ。
「敵は圧倒的な数で押し寄せてきていた。なのに、こちらの主だった戦力は、全て別方面に展開していて、その都市を陥落から救うだけの戦力を集める事はその時点でもう不可能だった。その状況は、実際の戦場を駆け回る俺達が誰より良く分かっていた。兵士の絶対数が、あまりにも…掛け離れていて……。むしろこの戦力で、よくもここまで持ったと感心する程だった。自分達では、国力もあるし、戦力もそれなりに揃えたつもりだったけど、でも、周辺国を滅ぼし統合する事で巨大化していったあの国の戦力には、到底及ばなかったんだ……。もうダメだと、あの街は、もう捨てるしかないと、そして王都を中心とした防衛線を新たに構築して、そこに全戦力を投入して決戦に挑むしかないと、皆そう覚悟をするようになっていた。それなのに……」
 それなのに。キリ、と、透のおそらくは奥歯が噛み締められて不快な音を立てる。
「あの……摂政は……魔王、は………!」
 憎悪が、悔しさが、滲む声。

「命じたんだ、俺達に! お前達が行け、と。混血のお前達が行って、あの街を救ってみせろと! お前達の忠誠心が本物だというなら、絶望的な状況の、もう陥落寸前の、圧倒的な数の敵がいるあの街に行って、立派に戦ってそれを証明してみせろと! 行って、そして、華々しく死んでみせろと!!」

 初めて。透の瞠かれた瞳から、ぽろぽろと涙が溢れて零れ落ちた。ひゅうひゅうと、荒く不規則な呼吸が、その口からもれる。
 透の視線は正面の勝利に向けられていながら、どこか全く違う何かを見つめて、いや、睨み付けていた。
「………それだけじゃない……。あいつらは……その指揮官として……隊長を任命した……。向かう場所は紛れもない死地なのに……。そんな戦場に、歴とした魔王の息子が、王子が、向かわされるなどあるはずはないのに。あってはならないはずなのに……。あいつらに戦略などあったわけじゃない。元から勝つ事を望まれていた訳じゃない。自分は戦場に一歩も出る事なく、兵士がどれだけ無惨に死んだとしても、わずかの痛みも覚えないあの男は……ただ、目障りな混血を一掃したかっただけなんだ。そして誰より、その頃には軍の大多数を占める下級兵士達から絶大な信頼と尊敬を得ていた隊長を……消し去りたかっただけなんだ……!」
 勝利は、瞬きはおろか呼吸する事すら忘れて、透の言葉に聞き入っていた。勝利の目の前で微笑む、コンラッドの顔が目に浮かぶ。
「………隊長は、王宮の大広間に呼び出され、魔王陛下と、摂政と、そして上級貴族達が居並ぶその場所で、出撃を命じられたんだ。………死ねと命じられたんだよ。実の……母親と伯父にね……」
「あいつは……」口を滑らせてから、勝利は慌てて咳払いした。「ゴホ……その、そいつ、お前達の隊長は、何て……答えたんだ?」
「隊長は……」
 透がふと目を閉じた。まるでその瞬間を待っていたかの様に、大粒の涙が頬を流れて落ちた。
「隊長は、一言、こう答えたと聞いた……」
 透が目を開き、まっすぐに勝利を見た。

「名誉である、と」

 どん、と。背中と胸の両方を、巨大な何かでぶん殴られたような気がした。本物としか思えない、そんな衝撃が勝利を襲った。

 コンラッド。あんた。

 さんざん苦労して。さんざんイヤな目にあって。この日本で20年ばかり生きてきた俺には、到底想像も理解もできない人生歩んできて、極め付けに親だの伯父だのから戦場で死んでこいと命令されて。
 それでもあんた、そう言えるのか。言えるんだな。あんた、そういう男なんだ。
 きっと、緊張したり、驚いたり、恐怖におののいたり、そんな顔全く見せなかったんだろうな。
 きっと間違いなく、堂々胸を張って、自分にそんな命令をする相手を真直ぐに見据えて。あの声で。
 あんたは、言い切ったんだろう。

 コンラッド。なあ、コンラッド、あんた。

『……勝利。俺は幸せなんだ』
 お台場のホテル。大きな窓の外は夜の河口。窓の両端にビルの灯がちりばめられ、間を繋ぐのはレインボーブリッジ。眠らない都会のビルの窓からもれる白い光。赤く点滅するのは航空障害灯。そしてライトアップのパターンを目まぐるしく変える大観覧車。
 そこは、弟と弟の名付け親が過ごす事になっている部屋で。
 弟のお友だちは自分の部屋に戻っていた。弟といえば、日中温泉に入ったにも関わらず、せっかくお金を出しているんだからホテルの設備を堪能せねばと、その日2度目の風呂に入っていた。……貧乏性の魔王だ。
 そして弟の名付け親は、夜の埋め立て地の灯を見つめながら、ウィスキーのグラスを揺らしていた。

『……今まで、結構色んな経験をしてきた。どうして自分が生きているんだろうと思うような時もあった』

 今思えば、何と控えめな表現だった事か。

『でも……これまでのそんな様々な経験も、その時々に抱いた思いも、全てを集めても、今の俺の幸せには到底追い付かないんだよ』

 ウィスキーを舐める様に口に含んで、街の灯を見つめる男は微笑んだ。

『……もしかしてそれは、たぶん思い上がりじゃないと思うが……ウチの野球小僧がいるからか?』
『うーん……』小さく首を傾げる。『ちょっと違うな』
『違う?』
『ああ。……ユーリがいるから幸せなんじゃない』
 くすりと笑って、視線をこちらに向ける。

『ユーリが、俺の幸せなんだ』

『………悪いが……そのニュアンスの違いがよく分からんが』
『実は俺もよく分からない』
 くすくす笑いが止まらない。
『あのな……まさかその程度の酒で酔っぱらったわけじゃないだろうな?』
『まさか』
『でも……』
 口を開いた時、パジャマを着た弟がバスルームから出てきた。
『コンラッド、お待たせー。……あれ? 何だ勝利、まだいたのか?』
『ユーリ、また髪を洗ったんですか? 1日に2度も洗ったら、髪が痛みますよ?』
『へーきへーき。もうすっかり痛んでるから』
『何を言ってるんです。ああ、まだそんなに濡れて……』
 歩み寄ると、弟からバスタオルを奪い取り、丁寧に髪を拭いはじめる名付け親。
『風邪をひいてしまいますよ。ちゃんと拭かなきゃ』
『大丈夫だってばー。自分でできるってばー。コンラッド、くすぐったいよお』
『いいから、任せて』
 ほとんどもうじゃれあってるような二人をうんざりした気分で眺め、眺めている自分が情けなくなり、グラスを置いて立ち上がった。ウチの弟に妙な手を出すなと怒鳴り付けるには、名付け親と名付け子で、異世界における保護者と被保護者で、でもって王様とその護衛だというこの二人の関係は自分の常識範囲外で。
 おまけに、自分にとって何より大切な弟の存在を、「俺の幸せ」とああも見事に言い切られてしまった直後では、間に割り込んで引き離すのは何故かいけない事のような気がしてしまって。
 結局、「お休み」と一言言い置いて、部屋を出た……。


「……その地に向かう事になって、でも、後込みするようなヤツは俺達の部隊に1人も居なかった。それどころか、俺達がかの地に向かうという話が広まって、国中から混血達が集まってきたんだ。それこそ、訓練もろくに終えていない新兵まで。共にその地に向かおうと……」
「どうして?」逸美が口を挟んだ。「だって、行ったら戻って来れないような戦場だったんでしょう? どうして他の人まで……」
「もちろん、祖国を救いたいと思ったから。心から愛する国を、生活する土地を、同胞を護りたいと思ったから。そして……混血の俺達がこぞって忠誠心を示してみせることで、他の、戦う力のない混血達や、そして俺達の家族を……護りたいと思ったから……」
「それは、つまり……」
 勝利は。絶望的な気分で口を開いた。
「全員玉砕を覚悟したってことだな? もうそうする以外……」
「そうする以外」透が後を継いだ。「戦える俺達が戦いの中で死ぬ以外、文字通り国に命を捧げる以外、もう家族を……俺は妹を、護ってやる術がなかったんだ……!」
 沈黙が研究室を支配した。
 そこは地球で、日本で、平和な春の陽射しが明るいのどかな昼下がりで。
 それなのに、その場に居合わせた彼らだけが、悲惨な戦場に向かう事を余儀なくされた人々の歴史に身体を強ばらせていた。

「……その日がきて。俺達はかの地に向けて王都を出発した。総勢4000にも満たない師団だった。多くが、隊長のお父上が魔王陛下から賜った土地の出身者で、だから師団の名称はその土地の名が冠された。……4000弱という数字がどれほどの戦力か分かるか? ものすごく多いと思うかな。でも……実際はないにも等しい数だったんだ。なぜなら……向かう土地を襲撃した敵は、軽く3万を超えていたんだから……」
 そんな、と逸美が呟いた。
「ろくな補給も装備も与えられなかった俺達がぶつかってどうにかなる数じゃない。それでも、俺達は出発した。夜……誰1人として見送る者もない旅立ちだった。普通そんな部隊が出陣する時には、沿道に街の人々が集まって盛大に送ってくれるんだけどね。最初の頃は旗を振ったり、花を撒いたりとかしてたな……。でも俺達の時は、街の者は皆固く扉や窓を閉ざしていた」
「……ご家族は……?」
 駒井の質問に、透が首を振る。
「混血部隊を見送ったりしたら、関係者だって分かるじゃないか。街の者に見られたら、俺達が行ってしまった後、どんな目にあわされるか分からない。だから誰も家族を見送りにこさせなかった。もちろん俺も。妹とは村で別れの言葉を交わして、ちょっとした手作りの、まあ形見の品なんかを渡して。……それから渡せるだけの金を世話してくれる夫婦に渡して後の事を頼んだ。……待ってると妹は言ってたな」

『待ってる! 私、ずっと待ってるから! 窓を開けて、お兄ちゃんが帰ってくるのをずっと……。だから、だから必ず……かなら、ず………』

「……帰ってきてくれと、泣きながらそう言ってた。でも……」

 帰れなかった。

 短い一言の後、口を閉ざした透の目に、もう涙はなかった。ただ、シンと静かな、全ての感情を味わい尽した後の、涙を流し尽した後の、無垢なまでにまっさらな表情がそこにあるだけだった。
 透の視線は、研究室の窓の外に向いている。
 窓の外には、春の青空。
 その青をじっと見つめて、それから穏やかな瞳を再度勝利達に向けた。おそらくさらに悲惨な戦場の、さらに無惨な経験を語るはずにも関わらず、切ない程に穏やかな瞳を。

「……………あの街に到着した時、もう勝敗はほぼ決していた。それでも、俺達は退く訳にはいかなかった。同時に無駄死にする気もさらさらなかった。もしも……もしも敵が勝利に奢って油断してくれれば、俺達をうっかり紛れ込んできた間抜けだと甘く見て掛かってきてくれれば、俺達にも勝機がある。そして俺達自身は、多くが最前線を戦い生き残ってきた歴戦の戦士だ。それにもう後はない。生きて帰れば敵前逃亡とされることは間違いない。家族も殺される。だから自分達はここで死ぬ。その覚悟が、俺達をさらに強くしてくれる。皆、そう信じた。たとえ最後には全滅させられる事になろうとも、必ず敵にも深手を負わせ、俺達を敵にしたことを後悔させてやろうと。………だけど隊長は……」
 隊長は。そう言って、透は小さく微笑んだ。ひどく老成した笑みだと勝利は思った。
「それでも、死ぬなと俺達に言った。1人でも多く生き残ろう。そして俺達がどれほど立派に戦ったか、皆に伝えよう。そして」

『いいか、絶対に無駄に命を捨てるんじゃない。命を捨てて家族を護るより、命を拾って家族の元に帰ろう。そして自分のこの手で護っていこう。命汚い俺達ならそれができる! この戦いが終わったら、もう絶対に混血を貶めさせたりしない。絶対に、俺達を認めさせてみせる。今度こそ、俺を信じてくれ! いいか、命を捨てる覚悟じゃなく、生きて帰る希望をこそ力にするんだ! ……皆で、生きて帰ろう。大手を振って。胸を張って!』

「……もしただ1人、生延びて欲しい人がいるとしたら、それは隊長だった。隊長が生きてさえいてくれれば、きっと全ての混血をこれから護ってくれるだろう。俺達は自分の家族しか護れないが、隊長のその腕なら混血の魔族全てを護ってくれるだろう。………でも、隊長は指揮官だからって、皆の後ろで大人しくしている人なんかじゃなかった。………いつも、どんな戦況でも、あの人は、まっ先に敵に向かって飛び出して行った。剣を振り上げ、雄叫びを上げて、敵の渦の中に飛び込んでいった。俺達を率いて先頭を走るあの人の姿は、本当に……見る度胸が震えるほど雄々しい姿だった……!」

 そんなコンラッドは知らない。知りたくもない。勝利はそう思う。きっと……有利も同じはずだ。

「俺達は……簡単にはやられなかった。隊長が言う様に生きて帰れるとは思っていなかったけれど、でも、1人でも多く敵を道連れにと死に物狂いで戦った。3万対4000……。それでも俺達は互角以上に戦ったと思う。……地面は文字通り死体で埋め尽されて、敵か味方か分からない死体を、俺達は踏みつけて前進した。雨も降っていないのに、触れる場所は全て濡れて……赤黒く濡れていた。溢れる血飛沫で、風まで赤く見えた。空気は生臭く淀んで、俺達は死体と血でどぶ泥のようになった大地を、それでも突き進んだ……。人間を1人屠れば、重量級の広刃の剣で肉を叩き潰し、骨を砕き、血管を千切り、頭を脳天から叩き割れば。そうやって1人、また1人、この手で殺した敵の死体を踏みつぶしていけば、妹の命を一日、また一日、伸ばしてやれるような気がしていた……」
「………………すみません、あの……」
 挟まれた言葉にふと見ると、勝山が青い顔で胸を押さえていた。
 それを無表情にちらと眺め、それから透は何もなかったように口を開いた。
「今の言葉で言えば、あれが生き地獄というやつなのかな。ただ、死だけが溢れた世界……。ただ分かる事は、俺達はあの世界で、地獄に落とされた哀れな罪人ではなかったということだ。俺達は、俺達こそが、あの世界の、地獄の……鬼だった……」



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進まないというよりも、その時に至るのを書くのが、もしかしたら辛いのかも知れません。
だからこうも遅々として進まない、というのは、単なる言い訳かなー。

凉宮君の語りは、1人の平兵士が見聞きしたものでしかないので、かなり一方的な判断の上に立った話である事は間違いないです。

心理学的なお話についてですが、もう力一杯いい加減です。
臨床心理学者という実在の名称を使ったキャラではありますが、本物の学者様やカウンセラー様が、話を聞く相手に対してこのような態度をとることはないと思われます。
口にしていることも、全て私が適当に作ったものであり、実際の話を元にしたものでは全くありません。
どうかその旨何とぞご了解下さいませ。
もしも、その分野の方、もしくは関係者がおいでになりましたら、ご不快を覚えられるかもしれません。
もしおいでになりましたら、平にご容赦お願い申し上げます。

ご感想、お待ち申しております。