「渋谷君は………生まれ変わりって、信じる……?」 きっかけは、色褪せた表紙の1冊のノートだった。 そう長くも深くもない付き合いだが、それなりに「いい友人」の1人が彼のすぐ側で落としたそれ。 反射的に伸ばした手は、持ち主よりも早くノートに辿り着き、彼はそれを何気なく拾い上げた。 「ああ、ごめん。ありがとう、渋谷君」 そう言って手を伸ばした友人に、これまた何気なくそれを手渡そうとした時、ふいにどういうはずみかノートが開いた。 「…………何だ、これ……?」 ノートにびっしりと書かれていたのは、文章らしき何か。解読不可能な文字。他人のノートを無断で見るのはどうかと思うが、それでも何とも見慣れない流れるような形から目が離せない。 彼が知る限り、地球上に存在しているとは思えない文字。アルファベットではもちろんなく、強いていえばアラビア語に近いか。しかしこれは……。 「………ごめん、返してくれるかい?」 友人が、どこか哀しげに微笑んで手を伸ばしている。 「あ……悪い」 反射的にそれを返して、そこから広がった沈黙に、友人は視線を落とし、彼は困惑した気分で頭を掻いた。 「………もうずっと前にしまっておいたのを、今朝たまたま見つけちゃってね。つい……持ってきてしまったのがまずかったかな……」 照れくさいというよりも悔しげに呟く友人を、彼は更に困惑を深めて見つめていた。 ノートを勝手に─わざとではなかったとは言え─覗いたのは彼だが、書かれた文字は全く読めなかったのだし、それでもやっぱりプライバシーを侵害………っていうか、何でこいつはこんなに辛そうなんだ? 「………あー…、お前、英語が堪能なのは知ってたけど、語学全般が得意なんだな」 「……え?」 「え、あ、いや、それ」とノートを指差し、「…どこの国の言葉かは知らんが……アラビア語圏、あ、もしかしてアフリカ系統とか…? だとしたら、かなりコアな趣味というか、えーと……?」 「違うよ、そんなんじゃない」 友人が小さく吹き出した。 「これは……この世界の、どの国を探しても存在しない文字、だよ」 「……………何だと…?」 訝しげに眉を顰める彼の存在を一瞬忘れたように、友人はノートの角でコツコツと額を叩いた。 「………ダメだな、僕は……」 友人が浮かべた表情は、間違いなく自嘲のそれだった。 「……ちょっとでも興味を持ってもらえたら……話してしまいたくなる。話して、たくさんの人に話して……そうすれば、僕の欲しい言葉をくれる人がいるんじゃないかと期待してしまう。……期待するのはもうやめようと……あんなに心に決めたのに……」 苦しげに、ノートの角を額に当てたまま、ぎゅっと眉を顰める友人。 「……おい? 大丈夫か……?」 思わず手を伸ばし、友人の二の腕をぐっと握る。友人がハッと顔を上げた。そして。ゆっくりと彼の方に顔を向けると、哀しげに、だが酷く何かに飢えたような、不可解な表情を瞳に宿して彼を見つめてきた。 「………渋谷君」 何もかも諦めたような。それなのに、何かを期待するような。声。 「渋谷君は………生まれ変わりって、信じる……?」 生まれ変わりねえ。 ぐい、と生グレープフルーツハイを飲み干して、渋谷勝利はちょっと眼差しの遠くなった自分を自覚していた。 「おんなじの、おかわり」 通りかかったお姉さんにグラスを振る。勝利の前にあるグレープフルーツの残骸を確認して、お姉さんは「はーい、かしこまりましたー」と笑顔で去っていった。 それから徐に、正面に座る友人、凉宮透の、見慣れた顔を確認するように覗き込む。 「弟によると、クレオパトラの生まれ変わりは世界中に100人はいるらしいぞ。お前が何の生れ変わりだと主張するつもりかしらんが」 凉宮は、梨園の御曹子風に整った顔に微笑みを浮かべている。………そんなに長いつきあいではないが、こういうジャンルの話題を振るやつとは思わなかった。 「……金星人だったとか、銀河連邦の戦士だったとか、そういうのならこれ以上は聞きたくない。俺はトンデモ系は嫌いなんだ。…ついでに言っとくが、俺はお前をいい友達だと思ってる。これからも友達付き合いをしていきたいと思ってる。だからつまらない話でなくしたくない」 「……嬉しいな」 「…は?」 「こういう話をするとね、大抵誰でも最初は真面目に聞こうという顔をするんだ。宇宙人との接触とか、幽霊を見たとか、話にはさんざん聞かされるけど、中々実体験のできない話題の一つらしくてね。ものすごく熱心に聞いてくれて、全部聞き出して、たっぷり楽しんで、で、翌日から僕は『普通である自分達とは違う変なヤツ』『アブないヤツ』の座にめでたく座らされるという訳。どんな当たり前の会話をしていても、皆僕の顔を真正面から見ようとしなくなる。それが数人集まると、くすくす笑いやらわざとらしいひそひそ話やらが加わって、結果、友人という友人全てをなくしてしまう。……これって、保育園児だろうが中学生だろうが、全然変わらないね」 「……そんなのべつまくなし、自分の前世とやらを吹聴しまくってたのか?」 「まさか」友人が吹き出した。「子供の頃にはちょっとね……。中学の頃に少々打ちのめされて、以来ほとんど口にした事はないよ」 「…って、そんな昔から自分の前世なんてモンを思い描いてたのか?」 勝利の言葉に、ちょっと傷ついたように友人の男は眉を顰めた。 「思い描く、ってのはきついな……」 「……あー……すまん」 真実はどうあれ、友人はそれを本当に自分の前世だと信じているのだろう。だったら勝利の言葉は少しばかり配慮に欠けていたかも知れない。……妄想と言わなくてまだよかった。 内心はどうあれ、素直に頭を下げた勝利に、友人はほうっと肩の力を抜いた。 「……幼稚園に通っていた頃から、妙な風景や光景が頭に浮かぶようになって……小学校の終り頃には、前世の自分の……物心ついた年代から死ぬ直前までの記憶をほぼ取り戻していたよ」 「…………そりゃまた……」 すごい想像力だ。小説家を目指せば良かったのに。…とは言わない。 「で? 欲しい言葉ってのは何なんだ?」 「……え?」 「さっき呟いてただろうが。前世を知ってるって話をして、どんな言葉を言って欲しいんだ?」 その言葉に、じっと勝利の顔を見つめていた凉宮は、それからふと笑みを浮かべた。 「ありがと、渋谷君」 「……なんだ?」 「もういいんだよ。……僕は今、普通に大学に通ってるし、友達も多くはないけどちゃんといるし、コンパにも合コンにも誘われるし、将来を見据えて勉強もしてる。…だろ?」 ああ、と勝利は頷いた。ほっそりとした上品なお坊ちゃま風の外見もあって、結構もてる。それに、穏やかそうに見えるが将来の希望は検事になることで、特捜部勤務が夢だと言う。おまけに、在学中に現行司法試験に合格するんじゃないかと噂される程の秀才だ。 「僕はもう、前世の思い出なんかに振り回されて、自分を見失うようなことはない」 だったら。勝利は、どこか遠い所を見つめる友人の顔を見守りながら思った。 だったらどうしてそんな泣き出しそうな顔をしてるんだ? 前世の記憶。 実は約1名。該当者を知っている。 弟のお友だちで、人の神経逆なでするのが趣味なんじゃねーかと勘ぐりたくなるようなヤツが。 そいつは、四千年に渡る転生の歴史を、全て記憶しているのだとぬかしやがった。 「ああ、いいんだよ。そんな恐れ多いからってひれ伏さなくても」 誰がひれ伏すか、ボケ! 怒鳴りつけてもくすくす笑い続けた、日本一頭のいい高校生。 四千年? 人ってのは何か? 不老不死を手に入れても、仙人にも聖人にもなれず、ただ人格が崩壊していくだけなのか? 「……村田、性格が発酵してるから……」 お馬鹿ちんの弟にしちゃ、いい表現だと思った。 「ただいま」 「あらぁ、しょーちゃん、早かったわねえ」 その言葉に勝利がリビングの時計を見上げれば、時刻はちょうど9時半。……早いかな、早いかもな。 「ご飯、食べてきたんでしょ? お風呂入る?」 ああ、と頷いて、勝利は視線をリビングの真ん中に向けた。 弟が、ソファにも座らずカーペットに直にぺたんと坐り込んで、ローテーブルにノートを広げ、何やら食い入るようにテレビを見つめている。 テレビでは、どう考えても弟が観るとは思えない、堅苦しいドキュメントタッチの番組が流れていた。 「何みてんだ? 有利」 「………アフリカの……内戦があって、虐殺があって、なのに国連が全然機能しなくって……それがどうしてかって……」 番組に夢中なのか、答える言葉がかなりいい加減だ。何となく眺めていると、有利はふと何か思いついたようにペンを握り、開いたノートにメモを取り始めた。 「レポート書くなら録画しとけ」 「してる」 ……弟とは思えない真面目さだ。 「ゆーちゃんはねえ、近頃こういう番組をすっごく真面目に観てるのよ。えらいでしょ?」 褒めたげて、おにーちゃん。 その言葉に促されるように、テーブルに近づき、弟の手元を覗き込む。 「単位がかかったレポートなのか? 分からないことがあったらおにーちゃんに……」 「レポートじゃねーよ。これは日記!」 日記ぃ? ちょっと声が裏返る。 「……なんでそんなモノをここで…? てか、お前、日記を書く習慣なんてもってたか?」 いつもいつでももれなく三日坊主だろう? そう言って覗き込んだノートの内容に、勝利は目を見張った。 『○×※△▼☆◆。テレビ●ワールドドキュメントでアフリカの□×●◎▽、◇$石油採掘の利権が■○§▲●○※£♭なので、国連の安全保障会議では………』 「………何だ、これ?」 日本語の文章の間に虫食いのように訳の分からない文字。 勝利の言葉に、どこかムッとしたような顔で有利が兄を見た。 「向こうの言葉の練習だよ。……文字の練習をするには、日記を書くのが一番だって村田が……」 「それにしちゃ、半分以上日本語に見えるんだがな」 「辞書がないんだから仕方ないだろ! 後で村田に見てもらって、添削してもらって、単語とか熟語とか構文とか教えてもらうんだよ!」 ほら、と言って渡された別の手帳サイズのノートには、開くとぎっしり単語が並んでいた。 「………こんなモン、こっちじゃ何の役にも立たないだろうが。英語やれ! 英語!」 「…るっさいな!」 キッと眦を釣り上げて、有利が上目遣いで兄を睨めつけた。 「俺は眞魔国の王だぞ! 自分が治める国の言葉もちゃんと読み書きできないなんて、民に対して恥ずかしいじゃないか!」 ぽちゃん。 水音が響く。 勝利は湯気の立つ湯舟の中に、顎の下までゆったりと身を沈めた。 住んでる所は埼玉県。大黒柱は銀行員。妻はお気楽専業主婦。一流大学に在学中の長男。ちょっとお馬鹿な県立高校生の次男。猫の額的庭付き4LDK一戸建て。 勝ち組でも負け組でもない、平凡な、普通の、一家。 ちょっとだけ普通と違う所があるとすれば、長男がいずれ東京都知事になるということと、それから……。 次男が一国の王様で、それも魔王だっていうことだ。 「誰が聞いても………笑うな、普通……」 凉宮を笑うどころじゃない。渋谷家の方がよっぽど「アブない」家族だ。 「実はねー、しょーちゃん。パパね、人間じゃなくて魔族なの。ママは残念ながら人間なんだけども。でもってしょーちゃんも魔族なのよー。すごいでしょ? 何だかとってもファンタジーで明るい未来が待ってそうな気がするでしょ?」 「ゆーちゃんなんだけどな? 実は、異世界の魔王陛下なんだな、これが! 王様だぞ、王様。どうだ、吃驚しただろ? わっはっは」 昔、「ローズマリーの赤ちゃん」という映画があった。ひと頃一挙に花開いたホラームービーブームの走りのような映画だ。当時かなりの評判で、勝利もDVDを借りて観た事がある。観て……思わず身につまされてしまった。 悪魔信奉者というのだろうか、サタンの信徒らの隠謀に巻き込まれ、見込まれ、頼みの夫まで取り込まれ、ついに悪魔の子供を産み落としてしまうローズマリーの恐怖の日々を描いた映画なのだが……。この、悪魔の子供を産む運命から逃れようと、独り必死に戦うローズマリーの姿が、母親美子に重なってしまったのだ。 とはいえ。 日本のローズマリー、いや、ハマのジェニファーはかなり様相が違っていた。 つき合っていた男が、四千年前から地球の、ある意味政治と経済を裏から支配している人間ではない種族─魔族であると知らされて、そのファンタジーな設定にすっかり大喜びしてしまったのだ。で、黒い翼をもった子供が産めるかも、とわくわくしながら結婚したらしい。 「魔族」と聞けば、例えキリスト教徒でなくても、魔界とか、悪魔とか、サタンとか、とにかくそういうものを想像するのが普通だろう。その手の連中は、人間を堕落させ、自分達の奴隷にし、人間界を暗黒の世界にしようと日夜努力(…ちょっと違うか?)している存在、というのが世の常識だ。ホラー映画では例外なく、おどろおどろしく、いかにも無気味に登場することとなっている。だから、黒い翼を思い浮かべた母の気持は分かる。しかし普通は………そんな身の上を主張する男と喜んで結婚したりしないだろう。この辺りが寛容な仏教徒というか、いや根本的に何かがズレているというか、ローズマリーと観客の恐怖は一体何だったんだと問い質したくなるような脳天気さ加減だ。 勝利が生まれた時、翼のない平凡な身体の赤ん坊に、美子はがっかりしたらしい。この辺りの心理状態は、今でも勝利の理解の外だ。 そして、勝利が生まれてから5年後、次男、有利が生まれた。有利は。 ………顔は可愛く性格は男前、野球をこよなく愛していて、勉強は苦手だが元気とやる気は胸一杯の……それでも平凡であることに変わりのない高校生の弟は。 齢15にして、地球と平行に並ぶ次元に位置する世界、つまり異世界の魔王の座についてしまった。らしい。 3月初め。ある出来事から切り出された両親の告白(…?)を思い出し、勝利はしみじみとため息をついた。 ……ヨタ話だと嘲笑い、絶対信じないと宣言してから1週間としない内に、周囲が一気に動き始めた。 両親のカミングアウトが「魔族」関係者に知れ渡ったのか、ここできっちり渋谷家長男の認識を改めておこうと、誰かがどこかで決定して、GOを出したのかもしれない。 両親だけじゃなく、祖父母、そして突如現れた「二つの世界に通じる『扉』を監視する『委員会』」の「委員」(何故か警察手帳を持っていた)とやらによってたかって「説明」され、「証明」され、そして他の誰でもない弟に、この上なく真面目に「告白」され。 ついには「分かった、信じる」と口走ってしまった。 それはおそらく真実なのだろう。他の連中はともかく、弟はそんなバカげたネタで兄をからかう様な真似はしない。それでも、平凡な毎日を過ごしていると、弟の告白が、とんでもなく趣味の悪い冗談にしか感じなくなってしまう。いや……冗談だと、思いたくてたまらなくなる。 「告白」してホッとしたのか、有利は時折「あちら」の事を口にした。 その中で、勝利が正直ゾクリと背筋を震わせた話があった。 有利は、いつも当たり前に家にいる。朝食事を掻き込むと家を飛び出して行き、毎日ちゃんと学校へ通って、夜は友人の家に泊りに行く以外は必ず家にいる。こづかいが足りなくなるとバイトをし、日曜はもれなく草野球。普通の高校生の当たり前の日常。だから、弟が魔王だと、王様だと聞かされても実はぴんときてはいなかった。 しかし、本当は違うのだと教えられた。 あちらの世界で数カ月、いや数年、もし暮らしていたとしても、地球に戻ってくるといつも5分と経っていないのだと。 だから、自分は本当は、もうずっと長くあちらにいるのだと。 分かるか? 上目遣いで不安そうに、そう尋ねる弟。 では。 登校して帰ってくるまでの数時間の間に。風呂に入って、髪を拭きながら出てくるまでの、ほんの数十分の間に。 弟は、自分達家族が全く窺い知れない世界で、護る事も手助けする事もアドバイスする事も、何もできない数カ月、もしくは……考えたくもないが、数年を過ごしているかもしれないということか…? 言葉の上の理解はできても、実感は湧かない。納得できない。……有利が、勝利にとっていつでもいつまでも護ってやりたい弟の有利が、もしかしたら、自分より長い人生を生きているかもしれないなどと。 弟の身上を知っていた両親にしても、それをどれだけ理解しているのか分かったものではないと、勝利は思う。おそらく、見た目何も変わらない息子の姿に、安心し切って、いや、安心しようとしているのではないか。 ほんのわずか。ほんの数分前と。 違う顔をしていると思う時がある。 こんな癖はなかったはずなのにと思う時がある。 雰囲気や仕種が、どこか、何かが違うと、妙な違和感を感じる時がある。 何よりも。 「………顔つきが……変わってきてる……」 気がする。 もともと美少女顔だったが、それがさらに、何と言うか……美しさが増した。 頬のまろみもより柔らかくなり、体の線も、少年の硬質さは変わらないのだが、何か、違ってきている。……気がする。 ふう、と息をついて、勝利は湯舟から出た。 「……おれは眞魔国の王だ、か……」 そう胸を張って宣言できる自信を、本当にあの弟がつけているのだろうか。それだけの経験を積んでるとでもいうのか? もしかしたら、単にガキの王様ごっこなんじゃないのか? どういう訳か、後者であって欲しいと願っている自分がいる。 「…そもそも、識字率が低過ぎだろ。まあ、あんな妙な文字を覚えろって方が………」 妙な。文字。 「…………あ?」 「ゆーちゃん!」 テレビは母親の好きなドラマに変わっていたが、ローテーブルの前では弟が相変わらずせっせと日記を書いている。 「さっきのノート、単語帳でもいい、ちょっと見せろ」 「……んだよ。見たって勝利には読めね−だろ」 「いいから!」 奪い取るように手にしたノートを食い入るように見る。 似て、ないか? この曲線の多い、アラビア語の様な、でも全然違う、不可解なカーブ、不思議な跳ね、意味不明の点……。ちょっと見ただけだから、確信できるわけではないが。 凉宮のノートの文字と……似ている、かもしれない。 「……あのな、ゆーちゃん」 「あんだよ?」 「あの………いや、いい。……はっきりしたら話す」 まだ何も分からないのだから。 訝しげに眉を顰める弟を置いて、勝利は立ち上がった。 生まれ変わり。 いるじゃないか、似たような境遇なのがもう1人。 奥床しさとか何と言うか、印象があまりに違うのですっかり結び付ける事を忘れていたが。 メールを打つべく、勝利は携帯を取り出した。 「渋谷君、こっち!」 「悪い、待たせた」 それぞれの講議と用事を済ませて、勝利が凉宮と待ち合わせたのは都内某私大のキャンパスだった。 「……ここが、お前の爺さんが勤務してる大学か……?」 「そう。国立を定年退職した後招かれてね。建築学なんだけど、割とその世界では重鎮に入るんだよ、ウチのおじいさん。といっても、母方の祖父だから苗字は違うよ」 香坂、というのだと凉宮が言った。 「このおじいさんと、それからおじいさんの親友の先生……臨床心理学をやってる人なんだけどね、この二人だけが、小さい頃から僕の話をまじめに聞いてくれたんだ。笑ったりバカにしたり気味悪がったり、それから母の様に『バカな事を言って、私に恥をかかせるな』って叱ったりしないでね。……でもまあ、僕の話すエピソードの一つ一つに心理学的考察を加えられるのには参ったけど」 過去、想像以上に色々あったらしい。勝利は無意味に咳払いした。 「ああ、それと、同い年の従姉妹も結構真面目に聞いてくれたな。お説教はされたけど。でもいつも真面目だった。……たぶん、彼女ともここで会えると思うよ。この大学に通ってるから。おじいさんの影響で、建築デザイナーを目指してるんだ」 そうか、と勝利は頷いた。どうやらここで、自分はそのメンバー相手に面接を受けくてはならないらしい。 前世の話を詳しく教えてくれという、勝利のメールに対する返事は「考えさせて欲しい」だった。 そして翌日、祖父を交えてなら、という返事が直接本人の口からあった。 どうしてお前の爺様と? と首を傾げる勝利に、どこか申し訳なさそうに凉宮が苦笑した。 「ずっと心配掛けてきたからね……。とても大事な友達が話を聞きたいって言ってるって、ちょっと口にしたら……会いたいって。人物を見極めたいって思ってるんじゃないかな。その……」 ごめん。頭を下げる凉宮に、勝利も苦笑いを浮かべた。 「俺が面白半分にトンデモストーリーを聞き出して、お前を傷つけるんじゃないかと心配してるわけだ」 「うん、まあね。………ゴメン」 「いいさ、別に。俺も唐突だと思うし」 ちょっと面倒臭くなってきたな、と勝利は内心ため息をついた。ノートの文字を確認してみたかっただけなのだが。それに、思った通りだったからといって、その先どうするかも決めてない。 やっぱり止めようと、断ろうかとも思ったが。ただ……この辺りが意地っ張りというか見栄っ張りというか。凉宮の祖父だの何だのに、友人を笑い者にしようとしているうさん臭い軽薄な男、などと思われているとしたら、かなりしゃくに触る。例え顔も名前も知らないのだとしても。 という訳で、結局勝利は凉宮の祖父が勤務する大学までやってきてしまったのだ。 「おう! 来やがったな!」 「…………………」 「………おじいさん、来やがったはないでしょ?」 「はは、そりゃそうだ」 研究室で彼らを迎えてくれた香坂教授は、ある意味勝利の想像を手酷く裏切っていた。 すでに一度定年退職している偏屈な老学者。イマドキの若者なんぞ十把一からげに見下している傲慢な爺ぃ、というのを実は想像していたのだが。 香坂教授は、折り目も正しい三揃いのスーツに身を固め、半白髪が銀色に見える程きちんと整えた髪を綺麗に撫で付けた、まさしく「英国型紳士」だった。顔立ちも整っているし、ステッキや葉巻きもさぞ似合うだろう。だが。 「ほお、お前さんがシブヤ君かい? こいつぁ驚いた。いい男じゃねえか。モテるだろ? おい」 紳士の口からぽんぽんと飛び出すのは、江戸っ子言葉というか江戸弁とでもいうのか……。 「………あ、あの、渋谷勝利と申します。お忙しい所お邪魔致しまして……」 「呼びつけたなぁこっちだ! 謝るには及ばねえよ。ま、突っ立ってねえで、遠慮せずに座ってくんな」 「…………おじいさんはね、3代続いた正真正銘の江戸っ子だっていうのが、一番の自慢なんだよ」 小さく笑いながら教えてくれる凉宮に、なるほど、と頷いて、勝利は応接セットのソファに腰を落ち着けた。 「そろそろ来るだろうってんでな、繭が……」 その時、教授の声を見計らったように扉がノックされ、開かれた。 「おじいちゃん、ケーキ買ってきたわ! 透は……あ、いるいる」 ショートカットの女子大生が、ケーキの箱を不用心なまでに振りながら軽やかに入ってくる。 「こら繭、学校じゃあ先生とか教授とか呼べって言ってるじゃねえか。それに、口ぃ酸っぱくして言ってるだろう。『おじいちゃん』は止めとくんな。呼ばれるたんびに、何だかどっと年くっちまった気がするぜ」 「はいはい、おじーちゃん! まったくもう、透だっておじいさんって呼んでるじゃないの。何で私にばっかり……?」 何か言い返そうと口を開きかけた教授にぽんとケーキの箱を渡し、繭と呼ばれた女子大生は勝利達の元にやってきた。 「久し振りね、透。元気だった?」 「ああ、繭も…いつも通り元気だな。……渋谷君、彼女がさっき言ってた従姉妹。香坂繭里だよ」 「渋谷勝利です。よろしく」 立ち上がり、一応尋常に挨拶した勝利だったが、香坂繭里の方は少々反応が変わっていた。勝利の頭の先から爪先まで、ざっと視線を走らすと、「へえ」と面白そうに唇の端を上げる。 「なんだ、まともな感じじゃないの。てっきり超常現象マニアのオタク男が来るんだとばっかり思ってたのに」 「こら、繭!」 超常現象には興味ないが、オタクじゃないかと問われると、ちょっと答えに詰まる。とはいえ、勝利の繭里を見る目は厳しくなった。挨拶をちゃんと出来ない人間は、男だろうが女だろうが子供だろうが、何であろうと好きじゃない。 そんな勝利の心情を察したのか、繭里が軽く万歳、もしくは参ったというように両手を上げて、困ったように眉尻を下げた。 「ごめんなさい。初対面の人に失礼だったわ。ちょっと警戒してたのよ。……香坂繭里よ。香る坂に繭の里。透と同い年。シブ……えーと」 「渋谷勝利、だ。地名の渋谷に勝利はビクトリー」 「よろしく、渋谷勝利君」 そう言うと、今程までの神妙な顔をコロリと変え、にこやかに「お茶を入れてくるわ!」と踵を返した。そしてまだ祖父の掌の上に乗ったままのケーキの箱を取り上げると、部屋の隅、衝立の奥に姿を消した。すぐにカチャカチャと食器の触れあう音がし始めたから、おそらくそこにキッチンでもあるのだろう。 「……悪かったなあ。気ぃ悪くしねえでくれよ。根っこはまっすぐないい娘なんだ。ただちょいとおきゃんな所が玉に傷っつうかなあ」 「……いえ、別に」 答えて勝利はソファに座り直した。3人がそれぞれ席についたところで、凉宮が口を開いた。 「おじいさん、今井田先生も同席なさるんじゃ…?」 「ああ、イマさんなあ……」 あのな、透。何となく申し訳なさの滲んだ声で、教授が孫の顔を下から見上げるように覗き込んだ。 「実はなあ、イマさん、俺の連絡を待ってやがるんだ。実は……その……お前の話を、な、えー、つまり……」 「ついでに、ご自分の生徒さん達にも透の話を聞かせてやってくれないかって、今朝御連絡があったのよ」 カップを乗せたお盆を手に、繭里が姿を現して言った。どこか腹を立てているような口調だ。 「………え…?」 「ゼミでな、ちょっとその例として口にしちまったらしくてな。それで、その、学生が3人ばかし、話を聞かせてもらいてえって申し出てきやがったってんだな、これが」 「………………昔の、助手のような人でしょうか……」 「助手?」 頼り無げな凉宮の言葉に、思わず勝利が問い返す。それに答えたのは繭里だった。 「高校生くらいの頃ね、今井田先生、臨床心理学の教授で、子供の頃から透の話を聞いてくれてた人だったんだけど、それをぽろっと学生に話しちゃったのね。そしたら当時の助手をやってたヤツが、透の話を論文にしようとしたの。透のノート…って知ってる? そう、知ってるんだ。うん、あれをね、資料にして、保育園児の年代から、自分の一貫した前世ストーリーを構築するような子供の内的宇宙? 何だかそんなようなテーマで書くとか言って、ものすごく鼻息荒くしてね、凉宮の家まで乗り込んでいったりしたのよ。猪突猛進っていうか傍若無人っていうか、人の心なんてどうでもいい心理学者なんて冗談じゃないわよね、とんでもない大騒ぎになっちゃったの。透もあまりあの話はしなくなって、お家もすっかり落ち着いてたのに……」 「………医者が自分の患者の話を外で洩らすってのは、違法じゃないんですか?」 「渋谷君、今井田先生は心理学者で病院の医者じゃないんだ。僕も患者として話してた訳じゃない」 「え? あ、そうなんだ……すまん、てっきりその、何だっけ、ケースワークとかカウンセリングとか、そういうのをやってたのかと思って……」 ちょっと慌てた勝利に、わかってるよと凉宮が微笑む。 「おじいさんの友達ってことで、まあボランティアで話を聞いてくれてたんだね。かなり興味深そうではあったけど」 「心理学者としちゃあな。それにしても、イマさんもちょいと口が軽いのがなあ。前の時は、平身低頭してったもんだが、もう忘れちまったか」 「何年も経ってますし。先生ももう大丈夫だろうと思われたんでしょう」 「ああ。透もすっかり『卒業』しただろうからって、それで話を持ってきたんだってよ。……どうする? 構わねえかい?」 軽く苦笑して、それから凉宮は「ええ、いいですよ」と頷いた。 「でも、おじいさん。僕は誰の研究対象にもなりたくありません。それだけははっきりさせておいて下さい。もしその人達が僕の話を分析したり、解釈したりするつもりなら、お断りします」 きっぱりと言い切る凉宮に、教授はわずかに気後れしたように目を瞠ると、「わかった」と重々しく頷いた。 『透もすっかり『卒業』しただろうから』 なぜだろう、妙に不快感が込み上げる。 それは、勝利が凉宮の話を、彼らとは全く違う角度で捉えているからなのだろうか。少なくとも心理学的興味では全くないのだし。 それにしても。 人数が増えるのは、あまり面白い状況ではない。 勝利は内心、やれやれと息をつき、傍らに置いたバッグにちらと視線を送った。実はその中には、無理を言って借りてきた有利の単語帳が入っている。何とかそっと、凉宮のノートと突き合わせようかと思ったのだが……。 しかし、もしそれがここで人の目に触れて、凉宮の文字と同じだと分かった日には……ちょっと…困るかも、いや思いっきり困るだろう。 教授と同年代の、人の良さそうな丸々した雰囲気の─これが臨床心理学者の今井田教授なのだろう─男性と共に研究室に入ってきたのは、男子学生が2人と女子学生が1人だった。 勝山亮介、駒井一哉、高沢逸美と名乗った。 「初めまして、凉宮透です」 「今日は、無理を言って申し訳ないです」3人を代表したのは駒井だ。「先生から話を伺いまして、その、俺達としては割と気軽な気持からだったんですが………子供の頃のちょっと照れくさい思い出って感じで……でも、そうじゃなかったんですね」 誰にでも気軽に話せる話題だと思っていたらしい。凉宮の苦笑の、苦さの割り合いが高まった。 「家族がそれで一時崩壊しかけましたから。僕は凉宮透なんて名前じゃない、この国の人間じゃない、本当の国に帰りたいなんて、会う人会う人に訴えかける小学生でしたからね。教育としつけを巡る両親の言い争いが、毎晩凄かったですよ」 「………………」 3人の学生が、どこか身の置きどころがなさそうな顔をして困っている。その様子に、凉宮がくすくすとこの男にしては人の悪い笑いを響かせた。 「ですからもう昔の話です。現在は至って平和な家族です。本当に必要な話を、お互い気をつけてせずにいれば、家庭というのは破綻せずに維持できるものですから」 無理して斜に構えるのは、心と身体に良くないぞ。と思ったが、勝利は口を噤んだままでいた。もし今の凉宮透に説教できるとしたら、それは自分ではないだろう。 「とにかく……座ったら?」 繭里の言葉で、全員がホッとしたようにソファに向かった。 お茶とケーキが配られ、勝利も自己紹介し、一息ついて、徐に凉宮が口を開いた。 「改めて言っておきます。僕は僕の記憶を、誰にも分析されたくないし、解釈も解説も必要としません。心理学的考察などもう僕は……。今井田先生も、よろしくお願いします」 「ああ」今井田教授が、うんうんうんと頷く。「すまんね、透君。君もすっかり忘れてたことなのにね」 忘れてもいなければ、「卒業」もしていない。 そうだろう? 凉宮透。 勝利は、隣に座ってコーヒーカップを傾ける友人をそっとみつめた。 「僕の記憶にある世界は」前置きもなく、凉宮が話し出す。「そう、中世のヨーロッパ、的な感じを想像してもらえればいいかな。ハリウッドのファンタジー映画であるよね、『剣と魔法の世界』。……まさしくそんな世界だった。そしてそれは……地球上のどの時代にもどの歴史にも当て嵌まらない。国名も、言語も、どんな歴史も、何もかも、地球には存在してない。なぜなら……そこはこの地球世界とは似て非なるっていうのかな、全く別の世界、そう、異世界、なんだ」 もう何度も聞かされている話なのか、香坂教授も今井田教授も、そして繭里も、全く表情を変えないままだ。3人の学生は事前に聞かされていたのだろうが、本人から聞かされる「物語」の展開に興味津々の様子を隠さない。 「……その世界は、こちらと全く変わらない人間……上下水道もなければ公衆衛生なんて意識もない状態だから、平均寿命は低かっただろうけど、でも、丸っきり普通の人間達が大多数を占める世界だった。でも、こちら、地球と決定的に違っていたことがあった。その世界には、世界のほとんどを支配する人間の他に……別の、人間ではない種族が存在していたんだ。それが……魔族、だ。伝説でも神話でもなく、その世界には、人間と共に魔族もまた当たり前に生きていた」 凉宮はコーヒーカップをテーブルに置いて、それからふと瞳を宙に向けた。 「魔王陛下を戴く魔族。そして…」 凉宮の顔に、柔らかな笑みが浮かんだ。 「そして僕も………魔族の1人だった……」 NEXT→ プラウザよりお戻り下さい
|