その瞬間。 食堂のある一部分だけ、一気に気温が氷点下まで下がった。 いや、もしかしたら逆かもしれない。 空気が一気に燃え上がった。冷たい炎で。 カウンターの向こう。 立ち尽くすコンラッドの表情に変化はない。顔色もいつものまま。 だが。 俺の目には、もう随分昔に目にした、あの白い炎が。見えた。 坊っちゃんはきょとんとしたまま。周囲の誰も、一人の男の変化などに気がつかない。 そしてコンラッドの右手の中、筒状の棒、もしくは柄、が、握り直される。 「若君」は坊っちゃんを、尊大に─おそらく本人は王者の威厳とはこんなものだと信じているんだろう─見下ろして、自分が何を仕出かしたのか気づいていない。 逆鱗に触れたともいう。 起爆スイッチを押したともいう。 影のリーダーと思しき男が、おそらくソレを感じたのだろう、訝しげに顔を上げた。 コンラッドの右手が、す、と持ち上がった。 「あっら〜〜っ! ごめんなさ〜い!!」 ばっしゃーん、というド派手な水音が、硬直した食堂に響き渡る。ついでに俺様の美声も。 「やっだー。グリエったら、手がすべっちゃったー。うふ」 全員の視線が集中する先には。 掃除用の桶の水を頭から浴びせられたコンラッドが、呆然と突っ立っていた。 頭の上に乗っかった雑巾が、メガネを道連れにずりずりと顔を滑り落ちていく。 「もう、ホントにドン臭いんだからー、ストライカーちゃんったらあ。どうして桶の飛んでく先に立ってるワケぇ? もうぼんやりしないのっ。風邪ひいちゃうでしょー」 どう手を滑らせれば桶がそこまで飛んで行くんだという疑問が出る前に、俺はとっととカウンターを離れると、コンラッドの腕を引っ掴んだ。 「やだ、ぐしょ濡れ。ホントにボンヤリさんだわねー。ほらっ、キアちゃん、手伝ってちょうだい。この人、お風呂に入れないと」 「…へ? あ、ああ、はいっ、グリエちゃん、今っ」 坊っちゃんが慌ててカウンターを出てくる。そして俺と一緒にコンラッドの腕を掴むと─しがみつくとも言う─、脱兎の勢いで食堂を飛び出した。 「よくもあんな水を……」 「ボケ。あんな状況で、てめえ何するつもりだったんだ? …ああ、いい、何も言うな」 じろりと俺を睨み付ける幼馴染みに、俺は諦めのため息をついた。この男を理性派、何があろうと冷静なヤツと信じていた時代だって、確かにあったはずなのに。 俺はコンラッドの空いたグラスに酒を注いだ。 「あいつら、コレが初めてじゃねえな」 「ああ。陛下を騙ったかどうかは別としても、職業的な詐欺師の集団には違いない。あの、皆を煽るやり方は、かなり手馴れていると思うぞ」 「全くだ。そのくせ、俺は魔王だなんて、これっぽっちも口にしねーってんだから。イヤな手を使いやがる」 「……純粋というか、単純というか…、俺は学者というのが、こうも操りやすいものだとは思いもしなかったな」 「俺もな。……フォンヴォルテール卿にはお知らせしなくていいのか?」 「実際まだ、陛下を騙ったわけじゃない。実質的な被害も出ていないし。明日以降、あいつらの狙いがはっきりしてからでもいいだろう。……それにしても、グウェンの膝元でこんな真似をするヤツが現れるとはな」 「だからこそ、誰も疑わないってのもある。『コワい人に知られると叱られるので、くれぐれも噂にならないように』っつー口止めも巧いもんだ」 「ああ……。とにかく明日からだ」 そう結論付けて、俺たちがグラスを呷った時、「う、ん」と小さな声がベッドから漏れてきた。寝相も元気な坊っちゃんは、いつの間にか毛布を蹴り落として、身体も90度ばかり横を向いている。もうちょっとすれば、頭から床にずり落ちるだろう。 ほんの一呼吸前までの表情をきれいに消して、コンラッドは幸せそうに微笑んだ。そして立ち上がり、ベッドに近づくと、いそいそと身体を直し、毛布を掛けなおした。 「……こん、ら、ど……」 可愛い寝ぼけ声。」 「ああ、申し訳あり……」 「こ、らっど…」 ベッドから、細っこい両腕が伸びてくる。それに誘われるように、コンラッドが上体を傾けた。 「ユーリ…?」 坊っちゃんの腕がコンラッドの肩と首に巻きついて、引き寄せる。 「…ユー…?」 「こ……ど……」 二人の身体が重なり、コンラッドの頭が坊っちゃんの首筋に埋まった。そして、たぶん寝惚けているんだろう、坊っちゃんは、コンラッドの背中を、ぽんぽん、と数回、子供をあやすように弾ませると、その背を抱きしめた。 緊張していたコンラッドの身体から、ふいに力が抜けた。坊ちゃんの肩口に顔を埋めたまま、そっと坊っちゃんの頭を撫でている。 「……ヨザ……」 「なんだ?」 「…もったいなくて、動けない……」 「だったら、朝までそうしてろ」 上半身だけ折り曲げた不自然な体勢で、それでもコンラッドは「そうだな」と嬉しそうに呟いた。 幸せな男は放っておいて、俺は手酌で酒をグラスに注いだ。 ふと、ロンジ爺さんの、泣きそうな顔が浮かんでくる。 『何だかな、うまく言えないんだが……、ひどく薄っぺらに見えちまったんだよ』 爺さんはそう言った。 『ふいにな、思っちまったんだ。…偉大な魔王陛下が……こんなんでいいのか、ってなあ。グリエさんよ、俺はずっと魔王陛下をご尊敬申し上げてきたつもりだ。たとえ戦で息子も孫も取られちまっても、それでもお恨みした事なんかこれっぽっちもない、はずだ。ましてや、当代陛下は戦を嫌っておいでになる……。それとも違ってたのかねえ? 俺ぁ、陛下を恨んでいたのかねえ? だから先生方みたいに、あの人たちを素晴らしい方だと思えないのかねえ?』 俺は反逆者だろうか、と、あの老人は顔をくしゃくしゃにして悩んでいた。 「…頭でっかちなだけじゃ、ものの役にゃ立てねーぜ。なあ爺さん…?」 いつの間にか。ベッドからは二人分の寝息が聞こえてきた。 朝。 朝食時にはちょっと早い時間。カウンターの前には、首をこきこきと捻るコンラッドが座っているだけだ。坊っちゃんはくるくると食堂の掃除に勤しんでいる。 コンラッドの前にお茶を置いた爺さんが、何となく意味ありげに微笑んだ。 「……なあ、ストライカーさんよ」 「はい?」 「お前さん……、軍にいたことがあるだろう? たぶん戦地にも出たな?」 寝違えたらしいコンラッドの動きが、ふと止まった。俺も野菜を刻む手を止めて、爺さんを見る。 「あの時の殺気は、大したモンだったぜえ……?」 にやにや笑う爺さんを、コンラッドが目を細めたままじっと見つめた。 「別に隠す必要もねえさ。軍人が学者になったって、おかしなことじゃねえだろ? ……俺ぁ、学者先生とは違うからなあ。これでも150年前の内乱や、100年前の人間たちとの紛争の時にゃ、剣を片手に戦地を駆け回ったものさ。……20年前の大戦の時にゃ、200歳だって言い張って軍に入ろうとしたんだが、どうにも通じなくてハネられちまったが……」 300を軽く越えて、それはいくら何でも無理だろう。 「だから分かる。…本物の殺気ってヤツがな。お前さん、あの時あのガキを殺ろうとしたな? 武器も持ってねえってのに」 「……ガキ、ですか…?」 それでいいのか、とコンラッドが苦笑して確認した。 「おうよ。あんな軽薄なガキを偉大な魔王陛下だと信じられるとは、正直学者先生の頭の中味を疑っちまうね。……あの時まではまだ半信半疑だったが……一晩じっくり考えて、今は確信してる」 お前さんもそうだろう? 爺さんの笑みが深くなる。 「それともう一つ、分かったことがあるぜ?」 爺さんの笑みの形が急に変わった。コンラッドが眉をひそめてその顔を見上げる。 「ここの皆は勘違いしてなさるが。……ストライカーさんよ、お前さんが惚れてるのはグリエさんじゃない。……キア坊、だな?」 ぐっ、とコンラッドが詰まった。いや、その、あの、と呻きつつ顔を伏せてしまう。……どこの青少年だ、てめえは。 「お掃除、終わりました−。…って、どうしたの? コ…ストライカーさん? 顔が赤いよ?」 「…い、いや…っ、別に……っ」 けっけっけ、と爺さんが笑いながら調理台に火をおこした。…ホントに人を見る目のあるじじいだぜ。 朝食の一番賑やかな時間。何となく不可思議な光景に、俺は首を捻った。 食堂には常連がたむろしている。いつもコンラッドを付き合わせている仲良しグループもいる。なのに彼らはカウンターに座るコンラッドに近づこうとせず、離れた場所に陣取って、そのくせちらちらとこちらを盗み見ていた。 そして人も大分少なくなった頃、食後のお茶を飲むコンラッドにサディンが近づいてきた。 「……ストライカー君。君に聞きたいことがある」 いつもコンラッドには当りのキツい男だが、今日はさらにその声が固かった。 何でしょう? と問うコンラッドに、サディンは唇を噛み締めた。後方ではグラディアたちが不安げにこちらを見つめている。 「……君……君は……反王制派、なのか……?」 「…………はい…?」 「だから! 君は魔王陛下の統治に、不満を持つ者なのかどうか聞いているんだ!」 「いいえ? これっぽっちも」 即答した相手に、サディンは一瞬ぽかんとしてから、顔を真っ赤にした。 「しっ、しかし、君は昨日……っ!」 「昨日来ていたのは、ただの見学者の一行でしょう? それが魔王陛下と何の関係が?」 「…そ……それは……」 何か言い返そうと、サディンが口をぱくぱくとさせた時。 「ストライカー君の言う通りだ」 新しい声が掛かった。 「…こっ、これは……っ!」 食堂に残っていた学生たちが、一斉に立ち上がり、またまた直立不動に畏まる。もちろんコンラッドは席を動かない。 「おはよう、諸君」 入ってきたのは、あの茶髪の、俺様命名「影のリーダー」だ。 楽にしてくれたまえ、などと声を掛けつつ、カウンターに近づいてくる。 「やあ、おはよう、ストライカー君」 「……どうも……」 無愛想な様子にも穏やかな笑顔を変えないまま、男は俺に顔を向けた。 「私にもお茶を一杯、頂けるかな?」 「…ええ、もちろんですわ。少々お待ちを」 せいぜい淑やかそうに笑顔を返して、俺は洗い場を離れた。男はそのままコンラッドの隣に腰掛けようとしている。ロンジ爺さんの隣から、坊っちゃんが視線を─……なんか、わくわくしてませんか? 坊っちゃん……─向けていた。 「席なら、もっと広い場所がいくつも空いていますよ」 「君と少し話をしてみたいと思ったんだよ。迷惑かな?」 坊っちゃんにならって前髪を下ろし、更にガラスの奥の目をわざとらしく細めたコンラッドは、ちらと男を見上げて(男は年もそうだが、身長もグウェンダル閣下並みに高い)、「別に」と呟くように言った。 「……あ、あのっ、閣下……ウェ……」 「私は名を名乗った覚えはない。…一切身分は明かさないという話で通っているはずだ。不用意な呼び掛けはやめてもらいたい」 男の関心を惹き損ねたサディンが、「申し訳ありません!」と身体を二つに折る。 それも完璧に無視したままで、男は俺の差し出したお茶のカップを受け取った。 「やあ、いい香りだ。ありがとう」 声を掛ける相手も、笑顔を見せる相手も、自分がきめる。 一体どういう男なのだろう。どこでこんなごく自然な尊大さを身につけたんだ? 「じゃあ、何と呼べばいいのかな」 コンラッドだ。 「ん? 何だい?」 「呼称を教えてもらえなかったら、呼び掛けようがないでしょう。それで一々怒られてもね。…『おい』とか『ちょっと』とか『そこのデカいの』とかで構わないなら、そうするが?」 誰かが息を飲む音がした。食堂がしんと静まり、空気が固くなる。 「……ぷっ……くっ、くくく……」 吹き出したのは男だった。震えるお茶のカップを慎重にソーサーに戻すと、腹を抱えて笑い出す。 「…くくっ……、い、いや、失敬……しかし…君は本当に面白い男だな、ストライカー君」 「面白いと言われたことはないし、自分でも思ったことはない。………もったいぶったのが嫌いなだけだ」 「なるほど」 どこか満足そうに微笑むと、男はお茶を飲み干した。 「ぼんやりしていて、覇気というものを全く感じない。先生方はそう評していたが……。ストライカー君、君は自分の将来をどう思い描いているんだね?」 「求められる場所で、求められる仕事を完璧にこなしたいと思っている」 「……君が求めるものはないのか?」 「その場所に在り続けること。それだけだ」 「………ふ、ん…?」 探る様にコンラッドの横顔に目を遣ること数瞬、男は徐に立ち上がった。 「美味しいお茶だった。ごちそうさま。……邪魔したな、諸君」 そう言い置いて扉に向かった男は、外へ出る1歩前、何かを思い出した様に突然振り返った。 「実は我が主が、将来を嘱望される若き才能をお側に招きたいとお考えになっている。眞魔国で1、2を争うこの学舎から、その人物が選ばれる可能性は高い。数日、我々はじっくりと学舎を見学させてもらう予定だ。……諸君、励みたまえ」 「やっぱりすごい方だわ。さすがよ! 人としての器が、全然違うわよ!」 男の出ていった先を見つめながら、グラディアが頬を紅潮させて言った。胸元で手を組んで、もううっとり、という感じがありありと見える。 「ストライカーがあんな風に挑発しても、これっぽっちも動じたりなさらないんですもの。…ねえ、ストライカー? あの方、あんたにご興味をお持ちのようよ? ホントは嬉しいでしょ?」 「いや、別に」 「……じゃあ、どう思ってるのよ!?」 「結局何の答えもなかったから、『そこの邪魔くさいデカぶつ』って呼んでも構わないんだろうなあ、と」 その時から、学舎の雰囲気が一変した。 眞魔国の学者にとって、魔王陛下に召される事以上の出世はない。学者を志す者全ての、それが夢だ。ここの学生達は、その夢の扉が、今自分達の前に開かれようとしてることを知っちまったという訳だ。……幻だとは疑いもせずに。 和気藹々と、政治、経済、外交を論じあっていた学生たちが、妙に互いを意識し始めた。誰かが自分を差し置いて、抜け駆けするんじゃないかと疑心暗鬼に囚われている、とでもいうんだろうか。中でも、ストライカーことコンラッドは、周囲から妙に粘ついた視線を受けることになってしまった。 そして。 その日の午後、昼過ぎの講議に出ない連中が、何となくたむろしていた食堂に「若君」がやってきた。 学生たちの中にコンラッドはいない。さすがに「学生」を標榜している以上、最低限の義務を果たさない訳にはいかず、昼食の後、しぶしぶながら講議に出かけて行ったのだ。 どうしてそんなモノがここで必要なのか分からないが、乗馬用の鞭を振りながら歩く「若君」に付き従うのは、あの髭と女官風の女、そして、何故か数人の学生たちだった。 えらく得意げに、肩を聳やかして入ってくる仲間の姿に、食堂に残っていた学生たちが椅子をガタガタいわせて立ち上がった。そして抜け駆けをやらかした連中に鋭い視線を投げかけた。 「…おい! 若君がお出でだというのに、何を突っ立っているんだ!?」 そう声を上げたのは、あの髭ではなく、「取り巻き」の座を確保したらしい学生の1人だった。どうだ、羨ましいだろう、と、声から優越感が滴っている。対する出遅れ組は、噛み締めた歯からギリギリと音が漏れそうな形相だ。下げる頭に妙な力が籠っているのは、自分達が同輩にまで頭を下げる形になるのが、どうにも我慢がならなかったためだろう。 その様子を眺める「若君」の唇が、ひどく嫌らしく歪んだ。 ─このガキ、楽しんでやがる。 「……なんかー、ヤな感じ……」 坊っちゃんが、俺の横で皿を拭きながら、ぽつんと声に出した。 女官もどきが進みでて、食堂中央にあるテーブルをささっと手持ちの布で拭き、ついでに椅子も払った。……そこはさっき、坊っちゃんがきれいに拭き浄めてくれてるんだけどねえ。 女が椅子を引き、「若君」が着席する。座ったのはこいつだけで、髭と女はその後ろに、学生たちは1、2歩離れた所に並んで立った。 「若君」が軽く鞭を立てて合図すると、女がくるりとこちらを─視線はまっすぐ坊っちゃんに─向いて、気取った声を上げた。 「お茶とお菓子を。果物があれば、それもお出ししなさい」 「はーい、かしこまりましたぁー」 俺の返事に、女─大した年でもないのに、むりやりひっつめた髪と一緒に、自分の若さも瑞々しさも全部外へ絞り出しちまったみたいだ─が、眉をひそめた。 「お前ではない。キアに申し付けているのです。キア、若君のお召しです。お仕え申し上げるように」 それだけ言うと、またくるん、と身体を主の方に向けた。拒絶を拒絶してるのか、拒絶する訳がないと信じているのか…。 「……どうします…?」 「んー? 別にいいじゃん? 給仕ならずっとやってんだし」 いや、それだけで済むと思えないから聞いてんですけど。……ため息を一つ。 仕方なく俺は、お茶の準備を始めた。そしてその時になってようやく俺は、「若君」たちが扉の向こうを見ていることに気づいた。こいつら、何かが来るのを待ってやがる…? お茶の支度がほぼ整った頃、それはやってきた。 食堂に入ってきたのは、ヴィクトール先生とお嬢さんのミーナ、だった。二人は固い表情でおずおずと─ミーナ嬢は父親の背中に隠れるように─やってくると、「若君」の前に立った。 「遅いではないか! 若君はずっとお待ちだったのだぞ!」 髭の叱責に、先生が頭を下げた。 「も、申し訳ありません……。しかし、その………」 「ああ、もういい」煩そうに鞭を振って、「若君」が遮る。「評判の美声がどの程度のものか、少し聞かせてもらえればいいのだよ。……私の招きに値するかどうかね…?」 父親の背後で、ミーナ嬢が震え上がっている。ヴィクトール先生が額の汗を拭き拭き、またも「若君」に向かって腰を折った。 「……申し訳ございません、若君。その……娘は人前に出る事を大変苦手としております。到底若君のお心に添うとは思えません。何卒……お捨て置き下さいますよ……」 「あなたは大事な事を失念なさっているようだ、ヴィクトール先生? 私は聞かせてくれと頼んでいるのではないのだよ? それとも、どうなのかな。あなた達は親子で、この私の言葉に従えない、とでも言うのかな? ……ねえ?」 自分の手の平で鞭の音をパシパシと響かせながら呼び掛けた先は、髭のお付きだった。 「私の命令が聞けないような者が、どうしてこの国で、学者として存在しうるのかな? 学者とは、一体誰のためにあると思っているのだろうねえ? ……まさか、こちらで養成しているのはガクシャではなく、ハンギャクシャなのかな?」 妙な発音だな。まさか……シャレ、か? だったら誰か並みに下手くそだ。 どこからも笑いは起きず、代わりにヴィクトール先生が、ひゅうっと大きく息を吸った。だが、言葉が続かない。 「仰せの通り、これは由々しきことでございます、若君。若君の御前で歌を披露するという栄誉を、このように拒絶いたそうとは。……こやつら、若君に対し奉り、叛意を抱いておるのではありますまいか」 何か………無理矢理、じゃねーか? 一幕芝居じゃあるまいし、んな突飛な結論にいきなり飛んでどうすんだよ。っていうか…分かってていたぶってんなら、こいつら相当な性悪だぜ。 しかし、その渦中にいる者にとって、事態は「田舎芝居」どころじゃ済まなかった。 ヴィクトール先生の愕然とした顔からすうっと血の気が引き、ミーナは悲鳴を堪えるような形で固まってしまっている。その上。 「先生! 若君にこのようなお疑いを……! この責任はどうお取りになるつもりですか!?」 「すぐに謝罪と申し開きをなさって頂きたい! これは我ら学生にとっても、看過し難い事態です!」 ………「若君取り巻き志願」達は、どうやらかなり頭がおかしくなっちまったらしい。いくら信じ込んでいるとはいえ、非常識が非常識に見えなくなったら、そもそも学者としての資格を放棄したってことにならねーか? 呆れて見ている俺達の前で、思いもかけないコトが起きた。あの対人恐怖症のミーナが、泳ぐ様に父親の前に進み出てきたのだ。 まるで糸が絡まった操り人形の様に、ミーナはがくがくとぎこちなく手足を動かして、「若君」の前に立った。肩で息をしながら、顔を上げる。 涙に濡れた、決死の覚悟のその顔は、意外なほど愛らしかった。湖畔族の血を引いているのか、濡れた紫色の瞳が痛々しい。 「…ほお……」 急に別の興味を惹かれた様に、「若君」が声を上げる。 「歌ってもらえるのだね、ミーナとやら? 私を喜ばせてくれるなら、父親の大逆の疑いは忘れてあげるよ? それだけじゃない。私の歌姫として、大切にしてあげようじゃないか」 上乗せされたプレッシャーに、ミーナの身体が大きく震える。それでも彼女は、腹の辺りで手を組み、懸命に息を吸った。……しかし。そんな状態で歌おうとしても、声が出るはずがない。息を吸おうとしても、強ばった喉は深い呼吸を拒み、ただひゅうひゅうと聞き苦しい音が漏れるだけだ。 ミーナの顔が絶望に青く歪んだ。 身体が前後左右に、不自然に揺れはじめる。 ち、という、苛立ちも露な舌打ちが響いた。そして。 「こっちにおいでよ」 柔らかな、優しい子供の声が、その場の空気を変えた。 坊っちゃんがいつのまにかカウンターを出て、ミーナの傍らに立っていた。 そして自然な動作で少女の側に近づくと、そっと強ばって真っ白になったその手をとった。 「…ああ、こんなに冷たくなっちゃってる……」 そう言うと、「若君」達をきっぱり無視したまま、坊っちゃんはミーナの腕を引いてカウンターに戻ってきた。 「はい、座って−。ね? だいじょーぶだから」 無邪気な子供の声は、だからこそ圧倒的な力で悪意を押しながす。ミーナは抵抗する力もなく、言われるままにカウンターの狭い座席に納まった。 ぽかんと見ている連中を無視して、坊っちゃんはカウンターに放ったらかしの(あのガキのために用意したものだ)お茶のカップを手元に寄せると、勝手に傍らの壺から砂糖を掬い、中に落とした。スプーンでくるくるとかき混ぜ、ミーナの前に置く。 「はい、どーぞ。ちょっと冷めてるけど、一気飲みできるから。甘いし、落ち着くと思うよ?」 しかし伸ばされた少女の手は、いまだ可哀想なくらい震えている。それを見て取ると、坊っちゃんは迷わずその手をご自分の手で包み込んだ。 ミーナが一瞬目を見開いて坊っちゃんを見上げる。それに微笑み返して、坊っちゃんが頷いた。 「だいじょーぶ。ね? 息、先ず吐いて、それからゆっくり吸ってみて? ほら、ふかーく吐いてー、はい、吸ってー、吐いて−、吸って−……ね?」 ミーナの手を両手で大事そうに包み込んで、まるで凍傷から護る様に息を吹き掛け、そしてそっと撫でる。その行為には、年頃の娘を警戒させるような卑しさも下心も、もちろん欠片も存在しなかった。そこにあるのは、ただひたすら、凍えた身体を暖めたがっているような、生まれて間もない子猫を手の中で慈しむような、そんなか弱い者への思いやり、それだけだ。 「………こっ、小僧っ! き、き、貴様、若君の御前でなんたる無礼を……っ!」 かなりタイミングを外していたが、髭がようやく気づいた様に引きつった声を上げた。 「無礼なんか、してねーもん」 坊っちゃんが見向きもせずに言い切る。 「大体あんたら、無茶苦茶じゃん。先生やミーナさんをさんざん脅かしてさ。あんなひどい言い方して、さあ歌えなんて……できるワケないじゃん。何考えてんだよ。あんたたちさー」 坊っちゃんがミーナの手を放し、「若君」たちに向き直った。 「あんたたち……さいてー」 しんと凍り付いた空気に、かたり、と木の擦れる音が妙に大きく響いた。 「若君」がゆっくりと立ち上がる。 白い顔に、生々しく目立つ朱の唇が、怒りに戦慄いている。 「……誰に向かって言っている……?」 「あんたたち」 「…………覚悟はできているのだろうな……?」 「その前に、俺、先生に確認したいんだけど?」 微塵も自分達を恐れない坊っちゃんに、かなり勝手が狂ってしまったんだろう、彼らはいつの間にか坊っちゃんのペースに嵌っている。 「ねー、ヴィクトール先生?」 声を掛けられた先生が、呆然とした表情のまま、坊っちゃんに視線を向けた。 「あのさ、学者っていうのは、民のためにあるんだよね? 王様とか、支配者のためじゃなくて、民の幸せを護るために、学者はがんばってるんだよね?」 ヴィクトール先生の身体が、ぶるりと大きく震えた。 一瞬、泣きそうに顔を歪めた先生は、坊っちゃんの顔を見つめ、そして視線を泳がせる様に「若君」一行に向けた。 何か答えようと思うのか、口を開いては閉じ、そしてまた開いては閉じ。 結局先生は、坊っちゃんの問いかけに答えないまま、視線を床に落とした。 坊っちゃんが、どこか哀しげに、小さく息をついた。 「……キア。ここに来い」 冷たく凍った声が、坊っちゃんを呼ぶ。俺はイヤな予感に、すぐさまカウンターを飛び出した。 坊っちゃんが、恐れ気もなく近づいて行く。……ちょっと、ちょっと待って下さい、坊っちゃん! 「…生意気な……下郎が……っ!」 鞭の空気を切る音が響くのと、俺が坊っちゃんの身体を引き寄せるのとが、ほとんど同時だった。とっさに顔を庇った体勢のまま、坊っちゃんの身体が俺の腕の中に納まる。だが。 坊っちゃんの左手の甲に、赤い血の線が玉を結ぶ様に現れた……。 ……何てこった! 俺が、この俺が側についていながら、このお方の身体に傷をつけさせちまった……!! 「若君!!」 その声が響いたのは、俺が腰の柄に手を回した、まさしくその瞬間だった。 食堂の扉の側に、あの男が立っている。 その場の雰囲気に異常を感じたのか、固い顔でつかつかと中に入ってきた。 そして、体勢を崩したままの坊っちゃんや、強ばった俺の顔にざっと目を遣ると、今度は恭しげに「若君」に頭を下げた。 「至急若君にお知らせせねばならない事がございます。何とぞ宿にお戻りを…!」 「あのガキ、よくもキア坊にあんな真似を……!」 爺さんが怒りの全てをまな板にぶつけて、包丁の音も高く野菜を切り刻んでいる。 坊っちゃんは苦笑しながら、食堂の後片付けに一生懸命だ。ちなみに左手には真新しい包帯が巻いてある。……いずれこの片はきっちりつけてやる。禁忌の箱じゃねーが、この世には絶対、薄汚れた手で触れてはならないものがあるってことを、はっきり教えてやろうじゃないか。 俺の決意を知ってか知らずか、坊っちゃんが「ね、グリエちゃん」と、小さな声で俺を呼んだ。 「…何です?」 「あのな、さっきのコト、コンラッドには絶対内緒、な? もしコンラッドにバレちゃったら……」 バレちゃったら。 その時、「ダンッ!」と凄まじい音と同時に食堂の扉が開き、そして、劫火を纏った男がすさまじい形相で飛び込んできた。 その男の顔は真っ白で、それはたぶん冷たいんじゃなくて、あまりの高温故に全ての色を突き抜けた結果の白、という感じで、見開いた瞳の虹彩が、爛々とその熱を映し出していた。 強ばった顔、取っ手を掴んだ手、その全部が白く、そして小刻みに震えている。 バレちゃったら。 こういうことになるんですよね、坊っちゃん。 コンラッドは、一瞬の硬直の後、大股で坊っちゃんの側に近寄ると、無言のまま、ぐい、とその細い左の手首を掴み、持ち上げた。 「コ、コン……痛いよ…っ」 その声も聞こえないのか、コンラッドは坊っちゃんの左手の包帯を痛ましげに見つめると、そこにそっと……唇を寄せた。 「…コン、ラッド……」 何度も、繰り返し繰り返し、包帯の上にくちづける。 坊っちゃんの顔にほんのりと朱が射した。そしてそのまま見つめあう。 二人の間で時間が止まった、と思った直後、コンラッドがふいに身体を離した。そしてくるりと踵を返す。 「…コ、ンラッド……?」 「……コンッ……バカ、てめー、待てっ!」 俺の側を通り過ぎた一瞬後、俺は考えるより先に幼馴染みの背中に飛びついた。そしてほとんど反射的に、上着の下、腰のベルトに挟まれた柄を抜き出した。 『細切れに刻んでやる…!』 そんなマジの呟きが、はっきりと俺の耳に入ったからだ。 「離せ。…それを返せ、ヨザ!」 「坊っちゃんが我慢なさったことを、お前がぶち壊してどうする!? あいつらの正体も、目的もまだ分かっちゃいねーんだぞ? それを………おいっ!」 凄い力で俺を振り払うと、コンラッドはすたすたとカウンターに向かって行った。そして何をするのかと問う間も与えず、洗い場から………出刃包丁を取り出し、やがった……!? そしてそれを手にしたまま、外に向かってすたすたと歩き出す。 「……ま、待て、おい、こら、ちょっと……待たんかい、こらぁっ!!」 俺は必死の思いで、コンラッドの背に飛びついた。 包丁はやめろ。いくら何でも、包丁だけはやめてくれ。 天下のウェラー卿コンラートが、出刃包丁で人に襲いかかる姿なんぞ、俺は絶対見たくねーぞっっ!! 「止めるこたぁねえぞ、グリエさん! 包丁だって立派な武器だ。なに、あんなヤツら、叩ッ殺した方が、陛下もお喜びになるってもんだ!」 煽るんじゃねーっ、じじい!! 「…ま、待って、コンラッド!」 坊っちゃんが慌ててコンラッドの前に回り込む。 「俺、考えてることがあるんだ! だから、ちょっとだけ、待って! 俺の話を聞いて!」 NEXT→ プラウザよりお戻り下さい。
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