その日、学舎は見学者の一行を迎えた。 「よ、ようこそ、お越し下さいました。当学舎学生一同、こ、こ、光栄に存じ……っ」 ヴィクトール先生が代表してのお出迎え、だ。 フォンヴォルテール卿の相談相手になったこともあるはずなのに、この緊張感はやはり「魔王陛下」ならではなんだろうか?両脇のコローラド先生もテッシオ先生も、直立不動で畏まっている。 「お忍び」で決して「身分を明かさず」に訪れるので、「騒ぎにならない」ようくれぐれも「普段通りに」振舞うように、と「ご側近」の方からお達しがあったんだそうだ。 ところが実際は、学舎こぞっての歓迎セレモニーが始まってしまっている。 「……ねえ、何かさあ、臭わない……?」 そんな必要ねーだろって思うんだが、俺たちまで「お出迎えの栄誉に浴す」ことになっちまった。 最後列に、俺と坊っちゃん、コンラッド、そしてロンジ爺さん、だ。 学舎の門から正面玄関に至る前庭は、学舎関係者が勢ぞろいしている。そしてこの場所全体に、なんとなーく一つの臭いが漂ってきていた。 「ああ、これはねー、キアちゃん、防虫剤の臭いよぉ」 「ぼーちゅー……、って、服の?」 「そう。ほらー、皆正装してるでしょ? あんなの、どこから引っ張り出してきたんだか」 「学者はいつ王城に呼び出されても対処できるよう、正装は常に用意しておくものだからね。ただ、そうそう着る機会があるとは思えないから…」 「……昨日は、街の古着屋が大繁盛だったらしいぜ」爺さんがため息をつきながら、会話に加わった。「お忍びを隠さなきゃならんというのに、それじゃあ大声で触れ回ったも同じだわい。学者様ってのは、どうも一つ間が抜けてるみたいだわなあ」 「どうりで、門の外が騒がしいと思った…」 「く・れ・ぐ・れ・も! 騒ぎにしないよう、お願いしたはずですが…?」 お供の一人が前に出て、腰に手を当てふんぞり返って文句を言っている。 背も高いし、体格も悪かねえ。剣も振るえない優男という訳じゃなさそうだ。ふん、あの、人を見下すみたいな、下目使いが気にいらねーな。それと、いかにもエロおやじな口髭が実にうさんくさいじゃねーか。 ちなみに、皆の前に出て来たのはこいつだけで、後の「若君」だか「若様」だかは、まだ馬車の中だ。 「それに、皆さん着飾っておいでのようだが、それがこちらの学舎で学ぶ者の普段着なのですかな?」 「………何か、ヤなやつー……」 坊っちゃんが、俺たちだけに聞こえるように、そっと呟いた。ホントにウチの坊っちゃんは良識を弁えてる。 「…陛下を騙るとすると、従者も実際の誰かをモデルにしてるのかな……?」 もっともな疑問を口にしたのはコンラッドだ。しかし、本物の魔王陛下の周囲に、これに当てはまるのはいねーだろ? こういう性悪な手合いは、シュトッフェルが失脚して以降、血盟城では日の目を見てないはずだし。 「もっ、申し訳ございません!! 皆、その、『若君』をお迎えする慶びに、つい舞い上がってしまい……」 「『ご本宅』には、コワい方がいらっしゃいますからね。この土地で騒がれすぎますと、若君がその方に叱られてしまうのですよ」 だったらその「コワい人」のお膝元で、こんな大胆な真似をするんじゃねーよ。 「あ、あの、こちらにお出かけになるにあたって、フォンヴォルテー……」 「若君は!」怒鳴りつけるように、先生の言葉を遮る。「大切なことはご自分の目で確かめ、ご自分の意志で決定なされます。……新たにお側近くにお召しになる者を、誰にするか、も」 ……うわ、いかにも意味深。先生方はもちろん、居並ぶ学生達も声こそ上げなかったが、はっきりと反応している。何となく顔を見合す学生達の表情が……。 「…もうよろしいでしょう」 静かな声。お供の後方、馬車の中からその声は上がった。全員の視線が一斉に集中する。 髭のお供が、走りよって馬車の扉を開いた。そしてその中から、先に出ていた男と同じお仕着せの男、女官風のドレスを着た女、そしてそれから、最後に。 「………おお……っ!」 どよめきが一帯を支配する。 馬車を降りて来たのは、長く波打つ金髪も麗しい、少年、だった。 「若君…」 3人のお供が、両側で腰を屈めて主を迎える。 「私がこの様に突然訪問するのが悪いのです。…ご面倒をお掛けして、申し訳ありませんでしたね?」 「若君」が、朱の唇で柔らかく微笑した。 思わず赤面した先生方、そして学生達の間から、ほう、とため息が漏れる。 「若君」。 年の頃は、ウチの坊っちゃんより少々年上、90歳になるかならず、か。腰まで伸びた金髪と碧眼(ヴォルフラム閣下と間違えてやしねーか?)で、坊っちゃんよりちょっとばかり背が高く、横幅は同じくらい。美少年というより、女の色気みたいなものを感じるが……男だな。ま、美形は美形だ。もちろん、坊っちゃんの美貌と天下一品の可愛らしさには、はるかに遠く及ばねーが? 隣で、くすり、と笑う声。 「どこの花街から連れて来たんだか……」 陛下の威厳も気品も、爪の垢ほども持ち合わせていない。某ストーカー氏はすっぱりと切って捨てた。 確かに。このガキから漂う色気と媚びは、それなりの場所で年季を積む間に、いつの間にか身につく種類のものだ。ところが。 学者ってのは、何だな、世間ずれしてねーっつーか、単純っつーか、思い込みが強いっつーか、この程度のガキにころっと騙されてしまったようだ。 この程度でいいのか? この程度の見た目のよさで、ちょっとにっこり微笑まれて、「このように歓迎して頂けて、とても嬉しいですよ」なんぞと言われて、感動の余り涙まで浮かべたりなんぞできるのか? だったら、ウチの坊っちゃんの最強必殺技「おめめうるうる、胸元拳に小首を傾げて完璧よ。ちょっと上目遣いでお願い」攻撃を受けてみろよ。凶悪殺人的な可愛さに、あんたら一斉に失神だぜ? 何をするつもりかしれないが、大した奴らとも思えないし、まあ様子を見ようと、そっとその場を離れ、俺たちは食堂に戻った。そこでようやく俺たちは、坊っちゃんが酷く落ち込んでいることに気付いた。 「どうなさいました? へ…ユー……えーと…」 「まだ覚えてねーのか、てめーは。キアちゃんだってば」 「…みんな、さあ……」 「はい?」 「みんな…、あんな風に想像してんの、かなあ…? 俺のこと…さあ」 がっかりなさったんだろう。俺とコンラッドは、おそらく同時にそう思った。 「真似しようったって、坊っちゃんの真似はできませんからね。まああいつらにしてみりゃ、あれが精一杯……」 「あんなに奇麗だって思っちゃってんのかなあ…? だったらさあ、何だか申し訳ないなあ、って思って」 「「はい?」」 「だからさあ。やっぱりギュンターとかがやりすぎなんだよな? 俺のこと、類い稀な美貌だの、地上の奇跡だの、ワケ分かんねー噂を振りまくからさあ。皆、しっかり勘違いしちゃってるじゃん? ホントのことが分かったら、皆がっかりするよなあ……?」 「あの……ユーリ? ホントのことって…?」 「だから! コンラッドだって分かってんだろー? 俺なんてさ、双黒だってだけで、それだって日本じゃあったりまえで何の価値もないし、顔だって平凡でいいトコなんてどこにもないし、どんながんばっても筋肉つかないし、背も伸びないし、頭悪いし、バカばっかやって迷惑かけっぱなしだし、それに、それに……」 くしゅん、と小さくなる。 誰でも、自分の事は分からない、とは言うものの。 「……まだそんなコト、思ってたんですかー…?」 「まだって何だよー。んなの、変わるワケねーじゃん。ホントのことなんだからー…」 「…陛下」 「……………へーかってゆーな、なづけおやー。…ってか、ここでその単語はマズイだろー?」 「そうでした。すみません、ユー……っと…」 「だから、キアちゃんっ!」 「そうそれ。ですから……」 「ああ! 感動だわっ!」 いきなり飛び込んできた声に、俺たちは一瞬身体を凍らせた。 一斉に振り返った先には、かなり気合を入れたと思われる、めかし込んだグラディアがいた。その後ろから、サディンと、いつもの仲良しグループのメンバーが、ぞろぞろと入ってくる。やっぱり皆正装だ。 ち、とコンラッドが小さく舌を打った。(コイツがこういう事をするのもなかなか珍しい。) 勘違いしたままの坊っちゃんは、「お疲れ様ですー」と言いながら立ち上がり、厨房の奥に駆け込んでいった。 「キアちゃん、お茶をお願いねー。…あら、ストライカー、ここにいたの?」 「ストライカー君、君、それ普段着だろう? ちょっと不敬じゃないかい?」 なんかっつーとコンラッドに絡むサディンが、今日も難癖をつけてくる。が、きれいさっぱり無視するストライカー君。 興奮の果てに力尽きた風情のグラディアが、テーブルに突っ伏してため息をついた。 「魔王陛下って、本当にお美しい方なのねえ。仕草もお言葉遣いの一つ一つも、優雅でいらっしゃったわあ」 「…………けっ」 ………今、「けっ」とか聞こえたけど。まさかな、まさかすぐ横にいるこいつじゃねーよな。いくら何でも、そこまで壊れてねーよな? な…?。 「僕としては、ぜひ高名な双黒を拝見したかったな。一世代に一人、現れるかどうかも分からない希少な色だからね」 「これが学者のイヤなところよね。…そういう物言いこそ不敬ってものよ? 大体、お忍びで外へ出られるのに、目立つ色のままでいいワケないじゃないの。……あれは鬘かしら? それとも染めていらっしゃるのかしら?」 やっぱりあいつらがが偽者だとは、これっぽっちも疑問に思っていないらしい。やれやれ、だ。それとも、俺らが間近で陛下を見慣れちまったモンだから、目が肥えてんのかねえ……? 坊っちゃんがお茶を乗せたお盆を運んでくる。急いで立ち上がって受け取り、俺はカップを配り始めた。コンラッドも一つ持ち上げて、口に運ぶ。 「それでさっきの話なんだけどっ」 「うん、どう思う」 「私は絶対間違いないと思うわ。お供の中の、あの方、あの一番背の高い方。あの方、絶対に、ウェラー卿よ!!」 ぐふっ。ぐ……ゲホッ、ゲホッ、ゴホッ……! どこか別方向に流れていったお茶を、吹き出すまいと懸命に押さえるせいで、余計苦しそうに咳き込む某氏。慌てて坊っちゃんが背中を摩ってやっている。胸が苦しいのと、咳が止まらないのと、坊っちゃんに申し訳ないのとで、隣の男はほとんど悶絶状態だ。 「…何やってんのよ、ストライカー。あんたってホントに鈍くさいわねー」 ……すみません、坊っちゃん。そこで笑わないでやって下さい……。 「…あ、先生……!」 目を転じると、襟元をくつろげながらヴィクトール先生が食堂に入って来た。ミーア嬢も一緒だ。……なんつーか。二人とも、たぶんこれが正装なんだろう。男もの、女もの、どちらをとっても流行の最先端をばっちりチェック済みの俺の目からみて、どっちもかなり時代遅れの服だった。ぱっと見貴族的な風貌をもった先生からも、防虫剤の臭いが漂ってくる。 「今、コローラド君の講義を傍聴なさっているのでね。解説はテッシオ君に任せてきた。ふう…、こういう服は、疲れるねえ…。ああ、グリエさん、済まんがお茶と、ミーナに何か果汁を絞ってやってくれませんか?」 「はい、すぐに」 ミーナ嬢は学生達から離れた席に一人座った。 「先生、あの陛下……」 「しいっ。ダメだよ、その言葉を使っては。たとえ仲間内でもくれぐれも慎重に、と言い付かっていてね。…あの方々はあくまでも学舎の見学にこられた若君ご一行、だ。」 「では、あの中にウェラー卿がおいでになるかどうかも?」 「うーん、君たちがどなたの事を言っているのか分かっているつもりだが…。そう、そういったことは決して口にしないようにと、最初に言われているのだよ。そもそも、あの方達は魔王陛下のお忍びであるとは、まだ一言も仰ってはいないんだ。ましてお供のお名前なんてね」 ほう。 俺はコンラッドと密かに視線を合わせた。 自分が魔王だとは口にしない。学舎の者にも言わせない。…やり方が慣れてるじゃないか?。 もしバレても、「そっちが勝手に思い込んだだけだ」で済まそうって魂胆か。俺ぁ、そういう姑息な真似、大嫌いだね。 お昼時、どうも浮ついた雰囲気が漂っていて、食堂はほとんど開店休業状態だ。どいつもこいつも興奮しているのか、ゆっくり食事をしようって気にならないらしい。テーブルにはほんの一組、坊っちゃんとコンラッドが、差し向かいで遅いお昼を食べている。坊っちゃんが食べているのは、こちらに来てから大好物になった、爺さん特製、麺と野菜とハムの炒め物、だ。なんでも坊っちゃんが生まれ育ったニホンって国の、「ソースヤキソバ」とやらに酷似してるらしい。山盛りにしたものを「美味い美味い」ともりもり口に放り込んでいる。時々コンラッドが、坊っちゃんの口元にこびりついたソースやハムの切れ端を指で拭ってやっている。……ほとんど世話焼き母さんと甘えんぼの小学生だ。 ふう、と隣からため息が漏れ聞こえて、俺は思わず振り返った。ロンジ爺さんが、浮かない顔で野菜の千切りを続けている。 「あら、おじーちゃん、どーしちゃったのぉ?」 え? とこちらを向いた爺さんは、ばつが悪そうに顔を背けた。 「……いや、別に……」 と言いつつ、顔は何か喋りたそうだ。 「おじーちゃん、気になることがあったら、吐き出しちゃった方が楽よぉ。それにおじーちゃんが元気ないと、キアちゃんが悲しむわあ」 これを言ってやりゃ、何でも話すだろう。思った通り、自分の作った料理を美味そうに平らげる坊っちゃんに目を遣った爺さんは、愛しげに目を細めてから、俺に向き直った。 「なあ、グリエさんよ。お前さん、今から話すことを誰にも言わないでくれるかい?」 「…おじーちゃんがそう言うなら、あたし、今聞いたっきり忘れたげるわ」 「ああ、ありがとよ……」 爺さんは手を止め、側に置いた小さな作業用の足台に腰を降ろした。 「なあ、グリエさん。俺ぁ、見ての通り、かなり長く生きてきたよ」 「ええ、そうね」 「色んな目にもあってきたし、色んなヤツも見てきた。それでなあ、それで、思うんだがなあ。……グリエさん、あんた」 爺さんは、数瞬躊躇ってから、意を決したように口を開いた。 「……あの人たちが、……本当に魔王陛下だと思うかい……?」 「この学舎で、唯一見る目を持っていたのがあのご老人という訳か」 「だな。本人はかなり悩んでるみたいだったが」 夜。俺たちは酒を酌み交わしながら、これからの出方について打ち合わせていた。ちなみに良い子の就寝時間はすでに過ぎているので、坊っちゃんはとっくに夢の中だ。 本当に、長いんだか短いんだか、さっぱり分からないめんどくさい一日だった。 「こちらが食堂になっております」 ヴィクトール先生が、4人を引き連れてやってきたのは、爺さんが決死の覚悟でその言葉と告げた直後のことだった。 坊っちゃん、コンラッド、俺、そして爺さんを除く学生全員が、バッと立ち上がり、直立不動で畏まる。 「…ちょ、ちょっと、ストライカー……!」 グラディアが声を潜めてコンラッドを呼ぶが、お茶のカップを傾ける男は、気にとめた様子も見せずに座ったままだ。 「ああよろしいのですよ。どうぞ皆さん座ってください」 「若君」が鷹揚に仰って下さった。いやいや実にご立派だ。しかし、後に続くお供は、えらく剣呑な目つきでコンラッドを睨みつけている。 「どうぞ厨房の皆様も、手を止めなくて結構です。お仕事に励んでくださいね」 止めてねーよ。 俺は洗いものをしてるし、爺さんはフライパンをせっせと動かしている。俺の隣では、坊っちゃんが皿を拭いている。にこにこと笑う「若君」の後ろで、またもお供連中が眉を顰めた。…先生がちょっと困った顔で、特にコンラッドに向ってなにやら懸命に目配せしている。 あの髭のお供が、「若君」に一礼するとつかつかと前に進み出てきた。そして平然と座ったままのコンラッドを怒り心頭の眼差しで見下ろした。 「おい! 貴様、何者だ!? 若君がお出であそばされている場所で腰も上げないとは、一体、どういう了見だ!? この、無礼者っ!!」 えらい剣幕で怒鳴りつける男を、コンラッドがちらりと見上げる。 「俺が何者か聞きたいなら、まずそちらが名乗ったらどうだ? 無礼も何も、俺は君たちが何者か全然知らないんだからな」 「………ス、ストライカー……」 誰かのうめくような声が聞こえる。コンラッドはメガネの奥の目を頼りなさげに細めて、それでもふてぶてしく言い放った。 「きっ、貴様ァ……」 血流のやたら良さそうな男は、一気に顔を真っ赤にすると、腰の剣に手をやった。 「そこに直れ! この場で…っ…」 「やめろ」 男の後方から、新たな声が上がった。静かな声に、視線が自然とそちらへ向う。 「若君」の隣に、一際背の高い男が立っていた。薄茶色の髪を項で一まとめにして流し、切れ長の目の奥、髪と同じ薄茶の瞳がまっすぐにコンラッドを見ている。 ─この男はやる。 相当に鍛えた、だが無駄のない一見細身の体つきは、髭のお供など足元にも及ばないだろうしなやかなバネを感じさせた。顔立ちは平凡だが、意志の強さがオーラの様に全身を取り巻き、ある種磁力のような強い魅力を備えた男だ。 年齢はコンラッドよりは上、おそらくグウェンダル閣下と同年代だろうか。 ……間違いなく、この男がこいつらのリーダーだ。 「若君のご身分も、お名前も、こちらの都合で秘しているのだ。非礼はこちらにある。それに、普段通りにして欲しいと願ったのもこちらだ。この」とコンラッドを見て、「彼はむしろこちらの意を汲んでくれているのだろう。礼を言うことはあっても、咎め立てするとは何事だ。ばか者」 「…あ、は……申し訳ありません……」 髭が顔を引き攣らせて、男に頭を下げた。男はそれに頷くと、改めてコンラッドに向き直った。 「申し訳なかった。…訳あって名乗れず、失礼とは思うが、君の名前を聞かせてもらえないかな?」 「………ストライカー、だ」 座ったままで、コンラッドが答える。周囲がはらはらと二人を見守っている。いつもはうすぼんやりしていて、頼りなさそうな男のこのいきなりの態度に、皆が相当戸惑っているのがよく分かる。 男は軽く頷くと、振り返り、「若君」に頭を下げた。 「やはり、時折外へお出かけになるのはよろしい事と存じます。市井には、意外と才気ある者が埋もれているものでございますから」 「ええ、そうだね」 「若君」がにこやかに頷いて、コンラッドに視線を向けた。周囲の緊張感など意にも介さず、ゆったり構えてお茶を飲む「ストライカー」に、興味を抱いたらしい。頭からつま先まで、ざっと視線を走らせると、「若君」は意味ありげに微笑んで、それからようやく存在に気付いたように先生を見た。 「皆で賑やかに食事をするというのは、とても楽しそうですね。私にはそういう経験がないので、何だか羨ましい気がいたします。…どのような料理があるのですか? 少し食してみたいなあ」 「粗食でございます。とてもへ…いえ、若君のお口には合わないかと…」 一瞬、爺さんの手が止まった。だが問題はそこからだった。 「若君」が坊っちゃんに気付いちまったのだ。 「ああ、こんな子供も働いているのですね? 君、名前は何というの? 年は?」 俺とコンラッドに緊張が走る。 「え? あ、あーと、俺はキア。年はじゅ……じゃない、えっとー、75歳!」 はい、よくできました。 「躾がなっとらんっ! 学舎では、このような礼儀作法も弁えない小僧を雇っているのか? 若君の目の穢れだ。とっとと追い出せ!」 髭がまたぞろしゃしゃり出た。 俺とコンラッドの手が、さりげなく腰にまわる。そしてそっと、小さな棒状のもの、一見刃のないナイフの柄に似たものを取り出した。そのまま掌の中で隠すように持つ。 坊っちゃんは皿と布巾を手にしたまま、きょとんと髭を見ている。 コンラッドが、すっと気配を殺して立ち上がり、坊っちゃんに近づいていく。 「やめなさい」苦笑して「若君」が言葉を挟んだ。「誰もが平等に学べるようになったといっても、取りこぼされる者は必ずいるのです。この年齢の子供が、学舎にいながら学生にもならず、こうして働いているからには、きっとそれ相応の理由があるのでしょう? このような恵まれない子供から働き口を奪うような真似をしてはいけないよ?」 「こっ、これは……申し訳ありません、若君! ……おい、小僧!」 自分の主に深々と頭を下げると、髭は坊っちゃんに向き直った。 「若君の慈悲深いお言葉に、感謝申し上げろ! お前のような取るに足らない小僧、本来なら若君の影にも近づくことなどできんのだぞ。こうして若君の御意を得た、己の幸運を歓ぶがいい。……こらっ、分かっているのか、小僧!?」 「…うーん……」坊っちゃんは、拭き終えた皿を側の棚に重ねながら首を捻った。「それ、どっか違ってる気がするんだけどなー……」 「…な、なんだと……?」 「俺、70歳にもならない新聞記者の友達いるし、80歳過ぎの軍人やってる友達もいるし…。そいつらだって、恵まれない可哀想なやつだから働いてるわけじゃないし。大切なのはさー、自分が何をしたいか、夢とか希望とかがあって、それに向って頑張っていけるかどうかってコトだと思うんだよねー。頑張る形が、学生だろうが厨房係りだろうが、そんなのどーでもいいコトじゃねーの? んでもって、ついでに言わせてもらうけど、この国が、頑張れば頑張っただけ夢に近づくことのできる社会かどうかも、すっごく大事だと思う。取りこぼされるのがいて当たり前な社会なんて、全然平等になんかなってないじゃん?」 ああ、本当に。 男前ですよ、坊っちゃん? カウンターの向こうでは、ストーカー男が「じーん」と、感に堪えない様子で立ち尽くしている。うんうん、何度惚れ直しても、また惚れ直すってやつですかー? しかし、この世にはものさしの違う存在というのは、必ずいるものなんだよな。 「……こ、小僧……若君に向って、説教じみた真似を……!」 髭が怒りに震えてます。それよりも若君、無理矢理笑顔作ってますけど、唇の端がぴくぴくいってます。ついでに周囲の学舎関係者一同も、凍りついたように固まってます。 「あー、いやー、お説教とかじゃなくてー…」 うまく言えないんだけど、と天然坊っちゃんは頭をぽりぽり掻いている。 「若君」 また出た。影のリーダー氏。 「ほんのわずか外の空気に触れただけでも、様々な新しい発見がございます。この度のご視察は、まことにご英断でございました」 す、と頭を下げる男の動きに隙がない。 一瞬にも満たない時間、坊っちゃんを睨み据えた「若君」は、すぐに大きく笑みを浮かべて頷いた。 「本当にあなたの言う通りです。さすが、私の名付け親。………ねえ、君?」 「若君」の笑顔が何かを含んでいる。 「そのはっきりとした物言いが気に入ったよ。よし、決めた。君を私専属の召し使いに雇ってあげよう。私の小姓になりなさい」 NEXT→ プラウザよりお戻り下さい。
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