いじわるな骰子・2

「キアちゃーん、玉子炒めかけごはん定食できたわよーっ。スープ、忘れずにねっ」
「はーいっ、姐さん、今すぐ!」
 年のころ、魔族なら70〜80歳、人間なら15,6歳の赤毛の少年が、注文を取っていたテーブルから、てってけてってけと駆け寄ってきた。
 この子が「キアちゃん」。もちろん世を忍ぶ仮の姿で、その正体は……って、分かりきってるけどな。
 赤毛の長い前髪(今回はアニシナ嬢特製のかつらだ)で顔の上半分を覆い、さらにその下に大きな丸い眼鏡を掛け、そのあまりにも目立つ容姿を隠している。もちろん念のため茶色のコンタクトレンズも装着済みだ。
 ちなみに「キア」という偽名は俺が考えた。可愛い、かつ目立たない名前をいくつかピンナップして、カードに書いたものをくじ引きよろしく坊ちゃんに引いてもらったわけだ。その結果、決まった名前が「キア」ちゃん。そして俺達の今回の設定は、叔母と甥っ子ということになった。「キアちゃん」は俺の亡くなった姉の忘れ形見で、俺と俺の亭主(…)が引き取って一緒に暮らしていた。ところが俺の亭主が先ごろ死んじまい、俺は若き未亡人となってしまった(わっはっは)。生活力もないのに二人きりで残されて、途方に暮れていたところをこの食堂に紹介されたってコトになっている。生活力のない女にしちゃ、客商売に慣れているってトコは目を瞑って頂くとして、この設定、なかなか気に入ってるから、機会あればまた使ってもいいよな。

「アサドリスモモのサラダと、えっと、コイイロミミガイのスープ、と、パン、お願いしマース」
 カウンターにやって来た「キアちゃん」はそう伝えると、ちょっと危なっかしい手つきで、カウンターに並べられた定食とスープをお盆に乗せ、また別のテーブルへと運んでいった。
 次の料理に取り掛かった俺の耳に、「もう大分慣れたみたいだねえ?」というのんびりした声と、「はいっ、おかげさまで!」という、元気な声が聞こえてくる。思わず頬が緩んだ。
「いやあ、グリエさんが来てからというもの、メニューは増えるし味は良くなるし、俺達は大助かりだよ。もちろんキア君も元気一杯だしね」
 のんびりした声は、経済を学ぶサディンだ。彼は三食この食堂で済ませるので、新参の俺たちともすっかり顔見知りになっている。
「あら〜、そんなに誉めてもらっちゃ、何かサービスで一品お付けしないといけないかしら?」
 俺がカウンターから声を掛けると、サディンは顔を真っ赤にして「いやいや、そんな…」と手を振った。一見豪傑張りの体格をして、顔もゴツイ割に恥ずかしがり屋さんなのだ。そこへ、「こらっ、サディンさんよ!」と怒声が上がった。場所は俺の隣、同じカウンターの内側からだ。
「何かい、お前さんたちは、このロンジの料理が不満だったとでも言うのかい!?」
 包丁片手に叱られて、サディンは「しまった」とばかりに肩を竦めた。
「あらやだ、ロン爺さんったら。本気にしちゃダメよお。サディンさんのはお・せ・じ。身寄りのない、か弱いあたし達を可哀想に思って優しいことを言って下さってるんだからあ〜。ねー? キアちゃん?」
 話を振られたキアちゃんは、どこに何がヒットしたんだか、うっと詰まって固まっている。
「わしは『ロンじい』じゃない! ロンジ、だ! 一体何回言わせりゃ気が済むんだ、あんたは!?」
 白髪頭を振り乱し、痩せたじいさんが怒鳴りつけてくる。本人は至って強面のつもりらしいが、俺から見れば、ま、可愛いじい様だ。
 ロンジ爺さんは料理に戻りながらも、まだぶつぶつと言うのを止めていなかった。
「……ったく、ここをどこだと思っとるんだ? 場末の居酒屋じゃねえんだぞ? 勉学に励む学生さん達が食事をする場所に、こんな色気たっぷりの女を置いてどうするってんだ? ここじゃこんな美人は騒動のタネにしかならんわい。先生様も何を考えておられるんだか……」
 全くもってその通り。俺もそう思うぜ、ロン爺さんよ。……俺って、ホントに美人だもんなっ。


 ここはヴォルテール領にある学舎だ。
 眞魔国はどちらかというと軍事国家だ。支配階級である貴族が、イコール軍人階級なのだから仕方がないだろう。その反動ってワケでもなかろうが、昔っから「学者」が少ない。「学者」とは、政治や経済、歴史、外交といった様々な分野を徹底的に学び、己が得意とする専門分野について一家言を持った人々のことだ。知性と教養に溢れた頭脳労働の専門家というのが、一般的なイメージだろう。陛下の側近の中では、フォンクライスト卿がそれに近い。数は少ないが、その必要性は高く、外交含め政策全般に教養ある学者の意見は不可欠だから、官僚にもその出身が多い。
 ところが。俺も坊ちゃんに指摘されて初めて気がついたんだが…。この国では、というか、眞魔国だけの話ではないはずなんだが、「学者」を「養成」する、という意識がない。「学者」とは、本人が自らの意志で学んで、自分で「私は学者である」と主張するもので、決して何かに裏打ちされた「身分」ではないからだ。
 「学者」になりたいと思う者、もしくは「学者」であろうとする者は、興味を持った分野を独学で学ぶか、高名な「学者」に弟子入りして学ぶ。一番多いのは後者だ。弟子が多いほど、その「学者」は有能で徳が高いとされる。さらに言えば、高名であればあるほど弟子を多く取り、望む者に学ぶ機会を増やしてやる義務を負う。弟子を取らない「学者」はどれほど知識があろうと変人扱いされて、尊敬を受けることもない。
 俺達が身を寄せたこの学舎は、フォンヴォルテール卿も時折ブレインとして意見を聞く、高名な3人の学者が私財を出し合い、ヴォルテール領の郊外に建てた学校だ。その付属の食堂で、俺と坊ちゃんは働いている。
「…学舎の食堂なら決まった者しか出入りしないし、学者を目指す学生ばかりなのだから、胡乱な考えを持つ者もいないだろう。それに、陛下は軍人階級の者ばかりに囲まれて、学者や学生といった者とは疎遠できた。彼らと触れ合うのも、これからの陛下にとって悪いことではない」
 と。皆に、というより自分自身に言い聞かせるように仰ったのは、もちろんフォンヴォルテール卿グウェンダル宰相閣下だ。
 「学者」や「学生」、そして「学舎」について俺の説明を受けた陛下は、かなりじっくりと考え込まれたようだった。
「つまりー。『博士』って称号がなくって、『学者』は自己申告なんだな? んで、学舎ってのは、大学じゃなくて、塾なんだ。…義務教育の後は、塾に入るしか勉強の方法がないってコト…? 学ぶ意欲のある人に、国が何もしないってのはなー。それに弟子入りったって…、知識とかにかなり偏りがあったりするんじゃない? 学習指導要綱とかって…ないよなー、やっぱ。国家資格とかさあ…。あれ? 教師の資格って……。あれ? そもそも国家試験ってないのか…?」
 どうも別方面で悩みを増やしてしまったらしい。
 とにかく。
 学舎の一隅を借りた住み込みの厨房係として、俺と坊ちゃんが働き始めて、今日が三日目だ。。

「グリエ姐さんは、色気があ、あ〜、あっ、ても…ヘンな人じゃ、えーと、ないです。とっても優しくって、強くって、頼りになって…。騒動なんか起こしませんから…えっとー、大丈夫ですからー…」
 ハタッと気がついたら、何時の間にかカウンターに来ていた坊ちゃんが、俺の弁明を始めていた。「優しくて、強くて、頼りになる」は素直に嬉しい。ただ、「ヘンな人じゃない」の間に、どうして「えーと」が入るのかが疑問だ。
 むっつりと包丁を振っていたロン爺さんが、坊ちゃんの言葉にいきなり相好を崩した。
「おお、キア坊、すまんな、心配させちまったかい? いやいや、おまえさんの叔母さんを悪く言うつもりなないんだよ? ちょっと学舎にゃあ似合わないんじゃないかってだけでな。悪い人だとは、これっぱかしも思っとらんよ? ああ、キア坊は本当に優しいいい子だわなあ…」
 俺の見ている前で、爺さんがいきなり坊ちゃんの頭をぐりぐりと撫で始めた。俺と大分扱いが違う。
 最初に紹介されたときは胡散臭い顔を隠しもしなかった爺さんだが、瞬く間に坊ちゃんの可愛さに陥落してしまった。顔は判別できなくても、全身から溢れんばかりの健康的な愛らしさとか、場を明るく和ませる光に満ちた雰囲気とか、坊ちゃんのこんな魅力の前では、どんなひねくれ者でも参らずにはいられないと思うのだが………。
「素直で元気で明るくてなぁ。わしの息子も孫も、小さい時はキア坊みたいに可愛かったさ。あの戦争さえなかったらなあ……。ああ、ほら、キア坊、もう新しい客もおらんし、そこに座んなさい。腹が減っただろ? わしが何か美味いモンをこさえてやろうな?」
 そう言うと、爺さんはいそいそとなにやら準備を始めた。で、言われた方の坊ちゃんはというと、「はーい」と良い子のお返事をして、ちょこんとカウンターの席に座っている。なんつーか。ホンッとに素直だよな!
「…ロンジさんは、あの戦争で身寄りをすっかり無くしてしまいましたからねえ」
 傍らに聞こえてきたのは、食事を済ませたサディンだった。空になった食器をまとめてカウンターまで運んでくれたらしい。本当はそんなことをする必要はないんだけど、彼は見かけに反して気の優しい男で、細細と手助けしてくれる。
「でも、キア君は本当に明るいいい子ですよね。学舎には似たような年齢の子も多いけど、みな勉学に夢中で今一つ活気に乏しいというか、物静かというか……」
 つまりウチの坊ちゃんが騒がしいってことだな?
「あらーっ、美味しそうねーっ。ねっ、ねっ、一口食べさせてーっ」
 ロン爺さんが手早く作った麺と野菜の炒め物に、俺はすかさず手を出した。「おいこらっ」と怒鳴る爺さんが手を出すより早く皿をひったくり、フォークでくるくると麺を絡め、口に放り込む。この地方独特の香辛料が効いていて、なかなか美味い。実際この爺さんの料理は種類こそ少ないが、味は悪くない。
「んーっ、美味しいわあ。はい、キアちゃん、召し上がれ」
 顔の割に意地汚い女だと、ぶつぶつ言う爺さんに苦笑しながら、坊ちゃんが皿を受け取った。その時、ちょっと申し訳無さそうに俺の目を見てこられたが、俺は軽くウィンクを返して済ませた。そんな顔しなくったって、いいんですよ? 坊ちゃん。


 はっきり言って、フォンヴォルテール卿は認識が甘かった。
 この学舎は人里から孤立した施設じゃあない。ここを主宰する3人の学者先生たちは、「学者とは民のためにある」がモットーで、立身出世も、結果として民の生活を良くするのが目的でなくてはならず、己が一人の栄達を求めるのは外道という考え方をしている。それは実に立派なんだが、そのために、この学舎は一般の民も出入り自由なのだ。言ってみれば、法律相談所のような役割を果たしていて、訴訟とか家庭問題とか、様々な相談事を民がここに持ち込んでくる。それを先生方や年季の入った学生達が聞いて、アドバイスをしてやっているワケだ。だから、「外部の者が入らない」どころか、朝から晩までひっきりなしに人が出入りしている。
 おまけに、学生の中には短い期間だけ教えを乞い、次々と学舎を巡って旅をし、見識を深めるという者も多い。少なくとも3分の1くらいはそういう「渡り」の学生だという。彼らは常に出入りを繰り返しているから、ある意味毎日顔が入れ替わっているといっても過言じゃない。
 それに学舎が建っている場所も、郊外とはいえ大きな村、というより、小さな町くらいの規模があって、学生が多いお陰で店も多く、なかなか活気に満ちている。坊ちゃん曰く「ちょっとした学生街」なわけだ。
 学舎ができた当時は学生も少なく、皆、寮に鍋釜担いで住み込んでいたが、いまではそれも間に合わず、町の下宿で暮らす学生も多い。金に余裕のある学生は、賄いつきの下宿に済む者もいる。
 てなワケで、外部の侵入が難しい、安全に囲われた場所での就労体験実習という名目は、初っ端から頓挫していた。
 刺激が多くて楽しいと陛、いや、坊ちゃんは仰るが……護衛としてはちょいと辛い状況でなくも、ない。


 もう間もなく夕食の時間になる。
 この学舎付属の食堂は、学生は無料で、一般人も格安で食事ができる。ただ以前は爺さんが一人で賄をしていたためか、料理の種類も少なくて、正直利用者は多くなかったそうだ。ところが俺と坊ちゃんがやってきて、一気に客が増えた。(教えてくれたのは、サディン他数人の常連さんたちだ)
 今、俺と爺さんは夕食の下ごしらえをほぼ終え、坊ちゃんはテーブルや椅子をきれいに拭き上げては、きちんと形を整えている。お客の相手と料理以外の整理整頓、掃除、とにかく食堂を清潔に保つことが坊ちゃんのお仕事だ。
 動作が軽やかで小気味よく、怠惰やものぐさな所が微塵もない、いつも笑顔でお返事も元気一杯、まるで子犬のようにテーブルの間をくるくると動き回る坊ちゃんは、今じゃすっかりこの食堂のアイドルになってしまった。坊ちゃん目当てで食堂にやってくる学生や町の者も増えたらしい。……あんまり目立つのも困りモンなんだけどな。まあ、俺様がついつい美味すぎる料理を作ってしまったのが悪いといえば言えるんだけど…?
「……ねー、キアちゃーん」
 カウンターの内側から呼び寄せると、坊ちゃんがすぐに駆け寄ってきた。そっと耳元に唇を寄せる。
「ね? 『あちら』で何て言いましたっけ? ほら、誰かを好きになってなりすぎちゃって、相手の迷惑顧みず、後を付け回したりするヤツのこと……」
「…ああ、ストーカー…?」
「ああ、それそれ。そのストッカー。ちょいと追い払ってきますね?」
 へ? ときょとんとする坊ちゃんを置いて、俺は持っていた布巾を放り投げ、開けっ放しのドアを出た。そして今しがた曲者が身を隠した大樹に近づいていった。
「こら、そこのストッカー」
「…………俺は収納箱じゃない。それを言うならストーカーだ」
「…つまり自覚はあるんだな? 何だ、そのカッコ」
 そこには某救国の英雄殿が、なんとも似合わない格好で身を潜めていた。
「…だ、ダメ、か…?」
 慣れないものだからさすがに不安らしく、珍しくも素直だ。いつもこうなら可愛いのに。
 質素な上下は目立たない堅苦しいデザインで、肩に掛けた頑丈そうなバックは、いかにも書物が入っている様に見える。年齢的にも無理のない、まさしく「それなりに経験を積んだ学生」が立っていた。大きめの服で鍛えた身体を隠し、ちょっと困ったように目を伏せている姿は、妙に頼りなげで、少なくとも筋金入りの軍人には見えないからおもしろい。おまけに……。
「いやいやとんでもなーい。よおっくお似合いですわよぉ。その野暮ったいダテ眼鏡が何ともはや……」
 思わずぷぷっと吹き出すと、ストッカー・コンラッドはむっつりと眉を顰めた。
「血盟城の文官たちが揃えてくれて……、いや、そんなことはどうでもいい。ヨザッ! どういうことだ、これはっ!?」
「何がだよ?」
「俺はどうやって学舎に近づこうか、必死で考えたんだぞ? なのに、何なんだ。入り込むことが難しいどころか、スカスカじゃないかっ。おまけに! あの大男、陛、いや、ユー、えっと…」
「キアちゃん」
「…に、馴れ馴れし過ぎるんじゃないか!? 大体あんなゴツイ男が学生だなんて、怪しすぎる。刺客だったらどうするんだっ」
「おま…、見かけで人を判断……」
「それにあの厨房係りの老人!」
 聞いちゃいねえ。
「図々しくも、陛…ユー……」
「キアちゃん」
「…の、頭に軽軽しく手を…っ。俺だって、あんなことめったに……!」
「男の嫉妬は醜い……って、お前一体いつから見てたんだ!?」
 ユーリ陛下がご即位あそばされてからというもの、生涯ついて行こうと俺に決意させた隊長は、どんどんどこかが壊れていってるような気がする……。おまけに今日は何だか王佐閣下が入ってないか?
「あ〜っ、やっぱりコンラッドだあ〜!」
 素っ頓狂な声がして振り返ると(って、もちろん気配はとっくに察しちゃいたけど)、坊ちゃんがこちらを指差していた。コンラッドがすかさず保護者モードに切り替わる。
「コンラッド、すごいっ。ちゃんと学生に見える! けどっ、その、メガネ……っ」
 そこで耐え切れなくなったのか、坊ちゃんがいきなり腹を抱えて笑い転げ始めた。
「……そ、そんなにヘンですか…?」
 さすがにちょっと傷ついた声が上がると、坊ちゃんは片手で腹を押さえたまま、「違う違う」ともう片方の手を振った。
「……ヘンじゃ、ない。全然。ちゃんと学生、してるし。でも…っ、コンラッドなんだって、思うとっ、やっぱっ、おかしいっ!」
 と、また心底苦しそうに身を捩り始めた。
 俺もつられて吹き出してしまい、コンラッドは憮然として髪を梳いている。と、ふいにコンラッドの側に駆け寄った坊ちゃんが、両腕を彼の腕に絡ませた。そして、笑い疲れて苦しいのか、肩で息をしながら、それでも嬉しそうな笑みを浮かべてコンラッドを見上げた。
「…来てくれたんだ、コンラッド」
「はい。お邪魔をするつもりはなかったのですが……」
 殊勝に答えると、坊ちゃんはふるふると首を振った。
「三日しか経ってないのに照れくさいけど……ホントはちょっと会いたいなって思ってたんだ。そう思ってたら、ちゃんと来てくれた……。やっぱコンラッドは俺のこと全部分かってんだよな。すごい…嬉しー…」
「……ユーリ……」
 会いたい気持ちが募って、陛下、いや、坊ちゃんは心持ち「幼児返り」していたのかもしれない。コンラッドの袖にしがみつき、胸の辺りに頬を押し当てて甘えている。それを見下ろすコンラッドがまあ……。何だ、その、蕩けそうなだらしのない笑顔は。
「……おーい、キア坊、グリエさんよぉ、どこに行ったんだぁ? そろそろ客が入ってくるぞぉ。おーい」
 ロンジ爺さまだ。
「あ、しまった」
「もう戻んなきゃ」
「……ああ、では俺はこれで……」
 そう言って身を離そうとしたコンラッドの袖を、坊ちゃんがガシッと掴んだ。
「…ユーリ…?」
「夕食食べていけよ。グリエ姐さんの料理、評判いいんだぜ? 俺が給仕してやるからさ」
「え? あ、いや、ユーリにそんな……」
「バカ言ってないで、ほらっ、早く!」
 ぐいぐいとコンラッドの袖を引っ張って、坊ちゃんは大樹の陰から彼を引きずり出した。
「諦めて給仕されろ。あ、それから目はなるべく伏せとけよ。そうすりゃちゃんと、頼りないボンボンに見え…ないこともない」
 俺の言葉に、コンラッドが深々とため息をついた。

「ほお、キア坊がお世話になった学生さん、かい? わしゃあ、ロンジってんだ。よろしくな」
「あ、ああ、どうも。ええっと…」
「こちら、ストッカー……ぐっ…」
 踏むなよ、人の足を! それも思いっきり力を込めて!
「スト……?」
 首を傾げる爺さまの前に、坊ちゃんが飛び込んできた。
「あの、スト、ストラ、ストライク……ストライカーさんって言います!」
「ほお、そうかい。お前さん、『渡り』だろう? もう手続きはしたかい? まだかい? だったら食事の後に事務所へ行って申請しな。大丈夫だよ、今寮は結構空きがあるんだ。近頃は門限のある寮より、町屋の下宿に住まいするのが多くてね。すぐに部屋をもらえるよ。専攻は何だい? ここは何たって外交と経済だが」
 口を挟む余地もない。3人揃って突っ立ってると、どやどやと背後が賑やかになった。
「おや? 新顔だね?」
 常連その1のサディンだ。コンラッドの伏せた目蓋の奥が、剣呑に光る。やれやれ。
「ストライカーさんだよ。さっき到着したばっかりだ。何でも、キア坊とグリエさんの知り合いだそうだよ。専攻は、えっと、外交だったね?」
 言ってねーよ、爺さん。
「へえ、そうなのかい? よろしく、僕はサディンだ。専攻は経済。グリエさんが来てくれて、大助かりの一人だよ」
 その後から次々と、常連の学生達が挨拶してくる。「渡り」は珍しくもないので、警戒されることもない。というか、学者にしろ学生にしろ、人を疑うということがない。勉学ばかりで、世間擦れしてないんだよな。
 最初は戸惑っていたコンラッドだったが、いい加減開き直ることにしたらしい。「ストライカーです。こちらこそ、よろしく」と、人の良さげな笑みを浮かべて同年輩の学生達と握手を交わしている。中には女性も当然いて、コンラッドはことさら目を伏せて、人畜無害をアピールしていた。
「もう手続きは済んだの? まだ? じゃあ、後で一緒に事務所へ行こう。案内するよ」
「ええ、よろしくお願いします」
 ……開き直りすぎじゃねーか? じとっと視線を送るとすぐに気付いたみたいだが、睨みつける間もなくぷいと逸らされた。……居座ると決めやがったな。
 後からやってきた学生も交えて、座は何時の間にか「ストライカー君の歓迎会」になってしまった。
 張り切ったのは坊ちゃんだ。くるくるくるくる、お盆を持ってテーブルの間を駆け巡る。坊ちゃんが笑顔を向けるテーブルからは、必ず明るい笑いが湧き起こった。
「はーい、温めたワイン、持ってきましたよー。えっとー、アシナシタコのマリネと肉詰め揚げパンは、こちらですねっ。……グリエ姐さーん、ウシトリブタのローストと今日お勧めの魚のパイ、お早くお願いしマース! コ……ストライカーさん、飲んでるー?」
 開き直りはしたものの、さすがに坊ちゃんの給仕にまで平然とはいかないらしい。坊ちゃんが視界を過ぎる度、周囲の学生達とは逆に、コンラッドの態度はえらくぎこちなくなる。
「え、あ、はい…いえ、いや、あの…」
 グラスと肉を刺した串をもってオロオロする姿は、どこからみても気が弱く、勉学以外取り得のない情けな系だ。とてもじゃないが、軍人にも剣聖と呼ばれる程の剣の達人にも、もちろん救国の英雄にも見えない。これなら多少知識が危うくても怪しまれることはないんじゃないかな? ま、よかったよかった。

「おや、今晩は賑やかだねえ」
「先生!」
 珍しい客だ。宴たけなわの食堂に入って来たのは、この学舎の責任者、3人の学者先生その人たちだった。敷地内に自宅があるし、専属の使用人もいるから、めったに食堂に顔を見せたりしないんだが…。
「近頃食堂に、大層美人の料理人が入ったと聞いて……おや、こりゃ本当に美人だ」
 がっはっはと豪快に笑う、縦にも横にも膨らんだ初老の学者は、農政経済が専門のテッシオ先生。
「美味しい料理を出してくれるそうだねえ。今日が初日じゃないんだろう? どうして誰も教えてくれなかったんだい?」
 神経質そうな痩身の割に、万事のんびりしたお人が物流経済専門のコローラド先生。そして。
「ちゃんと言ってあったじゃないか。…ああ、今日は珍しく3人の時間が合ってね、評判のグリエさんの料理を頂こうという話になったんだよ。お、彼が噂のキア君だね?」
 一国の大臣になっても充分似合いそうに上品な、物腰の柔らかい銀髪の紳士が外交専門のヴィクトール先生。3人の中では、この先生だけが家族持ちだ。
 ヴィクトール先生がにっこりと笑いかけると、お盆を持って立っていた坊ちゃんが、「はいっ。よろしくお願いします!」と深々と頭を下げた。うーん、ホントに礼儀正しくって可愛いよねー、俺らの坊ちゃんは……って、コンラッド、てめー何怒りのオーラをまき散らしてやがんだよっ。ホントにもう、余裕のねえ男だなー…。

 先生方も交えての宴は、箍がはずれたのか、それともいつものコトなのか、大いに盛り上がってしまった。せっせと料理を作る俺の傍らで、ロンジ爺さまが「何でこんな大人数で」だの「年寄りを労われ」だの、文句も賑やかに包丁を振るっている。
「あら、じゃあグリエさんとストライカーさんって、幼馴染みなの?」
 すでに目的も忘れられた宴会が佳境に入った頃、女学生のグラディア女史が声を上げた。ほおっ、といくつかの無意味な声が上がる。
「え、ええ、まあ…」
 勝手の違う連中に押されがちのコンラッドが、ぎこちない態度で頷いた。伏し目がちで、俯き加減で、ついでにさりげなくヴィクトール先生から離れている。諸国を放浪なんかして経験積んでんだから、もっと自信を持ってもいいだろうに。と、俺が幼馴染みの意外な小心さに肩を竦めたりなんかしたその時。
「じゃあここで二人は運命の再会を果たしたわけね!? グリエさんはご主人を亡くしたばかりだし。これは新たな恋の始まりが期待できるのかしらっ!?」
 ぶふっ、とコンラッドがワインを噴き出し、ゴホゴホと咳き込み始めた。すかさず坊ちゃんが駆け寄って、背中を摩ってやってるが……顔が真っ赤で、唇が微妙に震えて、あれももうすぐ吹き出して、大笑いを始めるんじゃないかな。
 グラディア女史の言葉に、座は一気に盛り上がった。「おお〜!」という歓声や拍手が湧き上がる。なぜか一人、サディンだけが顔を真っ赤にして「いい加減な話はグリエさんに失礼じゃないかっ」と、怒っているけれど…。
「あらやだ〜。あたしにだって、好みってものがあるんですよお〜」
 大皿の料理をテーブルに置き、俺は幼馴染みの背中をどやしつけた。坊ちゃんはお盆で顔を隠し、懸命に笑い出すのを堪えているが…肩が盛大に震えている。
「この人ったら、子供の頃から弱虫でー。身体はこんなにでっかくなったのに、ホントに気が弱いんですよお。無器用だし、何やらせても役に立たないし、女とは恥ずかしがってまともに口も利けないんですからー。喧嘩の一つもしたことなくて、ウドの大木って言うんですか? もう小さい頃からどれだけあたしが庇ってあげたことかー」
 坊ちゃんがお盆で顔を隠したまま、厨房の奥に突進していった。あの向こうにあるのは裏木戸だ。たぶん外に飛び出して、笑い転げるつもりだろう。一人にしておくわけにはいかないから、俺はテーブルの下で密かに拳を震わせる男を放っぽって、その後を追った。


 この学舎に来て3日目。余計なのも加わったけど、ま、退屈はせずに済みそうだ。

 陛下の就労体験実習。期間は2週間。無事に終わってくれりゃいいんだけどね。


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事態の説明と、人物(の一部)紹介でここまで長くしてしまった………。
開き直ります。ええ、もう開き直るしかないですとも。

コンラッド、ものすっごく情けない人になってます。ゴメンね〜。
まあ勝手の全く違う場所に来てしまい、戸惑っているということでお許しを。後は、ユーリが心配で心配でたまらない、と。

事件が起こるのはこれからです。………うわー。