怒濤の一日から一晩経って、おれはいつも通りに仕事をしていた。 身体のことはなるべく早く公表すると、朝食時にグウェンに言われた。 「お前は複雑な心境だろうが、両性であるという事実は我々にとってさほどの問題ではない。むしろ、魔王陛下にふさわしいという声が上がることも十分に予想される。変に隠せば、反っていらぬ詮索を受けかねん。……構わないか?」 最後の一言はおれへの気遣いだと分かっていたので、「おれは大丈夫。任せるよ」と、笑って頷いた。おれのその返事に、グウェンとギュンターはホッとしたように頬を緩め、コンラッドは微笑んで頷いていた。……それより気になるのはヴォルフだ。結局今朝も顔を見せなかった。 おれの問題についての話はもうそれで終わってしまい、後は当たり前の日常が始まった。 そうして執務を始めて間もなく、ふいに扉が開かれた。 「予定じゃとうに出立していたんだがな」 やってきたのはアーダルベルトだった。 現場に出発する前に挨拶に来た、割には不満そうに言う。……おれに言われてもなー。 「仕事の方は、昨日決定した通りに進めていく。何かあれば鳩でも飛ばすさ。ま、大体のところは滞りなくいくだろう」 そう言ってから、アーダルベルトはふいに口を閉ざし、ちょっと視線を浮かせ、そして顳かみをぽりぽりと掻くような仕種をした。 「……アーダルベルト……?」 声を掛けると、ふいにアーダルベルトは机を廻っておれの側に近づいてきた。 「アーダルベルト?」 見上げるおれをじっと見下ろしていたかと思うと、いきなり頭のてっぺんに衝撃がきた。 「…っ、ほえ…っ!?」 頭の上で、アーダルベルトのでっかい手がぼんぼんぼんと跳ねている。と思ったら、いきなり髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜられた。 「ア、ア、ア、アーダルベルトッ! あなた、何を……!」 おれの傍で一緒になってきょとんとしていたギュンターが、吠える様に声を上げた。 「この先、お前の周囲も何かと騒がしくなるだろうが」 ギュンターを軽く無視して、アーダルベルトが言う。 おれをじっと見ているその瞳も、そして声も、なぜかとっても静かで優しくて、おれは頭にごつごつの手を乗っけたまま、アーダルベルトを見上げていた。 「下らねぇ声に乗せられて、おろおろするんじゃねえぜ? 浮ついたヤツらが何を言おうがやろうが気にしねえで、お前はお前がやらなきゃならねえことに、腹を据えて取りかかれ。昨日もその口で言ってた通り、お前自身は何も変わりゃしねえんだ。お前を囲むヤツらも変わらねえ。こいつらを」 そう言ってふと言葉を切ったと思うと、アーダルベルトはおれのすぐ後ろに視線を向けた。 頭を押さえられてる格好だからちょっと苦しかったけど、首を捻ってみたら、コンラッドがおれのすぐ後ろに立ってアーダルベルトと見合っていた。 「……こいつらを信じて、自分を信じて、やるべき事をやれ。いいな? ………がんばれよ」 もしかして……励ましてくれてるのか? ちょっとびっくりして呆気に取られて、でもそれはすぐにひどく嬉しい気持に変化した。 おれは胸を満たす嬉しさのままに笑って、アーダルベルトを見上げた。 「うん! おれ、がんばるから! ……あのさ」 ありがとう、な。アーダルベルト。 そう言うと、アーダルベルトは何か眩しいものでも見たように目を細めてから、すぐにいつも通りの皮肉な笑いを顔に浮かべた。ずっと頭の上にあった手が離れていく。 それからすぐにアーダルベルトの視線は、おれの後ろのコンラッドに向けられた。 「コンラート」 「………何だ」 コンラッドの声が硬い。ちょっと怒ってる様にも聞こえる。振り返って見上げると、コンラッドはわずかに眉を顰めてアーダルベルトを見ていた。 「ちょっとは目を開けてよく見ろ。てめぇ……間抜けにも程ってモンがあるぜ?」 「……何を言っている……?」 分からねぇならいいさ。 文字通り言い捨てると、「じゃあな」とアーダルベルトはおれに一つ笑いかけて、執務室から出ていった。 「………一体何が言いたかったのでしょうね、あの男」 アーダルベルトが去った扉を見つめたまま、ギュンターが首を捻った。 「おれのことは……励ましてくれたんだよね……? でも、コンラッドには……?」 おれの言葉に、コンラッドは「さあ」と一言だけ答えて、やっぱり同じ様に首を捻っていた。 仕事が一段落して、「お茶にしましょう」とコンラッドが声を掛けてくれる。おれはホッと息をついて、いつの間にか力んでいた肩をぐるぐる回し、疲れた手首を軽く振ってからぐうっと背伸びした。 外は燦々と陽の光が射して、そよ風に揺れる葉っぱも気持が良さそうだ。 「お茶、外のテラスでもいい?」 書類の整理をしていたギュンターがにっこり笑って許してくれる。お茶の用意を頼むためと、ついでに出来上がった書類をグウェンの所に運ぶためにコンラッドが部屋を出ていったので、今はギュンターと二人だけだ。おれは席を立って、テラスに続くガラス戸を押し開いた。 ああ、やっぱり気持がいい。 おれはあらためて腕をうんっと高く伸ばし、思いきり深呼吸した。 しみじみ思うけど、この世界の大気は何ていうか、とっても濃い気がする。人や動物はもちろん、木々や大地や、生きとし生けるもの全てのゆったりとした息遣いが感じられる、とでも言えばいいだろうか。大気そのものが生命に満ちている、そんな気がする。 うまく表現できなかったけど、前にそんなことをちらっと口にしたら、「それがすなわち精霊が生きているということだろう。お前は精霊の王だ。世界に精霊の息吹を感じることができるのは当然のことだ」とグウェンに言われた。……そんなもんなのかなぁ。 そんなことを思い出しながら、広いテラスを満たす陽射しを楽しんでいたら。 「ユーリ」 いきなり声を掛けられた。 振り返った先には、ヴォルフが立っていた。どこか思いつめたような顔でおれを見ている。 ヴォルフの背後、部屋の中からは、ギュンターがちょっと心配そうな顔でこちらを見ていた。 「ヴォルフ! ……お前、今まで何してたんだよ? 全然顔見せなかったじゃないか」 「……少し話がある。いいか?」 ああ、もちろん、とおれが頷くと、ヴォルフはゆっくりと歩み寄ってきて、そのままおれの前を通り過ぎて行く。仕方がないからおれも後について歩いた。 ヴォルフはテラスの端、手摺に手を付くと眼下に広がる景色に目を向けた。もしくは…目を向ける素振りをした。こちらを見ないヴォルフの横顔を、おれはただ黙って見ていた。 「……怒っているか……?」 「………え?」 おれを見ないままのヴォルフの言葉に、おれはぽかんと口を開いた。 「昨日のことだ。……怒っているんじゃないのか?」 「昨日のことって……」 ああ、そうかと思う。……あんまり色々あり過ぎたし、考え過ぎたせいか、昨日の事は本当に遠い過去の様に思えてしまう。 「えっと……怒るっていうか……。あの時はみんな吃驚してたし、おれも混乱してたし……。正直言って、あんまり覚えてないんだ。……ツェリ様はおれにドレスを着せたいって言ってたよな? でもってお前はー……」 何か、とんでもないことを言ってたような気もするけど……脳が思い出すことを拒否してるみたいな……。 「母上がお前にドレスを用意すると仰せになるから、いっそのこと婚礼衣装も用意してくれと言ったんだ。ついでにさっさと結婚式を……」 「ちょちょちょちょちょっと待て……っ!」 思い出した! そういや何だかそんなムチャクチャを……。 「男同士だからどうのこうのと文句を言っていたのはお前だろう。だからお前が女性でもあるなら、これで何の問題もなくなったということになる」 「違うだろーが、それっ!」 「どこが違う。僕達は正式な婚約者同士だ。婚約期間も長いし、もういつ夫婦となっても……」 「待て、ヴォルフ! ちょっと待てっつーか、待って下さいっ!」 婚約なんて全然実感湧かなくて、そのままにしておいたのが悪かったんだよな。 こうなったらなるべく早く解消しなくちゃ。だっておれがお嫁さんになりたいのはヴォルフじゃない。コンラッド1人だけなんだから。 おれは深呼吸して、でもってちょっと反応が怖いので視線を微妙に逸らして口を開いた。 「……えーとさ、あの、これまで適当に放ったらかしにしてたおれも悪いんだけどさ。そのー……おれ達の婚約だけど………」 「先程兄上に呼ばれた」 いきなり話を遮られて、おれは「は?」と間抜けな声を上げてヴォルフに顔を向けた。そして、そこでやっと気づいた。 ヴォルフはさっきから一度もおれを見ようとしない。それに、話してたことはあんなに過激なのに、声は不思議なくらい静かで、淡々としてて、そして重かった。 「……えっと………グウェンにか?」 ちら、とようやくおれに視線を向けたヴォルフが、「僕にとっての『兄上』はグウェンダル兄上だけだ」と言って、またぷいと横を向いた。……言ってることはいつも通りだけど、何か雰囲気が違う。 「兄上が……お前を護れと」 え? とヴォルフの横顔を見つめる。 「これまでにもいなかった訳ではない」視線を外したまま、ヴォルフが続ける。「年齢も若く、あらゆる意味で未熟であることを理由に、婚約者である僕を蔑ろにして、お前の伴侶の座を狙おうとする輩が……」 「…は、はんりょ……っ?」 「それでもそういった輩の動きは、兄上やビーレフェルトを敵に回すことを恐れ、これまではあくまでも密やかでささやかなものでしかなかった。しかし……お前が両性、男性でもあり女性でもあり、子を作ることも産むこともできると公表されれば……」 「……されれ、ば……?」 「お前を我がものにと、途方もない願いを抱いた輩が一気に増えることとなる。ただでさえ己の趣味嗜好を超えて、お前に惹きつけられる者は多かったのだ。これで同性婚と異性婚の垣根がなくなる訳だし、それにお前が……近頃急激に美しさを増してきたことも合わせると……」 ……またそれかー。んっとにおれ、この世界の人の目の構造がいまだに理解できないよ。 「事実が公表されれば、同性異性の別なく、お前を恋い慕う者が激増するだろう。人は誰でも思いが高じれば、己の身分や立場など問題とはしなくなるものだ。もちろん、そのような感情的なものだけではなく、魔王を篭絡することで政治的な権力を握ろうとする下心や野心を抱いた者もいる」 いる……って、言い切っちゃってるけど、おい。ウソだろ、そんな……。 「競争相手が一気に数を増し、様々な思惑が混ざりあえば、そこからどんな過激な力が溢れてこないとも限らん。お前の歓心を得るためなら、そしてお前を誘惑し我がものにできるなら、それがどれほど卑劣であろうとも、手段を選ばぬという者も必ず現れるだろう」 ………あ、あのー……。 「ヴォ、ヴォルフラム、さん……? それってちょっと考えす……」 「だから!」 いきなりキッと睨まれて、外に出かけたおれの言葉は喉の奥に緊急避難した。 「ユーリは、僕が護る!!」 決意を漲らせた瞳が、瞬きもせずおれを見つめている。 「………ヴォルフ……」 「兄上に言われるまでもない! 僕が、僕こそが、ユーリの婚約者だ! 生涯の伴侶だ! この僕以外にユーリを護れる者がどこにいる! 違うか!?」 「ヴォルフ……」 「これからも僕がしっかりと側にいて、胡乱な輩からお前を護る。それが婚約者たる僕の、当然の務めだ。……お前も自分を取り巻く状況を正しく理解して、しっかり対処しろ。いいな?」 それだけだ。そう言うと、ヴォルフはくるっとおれに背を向けて歩き始めた。 「っ、ちょ、ちょっと待てよ、ヴォルフ! ヘンなのが増えるってのは、その、よく分かんないけど、一応分かった! でもあの……婚約のコトだけど………」 「一つ、しっかりと理解しておけ」 再びくるりと振り向いたかと思うと、ヴォルフがおれを真正面から見据えた。 「十貴族の一、フォンビーレフェルトの当主の甥であり、前魔王の息子であり、宰相の弟である僕が婚約者であるからこそ、お前の盾となり防波堤となり得るんだ。僕にはつけ入る隙というものがない。よほど理性をなくさぬ限り、この僕とユーリを争おうなどと考える愚か者もそうはいないはずだ。全て、僕という完璧な婚約者がいるからこそだ。そのことを……よく覚えておけ」 本当は言い返したかった。 じゃあコンラッドだったら隙だらけだって言うのか? コンラッドにはおれを護れないとでも? 大体お前、自分のこと「完璧」とか言っちゃってるけど、それってお前のバックにあるものの話であって、お前自身のことじゃないだろ? 身分とか血筋とか立場とか、そういうものをとっ払った後のお前はどうなんだよ。1人の魔族としてのお前はさ。 はっきり言ってつけ入る隙だらけと違うか? ……でも。 偉そうに言い切るヴォルフの顔は、何故だかものすごく悔しそうだった。 もしかしたら。 今おれが思ったこと、ホントはヴォルフも嫌ってほど分かってるんじゃないかって。 分かって言ってるんじゃないかって。そう思ってしまったら。 おれはそれ以上何も言えなくなってしまって、何となく視線を落としてしまった。 「僕がユーリを護る。確かに僕はまだ未熟だ。だが必ず、いつか誰よりも強くなって、強い力を得て、そして誰よりも近くで、ユーリを護り抜く!」 ヴォルフの宣言が耳に響く。でもそれは何故かおれに向かって言ったんじゃないような気がして、おれはふと顔を上げた。 ヴォルフはおれに背を向けていた。そしてその向こうには。 コンラッドがいた。脇にお茶とお菓子を乗せたワゴンがある。 ああ、と、コンラッドが頷いた。 「陛下の婚約者だからこそできることがある。お前はお前のやり方で陛下をお護りしろ」 お前に言われるまでもない。 グウェンに対してと同じセリフを口にすると、ヴォルフは大股で歩き出し、そのまま脇目も振らずにコンラッドの横を通り過ぎていった。 「ヴォルフ、お茶を飲んでいかないのか?」 「いらん!」 首を捻りながら尋ねるコンラッドに、ヴォルフの声だけがする。 姿勢を戻したコンラッドの顔には苦笑が浮かんでいた。 「昨日ちょっと失敗してしまいましたからね。あいつも必死なんでしょう」 テラスに設えられたテーブルセットで寛ぐおれの傍で、カップにお茶を注ぎながらコンラッドが言う。 「……グウェンに何か言われたって……」 ええ、とコンラッドが頷いた。 「先程、書類を届けた時に俺も聞きました。……陛下の婚約者として、しっかり陛下を護るようにと念を押したようですね」 はあ…、と、返事ともため息ともつかないものが、思わずおれの口から漏れた。 「今まで全然気づかなかったけど……おれってば、ホントにヘンな人達に狙われたりしてるのか?」 変な人、というか……。コンラッドが吹き出す様に笑った。 「陛下をお慕いする者という意味でしたら、そうですね……。程度の差はあるでしょうが、自分の存在を陛下に知って欲しいと願う者や、せめて夢の中で陛下のお側に参りたいと願う者まで範囲を広げると、おそらく眞魔国の国民全員が含まれてしまうでしょうね。ほとんどが罪のない願いばかりですよ。ですがまあ、そのために思いあまって陛下に無体を働くような者がいないかと言えば、そうも言い切れないのは確かです。陛下はあまりにも魅力的な方ですからね」 「………陛下ってゆーな、名付け親」 つい癖で、といつも通りコンラッドが笑う。いい加減、その言い訳止めろよなー。っていうか、お世辞も止めてくれよ。おれがホントに魅力的なら、コンラッドだってもっと……。 「現在眞魔国は」 おれの気持も知らないで、コンラッドが冷静な声で話の続きを始める。 「陛下、いえ、ユーリの王権も国情も実に安定しています。ですから権力の掌握を夢見てユーリの身を危うくしたり、策を弄して王座から放逐したりなどという行動は取れません。誰からも支持されませんからね。ですが、ユーリの寵愛を得て、寵臣と認められる立場になれば、かつての摂政と同じ様に権力を一手に握り、国の政を恣にできる、と考える者が絶対いないかと言えば……そうとも限りませんね」 「……ヴォルフもそんなこと言ってた」 はい、とコンラッドが頷く。 「そういった者達がユーリの身体の事を知ったからといって、いきなり何か行動を起こすとは思えません。ですが、両性であるということで、陛下の歓心を買うための手段に幅が出来た、策が増えたと喜ぶ可能性はありますね。後はそれを試してみようと思うかどうかですが……。しかしまあ、こちらもそうそう隙を見せるつもりはありませんので、きちんと状況を把握しておくに越したことはありませんが、あまり気になさらない方がよろしいと思いますよ」 大丈夫、と言う様にコンラッドがにっこりと笑う。 「……えーと、じゃあ、状況把握と用心のために一つ質問。おれを誘惑するために、卑劣な手段を取るのも出てくるってヴォルフが言ってたけど。……卑劣な手段って、例えばどんなの?」 そうですねえ。コンラッドが顎に手を当てて、わざとらしく首を捻る。 「例えば……夜、ベッドのシーツを捲ったら、美男と美女が揃って陛下を待っているとか」 何、それっ!? 思わず叫ぶ。 「そっ、それって、その二人が恋人同士とかじゃなくて!? え? 何で? おれを待つって……」 「今宵、どちらでもお好みの方がお相手いたします、って言われたらどうします?」 「…………コンラッド」 はからずもおれの声がずーんと低くなる。 「冗談でも止めてくれよ、そういうの。……何かバカにされてるみたいだし、すっごく気分が悪い」 申し訳ありません、とコンラッドが謝った。 「卑劣な手段を知りたいとのお言葉でしたので。……陛下が両性と聞けば、お相手は男女どちらでもいいのだろうと単純に考えて、美男美女を両方揃えた上で陛下を誘惑しようと画策する阿呆が出ないとは、決して言えません。グウェンがヴォルフに発破を掛けたのも、その辺りの懸念があるからです。政治的な謀略ならばグウェンもそうそう遅れをとることはありませんが、こういった仕掛けは意外と護りの目を潜りやすいものですしね」 冗談じゃない。……でも。確かに。 ずっと前のことだけど、夜、部屋に戻ったら、綺麗な女の人が待ってたことがあった。あの時はただもうびっくりして、慌ててコンラッドの部屋に飛んでったんだ。後から、誰かが高級娼婦とかいう女の人を、おれの部屋に送り込んだらしいってことを聞かされたけど……。 そういう事を考えた人が前に実際にいた以上、今コンラッドが言ったようなことを考える人もいる、かもしれないんだ。 「……おれ、そういうのに誘惑されるって思うのかな」 「可能性があればやってみようという馬鹿がいないとは言えませんね。でもまあ俺は、ユーリが色仕掛けに引っ掛かるとは思えないけれど」 「そう思ってくれる!?」 思わず弾んだおれの声に、コンラッドが「ええ」と頷いた。 「ただ……」 「ただ?」 聞き返した俺の鼻先に、コンラッドがケーキを乗せたお皿を突き出す。 「食い気ではどうかなあ?」 「……………」 「美味しいお菓子をあげるからって言われても、知らない人について行っちゃいけませんよ?」 「〜〜〜コンラッドっ!!」 おれは小学生、いや、保育園児かっ!? 叫んだおれに、コンラッドが盛大に吹き出して、声を上げて笑い始めた。 『コンラッドのお嫁さん』の道程は遠い。でも……負けるもんかーっ! それからしばらくして。 おれが両性だという事実が新たに発覚したと、国民に向けて公式の発表がなされた。 結局、おれの身辺には何の変化も起こらなかった。 いや、それはちょっと違うかもしれない。 おれの目の見える範囲では何もなかったけれど、城内や城下はもちろん、国全体が一時大騒ぎになったらしい。らしい、と言うのは、その騒ぎも結局は人伝に聞いただけだし、あまり騒ぎを実感するのも気乗りがしなかったから、特集記事を組んでるとかいうシンニチを捲ってみることもしなかったからだ。 噂はギュンターやコンラッド、それから任務を終えて帰国したヨザックから教えてもらった。 それに寄ると、驚きと大騒ぎは起こったものの、それも最後にはグウェンが言っていた通り、「やっぱり」とか「なるほど」とか「さすが」とかいう言葉で締めくくられて終わったらしい。 「そりゃ俺だって、最初に聞いた時はぶっ飛びましたよー」 そう言ったのは、久し振りに顔を見せたヨザックだった。 「でもすぐに、なるほどそうだったのかって納得しました。こっちに戻ってくるまでの道中でもその話で持ちきりでしたが、反応はどれもほぼ同じでしたね。魔王陛下が歴代最強の魔力を有しておられるのも、地上の奇跡とも言うべき美貌を備えておられるのも、全てそれがあったからだったのかって、皆しみじみ納得してましたよ。精霊に男女の別はない。故に、精霊の王たる陛下がどちらか一方の性を選ぶことなく、二つの性を備えた完全なるお身体でいらっしゃるのは、言わば理の当然なのだって、酒場で演説してるのもいましたしねー」 「その者は、なかなかの教養の持ち主ですね」 ギュンターが嬉しそうにうんうんと頷いていた。 そんなこんなで。 別に何かを期待するとか、恐れている訳でもなかったけれど、思わず気抜けするくらい、おれの身体の衝撃の新事実はあっさりとこの国の人々に受け入れられてしまったのだ。 ………と。 考えたおれは、やっぱり甘かったかもしれない。 それは、おれの身体の事が公表されてからほんのしばらくしたある日、突然おれに向かって宣告された。 「………しんえいたい……?」 何、それ。 首を傾げるおれに、グウェンが小さく咳払いした。 おれの前には、執務机を囲むようにして、グウェンとギュンター、コンラッド、ヴォルフ、それから村田の5人が立っている。 「申し上げたいことがある」と、突然グウェンが妙にしゃちほこ張った言い方でおれの前に立った。同時に並んだコンラッド達の様子もどこか改まった雰囲気で、おれは思わず背筋を伸ばしてお伺いする姿勢を取ってしまった。そこで言われたのがこの言葉だ。 「この度、陛下を常にお護りするため、親衛隊を発足させることと決定した」 おれの知らない間に、一体いつ決定したんだよ、と言う前に、おれは「親衛隊」という言葉に首を捻ってしまったのだ。王様はやってるけど、芸能人になった覚えはないし。 「常に陛下のお側に侍り、陛下を御身をお護りする部隊のことです」 コンラッドが答えてくれる。けど。 「そんなの……コンラッドがいるじゃん!? それでこれまで何の問題もなかっただろ? どうしていきなり? それにヴォルフだって近頃べったり側に貼り付いて、これ以上ないくらいしっかり護ってもらってるよ? なのにどうして……?」 「新たに発足させる親衛隊は、女性のみで編成されることとなる」 絶句した。 「それ……どういうこと……?」 「陛下が女性でもあるという事実が判明致しまして」 口を挟んだのはギュンター。 「陛下の御身をお護りするのがコンラートとヴォルフラムという男性ばかりというのは、少々差し障りがあるのではないかという、その、少なからぬ意見が上がって参りまして……」 「内臓のパーツが余分にあったってだけだろっ。それだけのことで、女扱いされたかねーよ! おれはおれなの! 何にも変わってないの! そんなの皆も言ってたじゃないか。だろ? コンラッドとヴォルフがいれば充分だよ! それにギュンターだってよく一緒にいるじゃないか。……ったく、冗談じゃないって。おれが女の人の集団に護ってもらうだなんてさー」 眞王廟の女性衛士みたいな感じか? 剣を携えた勇ましい女性達にぐるりと囲まれて歩くおれ。 想像したら、思わず口から「うはー」と声が漏れた。 「いらないっ! そんなのいりません! 親衛隊は却下! 以上でその話は終わり!」 「という訳にはいかんのだ」 重々しくグウェンダルが言う。 「王様命令!」 「駄目だ」 「………って、ちょっと、グウェン……?」 グウェンダルの表情は厳しいままちっとも変化がない。むしろ忌々しそうに眉を顰めたりしてくれれば、「よし、もう一押し!」となるんだけれど、今の雰囲気はどうにも取りつく島がないって感じだ。 「……コンラッド?」 応援してよ、と、思いが瞳に籠るように願いながら見上げた先で、コンラッドはどこか申し訳なさそうな笑みを小さく浮かべた。 「………申し訳ありません、陛下」 これは……マズいかもしれない。 おれはバッと身体の向きを変えて、ずっと黙ったきりの絶対最強ダイケンジャーに願いを託すことにした。そもそも今ここにいるって事は、親衛隊の話が出ることを知ってたからだよな? おれの味方をするために駆け付けてきてくれたんだよな? 「言ってやってくれよ、村田!」 「……僕が話してもいいのかな?」 「もちろんだって! どーぞどーぞ、大賢者様っ!」 「じゃあ言うよ。……よく聞いてくれ、渋谷」 「………………」 ………って……おれにかーっ!? 「前に、ちらっと言ったと思うんだけど、覚えているかな。君の身体の事が公表された場合、この世界と地球世界とでは、それぞれ質の違う問題が起こるだろう、って」 ………そう言われれば。 何だか言ってたような気が、するようなしないような。 「こちらでの人間の国や地球世界の様に、両性だからといって生活し辛かったり差別されたりということはない。それはもう分かっているね。でも渋谷、この国ではこの国なりに、そして君が王であるが故に、それなりの問題が起こるんだよ」 「……それなりの、問題……?」 そう。村田が頷く。 「君という『人物』には何の変化もない。でも、その肉体が半分とはいえ女性であることが分かってしまった。そして君の護衛として常に側に侍っているのはウェラー卿だ。朝から晩まで、事態によっては晩から朝まで、彼は君と共にいる。……実はね、渋谷、一部の貴族達から、その状況は些か宜しからぬという声が上がり始めたんだよ」 何じゃ、そりゃ。 「分かんねー」 「つまり彼らが言うにはね、ウェラー卿のこれまでの華々しい女性関係、夜の帝王の称号にふさわしい数多の恋の遍歴をつらつら鑑みると……」 ……あの、村田さん。おれの気持を知っててそういうコトを口にするワケ? 思わず下から睨みつけると、村田が慌てた様に手を振った。 「僕が言ったんじゃないよ! ……ちょっと脚色しただけで」 するんじゃねーっ! 「えーと。……このままウェラー卿が陛下の護衛として昼夜の別なくべったりくっ付いていては、いずれ陛下の御身に危険がおよぶのではないか、っていうのさ。要するに、ウェラー卿がある夜突如強姦魔と化して、君に襲いかかるんじゃないかと彼らは心配してるわけだね」 「げ……猊下……」 ギュンターが今にも汁を吹き出しそうに仰け反る。ちらっと見たら、グウェンとコンラッドが揃ってげっそり肩を落としていた。ぐぐーっと寄せた眉間の皺が、何ともそっくりさんだ。 「………まさかさ、皆、そんなバカな話を信じてるワケじゃないよな?」 アホらしくて怒る気にもなれねーよ。大体、そんな簡単に襲ってくれるならこんなに悩みは……って、いやいや、げほげほ。 「……コンラッドがそんなこと、するワケないじゃん」 「当たり前だ」グウェンが苦りきった声を上げる。「私の弟は、そのような恥知らずではない」 「だったらどうして……」 「確かにバカげてるよ。そもそもそんな事を口にする連中は、本当に君の貞操の危機を心配してるワケじゃないんだ。彼らは皆、歴史だけは古い家系の貴族達ばかりでね。その根っ子にあるのは、救国の英雄と呼ばれて大人気のウェラー卿に対する嫉妬だよ。こういう血筋以外に自慢できるものがないという連中は、当代陛下の宮廷で脚光を浴びる機会はまずないからねえ。でもね、渋谷、どれほどバカバカしいと頭で分かっていても、こういう扇情的で刺激的な話題は、決して根が枯れることがないんだ。こうして実際に声が上がってきた以上、いつどんな些細な切っ掛けでどんな憶測が生まれるか知れたものじゃない。下らない憶測は、妬み、反感、嫉妬を肥料にして一気に成長し、様々な尾ひれをつけた噂となって巷に広がってしまう。『まさか、そんな』『いや、もしかしたら』『きっとそうに違いない』ってね。考え過ぎだと君は思うかもしれないけれど、事は魔王陛下とその護衛の名誉に関わる問題だ。決して疎かにはできないんだよ。だからといって、ウェラー卿を君の護衛から外すなどということはできないし、してはならない。ウェラー卿が君を襲うかもしれないと、僕達までもが認めた事になるしね」 そうだろ? という問いかけに、おれは大きく頷いた。 「じゃあどうする、という話になった時にね。ウェラー卿が提案したんだよ。だったら女性の護衛をつけたらどうかって」 「……コンラッドが……?」 振り返ってコンラッドを見上げると、今度は優しく微笑まれた。 「彼らは、まあ一応言葉を選んだのでしょう、護衛が『男性ばかりでは』宜しくない、と言っていました。ならば単純な話です。女性の護衛をつければいい。そう考えたんです。1人ではどうも、というならいっそのこと親衛隊を作ってしまおう。彼女達が俺と共に四六時中陛下のお側にいるとなれば、彼らの悪意もつけ入る隙がなくなります。女性が陛下の『女性』をがっちり護っている訳ですしね。文句の付けようがないはずです。それに……猊下から、陛下のお身体の内部では、女性の器官がこれからも成長すると伺っておりますし……」 ちらりと投げかけられた視線を受けて、村田が「そうなんだ」と説明を引き継いだ。 「君の体つきが変化することはほとんどないと思う。でも内部の変化は、その部分が完全に成熟するまで止まる事はないだろう。とすると、まあその……女性が身近にいた方がいいことが、この先色々起こり得る、ということもあってね。で、女性親衛隊発足が決定した訳さ。……納得してくれないかな、渋谷」 何だか最後は話が端折られたような気もするけど。 「陛下の、そしてコンラートの名誉を汚さぬためだ。理解して受けれ入れてもらいたい」 グウェンの言葉が重い。 俺のことなどどうでもいいんだ、と、コンラッドが呟く様に言うのが聞こえた。……どうでもいいワケないじゃん。 数は知らないけど、コンラッドのことをそんな風に思う人がまだいる。それが辛い。 どんなに国が安定しても、平和になっても、人の心の奥にある差別意識や妬みや嫉妬、そんなモノをなくす事はやっぱりできないんだろうか。コンラッドが英雄って呼ばれるまでにどれだけ苦しんだか、辛い思いを乗り越えてきたか、知ってもやっぱりダメなんだろうか。 「僕が前に言っただろう」 声にハッと顔をあげると、ヴォルフが腕を組んでおれを睨んでいた。 「卑しい野心や下心を持った輩。魔王を篭絡して、権力を我がものにしたいと願う輩。そんな者達がいるのだと。そいつらにとってコンラートは目の上の瘤。ある意味、邪魔者の筆頭だ。目の腐ったヤツらにすれば、最大の競争相手に映るのかもしれん。今回の具申は、コンラートに対しての嫉妬心というだけではない。コンラートを排除し、お前に一歩でも近づくための『卑劣な手段』の一つと言ってもいい。僕はそう考えている。そんな策に易々と乗せられる訳にはいかん。女性親衛隊は、そのような卑劣な者共を封じるために考え出した方法だ。それでもまだ受け入れられないと言うのか、お前は」 ………何だか、ヴォルフの口調が一気に大人びたというか……不思議な気がする。 思わずじっと見つめるおれに、ヴォルフが苛々したように「どうなんだ!?」と声を荒げた。 「…あ、あー……うん……分かった、よ。……女の人の親衛隊、了解する」 おれのために命を掛けてくれたコンラッド。皆知ってるはずなのに、それでもなくならない暗く濁った視線。仕掛けられる卑劣な手段。思いも寄らないことで、傷つけられる名誉。 ………何だかなー、イロイロ自信が萎えていくっていうか……。そりゃさ、王様として自信満々なんて思い上がってたつもりはないんだけどさ……。 急降下していくおれの気分なんて知らない皆は、おれが頷いた事にホッとしてるみたいだった。 「では、親衛隊長となる者を紹介しよう」 は? と顔を上げる。 「……え? あの、もう……?」 「実際の隊員はこれから選定することとなる。だが、隊長となる者だけはもうすでに決定している。女性護衛官が陛下についたという体裁を一刻も早く整える必要があるからな。少々急いだが、幸い恰好の人物をコンラートが推薦してくれた」 コンラッドの推薦? と見ると、コンラッドが部屋の奥、控えの間の扉を開いていた。中に向かって、「入れ」と声を掛けている。……って、えー!? その人、ずっとそこにいたの!? 思わず頭を抱えてしまった。 分かってたら、親衛隊はいらないなんて、あんなにでっかい声で露骨に言ったりしなかったのに。女の人に、すっごく失礼なことしちゃたじゃないか。もう……勘弁してくれよ〜。 「陛下」 コンラッドの声で顔を上げる。 コンラッドから少し下がった所に、コンラッドのものと似た、地味な軍服を纏うほっそりとした姿があった。 「陛下の親衛隊長となります、ハインツホッファー・クラリスです。現在、王都警備の部隊長を務めており、長らく俺の指揮下で働いてきました。それから……彼女には兄がいたのですが、その兄もまた、かつて俺の隊に所属し……ルッテンベルク師団の一員となって戦い、アルノルドで戦死致しました」 「そ、それって……!」 思わずコンラッドの言葉を遮る。 「じゃあ……この人も……?」 「はい。クラリスも混血です。ヨザックと同じ、シマロンの収容所から脱出して眞魔国に渡った1人です」 クラリス、とコンラッドが振り返って呼び掛ける。 は、と小さな、でもキリッとした声が返ってきて、それと同時にその人が前に進み出てきた。 執務机の前、グウェン達に比べて少し距離を置いた所で立ち止まると、ビシッと背筋を伸ばして敬礼する。 「魔王陛下の親衛隊長を拝命仕りました、ハインツホッファー・クラリスであります。恐れながら、陛下の貴い御身をお護りするという大役、微力ではありますが、この命に替えて遂行する所存であります」 ほとんど無表情、声も言葉も淡々と、その人は言った。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい
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