風になびく葉っぱが足の裏をくすぐって、こそばゆいのに気持良い。 茜色が少しづつ濃さを増していく空を眺めながら、おれはいつの間にかコンラッドの肩に身体を持たせ掛けていた。 「……コンラッド」 「はい、ユーリ」 おれの呼び掛けに、いつも通りに答えるコンラッドの声。……ホントにいつも通りだ。 「………今日はとんでもない一日だった……」 「そうですね」 「何かさ……、村田の言ったこと、未だに全然実感湧かないんだけど……。ヘンかな?」 「いきなりあんなこと言われて、即座に実感できる方がおかしいと俺は思いますけどね」 「そう思う? おれ、ヘンじゃない?」 「むしろ当然の反応ですよ」 よかった、と、安堵の息をつく。それから、何とはなしにお腹の辺りに視線を向けた。 「……分かんねーよな。女性の器官が揃ってます、なんて言われたってさー」 「そうですよ。ユーリの胸が突然膨らんだとかいうなら別ですが、結局内臓レベルの問題なんですし」 その言葉に、おれの心臓がドクンと一つ、大きく鼓動を打った。 「………………コンラッド……」 急に低くなった声に、ぴったり引っ付いたコンラッドがおれの顔を覗き込むように動く。 「ユーリ?」 「……ツェリ様が……」 あの時のおれはかなり混乱してて、誰が何を言ったのかもよく覚えていない……と思っていたんだけど、その時突然ツェリ様の言葉がおれの脳裏に蘇った。 「おれの……身体が……これからどんどん女らしく変わっていくって……」 もし、もしそうなったらおれは……。 この先、おれは一体何者になってしまうんだろう。これからどうなってしまうんだろう。おれは一体……。 急激に襲ってきた寒気に似た不安と恐怖に、おれが思わず自分で自分の身体を抱き締めた時。 「あれは単なる母上の願望ですよ」 さらっと。笑いながらコンラッドが言った。 その軽やかな声に、身体中に広がりかけてた、黒い雲のような不安がさあっと消えていく。 「………え……?」 「猊下だって判断がつかないと仰っていたじゃないですか。あの発言は、母上がご自分の趣味で口にしただけの、いわば戯言に過ぎません」 「……しゅ、趣味……?」 「ええ。陛下を私好みに飾り立ててみたいわ、という程度のね。……本当に、申し訳ありません、ユーリ。母上にしてもヴォルフにしても、あなたの気持も考えずにあのようなことを。彼らも悪気はないのですが……。……ヴォルフの先走りは、アーダルベルトの言うように、焦りから出たものなんでしょうね。ユーリが近頃急に綺麗になってきたから、あいつは気が気じゃないんですよ」 「キ、キレイに、って……おれぇ……!?」 「そうですよ? ご自分では……気づかないものかもしれませんね。陛下が近頃ますます美しさを増してきたと、城中はもちろん、城下でも大評判で、皆大騒ぎしてるんですよ?」 もー、この国の人達の美的感覚ってばホントに……って………あれ? どっかで似たような話をしてなかったっけ………。 「……え、えっとー……」 コホン、と小さく咳払いして、おれは話を変えることにした。 「コンラッドは、さ……」 「はい?」 「その……」 おれはもう一度お腹の辺りに視線を落として、そのまま小さく口を開いた。 「………気持ち悪い、とか、無気味だとか……思わない……? その、おれの、こと……」 「ユーリ……」 コンラッドが驚いた様な声でおれの名を口にした。 「ユーリは、自分の事をそんな風に思うのですか? 自分の身体を気持が悪い、と……?」 だって、と一言口にした後は、どう続けていいか分からなくて黙り込むおれを、コンラッドはしばらくじっと見つめていた。それから。 「ユーリ」 何だか急に声を改めたと思ったら、いきなりおれから離れて、おれと向かい合うように身体を移動させた。 「………コンラッド……?」 いままでくっ付いていたところが急に寒くなって、おれの中にまた不安の暗雲が湧き出してくる。 「ユーリ、一つ告白させて下さい」 「……告白?」 「ええ、そうです。これまで黙っていたんですが、実は……」 コンラッドの真面目な表情に、おれの胸の鼓動がドンドンと耳の奥に響く。 「実は俺、魔族でただ1人、胃袋が3つある男なんです!」 「…………………」 ………何だって……? 「……………胃袋が」 「はい」 「……………みっつ……?」 「そうなんです!」 え……。 「ええーっ!! ほっ、ほんとにーっ!?」 おれはぴょんっとその場で飛び上がった。 「ほんとっ!? ホントに3つも胃袋があるの!? ええーっ、だって、そしたらコンラッド!」 座っておれを見上げたままのコンラッドに、思わず詰め寄ってしまう。 「どれだけ食べてもお腹いっぱいにならないじゃん!? すぐお腹空くじゃん!? どうしてもっと早く教えてくれなかったんだよっ。そしたらコンラッドのご飯、3人前に増やしてもらったのに! 大丈夫なのか、コンラッド! 今だって、ホントはお腹ぺこぺこ………って………」 おれの剣幕に、コンラッドが肩を震わせてくすくすと笑っていた。 「…………コンラッド……」 「は、はい、ユーリ」 肩をぷるぷる震わせながら、必死で笑いをこらえてコンラッドが答える。 「もしかして……今の、嘘……?」 「すみま、せん、ユーリ。でもまさか……こんな可愛い反応が返ってくるなんて……」 堪えきれないといった様子で、コンラッドが吹き出した。 コンラッドとは別の意味で、おれの身体がぷるぷる震え出す。 「単純バカとか思ってんだろ……」 低ーく地を這うようなおれの声に、コンラッドが慌てて手を振る。 「とんでもありません、ユーリ! そうじゃなくて……」 おれは怒ってるのに、コンラッドは笑顔のままだ。ますますムッとして、何か言ってやろうと口を開きかけたおれをほんの一瞬先んじて、コンラッドが口を開いた。 「でもユーリ。あなたは俺に胃袋が3つあっても、俺に対して嫌悪感を抱いたり、気味の悪い奴だと疎んじるような真似はなさらないでしょう?」 虚を突かれるってのは、こういうのかも知れない。おれはぱちぱちと目を瞬かせて、コンラッドを見た。 「……でもコンラッド……それは全然………」 「同じだよ、ユーリ」 コンラッドの微笑みは、本当に深くて静かで優しい。 「さっきも言っただろう? 結局これは内臓レベルの話なんだ。ユーリのお腹には女性の器官がある。おれには、まあこれは確かに嘘だけど、胃袋が3つある。ほら、単に種類が違うだけで、ないはずの物がたまたまあったって事は同じでしょ? だからといって、ユーリは俺を気味悪がったりしない。俺だってそうだよ。胃が3つあろうが、心臓が5つあろうが、お腹に脳があろうが、女性の機能が備わっていようが、そんなことは全然関係ない。俺は俺、ユーリはユーリだ。それにユーリの中のその器官は、今突然現れたものじゃない。ユーリが生まれてからずっとユーリの中にあったんだ。それ含めた全てが、今ここにいるユーリなんだよ。だからユーリは今日突然何か別のものに変化した訳でもないし、これから変化する訳でもない。昨日も今日も明日も、ユーリはユーリのままなんだ。俺は、ユーリの中にあると分かったものも引っ括めて、今ここにいるユーリが大好きだし、何より大切な人だと思ってるよ」 「……コ、コンラッド……!」 突然雷みたいに落ちてきた事実。 おれ自身ですら受け止めきれないおれの中の不思議な真実を、当たり前に受け止めて、認めてくれて。 そして……「大好き」って、「何より大切」って言って貰えて。 世界で一番大好きな人の言葉に、お腹の底からほかほかとあったかいものが湧き上がってくる。思わずうっひゃーと叫んで駆け回りたい衝動に襲われて、おれはもじもじと身動ぎしてしまった。 ホントにやっちゃおうかな、と思った時。「ユーリ」と、またコンラッドに呼ばれた。 コンラッドがおれの両手首をそっと掴む。そしてその手に促されて、おれはコンラッドと向かい合う様にその場に腰を下ろした。 「ねえ、ユーリ」コンラッドが真面目な顔でおれを見ている。「この世界の、ああ、もちろん地球もだけど、社会は自分達を『普通』と呼ぶ絶対多数の人々を標準に作られていることが多いね。『普通』の人々にとって、社会は暮らしやすくできている。でも、世界には彼らのいう『普通』ではない人々も大勢いる。たとえば先天的か後天的かに関わらず、身体に障害を負っている人々や、それからいわゆるマイノリティと呼ばれている人々などだ。そういった人々は、程度の差はあれ、当たり前に社会生活を送ることが難しかったり、様々な形で『普通』の人々と区別されたり、差別されたりすることも多い。……分かるね?」 コンラッドが何を言おうとしてるのかまだ分からなかったけれど、その言葉の意味は理解できるので、おれは、ただ「うん」と頷いた。 「ユーリが自分のことについて、気持ち悪いとか無気味だとか考えるのは、そんないわゆる『普通』じゃない人を差別する意識が働いているとは思わない?」 「……え……!?」 「『普通』じゃないから気味が悪い。そう思ったんじゃないかな?」 「そっ、それは……!」 そうかもしれない、と思い至って、おれは項垂れてしまった。 男でもあり女でもある。そんなの「普通」じゃない。おかしい。「異常」だ。だから……。 「身体にどんな障害を負っていても、そんなことはその人の人格や人間性とは何の関係もない。障害があるからといって、その人が人として『普通』の人に負けているとか、まして劣っているなどということはあり得ない。絶対にない。ユーリの状況を障害と呼ぶのかどうか俺には分からないけれど、たまたま両性を備えて生まれてしまった人は、こちらにも地球世界にも大勢いるよ。彼らの多くは、社会生活の中で差別されることが多いと聞いている。……アメリカにいた頃、世話になった医者がいてね、何かの拍子に話題になったことがあるんだ。テレビのドキュメンタリーで特集してて、色々教えてもらったんだけど。その彼が言うには、手術をしてどちらかの性になる人もいるけれど、両性のままで生きていく人も多いそうだ。彼らは、暮らしにくかったり、色眼鏡で見られたり、差別を受けることもあるけれど、でもそんな様々な問題に真正面から立ち向かって、懸命に毎日を生きているってね。……ユーリが、自分のことを気持ちが悪いとか無気味だとか言うのは、ユーリだけじゃない、色んな差別を受けながら、それでも精一杯生きている人達までも侮辱することになると思いませんか?」 「……お、おれ……」 困惑とか戸惑いとか、そんなもので頭がくらくらする。でもそれ以上に、恥ずかしいという思いが一気に身体中に広がって、おれは熱く火照った顔をさらに伏せた。 おれ、言ってもらいたかったのかもしれない。 そんな身体に生まれてしまって可哀想だねって。辛いねって。そうして頭を撫でてもらいたかったのかも。 自分で自分のことを可哀想がって、誰かに慰めてもらいたかったのかも。 自分の身体の中にあるものが、おれをまるで別の生き物に変えてしまいそうなことが怖くて。そしてこれから降り掛かるかもしれない色んな問題が怖くて。それから顔を背けようとしてた。 自分自身を見据えることも、受け入れることも、立ち向かうこともせずに。 それって、ものすごく弱虫だし……卑怯じゃないか? そう思い至った時、おれのすぐ側で大きなため息が聞こえた。 「………コンラッド……?」 コンラッドが、深く息を吐き出すと、辛そうに眉をきゅっと顰めておれを見た。 「……母上やヴォルフのことを言えませんね、俺は……。ユーリが傷ついて苦しんでいるこの時に、こんな説教じみた事ををして……。どうか許して下さい、ユーリ」 「コンラッド……」 「ただ俺は……」 まるでおれの言葉を恐れる様に、コンラッドが急いで口を挟んだ。 「俺は……あなたに自分を卑下して欲しくなかったんです。あなたの身体の中にたまたまあっただけの物のために、自分を気味が悪い存在だなどと考えて欲しくなかった。ユーリはユーリです。何も変わらないんです。ユーリが男性であろうが女性であろうが両性であろうが、俺達のユーリへの思いは何一つとして揺らぐことはない。ユーリはこの国の人々にとって最高の王で、そして俺にとっても……」 コンラッドがじっとおれを見つめている。 「二つの世界の全ての命を合わせてもまだ追いつかない程、ユーリは素晴しい最高の主で、一番愛しい名付け子で、俺の大切な大切な人ですよ」 嬉しかった。コンラッドの言葉が、本当に嬉しかった。……ちょっとだけ胸を刺すものもあったけど、でも大切な人って言ってもらえたし。 コンラッドが真剣におれの事を思ってくれてるって分かったから。 「……本当に、許して下さい、ユーリ」 まだ気にしてる。 ううん、とおれは首を左右に振って答えた。 「コンラッドが謝ること、全然ないよ。おれの方こそごめんなさい。……恥ずかしいこと言っちゃった」 「ユーリ……」 コンラッドがじっとおれの目を見て、それからふっと微笑んだ。 「時々うっかり間違えることもあるけれど、それでもあなたの周りにいる者は、皆これからもあなたを護って支えていきます。何一つとして変わることなどありません。変える必葉もありません。どうか俺達を信じて、今まで通りあなたの道を進んで行って下さい」 うん! 大きく頷いたおれに、コンラッドが嬉しそうに笑みを深めた。 「……ねえ、コンラッド、おれの身体だけどさ、ホントに変わっちゃったりしないかな……?」 二人で歩く道すがら、おれは隣を歩くコンラッドを見上げて言った。 城に帰ることにした時、靴を履いて歩き始めたおれに、コンラッドが「あれ? もう抱っこさせてくれないんですか?」と尋ねてきた。 その瞬間、おれの身体は頭の先から爪先まで、そりゃもう一気に熱くなって、たぶん顔もどーんと真っ赤に燃え上がったんだと思う。おれの顔を覗き込んでたコンラッドがふいに横を向いたと思ったら、いきなり口元を抑えてた。さり気なく隠したつもりらしいけど、肩が揺れてたから、あれは絶対笑ってたんだ。 自分では結構分かってるつもりだったんだけど、やっぱりここに来るまでのおれはかなりおかしくなっていたんだと思う。コンラッドに抱き上げられて、城の中を歩いて、そしてここまで来て。その間、恥ずかしいとか照れくさいとか、確かにちょっとは思ったはずなのに、それでもおれはやっぱりコンラッドにしがみついて、離れようとしなかった。 コンラッドの力強い腕に抱き上げられて、心も身体も全部任せられる事がとにかく嬉しくて……! おれ達を見ちゃった人は、かなり吃驚した、だろうな。 ホントに赤面ものだよ……って、実際真っ赤になってるし。 けどまあ……今にして思えば、なし崩しというか成りゆきではあるけれど、コンラッドの腕や胸や香りを思いっきり堪能できて、かなり幸せだった、よな、うん……。 「自分で歩けます!」 そう宣言して、しきりに、でもかなりわざとらしく残念がるコンラッドを従えて林の中の小道を歩く。 ところがその小道ときたら、ほとんどもう獣道といってもいいようなシロモノで、迷わず目的地に行き着けるとは到底思えないスゴさだった。コンラッドの脳に実はGPSでも仕込んであるんじゃないかと、おれは半ばまじで疑った。……あの広場が未発見だったのも当然だ。おれ1人じゃとてもじゃないけど、もう2度とあそこには行けないだろう。 なので結局、抱き上げられこそしなかったものの、城の敷地に下りるまで、おれはほとんどの行程をコンラッドと手を繋いでいた。 正気に戻ると、それすらも照れくさい。 でもやっぱり嬉しい。 ああ、恋する青少年の心って複雑だなー。 まあそんなこんなで二人で獣道を歩いていたんだけど、おれはふと思いついて、コンラッドに質問してみたわけだ。 コンラッドっていう男の人に恋してはいるけれど、女の子の身体に興味がない……わけじゃー……ないとー思う、しー……ゴホゴホ。でも、だからって自分の胸に膨らんで欲しいとは全然思わねーしな! でも、もしそうなったらどうしようと、またも不安がこみ上げてきたんだ。 「そうですね。……おれにはその辺りの知識は全くありませんし、魔力もないから、きちんとした答えは出せませんが……しかし……」 うん、と続きを促す。 「おれは、ユーリの身体が変化するかどうかは、ユーリ次第じゃないかと思いますね」 「おれ次第……?」 ええ、とコンラッドが確かな歩調でおれを導きながら頷く。 「ユーリが望まなければ、ユーリの意志に反して身体が女性化することはない、と思います」 おれは思わず立ち止まってコンラッドを見上げた。 「心と身体は、決して別々のものではないでしょう? むしろ互いが互いを映す鏡のようなものだ。ましてあなたは歴代最高の力を持つ魔王です。内臓の成長と体つきの変化は全く意味が違うと思いますし、あなたの心が望まない変化を、身体が起こすとは俺には思えません」 確証がある訳ではありませんが。 そう言って苦笑しながらも、コンラッドが続ける。 「だから、ユーリが男性として生きていきたいと願えば、今のまま問題なく人生を送ることができると思いますよ。身体の機能としては男性である方がしっかり出来上がっているんだしね。……ユーリがいつか素敵な女性と出会って恋をしたら、内臓レベルのことなんか気にしないで、堂々とその人をお嫁さんにして下さい。おれはそうしてユーリに幸せになって欲しいと思っていますよ」 コンラッドのその言葉は、色んな意味でおれにとって重い意味のある言葉だったんだと思う。 でもおれはその言葉の意味を理解した瞬間、コンラッドが考えてる事とはたぶん全く違うことを頭に思い描いていた……。 城に戻るとすぐ、おれは皆─村田とグウェン、ギュンター、ヴォルフ、ツェリ様、ギーゼラ、そしてアーダルベルトだ─に迎えられた。本来だったらすぐに飛び出してきそうなヴォルフと、それからツェリ様は、なぜか皆の後ろで静かに控えている。 「大丈夫か……?」 無愛想な割には、瞳が心配してたと雄弁に語るグウェンに、おれは皆に晒してしまった醜態を思い出して、またまた頬を火照らせた。 「ご、ごめんな、グウェン、皆も……。おれってばあんなに泣いちゃって。あ、でも、もうすっかり落ち着いたから! たっぷり森林浴もしてきたし、すっかりすっきり!」 頭を掻き掻き「てへへ」と笑うおれに、グウェン達がホッとした顔になる。……やっぱり相当心配掛けてたんだ。 「渋谷」 村田が一歩、前に進み出た。 「僕としたことが、本当に失態だった。君がショックを受けるのは充分分かっていたはずなのに、まさかそのフォローも何もできないまま、あんな状態になるとは思ってもいなくて……。君には辛い思いをさせて、本当に申し訳なかったと思ってる。許してくれ、渋谷」 何と村田がおれに頭を下げた。 正直びっくり仰天して、おれは無駄にばたばたと頭と両手を振りたくった。 「あっ、頭上げてくれよ、村田! お前にそんなコトされたらもう、驚きっていうか、後が怖いっていうか……あ、いやいや……とにかく! いずれおれに知らさなきゃならないことだったんだろ? そしたらどんな形でだって、結局おれはショックを受けたよ。それってもう仕方がないことだろ? だからさ、お前が気にすることなんかないって! な? だから、いつも通りにしててくれよ、頼むから!」 「……渋谷……」 村田はおれをじっと見て、それからおれの背後に立ってるコンラッドを見上げて、そうしてやっと身体の力を抜くと、普段見慣れた笑みを顔に浮かべた。 「よかった。渋谷もどうやら一つ抜けてくれたみたいだね?」 「抜けた、っていうかー……」 おれはぽりぽりと頭を掻いた。 「男でもあって女でもあるってのは、いまだに考えると混乱しそうだけどさ。結局それっておれの身体の中にそんなモノがたまたまあったってだけの話なんだよな? それでおれがこの先何か別のモノに変わる訳でもなんでもなくって、おれはおれのまま、何も変わらないんだ。昨日も、今日も、明日も。そうだろ?」 「ああ、その通りだよ、渋谷」村田の笑みが一段と明るくなって、大きく頷いた。「短い時間で、よくそこまで思い至ってくれたね」 「いやぁ、実はほとんど全部コンラッドが言ってくれた事の受け売りなんだけどさ」 「そうか。でもそれを君が納得してくれたなら、それで充分だよ」 照れ笑いでごまかすおれに、村田が嬉しそうに言う。それから村田はコンラッドに顔を向け、言った。 「さすがだね、ウェラー卿。君に任せて正解だった。渋谷の心を護ってくれてありがとう。……あの場に同席させるのは、渋谷の精神状態を的確に判断してフォローできる君とギーゼラだけにすべきだったと、後からしみじみ後悔したよ。本当に済まなかった」 村田がコンラッドにまで謝った。すごい。コンラッドはもちろん慌てる事なく、ただ「いいえ」とだけ答えて頭を下げた。 それにしても村田。 お前、今のセリフって、グウェンや皆の前で口にしていいもんなのか? そんなコト言われたら、皆傷つくんじゃないのか? ほら、グウェンは苦々し気に眉間の皺を一層深めて口元を歪めてるし、ギュンターもヴォルフもツェリ様も、何だか身の置きどころがなさそうにしょぼっとしてるじゃないか。……アーダルベルトはいつも通り太々しい顔してるけど。 いや、もしかして、つまりおれ達がいない間、そんな話を皆にしてたんじゃないだろうな……? でなきゃヴォルフ達がこんなに静かなワケ……。 「陛下……」 おずおずと声を掛けられて、その力のなさにまさかと思いつつ顔を上げると、そこに立っていたのはまさしくいつも元気なはずのツェリ様だった。 眉を八の字にしょぼんと落として、手を胸の辺りでもじもじと揉みしだくツェリ様というのは、まず目にする事がない。……やっぱり村田のやつ〜。 「あ、あのっ、ツェリさ……」 「どうかお許しになって、陛下!」 次の瞬間、ツェリ様にがばーっと抱き締められた。むね、ツェリ様の胸、がー……。あう。 「私ったら、陛下が女性でもあると伺った途端、嬉しくて、もうすっかり舞い上がってしまいましたの! 陛下のお気持にも気づかず、調子に乗ってあんなことを……。どうかお許し下さいませね、陛下!」 がしがしと力強く抱き締められて、頭がすっかりツェリ様の胸の谷間におしおし……押し込まれ〜っ! いい香りがすると頭の隅に浮かんだのも束の間……いきっ、息がっ。 「母上。陛下が窒息死しかけてます」 わたわたと手を振り回すおれを、コンラッドがツェリ様から引き剥がしてくれた。 ああ、やっぱり豊満な胸は自分より人のモノの方が感触が楽しめ………じゃなく、そ−じゃなく! 息を吸って、はい、吐いて、とコンラッドが掛けてくれる声に従って、ぜーはぜーはと荒れる息を必死で整え、おれはツェリ様の前で姿勢を正した。 「どうか気にしないで下さい、ツェリ様。おれが二つの性を合わせ持ってるってこと、全然気にしないでくれて、おれ、よかったって思ってます。そもそもおれ、別にツェリ様が言ったことで傷ついた訳じゃなくて、とにかくびっくりしただけですから。……ただあのー………ドレスを着たりとかは、ちょっと遠慮させて欲しいなーって……その、思ってるんですけど〜……」 「分かっておりますわ、陛下。私も陛下に無理をさせようなんて、少しも考えてはおりませんもの。でもこれだけは覚えておいて下さいませね。陛下が、いつか誰かのためにおしゃれをしたい、美しく装ってみたいとお考えになったその時には、私、喜んでお手伝いさせて頂きますわ。ね?」 うふ。ツェリ様が笑う。その目が何かを語っているようで、おれは意味もなくドキッとした。 「ほら、ヴォルフ!」 ツェリ様が後ろを向いて、三男坊を呼ぶ。 「あなたも陛下に申し上げる事があるでしょ!」 ずっと後ろでムスッと黙り込んでいたヴォルフが、しぶしぶといった様子でやってくる。 「ツェリ様、もういいですってば……。ヴォルフも気にすんなよな。おれ、ほんとに……」 「僕がユーリに謝る事など一つもない!」 ヴォルフが一声言い放つ。 「ヴォル……!」 「それもこれも!」 ヴォルフはずっとおれを睨んでいる。でも、何だかその顔が泣きそうに思えるのは、おれの気のせい、なのかな……? 「全部、ユーリがへなちょこなのが悪いんだ!」 そう言うと、くるっとおれに背を向けて、ヴォルフは足早に去っていった。 「ヴォルフラム! 陛下に対して無礼ですよっ!」 ギュンターの叫び声が城の廊下に響いた。 ふあぁ〜〜〜。 部屋のベッドにぐったりと突っ伏す。 もう夜は深々と更けていた。 「大丈夫かい? 渋谷」 枕元で村田が軽い調子で声を掛けてくる。………そもそも、誰のせいだと思ってやがるんだ、こら。 村田のトンデモ発表(別にインチキだって言うつもりはないけどさ)のおかげで、午後は魔王も宰相も王佐も、ろくに仕事にならなかった。 なので結局、夕食を挟んで夜も遅くまで本日のノルマを果たさなきゃならなくなったワケだ。 おれはすこし早めに解放してもらえたけど、グウェンやギュンターは今も執務室で残業に励んでるはずだ。おまけにコンラッドも、王都警備関係の兵隊さん達に押し掛けられて(ずっとコンラッドを待ってたらしい)、おれの許可を取ると早々に執務室を離れて、結局戻ってこない。 戻ってこないといえば、ヴォルフもあれっきりおれの前に姿を見せなかった。 そして村田は、何のかんのといいつつも、やっぱりおれが心配だったらしくて、仕事をしてる間もずっと執務室にいて、仕事を終えた後もこうして部屋までついてきた。 「……渋谷、いいかい?」 村田の声の雰囲気が変わった。言われて、おれはゆっくりと身体を起こした。 「どした? 村田」 ベッドの上に坐り込むおれと、ベッドの脇で椅子に座る村田。何だか前にもあった構図だな。 「渋谷。……今日は本当に済まなかったね」 「おま……っ、まだ言ってんのかよ! もういいって言っただろ!? ……そりゃさ」 おれは坐り込む自分のお腹の辺りに視線を向けた。……この行動、どうもクセになりつつあるようだ。 「びっくりした……。今も……これからの事とか、色々考えると落ち込みそうな予感がするから、深く考えない様にしてる。それは確かだよ。でも、お前は嘘を言った訳じゃないんだし、黙ってたっていずれ分かることだったんだろ? だったらきちんと言ってもらってよかったんだよ。それにどうやらこっちではそれほど大問題にならないみたいだしさ!」 「うーん……まあ、たぶんね……」 村田の視線がちょっと泳いでいる。……おい、村田〜? 「ああ、大丈夫だよ、渋谷」おれが表情に気づいたのか、村田が慌てて付け加える。「起こるかもしれない問題の質が、こちらとあちらでは全く違うから」 「……問題の、質……?」 うん。と頷いてから、村田はふっと表情を明るく変えておれに向き直った。 「ま、それは今から気にしても仕方がないよ。少なくともこちらでは、君も言ったように君の生活が根底から変わる訳じゃない。無理矢理自分を変えていかなくてはならない訳でもない。君は君のまま、これまで通り生きて行けばいいんだしさ」 うん、とおれも頷く。 「コンラッドもそう言ってた。身体がどうだろうと、おれはおれ、って」 「ああ。ウェラー卿の言う通りさ」 「……実はさ、コンラッドにさ、おれ、ちょっと叱られたんだ」 「叱られたって……ウェラー卿に!? またどうして……」 「おれがバカなこと言ったから。おれさ……男で女なんて、その……異常っていうかさ、気味が悪いって言っちゃって……」 「………ウェラー卿は何て?」 「おれみたいな身体の人は、こっちにも地球にもいっぱいいるって。アメリカでさ、テレビの特集か何かを観たらしいんだけど。あ、知り合いのお医者さんからも色々教わったって言ってたな……。でさ。その人達は、暮らしにくいことや、差別されたりすることもあるけれど、でも、そんなことに負けないで一生懸命生きてるって。おれが自分の身体を気持悪いとかいうのは、自分だけじゃなく、その人達のことも侮辱する事になるんじゃないかって言われた」 「今日この段階で、彼はそんなお説教までしたのかい!?」 村田が眉を顰めるのを見て、おれは慌てた。 「コンラッドが悪いんじゃないから! おれが……バカ言ったんだし。コンラッドも謝ってくれたよ。今言う事じゃなかったって。おれを余計傷つけたんじゃないかって気にしてた! でも……!」 あー、はいはい、と村田がひらひらと手を振る。 「自分で自分を卑下するようなセリフを口にした渋谷が悪い。だろ? まあ、君が良い方向に考えてくれたからよかったけど……。でも、うん、そうだね……」 村田が何か納得する様に呟いた。 「確かにね……。魔族はそもそもヒト形でない一族もいるし、そう遠くない以前には両性の一族もいた。だからこの国に暮らす限り、珍しいと言われる事はあっても、両性だからと差別されることはないようだね。ただ、人間の国では……ウェラー卿は君に分かりやすいように地球の両性具有者を例にしたようだけど、こちらの世界ではかなり状況は違うんだよ」 「……そ、そうなのか……?」 ああ、と村田が少しばかり沈痛な面持ちで頷いた。 「こちらの人間の、特に迷信深い国では、両性はほとんど魔族同様に嫌悪されているらしい。先祖の悪行の報いだとか、呪いだとか、まあ……この世界は地球の歴史で考えると、ほぼ中世から近世にあたるからね。だいたいその頃の発想と同じさ。些細なことで魔女だの、サタンの使徒だのと決めつけて、やれ拷問だ、やれ火炙りだって。全くあの頃は……」 話がずれてきた気がする。でもおれは、何となく息を呑む思いで、何かを思い出しているらしい村田をじっと見つめていた。と、おれの視線に気づいたらしく、村田がハッと我に返った。 「ごめんごめん。妙な話になっちゃった。……えーと、だからつまり、こちらの世界の人間の国では、ほとんどの両性はあってはならない無気味な存在、魔に取り憑かれた者、化け物として社会から排斥されるんだ。見せ物小屋に売り飛ばされる人もいるって聞いたよ。こちらでの両性具有者は、地球の様に差別に立ち向かって精一杯生きていく、どころじゃない悲惨な状態に置かれているようだね。……ウェラー卿は長く人間の国を旅していたというし、そんな事も知っていたんじゃないかな」 きっとそうだとおれは思った。もしかしたら辛い思いをしてる両性の人に会った事もあるのかもしれない。 「それに……」村田がふと思いついた様に言葉を続けた。「別に両性を例に取るまでもない。この世界においては魔族こそが『異常』な存在として差別されてきたわけだしね」 あ、とおれは顔を上げた。 コンラッドも言ってた。「絶対多数の、自分を『普通』と称する人々」って。あれは、この世界の「魔族」に対する「人間」全てにも当て嵌まるんだ。ああ、そうだ。そして……。 「そして、その人間達から差別されるこの国においても、ウェラー卿達混血はさらに差別されてきた」 うん。おれは頷いた。 だからコンラッドは余計に辛かったんだ。言わずにいられなかったんだ。 自分が多数派の言う「普通」じゃないからって、自分を劣った存在だとか、気味が悪いとか、異常だとか、そんな風に考えるのは間違ってる。大切なのは…… 「大切なのは中味だしね! あ、この場合『中味』というのは内臓のことじゃなくて、精神のことだよ!」 おれの考えを読んでいたかのように村田が言う。 分かってる、とおれが笑う。 「大事なのは」 おれはぽんと自分の胸を叩いた。 「心だ!」 おれは中味で勝負する! 「その意気だよ、渋谷!」 ここにきてやっと、おれと村田は二人で思いっきり笑うことができた。 「……あのな、村田」 そろそろお休みよ、と村田が言い、椅子から立ち上がった時、おれはふと気づいて村田に呼び掛けた。 「何? まだ何かあった?」 うん、と頷くおれを見て、村田が椅子に座り直す。 「あのな、コンラッドに聞いたんだ。そのー……もしおれの身体が女の人みたいに変わっちゃったらどうしよう、って。そしたらコンラッドがさ、変わるかどうかはおれ次第じゃないかって」 ああ、なるほどね、と村田が微笑む。 「機能的には、君の女性の部分がさらに成長するのは確実だと思うよ。ただ、体つきに関しては……そう、僕もウェラー卿のその意見に賛成だね。君が望まないのに、その意志に反して身体が勝手に女性化するとは思えないし。……でも、実際どうなんだい? 渋谷」 どうって? 首を捻るおれに、村田が意地悪っぽく笑ったかと思うと、手を伸ばしておれの胸をちょんと突ついた。 「ボン、キュッ、ボンになりたい! とか思わないのかってこと。そうすれば、まあ色々騒がしいことになりそうだけど、でも君だってもっと積極的にウェラー卿に……」 「思わねーよっ!!」 思わず叫ぶ。 「おれはおれのままでいいってコンラッドも言ったし! ボンキュッボンはツェリ様1人で充分だろっ!」 充分って、一体何が……? と村田が首を捻っている。それには構わず、おれは言葉を続けた。 「そうじゃなくて、おれが聞きたかったのは、その、体つきっていうか、見た目が今のまま変わらなかったとして、それでも、おれはその……えーと、あの……」 「渋谷?」 いきなり元気がなくなったおれを、村田がじっと見つめている。 「………お前、言ってた、けど……。おれ、その場合でも、そのー……赤ちゃん……産んだり、できるの、か……?」 そのこと! 村田が大きく頷く。 「さっきもちらっと言ったけどね、渋谷。君の女性の部分はまだ成長を続けていて、まず間違いなく成熟に至ると思う。つまり、妊娠する準備が整うってことさ。そう。いずれ君は、男性としてはもちろん、女性として子供を産むこともできる身体になると僕は確信してるよ」 ショックかい? 村田の表情がちょっとだけ心配そうになった。 「コンラッドがさ」大丈夫だと、そんな気持を込めておれは村田に笑いかけた。「言ったんだ」 「なんて?」 「いつか本当に好きな女の人ができたら、内臓レベルのことなんか気にしないで、堂々とその人をお嫁さんにしろって」 なるほどねー。村田が言って天井を仰ぐ。 「だからおれ、思ったんだ。って言うか、決めたんだ」 「決めた?」 村田の視線がおれに戻る。 「おれ、女らしい体つきになりたいとか、全然思わない。そもそも、女になりたいって思ってないし。おれは今のまんまで生きていく。男だとか女だとかじゃなく、『渋谷有利』であり、魔王の『ユーリ』として……。けど……それでも……おれが赤ちゃんも産める様になるっていうなら……。村田。おれ、前にお前に言ったことを訂正する」 村田は何も言わないで、ただじっとおれの言葉を待っている。 「おれ、コンラッドが好きだ。だから、おれ頑張る。頑張って、いつか堂々と」 おれは拳をぐぐっと握りしめた。 「コンラッドのお嫁さんになる!!」 →NEXT プラウザよりお戻り下さい
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