恋・5


 おれもワケ分かんなかったし、名指しされたコンラッドもきっとそうだったんだと思う。
 コンラッドの視線が、村田とギーゼラの間を行き来する。と。
 コンラッドが何か思いついた様にハッとおれの方を向いて、まじまじと見つめてきた。
「……陛下……お身体の具合が……?」
 何だかものすごくショックを受けたみたいなコンラッドの様子に、おれは思わずぶんぶんと思いっきり首を左右に振った。……あ、めまいが……。
「そんな先走らないで、ウェラー卿。別に陛下の病気に君が気づかなかった、なんて言ってる訳じゃないよ」
「では……」
「ああ、話は後、後! さ、時間の無駄使いはやめて、さっさと行こう」
 すたすたと歩き始める村田の後ろ姿に、おれとコンラッドは思わず顔を見合わせてしまった。
「あいつが何考えてんのかさっぱりだけど……。でもコンラッド、おれ、身体はホントに何ともないよ!」
「そうですか……」コンラッドがホッと小さく息を吐き出す。「しかし、それなら猊下は一体……」
「とにかくまいりましょう」
 声を掛けてきたのは、おれ達が歩き始めるのを待っていたらしいギーゼラだった。
「後ほど、きちんとご説明いたします、陛下」
「確かに」アーダルベルトも続ける。「ここで首を捻っていても埒は明かねえだろうが。とっとと行こうぜ」

 結局向かった先は、おれの部屋だった。
 部屋に入ったのは、おれと村田とコンラッドとギーゼラ、そしてアーダルベルトだ。
 アーダルベルトに関しては、扉を開けてさあ入ろう、というところで村田が、「君は予定に入ってないんだけどね」と、面と向かって言い放っていた。でも村田のこんな態度に全然メゲないアーダルベルトはけろりと笑って、「ここまで来て仲間外れはねえだろう」と言い返し、結局最初からのお約束だったみたいな態度で部屋に入った。

 君たちはここで待っててと村田に言われて、コンラッドとアーダルベルトは居間に残り、おれと村田とギーゼラだけが寝室に入る。
「……村田? 一体何をするんだ……?」
 だんだん不安になってきたおれに、村田が「心配しなくていいよ」と笑みを投げかけて来る。
「上着を脱いで、ベッドに横になって。後はリラックス」
 何も聞かされないでリラックスできるか? おれはちらっと村田の後ろに控えるギーゼラを見た。ギーゼラも何だか変だ。口数が少ないっていうか、どうも……緊張してる?
 仕方がないからおれはベッドに横になって、目を瞑った。それから程なく、お腹の辺りが急にほかほかしてきて、おれは思わず目を瞠いた。ギーゼラの両掌が燐光のような光を放って、おれのお腹の辺りに翳されている。おれの身体から5センチほど浮いた掌は、何かを探る様にゆっくりと動いていた。
「渋谷。リラックス」
 村田の声が枕元から聞こえる。
 そんな簡単にリラックスできるかと思ったけれど、お腹のほかほか暖かい感じはだんだん体全体に広がって、おれはその芯から温もる感覚に、いつの間にかうとうとと眠っていた。

 それからどれだけ時間が経ったのか、おれは村田に揺り起こされて目を覚ました。ベッドの脇にはギーゼラが、やっぱりどこか緊張した面持ちでおれをじっと見つめている。
「……あ、あれ? おれ、眠ってた……?」
 ベッドに横たわったまま、おれは目をぱちぱちと瞬いた。村田がおれを覗き込んでいる。
「……村田、その、何だかしらないけど、終わったのか? 結局これって何だったんだ? どうして……」
「話は後。さ、起きて、渋谷。皆が待ってるよ」
 皆ったって、コンラッドとアーダルベルトだろ? そう思いつつ伸びをして、ベッドを下り、中途半端な眠りのために治まらない欠伸をかみ殺しながら居間へ続く扉を開いて……驚きのあまり一気に目が覚めた。
 部屋には、コンラッドとアーダルベルト、だけじゃなく、グウェンとギュンター、ヴォルフに……何と、ツェリ様までがいた。側近メンバー勢揃いだ。……アーダルベルトはおまけだけど。
 それにしても、これって……?

「…それで、あの、猊下……これは一体どういう……」

 まあとにかく座ってと村田に促されるまま、おれもソファに腰を下ろした。本当はコンラッドの隣に座りたかったけれど、ヴォルフが「ここに来い!」と、自分の隣のスペースをぽんぽん叩いて睨むので、仕方なくそこに座った。もっともコンラッドのいるソファには、真ん中にツェリ様がドレスを広げて座ってて、左隣にコンラッド、右隣にグウェンと、女王様がいい男二人を両脇に従えてるって形になってる。いくら隙間があっても、ここに割り込むのはちょっと勇気がいる感じだ。
 巨大なソファセットはたっぷり余裕がある。村田もギーゼラもそれぞれ空いたスペースに腰を下ろした。誰かが(どうせ村田だろう)連絡してあったのか、タイミング良くメイドさんがワゴンを押して入ってきて、全員にお茶とお茶菓子を配るとまた静かに去っていった。
 その時点でようやく、ずっと無言でいたメンバーを代表するように口火を切ったのはギュンターだった。
 どうやら全員集められてはみたものの、その理由は聞かされていないらしい。
 それでもその場には、ただ事ではないらしいと察する皆の、そこはかとない緊張感が漂っていた。普段口数の多いツェリ様も無言で皆の、特にギーゼラの表情を探っているみたいだし、グウェンは眉を盛大に顰めて目を瞑っている。腕組みした指が二の腕をせわしなく叩いているのが内心のイラつきを現しているようだ。ヴォルフも心配そうにおれをちらちら見ているし、ギュンターも同じ。そしてコンラッドは……今はほとんど無表情で、何を告げられても受け止める覚悟を決めてるみたいな、強い決意を込めた目で村田を見て、いや、睨み付けている。ちなみにアーダルベルトはいつも通り飄々とした態度でお茶を飲んでいる。

「忙しいところ、わざわざ集まってくれてありがとう」
 お茶を一口、ゆっくり飲んでから村田が口を開いた。ギュンターの最初の一言以外、誰も口をきかないし、村田の言葉にも答えない。ただ全員が、一体何を語るつもりなのかと、村田の口元に注目している。おれも何だかこの場の緊張した雰囲気に気押された気分で、皆の様子をちらちら確かめながら黙っていた。
「実は、陛下の身体の事で新たに判明したことがあってね。それを報告したくて皆に集まってもらった」
「………それは、陛下が何かその……恐れながら、病を発しておられる、とか……」
 質問役はギュンターと事前に決めてあったのか、またも彼がおずおずと疑問を口にする。
「いいや、そんなことじゃない。陛下は至って健康さ」
 ホッと、場の緊張がため息一つ分緩んだ感じがする。……皆にすごく心配させてたんだな。そういうおれも、やっぱり同じ様にホッと胸を撫で下ろしていた。正直何がなんだかさっぱり分からないのは皆と同じだし、もしかして病気? という不安が心の隅でぽこぽこ泡のように浮かんでいたのも確かだからだ。
「では一体何があったというのだ?」
 閉じていた目を開いて、グウェンが低い声で疑問を呈する。
「執務室ではなく、いきなり陛下の私室に全員を集めるなど、ただ事ではあるまい。ましてギーゼラの診察を必要とするなど……。病でなければ何だというのだ」
「ギーゼラ」
 グウェンの質問に直接答えようとはせず、村田はギーゼラを呼んだ。はい、と答えるギーゼラの声は、それでもやっぱりどこか固い。
「確認はできたよね?」
「はい」ギーゼラがゆっくりと頷いた。「猊下の仰せの通りでございました」
 ギーゼラが皆の顔をゆっくりと見回す。彼女の視線が最後に辿り着いたのはおれで、そのままその瞳はおれをひたと見つめ、瞬きすらしない。何かちょっと……ドキドキする。ときめきじゃなく、不安で。
「おそれながら……陛下の体内に……」
 ギーゼラがふと一瞬だけ目を伏せ、それから決然と視線を上げて宣言した。

「陛下のお身体の中に、子宮など、妊娠出産に必要な全ての器官の存在を確認致しました」

 ………………はい?

しきゅう、シキュウ、始球式、は、違うか。えーと。……………ニンシンシュッサン……?

「……それって……」
 何だっけ? と続くはずのおれの言葉は、そのまま喉の奥に飲み込まれた。

 その場に居合わせた全員が、目をバカみたいにでっかく瞠いて固まっている。その様子が何とも……。
 グウェンは顎をらしくなくガクンと落とし、ツェリ様は顔の半分位でっかく開いた口を隠すことも忘れてる。コンラッドはぱちぱちと何度も瞬きをしたと思ったら、手を髪に突っ込んで無造作に掻き回し始め、ギュンターは「しきゅう…にんしん…しゅっさん……って、アレ、アレ、アレソレ、そのアレ、やっぱりアレがアレして何とやら……」と壊れたおもちゃみたいに呟いている。アーダルベルトは表情こそ変わらないものの、手にしたカップのお茶が膝に注がれているのに全く気づいてないみたいだし、ヴォルフはおれと大差ないのか、「しきゅう、しきゅう、身体の中で人参が大急ぎ…?」と頭を抱えている。

「……あのー……ギーゼラ……?」
 皆が半分壊れたみたいになってるので、仕方がないからおれが質問することにした。っていうか、おれの事なんだから、おれがちゃんと聞かなきゃだよな。
 はい、陛下、とギーゼラが沈痛な面持ちでおれを見返す。
「あの、えっと……シキュウって……何だっけ?」
 ギーゼラの身体が、ソファの上で半分ほど沈んだ。それから一生懸命という雰囲気で態勢を立て直すと、ふう、と一つ息を吐いておれを見直した。
「陛下」
「は、はいっ」
 ギーゼラの改まった声に、おれも姿勢を正す。
「つまり子宮と申しますのは」
「う、うん……」
 おれの喉がごくりと鳴る。

「女性が持つ生殖器の一つで、子を宿し、その子、胎児がこの世に生れ出るまで体内で護り育てる器官のことでございます」

 ………………はい?

「つっ、つまり、ギーゼラ!」
 ギュンターが復活したのか、咳き込む様に割り込んできた。
「そっ、それはよもや……陛下が実は女性、女王陛下であったということなのですかっ!?」
「待てよ、ギュンター!」思わず声をあげる。「おれ、男だぞ!」
「し、しかし陛下……!」
 おれは、自分の襟元に視線を向けた。上着を脱いでいるから、シャツの隙間から胸元が覗ける。おれは指で襟をちょっと引っ張り、広がった隙間からまじまじと自分の胸を見た。
 すぺんと真っ平な胸。
「…………ないぞ」
 正真正銘の男だから。
 コホン、と小さな咳払いがした。ギーゼラだ。
「陛下は女性ではございません」
 ギーゼラがきっぱりと否定する。
「陛下のお身体の中には、子供を作るために必要な、『男性』の器官も完璧に揃っております」

 またも沈黙が広がった。

「だからね、渋谷」

 そこでようやく村田が口を開いた。

「君は見た目は男性だけど、体内においては男性と女性、両方の機能を備えているんだよ。つまり……」

 両性具有、だね。

「……りょうせい……?」
「そう」村田が頷く。「両性具有。両性体。呼び名は何でもいいけどね」
 おれは、最初それが何を意味するのかさっぱり分からなくて、ただ呆然と親友を見ていた。
「………りょうせい、たい……? りょうせい、って………まさか、村田、おれ……おれ……」

 両生類なのかっ!?

「そうなのかっ!? おれ、両生類!? カエルとかイモリとかモグラと同じっ!?」

「ちょっと待て、渋谷!!」
 村田が叫ぶ。
「何でモグラが両生類なのさっ!? モグラは哺乳類だよ! 君、高2になろうってのにそれはあんまり………じゃなくてーっ! だからシブ……」
「え? モグラって水の中でも息できるんじゃなかったっけ?」
「どこからそんな間違った知識を……いや、だから、頼むからモグラから離れてくれよ!」
 村田が深々と息を吐き、ぐったりと肩を落とした。

「だからね、渋谷」村田がどこかしみじみと言う。「落ち着いて、よく聞いてくれ」
「お、おう……」

「両生類じゃなくて、両性体。両性具有。字が違う。意味も果てしなく違う。地球世界では半陰陽ともインターセクシュアルともアンドロギュノスとも、まあ色々いうけど、つまりね、これは一つの身体に二つの性、男性と女性両方の性が備わっている、という意味なんだよ。まあぶっちゃけた話、誤解を恐れず分かりやすく言うと、渋谷、君は」

 男性でもあり、同時に、女性でもあるんだ。

 がーん、とか、どーん、とか、しーん、とか。
 おれの頭の中で色んな音が同時にしたような、いや、世界の音が一斉に消えてしまったような。
 頭の中から脳がぽこっと消えて、そこだけスカスカになって、何を感じることも考えることもできなくなった場所に、ただびゅーびゅーと風が通り過ぎる音だけが響くような。
 おれだけが宇宙空間に放り出されて、上も下も何にもない所で、踏ん張る地面もしがみつく腕も、全部一気になくしてしまって、ただもう襲ってくる心もとなさと心細さと不安から逃れたい一心で、今すぐ身体を小さく丸めて眠ってしまいたいような。
 おれの中に海があって、それがとんでもなく荒れ狂って、でっかい波がおれの身体を内側からどーんどーんと激しく叩いては水飛沫をまき散らしているような。

 とにかく。
 おれは。
 なんだかもう。

「理解し難い気持は分かるよ、渋谷。でも君の身体のことは君だけの問題じゃないからね。これはきちんと分かってもらいたい。それに、だからといって少なくとも、こちらでの君の生活が劇的に変化する訳じゃないんだし。……たぶんね」
 村田がよく分からない言葉を喋ってる。
「まったくもって……驚きました」しみじみと言うのはギュンターだ。「今はすでに滅んだはずですが、魔族の中にもかつて両性を備えた一族があったと記憶いたしております……」
 いつの間にかすっかり冷静な教育係に戻ってる。それにグウェンも頷いた。
「その一族の話は私も聞いたことがある。その血を引いているのか、現在も時おりそのような身体の子が生まれているようだな。確か、人間の世界でも稀に両性を持つものが生まれているとも聞いたが、あちらの世界でも同じ様な例があるのか? それとも陛下の場合、魔王としての力が関わっているということは……」
「あちらでもあるよ」村田が答える。「さっきも言ったけど、色んな名称で呼ばれてるね。まあ医学的には性発達障害に分類されちゃってるんだけど。それに多くが仮性半陰陽、外見と体内の器官や遺伝子がくい違ってるっていうのが多くて……って、そんな話はしても仕方がないか。それから、フォンヴォルテール卿が今言ってた魔王の力との関係に関しては……これはさすがに僕にも判断がつかないな。確かに渋谷は歴代魔王の中でも際立って強い魔力の持ち主で、『精霊の王』を名乗るのに充分な資質を持っているけれど……。そうだね、精霊の統治者、自然界の王の地位につく者として、どちらか一方の性に偏ることを渋谷の本能が避けた、ということもあり得るかも知れない。あるいは逆に、両方の性を一つの身体に備えた『完全なる身体』を持っているからこそ、これだけの力を有している、と言えるのかも知れない。もちろん、全くの偶然かも知れない。……憶測の類いはいくらでもできるけど、これと結論することはできないね」
「偶然ということはございますまい!」
 高ぶった声。
「陛下ならではの特性に違いありませんとも! これも陛下の偉大さの証明。さすが陛下でございます! ………あ、いけない、つい興奮して鼻血が……」
「それが今この時期に判明したというのには、何か理由でも?」
 冷静な宰相。
「ああ、そうだね、フォンヴォルテール卿。 渋谷の女性の部分は、生まれてからこれまでずっと眠っていた状態だったんだ。男性の部分だけが年相応に成長して、外見も、それからもちろん精神的な部分も、これまでほとんど『男性』と言い切っていい状態だった。でも、ここにきて、いや、おそらくはこの世界にやってきて、魔王として即位したころから、彼の体内の赤ん坊同然だった女性の部分が、まさしく『女性』として成長を始めたのさ。……実は、渋谷が体内に女性の部分を合わせ持っていることを、僕はかなり以前から気づいていた。でも、それが成熟した機能を持つ器官にまで成長するかどうか微妙だと思っていてね。もし成長しないなら、彼はそのまま男性として生きていくのに何の支障もないわけだし、わざわざ話して混乱させる必要もないと考えてきたんだ。しかしそれがここしばらくで、急激に成長していることに気づいてね」
「それでギーゼラに確認を?」
「そういうこと。おそらくもうしばらくすれば、まあ……男の僕が口にするのもなんだけど、女性の印も始まるだろうね」
 ぶふぉっと。液体が吹き出す音。
「ではでは、猊下!」
 ツェリ様が。
「つまり陛下は! 男性として子供を作ることもおできになるし、女性として母親になることもおできになる、ということですわね!」
 びくっと、身体が震えた。
「そういうことになりますね、ツェリ様」
「まああっ。あ、じゃあ、陛下が近頃急にお美しさを増してこられたのも、それが関係しておりますの!?」
「その通りです。……女性ホルモンの働きが活発になって……って、えーと、まあつまり、渋谷の中の女性の部分が成長してきたことで、顔立ちや体つきも変化してきたということだね。女性らしいまろみというか、柔らかさが加わって、さらに美しくなってきた、と」
「なるほどな。そういう訳だったのか」
 ……この声、ダレだっけ。
「では猊下、陛下はこれからさらに女性らしいお身体になるということですわよね!」
 声がすごくわくわくしてる。
「うーん、それはどうか今の段階では判断できな……」
「きっとそうなりますわ! ああ、私、早速仕立て屋を呼んで、陛下にお似合いのドレスを作らせなくては……!」
「母上、それは少々……」
「何よ、グウェン、あなただって知ってるでしょ? 私、娘が欲しかったのよ。娘にそれはもう素敵なドレスを見立ててあげて、そして一緒に色んな所をまわってお買い物するの! その夢が叶うんだわ!」
「母上!」
「なあに? ヴォルフ」
「でしたらぜひ! 婚礼衣装も作らせて下さい!」
「ヴォルフ!」
「よろしいではないですか、兄上! ユーリがこれほどまでに美しくなって、婚約者の僕としては正直気が気ではありません! その上、ユーリが女性でもあり、子も産めると分かったら、今でも大変だというのに、この先さらにどんな輩がユーリを誘惑しようと寄ってくるか分からないではありませんか!? ユーリの身に危険が迫ることもあり得ます! それに、ユーリと僕が結婚すれば、ユーリは紛れもない母上の娘。母上もそうなれば嬉しいでしょう? そうですよね!?」
「…え、ええ……まあ……」
「そいつはちょいと無理矢理じゃねえか? お前が焦ってるってだけだろうが」
「黙れ、アーダルベルト! 無礼だぞ! ……それに…ユーリ! おまえは僕との婚約が話題になる度に、男同士がどうのこうのと益体もないことを言い続けてきたな。だがこれで納得したし、安心しただろう? おまえは女性でもあるんだ。だから僕といつ正式に結婚しても、何の問題もない! 心置きなく僕の妻になれ!」

 ……何だろう。何か、すごく……うるさい。
 さっきまで、誰かが色々喋ってたはずなのに。
 声が、人の声が。何だか……どんどんただの音になってきて。
 いくつもいくつも重なる、ひどく耳障りで煩い音になってきて。
 キリキリと鼓膜を突き破り、頭の中に雪崩れ込んでくる。
 それがわんわんと、わんわんとおれの頭の中で鳴り響いて、その音が頭を内側から壊そうとする。

 ………痛い、なあ……。

「待ってちょうだいな、ヴォルフ」
「何ですか? 母上。まさか、僕とユーリの婚姻に何か不服でも……」
「いえ……あのね、結婚となると儀式だの何だのとっても忙しくなるでしょう? いきなりすぎて、陛下もお困りになるわ。私ね、陛下はしばらくは女性でもあることに慣れる期間が必要だと思うのよ。ドレスを着たり、お化粧……は必要ないと思うけど、身を飾ることとか、これまで全くなさっておいでにならないのだもの。……そうだわ、陛下! 髪をお伸ばしになりませんこと? そうすれば色んな形に結ったり、髪飾りをつけたりして、うんとおしゃれを楽しめますもの! ねえ? ヴォルフ、あなたもそう思わない?」
「え……ええ、それはもちろん……」
「ね? そうでしょう? だから、そうやって陛下がご自分のお身体に慣れるまで……」
「ユーリの髪が伸びるまで待てと仰るのですか!? とんでもありません! 僕は今すぐにだって……!」

 バンッ! と。

 いきなり鈍い音が響いて、一瞬で部屋が静かになった。

 おれの頭の中で、わんわんおんおんと鳴っていた音も、ふいに消えた。

 あれ、と思ってみたら、コンラッドがものすごく怖い顔をして、テーブルに掌をあてていた。……これって、もしかして、叩いた、のかな……。

「……いい加減にして下さい。母上、それからヴォルフも」

「…………な、なに、か、も、文句でも、あると……」
 いきなりコンラッドが立ち上がった。おれの隣でヴォルフがびくりと身体を震わす。怖がってんだ、ヴォルフってば。意外と小心者なんだから。……それにしても。

 コンラッド、いきなりどうしたんだろう。

 立ち上がったコンラッドが、ゆっくりとソファの後ろを廻って歩き始めた。おれと皆の視線がその姿を追い掛ける。
 そうしてソファの端っこに座っていたおれの傍までやってくると、コンラッドはそっと床に片膝をつき、それからおれを見上げた。
「………コンラッド……?」
 どうしたの? そんな疑問を込めて、首を傾げてコンラッドの顔を覗き込むと、コンラッドの厳しい表情が、どこか哀しそうに変わった。
「陛下……いえ、ユーリ……」
 そう言って、コンラッドが両手を伸ばす。その手が、ソファに投げ出したままのおれの両手をそっと握り、掌の中で暖める様に包み込んだ。
「……冷たいね……」
 呟くように言う。それからコンラッドの両手は、まるでおれが凍えているかのように、ゆっくりと優しくおれの手や指を擦り始めた。
 コンラッドの乾いた手の温もりが気持良くて、目を瞑ったおれの肩からスッと力が抜けた。
「ユーリ」
 呼び掛けられて、再び目を開く。
 コンラッドがすぐ近くで、おれをじっと見つめている。
「ユーリ。大丈夫だよ」
 え? とコンラッドの目を見返す。いつも優しく瞬く銀色の星。
「吃驚したね。でも大丈夫だよ、ユーリ。大丈夫」
 おれの両手を包んだまま、コンラッドが微笑んでそう言う。

 大丈夫。ユーリ。大丈夫。

 何度も。何度も。
 ただそればっかり。

 おれは、じっとコンラッドを見ていた。
 あんまり長く見つめ過ぎていたせいだろう、何だか視界がぼやけてきた。
 と思ったら、いきなり。

 涙の粒がぼろんぼろんと噴き上げて、目の縁から転がり落ち始めた。

 しまった。瞬きしないでいたら、涙腺が故障してしまった。

 涙が流れたとか、溢れたとか、そんな生易しいモンじゃない。
 ホントに丸いって分かる形をしたものが、次から次から、下目蓋を押し開いて、どんどんどんどん噴き上げてくる。
 頬を転がり、胸を転がり、おれの手を包むコンラッドの手の上で弾け飛ぶ。

「ユーリ」

 コンラッドがやおら立ち上がり、おれをぎゅっと胸の中に閉じ込めた。

「ユーリ」

 コンラッド、おれ、目が病気かもしんない。ヘンなんだ。

「ユーリ」

 コンラッドが耳元で囁く。うわー、良い声だー。

 大丈夫だよ。絶対大丈夫だ。

 耳元で繰り返されるコンラッドの声。

 もう、こんな良い声で囁かれたら、おれってば照れくさくなって困っちゃうよー。

 そう言って、笑おうと思ったのに。

 おれの目から噴き出る涙の粒は止まらなくて、コンラッドの胸をどんどん濡らしていく。

 ゴメン、コンラッド。服が染みになっちゃう。

 そう言って、謝ろうと思ったのに。

 あれ? あれれ?

 おれ………もしかして……泣いてるじゃん!

 そこでようやく気づいた。

 おれ、泣いてた。

 コンラッドの胸の中で、コンラッドの背中に回した手で、しっかりコンラッドにしがみついて。
 でもって。

「…ふえっ、えっ、えぐっ、うっうっぐ…ふえぇ…えぐ、あう、あうぅ、ふえ、え、えぇん……」

 赤ん坊みたく、おれ、泣きじゃくってる……?

 ヘンな気分だった。
 コンラッドの胸のあったかい感触はちゃんと感じてるのに、同時に幽体離脱したみたいに、おれがおれの側に立って泣いてる自分を見つめてる、そんな夢を見ている時のような変な感じ。

 コンラッドはおれをしっかり抱き締めて、背中をぽんぽんとあやすように叩いたり撫でたりしながら、ずっと囁き続けてくれている。
 大丈夫だよ、大丈夫って。
 だから、おれの涙は止まらない。溢れる声も止められない。
 頭の中は、もう滅茶苦茶おかしくなってしまった。
 コンラッドが何を言ってるのかも、おれがどうしてこんな子供みたいに声を上げて泣いてるのかも。
 もう正直何がなんだかさっぱり分からないんだけど。
 でも今おれは、泣くこと以外何一つとしてできることがない。
 だから泣こう。わんわん泣こう。

 コンラッドが全部受け止めてくれるから。


「………ごめん、渋谷」
 親友の声がどこからかする。
「いきなりこんなことを知らされて、君が衝撃を受けないはずがなかった。君を傷つけることだけはしたくなかったのに……。配慮が足りなかったね。本当にごめんよ」
 ウェラー卿。村田が呼び掛ける。耳元で「はい」と答える声。
「任せていいね? 頼むよ。僕達はここで少々反省することにする」
「畏まりました」
 短い返答。
 そしてすぐに身体が浮かんだ。

 コンラッドの歩調に合わせて、身体が揺れる。
 自分がコンラッドに抱き上げられていることも、どこかに運ばれていることも、だから当然その姿を色んな人が見ているだろうことも分かっていたけれど………おれはコンラッドの首元に顔を埋めて、何も見ない、何も聞こえないと決めてそのまま運ばれていった。
 おれだってそれなりに重いはずなのに、コンラッドの歩調は全然乱れない。呼吸も普通だ。グウェンやヨザックに比べたら、ずっとほっそりして見えるのに、コンラッドは色んな意味で強い。……まあ、おれがちっちゃくて、軽いんだって言われたらそれまでだけど。
 ほんの少し情けない気分を押し殺して、おれはコンラッドの首元からかすかに香るコンラッドの匂いを吸い込んでみた。やっぱ紳士のたしなみって感じで、香水とかつけてるのかな。何だか太陽と青空の下の草原とか、緑滴る山の中を流れるきれいな川とか、澄んだ湖とか、そんなイメージが湧いてくる香りだ。
 おれの頭も胸も、何もかも全部をぐちゃぐちゃにしてたヘンなモノは、そうこうしてる内に少しづつ小さくなっていった。その代わり、コンラッドに小さな子供みたいに抱っこされてる今の状態が、気恥ずかしいやら嬉しいやら、でも正直言うと、構いませんのでどうぞこのままどこまでも運んじゃって下さい! と言いたい気分がどんどんおれの中を占めてくる。
 でももちろんそんな事ができるはずもなくて。
 やがてコンラッドの歩みが止まった。


「ユーリ。……眠っちゃったかな?」
 呼ばれて初めて、おれはコンラッドの首元から頭を上げた。
「起きてるよ」
 おれの目を覗きこんだコンラッドが、ふっと微笑む。……ま、間近でこんな……。
「ほら、ユーリ」
 促されて、おれはコンラッドに抱き上げられたまま、周囲に視線を巡らした。

「……わ……うわ、ぁ……」

 思わず声が出る。
 おれは緑の中にいた。
 コンラッドの背中の向こうには、今おそらく抜けてきたのだろう、艶やかに繁った緑の林。そしておれ達の前には、広さこそさほどないものの、丈の低い草と鏤められる様に咲く色とりどりの小さな花に覆われた、ちょっとした広場があった。
「城の裏山です。近場ですが、ここは初めてでしょう? 林を抜けたこんな目立たないところに、こうして花に覆われた場所があるのを、俺もつい最近発見したんですよ」
 歩きますか? と尋ねられて、おれはちょっとだけ躊躇ったけど、結局下ろしてもらった。抱っこしててと甘えるのは、やっぱりちょっと恥ずかしいし。
「靴を脱いでみませんか?」
 言われて、びっくりした。怪我をしたらいけないと、裸足になるのを許してもらったことはない。というか、夏の浜辺を除けば、裸足で土や草の上を歩くというのはもうずっと幼い頃に経験して以来だ。
「きっと気持がいいですよ」
 微笑まれて、おれも急激に嬉しくなった。うん! と頷くと、すぐさま靴と靴下を脱いで裸足になる。
「気持いい! コンラッド、すっごく気持いいよ!」
 一日太陽に温められた草と土はほんのりと柔らかくて、ずっと忘れていた感覚におれはますます嬉しくなった。と、コンラッドがおれに手を差し伸べてくる。
「葉で切れるといけませんから、そっと歩いて下さいね。さ、あちらに行きましょう。眺めも中々ですよ」
 思わずその手を取りかけて、おれは慌てて伸ばした手を引っ込めると、何となく汗ばんだ気のする掌を服の裾に擦り付けた。手を伸ばしたまま、きょとんとしていたコンラッドは、おれのその様子にくすくすと笑いだした。
「ほら、ユーリ」
 笑いが残った声に、おれはちょっとムッとした顔で、でもすぐに手を伸ばし、コンラッドの手を取った。
 そして、二人手を繋いで、カラフルな花模様で飾られた緑の絨緞の上を歩いていく。

 学校の体育館半分ほどの広さの小さな広場は、血盟城とその屋根越しに王都を眺めることのできるちょとした自然の展望台だった。広場の端は城の裏手に向かって緩やかな崖になっている。
 危なくないよう、その少し内側で、おれとコンラッドは腰を下ろした。

 そろそろ西の空に茜色が混じってきて、きれいなグラデーションが作られつつある。
 広々とした自然の中の、心地よい解放感に、おれはほう…と、深く長く息を吐き出した。

「落ち着きましたか?」
 え? と隣に座るコンラッドを見上げて、まじまじとその顔を見つめて、それから。
「あっ!」
 声を上げた。
「ユーリ?」
 コンラッドがおれの顔を覗き込んでくる。

 おれ……。
「……わ、忘れてた……」

 おれ、大泣きしたんだった。
 村田にとんでもないことを教えられて。
 それで、ワケ分かんなくなって……。
 ヘンだな、何だかそれがものすごく昔のコトのような気がする。
 あんなにわんわん泣いて……。

 ……そっ、そういえば。

 顔の筋肉がひどくだるいような。
 目の周りが腫れぼったくて、何となく熱っぽいような。
 それに何より、顔中がべとべとと濡れてる気がするし、そ、それに……考えたくないけど……何か、鼻の周りががぴがぴするぞ……! う、うひゃあ……っ。

 おれは慌てて両手で自分の顔を覆った。恥ずかしい……!

「ユーリ? 大丈夫ですか?」
 コンラッドがますます顔を近づけて、心配そうな声でおれに囁きかけてくる。
 でもおれはきっとすごい顔をしているはずで、そんな顔をコンラッドに晒していたのかと思うと、もうますます堪らなくなって、掌で覆ったままの顔をさらに深く伏せた。
「ユーリ……。顔を上げて、俺を見て下さい」
 ぷるぷると顔を左右に振る。
「俺の顔、見たくない?」
 答えようがないよ。見たくないんじゃなくて、見せたくないんだ。
「俺が、嫌い?」
 それは違う! さっきより強く首を振る。
「じゃあ、顔を上げて……?」
 顔を覆うおれの手の上に、コンラッドの手が重なる。その手の温もりに誘われて、おれはふと顔を上げてしまった。
「……お、おれ……いま、すごくみっともないかお、してるし……」
「ユーリが?」思いも掛けないことを聞かされたって声。「ユーリはいつもどんな時でも、世界一可愛いくて、綺麗だよ!」
 ………コンラッドも、ある意味究極の親バカだもんなー……。
 そんなコトを思ったら、何となく身体から力が抜けて、おれは顔から手を外すと、身体を起こした。
 コンラッドの笑顔はちっとも変わらず、今もにこにことおれを見ている。
 も……いいや。
 どうせもう、さんざん見られてるし。
 はぁ、と息をついたら、ふいにコンラッドの胸元に視線が行った。たっぷりおれの涙を吸った場所だ。
 おれはぱたぱたと身体を探って、お尻のポケットに突っ込まれたハンカチを見つけると、それを抜き出した。……かなりヨレって、しわしわになってるけど仕方ないか。
 手を伸ばし、よれよれハンカチでその湿った胸を拭く。
「……今さらだけど……」
 ごめん。我ながら情けない声で謝ると、コンラッドの手がおれの手首をそっと掴まえた。
「もういいから……」
 ほんの少し見つめあって、それからおれは「うん」と視線をを逸らした。
「ホントに今さらだもんな……。ごめん、コンラッド……」
「また……。一体、何を謝っておいでなのですか?」
 だって、と言いかけて、おれはハンカチを手の中でくしゃりと捻った。

「……おれ、どうしてあんなに泣いたんだろう……。そりゃ……村田に言われたことはすごい驚きだったけど……驚いたと思うんだけど……。でもホントはよく分からないんだ。何か、ぼーっとしちゃってさ。頭が真っ白になって……じゃないのかな、取り留めのないこと、色々考えてたような気もするし……。で、あれ? って気がついたら、おれ、コンラッドにひっついてわんわん泣いてたんだよ……。ヘンだろ? コンラッド…」

 見上げたコンラッドは、真剣な顔でおれの言葉を聞いてくれている。

「何で泣こうって思ったのか、全然覚えてないんだ。悲しいとか、泣きたいとか、そんなことも何も思いつかないし、何も考えてなかったのに、いつの間にか泣いてたんだよ。コンラッドもびっくりしただろ……?」

 いいえ。答えるコンラッドの声は、ひどく穏やかだった。

「それは、頭で理解するより先に、心が反応したからだよ。……あんなことを突然聞かされて、ショックを受けない方がおかしい。俺は、あの時ユーリが泣いてくれてホッとしました。あんな……虚ろな瞳の、表情どころか魂までもなくしてしまったようなユーリでいるよりは、声を上げて泣いてくれる方がよっぽど……。それまでのユーリはまるで……ソファに放り出された人形か、でなければ……死体のようでしたよ」
「そ……そんなにひどい顔してた…!?」
「そう、『ひどい顔』ですらなかった、と言うべきかな?」
 そっか、と、おれはしみじみとため息をついた。
「だから俺は」コンラッドの声に笑いが籠る。「あんな顔に比べたら、涙でくしゃくしゃになったユーリの顔の方が何万倍も可愛くて愛らしくて、まるで天使のようだって思いますよ!」

 ……………やっぱ、くしゃくしゃって思ってるんじゃないかーっ! てゆーか。

「魔王褒めるのに、天使はヘンだろっ!!」

 おれの怒鳴り声に、コンラッドが盛大に吹き出した。
 おれも笑った。
 二人で笑った。

 笑っていいんだ。少なくとも、今は。

 気持の良い風が、おれの胸から涙の残滓を掬いとってくれる。
 できれば顔も、特に鼻のまわりのがぴがぴも取ってってくれたらいいなー、と心の隅で、でも真剣に祈ってしまった。


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 ………全っ然、予定のトコまで進まない……(涙)。
 もうしばらくこの場でのシーンが続きます。ホントはもっと先まで進むはずだったしー…。

 かったるい話になって申し訳ないですが、ご感想、お待ちしております。(2月24日)