ツェリ様が帰って来た。 国外国内、思う存分飛び回って、ちょっと休憩というトコロかも。 で、おれ達の前ににこやかにお姿を現した途端、こう宣った。 「私、夜会を開きたいわ」 何でも、ずっとあちこちの夜会に出席し続けて、夜を徹して楽しんできたので、急に何もなくなると寂しくて仕方がない、とのお言葉だった。 ……ずっとパーティー三昧だったから、ちょっとはゆっくり休みたい、じゃないトコがすごい。 ツェリ様がそうしたいと仰って、そうならないはずがなく、結局その次の週、ツェリ様仰るところの「親しい方々だけに集まって頂く、こぢんまりと慎ましやかな夜会」が開催される運びとなった。 燦然と輝く大広間。流れるのは、ほとんどフルオーケストラな楽団が奏でる音楽。溢れかえる上流階級の、眩いばかりに着飾った老若男女。ダンスのステップ。お喋り。笑い声。バイキング形式の豪華な料理は次々とテーブルに運ばれ、それよりさらに大量の酒がグラスを満たす。 このパーティーのどこが「慎ましい」のか、誰か分かるならおれに教えてくれ。 設えられたおれのための席に坐り込んで、おれはそれと分からないようにため息をついた。 でもおれの名付け親は、そんなおれの心境なんぞあっさり見破ってしまう。 「母上の夜会はいつ終わるか分かりません。陛下は早寝早起きがモットーなんですから、眠くなるまで我慢する必要はないですからね?」 そう囁いてくれるコンラッドは、あの白い正装を身に纏っている。 私の主催する夜会なのだから、あなた達もちゃんと正装してくれなきゃ、ダ・メ・ とツェリ様に厳命(?)され、3兄弟揃って完全武装……じゃなく、正装なんだ。 愛と青春の旅立ちだー。あの主役よかずーっとカッコ良いぞー! と、思わず叫んでしまったのは、白い正装を纏ったコンラッドが、会場警備の手配を終えて執務室に入って来た瞬間だ。白い軍服姿のコンラッドを見たのは、本当にどれだけ振りだろう。あれは……おれが初めて血盟城に入ったあの時以来じゃないか? ほんっとにカッコ良くて、おれは思わずため息をついて、頭の先から爪先までをしみじみ見つめてしまった。……すぐに怒りに燃えたヴォルフに首を締め上げられたから、実際は「しみじみ」の「しみ」までだったけど。 パーティーの開催を宣言するツェリ様のお色気たっぷりの挨拶の後、おれは麗しき主催者に敬意を表して、最初のダンスをツェリ様と踊った、というか、踊って頂いた。とてもじゃないけど、おれがツェリ様をリードするなんてできるはずもなくて、足を踏まないようにするのがやっとだった。でも、さすがツェリ様、男をリードするなんてお手のもので、おれはそのほっそりした腕に導かれるまま、会場をくるくると回り、お世辞間違いなしの満場の拍手を頂いてしまった。 で、やっとお役目を果たしたとホッとしたのも束の間、今度はヴォルフから「婚約者に恥をかかせる気か!?」と叱りつけられ、そのままダンスフロアに連行された。 続けざまのダンスでぐったり疲れ、やっとの思いでフロアの上座、一段高いところにある王の座(隣には上王の座もある)に坐り込んだおれに、コンラッドが飲み物や軽食を運んで来てくれる。 これだけカッコ良いんだから、コンラッドとダンスを踊りたい女性はわんさかいるに違いない。高い席からざっと会場を見回しただけでも、こちらに熱い視線を送っているご婦人を次々と見つける事ができた。でも、コンラッドはおれの側を離れない。 「コンラッド、おれは大丈夫だからダンス踊って来たら?」 見つめられているのは分かっているはずなのに、丸っきり反応しない名付け親に、ちろっと水を向けてみた。でも、コンラッドは笑って首を振った。 「母上のご命令ですのでこんな格好をしていますが、俺は元々こういう場は苦手ですし……。どうか偉大なる陛下の格別のお慈悲をもちまして、お側に置いて下さいませ」 ね? と、軽やかにウィンクをキメておれに笑顔をくれる。くー、おれもこんなウィンクしてみてー。 「………よろしい。そこまで言うなら、ウェラー卿に、おれの側にいる事を許す!」 気取って言うと、「何と寛大なお言葉、ありがとうございます」と、コンラッドが胸に手をあてて頭を下げた。そしてすぐ、おれたちは揃ってぷふっと吹き出して、たくさんの人が溢れるパーティー会場で、二人だけで笑った。 「お腹、空きませんか、ユーリ?」 「…んー…ちょっと空いたかも」 「今、新しい料理がテーブルに運ばれてきました。いくつか持って来ましょう」 「うん、お願い!」 コンラッドが笑って頷いて、すいと身体を翻し、人波の中に足を踏み入れようとする。その時おれは、何故かいきなり胸がズキンと疼いて、思わず「コンラッド!」と声を上げた。 コンラッドが振り返る。 「……えっと……」どうしよう。「……あー……甘いものがあったらそれもお願い。えと、それからー……」 早く戻って来てね。 音楽と人のざわめきの中で、おれの耳にさえ届かなかった声なのに、コンラッドはにっこり笑って頷いた。 「すぐに戻って来ますよ、ユーリ」 「陛下」 コンラッドを待つおれの耳に、聞きなれた甘い声が飛び込んで来た。 「ツェリ様!」 立ち上がって迎えると、ツェリ様が楽しそうに笑いながら俺の前においでになった。 「ずっとお座りになったままで、退屈じゃございません? 皆、陛下と踊りたくてうずうずしておりますわ。陛下のお誘いを今か今かと待っておりましてよ? ……あら? コンラートはどうしましたかしら?」 お世辞は聞かなかったことにして、おれはコンラッドが料理を取りに行ってくれていることをツェリ様に告げた。 「そうですの。……陛下、ご紹介させて頂いてもよろしいかしら?」 そう言って、ツェリ様が優雅に半身をわずかに後方に向けた。優雅に手を上げ、後ろに控えていたらしい人を呼び寄せる。 おずおずと近づいてきたのは、若い─たぶんコンラッドと同年代の、男女二人連れだった。 二人はウィンコット領に住む貴族の夫婦で、たまたま用があって王都に出て来て、昔からの顔なじみであるツェリ様に挨拶するため城に上がり、そこでパーティーに誘われたらしい。 「陛下に拝謁かないまして、恐悦に存じます」 真面目な雰囲気の男性が、深々と礼をとる。 その隣で、慎ましく目を伏せていた奥方がふと顔を上げ、おれと目が合った途端、真っ赤になったかと思うと、慌ててドレスの裾を上げて膝を折り、頭を深く下げた。 見た感じ、容貌も身につけるものも、ツェリ様の知り合いにしてはむしろ地味な雰囲気だ。でも、おれに取り入るため、人を押し退けてでも自分をアピールしようとする人達に比べたら、ずっと好感が持てるとおれは思った。 ツェリ様が奥さんの腕に軽く自分の手を絡めると、彼女に優しく微笑みかけた。 「彼女のお家も、姓は違いますがウィンコットの一族ですの。彼女のお父上がウィンコットのご当主の…ええと、従兄弟だったか又従兄弟だったかそれとも……まあ、そういうご関係ですわ。それで、彼が彼女の家にお婿さんにお入りになって、後を継がれる事になりましたのよ。陛下もご存知と思いますが、私、昔からウィンコットの方とは親しくしておりまして、彼女とも昔からの知り合いなのですわ。……実はね、陛下」 ふいに、隣に人の気配を感じた。てっきりコンラッドが戻って来たのかと思って振り返ったら、ヴォルフが何だか眉を顰めて立っていた。 と、ツェリ様が、いたずらでも思いついたようにウィンクし、おれに顔を近づけた。そして声を潜めて、囁くようにこう言った。 「彼女は、昔、コンラートとお見合いした事がありましたの」 「え?」 ヴォルフの表情に気を取られて、一瞬ツェリ様に何を言われたのか分からなかった。 間抜けな声を上げて問い返したおれに、ツェリ様が「ふふふ」と笑う。 「私、絶対この二人は上手くいくと思いましたのよ! 彼女は本当に優しくて慎み深くてよくできた方ですし。それにね、陛下、コンラートだって、いつも私がどんな女性を勧めても、あーでもないこーでもない、やれ軍務が忙しい、今その気はないと断るのが常だったのです。ところが、彼女とのお見合いで初めて! コンラートったらこう言いましたのよ。『思いやりのある、心の暖かな素敵な女性ですね』って! よし、これで決まりって、私、張り切って話を進めようとしたのですが……。結局はまとまりませんでしたの」 私、今でも残念に思っていますわ! そう最後の言葉をため息と共に口にすると、ツェリ様は「ねえ?」とその女性に同意を求めた。 「母上!」 突然、ヴォルフが刺々しい声を上げる。 「あら、なぁに? ヴォルフ」 無邪気に問われて、ヴォルフが一瞬鼻白んだように顔を歪めた。 「………そのような昔のことを……。今その方はご結婚されているのですし、ご夫君も隣においでになるのですよ。失礼ではありませんか!」 末息子の剣幕に、ツェリ様が「あらら?」と小首を傾けている。 「どうぞ、お気になさらないで下さい、閣下」 取りなすように口を挟んだのは、コンラッドの昔のお見合い相手の今ダンナ様だ。奥さんと二人で苦笑を顔に浮かべている。 「その……ウェラー卿と妻が昔見合いをして、話が纏まりかけたというのは、私ももう年中聞かされている話なのです」 「……年中……?」 訝し気にヴォルフが繰り返す。男性がはいと頷いた。 「娘の結婚相手がウェラー卿になるはずだったというのが、義父の自慢の種なのです。会う人毎に、必ず口にするのですよ。自分は本当ならば、かの救国の英雄、ウェラー卿を息子と呼んでいたのだと」 「本当にお恥ずかしい話です。もうはるかに昔のことなのに……。父が得々と自慢する度に、私はもう夫に申し訳なくて……」 「何を言うんだい? 君は今、私の妻なのだし、それにウェラー卿ほどの方が、思いやりがあって優しくて素敵だと評した女性なんだ。私にとっても君は自慢の妻だよ?」 あなたったら、と奥さんが顔を真っ赤にして微笑む。……すっかり二人だけの世界だ。 「あらあら」とツェリ様も笑っている。でも……何故かヴォルフの、苛立たし気な表情だけが変わらない。 「これは……驚きました」 突然、その場に爽やかで男前の声が響いた。 ハッと見ると、コンラッドが料理を盛った皿と飲み物を置いたお盆を手に立っている。 女性に笑いかけると、コンラッドはおれの席の側にある小卓に「お待たせ致しました、陛下」とお盆を置いた。「何だか、色々と掴まってしまいまして」と、ちょっと申し訳なさそうに言葉を続ける。それからご夫婦の元に向かうと、コンラッドはツェリ様を交えてお互いに挨拶を交わし始めた。奥さんから御主人を紹介されたのだろう、ダンナさんとにこやかに何か言葉を交わしている。 「……あの時」 ふいに耳元で聞こえた声に、何となく彼らの姿を見ていたおれは思わず顔をそちらに向けた。 ヴォルフが眉を顰めて、同じように彼らを見ている。 「見合いがうまくいかなかったのは、あの女の父親が反対したからだ」 「……え……? でも……自慢してるって……」 「由緒あるウィンコットの係累である我が家に、混血の血を入れようとは何事かと……。汚れた人間の血を混ぜようとは、魔王陛下は我らに含むところでもおありになるのか。これはフォンウィンコット全体をも侮辱する一大事である。卑しい混血の子を我が娘が宿すなど想像するもおぞましい。……戦争がまだ本格的になる前のことだったが、他にも色々とな。ウィンコットのご当主はコンラートを高く評価していたから、かなり困惑されていたが……。それが!」 ヴォルフが忌々し気に顔を歪める。 「今頃、コンラートを息子と呼んでいたはずだったなどと自慢するとは…! 恥知らずにも程がある…っ!」 吐き捨てるように言うと、ヴォルフはぷいとそっぽを向いた。 そしておれは。 さっきから少しづつ少しづつ、ヘンになってる。 どうしたんだろ、おれ。 ほんの3メートルも離れていない所で、コンラッドがツェリ様と並んでご夫婦と向き合っている。 別になんてことない光景で、コンラッドはあまり顔がよく見えないけど、奥さんの笑顔はよく見える。 コンラッドを見上げて、別に頬を赤らめてるとかそんなことはなくて、ただ懐かしい人に再会できて嬉しいという感じの顔だ。 でも。 ………もしかしたら。この人はコンラッドのお嫁さんになってたかもしれないんだ。 そう思いついた瞬間、ゾクンッ、と胸の奥の奥の奥の方で、何かが跳ね上がった。 もし、コンラッドとこの人が結婚していたら。 もし。もしも。この人のお父さんが結婚に反対しなかったら。ウィンコットの当主のように、混血に理解のある人だったら。 コンラッドはウィンコット領で暮らしていたんだろうか。王都を離れて。家族ともヨザ達仲間とも離れて。 もしそうなっていたら。 戦争はどうなっていたんだろう。 ウィンコットで静かに暮らしていたとしたら、コンラッドは辛い思いをせずに済んだんだろうか。 でも、混血達は? ルッテンベルク師団は? アルノルドは? そして。 そして………おれは? コンラッドが戦争に巻き込まれることなく、田舎で静かに暮らしていたら、魂を運ぶ役目を与えられたのはコンラッドじゃなかったかもしれない。 コンラッドは地球世界を今も知らなかったかもしれない。 おれの誕生も、おれのことも知らずに。何も知らないままで……。 ほんのちょっと、ほんのちょっとの切っ掛けで。小さな分かれ道の向かう先がちょっと違っていただけで。 おれは……コンラッドに出会わなかったかも…………。 ガツン、とバットでぶん殴られるような衝撃が心臓を直撃して、それから内臓が全部ひっくり返るみたいな、ぐちゃぐちゃな感覚が、突然おれの中いっぱいに広がった。……気持悪い。 おれは手探りするように椅子に掴まえると、ぎくしゃくと腰を下ろした。おれを呼ぶ、きょとんとしたヴォルフの声がする。 身体の中にあるのは、骨と内臓と血管とそれから………。でもホントはそれだけじゃない。 身体の中、胸の奥には穴があるんだ。 ものすごい深い穴。中は真っ暗で、それはきっと異次元や、宇宙の何万光年も彼方のどこかに繋がっているんだ。もしかしたらブラックホールの正体って、人の胸に空いた穴のことかもしれない………。 ワケ分かんない考えというか、イメージというか、とにかくそんなモンが頭の中をぐるぐるしてる。 ただ、心臓と重なるようにある穴のイメージだけが、ひどく鮮明に目の前に浮かんだ。 その穴から、おれの身体では受け止め切れないほどの何かが、心臓や他の内臓や骨や、身体の中の色んなものを押し退けるように流れ込んでくる。溢れてくる。 その流れがあまりに激しくて、目から、口から、身体中の色んなところから、今にもそれが一気に吹き出してしまいそうだ。 おれは、コンラッドに出会えなかったかったかもしれない。 おれは、渋谷有利じゃなかったかもしれない。 今夜、ツェリ様に紹介されていたのは………夫婦になったコンラッドとこの女性だったかもしれない……! イヤだ。 ………イヤだイヤだイヤだ。そんなのは……絶対に、嫌だっ! コトコトコト、とかすかな音と振動が、少しづつ大きくなっておれの耳と身体に伝わって来た。 最初は全然気づかなかった。 でも………。 ふと傍を見ると、小卓の上にある果汁を入れたコップと料理を盛った皿が、小刻みに揺れていた。 前を見ると、すぐ側でヴォルフが訝し気に天井を見回している。 会場を埋める人達の表情やざわめきが、どこか変わってきた。自分の周囲や、上を見回す人が少しづつ増えていく。 カタカタカタ、と、音と振動が大きくなってきた。 それはおれの足元から床を通り、会場を囲む壁に伝わり、ああ、シャンデリアが………。 「ユーリ!」 ハッと目を瞠く。 まるで今の今まで、悪夢を見ていたような気分。 目の、すぐ前にある銀色の星が、おれをそこから救ってくれる。 「しっかりして下さい、陛下。お辛いですか?」 コンラッドが、おれの前に膝をつき、見上げる様にしておれの顔を覗き込んでくる。 コンラッドの大きくて節くれ立って、でもとっても暖かい手が、おれの両手をしっかりと包み込んでいる。 心配そうなコンラッドの声と、暖かな手の乾いた感触に、おれは止めたままだった息を長々と吐き出した。 ……おれは……。 「さ、陛下、これをお飲みなさいませ」 ツェリ様が果汁を入れたコップを差し出してくれる。ふと傍を見ると、ツェリ様とヴォルフが椅子の両側でおれを心配そうに見ていた。彼らの向こうには、今まで客の相手をしていたはずのグウェンとギュンターの顔も見える。 コンラッドに手を添えてもらって、おれは果汁を一気に飲み干した。 冷たくて甘ずっぱい果汁が胃に落ちていって、身体からすうっと力が抜ける。 地震のような振動は、すでに治まっていた。 「体調がお悪かったのですね。……気づかなくて、申し訳ありません。さ、すぐに部屋に戻りましょう。念のためにギーゼラを……」 「だいじょうぶ……」 声が掠れる。おれは唾を飲み込んで、一つ大きく息を吸って、吐いた。 「大丈夫、だよ。ごめん、おれ、何だか急に……。久し振りだったし、人に酔ったかな?」 えへ、と笑ってみせたけど、気遣わしげなコンラッドの表情は変わらなかった。 「手がひどく冷たいし、汗もかいておられる……。とにかくここを出ましょう。さ、ユーリ」 コンラッドに促されて、おれは立ち上がりゆっくりと椅子から離れた。何だか、脱力感がひどい。 僕も行くぞ! 何ならこのまま添い寝して……と、ヴォルフがついてこようとした。でもすぐにツェリ様に捕まって、何か言い含められている。「コンラートにお任せなさい」という一言だけが耳に入った。後でまた八つ当たりされるかもしれない。 腰と腕をコンラッドに支えられながら扉に向かおうとして、ふと見るとあのご夫婦が心配そうにおれを見ていた。笑って軽く頭を下げるおれに、二人はまた深々とお辞儀をした。 コンラッドは二人に何の挨拶もしなかった。 会場を出て扉が閉まった途端、コンラッドはほとんどおれを抱き上げるようにすると、一気にスピードを上げ始めた。 「…コ、コンラッド……だいじょぶだよ……おれ、歩けるよ……」 いいえ! と一言だけ返すと、後はものも言わずに部屋を目指す。 そしておれの部屋に飛び込むように入ると、コンラッドはおれを赤々と炎が燃える暖炉の前のクッションに座らせ、有無も言わさず黒い礼装を脱がせ始めた。 ちょっと待ってよ、自分で脱げるよ! と焦った気分で叫びたかったのだけど、コンラッドのひどく厳しい、どこか必死という感じの形相が目に入った瞬間、おれは抵抗できなくなった。 「……申し訳ありません……」 丈の短い上着を脱ぎ、その下の襟の詰まった、これは膝下まである長衣のホックを外していた時、突然コンラッドがおれに謝罪した。 「……コン……?」 「ずっとお側におりましたのに、ご気分が悪いことに気づかず……俺は………」 「ちっ、違う、それ、違うから、コンラッド!」 咄嗟におれの前を開いていたコンラッドの手を掴む。コンラッドが驚いたようにおれを見上げる。 「……だっておれ……気分なんて全然悪くなかったし……」 じゃあどうして、とコンラッドの目が問いかけてくる。 おれは、掴んだままのコンラッドの手をじっと見て、それからそっとその手を下ろすと、自分で胸のホックを外し始めた。俺が、と手を伸ばそうとするコンラッドを遮って、それからなるべく明るく見える顔を作った。 「自分でできるから大丈夫だよ。ギーゼラさんも呼ばなくていい。それより、もうちょっと冷たいものが飲みたいな」 ほんの数呼吸、おれをじっと見ていたコンラッドは、「畏まりました」と立ち上がった。 「……ねえ、コンラッド」 暖炉の前で夜着に着替えて果汁を啜るおれに、コンラッドが「はい」と答える。声に心配が滲み出てる。見てないけど、きっと表情もそうに違いない。 「考えてたんだけど、もしかしたらコンラッド、あの人と結婚してたかもしれないよね……?」 あの人? と声にしてからわずかの間を置いて、ああ、と思い出したようにコンラッドが言った。 「過去のことをあれこれ想像するのは、あまり意味がありませんよ?」 「うん………でも、ちょっと考えてみたんだ」 「何をです?」 「もし……コンラッドがあの人と結婚して、ウィンコットで静かに平和に暮らしてたら、戦争で……辛い目にあうこともあんまりなかったのかな、とか……」 返ってきたのは沈黙だった。でもすぐに、コンラッドが小さく息をつくのが分かった。 「そういう点では、あの時結婚しなかったのは正解でしたね」 「……どうして……?」 思わずコンラッドの顔を見る。 「俺だけが戦争から離れていることなどできはしませんし、それに……何より仲間を見捨てることはできませんから。混血の同胞達がどんどん悲惨な境遇に追いやられていくというのに、俺1人が自分のささやかな幸せにしがみついていることなど、ね……。ユーリは、俺が仲間を見捨てて、自分だけ幸せになろうとする男だと思いますか?」 問いかけるコンラッドの目は笑っていたけど、おれは急に自分が恥ずかしくなって、思いっきり頭を横に振った。 「ううんっ! 思わないっ。思わないよ、コンラッドっ! コンラッドはヨザック達を見捨てて、彼らだけを戦場に送るような、そんなことする人じゃないよ!!」 ああ、ほら、ユーリ。コンラッドが慌てておれに手を伸ばしてくる。コップを持った手をしっかり握られて、おれはドキッとした。 「ジュースが零れますよ。………でも」 ありがとう、ユーリ。そんな風に思ってくれて。 コンラッドがコップごと俺の手を握ったまま、静かにそう言って微笑んだ。 「だから、結婚していようといまいと、結果は同じなんです。おれは最終的にルッテンベルク師団の指揮をとり、アルノルドに向かったでしょう。ですから、心配する人を1人増やさなかったことは大正解です。そうでしょう?」 「だったら……」おれはまた目を伏せて、しつこく話を続けた。「あの人と結婚してても、コンラッドはおれの名付け親になってた……?」 「ええ、もちろん。あなたの名付け親になる栄誉を、俺は誰にだろうと譲るつもりはありませんよ」 上目遣いでちろっと見上げると、コンラッドはにこにことおれを見ている。 「でも、そしたら……」 「ユーリ」 珍しくコンラッドがおれの言葉を遮った。え? と顔を上げたおれの唇に、コンラッドが軽く指を当てる。 「”たられば”を語るのは無意味だと、日本でも言うでしょう? 俺は結婚などしてませんし、予定もありません。そして俺はあなたの名付け親で、こうしてお側にいます。それが全てです。でしょう?」 「でも分かんないじゃないかっ!」 思わず上げた声は思いのほか大きくなって、コンラッドはビックリしたように目を瞠いた。 「コンラッド、これから結婚するかもしれないじゃないか!?」 口にした自分の言葉にゾッとした。そして気づいた。 おれが怖かったのは、まさしくこれなんだって。 「もっ、もしかしたら明日どこかの曲り角で女の人とぶつかってその人に一目惚れする可能性だってないことないじゃないか!」 息も継がずに一気に言う。 もしかしたら明日。 「素敵な女性と出会って、おつき合いすることになりました」って、笑顔で報告してくる可能性だってあるんだ。そしてその内「この人と結婚します」って幸せそうな顔で……。 まるで未来を透視したみたいに、その時のコンラッドの顔がはっきりと目に浮かんだ。 コンラッドの1歩後ろで控える女の人の顔まで見えるような気がした。 「うーん…」のんきに笑みを含んだ声で、コンラッドが唸っている。「曲り角でぶつかった女の人に、ですか…? そりゃ可能性だけなら何でもあり得ますが……。でもむしろそのシチュエーションは、ユーリの方がよっぽどあり得るんじゃないかなあ?」 「…………お、おれ……?」 そうですよ、とコンラッドが楽しそうに笑いながら頷いた。 「城の中でも城下でも、あんなに走り回っておいでだし、いつ誰と真正面からぶつかるか分かりませんよ? それがたまたまとってもチャーミングなお嬢さんで、ユーリが一目惚れする、という可能性の方が、俺よりずっと現実味があるような気がしますね。まあ、ヴォルフがちょっと可哀想ですが」 「……お、おれ……」 おれはきゅっと唇を噛んで、笑顔のコンラッドを睨み付けるように見上げた。 「何です?」 「……コンラッドは、もしおれが誰かを好きになったって言ったら……どうする?」 それは、と言ってからちょっと言葉を切って、コンラッドは軽く小首を傾げておれを目を見返した。 「もちろん暖かく見守りますよ。そしてその人がユーリを幸せにしてくれる人だと確信できたら、応援させて頂きます。ヴォルフやギュンターや、ユーリの恋路を邪魔しようとする全ての目を掻い潜って、デートの段取りもつけて差し上げますね。その時はどうぞ頼りにして下さい」 「コンラッドは……」 「はい?」 「……おれがその人に取られた、とか思ったりしない……?」 おれの言葉に一瞬きょとんとしたコンラッドは、次にくすくすと笑い始めた。 「そうですねえ。たぶん……ちょっとは悔しかったり寂しかったりするでしょうね。ユーリは俺の、世界で一番大切な主で、一番大事な名付け子ですし……。でも、安心して下さい。どこかの舅や小舅みたいな意地悪、ユーリの大切な人にしたりしませんから」 コンラッドは笑ってる。 おれはそんなコンラッドをじーっと見てる。 そっか。そんな風に思うんだ。 おれは視線を床に落とした。 「……でも……おれはダメだよ……」 「…? 何ですか、ユーリ?」 もし。 コンラッドが誰か好きな人ができて、結婚したりしたら。 おれはその人を好きになんかなれない。だっておれからコンラッドを奪う人を、好きになれるはずがない。 きっと結婚しても、コンラッドは変わらないんだろう。 いつも爽やかに笑って、おれにもちっとも変わらず優しくしてくれて、護ってくれて、誰より大事にしてくれて、ずっとおれの側に仕えてくれるんだろう。そうだ。 側にいてくれるんじゃない。仕えてくれるんだ。 きっと結婚しても、コンラッドは言うんだろう。 「ユーリは、俺の世界で一番大切な主で、大事な名付け子ですよ」って。 でも、コンラッドの心の半分、もしかしたらそれ以上、おれじゃない別の人が、奥さんとか、いつかは子供とか、そんな存在が占めてしまうんだ。 その人達への愛情が、コンラッドを支えていく。 「世界で一番大切な主」に仕えるコンラッドを、その人達が支えていくんだ。 おれじゃない。 「…………やだ……」 「ユーリ? どうしました? 気分が悪いのですか!?」 コンラッドがものすごく心配そうな声でおれを呼ぶ。 両手で握りしめたコップが小刻みに揺れる。まだ残ってる果汁が、ガラスの筒の中で波打ってる。 ユーリ!? コンラッドの焦った声。でも、おれは顔をあげる事ができない。 いやだ。 そんなの、いやだ。 おれは、誰かとコンラッドの心を分け合いたくなんかない。 コンラッドに「仕えて」もらいたくなんかない。そんなんじゃないんだ。おれは…… おれが。なりたいのは。 コンラッドの「主」じゃない。 コンラッドの「名付け子」じゃない。 どんなに大切と言ってもらっても。世界で一番って言ってもらっても。 違うんだ。 おれは。 おれは。 おれは……………。 村田。 おれ………やっと分かった。 すげーよ。お前の言う通りだよ。こんなニブいやつ、普通いねーよ。 お前、今ここにいたら何て言うかな。きっと笑うんだろうな。 うん。笑ってくれよ、村田。 「……リ、ユーリッ!? お願いです、俺を見て下さい! しっかりして下さい!」 のろのろと顔をあげると、コンラッドがものすごく焦った顔で俺の両腕を掴んでいた。 「ユーリ、大丈夫ですか!? お辛いのですか? ベッドに行きましょう。すぐギーゼラを……!」 「その必要はないよ、ウェラー卿」 どっひゃーっ!!! 気分的に、こんなお間抜けな声を上げるのは雰囲気ぶち壊しだと思うんだけど。 でも、背後に響いた声におれの魂が上げた叫びは、間違いなくこんなモンだった。 …………タイミングが凄すぎるぞ、ダイケンジャー! 「猊下……!」 「渋谷は大丈夫だよ。……少々唐突で悪いんだが、席を外してくれないかな。大事な話があるんだ」 「しかし猊下! 陛下はご気分が……」 「だから、大丈夫だと言っているだろう? 僕が彼の為にならないことをしたことがあったかい?」 「それは……!」 しばらく逡巡する様に、コンラッドは村田とおれの顔を交互に見遣った。そしてコンラッドと目が合った瞬間、思わず視線を外してしまったおれの耳に、小さなため息が響いた。コンラッドの立ち上がる気配。 「……外に控えております。何かありましたらお呼び下さい」 コンラッドが部屋を出ていく。扉を閉めた時の音の余韻が、何故かいつまでも耳に残った。 部屋にはおれと村田の二人きり。 村田は腕を組み、何も言わないままおれを見ている。 そしておれは、手に握ったままのコップを口にあて、残っていた果汁を一気に飲み干した。それからやっぱり何も言わないままベッドに向かい、村田を無視してふかふかの毛布の海の中に潜り込んだ。 頭までしっかり毛布の中に潜り、何も見えなくなったおれのベッドに、足音が近づいてくる。 その足音はおれのすぐ傍に立つと、近くにあった椅子を引き寄せ、座った。 「……何とも言えない地震みたいに揺れる気配が届いてね。だから急いで来てみたんだよ。さて、それで」 自覚したかい? 渋谷。 村田の声は、意外と優しい。……やっぱりここで笑われるとキツいので、助かるかもしれない。 「……………おれが、すっげーニブちん馬鹿やろうだってことは……自覚した……」 毛布の中からだったのに、ちゃんと聞こえたらしい。村田がくすくすと笑う。 「それはよかった。……ねえ、渋谷、僕の前でそんな格好でいる必要ないだろう? 出ておいでよ」 ……確かに、もう、というか、最初から、あんまり意味のある行動じゃなかった。 おれは、もぞもぞと毛布から這い出て、ベッドの上に坐り込んだ。椅子に腰掛け、足を組んだ村田がにこにこと一見無邪気に笑っている。 「何だよ、渋谷君。雰囲気暗いぞー。せっかく自分の気持に気づいたんだから、もっと乙女ちっくにうっとりしてみたらどうかな?」 「おとめ……って、何だよ、乙女って!」 「照れない照れない。……で? 気分はどうだい?」 無意識に手を胸に当てていた。胸の奥の異次元通路から、色んな形の何かがどんどんどんどん湧いてくる。 ドキドキするみたいな。わくわくするみたいな。それから身体が熱くなるみたいな……。でも。 「………どうしたんだ、渋谷?」 おれは胸に手を当てたまま、上半身を折ってベッドに突っ伏した。 一番たくさん湧いてくるのは、泣きたいくらい切ない何かだ。 「自覚したって………何の望みもないじゃん………男同士だし……」 コンラッドが好きなのは女の人だ。いくら同性愛が珍しくないこの国だって、人には好みってものがあるんだ。コンラッドが男と噂になったなんて、聞いた事もない。 それは、と言うと、村田は何かを考え込むように天を仰いだ。 「……まあその辺りは………後はタイミングの問題かなー……」 呟かれた意味が分からなくて顔を上げると、村田は「まあそれはこっちのこと」とごまかした。 「そんなことよりさ。望みがないなんて、今から決めつける事ないじゃないか。こういうことはね、アタックあるのみ! だよ、渋谷君!」 あのなー。ますますぐったり、おれはシーツと仲良くなった。 「アタックなんて、そもそも……おれみたいな、ただの野球小僧……」 やたらと美形扱いされるけど、それだってどうせ双黒だってのが唯一の理由だし。他に何の取り柄もないし。口先ばっかで頭悪いし。貧弱だし。小心者だし。それから……。 「あー、またまた自信喪失かい?」 自信なんか、持てるワケないだろ? 「……コンラッドにとって、おれはどこまでいっても『主』なんだ。プライベートだとそこに『名付け子』ってのがくっつくけどさ……。何がどうなったって、それ以外にはなれないんだ。……世界で一番大切だって言ってくれるけど、でも、おれが欲しい『一番』じゃない。でもそれは……おれにはもらえない………」 「だから、そんな風に決めつける必要はないって言ってるだろう?」 おれはのろのろと身体を起こした。 「コンラッドにさ、おれに好きな人ができたらどうするか聞いたんだ」 「うん。そしたら?」 「見守って、おれを幸せにしてくれる人だったら応援するって。デートの段取りもしてくれるって。それからちょっとは寂しいけど、おれの好きな人に小舅みたいな意地悪はしないってさ」 「なるほど」 言って、村田はまたくすくすと笑い出した。 「渋谷、だからウェラー卿に、自分に恋させる自信はないっていうのかい?」 「…な……っ!! あるわけないだろ、そんなモンっ!!」 あったら、生きて来た年数イコール彼女いない歴になるはずねーだろっ。 思わず、叫んでしまった。 おれの叫びを受けて、村田はふうと息をつくと、椅子に背を預け、つい今しがたまでとは何かが違う笑みを浮かべて俺を見た。 「……ウェラー卿はさ、渋谷、最も欲するものを、一番最初に諦めるという悪癖があるね」 へ? と、分からずおれは村田の顔をまぬけに見返した。 おまけに。村田が続ける。 「芝居も下手、絵もド下手、そしてギャグは壊滅的に寒いっていうのに、自分の感情に蓋をすることにかけては、芸術的な才能があったりするんだよね」 それって……。 おれの口から思わず苦笑が洩れた。 「村田、お前、おれを慰めてくれてるのか……?」 「まさか」 村田が即答する。けど、そのすぐ後に、「ただね」と続いた。 「砕ける痛みが怖くて、当たってみることも、その前に努力する事も放棄するのは、渋谷らしくないんじゃないかと思っただけだよ」 ねえ、渋谷。 村田が言う。 「ウェラー卿が、好きなんだろう?」 じっと村田の顔を見て。それからおれは大きく頷いた。 「うん。おれ……やっと分かったんだ。やっと、気づいた。おれ……」 コンラッドが。 好きだ。 誰よりも、誰よりも、何よりも。世界で一番。 「大好きなんだ……!」 言葉にしてみたら急に嬉しさがこみ上げて来て、俺は笑った。 おれ。 恋。してるんだ! →NEXT プラウザよりお戻り下さい
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