………アニシナさん。恨みます。というか、すみません、恨ませて下さい。 「…いつの間にかカーベルニコフの城とグウェンの執務室に、アニシナが、その……いわゆる異空間通路を繋げていたらしいんです。それを使って、どうやら執務中に拉致されたらしくて……」 ド○○モンのどこでもドアですか……? っていうか、小物はいつも失敗作なのに、どうしてそんなハリウッド超B級SF映画みたいなスゴいものが成功してるんだろう? 「カーベルニコフで行っていた実験に付き合わせるというか、まあいつも通りのもにたあにしようとしてた訳ですね。それがいつも通りに失敗して……」 だからどうしていつもいつも……。 「アニシナはまたその通路でグウェンを戻そうとしたらしいのですが、グウェンが拒絶したんです。執務のことを考えれば使うべきだったのかもしれませんが……。どうも、異空間でこの世のモノとも思えない恐ろしい体験をしたらしく……」 そりゃ異空間なんだから、この世じゃないよな。 「ちょうどいいから俺達と一緒に戻ることにしたと昨日……あなたがいないことが分って大騒ぎだった最中に邸にやってきまして……」 「……大変ご迷惑をお掛けしました……」 どんな状態だったか手に取るように分ってしまって、おれは申し訳なさに思わず身を縮めた。 コンラッドの腕の中で。 リーバイ兄妹の温泉宿から帰る途中。 おれはコンラッドとタンデムして帰路についていた。おれ達が乗る馬の前にはグウェンがいる。馬の上でぴんと背筋を伸ばして、宿を出て以来振り返ろうともしない。 「……馬がいないことや目撃者の話から、あなたがご自分の意志で邸を出ていかれたことが分かりました」 手綱を操るコンラッドの腕が、後ろから器用におれの身体を引き寄せる。 「戻ってきた馬にあなたが乗っていないと聞かされた時には……心臓が引きちぎれるかと思うくらいに……痛みました……」 「……コンラッド……」 ごめんなさい。我ながら蚊の鳴くような声で謝ると、ふいに首筋にコンラッドの頬が押し当てられた。 わずかにざらりとした感触は無精髭、かな? 本当に身も世もないくらい、一晩中おれを探し続けてくれていたんだよね。 「本当に……ごめんなさい、コンラッド」 「……俺はもう充分に詫びて頂きました。ただ……戻ったら、ヨザやクラリス達にもぜひお言葉を掛けてやって下さい。皆、最悪の場合はこの地で命を捨てる覚悟でいましたから……」 「あ……」 王の護衛として側に付いていながら、その任が果たせなかったとなったら、それこそ皆、厳罰を、最悪の場合は命を奪われる可能性もあったんだ。 今さらながら、おれは自分が仕出かしたことの意味と、分っているようで結局一番大切なことを分っていなかった自分の未熟さに、ただただ身を縮め、うなだれる事しかできなかった。 「昔から、あなたは本当に護衛泣かせの主ですね」 「……それ」 ふっと胸を過ったものに、思わず顔を上げる。 「前にもどこかで言った、よね……?」 振り返るように確認するおれに、コンラッドが小さく頷いた。 「ええ。……ちょっと目を離すと途端に姿を消してしまう。そしてようやく見つけると、思いもよらないとんでもない所で元気いっぱいに走り回っている。後を追い掛けるのが大変で……。慣れていたはずなのに、久し振りだったのですっかり油断してました。護衛失格だと、グウェンに怒鳴り付けられてしまいましたよ」 最後の一言に、心と一緒に身体も跳ね上がった。 「コッ、コンラッドのせいじゃないからっ! おれが悪いんだから、全部おれがっ。失格だなんてそんなの、そんなの絶対……!」 無理矢理振り返り、伸び上がり、コンラッドに向かってあたふたと言い募るおれの肩を、コンラッドが「大丈夫」と言いながらぽんぽんと叩いた。 おれの目を覗き込むようにしてコンラッドがくすりと笑う。 「ちょっと意地悪でしたね。……大丈夫ですよ、ユーリ。それよりも」 コンラッドの表情がちょっとだけ変化した。そして口から発せられた言葉も、音が変わっていた。 「1人になって、じっくり考えることができましたか?」 「………コンラッド……」 本当にこの名付け親にはかなわないと思う。 ぼけっとしたままのおれに、コンラッドはただ微笑んでいる。 「……うん」しばらくしておれはやっと頷いた。「いっぱい考えた」 「そうですか」 うん、ともう一度頷く。 「それなら……よかったです。でもユーリ」 もう俺を置いていかないで下さいね。 囁く声に耳をくすぐられて、こそばゆさと照れくささにちょっと肩を竦めながら、おれは「うん」と頷いた。それから「ありがとう」と言葉を続け、少し考えて「コンラッドもね」と付け加えた。 カーベルニコフの別邸に到着してすぐ。 導かれるまま領主の執務室に入ったのはグウェンとコンラッドとおれだけで、バタンと扉が閉じられた瞬間、イヤな予感が背筋をぞぞぞっと走り抜けた。それが消えるか消えないかという刹那、ずっと背を向けっぱなしだったグウェンがくるりとおれに向き直った─………。 やっとの思いで扉が開かれて、おれはもうほとんど半泣きで部屋の外へ出た。コンラッドが片腕をおれの肩に回して、もう片手でおれの頭を撫でてくれている。おれの耳の中では、まだ低音美声全力の怒鳴り声が、ぐわんぐわんと鳴り響いていた。 「がんばりましたね、ユーリ。さ、もう泣かないで。グウェンも本当に心配していたんです。安堵のあまりの怒りだから、すぐに治まりますよ」 「…でっ、でも……えぐ……お、おしおき、が……」 本当は今日、王都に向かって出発するはずだった。でもこの状況なので、もう一晩この邸でお世話になることに決定していた。もちろん決めたのはグウェンだ。 でもって、おれは今晩夕食ヌキで反省文を書かなきゃならない。それから、城に戻ったら……。 「……あう……城中の窓拭きと……草むしり、しなくちゃなんない……」 「俺も手伝いますから」 コンラッドが優しく言ってくれる。そして項垂れていたおれに「ほらユーリ、顔を上げて」と囁いた。 言われるままに顔を上げて、視界に飛び込んできた光景にハッと目を瞠いて、それからまた目を伏せてしまった。 皆が、ヨザックやクラリスや、それから王都からずっとついてきてくれて、おれを護ってくれていた皆がそこに勢ぞろいしていた。 「………みんな、ほんとにごめ……」 陛下! と誰かの声がおれのぼそぼそとした声を遮った。 「ご無事でよかったです!」 「お怪我をなされて動けなかったと聞きました。大事ありませんでしょうか!?」 「陛下が無事に戻ってきて下さって、本当によかったです!」 顔を上げて、おれを取り囲む皆の顔を見回す。 その中の誰1人として、おれの勝手な行動を責めている顔はなかった。 おれが帰ってきたことを、ただ喜んでいてくれる。もしおれに何かあったら、彼らは皆、ただでは済まなかったはずなのに。 「………みんな……」 視界が水の幕で揺らぎ始める。 「お、おれ……勝手なことして……皆に心配掛けて……ほんとに、本当に……」 ごめんなさい! 思いっきり勢いをつけて頭を下げる。膝に頭がつくくらい深々と頭を下げたおれに、皆が慌て始めたのが分った。 「陛下、そのような…!」 「もったいのうございます!」 「どうぞお顔を上げて下さい!」 ほとんど名前も知らない人達の優しさや、純粋な忠誠心が心に沁みる。その痛みと熱いうねりが、胸から目の奥まで登ってくる。 「坊っちゃ……いえ、陛下」 聞き慣れた声に潤んだ目を上げれば、すぐ前にヨザックがいた。 「宰相閣下に叱られちゃいましたね?」 うん、と頷きながらも、おれは、べそをかきかきこんな仕種をするのは、かなり子供っぽく見えるだろうなとちょっと情けなくなっていた。 「扉の外まで怒鳴り声が聞こえてました。いつもながらすごい迫力ですよねー。…ねえ、陛下」 ヨザックの声がいつも以上に優しくなる。 「陛下のお姿が見えなくなって、皆、もちろん俺もですが、本当に心配しましたよ。陛下の御身に何か起きたら、俺達みんな生きちゃいません。でも間違えないで下さいね? それは任務に失敗したからってんじゃないんですよ。俺達みんな、陛下が大好きだから。こう言っちゃ後が怖い気もしますけど、隊長に負けないくらい陛下のコト愛しちゃってますから。だからもし陛下をお護りできなかったとなったら、とてもじゃないけどそんな役立たずの自分を許すことができません。ここんトコ、忘れないで下さいね? 陛下が陛下だからじゃなく、あなただから、あなたが俺達の大事な陛下でいて下さるから、俺達みんな陛下のために命を懸けても悔いがないって思ってるんです。あなたじゃなきゃ、そんなこと考えやしません。……陛下」 こうして無事にお戻り下さいましたこと、全員心から嬉しく思っております。 ヨザックがぴしっと敬礼する。一拍遅れて、その場にいた全員がそれに倣った。 「……ヨザック……みんな……」 ほろほろと零れた涙が頬に胸に弾け飛ぶ。 「ありがとう……!」 夜。 必死で存在を主張するお腹の声を無視しつつ、おれは反省文に真剣に取り組んでいた。 「ちょっとヨザとつけておかなければならない話がありますので」と、ずっと側についてくれていたコンラッドが部屋を出たのにもほとんど気づかなかったくらいだ。 そしてどれだけの時間が経ったのか、コンラッドが部屋に戻ってきた時、ふいに甘い香りが周囲を満たして、その刺激が一気にお腹を直撃した。 「はい、ユーリ。差し入れです」 運び込んだ大きなお盆の上のナプキンをさっと取ると、中から色んな種類の食料が出てきた。まだほかほかと湯気の上がるパンケーキとクッキーと焼き菓子が山盛りだ。サンドイッチもある! それから何種類もの果物や他にも色んなお菓子が……。 おおおっ、と感動しながら見つめていたが、ハッと気づいてコンラッドの顔を見直した。 「で、でもコンラッド、おれ今夜は……」 「夕食は抜きだけど、夜食やおやつもなしだとは、グウェンだって言ってませんよね?」 そ、それはそうだけど……。 いいんだろうか、と悩んでいると、コンラッドが「あのね、ユーリ」とサンドイッチを指差した。 「これはクラリスが作ってくれました。それからこちらのお菓子と果物は兵士一同からの差し入れです。皆で市場へ行って、美味しそうなのを見繕ってきたそうですよ。それからこのパンケーキ」 何と、ヨザの特製です。コンラッドがまだ温かいパンケーキを指差して言う。 「ヨザックの!? グリエちゃん、こんなのも作れるんだ!」 「ええ、俺も全然知りませんでしたよ。……いつから甘党になりやがったんだか……」 ったく、油断も隙もない。後半の低い呟きはおれの耳をかすめるだけで通り過ぎていった。それよりもおれはふいに頭に浮かんだ考えに、ハッと顔を上げた。 「コンラッド! 大丈夫なのかな、皆。だってこんなことしてもらったら、後から皆、グウェンに叱られるんじゃないのか? もし罰でも受けることになったら……」 「ユーリ」 コンラッドが笑っておれの言葉を遮る。 「これ、見覚えありませんか?」 言われて、何か動物らしきものを象ったクッキーを眺める。 「……………あ、これ……」 この犬だか猫だか熊だかブタだかさっぱり不明の動物クッキーには覚えがあるぞ! これはー……確か、そうだ、前にグウェンが……グウェン!? 「こっ、コンラッドっ、これ、もしかして!」 「おれも何か用意しようと厨房に入ったら、グウェンとヨザとクラリスと、それから買い出しから帰ってきた兵士達で中はすっかり占拠されてました。……クッキーも焼きたてですよ? 最初はね、可愛いナプキンに包まれて、リボンまで結んであったんです。ほら、下に敷いてあるこれですね。……なのにそれを差し出した時のグウェンときたら、眉間に皺をいっぱい寄せて、それはもうむっとした顔で俺を睨むんですよね。我が兄ながら可愛いというか……」 その様子を思い出したのか、コンラッドがくすくすと笑う。おれもつられて一緒に笑った。 おれのまわりには、どうしてこんなにも優しい人がいっぱいなんだろうね、コンラッド。 ポットからこぽこぽとお茶がカップに注がれる。 シロップたっぷりのパンケーキを飲み下し、サンドイッチを頬張り、焼き菓子とクッキーを咀嚼する。 美味しいっ。美味しいよぉー。 コンラッドが差し出してくれたお茶を口に含んで喉を通すと、口に残る甘味がスッキリと洗い流されていった。後に残るのは爽やかな香り。甘いものや油っぽいものを食べた後は、香草茶がよく合う。ハーブのような香りはおれのお気に入りだ。 「余は満足じゃ」 「それはよろしゅうございました」 ぷっと吹き出しながら、コンラッドがちょっと大袈裟にお辞儀をして応えてくれた。何てことないジョークにちゃんと反応して貰えたのが嬉しくて、おれも「えへへ」と笑う。 それからしばらく、コンラッドが剥いてくれるデザートの果物をつまみながら、反省文の添削をしてもらったり(「これは反省文というより……夏休みの思い出、みたいな……」と微妙な表情のコンラッドだったけど、「でも最後にごめんなさいって書いてるからOKですね」と合格点を出してくれた)、アニシナさんの実験だの、グウェンのデザインセンスだのについて雑談を交わしていたおれは、ふと思い立って姿勢を正した。 「あのね、コンラッド」 「はい。ユーリ」 「おれさ……。コンラッドにもう一度シマロンへ行ってもらうことを決めてから、どんどん何ていうか……不安がこみ上げてきたっていうか……。あの時は正しい決断だって思ったけれど、だんだんと……その……それが正しいって言い切れるちゃんとした根拠を、本当におれは持っているんだろうかって思い始めちゃった、みたいなんだ。だっておれってば、王様としての勉強はいい加減だし、致命的なくらい経験不足だし、おれの中にこう……自信っていうのかな、培ってきた確かなもの? そういうのが全然ないっていうか……。なのにおれは、もしかしたらコンラッドの命を危なくするかもしれない命令を出してしまった。皆がその必要はないって言ってくれてたのに、それに逆らって……。でもそのために……その……コンラッドに万一のことが起きたりしたら、おれ……。そんなことを考え出したら、どんどんこう、地面に穴を掘って、周りが見えなくなってしまうくらい掘り進めて、ただひたすら底に向かっていくみたいになっちゃって。おれはダメだダメだって、自分で掘っていく地面の底しか見えないみたいになってた、と思うんだ……」 ちら、と見上げると、コンラッドが穏やかな微笑みを浮かべて、おれの言葉を待ってくれていた。 「……昨日、リーバイのお兄さんとお姉さんに出会って、ホントにびっくりしちゃったよ。人の縁ってスゴイなーって。偶然おれを助けてくれた人が、ツェリ様ともグウェンともコンラッドともそれから……コンラッドのお父さんとも繋がっていたなんてさ。おれの知ってる人達と関わりあうことで、あの2人の人生はあの温泉宿に辿り着いたんだよね」 そうですね、とコンラッドもどこか感慨深げに頷いた。 「人が1人で生きていくってあり得ないんだなーなんて、そんなことも考えちゃったよ。自分は1人だなんて思ってても、ホントはそんなことはなくって、その人がそこに存在してるっていうだけで、色んな影響を回りに及ぼしてるんだよなって。全然意識してなくても、生きてるってことは影響しあうことなんだ。世界と関わりあうことなんだ、とかさ……」 「すごいですね、ユーリ」 びっくりしたようにコンラッドが目を瞠く。 「そんな哲学的なことまで考えていたのですか?」 「哲学的ー? じゃないよ〜。全然違うよ。たださ……温泉は気持が良いし、山の空気は美味しいし静かだしで、何だか色々考えている内にどんどん取り留めのない方向に走っちゃったってトコ、かな」 なるほどと頷いてから、「それで? ユーリ」とコンラッドが話の先を促す。 「うん、あのね……」 ちょっと言葉を切って考えを纏めてから、改めて口を開く。 「……おれ、自分が未熟だとか、ダメダメの王様だとかさ、まあかなりいじけてたんだけど、っていうか、それも間違ってないんだけどさ、その……おれもこの世界に来て、魔王になって、そして色んな人と出会ってきたよね?」 数え切れないたくさんの人と、世界と、関わりあってきたよね。 おれの問いかけに、コンラッドが微笑んだまま大きく頷く。 「おれはまだまだガキで、どうしようもないほど未熟で、勉強も執務も逃げ出すことしか考えてないダメな王様だけどさ、それでもおれはおれなりに、これまでたくさんの人生と関わりあってきたと思う。そしてたぶん、思い上がりでなければきっと、たくさんの人達に影響を与えて、ううん、お互いに与えあってきたと思うんだ。だからあの、そんな人達の中にとか、この世界に、その……おれがいたからこそ生まれて、そして育ったものもあるんじゃないかなんて、えっと……思ったり思わなかったり……」 言ってることがひどく図々しく聞こえて、何となく視線が下向きになってしまった。でもその時ふいに、膝の上のおれの両手にコンラッドの大きな手が重なった。 顔を上げると、どうしてだか不思議なくらい嬉しそうなコンラッドの顔があった。 「その通りですよ、ユーリ。あなたがいてくれたからこそ、あなたが魔王であったからこそ、今この世界は大きく変わろうとしているんです。あなたを中心にして育ったものが、世界を変えようとしてるんですよ?」 ぎゅっとおれの手を包んで握りしめて、コンラッドがやたらと確信めいた声で言う。 「……褒めすぎだよ、コンラッドはさあ……」 それでおれが思い上がっちゃったらどうするんだよ。ただでさえ頭悪いのに、ゴーマン大バカ王になっちゃったらどうするんだよ? 「だから大丈夫だって言ってるじゃないですか。ユーリは謙遜し過ぎです」 「だからさあ……」 言い返そうと思って止めた。おれの名付け親は手のつけられない親バカなんだ。もうどうしようもない。 「………つまりさ」諦めて話を続ける。「これまでたくさんの国で出会ったたくさんの人達、身近なトコじゃグレタとか、ヒスクライフさんとかベアトリスとか、それからカロリアのフリンとか他にもたくさんの……あの人達との間に生まれて、育ってるものがちゃんとあるって。どんなに小さくて些細なものでも、魔族と人間の垣根をいつかは壊してくれる希望が、世界が世界中で平和になるための種が、おれ達の出会いの中で生まれて育ってるって。おれはそれをもっと信じてもいいんじゃないかなって……思った」 本当に嬉しそうに、コンラッドが大きく頷く。 「自分が未熟だからって、でも、それにばっかり目を向けてたら、もっと大事なものを見逃しちゃうんじゃないかって考えたんだ。その……いつまでもうじうじしてたら、今育ってるって信じてる、っていうか、信じたいって思ってるものが、枯れちゃうんじゃないかって」 視線をテーブルの上に置かれたお盆に向ける。そこには、まだお菓子や果物が残っている。それをじっくり眺めてから、おれは視線をコンラッドに戻した。 「おれが本当にまだまだなんだってことは、おれの周りにいる皆は充分に分ってると思う。分った上で、分っているからこそ、こうして色んな形でおれを助けてくれる。支えてくれてる。それどころか、おれだから、って言ってくれる」 ヨザックの、いつもの皮肉っぽさが全くない笑顔を思い出す。 「応えたいって思うんだ。皆の思いとか優しさとか期待、とかに。未熟だからダメだっていじけるんじゃなくて、未熟だってことをちゃんと見据えて成長を目指さなきゃって思う。本当はずっとそう思ってたはずだったんだけど、昨日お風呂の中でそんなことを思いついた時、何だか新鮮な気分になっちゃったよ。……情けないよな、おれって」 いいえ、とコンラッドが首を左右に振った。 「一度決意したからといって、それを忘れずにいることは結構難しいものですよ。決意して、行動して、忘れて、思い出して、悔やんで、さらに決意して。それを繰り返すことによって、人は成長していくのではないでしょうか」 「そうかな。……そう思ってもいいかな……? おれは、つまり、そういう成長途中にあるんだって……」 はい、とコンラッドが確信を込めて頷いてくれた。 「ユーリは本当に頑張っていますよ。俺はもちろん、グウェンもギュンターもヴォルフも、それから猊下も、ちゃんと分っています。あなたは着実に成長しています」 「言ってくれたよね? ずっとおれを支えてくれるって。おれの足りない所は皆で埋めてくれるって。そしておれが道に迷ったら、間違って獣道に迷い込んだら、力づくでも正しい道に戻してみせるって……」 「お側にいます。決してあなたから離れたりはしません。俺達は力を合わせて、王の道を正しく歩むあなたを支えて生きていきます」 「約束だよ?」 「はい、ユーリ。約束します」 「絶対だよ?」 「はい。絶対に」 「だったら……コンラッド。おれに誓って……!」 何を、とは言わずにコンラッドを見つめる。 コンラッドもおれを見つめる。 そしてコンラッドは無言のまま立ち上がると、おれの真正面に立ち、それから床に片膝をついた。そして再度おれの手を取ると、両手の甲にゆっくりと口づけた。 「誓います、ユーリ。おれは必ず帰ってきます。必ず生きて、あなたの下に戻ってきます。あなたと共に生きるために……!」 コンラッドの手から手首を抜き出すと、おれは逆にコンラッドの手を両手で包んだ。 「きっとだよ。絶対だよ。必ず生きて、元気で、無傷で、帰ってきて!」 もちろんです、とコンラッドが笑って答えた。 「前にも言いましたね。あなたの決断が真に正しかったと後の余に証明するために、俺はシマロンへ行きます、と。死んでしまってはその証明になりません。それどころかあなたの名を貶めることにもなります。俺は絶対に死にません。あなたの下に帰ってきます」 あなただけです。 コンラッドの呟きに似た一言に、どくんっと心臓が跳ねる。 「あなただけです、ユーリ。俺には……あなただけです」 ものすごい言葉だと思うのに、コンラッドの顔にはいつも通りの穏やかな、いかにも名付け親で保護者の笑みが浮かんでいるだけだった。 それでも。 胸の奥で、何かが大きく震えたような気がした。 こうして、おれのカーベルニコフでの数日が終わった。 またゆっくり時間を掛けて、おれ達は王都に戻ってきた。 戻ってくれば、また相変わらずの超多忙な日々が待っていた。特にグウェンがアニシナさんに拉致されたこともあって、その間仕事はめっきり停滞していた。そのしわ寄せが、一気におれ達に荒波のように襲ってきた訳だ。 でも、加速をつけて片付いている懸案もある。 コンラッドの引き継ぎ作業だ。 まるでおれが何かを吹っ切るのを待っていたかのように、事は一気に片付こうとしていた。 その日が目前に迫っている。それが分かる。分かるほど近づいてきている。 思ってもみなかった焦りが、少しづつ形をなしておれの胸の中を占めていく。 でも、それが一体何なのか、おれは……。 「何も言わないつもり?」 村田が言った。眞王廟のいつもの中庭。おれ達2人だけのお茶会の席で。 コンラッドは護衛から外れているし、ヨザックとクラリスは村田が遠ざけてしまった。だから今ここにはおれと村田の2人きりだ。 「……何を……?」 「分ってるだろ?」 「分からないよ」 おれは頭が悪いんだから、そういう含んだみたいな言い方されてもちゃんと察することができない。 「ホントはちゃんと分っているくせに」 「村田、あのな……!」 「ウェラー卿に何も告げないまま、別れちゃってもいいのかい?」 「……むら……」 「彼は死ぬ気なんて毛頭ないだろうけどね。でも行く先は戦場だよ? 戦争の真っただ中、それも最前線で指揮を取ることになる。万一の可能性を君だって考えないはずはないだろう?」 それは……。 おれは唇を噛んで、そのまま視線を伏せた。 「……コンラッドは……絶対死なないって……必ず帰ってくるって……」 「もちろん、そうじゃなきゃ困るよ。でもね、こればっかりはどう予測することもできない」 そしておれは顔を上げることもできない。 「だからね。保険はたっぷり掛けておくのがいいんじゃないかと思うんだ」 …………ほけん……? 意味がよく分からなくて、思わず顔を上げ、まじまじと親友を見つめる。 「何がなんでも、何を犠牲にしても、最悪、シマロンなんてもうどうなろうと知るかバカヤロー! って感じで、ここに戻ってくる気にさせるための保険さ。その気になるための理由は、たくさんある方がいいだろ?」 「そりゃ……そうだけど……」 いやでも、シマロンをどうでもいいって放って帰ってこられても……。 「だからさ!」 おれの疑問はそっちのけで、村田がずいっと身体を乗り出す。 「君の愛の告白ほど、ウェラー卿を何がなんでも生きることに執着させる、これ以上の保険はないって思うんだよねー!」 …………。 …………。 …………。 「…………あ……あいの……こくはくーっっ!?」 そそそそそ……そんなっ!! 「何も告白しないまま、もしもウェラー卿の身に不測の事態が起きたら……。渋谷、その時になって後悔しても遅いんだよ?」 「……っ! そ……それは……」 狼狽えるおれをじっと見つめていた村田が、ふいに笑みを顔に浮かべた。それは……どこか不思議なくらい弱々しい笑顔だった。 「……これでも僕には記憶だけはうんざりするほどあるからね……。だからさ、知ってるんだ、僕は。そんな後悔がどれほど辛くて辛くて……どうしようもないほど辛いものになるかをね……。なのにさ。知ってるくせに、何度も何度も同じことを繰り返してきてるんだよね。ったく何やってんだって、できることならその時々の連中に文句を言いたいくらいだよ。おかげで僕がやった訳でもないのに、その辛さ、胸の張り裂けるような痛みは僕の中にしっかり刻み込まれてしまってるんだ。うんざりだよ、全くね……。だからさ、渋谷。その痛みを知っているから僕は……」 君に、苦しんでもらいたくないんだ。あんなのたうち回るような痛みを味わってもらいたくない。 村田の真摯な眼差しが、静かにおれを射る。 「告白なんてできない。そんなことをしたら、ウェラー卿が困る。最悪、彼が君の側から離れてしまう。……君はそう言ったよね?」 そうだ。 おれみたいなガキに、それでも主であるおれに、そんなことを告白されたりしたら、コンラッドはどれほど困惑するだろう。受け入れることができない罪悪感に、おれの側にいる資格がないとか言い出して、またおれの側から離れてしまうかもしれない。 「でもね、渋谷」 おれを見つめたまま、村田が言葉を続けた。 「僕はね、君はもっと君自身と、それからウェラー卿を信じてもいいと思うんだよ……?」 『………あんた、その人に、本当に大切にされてるんだね。それをあんただってちゃんと分かってる。だから絶対大丈夫だって、自信を持って言い切れるんだろう? ねえ、シンノスケ。あんた、もうちっとその人とあんた自身を、信じてやっちゃどうなんだい?』 ふいに。あの宿でお姉さんが言った言葉がおれの頭に浮かび上がってきた。 同じセリフを村田が今、口にした。 おれを信じる……。コンラッドを信じる……。何を? おれは色んな意味で不安だらけだけど、コンラッドの事なら信じてるぞ。とことん信じてるぞ。 でも……それが一体……あああー…あいの、こくはく、と……どう繋がるんだ? 「自分を卑下するばかりでいたり、いじけたりするのは止めるんだったよね?」 「……え? ……あ、ああ、それは……」 「未熟な自分を見据えて、その上で成長を目指すんだろう? それと同じだよ。ずっと前にも言った。自分がまだ彼にふさわしくないと思うなら、思えるようになるまで自分を磨いて成長を目指せって。君もそうするって言ってたじゃないか。もう忘れたのかい?」 「忘れてねーよ! だから……っ。……お、おれはまだ……成長途上にあって……。コンラッドだってそう……」 「本当はあの時にも言いたかったんだけどね。渋谷、ここまで成長したら告白する、なんて線引きはできないよ。ましてどこで彼にふさわしいと見きわめをつけるかなんてさ。このままだと、君はこれからもずっとウェラー卿を見上げたまま、まだ追いつかない、まだふさわしくないって思い続けるだろう。そして延々彼を追いかけ続けて終わってしまう。……確実に成長してるって、ウェラー卿は君に言ったんだろ?」 「…う、うん……。でっ、でもっ、コンラッドはおれ贔屓の親バカだから……!」 「どうしてそこでそんな否定的に言い返すのさ?」 何で素直に受け止められないかなー? やれやれと、村田がため息をつき、天を仰いだ。 ……だって村田、それは……。 「………その気になって、いい気になって……間違ってたらイヤだ、し……」 「渋谷くーん。立派な決意をしたはずなのに、またまた後ろ向きになってるぞー。3歩進んで2歩下がるのは構わないけど、今の君は1歩進んで2歩下がってるじゃないか」 「そ、そんなつもりじゃー……」 「君って一見そうは思えないけど、本当に真面目な男……あー…人、だよね。その頑固なまでのくそ真面目さが、どうして勉強に向かわないのかさっぱり分からないんだけれど」 放っとけ! 「ウェラー卿は君を信じている。名実共に英君として世界から讃えられる王となることを信じている。きっとその光景が目にも見えてるんだろうね。いいじゃないか、それが親バカ溺愛過保護男の妄想だったとしても」 「やっ、やっぱり妄想……!」 軽くショックを受けるおれに、「じゃなくてー」と村田がげっそりと声を上げる。 「例えだよ、例え! ちなみに僕達側近一同は、皆多かれ少なかれウェラー卿と同じ意見だから!」 まったくもう……。呟きながら村田がぱりぱりと頭を掻いている。……理解が遅くて申し訳ない、かも。 「僕はね、君を誰よりも大切に思い、君が王として成長していることを心から喜んで、そして君のために生きようと決意しているウェラー卿の思いを信じろって言ってるんだよ。……渋谷、この先何があってもね」 ウェラー卿は君から離れたりはしないよ。 「………村田……」 「信じろよ、ウェラー卿の、まあ君以外の全ての人には見たくなくても見えてしまう、あの怒濤の愛情をね。それから、そんな彼を心から愛しちゃってる君の思いも同じように」 もしもね。村田がほんの少し口調を変えて続けた。 「君の『恋』が、恋に恋する子供の錯覚だったら、僕だっていくらウェラー卿を見込んでいても、こんな風に焚き付けたりはしなかったよ。君の思いは……正直まだ幼いものだと思う。でも、幼いなりに本物だとも思う。だから突き進めって言ってるのさ。もしいつか……君が君自身の思いの深さを本当の意味で実感する時がきて、それが最悪のシチュエーション、言葉にしたくはないけれど、ウェラー卿の最期によって齎されたものだったら、正直目も当てられないことになる。……僕達は……君の魂が粉々に砕け散るところなど見たくないんだ。だからこんな、本来だったら余計なお世話以上の何ものでもない話を、僕としては信じられないくらい熱心にしている訳なんだよね。まあとにかく……」 後から後悔することだけはないようにね。 村田はそう言って、おれの理解も答えも待たずに話を終えてしまった。 おれは…………? ベランダから見下ろす先で、コンラッドが部下らしき兵隊さん達に囲まれて何か話している。 おれはその光景を、城の2階のベランダの、柱の影から見つめていた。 別に隠れる必要はないはずなんだけど、何となーく盗み見をしている罪悪感というか何と言うか……。 部下さん達が一斉に敬礼して、きびきびと走り去っていく。 それを見送っていたコンラッドが、いきなりくるっと振り向いたかと思うと、すっと顔を上げた。柱の影のおれに向かって。 「そんなところに隠れて、何をなさっておいでなのですか? 陛下」 「………へいかってよぶなー、なづけおやー」 なぜだか棒読み。コンラッドがくすっと笑う。 おれは柱の陰から出ると、そのままベランダの手摺に手をついて、ちょっとだけ身を乗り出した。本当は下へおりてコンラッドの側に行きたいけれど、このベランダには直接下におりる階段がない。だから上と下に別れたまんまで話をするしかなかった。 「執務の方はよろしいのですか? ギュンターがまた汁だらけになって探しているかもしれませんよ?」 「書類仕事は一段落したんだ。これから会議があるんだけど、ちょっと時間が空いたから、ひと休み、かな」 「なるほど。で? ヨザとクラリスはどうしたのでしょう。それからヴォルフも。お側にいるはずでは?」 「……えーとぉ……あー……」 「護衛を撒くのが本当にお上手になられて……」 「ため息混じりに言うなー。……ちょっと1人になって考えたいことがあるからって、遠慮してもらったんだよ! グリエちゃん達を責めちゃダメだぞ!」 「それは、しかし……」 「コンラッドは!? コンラッドは今、何してるの? 朝食も顔見せなかっただろ?」 「申し訳ありません。どうしても早い時間に片付けてしまいたい案件がありまして。……夕食はご一緒できると思います。俺の方も……そろそろ落ち着きそうですし」 つまり……そういうことだ。 「では陛下」ほんのわずかの沈黙の後、コンラッドが声を上げた。「失礼致します。……ヨザ、頼むぞ」 え? と見ると、ちょっと離れた所にヨザックが立っていた。 「お仕事をさぼっちゃいませんから、安心して下さいよ、隊長」 ヨザックが苦笑しながらコンラッドを見下ろして言った。つまりー……おれの邪魔をしないように、そこそこ離れた所にちゃんといたっていうことか。 「せっかく隊長とお話なさっておいでだったので、なるべく邪魔したくなかったんですがー。申し訳ありません、陛下。そろそろ会議のお時間です」 「……あ、そっか。……じゃ、ね、コンラッド」 「はい、陛下。ではまた夕食の時間に」 「うん」 軽く手を振って別れる。コンラッドが背を向けて去っていく。 もうすぐ。 この後ろ姿を見送って、そして、そのまま離れ離れになってしまう。 確かに交わした約束は、その瞬間から一気にあやふやで心もとないものに変わってしまう。 そして、もしかしたら……。 村田に唆されて、だからその気になった訳じゃないけれど。 必死に頭から追い出してきた「もしも」の時。 絶対後悔したくはないと。 そう、思った。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい
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