お姉さんに連れてきてもらった(どうやって連れてきてもらったかも、絶対内緒だから!)温泉は、正真正銘の露天風呂だった。 『おふろはこちら』と札の掛かった扉の向こうはもう外で、そこから木立の奥に向かって屋根つきの回廊が伸びていた。この国で当たり前に見る石造りじゃなく、ふんだんにある木を使って作られた回廊は、どこか和風の香りがする。所々に掛けられたランプのほの黄色い灯も、何となく日本の鄙びた宿のようだ。回廊を進めば、雨上がりの緑の匂いに加わって、温泉特有の匂いもだんだんと濃くなっていく。それがまた忘れかけていた郷愁を掻き立ててくれる、というか……。 ………そういえば、長いこと地球に戻ってないなあ……。 このお風呂の雰囲気と、それからお姉さんと「故郷」について話をしてしまったせいか、何だか急にそんなことを思った。 綺麗に整備された木立の中に小さな小屋、それからそのすぐ傍には大小の岩が一見アバウトに並べられている。そしてその岩の間から湯気が立ち上って夜の空気をしっとりと揺らめかせていた。 岩の一つに着替えを置いて、「頃合を見て迎えにきてあげるよ」と意味深な笑みを浮かべて言ったお姉さんがその場を去ってから、おれはようやく深々と息をついてお湯に沈んだ。 見上げれば、いつの間にかすっかり暗くなった空にぽかりと月が浮かんでいる。 自然のくぼ地を利用して作ったというお風呂は広い。魔王専用風呂には及ばないけど、それでも日本の有名温泉の大浴場並に広い。でもって結構深い。これなら充分泳げる。よっぽど湯量が豊富なんだろう。 紛れもない温泉のお湯は柔らかくて、傷も疲れも瞬く間に癒されていくような気がする。お湯の中で腰掛け代わりになる岩も、底に敷き詰められた石も、変にぬるぬるしたところがなくて気持がいい。きっとあの2人が毎日ばっちり掃除してるんだろうな。2人ともいかにもしっかり者って雰囲気だったし。 久し振りの温泉、それもほんのり日本の香り漂う露天風呂に、思わずほうっとため息がもれた。 お湯が気持良い。濡れた肌に触れるそよ風が気持良い。葉ずれの音も気持良い。でも心は重い。 まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。 ちょっと、ほんのちょっと……1人になりたかっただけ、のはずなのに……。 今頃コンラッドは……。 きっとものすごく心配して、街を走り回っているだろう。ヨザックもクラリスも護衛としてついてきてくれた皆も。まさかおれがこんな山の中で足を挫いてしまったなんて、そして1人だけ温泉にのんびり浸かってるなんて、想像もしてないだろうな……。 ごめんなさい、コンラッド。ごめんなさい、ヨザック、クラリス、皆……。 ごめんなさい。本当にごめんなさい。 でも。 今日だけ。今夜一晩だけ。 1人でいさせて下さい。 おれのことを全然知らない人達と、おれを敬うこともなく、命懸けで護ろうなどと考えもしない人達と、おれを、ただ目に映るだけのただの子供としてしか見ない人達と、一緒にいさせて下さい。 偶然飛び込んでしまったこの場所が、今のおれが過ごすべき唯一の居所。 そんな気がしてしまったから。 ない頭で考えて、考え過ぎて、自分が何を悩んでいるのだか、何に胸を痛めているのだか、段々分からなくなってきていた。コンラッドの事はもちろんあるけれど、だからどうしたいのかも今はさっぱり見えない。とっくに決断を下して、全てはその時に向かって進んでいるのに。だからおれは、後はどっしりと構えて、来るべきその時には命令を下した王として、コンラッドを見送るべきなのに。 でも現実のおれは、おろおろと悩んでいじけて自己嫌悪に陥って、これから戦場に向かわなくてはならないコンラッドに逆に慰められてる始末だ。 このままだと何も変わらない。 おろおろうじうじめそめそしたまま、コンラッドと離れ離れにならなきゃならない。 変えたい。 何をどう変えるのか、変えたいのか、良く分ってはないけれど。 考えよう。 「王様」じゃない「おれ」でいられるこの時間。 素のまんまの「おれ」の立ち位置で、一晩掛けて精一杯考えよう。 「おれ」を見つめ直そう。 「 王」として「有利」として、今本当にしたいこと。しなくちゃならないと思うこと。 しっかりと考えよう。 自己嫌悪と自己憐憫の海にどっぷり浸かって、卑屈にうじうじしてるのはもうイヤだ。 何がしたいのかはもちろん、何を悩めばいいのかさえ分からなくなってるこの状態にケリをつけるんだ。 そして明日。 腹を据えてコンラッドと会おう。 きっと迎えにきてくれるコンラッドと、笑顔で会おう。 決意して、湯の花がふわふわと漂うお湯の中でぐっと拳を握る。お腹に気合いが入り、心がちょっとだけ軽くなった。 それからふと。おれは思い立って、腰掛けた岩から離れ、捻った足首に負担を掛けないよう無事な方の足でそっと湯舟の底を蹴り、身体をお湯に浮かせてみた。 せっかくの露天風呂だし、考え込んでたらもったいないし、まあそのー……今はとにかく。 浮力に任せ、ぱしゃぱしゃと数メートル、腕の力だけで泳いでみる。 「……久し振りだー……」 お風呂で泳ぐのって、どうしてこんなにわくわくと楽しいんだろう。 お湯と山の空気を存分に堪能しながら、お姉さんに呆れた声で呼び掛けられるまで、おれは水泳初体験の小さな子供のように不格好に、湯舟の中をぱしゃぱしゃと泳ぎ続けていた。 でっかいお姉さんは姐御肌で気っ風が良くて、ちょこっと口は悪いけど、でもとっても優しい人。だと思ってたけど、一つ訂正する。 ………けっこー意地悪だ。 「ドレスを選ばなかっただけ、喜んでもらいたいもんだねえ。それとも裸のまんまがよかったかい? あんたの服は洗っちまって、まだびしょびしょだし?」 テーブルについたおれの、たぶん憮然とした顔を見て、にまーっと笑う。 お姉さんが用意してくれた着替えは、女物、だった。 そりゃ確かに。 お兄さんの服はもちろんお姉さんの服(もちろんドレスなんかじゃなくて)を借りても、でかすぎて用をなさないだろう。腕を通しても、肩にもどこにも引っ掛からないまま、するすると落っこちるに違いない。 でもって、この2人より小さな服は、手伝いに来ている村の娘さんのものしかないんだから、借りるとしたらもうそれしかないわけでー……。でも。 ひらひらや花がついてる訳じゃないんだから、とお兄さんは言った。確かにね。花はついてないよね。でもさ、この淡いピンク色のブラウスの胸にどーんとへばりついてる真っ赤なでっかいリボンは何なんでしょーか。おまけにその娘さんも毎日村から山道を通うだけあってかなり逞しい人らしく、ブラウスもベージュのズボンもだぶだぶで……。袖もズボンの裾も折り返しが必要だし、当然ウエストも大きすぎた。にまにま笑いながらお姉さんが巻いてくれたのはベルトじゃなく真っ赤な帯のようなもので(色は胸のリボンとお対だね、とお姉さんは楽しそうに笑っていた)、それが後ろで蝶々結びにされている。 ……胸と背中に真っ赤なリボン。鏡に映してみようものなら世を儚みたくなること請け合い、知り合いには絶対見せたくない情けない姿になってしまった。もっともお姉さんは胸のリボンと合わせて、身体の正面、お腹の辺りで結びたかったらしいけど、それはあまりにもお間抜けだったので、おれはほとんど半泣きでお願いして許して頂いて、この姿に落ち着いたのだ。 今夜一晩、人生についてじっくり考える事ができるのか、おれはこの時点でかなりアヤしくなってしまった現状に、しみじみため息をもらしてしまうのだった……。 しかし。 テーブルで夕食をごちそうになりながら取り留めのない話をしている内に、とんでもない話題が持ち上がってしまった。 本当に世間は狭いというべきなのかそれともー……やっぱりおれがここに来たのは運命だったのか……。 ホントのことを言えば、「運命」って言葉で何でも片付けるのはあんまり好きじゃないんだけど…。でも。 カーベルニコフの山の中で、温泉宿を営む兄妹。このお兄さんとお姉さんは、生れはシュピッツベーグ領、そして2人のお父さんは、何と、若き日(あ、いや、今でも十分お若いですが!)のツェリ様の護衛を勤めていた人だったんだ! そしてさらに驚いた事には。 ツェリ様がダンヒーリー・ウェラー、つまりコンラッドのお父さんと出会い、恋に落ち、結ばれてしまったことを、護衛として側にいながら阻止できなかったことで、ツェリ様の兄、シュトッフェルの怒りを買い、反逆者の汚名を着せられ、一家でシュピッツベーグを追放されるという過去を持っていたんだ! 食事と片づけを終え、暖炉の前に3人、お茶のカップを手にして坐り込む。 話をしたい気分だとお姉さんは笑い、通りすがりの見知らぬ子供でしかないおれに、ゆっくりと身の上話をしてくれた。 話すのはもっぱらお姉さんで、お兄さんは時折短い言葉を挟む以外はほとんど無言で、ゆったりとクッションに身体を落ち着けている。 そしておれは。 人と人の思いも掛けない繋がりに、ただ驚きと、そしておれのこの世界での大事な家族、中でもツェリ様とグウェンとコンラッドの知り得ない過去の一端に触れることへの好奇心や不安や…とにかく色んな形にざわめく胸を押えつつ、2人の物語に耳を傾けていた。 シュトッフェルに何もかも奪われ、身一つであてもなく生れ故郷を離れなくてはならなくなった一家を救ったのはグウェンだった。 まだ子供だったけれど、やっぱりグウェンはさすがにグウェンで、リーバイの一家に何も罪がないことは承知していたらしい。お金とカーベルニコフへの紹介状を渡し、そして「申し訳ない」と頭を下げたんだそうだ。……グウェンが悪い事をした訳じゃないのに。やっぱりツェリ様のせいで、という思いが、長男の責任感を刺激したのかな。 グウェンは厳しい人だけれど、冷たい人では絶対にない。それをもうよく分ってるおれは、お姉さんがグウェンの事を心から尊敬してる気持がよく分った。ただ……。 「恨んでる?」 「シュトッフェルのろくでなしなら、恨み骨髄だな」 「……じゃなくて。……ダンヒーリー・ウェラー……」 「…………恨んで……いたねえ。長いこと…」 そうだろうな、と思う。でもやっぱり胸が痛む。 恋は理屈じゃないっていうらしいけど、おれは生まれてこの方16年(地球時間で、だけど)、それを実感したことはなかった。本気で人を好きになったら、理屈も常識も全部吹っ飛ぶと分ったのはそれほど昔の事じゃない。 本気で好きになったら、その相手が自分より100年近く長生きしてることだとか、まして同じ男(…今はまあ、ちょーっと状況に変化があるとはいえ)という大問題すらどうでもよくなる。 ツェリ様だってそうだったんだろう。 ダンヒーリー・ウェラーという人を好きになったら、その人が無一文の流浪の剣士、それも人間だなんてことは、些細なことでしかなかったんだ。「愛の狩人」フォンシュピッツベーグ卿ツェツィーリエは、そんな障害をかろやかに飛び越えてしまった。 でもそのために、目の前のこの人達はそれまでの平穏な生活を奪われてしまったんだ。 彼らがツェリ様やコンラッドのお父さんを恨んでも、それはもうどうしようもない……。 ツェリ様は、そして彼らを見送ったグウェンは、どんな思いでいたんだろう。そしてコンラッドは? コンラッドは自分の両親の恋の影にこんな人達がいたことを知っているんだろうか……? ふと疑問が湧いたその時だった。 「一度だけ、ここに来た事があったな」 「……ああ、あったねえ」 2人の声に、ハッと顔を上げる。おれの様子に何か感じたのか、お姉さんが説明をしてくれた。 「ダンヒーリーの息子さ。ツェツィーリエ様のご次男。コンラート様。ウェラー卿だよ」 士官学校の休みに、突然この家にコンラッドが訪ねてきたんだという。 この家に……。 おれは思わず家の中を見回した。……ずっと昔、コンラッドもここに来た……。 コンラッドはこの家で、2人のお父さんと話をし、お金を置いていった。 そんなことでしか気持を表す事ができなかったコンラッドは、きっと辛かったはずだ。自分に何も責任がないからといって、彼らを無視できるような男じゃないもんな、コンラッドは。 前にヨザックからちらっと聞いたけど、コンラッドの士官学校時代というのは結構キツい日々だったはずだ。それから戦後まで、コンラッドが送ってきた人生は、一国の王子としてはあまりにも過酷なものだったと聞いている。 「……やたらひょろひょろした、非力そうな…顔立ちは悪くないけど、目つきのちょっと剣呑な子だったね。まあ境遇を思えば、無理もないけどさ」 ひょろひょろした、目つきの剣呑なコンラッド、というのは想像するのがものすごく難しい。でも……まだ「少年」でしかなかったコンラッドにとって、その頃の日々は本当に……辛かったんだろうな。おれみたいな若輩者じゃ、そんなありきたりの表現しかできないけれど。まして同情なんておこがましくてできないし。 当時のコンラッドを思って、何となく暗澹とした気分になってしまったおれだったけれど、次にお姉さんが教えてくれた一言は、おれを一気に浮上させてくれた。 「少々世を拗ねたところはあるが、それを差し引いても中々できた若者だ。ダンヒーリー殿も尊敬できるお人柄だったが、御子息もまた立派に育っておられる」 それがコンラッドに会った2人のお父さんが言った…言ってくれた言葉だった。 「じゃあ、お父さんはダンヒーリーさんのこと…」 「ああ、恨んじゃいなかったみたいだねえ。それどころかずっと尊敬してたみたいだよ。だもんで、あたし達もそれ以来、見る目を変えてみたんだよ」 「じゃあ今は?」 「ダンヒーリー・ウェラーの事かい? これっぽっちも恨みなんかないよ。今じゃ、この生活こそがあたし達の本当の人生だって思ってる。よかったって思ってるさ」 過去は消しようのないものだ。でも、過去は過去。それに浸って誰かを恨む事も、後悔や慚愧の思いにのたうち回る事も、時が過ぎてしまえば、ただ過去にあった事実として穏やかに見つめ直すこともできるようになる。……んだな。きっと。おれ程度の人生経験じゃ、まだそんな境地には行き着かないけど。 少なくとも、リーバイ兄妹は、そして彼らのお父さんは、それができた。過去を乗り越えて、今、この地で充実した日々を送り、その日々に満足するようになってくれていた。 ツェリ様のために、ダンヒーリー・ウェラーのために、グウェンのために、コンラッドのために、そして誰よりこの兄妹のために、おれはそれが嬉しくて、ホッと安堵の息をついた。 2人のお父さんは、あの戦争で亡くなった。お兄さんは生きて帰ってこれたけど、片足を失った。 2人のツェリ様達への恨みは消えていたけれど、でも、泥沼化する戦争の中で、摂政だったシュトッフェルへの怒りと恨みだけは止まなかった。 ……そう言えば、シュトッフェルって今どうしてるんだっけ……? おれが即位して以来急激に力を失って、宮廷はもちろん、十貴族内の影響力もグウェンががっちり押えた後は、一派をなしていた人達共々ほとんど追っ払われるように王都を去り、今では領地で逼塞状態、だって誰かが言っていたような。この2人の話を聞いてると、何だかそうそう落ち着いてご隠居生活をしてくれるような気がしないというか。……返り咲きを狙って、おかしな事をしないでくれたらいいんだけどなあ……。 そんなことをつらつら考えていたら、話はおれのことになった。 史上最強の魔王だの、希代の名君だの、それから視力を疑うような美辞麗句を捏ねくり回されて、これまでおれは滅多矢鱈と褒めそやされてきた。身に覚えの全くないお褒めの言葉は、正直心に響かない。恥ずかしくなったり、申し訳なくなったり、そしてある時はうんざりしたりの繰り返しだ。 だからその時、お姉さんが語ってくれた真剣な言葉は、ものすごく新鮮に、そして重くおれの胸に響いた。 ─魔王はその掌の中に民の命を握っている。 ─どれほど有能で立派な人物であろうと、グウェンのように最も魔王にふさわしいと誰もが認める人であろうと、魔王には逆らえない。一番大切な決定は下せない。 ─最後の最後に、絶対の決定を下すのは魔王だ。 「魔王」が背負うものは、果てしなく重い。 おれにもそれがしみじみと分かる。分かるようになったと思う。最初の頃、丸っきり無知なおれが「常識」と思い、「正義」と信じたことだけを、ただ闇雲に貫こうとしたあの頃よりは、幾ら何でも少しは成長したと思うから。だから、お姉さんの煮えるような、歯噛みするような、もどかしさと怒りを孕んで溢れ出た言葉は、まっすぐおれの中に入ってきた。 ─15やそこらの子供に何ができると皆は思うのか。 ─平和と繁栄を齎したこの治世の全ては、宰相フォンヴォルテール卿があればこそだ。フォンヴォルテール卿は幼い魔王の名声を高め、その権威を固めるため、自分が上げた実績を全て魔王陛下ご自身によるものとしているに違いない。 ─ものを知らない子供を、名君だの何だのと褒めて持ち上げてどうするのか。 「……言っただろ? 最後の最後に、一番大切な決定を下すのは魔王なんだ。その魔王がとんでもない愚か者に育っちまったりしたら。そしたら二十年前の繰り返し、いや、それよりもっと悪い事になってしまうかもしれないんだよ。前の王様を見てても分る。眞王様が選んだからって、どれもこれも名君になるわけじゃないんだ。周りにいるものが、それこそしっかり教えてやんなきゃ。讃えるばっかりが忠義じゃないよ」 そうだよなー、と思う。他人事みたいだけど、ホントにそう思う。 やっぱり皆ちょっと褒めすぎだよな? だから、「そう思うよ」と、おれは素直にお姉さんに言った。 「魔王が名君なんて、ウソだよ。ホントはあったまわりーし、口先ばっかだし、中味空っぽだもん」 さすがにこの言葉には、お姉さんも鼻白んだ顔を見せた。お兄さんもびっくりしてる。 ただね、お姉さん。 「……思い上がってはいない、と思うけど…どうかな…?」 この人は、大切な事をきちんと把握してる人だ。「双黒の魔王」の飾り立てられたベールの奥にいる、ただの無力な子供の姿がちゃんと見えてるんだ。 だけどこの時、おれはお姉さんのきょとんとした姿に重なるように浮かんだ、もうひとり別の人物の姿を見ていた。 コンラッド。 『褒め過ぎるくらい褒めても大丈夫なんです。だってあなたはそれで舞い上がったり、自分は名君だと思い上がったりしませんから』 そう堂々と言い切って笑ったおれの名付け親。 最初はただただ突っ走るだけだった。まわりも見えないままで。 でも、だんだんと視界が開けるようにこの世界が見えてきて、そしておれは「王」の立場やその責務についても、それなりに学んだと思う。この世界において、魔王であるということが何を意味するのかを。 そして同時に、未熟な王を戴いてしまった人達が、どれほど多くの重荷を背負うものなのかを、そしてそんな王に命を捧げるということがどういうことなのかを、学んできた、と思う。 どれほど未熟でも無能でも無力でも、王は王。 王の出来不出来が、一国を、民を、滅ぼしかねないことも知った。 学び、理解し、世界が見えてくれば来る程、おれは自分の立場が怖くなった。 自分が背負うものの大きさと、自分のあまりの未熟さに恐怖した。 訳の分からない褒め言葉をどれだけ貰ったって、思い上がる余裕なんかおれにはない。 だから、コンラッドのあの言葉も、何だか当たり前のように受け止めて、疑問なんて感じもしなかったのだけれど……。 もしかしたら、もっと深い意味があったんだろうか……? コンラッド。 過保護なおれの名付け親。護衛で保護者で野球仲間で、そして……おれの、恋する、ひと。 ホントに心配じゃない? あんなにいつもいつも、臆面もなくおれのことを褒めてばっかりでさ。 おれが「おれ様最高!」とかって、図々しくも思い上がって、傲慢で人の言葉を聞こうともしない最低最悪のろくでなし魔王になったらって、不安に思ったりしないわけ? 『大丈夫ですよ』 暖炉の前で、おれを見つめる幻のコンラッドがにこっと笑う。 嘘もごまかしもないあの笑顔で。 大好きなあの銀の星を優しく瞬かせて。 ああ、だからおれは、この人を絶対に裏切りたくないって思うんだ。 無条件の、絶対の信頼を、おれみたいな未熟な王様に抱いてくれるというならば、せめてその思いを裏切ることだけはしたくない。 いつもおれを見て、見守ってくれるあの人の、あのきれいな瞳を曇らせるようなことはしたくない。 おれを信じて、見守って、支えてくれるコンラッドの、グウェンの、ヴォルフの、ギュンターの、村田の、それからおれの知ってる、おれの知らない、全ての人達の思いに、彼らの期待に。 そして、実体も知らないまま浮かれるように魔王を讃えることに、将来への不安を感じているこのお姉さんのような人の思いに。 応えたい。胸を張って、しっかりと。 空っぽなら、これからどんどん色んなものを詰め込んでいける。 詰め込む知識はギュンターが大喜びで与えてくれるだろう。 経験は毎日積み重ねていけば良い。 分からないことがあれば聞けば良い。 経験を持つものから知識や知恵を借りるのもまた経験と、コンラッドも言ってたし。 リラックスしておれの前に座る幻のコンラッドが、嬉しそうに笑って頷いた。 おれも何だか急に嬉しくなって、込み上げる笑いをコンラッドに向けた。 …………現実のコンラッドは、今頃とてもじゃないけどのんびりなんてしてないだろうけど……。 「…あんた、さっき言ってた迎えに来てくれる人、だけどさ?」 夜の街を走り回っておれを探すコンラッドの姿を思い浮かべた瞬間、お姉さんが声を掛けてきた。あまりのタイミングに、どきりと胸が鳴る。ところが。 「恋人かなんか、かい?」 質問の内容が飲み込めた瞬間、身体が跳ね上がった。 「こっ!? ちっ、違う…っ。んなんじゃ、なくてっ」 思わずわたわたと手を振って否定する。 「ああ分かった。そのお人と、痴話喧嘩でもやらかしたね?」 「ちわ!? ちっ、ちっ、ちわわ!? じゃなくて痴話、喧嘩ぁ?」 違うって言ってるのに! 大体コンラッドは………。 コンラッドと。……喧嘩なんかしたことない。してもらったことなんか、ない。 「片思い、だし……」 2人はおれの呟きみたいな言葉に、揃って長々とため息をついた。たぶん、おれのその時の顔がよっぽど情けなかったに違いない。 「……てことは、ああ、つまりその人を想って、一人で馬にのって悶々としてたんだ」 モンモンって何だよ、モンモンって! ……あー、でも、もしかしたら……。 「自分で分らないんだ?」 モンモンっていうのかどうか分からないけど、色々思ってぐちゃぐちゃになってたことは確かだよな。 コンラッドのことだけじゃない、けど。……いや、もしかしたら結局、コンラッドのことしか考えてなかったのかな……? だとしたら……ほんっとに情けないなー、おれ。 またまた自己嫌悪に陥りかけるおれの前で、お兄さんとお姉さんがどこか気遣わしげにおれを見ている。 王様じゃない、素のまんまのおれを。 話してみようかと。思った。 もちろん王様の悩みは言えないけれど、コンラッドへの今の気持を、コンラッドにどうしてもらいたいのか、どうしようと思うのか、口に出して言ってみようか、と。 おれが誰かも、そして誰のことを話しているのかも知らないこの人達に話を聞いてもらいたいと、そして何の知識も先入観もない人からのまっさらな言葉が欲しいと、思った。 「…………いつも…一緒にいるんだ。一緒に、いてくれるんだって思ってた。…仕事で…、長く離れてた時もあったけど、でも、帰ってきてくれて…。だからもうどこにも行かないで、ずっと一緒に、側に、いてくれるって…思ってた。なのに……」 「離れ離れになるのかい?」 「……そうしなきゃならないってのは、分かってる。頭の中では…。大事な仕事、だし。でも、今度いなくなったら、いつ、帰ってきてくれる、か、分かんないし…。生きて、帰ってくれるかも……分かんない、し…」 シマロンの人々のため、そして将来的には魔族と人間の友好と共存共栄に道を繋げるため、コンラッドに行ってもらわないとならない。それが「王」としてのおれの決断。……だけど。 おれの決断と命令で、コンラッドが向かう先は戦場の最前線だ。もしかしたら、考えたくはないけど、もしかしたら、その戦いで……。 考えるのが怖い。怖くて想像もできない、はずなのに、それは考えまいと必死で作り上げた意識の壁を押し退けて、鮮烈なまでの色を伴っておれの脳裏に浮かび上がってくる。まるで予言のように……。 だから怖くて。本当に怖くて。おれのせいで、皆の言葉に逆らって、王であるおれが1人で決め、そして出した命令で、もしもコンラッドが……死んでしまったら……! それが、堪らなくて。 「行かないで欲しい。…って、言っちゃいけないのも…分かってる、けど。顔、見てたらたまんなくなって…。せっかく二人で久し振りに旅行、したのに、なのに、辛くなって…。好きって…言いたいけど、言えない、し」 「どうして言えないんだよ。もしかすると、ずっと別れ別れになるかもしれないんだろ? だったら言っちまいな。言いたい事を言わずにいると、きっといつか後悔するよ」 「言っちゃったら……ホントに離れちゃうかもしれないし」 そうなんだ。 大好きで、大好きで、大好きで。 あんたが心から自慢できる王様になりたいと思う。隣に立っても見劣りしないくらいに。 でも、時間が経てば経つ程、色んなことが見えるようになればなる程、分かるのはおれがホントにダメダメな未熟者だってことばっかりで。 だからいつまで経っても告白なんてできない。 もし勢いでそんなことをしてしまったら、あんたはおれを受け入れることができない申し訳なさとか、おれをそんな気持にさせてしまったことへの罪悪感とかで、おれの前から姿を消してしまうかもしれない。 そんな想像が簡単にできてしまうから……言えないよ。 いつも笑っておれを見てくれるあんたは、紛れもなくおれの「名付け親」で、あんたにとっておれは「唯一の主で可愛い名付け子」なんだ。 ヴォルフが言ってくれたみたいに、「家族」なんだ。 それは嬉しい。とっても嬉しいと思う。でもさ……。 たぶん今感じてるこれが、切ないって気持なんだと思うんだよ、コンラッド……。 切ないよ……。 その時、ふいに頭の上にぽんと軽く何かが乗った。 お姉さんの手だった。 おっきな手が、ぽんぽんとおれの頭の上で弾んでいる。 「それでもあんたは、その人が自分を見つけてくれるって信じてるんだね?」 思わず見つめる先で、お姉さんがほこほこと胸が暖かくなるほど優しい笑顔でおれを見ていた。 「すごいね、その人は。どこをどう走ったのか、あんたにも分かってないってのに、ちゃんと見つけてくれるんだ。あんた、その人に、本当に大切にされてるんだね。それをあんただってちゃんと分かってる。だから絶対大丈夫だって、自信を持って言い切れるんだろう? ねえ、シンノスケ。あんた、もうちっとその人とあんた自身を、信じてやっちゃどうなんだい?」 コンラッドと、おれを……信じる? ドンドンと、家を壊すような勢いで扉が叩かれていた。 朝風呂を頂いて、染め粉も落としてコンタクトも外して、通りすがりの子供から全く別の存在として2人の前に立った時だった。 おれの色に、ただ呆然としていた2人は、扉の向こうで怒鳴る声に反応できずにいる。でも、おれは……。 扉が吹っ飛ぶような勢いで内側に開いた。………これ、外開きだったような気がするけどー…気のせいかな? 気のせいだな、うん。 「ユーリッ!!!」 「コンラッドッ!」 家の中に飛び込んで来たのはもちろんコンラッドだった。 コンラッド……すごい。何かもう、サイテーなくらい無茶苦茶のぐちゃぐちゃだよ? 髪は確かに獅子だねってくらい乱れて逆立ってすごいし、どこを這いずり回ってきたのかあちこちに葉っぱが絡み付いてるよ。それに目は血走ってるし、顔は土色がさがさっぽいし、なんかもう一晩で無精髭まで生えかかっているような? 服も……ホントにどこを走り回ってたのさ? かぎ裂きができてるし、ボタンは飛んでるし、袖なんて千切れ掛かってるよ。 あんまり情けない格好だから、もしかしたらこういうのが一般的に言う所の100年の恋も冷めちゃうってヤツ? とか思ってしまった。 なのにさ。 変だよ、コンラッド。 おれ、すっごく変。何かさ。 ………カッコ良いよぉ、コンラッドぉ……! おれを見て、引きつった顔が一瞬弛んで、そして目を輝かせて、おれの名前を叫ぶ姿が。 カッコ良いよ、カッコ良すぎて涙が出てきそうなくらい、すっごくカッコ良くて素敵だよ! さすがおれの名付け親。さすがおれの恋する人。 髪に絡み付いた枯れ葉さえ、何だか冠のように見えちゃうよ! ぼろぼろになっても、目の前にいるのはキラキラと輝くおれの銀の星の王子様。 ちゃんとおれを探し当ててくれた。 おれが飛びつくより早く、コンラッドがおれを抱き締める。 瞬間移動だ。魔力は持ってなくても、超能力は持ってるかもしれない。 「ユーリッ! 陛下っ!! 御無事で……っ。探しました。心配しました……っ!」 うん、分ってるよ。ごめんね。本当にごめんなさい。 こんなになるまでおれを心配して、探し続けてくれていた。本当に本当にごめんなさい。でもね。 「コンラッドが絶対俺を見つけてくれるって思ってた。絶対ここに来てくれるって」 「……ユーリ……」 コンラッドの顔が、色んな感情にくしゃりと崩れた。 やっとおれ達が一息ついたことに気づいたのか、そこでお兄さんが動いた。「ウェラー卿」という、どこか遠慮がちの声。 呼び掛けられ、言葉を交わして、コンラッドはようやく自分が今いる場所が、かつて訪れたリーバイ家であることに気づいた様だった。 コンラッド、それから魔王としてのおれと、兄妹の間で言葉が交わされる。 ようやく落ち着いた雰囲気に、おれもホッと息をつき、あらためておれを抱き締めたまんま─お兄さん達と話をしている間も、少しも力が緩むことがなかった─の、コンラッドの顔をしみじみと、でもってたぶんうっとりと見上げた時だった。 「見つかったんだな!」 聞こえるはずのない声がした。 「…………グウェン……」 おれの宰相、フォンヴォルテール卿グウェンダルの眉間の皺がぐぐっと深くなり、おれを睨み付ける眦がきゅううっと上がった。 「……この」 ヤバいっ、来る! 「大バカ者が!!」 雷が、炸裂した。 ……………何だってグウェンがこんなトコにいるんだよーっ!!? 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