恋・15


 おれは、まっすぐ立ってるかな?

 ぴんと背を伸ばし、太陽を恐れることなく、真正面に見つめるあのひまわりのように。

 思いの丈をこめて、新しい花を生み出してくれたお爺さん。
 ありがとうございます、と、心をこめて頭を下げてくれたお姉さん。

 最初は目に映るものだけ見ていればよかった。
 おれの「常識」だけ信じていればよかった。
 「正しい」と信じることを、ただ声高に叫んでいればよかった。
 したいと思うことをがむしゃらにやればよかった。

 それで、事はうまくいった。うまくいったと思った。
 やっぱり思う通りにやってよかったと思った。
 何とかなるじゃん? って。
 おれってば、結構王様してるじゃん? って。

 そんなワケなかった。

 国は1人で動かせない。
 どんな理想的な王様だって、権力しか頭にない独裁者だって、たった1人で国を思う通りに動かすことなんてできない。
 支えてくれる有能な側近が必要だ。
 そして行政や法律や軍隊や、国家を動かしていく各分野のエキスパートが必要だ。
 さらに、その各分野の現場で仕事をしてくれる、有能な役人や職員や兵隊さん達が必要だ。
 そしてそして。
 王を国家をその未来を、支えてくれる民が必要だ。

 眞魔国が今現在、順調な経済発展を背景に、平和で豊かで安定した国でいられるのは、おれが名君だからじゃない、おれの治世を支えてくれる数多くの人達が、皆本当に素晴しい人達ばかりだからだ。
 確かに、色々な考えを持った人がいるだろう。
 野心を持った人もいる。妬みも嫉みも足の引っ張り合いもあるだろう。
 国の色んな場所で、色んな規模の色んな次元の権力闘争が繰り広げられてる、こともあるだろう。
 誰も彼もが夢と希望と理想で生きていられる訳じゃない。
 それでも。
 その全てのマイナスを引っ括めても。
 やっぱり眞魔国は、国を思う多くの有能な人材に恵まれている。
 彼ら─国家的規模では無名の、それぞれの現場で自分の責務を懸命に果たしてくれている全ての人々─がいるからこそ、今この眞魔国がある。

 この平和、この繁栄。

 おれの手柄じゃない。

 おれが好き勝手なことを口にして、不可抗力とはいえ玉座を温める暇もなく、はしゃぎまわるようにあちこちを飛び回っていた間に、グウェンやギュンターや、そして誰よりコンラッドが、どれほどその肩に苦労を背負い込んでくれたか。……命を懸けてくれたか。

 彼らがいなければ、おれは今頃王位になかったはずだ。

 おれは何も持たない。

 帝王教育を受けてきた訳でもなく、「王」となる覚悟も自覚もあった訳じゃない。
 傑出した才能も、豊かな人生経験も、自分の人生の中で培った信念がある訳でもない。
 あるのは、平和な日本でのほほんと暮らしてきた16年。
 成績も中の中(近頃は追試が多いから、中の下か、もしかすると下の上、くらいかもしれない)、家計を助けるために夜明け前から新聞配達をしたとか、螢の光で勉学に励んだとか、苛めや虐待に耐えてきたとか、そんな特筆する何かもなく、平々凡々と生きてきた人生。
 恐ろしく濃い人生経験を積んできた名付け親やお庭番や他にも大勢の人達とはあまりにも掛け離れていて、その掛け離れ具合といったら、銀河系の端と端といってもいいくらいだ。

 おれは何も持たない。

 「王様」として、これだけは自信がある、とか、これについては誰にも負けない、とか、胸を張って言えるものが、おれにはない。

 史上最強の魔王だとか、稀に見る名君だとか、まして「地上の奇跡」な美貌とか。

 「自分」という存在の足元に何もないことを知ってるおれにとって、そんな褒め言葉はある意味凶器だ。

 ぐさりぐさりと胸を刺す。

「それは違いますよ、ユーリ」

 温めた香料入りのミルクのカップを両手に包み込んで、ぽつりぽつりと話すおれに、隣に座るコンラッドがちょっと困ったような笑みを浮かべてそう言った。

「……違わないよ」
「いいえ、違います。思い上がることもなく、傲慢になることもないのは素晴しい資質です。しかし、この国と魔族のために、あなたがこれまでなしてきた全てを、そしてあなた自身を、まるで価値のないもののように仰るのはお止め下さい。……謙遜も度が過ぎると卑屈となってしまいますよ?」

 最後の言葉にびっくりして顔を上げると、ひどく真面目な光を湛えた瞳とぶつかった。
 小さく息をつき、厳しい言葉を打ち消すように柔らかく微笑むと、コンラッドはソファの上の距離をわずかに詰めた。
 いつもおれを護ってくれる大きな手が上がり、それがおれの額に触れ、前髪を掻き揚げるように髪を撫でていく。

「そんな風に考えておられたのですか……。もっと早くに分っていればよかった。そうすれば、早い段階であなたのその思い込みを解いて差し上げられたかもしれないのに」
「……思い込み……?」
「ええ、そうです」
 ユーリ。見つめるおれを、コンラッドが改めて呼ぶ。

「あなただからです。あなたがいたからこそです。……覚えていらっしゃいませんか? あなたがこの世界においでになった当初、グウェンダルが、ヴォルフが、そしてギュンターが、人間達をどうしたいと口にしていたか。あの時点であなた以外の一体誰が、人間達との共存共栄の可能性を口にしたでしょうか。戦争をすべきではないと、あなた以外の誰がああも堂々と主張したでしょうか」
 もしあなたが魔王でなければ。
 コンラッドはそう言うと一旦言葉を切って、それから何かを思い浮かべるように視線を遠くに向けた。
「もしかしたら今頃は、魔族対人間の世界戦争が繰り広げられていたかもしれません」
「そんな、こと……」
「ただがむしゃらにしたいことをしたとあなたは仰いました。まさしくそれこそが、グウェン達純血魔族のかたくなな人間観や世界観を突き崩し、未来への新たな展望を開いたとは思いませんか?」
「……コンラッドは……」
 思わず目を伏せて、おれはミルクのカップの見えない底に目を凝らす。
「おれ贔屓だから……」
「そうですよ。もちろん」
 俺はユーリ陛下至上主義の男ですから。
 顔を上げ、けろりと笑う名付け親の顔をまじまじと見つめてしまう。
「でも今の言葉は、俺が考えついたんじゃありません。グウェンが俺に言ったんですよ?」
「グウェンが……?」
 はい、とコンラッドが頷いた。
「全くどうしようもない小僧だと思い続けていたはずなのに、ハッと気づいてみたら、そのどうしようもない小僧の向かおうとする先を共に見てみたいと思うようになっていた。……以前、グウェンが俺にそう言いました。幼い子供の戯言のはずが、いつの間にかその言葉の先に光を見るようになったと。あなた以外の誰が、グウェンをそこまで変えることができたと思うのですか?」
 どう答えようもなくて、おれはただぱちぱちと目を瞬かせていた。
「ギュンターだってそうですよ。陛下陛下と汁を飛ばしている内に、最初あなたに向かって人間を滅ぼすのだと言っていたことをすっかり忘れてしまっている。でしょう?」
 そう言われれば、初めて会った頃はそんなことを言っていたような。
「グウェン、ギュンター、ヴォルフ。彼らから始まって、少しづつ少しづつ、あなたの不戦と平和の思いは広がっていったのです。別に布教した訳でもなんでもない。あなたを見て、ユーリ陛下という人を見て、知って、そして皆があなたの思いを受け止めていったのです。受け止めて、理解して、己のものとして、そしてさらに広げていった。確かに眞魔国は人材に恵まれています。しかし、側近にしろ官僚にしろ、王がろくでなしであれば、その周囲にろくな者は集っては来ませんよ? 真に優れた者は、己の能力を捧げる相手を選ぶものです。あなたが良い人材に恵まれたと思うなら、それはすなわちユーリ、あなたが良き王であることの証しです。あなたが、あなたの思いとあなたの努力が、眞魔国に良き人材を集め、人間の良き友を集め、そして今を作り上げたんです。 あなたが魔王であるからこそなんですよ、ユーリ」

 言うだけ言ってしまうと、コンラッドはにこにこと笑みを浮かべたまま、おれを見つめている。
 何つーか……照れくさいと言うか、嬉しいと言うか、よくもまあそこまで人を臆面もなく褒め上げることができるなと、呆れてしまったと言うか……とにかく複雑に入り交じった感情にどう答えようもなくいる内に、なぜか頬っぺたの温度だけがどんどん温度を増していくのが分った。
 頬の熱は瞬く間に顔中に広がって、とにかくかっかと熱い。
 顔の温度を下げるためと、それからたぶん間違いなく真っ赤になっているだろう顔を隠すため、おれは手の中のカップを呷った。とっくに温度をなくしたミルクが心地よく喉を滑っていく。

「………ひまわりがさ……」
「はい」
 唐突な言葉に、コンラッドは気にした様子もなく穏やかに返事をくれる。
「あの花がおれだって言われて、おれ、ホントは何だかいたたまれない気持になっちゃってたんだよね。おれはあの花みたいに、真直ぐ背を伸ばして堂々と立っているのかな、って。お爺さんがおれのことを太陽だって言ってくれたことは素直に嬉しかったんだけど、でもそれ以上に何だかさ、恥ずかしくなったっていうか……。あのさ……」
 見上げた先で、コンラッドは何も言わずおれの言葉を待ってくれている。
「卑屈だって言われちゃうかもしれないけど、でもさ、おれには……自信の根拠になるものがないんだよね。人生経験だってコンラッド達に比べたらないに等しいだろ? それに……いつも迷ってばっかだ。ひまわりみたいに、太陽の光に向かって自信満々に花を咲かせるなんて全然できてない。いいのかな、これでいいのかなって、いつもいつも……。今度のコンラッドのことだって……」
 今さら迷っていると言われても、コンラッドだって困るだろう。それに思い至って、おれは不自然に言葉を切るとまたまた目を伏せた。
 ふいに頭に重みを感じる。すっかり慣れてしまったコンラッドの大きな手が、おれの頭を撫でている。
「人生経験は仕方がないでしょう? こればっかりは積み上げていくしかありません。ですが、あなたは1人じゃありません。不安なまま、1人で何もかも決断する必要はないのです。俺達がなぜあなたの側にいると思っておいでなのですか? あなたを支え、あなたに足りないものを補い、あなたの政がより良い方向へ向かうことをお手伝いするため、ですよ? 人生経験が不足しているから為せないものがあるとお考えなら、俺達を使えばいいんです。俺達の経験を取り込めばいい。人生経験なら、そんじょそこらの者には負けません。……とは言っても……」
 何かを思い出したように、コンラッドがくすっと小さく吹き出した。
「猊下にはとてもじゃないが適いませんが」
 その言葉に、おれもつられて吹き出した。
「あいつは特別だって! 蓄積経験凄すぎて、おかげで性格がすっかり発酵しちゃってるじゃん」
 発酵ですか、とコンラッドがくすくすと笑い出す。おれも自分の言ったコトに自分でウケて、一緒になって笑ってしまった。
「 何も持たないと思われるなら」ひとしきり笑いあった後、コンラッドが改めて言葉を継いだ。「 持つものから知恵と知識を借りれば良いのです。それもまた経験です。それから……先程俺は、ユーリがいたからこそ今の平和があると言いましたよね?」
「うん。ちょっと褒めすぎだと思うけど」
「褒め過ぎるくらい褒めても大丈夫なんです。だってあなたはそれで舞い上がったり、自分は名君だと思い上がったりしませんから」
「……コンラッド……」
「どんな根拠があるとしても、王に過剰な自信など持ってもらっては、周りの者は大迷惑です。迷いについても同じです。まだ幼いと言っていいあなたが、王として己の執政に何の迷いも疑いも持っていないとなれば、これはむしろ恐ろしいことです。やることなすことに自信がなくても当然、迷っても当然なんです。むしろ悩んで悩んで、何度も自分の決断を振り返って、それが本当に正しいものであったかどうか、常に検証する態度が為政者には必要だと俺は思います。ですが1人で悩む必要はありません。何度でも言います。そのために、俺達がお側にいるんです。ユーリ、王という至高の地位についてしまった者が、自分自身の資質について不安を覚えるのも、迷うのも、間違ってはいません。あなたの悩みは正しい。俺はそう思います。ただ、その悩みにどっぷり溺れてしまった挙げ句に、自分を否定するようになってはいけません。自分の存在を無価値であるとか、無意味であるとか、そのように考えてしまっては正しい悩みも害に変じます。それが募れば卑屈になります。そのラインを、俺はあなたに踏み違えてもらいたくないと思っています」
「………な、何か難しい、気がする……」
 自分が今、どのポイントに立っているのか、真剣に分からなくなってきた。
 コンラッドに言われたことを整理しようと、腕を組んで天を仰ごうとした瞬間、上げた頭にぽんとコンラッドの掌が当った。その大きな手が、そのままおれの髪をぐりぐりと掻き混ぜる。
「繰り返しますよ、ユーリ。そのために俺達がいるんです。あなたが道を踏み誤ったり、迷路に入り込んだりしないよう、俺達があなたを護って支えて共に生きていきます。もしあなたがとんでもない獣道に迷い込んだりしたら、俺達が実力行使であなたを元の道に戻してみせます」
 大丈夫ですよ。ユーリ。
 おれの頭に手を置いたまま、コンラッドが優しく笑う。
「あなたは王の道を着実に歩んでいると俺は確信してますよ。今、あなたが迷い、そして悩んでいるという事実こそが、言わばその証拠のようなものです」
「………コンラッド……」
 何も言えないまま、おれはただバカみたいにコンラッドを見つめていた。
「ユーリ」
 コンラッドがふっと表情を変えた。
「俺をシマロンに向かわせる事、まだ迷っておいでなのですか?」
 少しだけ間を置いて、それからおれは「うん」と頷いた。
「おれ……いい加減で、コンラッドには本当に申し訳ないって思ってる……。ちゃんと決断したはずなのに。だからコンラッドだって真剣に受け止めて、シマロン行きを了解してくれたのに……。それなのにおれってば、コンラッドとまた離れ離れになるのが辛くて、やっぱり一緒にいたいって気持がどうしようもなくあって……。本当にごめん……」
「嬉しいですよ」
 え? と顔を上げた先のコンラッドは、本当に嬉しそうに顔を綻ばせていた。
「言ったでしょう? ユーリの側にいることこそ俺の唯一の望みだと。だからユーリがあの決断をした後、悩みが晴れてすっきり爽やかな気分になってしまったらさすがにちょっと切ないかもって、実は密かに考えていたんです。だから嬉しいなって」
 ばか。
 言って、目の前のコンラッドの胸を拳で一つ、殴る真似をする。
「すっきり爽やかなんて、なれるワケないだろ!? 辛くって辛くってどうしようもないんだよ! だって…だっておれ……!」

 コンラッドが好きなんだから。恋、してるんだから。

 口から今にも飛び出してしまいそうになった言葉を、咄嗟に領の掌で押さえる。
 いきなり口を覆い、顔を伏せてしまったおれに、「ユーリ?」と、コンラッドが怪訝な声を上げた。

「……王として、あなたはすべき決断をしました。個人的に悩むことはあっても、あなたはその決断を翻すことはなさらないでしょう。ほらね、ユーリ」
 コンラッドがおれを覗き込むようにしながら、にっこりと笑った。
「こうやってあなたは、王として1歩づつ確実に成長していくのですね」

 コンラッド。
 コンラッド。

 あんたはそう言って満足そうに笑う。
 でも今のおれは、それを素直に喜べない。
 だってコンラッド。
 あんたは知らない。おれの中の本当の気持。
 あんたを想う、おれの気持。
 あんたが好きで好きで好きで。
 今、胸を切り裂くような痛みが。出口の見えない迷いが。
 王の道を進んでいる証拠? 成長の証?
 そうだったらどんなにいいかって、おれも思うよ。
 でも違うんだ、コンラッド。たぶん、いや、間違いなく、これはそんなんじゃないんだ。
 王としてなんてどうでも良い、事じゃないかもしれないけど、やっぱりどうでも良い。
 おれの胸の中で渦巻いてるこの思いは、「王様」のおれとは関係ないんだ。

 魔王でも誰でもなく、コンラッドを恋するおれの、渋谷有利の思い。そして、痛み。

 情けないよね、コンラッド。
 おれってヤツを今支配してるのは、片思いにじたばたしてるへなちょこ高校生以外の何者でもないんだ。

 ごめんね、お爺さん。
 ごめんね、お姉さん。

 今おれの中にあるものを覗いてみたら、あなた達をきっとがっかりさせてしまうんだろうな。
 1日24時間、1年365日、あなた達に敬愛されるにふさわしい、立派な王様でいられたらと思うけど。
 太陽の花なんて、おれには荷が重過ぎる。
 あなた達に敬愛される立派な魔王。ここにいるおれは、その皮を被ったただの情けないガキでしかない。
 あの時の決断は、おれとしては一世一代の決断だった、なんて思ったりもするけどさ。
 その後がこれだもんな。

 情けないよね。本当に情けない。



 四日目。
 明日は王都に帰らないとならない。
 帰ったら……有能な宰相のことだから、引き継ぎ作業もすっかり終わってるかもしれない。
 そうしたら。そう、したら。

 意識が帰城後に向かってしまったせいか、花を見ていても、視界に1枚ベールが掛かったような、妙な距離感を覚えてしまう。そこにいて、花を見ているのに、自分はどこか別の場所にいて画面を覗いているような。
 傍にはコンラッドがいる。
 どうしてだろう。今はそれが辛い。
 昨日も情けないって思ったけど、今日はそれが数倍増だ。

 おれの元気がないことなんて、名付け親にもお庭番にも親衛隊長にもあっさり見破られてしまったらしい。
 それをどう好意的に解釈してくれたのか、大体の想像はつくけれど……。ちょうど雨が降り出したこともあって、とにかく休もうとお昼はカーベルニコフの別宅に戻った。
 食欲はさっぱりだったけれど、一生懸命元気っぽい顔を作って、食事を必死に口に押し込んだ。でもおれは根っから大根役者で、そんな態度はむしろ皆の心配を深めるだけでしかない事にすぐ気づいた。
 ちょっと疲れたから寝る。そう言うと、皆がホッとしたように見えるのがおかしかった。
 「食休みのお昼寝は大切なんですよ〜。寝る子は育つって言いますしー」と、どこかで聞いたようなセリフでヨザックが笑う。

 本当に疲れていたらしい。
 覚えているのは、横になったおれの傍で、コンラッドが首元まで上げた毛布をぽんぽんと叩いて整えながら、俺に微笑みかけてくれていたこと。そこまでだ。
 次に目を覚ました時、おれは寝室のベッドの上で、部屋には誰もいなかった。
 もぞもぞと起き上がり、備え付けの小卓の上にある水指しの水をコップに移して飲み干す。柑橘系の香りに、思わずホッと息が洩れた。
 窓からは穏やかな、ほんのり朱色の陽が射して、夕刻間近の時間を教えてくれている。

 静かだった。

 側に誰もいないのは、近頃とんと珍しい。
 少しだけベッドでゴロゴロしてから、もう眠れない事を悟ったおれは、起き上がり、服を着て、部屋の扉を開いた。
 誰もいなかった。
 あまり厳しい警護はして欲しくないと言ったのはおれだ。せっかくの旅行なんだし、お忍びなんだし、ガチガチに周りを固められるのは楽しくない。だから部屋の外に衛兵がいないのも最初から知っていた。知ってはいたけれど……。
 部屋の外、おれの視界に入る空間には、何故かあり得ないほど人の気配がなくて、なさすぎて、気味が悪いくらい静かなままだった。
 たぶんそれは、ほんのわずかの偶然でできてしまった、真空地帯のようなものだったんだと思う。
 コンラッドが、ヨザックが、クラリスが、そして護衛の皆が、それぞれの、ほんのちょっとした何かの理由で、ほんのたまたまおれから目を離してしまい、そのたまたまが全て重なってしまった嘘みたいな瞬間。
 まるで何か、もしくは誰か、が、誂えたかのように作った空間。
 運命のように、ぽかりと開いた1本の通路。
 何かを思いつく間もなく、その空間を用意した誰かに背を押されるように、おれは足を踏み出した。


「待って!」
 必死で声を張り上げ、手を伸ばす。
 でも木立の中、馬の後ろ姿はすぐに視界から消え、地を蹴る音も次第に遠のいていった。
 後に残されたのはただ、森の中に放り出され、泥の斜面に無様に転がるおれ1人。


 誰もいない通路を走り、邸の裏口に到着する頃には、もう次の行動を決めていた。
 そっと裏口から顔を覗かせ、辺りを探り、誰の目にも触れないよう注意を払って厩に向かう。そして馬に鞍を乗せて連れ出し、邸の敷地の奥の小さな出入り口からそっと外へ出た。

 特に目的地なんてない。
 ただ何となく、広々とした場所に出たいと思った。このところずっと人の群ればかり見てるような気がするから。
 街そのものは王都と比べるべくもない程小さいから、馬で歩けばすぐに郊外に出る。と、そこはあっという間に田園地帯だ。馬に乗ってぽくぽくと進めば、村や花畑も見えてくる。道行く人も、畑仕事をしている人も、どことなくのんびりしていてホッとする。
 見渡す限り自然がいっぱいで、特に雨が上がったばかりのせいか、空気の感触もしっとりと気持が良い。緑も花も雨に洗われた後だから色は鮮やかだし、残った雫が光を反射して輝いているのも綺麗だった。
 そうして馬を進めていけば、気分も次第に落ち着いてくる。最初襲ってきた不可解な衝動はその頃にはもう影を潜めていて、今度は逆に自分の軽率な行動が気になり始めていた。
 邸を飛び出してから、どれだけ時間が経っただろう。30分? 1時間?
 きっともう皆、おれがいないことに気づいてる。
 コンラッドの、心配で引きつった顔が目に浮かんで、おれは急に焦りを感じてしまった。
 そもそもどうして、おれはこんな真似をしてしまったんだろう?
 皆を心配させることは分かり切ってるのに。

 1人になりたかった? 1人になって、それでどうしようと思った?

 ……帰ろう。帰って謝ろう。

 そう決めて馬首を返そうとしたその時、事は起こった。

 何があったんだろう。
 馬の足元で何かが跳ねたか、それともまた耳に虫でも飛び込んだのか、もう全く分からない。
 おれに分ったのは、それまで大人しく歩いていた馬がいきなり激しく嘶き、大きく身体を震わせたかと思うと、次の瞬間一気に走り出したというその事実だけだった。

 爆走する馬。
 耳元で、空気を切る鋭い音がする。身体全体で風を感じる。なんて言ったらカッコ良いけど、おれはもうそれどころじゃない。馬って超優秀なスプリンターだったんだーと、感心する余裕もない。
 ドカッドカッという力強く土を蹴るリズミカルな、でもものすごい重量を感じさせる音が響き、同時に連続する衝撃が馬上のおれを払い落とそうとするかのように襲ってくる。
 目を開けることもできない。まして「止まって」も「助けて」も、それどころかわずかな悲鳴も上げる事ができない。全身を激しく揺さぶるこの律動の中、もしちょっとでも口を開こうものなら、まず間違いなく舌を噛む。
 おれにできることはただ、目をぎゅっと閉じて、手綱だかたてがみだか、とにかく掴まる事のできるものにしがみつき、振り落とされないように踏ん張っていることだけだった。このスピードで放り出されたら、命だって危ないかもしれない。少なくとも無傷ではいられないだろう。
 馬はひたすら走り続け、おれは落とされない事、それから誰かを跳ね飛ばさない事だけを祈って、必死に手綱とたてがみにしがみついていた。やがてふと、坂道を登っているような感覚を覚え、同時に閉じた目蓋の向こうが、すうっと暗くなってきたことに気づいた。
 ハッと目を開ける。何とか周囲を確かめようと顔を上げたその時、手綱を握る腕からちょっとだけ力が抜けた。途端、鞍の上で跳ねた身体が、そのまま宙に飛び出そうとする。ヤバい、落ちる! と思った瞬間、おれは全力で手綱を引いていた。
 しまったと思った時は遅かった。
 馬が鋭い嘶きと同時に前足を跳ね上げた。走ってきた勢いのままぐわっと力強く前足が天を向く。馬は竿立ちになり、おれの視界も唐突に回転した。
 目の前がぐるりと回り、視線の先には何故かたくさんの木と、その隙間に空。そしてそれを認識するより早く襲ってきたのは、身体を大地に引きずり下ろそうとする重力。
 さすがに耐え切れず、気がついたらおれの身体は地面に叩き付けられていた。

「………い、って、ぇ……!」
 顔を上げてびっくりした。
 さっきまで田園地帯をのんびり散歩していたはずなのに、今周囲に見えるのは鬱蒼とした木立ばかり。見上げれば、木々のてっぺんははるか彼方で、空はわずかにしか見えない。なので地上は薄暗く、すでに夜の気配すら漂っている。
 もしかしたら森、いや、この地面の斜め具合は、間違いなく山だ。そう言えば、「山と湖に囲まれた自然豊かな街」というのがキャッチフレーズだったっけ? じゃあ一体おれは、街からどれだけ離れてしまったのだろう?
 こんなところで尻餅ついたまま、ぐずぐずしてる訳にはいかない。顔を巡らせてみれば、すぐ側で今の今まで興奮していた馬が、きょとんと辺りを見回している。もう一度馬に乗って、一刻も早く帰らないと……。
 ところが、雨上がりの湿った地面から何とか起き上がろうとした途端、今度は足首にずきりと痛みが走った。
 ヤバぁ……。またやっちゃった……。
 どうしよう、馬に乗れるのかな。とにかく何とか立ち上がらなきゃ。それから……。
 木の幹に縋るようにして立ち上がろうと足掻き始めた時、不吉な音と気配が背後に起こった。
 咄嗟に振り返った先で、馬がおれに背を向け、歩き出そうとしている。
「ま、待って…! ここに戻って……」
 まるでおれの声が合図だったかのように、馬はもと来た道を一気に駆け下り始めた。

 ………どうしよう。
 どうしようどうしようどうしよう。

 あの馬は、無事に邸に戻るだろうか。
 戻って、そして皆をここに連れてきてくれるだろうか。……馬ってそういうことができたっけ……?

 バカだ、おれ。
 さんざん情けない王様だって自己嫌悪してたはずなのに、改善の努力どころか、さらに状況を悪くしてしまった。
 誰にも言わずにたった1人で飛び出して、暴走した馬に振り落とされ、置いてけぼりにされ、挙げ句足を怪我して動けない………。
 最悪だ。
 もう、笑っちゃうしかないって感じ。一体おれってば、どこまでバカなんだ?
 何を悲愴感ぶって、ひとりでこんなトコまで来ちゃったんだ? 何の解決にもなりゃしないのに。
 今頃みんなは。今頃コンラッドは。どんな思いで……。

 涙が出てきた。

 さんざんグチ言って。慰めてもらって。なのにおれはただいじける一方で。
 で、仕出かしたことがコレか?
 バカだバカだって散々思ってきたけれど、おれは自分の予想以上の底なし無限大の大バカだったワケだ。
 畜生っ!

 今さら気づいたってどうしようもない。
 バカバカ言ってても、これまたどうしようもない。
 状況は絶望的だけど、とにかく何とかしないとおれは遭難してしまう。っていうか、しちゃってる。
 ………おれ、魔王だし、テレパシーとか使えないのか? ほら、マンガとかファンタジー映画とか、よく鏡に姿を映して何かを知らせるっていうシーンがあるじゃん? そんな感じでさ。よし、早速挑戦! ……って、どうすりゃいいんだよ! そんな芸当、できるかっつーの!
 ……あー、ダメだー。ひとり漫才になってきたー。色んな意味でますます絶望的だー……。

 足の痛みはどんどんひどくなっていく。
 自分で自分に癒しの力を使うっていうのはできるんだっけ?
 ああでも何か、ぐしゃぐしゃな気分で集中できそうにないし。
 でもせめて痛みを少しでもなくす事ができれば、山を下りて、そうだ、麓の村に助けを……。

 その時だった。
 自然の音とは違う、何か確かな意志を持ったものが出す音と気配が、次第に近づいてくることに気づいた。
 それはガサガサと下生えを踏みしだき、枝を押し退けやってくる。
 馬、じゃない。もしかして……鹿とか、考えたくないけど……熊……?
 でっかい熊と接近遭遇。思わず頭に浮かんだ光景に、身体が本能的に逃げに入った。ら、やっぱりおれはお間抜けだ。痛めた足首をまたも捻ってしまった。
「っ! う…ったぁ、あ……だ〜……」
 我ながら意味不明のうめき声が口をついて出る。ついでに涙も滲んでくる。一瞬、やってくる熊(?)のことも忘れて、おれは地面に這い蹲った。

「誰かいるのかい?」

 息を呑む。熊の、じゃない、人の声、だ……!

「怪我でもしてるんならお言い。時代遅れの追い剥ぎなら、あたしを襲うのは止めときな」

 人だ。それも女の人の声だ。かなり低くて、ドスの効いた声って感じだけど、これは間違いなく……!

「あの………す、すみません……たっ、助けて下さい……!」

 夢中で叫んだ。



 捻挫だね、と笑って簡単な手当をしてくれたのは、男の人だ。
 おれが通りかかった女の人に連れてきてもらったのは(どうやって連れてきてもらったかは言いたくない。っていうか、思い出したくない)、山の奥にある温泉宿だった。男の人と女の人は兄妹で、この宿のオーナーさんだ。それにしてもこんな山奥に、りっぱな温泉宿があるとは思わなかった。
 「リーバイの熊兄妹」。
 それがこの2人のニックネームだと知って、おれは思わず吹き出してしまった。嵌り過ぎるくらい嵌ってるというか、もうこれ以上ないというくらいイメージぴったりだったからだ。
 何せ、このお兄さんとお姉さんはものすっごくでかい。とにかくでっかい!
 ………もしかしたら、いや、たぶん間違いなく、グウェンよりでかい……。うわー。
 ついでに目も鼻も口も、全てが豪快なまでにでかかった。まるで子供が無造作に捏ねた粘土を、どんどんどんと顔の中に配置したって感じ……なんて言ったら失礼、だよな。
 でかいのは身長だけじゃなく、横幅も厚みも人並み外れてすごい。だから肩の上でもあんなに安定感が……って、ゴホゴホ。……とはいっても、脂肪でたぷたぷという感じは2人とも全くない。むしろ筋肉質で……そう、アメフト体形ってトコだな。お兄さんの体つきは確かにアーダルベルトと通じる、というか、そのまま二まわり程大きくした感じだ。お姉さんについては……丸みのあるアーダルベルト……? ああ、どう表現しても失礼になるー……。
 2人とも、魔族的な美しさはないかもしれない。でもその表情は陽気で、元気で、そして人の良さを醸し出していて、全身から逞しさと頼もしさのオーラが溢れている、とおれは思った。
 顔立ちよりも、そのオーラこそが綺麗だ。なんて言ったら気障すぎるかな?

 2人とも本当にいい人達で、おれを保護した事を家族に知らせにいこうと言ってくれた。それも、今日はたまたま馬がないから徒歩で麓の村まで行こう、と。
 咄嗟に断ってしまった。
 これからわざわざ山を下りてもらうのは心苦しい。というのはある。
 知らせに訪れる先がご領主の別宅、というのはちょっと言い辛い。というのもある。
 そしてそれを知られたら、早晩おれの正体もバレてしまう。それもある。
 正体がバレてしまうのはもう仕方がないし、何よりコンラッド達がおれの身を案じてそれこそパニックに陥っているだろうことを思えば、とにかく一刻も早く居所を知らせるべきだと思う。少なくとも、おれの理性はそう主張している。
 ただ……。
 ふっと思ってしまった。

 コンラッドは、ここに迎えにきてくれる。
 必ずおれを見つけだしてくれる。
 だって、コンラッドだから。

 根拠なんてない。そう思ってしまっただけだ。
 そしておれはといえば……。
 このまま戻っても、また堂々巡りをするだけだ。そんな分かり切った未来に、何だかうんざりしてしまっていた。
 どうせダメダメ魔王なんだといじけるおれ。
 民の期待にふさわしい王様に成長したいと願うおれ。
 コンラッドが好きで、大好きで、恋を叶えたいという思いでいっぱいのおれ。
 自分の感情よりも、王としてすべき事こそ優先しようと考えるおれ。
 コンラッドに、危険な場所に行って欲しくない。離れ離れになりたくない。側にいて欲しいと求めるおれ。
 滅びと再生のギリギリのところで戦っているシマロンの人達を、救ってあげて欲しい。そして魔族と人間の新たな友好の掛け橋を繋いで欲しいと願うおれ。
 時に分裂し、時に混じり合い、どれが本当の自分なんだか、何がおれの本当の望みなんだか、もうぐちゃぐちゃで分からなくなっている。
 今帰っても、結局おれはぐちゃぐちゃのまんま、コンラッドを見送らなくちゃならない。
 それがもうはっきり見えてしまって堪らない。
 変えたい。
 何かを。

 この温泉宿にいて、何がどう変わるなんて期待をしてるワケじゃない。
 それはただ……おれのことを全く知らない人達と、ほんのわずかでも一時を過ごす事で、気分を変えたいというただそれだけのことなのかもしれない。
 おれは、居場所を知らせて世界で一番大好きなコンラッドを安心させる事よりも、自分の気分を取ったんだ。

 結局。
 おれはやっぱり、どこまでも甘ったれの大バカ野郎だってことだ。


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……はい、何だか妙なトコで終わってしまいましたー。
何せ、大昔に書いた「降り積もり〜」という作品がすでにありますので、何としてでもこれに繋げないとなりませんでした。
つまり陛下には、1人で馬に乗って出て行ってもらわないといけないということで〜……。
最初から最後までいじけ陛下になってしまいました。ゴメンなさい。
まあ、長いお話にはこういう時もあるよねーということでお許し下さいませ〜。

がんばれ、ユーリ!(と私!)。ボールパークは間近、かもしれないぞー!

ご感想、お待ち申しております。(6月2日)