「コンラート程の立場にあるものが長期に国を空けるのだ。そうそう簡単に出立できるはずがあるまい」 グウェンが呆れ果てた顔でおれに言う。 コンラッドにもう一度シマロンへ行ってもらうことが決定した翌朝。 おれは朝日が射し込む部屋の鏡を覗いて、げっそりとため息をついた。 2人きりの話を終え、ベッドに入ったおれを残してコンラッドが部屋を出ていった後も、結局おれは朝まで眠ることができなかった。暗い部屋で1人きりになってしまうと、これでよかったんだという思いと、やっぱり取り消したいという思いが未練がましく何度も頭の中で交差して、ベッドの中で横たわっているはずなのになぜかへとへとに疲れてしまった。色んな思いが頭の中をぐるぐるして、胸が痛んで、何度も枕に顔を埋めて泣いてしまった。というわけで。 寝不足っていったら、目の下にはクマが浮かんでて、どこかげっそり、というのが一般的だと思うのだけど、なぜか鏡に映ったおれの顔はむくんでぱんぱんになってる気がする。さらに目が真っ赤に充血して、上目蓋は腫れぼったくて、クマもくっきり……浮かんでるな……。とにかく自分の顔ながら見るも無惨という感じだった。おれを美しいと過大評価して下さってる皆さんがこれを見たら、さぞがっかりするだろう。元々徹夜自体滅多にしないし、高校受験の時だってこんなになるまで勉強したこともないし、どうやらおれの顔は寝不足とストレスに対する免疫ができてない(?)らしい。 しっかりしろ、おれ。 こんなんじゃコンラッドが心配するだろ? 元気な顔で見送るんだ。「行ってらっしゃい!」と、「待ってるからね!」と手を振って。 で。 冷たい水で何度も何度も顔を洗って、少しはましになったかもというところへ、コンラッドがおれを起こしにクラリスと共にやってきた。 「おはようございます、陛下。もう起きていらっしゃいましたか」 うん、お早う、と返して、それから「ごめんね」と謝った。 「何を謝っておいでなのですか?」 コンラッド、それから1歩下がったところにいるクラリスも、不思議そうにおれを見た。見て、そして二人揃って眉を顰めていたから、やっぱりおれの寝不足は一目瞭然だったみたいだ。 「コンラッド、出発の準備で忙しいのに起こしに来てもらって……。もう荷物とかできちゃったの? えと……何時くらいに出発…するのかな。おれ、ちゃんと見送るから!」 泣いたりしないで見送るんだ! と決意も新たにそう言うと、コンラッドが目をでっかく瞠いてまじまじとおれを見つめてきた。 「………あの……陛下……?」 「陛下って呼ぶな、名づけ親! で……何?」 「その……いくら何でもそれは無理です」 「……………へ?」 辛い決断に思いつめ過ぎて、というか、ある意味気分がもりもり盛り上がってしまったせいか、翌日にはコンラッドがいなくなるのだと思い込んでいたおれの胸に、グウェンのセリフがぐっさり突き刺さる。 「準備を始めるって、僕も宰相殿も言ったよ? 覚えてないの?」 朝食のテーブルで、安心したっていうか、落ち込んだっていうか、とにかく複雑な心境で卵料理を突つくおれに、お茶のカップを傾けながら、村田もため息混じりにそう言った。 「軍のことも、王都警備のことも、それからお前の警護のことも、全て完璧に引き継ぎを終えなくては大混乱になるだろうが」 ヴォルフまで追い討ちを掛ける。 「本当にどうしようもないへなちょこだな、お前は」 うー、と唸りつつ、よく考えてみたら、いや考えるまでもなく、昨日の今日でコンラッドがいなくなるはずはないのに、おれってば……。 ちょっと身の置きどころがない気分でうーうー唸るおれに、コンラッドが苦笑を浮かべる。 「一刻も早くと陛下がお急ぎになる気持ちも分かりますが……」 申し訳ありません、と謝るコンラッドに、思わずぶんぶんと両手、それから首を振る。 「ちっ、違うよっ、謝らないでよ! コンラッドとまだ一緒にいられるって分ってホッとしてるんだから! ただ……おれってホントに頭悪いなーって……」 「今さら何だ。そんなことは皆とっくに知ってる!」 「るせーっ!」 がう、と噛みつくと、ヴォルフがにやっと笑った。 「少しは元気になったか。まったく……ここに入って来た時の顔は見られたものではなかったぞ。せっかくの美貌が台無しだろうが」 「つーか、台無しになる美貌なんぞ最初からないっての!」 そう言い返したおれの頬に、ふいに何かが触れた。 ハッと隣を見ると、コンラッドがどこか気遣わし気な表情でおれを見つめていた。 頬、そして目頭から目尻にかけて、コンラッドの無骨だけど優しい指がなぞっていく。 「……それで眠れなかったのですね。夕べの内にちゃんとお話しておけばよかった。本当に……たった一晩でこんなにやつれて……」 ……いえ、どっちかというと、むくんでるんですけど、コンラッドさん。 「とにかく」グウェンの低い声が宣言する。「コンラートでなくては片付かん問題もある。予定している国事を変更する訳にもいかんのだから、事はそう簡単には進まん。どんなに早く見積もっても……1ヵ月やそこらでは到底無理、というところだな」 1ヵ月以上、コンラッドと別れずに済む。 結局その日がくることだけは確かなのだから、あまり意味はないのかもしれないけれど、とにかく今はまだ大丈夫と思うだけで、おれは今度こそホントに安堵の息をついた。 でも。 世の中、そう甘くはなかった。 おれが思っていた以上にコンラッドの仕事は多くて、責任も重くて、関わる人達の信頼も篤くて、グウェンの言う通り、引き継ぎは簡単には済まなかった。仕事の問題だけじゃなく、コンラッドが人間達の懇願を受け入れて、またもやシマロンへ行くことになったと知れ渡ると、軍の内部や官僚や、城で働く人達、それから貴族達の間からも、「ウェラー卿を行かせるな」運動が巻き起こってしまったのだ。 城下では誰がそんな知識を授けたのか、署名活動が行われているという。 コンラッドを邪魔に思う貴族がいるという話にはかなりムカついたけど、実際の所、コンラッドはたくさんの人に好かれているんだ。それが分って、おれは何だかすごく嬉しくなってしまった。 「それはちょっと違うよ、渋谷」 村田が苦笑を浮かべて言う。 「違うって何が? コンラッドが危険な場所に行くことになったから、みんな心配してるんだろ?」 「それもまあない訳じゃないけどね。彼らが心配してるのはウェラー卿のことじゃなくて、君のことだよ」 「………おれ?」 そう、と村田が頷く。 「ウェラー卿が戦場に行ってしまったら、君がどれほど胸を痛めるか、心細く思うか、寂しがるか…。それを思って、君を心配して、みんな反対してるんだよ」 「……………」 「前回、ウェラー卿を失った君がどれほど辛い思いをしていたか、あれはそう遠い昔の記憶じゃないからね。また君を哀しませるようなことにはなって欲しくないと、みんな必死なんだ。命令を撤回しろとは言わないけれど、皆の気持は理解して欲しい」 「………そっか……」 こんな時、おれは1人じゃないんだとしみじみ思う。 もちろん、いつも側にはコンラッド達側近一同がいて、ヨザックやアニシナさんやギーゼラ達がいて、自分が独りぼっちだと思うことなんかないはずだ。でも、本当に大切な決断をしなくちゃならない時は、「王様」って孤独な存在なんだなーなんていっちょまえに思ったりすることもある。だけどこんな時。 この国を本当に動かしているのはおれや貴族達じゃなく、それぞれの現場でそれぞれの仕事を果たしてくれている名前も知らないたくさんの人達、この国で生きる民達こそなんだと思う。そして、そんなたくさんの人達に、おれは支えられ、護られているんだと心から思う。 今、そのたくさんの人達がおれを思って一生懸命になってくれている。 「王様」は、少なくともこのおれは、孤独になったりしないんだとはっきりと分かる。 ありがとうって、皆に言いたい。 ありがとう。心から。 と。いうこともあって。 コンラッドの仕事引き継ぎは遅々として進まない。 そしてその作業が進まないために、コンラッドと一緒にいられる時間がどんどん減っていく。 どうしてかっていうと、つまり、進まない引き継ぎ作業を、自分の仕事をこなしながら同時進行で進めていこうとするために、コンラッドの忙しさが数倍増してしまったからだ。 おれの護衛はヨザックが引き受けることになってあっさり解決してしまったため、王都警備、王城警備、それから軍関係(軍籍を外れてるのに、軍の仕事から外れられないのはやっぱり有能だからだろうなー)の引き継ぎ作業に、今コンラッドは掛かり切りになっている、わけだ。 せっかくどこにも出かけずこの城にいるのに会えない。……なんだか不条理だ。 そして今も。 執務室から会議室への移動中、城の3階の回廊からふと下を眺めると、コンラッドが部下らしい兵隊さんを数人従えて、急ぎ足でどこかに向かっている姿を見つけてしまった。 3階だし、ちょっと遠くだったし、忙しいオーラが燃えてたし、声を掛けることはできなかったけれど。 「………どうした?」 何となく手摺に掴まって、遠くなる後ろ姿を眺めていたら、グウェンが声を掛けてきた。おれがいきなり立ち止まったから、不思議に思ったんだろう。 「……コンラッド。……忙しそうだなーって思って」 そう言うと、おれの横に立ったグウェンはしばらく無言のまま、何かを探すみたいな様子で手摺から身を乗り出した。 「……………あんなに遠くにいるのに、よくコンラートだと分ったな……」 「分かるよ。だってコンラッドだもん」 当たり前じゃん。コンラッドはコンラッドで、おれがコンラッドを見間違えるはずがないんだから。 そう考えるともなく考えている内に、コンラッドの姿が視界から消えた。 思わず、ふう、とため息がもれる。 「……このところ、コンラートとはあまり話ができないようだな」 うん、と頷く。ホントのことだし。 「隊長もかなり殺気立ってきましたよねー。思うように全然進まなくて」 「その上、以前なら上がってこなかった細かい問題まで、次々隊長の元に持ち込まれているようですし」 引き延ばし工作ですね。 おれの後ろでヨザックとクラリスが解説してくれる。 「………おれのせいだよね。おれがシマロンの人達を救ってあげてって言ったから、コンラッド、早く行かなきゃって頑張ってくれてるのに……。でも、おれ……」 自分で命令しておいて、本当に情けないと思うけど。 おれ、コンラッドが戦場へ行かずにここにいることを嬉しいと感じてる。例え顔を合わせることができなくても、それでもコンラッドはここにいるんだから。 コンラッドはおれの願いを叶えようと、今、必死になって仕事をしているのに。 シマロンの人達を救って欲しいという思いと、コンラッドにどこにも行って欲しくないという思いが、同じ強さで綱引きをしてる。……ダメなおれ。 こんないい加減なおれの願いのために。 「………ごめん。コンラッド……」 もうとっくに見えなくなった後ろ姿に謝る。 おれに注がれるグウェンの視線を感じながら、それでもおれはコンラッドが向かっていった道の先を見つめることを止められずにいた。 「……え? グウェン、今、何て……?」 思わずサインの手を止める。おれの前には、普段通り書類から目を逸らさない宰相の横顔。そしてその向い側には、おれと同じように呆気にとられて瞠目している王佐がいる。 「カーベルニコフで花の市が開かれる、と言った」 「…う、うん。それが……」 「元々は花を栽培する農民と業者が集って行われる文字通りの市に過ぎなかったのだが、近年、国情が安定して以来、アニシナの兄のデンシャムが一石二鳥三鳥四鳥を狙って、観光客を引き寄せる盛大な花祭りへと形を変化させたのだ。市という名の展示会はもちろん、新種の花の紹介がされたり、素人園芸家が丹精して咲かせた花々の品評会なども行われている。とにかく眞魔国中の花という花がカーベルニコフに集められるのだ。一見の価値はあるものだと私は思う。………コンラートと二人で、花でも愛でながら少し息抜きをしてこい」 「……グウェン……。で、でも……」 「道程から考えてもせいぜい半月かそこらだ。その程度の遅れでどうにかなることはあるまい。……コンラートもお前も少し思いつめ過ぎだ。今からそのように感情を追い込んでしまっては、後がもたん。もう少し余裕を持て。コンラートには私から話しておく。引き継ぎについても、私がその間、進められることはできるだけ進めておこう」 そこまで言って初めてグウェンがおれを見た。 「せめてそれくらいの時間、二人で過ごせ」 「グウェン……」 相変わらずの冷静な表情で、眉間の皺もいつも通りで、でもおれを見る瞳はとっても優しい。 なんだか泣きたくなってしまう。 おれはホントに……ひとりじゃないんだよな。 「……ありがと。グウェン」 「うっわー、にぎやかだなっ!」 街の建物も通りも、全てがどこかこぢんまりとまとまったその街は、早朝にも関わらず人でごった返していた。 コンラッド、クラリス、そしてヨザックと連れ立って(もちろん前後に距離を置いて、影供の兵隊さん達もいる)、馬の旅を楽しむこと5日間。初めて訪れる街や村、初めて出会う人々、そしてご当地の味を堪能しつつ、おれ達が辿り着いたのは、カーベルニコフ領と魔王直轄地の境界線に沿うようにある小さな街だった。そこで毎年、花の市という名の花祭りが開催されるのだ。 祭りの期間は5日間。行きに5日、祭りに5日、帰りに5日。計15日間が、今回グウェンがおれ達にくれた休暇だった。 各領地の境界にあるといえば、そこはいわゆる「田舎」の代名詞で、その街も山や湖に囲まれた自然の多いのどかな地方都市だ。その自然を活かして、花の栽培が盛んに行われているのだとコンラッドが解説してくれた。 本来なら人口もさほど多くはないその街に、花の市が開催されるその5日間だけ、眞魔国中の花の栽培農家や業者が集まってくるのだという。ついでに観光客も。観光地として有名になったのはそれほど昔のことではないらしく、グウェンの言っていた通り、アニシナさんのお兄さんが戦後の混乱期を過ぎてから、領内を観光地として整備してからだそうだ。 おれ達を迎えてくれた街も人も、すでに祭りの準備を整えていた。 街の建物や並木を飾る色とりどりのリボンや花が目に楽しい。『花祭りにようこそ!』と飾り文字で大きく描かれた横断幕の、空気を孕んでピンと張った様子が、お客さんを迎える街の気合を感じさせてくれる。暗くなったら灯が点されるのだろう、花を象った色とりどりの提灯が通りという通りに吊るされているのも、いかにもお祭りの雰囲気を醸し出していた。 大通りにはぎっしりと露店が並び、ほとんどの店が観光客向けと思われる鉢植えやブーケにした花を売っている。もちろん食べ物や花以外の土産物を売る店もかなりある。花の甘い香りと香ばしい揚げ菓子や焼肉の匂いが混ざり合って、通りは市場特有の複雑怪奇な匂いで満ちていた。でもそこに人々の活気や笑顔というスパイスが加わると、それがなんとも胸をわくわくと湧き立たせるいい匂いに感じられてたまらなくなる。露店大好きなおれの胸も、楽しい予感で騒ぎ始めた。 「待って下さい、ユーリ! ここで逸れたら大変です。俺の手を握っていて下さい!」 思わず人波に飛び込んで行きそうになったおれを、コンラッドが焦ったような声で呼び止めた。 振り返った先でコンラッドが、右手に2頭分の馬の手綱を握り、左手をおれに向かって差し出している。おれと手を繋ぐために差し出されたその手を見ていると、何だか急に嬉しさがこみ上げてきて、おれはがしっとコンラッドの左腕に両手を絡めた。 「うん、大丈夫! 絶対離さないから!」 見上げるおれに、コンラッドがホッとしたような笑みを投げかけてくれる。 「はーい、お二人さーん。こっちですよ〜」 背後に響いた声に振り返ると、ヨザックが立っていた。この旅の間、おれとコンラッドをなるべく2人きりにしようとしてくれてるのか、クラリスと2人、さりげなく離れて(でも護衛としての役目は果たせる程度の距離で)馬を歩かせていた彼が、今すぐ側にいる。 「先ずはお宿に入って落ち着きましょう。クラリスが荷物の搬送班を連れて先に向かってます。街外れですから、この人込みを抜けたらまた馬に乗って下さい。到着したら、旅の垢を落として、それからお食事となっておりますー」 さすが敏腕お庭番。ツアコンやらせても完璧だ。 ちなみに、今回のおれ達の宿泊場所は、フォンカーベルニコ卿の別宅というか出張用のお邸だ。この街の様に重要な観光地には必ず役場とは別に領主直轄の建物があって、緊急の場合は役場に代わって問題の解決や事業の管理運営を行うらしい。おれとコンラッドの2人だけなら街の宿屋で、というのもありだったと思うのだけど、今回は護衛の人数の関係で、そのお邸を借りることとなったわけだ。 おれとコンラッドとヨザックと、それから姿は見えないけど護衛の兵隊さん達とで、馬を引き、人波を縫うように進んでいく。 お祭り初日を迎えた街の人たちの顔は、期待と、そして燃えるような決意に満ちていた。 何を話し合っているのか、露店の前で車座に集まった人たちが突然「おーっ!」と声を上げながら腕を振り上げている光景が、そこかしこで見られたりする。 「……朝もまだ早いっていうのに、皆すごいよねー。あの雄たけびはやっぱり、祭りを成功させようっていう街の人の決意表明なのかな?」 「それにしちゃ気合が入りすぎてる気もするんですけどー。でもまあ、カーベルニコフですしねえ。商売には熱心ですよね」 「どういうこと?」 「ああ、坊ちゃんはカーベルニコフのご領主とはあまり面識がないんでしたっけ。確かにあのお人は、王都についてはアニシナちゃんに全て任せて、ほとんど領外へ出てくるってことがないですからねー」 「アニシナの兄のフォンカーベルニコフ卿デンシャムですよ」 コンラッドが苦笑を浮かべながら説明してくれる。 「ここは元々観光事業で潤ってきたのですが、領主のフォンカーベルニコフ卿は老若男女全てをターゲットにした様々な観光地を領内に満遍なく分散させる事で、1年中観光客を誘致する事に成功したんです。かなりやり手のビジネスマンですよ、彼は。混血に対しての偏見もなく、というか、ビジネスに関わりないことはどうでもいいというタイプで、十貴族の中でも異色の人物ですね。まあ……さすがアニシナの兄というべきかどうか……」 微妙なところなんだな。 「そういえば、グウェンから陛下が花の市にお出かけになるという報せを受けて、さっそくそろばんを弾き始めたそうです。陛下を迎えての新たなイベント案とその経済効果について、ぎっしりと数字が並んだ返事が特急便で届いて面喰らったとグウェンがぼやいてました。お忍びだからと慌てて返事を送ったそうですが、かなり残念がっていたようですよ。せめて噂くらいは流してもいいかと、真面目に書かれた手紙がまた届いたと……」 その時だった。 「本当か!? 魔王陛下がお忍びでこの街においでになるってのは!?」 「おうっ、どうやら本当らしいぞ! 俺の従兄弟の嫁さんの兄貴の昔の女の亭主の知り合いがご領主様のお邸で働いてるんだけどよ」 ……それって見も知らない赤の他人っていわないか? 「そいつが言ってたらしいぜ。魔王陛下がこの市に大変興味を抱かれて、ぜひ見てみたいと仰せになったんだとさ! けど街の者に迷惑を掛けちゃならねえとお忍びでお出かけすることになったってんだから、陛下は立派なお方だよなあ。そう思わねえか、おい?」 全くだと、男の周りを囲む人々から賛同の声が上がった。 「でよ、陛下のお気に召した花を育てた者には、大層なご褒美がでるって話じゃねえか」 「おう! その園芸家ははもちろん、街にもかなりの褒賞が下されるってよ!」 「さすが陛下! 太っ腹だねえ!」 ………ねーよ、そんな予定。 「……しっかりバラまかれてますね、噂」 「フォンカーベルニコフ卿かねえ、やっぱり」 「彼以外あり得ないだろう。あの尾ひれのつけ方が実に彼らしい。たぶんなし崩しに『ご褒美』を国庫からもぎ取るつもりだぞ」 やれやれとコンラッドがため息をつく。 露店の前に集まる人たちの話はまだ続いていた。むしろさらに熱気を帯びていくようだ。 「陛下は王都でもお忍びで市場を歩いたりなさるそうだ。もしかしたら、ここにもお出でになるかもしれんな」 「きっとそうなさるさ! いつ陛下がお見えになってお買い物をなさるか分からんぞ。ご無礼のないよう、それからたんと買い物をしてお楽しみ頂けるよう、俺達も気を張って頑張ろうぜ!」 おうっ! 人々が一斉に腕を振り上げた。……これだったのか。 「陛下は何でも60歳から80歳ほどのお年頃でいらっしゃると……」 その時、ふいに視線を巡らせたその人物とおれの目が、ばっちり合ってしまった。 それまでお喋りしていた人物、それから彼の周りにいた人々が、一斉にじーっとおれを見つめてくる。 「……行きましょうか、ユーリ」 「う、うん。さっさと行こう」 無理矢理顔を逸け、身を縮めるように足早に歩く。 気のせいかなあ、視線が痛い。それも四方八方から見られてるような気がするぞ。 そっか、指名手配犯ってこんな気分に耐えながら逃亡してるもんなんだな。やっぱり犯罪者にならないよう気をつけなくちゃ……っていうか、おれ王様なのに何で指名手配犯……? びみょーな気分に首を傾けながら、おれはコンラッドとヨザックの影に隠れるように通りを急いだ。 そうして、おれとコンラッド(と、ヨザックとクラリスと護衛の兵隊さん達)のカーベルニコフでの一時が始まった。 楽しかった。 街中に花が溢れていて、展示会に品評会、それから即売会と、どの会場を眺めていても飽きない。花を眺めて心が和まないはずもなく、まして隣にはいつもいつでもコンラッドがいる。 誰に遠慮することもなく、共に過ごしていられる。 グウェンとコンラッドとギュンター3人で厳選した護衛の兵隊さん達は、おれとコンラッドの邪魔をしたりせず、ヨザックやクラリス同様暖かく見守ってくれていた。なるべく2人だけでいられるようにと、心を砕いてくれもした。幸せ一杯、夢心地な気分のまま、おれはその時間を心の底から堪能していた。 時々じーっと探るような視線をあちこちから感じて、ちょっと困ってしまうこともあったけど。でも。 「コンラッド、ほら、この花! 花びらが七色のグラデーションになってっぞ! すっげー派手! でも……匂いは何だかお菓子みたいに甘いな」 「え、と……ちょっと待ってくださいね、坊ちゃん。今パンフレットで確認をしますから……。全く、ブースに誰もいないなんて怠慢だと……」 「うわー、花の蜜が溢れてる。うーん、ホントに蜂蜜みたいにいい匂いだなー。……ちょっとだけ舐めてみても……」 「……ああ、あったこれは……え? ハエの駆除用……?」 「………こんらっどー、なんでかなー、花がいきなり閉じてー、おれの指がー……」 「ぼ、坊ちゃん! これ食虫花です! ゆびっ、指、引いて!」 「あー、食べてるー。もぎゅもぎゅって食べられてるー」 楽しくて、楽しくて。 今この時があんまり楽しくて 楽しすぎて。 確実に近づいてくるタイムリミットへの恐怖が、おれの中で大きく育っていく。質量を増していく。 コンラッドやヨザック、そしてクラリス達と、笑ってばかりの三日目を迎える頃には、それは黒々とのたうつ泥水の様に、おれの胸に溢れかえっていた。 容赦なく時間は過ぎていく。 誰の思いも気に留めず、いっそ軽やかなほど確実に滑らかに、時間は刻々と刻まれていく。 今大切にしようと思うこの瞬間は、そう思うその瞬間から過去になる。 「一瞬一瞬を大切に生きよう」なんてカッコ良く言うヤツがいるけれど、ホントはそんな生き方、ちゃんとできる人間なんてどこにもいない。 「一瞬」なんて区切られた時間は存在しない。 大切にできるのは、確実につかまえることができるのは、過ぎていく時間に、でも何もできない自分に、ただ焦ることしかできない自分自身のこの身体だけ。 それでも。 時間に爪を立てることができるなら。 「今」を留めて置くことができるなら。 「ユーリ? どうしました?」 ちょっと心配そうに顔を覗き見るコンラッドに、何ともないよと笑って答える。もー隊長ったら過保護なんだからーと、グリエちゃんのからかう声がする。 「そうですか? ならいいんですが……」 じろ、と背後を一睨みしてから、「朝食にしましょう」とコンラッドがおれをテーブルに誘う。 「今日はどうしますか? 本日のメインイベントは園芸家達が作り上げた新種の花の品評会ですね。見物客の投票で最優秀となった花は、魔王陛下に献上されるという栄誉が与えられるそうですよ。食事を終えたら出かけますか?」 「そうだね。新種の花かあ。聞いたけど、新種の花の開発ってウチの国が一番盛んなんだってな?」 「特に近年人間の国との貿易が盛んになってからはそうですね。種や苗の輸出も順調に伸びているようですよ。しかしまだまだ花を栽培する余裕のある国は少ないようですが」 「育てるなら、やっぱ花より食い物でしょーしねー。ああそういや、旱魃に強い穀物の研究開発ってのも、眞魔国が一番進んでるみたいですよ。これが農業を主な産業にしてる地域と国庫に、莫大な利益と税収を生んでます」 コンラッドとヨザックの話を聞いて、なるほどと納得した。 花を育てるのも、愛でるのも、お腹と心に余裕がなけりゃできないんだ。 花祭りなんてものを開催できるのも、それにたくさんの観光客が集まってくるのも、この国がそれだけ平和で豊かだってことの証明みたいなものだ。 思わずそう口にしたら、コンラッドが蕩けるみたいに優しい笑みを浮かべて、「ユーリが頑張ったおかげですね」と言ってくれた。 一緒にテーブルについていたヨザックとクラリス(最初2人は遠慮したけど、おれ命令で食事もお茶も一緒にしている)は笑って頷いていたけれど、それが違うってことは分かってる。 おれじゃないよ、コンラッド。おれじゃない。 口先ばっかのおれのために、自分がどれだけの傷を背負うことになったか分かってるだろ、コンラッド。 グウェン、ギュンター、コンラッド、ヴォルフ。ツェリ様にアニシナさん、ギーゼラ、ヨザック、クラリス、それからー…。 おれを護って支えてくれるたくさんの人たち。名前すら知らない人たち。おれを信じてついてきてくれる人たち。 今のこの国の平和は、彼らが作った。 おれはそれを知ってる。ちゃんと知ってなきゃならないと思う。 おれじゃない。間違っちゃいけない。 だっておれときたら。 今こうしていても、迷ってばかり。 「コンラッド、あれ、ひまわりだよな!?」 「そうですね、確かに……似てますね、サンフラワーに」 新種の花の品評会会場で、おれ達の目を一番惹いたのは、人の背丈よりもまだ高いあの夏の花。ぴんと真っ直ぐに背を伸ばし、差し込む光に潔いほど堂々と、その大きな顔を向けて咲き誇る「ひまわり」だった。 花瓶に活けられて飾られることを前提とした小ぶりな花や、淡い可憐な色合いの花が多い中で、あのきっぱりとした黄色の存在感は際立っている。それが大きなプランターに何本も並んで咲いている姿は、遠目でもかなり目立っていて、多くの人が足を止め、しげしげと見入っていた。 「うっわー、ひまわりだよー! 何かなっつかしいなー。日本では夏を代表する花だしさ。……そういや、これに似た花って見たことなかったよな」 「確かにこの世界で目にしたことはありませんね。初めてサンフラワーを見たのは……ヨーロッパ大陸を旅してた時だったと思います。見渡す限り一面この花で覆われて、空の青と大地の緑と花の黄色が作り出す光景のあまりの迫力に、圧倒されたのを覚えてますよ。顔を逸らすことなく、真っ直ぐ太陽を見据えて咲き誇る姿が実に堂々としていて、『太陽の花』とはよくつけたものだとしみじみ感心しました」 「それ、地球でも有名な場所だよ。おれもカレンダーで見たことがある。そっかー、コンラッドは直に見たことがあるんだ。それってかなり羨ましいかも……」 話をしながらそのブースに近づいていき、人垣を掻き分けるように前へ出て、おれ達はその花にご対面した。 瑞々しい黄色が鮮やかな花は、高さがちょうどおれの顔くらいに揃っていて、間近で見てもやっぱり「ひまわり」だった。 「……えーと、この花の名前は……」 プランターの前に少し大きめのカードが立てかけられている。そこには出展番号と、それから生産者がつけた名前が……。 「………え……?」 『ミツエモン』 カードには一言、そう書かれていた。 「これは……」 おれの隣でコンラッドも驚いたように言葉を呑んでいる。 「ミツエモン」といえば、お忍び旅行をすることになったおれが、初めて使った偽名だ。 この世界にあるはずのない名前に、どういうことだろう、と、顔を上げた瞬間だった。 出展ブースの内側から、おれをじっと見つめている人と目が合った。 「あ」 おれの様子に気付いたコンラッドも、視線をそこに向けて驚いたように口を開いた。 「……あなた、は……!」 その人、おれよりちょっとだけ年上に見える女の人が、飛び出そうとする声を抑えつける様に口に手を当て、目をでっかく瞠いておれとコンラッドを見つめていた。 「……お姉さん……!」 その人を知っていた。 もうずっと前、グウェンの領内に出かけたとき、市場で知り合った花売りのお姉さんだ。 お爺さんと2人暮らしで、花を育てることにかけてはヴォルテールでも1,2を争う腕なのだと自慢していた。そこでおれとコンラッドは、花畑の作業を手伝わせてもらい、食事をごちそうになったんだ。 そして……お爺さんからとっても大事な言葉を貰った。 ぎくしゃくと、お姉さんが近づいてくる。まるで今にも消えてしまう夢か幻を見ているような顔で。口に手を当てたままで。 「……お久しぶりですね」 コンラッドが優しく穏やかに、ちょっとだけ声を潜めて言った。 「すみません、どうかバレないように自然な感じでお願いします」 さらに小さな声で囁くように言うと、すでに涙目になっていたお姉さんがコクコクと頷いた。それから顔の半分を隠していた手を外すと、呼吸困難になっていたことにようやく気付いた様に、腕を広げ、何度も大きく深呼吸を繰り返した。 ……この時点ですでに「自然な感じ」から逸脱してる気もするけど。 「お久しぶり、お姉さん。また会えて嬉しいです。えっと……お爺さんは?」 「…おっ、おおお、おひさ、おひさしぶ…お久しゅう、ごごござ……っ!」 思い切り舌を噛みながら必死で挨拶しようと声を張り上げるお姉さんに、コンラッドが天を仰いだ。 「じいちゃ……祖父は元気にしております。でもあの、年ですので長旅は無理だと、私と手伝いの者だけがここまでやってまいりました」 お姉さんが落ち着くまでに、さらに深呼吸を10回、水差しの水を飲み干すこと3杯、頬っぺたを両側から張り手で叩いて気合をいれること5回……掛かった。 その間、コンラッドが合図したんだろう、いつの間にかブースのおれ達の周りには、ヨザックとクラリスはもちろん、服装も顔立ちも目つきもいかにも平凡な観光客でありながら、真正面の花よりも周囲に視線を飛ばすことの方が多い男女が集まって、誰も入れない壁を作っていた。 営業妨害されていることに気付かないお姉さんは、おれが魔王だとバレないように、自然な表情、自然な言葉で応対しようと頑張ってくれている。 「この花……お爺さんの新種なんだね。この名前だけど……」 申し訳ありません! お姉さんがいきなりガバッと頭を下げた。 「あの……じいちゃん、祖父が、あのお方は世界の太陽だと、あのお方の光を、太陽を、そのまま花にしたいと言ってこの花を作り上げたんです。でもその、お名前をそのままつけたのではあまりに無礼なので、だからその……あの時、の、お名前を頂きまして、その……」 勝手な事をして、申し訳ありません! またも頭を勢いよく下げるお姉さんの手を思わず取る。お姉さんがびっくりしたように顔を跳ね上げた。 「ありがとう。すっごく嬉しいです。この花、おれ、ものすごく気に入りました。お爺さんに、おれがありがとうって言ってたと伝えてください。もちろん、おれ達この花に投票するよ。ね? コンラッド」 ええ、もちろん、とコンラッドもにこやかに頷いた。 「太陽の花は、そのお方にぴったりだと思いますよ。俺もとても気に入りました」 「この花を、野原や丘いっぱいに咲かせてみたいな。きっと素晴らしいと思うよ」 そうすれば、ヨーロッパ旅行しなくても、自分の国で広大なひまわり畑を眺めることができる。 おれの言葉に、お姉さんが頬を真っ赤に火照らせ、目に涙を盛り上がらせた。 それじゃ、元気で、と別れの挨拶をしてその場を離れようとした時。 「…あの……っ」 呼び止めるお姉さんの声に振り返った。 「あ、あの……うち、花作りのお弟子さんを入れることができるようになったんです。花も私が市場に売りに出なくても、契約した業者の人が来てくれて、花や苗を出荷できるようになりました。忙しい時は手伝いを雇うことも……。じい、祖父が、先の暮らしの憂いもなく、思う存分好きな花を作っていられるのは、全てあのお方のおかげだと毎朝毎晩祈るように口にしています。お弟子さん達にも、感謝の気持ちを忘れるなといつも言い聞かせてます。こんな穏やかな日々を当たり前の様に続けていられる幸せを、その幸福を民に与えてくださるお方の日々のご苦労を、決して忘れてはならないと……」 ありがとうございます。 お姉さんが三度、深々と、静かに、頭を下げた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい
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