その日の昼下がり。 おれはひとりでアオに乗り、肌に柔らかな風が吹く緑の野を進んでいた。 迷子になることを除けば、1人で誰にも相談せずに計画的に城を抜け出すのは、もしかしたら……初めて、かもしれない。 昔はキャリアとテクニック不足で、今は一応「王様の自覚をもった行動」が大事だということで、1人で城の外を出歩くことはせずにいる。 コンラッド、ヴォルフ、ヨザック、村田、そしてクラリス。 いつも誰かが側にいるのが当たり前になってるけど、今は……1人でいたい。 「………心配してるよなぁ」 もしかしなくても。きっと。すでに捜索隊が結成されてるかもしれない。また城内で迷子になったかと考えて。まさか今頃、おれが1人で抜け出すような真似をするとは思わないだろう。 「アオがいないのに気づくまで、だけど……」 後でいっぱいお説教してもらうから。……ごめんな。 大好きな場所に向かう道は、青々とした緑とたくさんの花々に彩られた草原を突っ切るように伸びていて、だから風も、風に乗って流れてくる匂いも、全てが清々しいほど気持が良い。 身体と心が一緒になって深呼吸してる。 目的地の駐車場(駐馬場?)は、ガランとしていた。ま、平日だしな。誰も出て来ないところを見ると、どうやら今日は何も予定が入ってなくて、係の人もお休みらしい。 アオを繋ぎ、そこへ向かう階段をゆっくりと上がる。 そしてまもなく、階段のてっぺんに立つおれの前に広がったのは、この国で最初にできた野球場だ。 おれが即位して間もない頃、コンラッドがおれの誕生日の祝いにと作ってくれたボールパーク。 最初は草野球仕様だったそれが少しづつ少しづつ整備改良されて、今では大リーグ、とは言わないけれど、高校野球の県大会を開催するには十分な設備ができている。 ………この場所を初めて訪れたあの日から……本当に色んなことがあったよなぁ……。 そして目の前の球場、今は誰もいない。 おれはゆっくりとグラウンドに下りていった。 きちんと均された土。消えかけたダイヤモンドのライン。 そこにいるだけで、大地が震えるような歓声が耳に蘇る。魔王ユーリも、渋谷有利も知っている、あの興奮、あの汗、あの声。 ラインに沿ってゆっくりと歩く。 そしておれは。おれの場所に立った。 おれの場所。ホームベースのすぐ後ろ。試合を決めるポジション。 そこに腰を下ろす。固められた土の感触が不思議なほど心地良い。 ここから広がるダイヤモンド。 試合の全てを見通す場所。 ほう、と息をついた。 「………コンラッド……」 コンラッドは、シマロンでし残してきたことがある。コンラッドは分ってる。そんなこと、たぶん村田だってグウェンだって分ってるんだろう。でも誰も口にしない。それよりも、コンラッドがおれの側にいることの方が大事だって判断したんだろう。たぶん。 コンラッドが何をやり残してきたとしても、魔族を滅ぼすための準備を整えつつあった大シマロンが滅んだ事は確かなのだから、もうそれで充分ではないか。 内乱が治まり、その後魔族にとって不都合な政権ができるくらいなら、現在の混乱した状況の方がむしろ都合が良い。 そんな意見があるのも知ってる。 でもそれは、政治の混乱だけで済む問題じゃない。 放ったらかしにされ日ごとに荒廃していく国土で、そこに生きるしかない民がますます苦しみ続けるということなんだ。 ……そんな「都合」の良さ、おれは欲しくない。 おれはどうしたいんだ? 自分で自分の胸に問いかける。おれの中の、飾りも言い訳も取り払った素のままの思いが何なのか。 「おれは……」 おれは。 シマロンの人々を救いたい。 そう思ってる。 シマロンの誰1人として、おれの助けなんか必要じゃないと言ってるとしても、今苦しんでいる人のためにおれにできることがあるなら、それをしたいと思う。 自分が人を救えると思うなんて、思い上がりだと人は言うかもしれない。それはその通りだとおれも思う。 でも、もしその方法が分っているなら。 その方法で救える人がいると分っているなら。それができるのがおれだけなら。 目を背けてはいけないと、思う。やらなきゃならないと思う。じゃないと、おれはきっと後悔する。 魔族と人間の間の溝を埋めて、誤解や偏見を取り除いて、種族の違いからくる蟠りを消して。 そして魔族と人間が共存共栄できるように。 どちらが支配するでも支配されるでもなく、お互いが助け合って、理解しあって、仲良く暮らしていけるように。もう二度と、哀しい戦争が起きないように。 それがおれの願い。魔族の王としての望み。夢。 今ここで遠い国の人々の苦しみから目を逸らしたら。 むりやり理由を見つけて、自分を納得させてしまったら。 おれは、おれの夢を、願いを、そして希望を、自分で踏みつけにしてしまうような気がする。 そしていつか、「王」の資格さえ失う時が来る。 ……そんな気がするといったら、村田は呆れるだろうか。 親切の押し売り、昔誰かが言った「小さな親切大きなお世話」かもしれない、けど。でも……。 元大シマロンという、広大な国土を持つあの国の民が苦しんでいるなら、助けになりたい。 それが切っ掛けになって、その地に生きる人間達が魔族を理解してくれるようになる、かもしれない。 いいや。理解してくれると信じて行動したい。 少なくとも、何もしないよりずっとその可能性は大きくなるだろう? だったら。 今、おれにできることをするべきだ。 おれがシマロンの民のためにできること。 そしていずれは、人間と魔族、皆のためになると信じてすべきこと。 それは……。 ころん、と、その場に寝っ転がってみた。 後頭部に、背中に、お尻に、足に、ほんのりと伝わる土の温もり。 視界には、少しだけくすんだ青い空。太陽は西に傾きかけている。 『優しさだけでは民を護ることも国を護ることもできない』 蘇ったのは、親友の言葉。 『王は、すべき事とすべきでない事、できる事とできない事をはっきりと見極める冷徹な視線と判断力を持たなくてはならない』 それってつまり村田、私情に流されるなってことなんだろ? 王としてすべき事。人間との友好を求め、共存共栄を求めるとするなら尚の事、しなくてはならない事。 例え大きなお世話と言われても、彼らに対して今「魔王」ができることを、すべきと思う事をする。 それがどんなに「おれ」にとって辛いことでも。 自分の理想を叶えようとするならば。 眞魔国の民の現在と未来を背負う者として。 私情に流されず、冷徹に。………おれにはかなり無理があることは分ってる。けど。 それをすることは私情じゃない、と思う。思いたい。信じたい。 もう堂々巡りはやめて。 決断する時だ。 そう思った瞬間、太陽をまともに見てしまって、目に突き刺すみたいな痛みを感じた。 涙が溢れてくる。両腕で目を覆った。 ………言っとくけどこれは……… 「どうしてこんな場所で泣いておられるのですか?」 「………泣いてない。上向いたら、太陽がまともに目に入って……光が目に沁みたんだよ!」 「……そうですか。ではそろそろ起き上がって下さい。帰りますよ」 目を覆ったままの腕を外して開けた視界に、覗き込むコンラッドの顔があった。 …………怒ってる? 「怒っていますよ、もちろん。久し振りに心臓を掴まれる思いをしました。グウェンも怒り心頭です。お仕置きを覚悟しておいて下さい」 あー……ホントに怒ってるな。庇う気、さらさらなさそうな雰囲気。 よいしょ、と起き上がったら、コンラッドがおれより早く、ぱたぱたと背中やお尻を叩いてくれた。 ……ちょっと痛いのは、まあ仕方がないんだろうな。 「コンラッド」 「はい」 「戻ったら、皆を執務室に集めてくれ。……話がある」 コンラッドがふっと顔をあげた。 ほんのわずか、おれを凝視する。おれの目を真直ぐ見つめるコンラッドの目を、おれも見返す。 「……分かりました」 グラウンドから観覧席に上がり、それから駐馬場へ下りる階段口で、おれは後ろを振り返った。 夕刻と呼ぶには、時はわずかに早くて。 斜めに降り注ぐ陽の光。ほんの少しだけ色を変えた風景。 「ユーリ?」 声に顔を向ければ、間もなく夕陽に変わろうとする微妙な頃合の光を緩やかに浴びて、コンラッドがおれを見ている。 もう一度、グラウンドに身体を向ける。 おれの、大切な大切な場所。ダイヤモンドのラインを目で追えば、その先にあるのはホームベース。 おれのポジション。おれが試合を決める位置。 「……うん。決めた」 城に戻り、執務室に入るとほぼ同時に、グウェン、ギュンター、ヴォルフラム、村田、そしてクラリスがやってきた。 そして誰より先に宰相が、眉間の皺を深くして、眦を釣り上がらせ、おれに向かって大股で迫ってきた。きりきりと噛み締めたように強ばった唇が、怒鳴り声を上げようと口を開きかけた瞬間。 ふと、おれを見るその青い瞳が訝し気に瞬き、開きかけた口が閉ざされた。 そしてそのままじっとおれを、探るように見つめてくる。 「……兄上……?」 グウェンの背後から、ヴォルフの不思議そうな声。 それから集まった全員が、無言のままでおれに視線を集中させたきた。たぶん、おれの背を護るコンラッドも同じだろう。 皆の視線をばしばし感じながら、おれは執務机に向かった。コンラッドがすぐに椅子を引き、おれが腰を下ろすと同時に椅子が差し出される。タイミングはばっちり、微塵のズレもなく、おれはぴたりと席に納まった。そのまま顔を上げると、全員が机を囲むように集まってくる。 そしておれの言葉を待っている。 「……決めた事がある。皆に協力してもらいたい。……コンラッド」 はい、と答えてコンラッドが、いつもならおれの傍で話をするのに、今日に限って机を回りおれの真正面に立った。 身上げると、静かに視線を返してくる。だからおれは、うん、と一つ、頷いた。 「コンラッド……ウェラー卿に……」 決意して開いた口なのに、喉が急に震えて、口の中が一気に乾いて、声が出なくなった。 「どうした? 何だというのだ、ユーリ?」 ヴォルフが苛ついたように言う。 コンラッドはただ静かに待っている。 しっかりしろ、おれ。 おれは王だ。おれは肩と背中に民の今と未来を乗せ、掌に命を握っている。 おれの決断は民や臣下の命を左右する。 おれの決断でおれの命が危うくなるなら、それは自業自得。でも、その時失われるのは決しておれの命じゃない。それはまず間違いなく、おれに忠義を貫いてくれる臣下のものだ。 考えなしに安直な結論に走り、それを口にすれば、最悪命が失われる。国も危うくなる。 決断は、そしてそれを魔王自身の口から発する事は、くれぐれもくれぐれも慎重に。 しかし、それが真に必要な決断であるならば。 必要であると、魔王が判断するならば。 例え、大切な命が失われる可能性があるとしても、迷っては、いけない。 おれの口から、王の口から、はっきりとその決断を言葉にしなくてはならない。 誰かに重荷を押し付けることなく。 そうして、一旦自分が口にした言葉に責任を持つ。 それが王のつとめ。 だから。 「…………ウェラー卿コンラート。あなたに……もう一度、シマロンへ、行ってもらいたい」 「バカなことを言うなっ、ユーリ!!」 ヴォルフが叫ぶ。そのまま掴み掛かるかのように飛び出してくる弟の身体を、コンラッドの腕が遮る。 「コンラート!?」 「それは」 いきり立つ弟を無視するように、視線をおれに固定したまま、コンラッドが問いかけてきた。 「魔王陛下の、ご命令ですか?」 「そうだ」 頷いて、もう一度深く呼吸をした。 「もう一度シマロンへ行き、新生共和軍を率いて、大シマロンに対する反乱を完全に終わらせて欲しい。そして、眞魔国との友好を真剣に、前向きに進めてくれる新たな政権が成立するよう、力を尽くしてきてもらいたい。そして……」 「……そして?」 胸の奥から、抗いようもなくこみ上げてくる波が、胸に溢れて喉を迫り上がり、頭の中いっぱいに渦巻く。 今にも溢れ出そうな涙を止めるためにぎゅっと目を瞑り、口から飛び出そうとする取り消しの言葉を押し殺すために歯を食いしばり、もうどうしようもなくて、おれは顔を伏せて襲ってくる衝動に耐えた。 最後まで、がんばれ、おれ。 「……必ず……生きて、帰ってきて、欲しい。………おれの側に………」 「拝命仕りました」 思わず顔を上げ、目を瞠いたその先には、おれに向かって敬礼するコンラッド。 「何をあっさり……っ! 何を考えているんだっ、コンラート!!」 今度は兄に向かい、顔中を口にしてがなり立てるヴォルフ。 「何を考えているもなにも」 コンラッドの声はどこまでも平静だ。 「魔王陛下の臣下として、陛下の御命令に従うのは当然のことだろう」 「そういう問題かーっ!」 ユーリ!! 食い付かんばかりの形相でコンラッドに迫っていたそのままの勢いで、ヴォルフの顔がおれに向けられた。 「友好国でもない、ろくに知りもしない、まして魔族を忌み嫌っている国のためにっ、お前はコンラートを死ぬかもしれない戦場へ送り込むつもりかっ!? 万一コンラートの身に何か起きても、それでもお前は構わないとでも言うつもりかっ!?」 ひくうっ、とおれの喉が音を立てた。 しゃくり上げた途端に、目の奥で渦巻いていたものが一気に溢れてくる。熱くなった眼球とぼやけ始めた視界に、おれは咄嗟に閉じた目蓋にぎゅうっと力を込めた。 「渋谷」 親友のおれを呼ぶ声には気づいたけれど、すぐには顔を上げられない。 「僕達の総意は、ちゃんと検討してくれたんだろうね?」 ぎゅっと目を閉じ、唇を噛み締めたまま、おれはコクッと頷いた。 「それでも君は、その決断をするのか」 噛み締め過ぎて痺れた唇から一生懸命力を抜いて、ごくんと唾を飲みこみ、それから大きく息をつく。 そしてお腹に力を込め、おれは顔を上げ、目を開いた。 潤んだ目をぱしぱしと瞬かせると、水気が零れて視界が開ける。 見渡せば、おれの大切な仲間達が、それぞれ思いを込めた表情を顔に乗せ、揃っておれを見つめていた。 「シマロンの民がおれの助けを求めていない事は分ってる。魔族を嫌ってることも……。友好国でもない国の混乱に、魔王が介入する必要がないどころか、反って混乱を巻き起こしかねないことも。でも、おれ……」 それだけの言葉で、もう喉が乾いてしまう。無理矢理唾を飲み込んで、もう一度口を開く。 「おれ……魔族と人間が、平和な世界で仲良く暮らしていけるように、共存共栄できるように……魔王として努力していきたいと、思ってる。そのためにおれができることを頑張っていこうって……」 何年掛かっても。おれの代で達成されなくても、せめてその希望を次にバトンタッチできるように。 「コンラッドが先頭に立って始めた反乱のおかげで、戦争を起こそうとしていた大シマロンは倒された。人間対魔族の、下手をしたら世界大戦になっていたかもしれない戦争は避けられた。でも、シマロンの地では戦闘が続いている。今の状態は……新生共和軍も大シマロンの残党も、それから巻き込まれた民も、皆が傷ついたまま袋小路に追い詰められて、出口が見えずに喘いでいる。そんな……感じに思うんだ。だからつまり……」 戦争は避けられたけど、平和になったわけじゃ、ない、よね? 言って、ちら、と見上げると、全員がおれの言葉に真剣に耳を傾けてくれているのが分った。 「……大シマロンは、いくつもの国を滅ぼして飲み込んで巨大になった国だ。そんなでっかい国土で続く戦乱は、人間の他の国々にもきっと影響があるだろう、と思う。シマロンから始まった混乱は、人間の他の国の政治や、それから、人心っていうのかな、とにかく色んなものを不安定にさせていくと、思う。どの国だって、あんな大国の混乱を無視していけるはずないもんな」 自分達の国で反乱が起きないように、民の締め付けを計る王様がいるかもしれない。逆に、大シマロン相手にできるなら自分達だってと、反乱を起こそうとするどこかの国の民がいるかもしれない。 小シマロンのように、それを利用しようと動く政治家もいるかもしれない。武器商人やテロリストの暗躍なんかも……あったりするかもしれない。 「……人間の国が不安定になったり、平和から程遠い変化が起こったりしたら、それは魔族にとっても決して良いことにはならないはずだろ? だからおれとしては、その……魔族と人間の友好と平和と共存共栄を求める魔王としては、魔族と人間の未来のためにも……」 シマロンの地に、本当の平和がくるよう、力を尽くすべきだと……。 「お、思うん、です、けど……」 根っから小心者の魔王は、ラストをきっちりキメることができません。 な、情けない、かも……。 でもこういうのは本来村田の得意技であって、おれには無理があるんだよな。 「だからコンラートをシマロンへ送る、と?」 グウェンの低音が胸に重い。 うん、と頷いてから、おれはグウェンの顔を見上げた。 「おれさ、思い出したんだけど、ずっと前、コンラッドがもうすぐ帰ってくるって教えてくれたあの時、グウェンが説明してくれたよね? どうしてコンラッドが大シマロンへ行ったのか。その時にグウェン、こう言ったよ? 反乱を成功させるためには、求心力のあるリーダーが必要だったって。そしてそれができたのは、ベラール王家の血を引くコンラッドだけだった、って」 おれの言葉に、グウェンがぎゅうっと眉を顰める。しまったって思ってるのかもしれない。 「バラバラになった新生共和軍の指導部をもう一度まとめることができるのは、コンラッドだけだ。血筋もそうだけど、たくさんの人が王様になって欲しいって願った程の実績と人望があるんだからな。クーちゃんやバーちゃんを見てても、コンラッドがどれだけ皆の信頼を勝ち得てたかよく分かるよ……。ねえ、コンラッド。コンラッドは」 コンラッドの、静かで迷いの全然見えない瞳が、何だか眩しい。 「大シマロンを倒したら、魔族に友好的な政権を作るつもりだったんだろう? 本当はそれをしてから戻ってくるつもりだったんだろう? もし……王様になって欲しいって言われたりしなければ……」 しばらく無言でいてから、コンラッドが小さく頷いた。 「……ええ、そうですね。……魔族との友好を考えて欲しいと、それが叶う事こそ俺のような混血の夢だと、そう口にし続けてきました。実際にその時がきたら、どれだけ実現に向かうかは疑問でしたが……」 「それでも、コンラッドがそのつもりで動けば、ずっと希望の持てる政権ができてたと思うよ。これからだって……。ほら、何て言ったっけ? えっと、だーど、老師だっけ? 神官で法術師なのに、魔族のことをすごく理解してくれてる人。コンラッドがいることで、そういう人が1人でも多くなってくれれば、そんな人達が協力しあって新しい国を造っていければ、世界は本当の平和に向かって確実に進んでいけると思う。やっぱり……それができるのは……コンラッドしかいないと思う……。だからコンラッド」 魔族と人間とこの世界の未来のために。 「もう一度、シマロンへ行って下さい」 沈黙が、ひどく長く部屋を覆っていた。 緊張して、椅子の上で縮こまってしまったおれの耳に、ほうっという誰かがついたため息が聞こえてきた。 「突っ込みどころは満載だし、しようと思えば、今すぐ幾らでも論破できるんだけどね」 ……そうでしょうねー、村田様。お前を言葉で降参させることなんて、端から期待してないよ。 「それでもまあ、君が自分でそこまで考えて、自分で結論を出したというその事実を、僕は悦ばしく思うべき、なんだろうねえ」 どこか、やれやれという感じで村田が小さく息をついた。 「そして君は」 村田の視線がコンラッドに向く。 「行くんだね、シマロンに」 「はい、猊下」コンラッドが間髪入れずに答えた。「陛下の御命令ですから。魔族と人間の未来のために、俺でなくてはできないと陛下に見込んで頂きました上は、必ずやこの使命を果たして参ろうと存じます」 村田ではなくおれを見つめたまま、コンラッドが堅苦しく答える。そのコンラッドを横からじっと見つめて、今度こそ本当に「やれやれ」と言葉にすると、村田はおれに顔を向けた。 「しぶ……陛下のご決断に、僕は賛意を表する。この後は、ウェラー卿が無事にその使命を果たし、そして帰国できるよう、準備と支援に全力を尽くす事としよう」 「………村田ぁ……」 思わず親友の名を、しみじみ呼んでしまう。 その時、グウェンが深く長く大きくため息をついた。 「……グウェン……」 見上げると、グウェンはきつく、どこか苦し気に目を閉じていた。 「……グウェン」 2度目の呼び掛けでようやく目を開き、顔をおれに向ける。いつも通りの冷静な宰相の顔。 「陛下のご決断、了解した。すぐに情報を集め、準備に入ろう」 「兄上!」 ヴォルフが怒鳴る。 「兄上まで何を仰るのですかっ!? ……僕はイヤです! 納得できません! ユーリっ、お前は……!」 「ヴォルフラム!!」 びいんと響くグウェンの声に、ヴォルフが、ついでにおれも、びくんっとなって背を伸ばした。 「……魔王陛下のご決断であり、ご命令だ。正式な命が下された以上、それに従うのが我らの努めだ。……我々が陛下の臣であることを忘れるな」 ぐ、と詰まって、それから唇を、そして握った拳を、わなわなと震わせて、ヴォルフが二人の兄を、仲間達を順繰りに睨み据えていく。 その視線がおれに巡ってきた瞬間、襲ってきた申し訳なさに、おれは思わず目を伏せた。 「ヴォルフ」 弟の名を呼ぶコンラッドの声。 「俺は大丈夫だ。……絶対に生きて帰ってくるから」 ありがとう、と呟くような声に、ヴォルフの噛み締めた唇から押え切れない声が漏れる。 「必ず」 今度は同じ声が、おれに向けられる。その声が、優しく耳に滑り込む。 「帰ってきます」 それが限界だった。 頭の中で何かが音を立てて弾けて、涙と、唸るような声、というより音、が、おれの中から溢れだしてくる。 「〜〜〜〜……っ!」 たまらず、机の上に突っ伏す。 机の表面に、立たない爪を立てる。 そうして我慢しようと頑張るのに、身体が震えるのが止められない。 「陛下」と、たぶんギュンターだろう、どこか痛まし気な声がするけれど、顔を上げることもできない。 決断を下したのはおれだ。命令を出したのもおれだ。おれが泣いてどうする。 なのに……。 ふいに。 背中に誰かの掌が当てられた。 そしてまた誰かの掌が、背中の別の場所に、別の角度でそっと触れてくる。そしてまた誰かの……。 大きさも、押し当ててくる強さも、それぞれ違う掌がおれの背中を覆う。 そして最後の掌は。 かなりの時間を置いて、おずおずと、ゆっくりと、迷うようにおれの背中に触れ、そして一旦触れた後は、ぐっと押し当てられたその掌には、誰より強い力が込められていた。 誰も何も言わず、背を覆う掌は動く事もなく、おれの涙と震えを吸い取ろうとするかのように、ただ温もりだけをおれに伝えてくれていた。 「………怒ってる……?」 夜、またベランダに立っていたおれの背後に近づいてくる気配に、振り返らないままそう尋ねた。 「どうしてですか?」 「…………相談もせずに勝手に決めて、命令、なんかしたし……」 「猊下も仰せになっておいでだったでしょう? あなたがご自分で考えて、ご自分で出された結論です。尊重されて然るべきであり、むしろ、あなたが立派に成長なさっておいでになる証拠と考えるべきでしょう」 「……そんな風に……」 「何ですか?」 おれは振り返ってコンラッドを見上げた。 いつも通り穏やかな表情で、静かにおれを見下ろしている。 「………さっきもそうだったけど……何か……態度も言葉も、堅苦しいっていうか……つ、冷たいって……いうか……」 声が先細りになっていく。コンラッドに冷たくされるのは辛い。 おれをじっと見つめていたコンラッドの表情が、ふっと小さく歪むように変化した。 「……そのようなことを……」 そう言うと、その表情はそのまま苦笑に変わった。 「仕方がないでしょう? あなたの側からまた離れなくてはならなくなったのです。少しくらい……拗ねたって……」 え? とまじまじと顔を見つめると、苦笑がさらに深くなった。 「それに、自分をあなたの臣下としてしっかり保っておかないと、かなりマズい状態になりそうだったんです」 「……まずい?」 ええ、とコンラッドがくすっと笑った。 「泣き出してしまいそうだったんです」 きょとんと見上げれば、苦笑したままのコンラッドがいる。 「あなたとまた離れ離れになるんだと思うと、あの場でおいおい泣いてしまいそうになりました。だから精一杯虚勢を張ってたんですよ」 「……コンラッドが?」 「はい」 「おれと会えないから…泣くの?」 「泣きますよ。寂しくて」 その言葉が嬉しくて、でもその意味を思えば切なくて、哀しくて。 「………おれも…泣くよ。きっと無茶苦茶…寂しくて」 「俺と一緒にいたいと、思って下さってるんですよね?」 うん、と大きく頷く。だんだん喉が詰まってきて、声を出すのが辛くなってきた。 「俺もです。あなたと共に過ごすことだけが俺の唯一の望みです。でも……」 うん。でも。 「おれは……コンラッドに、シマロンに行ってほしいと……思ってる」 はい、とコンラッドが頷いた。 「シマロンに行きます。行って、なすべきことをして帰ってきます」 「………怒ってる?」 繰り返した質問に、コンラッドがゆっくりと首を左右に振った。 「おれが望んだから? 魔王の命令だから?」 「ユーリが、決断し、俺に望んでくれたことだからです」 魔王だから、とは言わないでくれた。 「それと……そうですね」 「……?」 下から瞳を覗き込むおれに、コンラッドがにっこりと笑いかける。 「おれがシマロンへ再び向かう事が、魔族と人間の共存共栄という未来のために必要なのだという魔王陛下のご決断が、真実正しいものであった事を後の世に証明するために」 俺はシマロンに行きます。 他の誰のためでもなく、ましてシマロンの民のためでもなく、ただただおれのために。 おれは間違っていなかったと、いずれ皆が納得するように。 王としてのおれの立場をさらに固めるために。 コンラッドはいつもいつもそうやって……。 ほんとは間違ってるかもしれないのに。 おれ自身は、いつもいつも不安で仕方がないのに。 コンラッドはそんなおれをとことん護って支えてくれる。 大きな人。本当に大きくて、広くて、深い愛情でおれを包んでくれる人。 「コンラッド…! お、おれ……っ」 「もう泣くのは止めて下さい」 コンラッドの節くれ立った指が、おれの眦をそっと掬うように撫でる。 その笑みはいつも通りに優しい。 「コ、コンラ……ッド……」 喉が今度こそ詰まって、呼吸をしようとしたらいきなりヒクっとしゃくり上げてしまい、我慢できず、そのままおれはコンラッドの胸の中に飛び込んだ。 「側にいたいよっ。離れ離れはもうイヤだ! どこにも行かないでおれのそばにいて! どこにも…行かないで……おれの、おれだけのそばに……っ!」 わうわう泣きながら胸にしがみつくおれの背中を、コンラッドがあやすようにぽんぽんと掌を弾ませる。 そして、ぎゅっと抱き締めてくれた。 おれの涙を吸い取るみたいにぎゅっと。 「ユーリ」 コンラッドの胸の中で、やがて少しづつ呼吸が治まり、涙が止まり、胸の温もりが分かるようになってくると、だんだん恥ずかしさがこみ上げてきた。 おれって、ホントに情けないやつだ。 「……落ち着いた?」 頭を撫でながら、コンラッドが囁いてくれる。うん、と頷いて息を吸ったら、喉と鼻が変な音を立てた。 「…………ご、ごめん」 何だかいろいろと……赤ん坊みたいで恥ずかしい……。 一生懸命呼吸を整えて、それから抱き締められたまま顔を上げる。 「………コンラッド」 「はい」 「シマロンへ……行って。そして、そこにいる人達を助けてあげて。そして……絶対絶対、帰ってきて……! おれの側に……!」 服にしがみついてそう言ったおれをしばらくじっと見つめてから、コンラッドは突然、おれの首元にぎゅっと額を押し付けてきた。 「ええ、ユーリ。必ず……!」 翌日から、コンラッドが再びシマロンへ向かうための準備が開始された。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい
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