それからしばらくは、何事もない日々が続いた。……少なくとも、表面的には。 少し違う事といえば、おれの仕事が一気に増えたことだろうか。 書類はなぜか倍増し、謁見も会議も数が増え、何というかー……謁見のない日は会議が増え、会議のない日は謁見が増えた。ついでにギュンターの授業も増えた。 サイン、サイン、勉強、サイン、謁見、会議、勉強、謁見、サインサイン………。 とにかくもう目まぐるしくて、一日が終わる頃にはもう目の焦点が合わなくなる程疲れてしまう。 お風呂のお湯に浸かっていると、あまりの気持の良さに意識が飛んで、湯舟の中で溺死しそうになったこともある。以来、おれの入浴にはコンラッド……だけじゃなく、ヴォルフも村田も一緒になって入るようになってしまった。 おかげで、シマロンで戦っている人達の事を考えずに済んでいる。 ああ、そうか、とようやく皆の気遣いに気がついたのはしばらく経ってからだった。 おれが去っていった彼らの残した宿題に思い悩むことのないよう、そんな暇を作らないよう、おれを仕事漬けにしてたわけだ。 ………お礼を言うべきなのかな、これは……? 近頃では朝のロードワークも辛くなってしまった。キャッチボールもできない。こうなるとちょっと問題だろうと思うんだけどなあ。 村田とグウェンに何か言い含められているのか、それとも考えがあるのか、コンラッドも脱走させてくれないし……。 こんなだから、夜更かしなんて全然できない。もちろん、1人でじっくり考え事をする事も。 彼らが帰ってから、夜は必ずコンラッドとクラリスがおれの寝室に詰めて、おれが眠りにつくまでずっと側にいてくれるようになった。これまでだったらコンラッドだけだったんだろうけれど、やっぱり色々人の目が煩いというか、問題が起きかねないので、クラリスが常にコンラッドと一緒に行動している。 お風呂から上がってきたら、果汁の香りのする冷たい水で水分補給をして、それから寝る前には香料入りの暖かいミルクを飲む。 疲れているからか、それとも香料に誘眠作用でもあるのか、飲み終わる頃にはすうっと眠気がさしてくる。 「今日もお疲れ様でした。ゆっくり休んで下さいね」 ベッドの傍に座って、おれの毛布を直しながらコンラッドが優しく囁いてくれる。 そして髪を撫でる手の感触にうっとりする間もなく、おれは眠りに落ちる。 日々は何事もなく過ぎて、皆、クーちゃんとバーちゃんのことを忘れたように、最初からあの二人なんかいなかったように振る舞っている。コンラッドまでも。 それが全部おれのためだってことは分かってる。 おれが悩んで苦しんだりしないように。 皆のこの優しさをありがたく受け取って、このまま、なし崩しに何もなかったことにしてしまえれば。 どんなに楽になるだろう。 でも、それは……。 「……それじゃ、ダメなんだよな……」 それでは、おれの決断に全てを任せて、戦場へ帰っていったあの人達に申し訳がなさ過ぎる。 例えおれの出す結論が、結局彼らの思いを踏みにじるものになったとしても。 それはやっぱり。 「おれが、ちゃんと考えて出す結論じゃなきゃ……」 意味がない、だろう? だから。 「皆に話があるんだ」 そう声を上げたのは、執務室でサイン待ちの書類の山に囲まれていた時だった。 自分で考えて結論を出そうとおれなりに決心したんだけど、よく考えなくてもおれってば普段からあんまり……かなり考えなしに行動する方だし、元々思い悩むのに向いてないというか、1人で筋道立てて考えるのにはちょっとばかし無理があるかも? と気づいた訳だ。今さらだけど。 でもって、こういう時こそしっかりと側近の意見を聞かなきゃダメなんだよな? とようやく思い至ったというか……ホントに今さらなんだけど。 ただまあ……おれにあんまりこの事を考えさせないようにしようとする段階で、出てくる答えは分かるような気もするんだけどもなー……。 おれが何を言おうとしてるのか最初から分かってたみたいに、その場にいた全員─グウェン、ギュンター、コンラッド、ヴォルフ、村田、そしてクラリス─の動きがぴたりと止まった。 そしてそのまま、おれの表情を探るようにじっとおれを見つめている。 「……このまま結論も出さずにいるのはよくないと思うんだ。……皆の気持はありがたいけど、でも……おれ、ちゃんと考えてあの人達への答えを出したいと思う」 「お前の言う結論というのは」グウェンが低い声で言う。「コンラートを戦場へ送るかどうか、ということか?」 瞬間、ずきりと胸が痛んだ。 「コンラッドを……」 息が急に苦しくなって、出た声はほとんど喘いでいるみたいだった。 「戦場へ行かせたくなんかないよ……!」 「だったら」ヴォルフの声がひどく冷たく聞こえる。「考えるまでもない。答えはもうでている」 「ねえ、渋谷」 村田が優しくすら聞こえる声でおれを呼んだ。 「前にも言ったけど、君は大シマロン、というか、新生共和軍、だっけ? まあとにかく、彼らやその地に生きる民に対して何の責任も負ってはいないんだよ? シマロンの地がどうなっていくかは、そこに生きる人々がどう行動するかによって決まるんだし、決めなくちゃならないんだ。それに、あの二人も言っていたように、あちらの人々は魔族に対して強い偏見を抱いている。彼らは魔王の干渉を端から望んではいない。望まれてもいない援助をするかどうか、どうして悩む必要があるんだい?」 「……で、でもクーちゃん達は……」 「彼らが望んだのは、ウェラー卿にもう一度新生共和軍の指揮を取って欲しいということだ。しかしウェラー卿にはもうその意志はない。何度も言ってるけど、ウェラー卿が大シマロンの反乱を指揮したのは、眞魔国、そして魔王陛下のための潜入工作任務でしかなかったんだからね。そうだろ? ウェラー卿」 「猊下の仰せの通りです」 何の迷いもなくコンラッドが頷く。 「それに、フォンヴォルテール卿の言う通り」村田の言葉が続く。「あの二人の願いを叶えるということは、すなわちウェラー卿を戦場に送るということだよ? 命を落とすかもしれない最前線に、君はウェラー卿に行けと命じるつもりかい?」 「そ、そんな、こと……」 できるわけない。 コンラッドと離れ離れになるだけでも耐えられないのに、行き先が戦場だなんて。 それも、おれの命令で……! 「……勝手な思い込みでこの国に乗り込んできたあの二人が、それでも魔族に対して考えを改めてくれたことは良いことだったね。例え命を落とすことになっても君を護ると誓った、あの時の二人の思いは本物だった」 どう答える事もできないまま視線を伏せてしまったおれを慰めるように、村田は優しい声で言った。 「一旦懐に入れてしまった者を、君がとことん大切にすることは分かっている。友人だと思えばなおさらね。でも渋谷、ウェラー卿を戦場へ送るということ以外、今君が彼らに対してできることは何もないんだよ。僕は君がそれに耐えられるとは思えない」 「そして私も」 続けてグウェンも、感情を感じさせない、でも、決意を込めた口調で言った。 「前回のような大義もなく、コンラートを再び、たった1人で命を落とすかもしれない危険な場所に送るつもりはない。この国の宰相としても。そして」 コンラートの兄としても。 グウェンの思いに胸を突かれて、おれは思わず顔を上げ、無表情で書類を捲る宰相を見つめた。 ただ1人、最初から全てを知っていたグウェンが、弟に重荷を背負わすことをどれだけ辛く思っていたか。 そして、そのことをどれだけ後悔しているか。 「……ごめん、グウェン……」 おれがもっとしっかりした王様だったら。 コンラッドにもグウェンにも、あんな辛い思いをさせなかったのに。 「何を謝っている?」 眉間の皺を深くして、グウェンがじろりと横目でおれを睨んだ。 「……陛下」 呼ばれて見上げれば、コンラッドの穏やかな微笑みがあった。 「ユーリ」 珍しく、おれが訂正を求める前に呼び直すと、コンラッドは腕を伸ばして、おれの頭にそっとその大きな掌を乗せた。そのまま髪を梳くように撫でられて、なぜかおれの胸の中でぐるんぐるんと渦巻くものが急にその勢いを増した。 「……おれ……」 もう声が潤んでいる。近頃涙腺緩み過ぎだろ?、おれ。 「……コンラッドに……危ないトコに行って欲しくなんかない、よ……? 離れ離れになるのも、もう、イヤ、だし……。コンラッドには、ずっと、おれの側にいて、欲しい、し……。でも……」 『俺達の国もな。親をなくした子供や連れ合いをなくした女房達が、それこそ毎日毎日山の様に生み出されてる。今この瞬間にもだ。そいつらは皆、地べたに這い蹲って、やっとの思いで息をしてる状態だ。どうにかしてやりたくても……シマロンとの戦争を終わらせなけりゃ、どうにもできねぇんだよなあ……』 戦争で荒れ果てた大地で、息も絶え絶えに苦しんでいる人々がいる。 『陛下!』 クーちゃんの声が耳に蘇る。 『……どうか、シマロンの民にもあの花火の輝きをお与え下さい……!』 「………戦争が長引いて、民達が苦しんでいる。苦しんで、救いを求めてる……。おれに……あんなに必死になって願っていた……。苦しんでいる人達を救えるなら、おれにできることなら、したいと……思ってる。でも……でも……その願いは……おれからコンラッドを引き離すことで、コンラッドを危険な場所に送ることで……。助けたいんだ。辛い思いをしてる人がいるなら、助けたい……! でもできない! そんなこと、おれにはできない! でもおれ……」 どうしよう、コンラッド……! おれは思わずコンラッドの腕に縋り付いた。 「……おれ、どちらの決断もできなくて、どうしていいか分からなくて……どうしよう……おれ、どうしたらいいんだろう……!」 「ユーリ!」 コンラッドがぎゅっとおれを抱き締めてくれた。 コンラッドの身体の確かな感触は、きりきり舞いしながらどこかに飛び出してしまいそうなおれの魂を、がっちりと受け止めてくれる。 「………コンラッドを送りだす以外に……何かできることはないのかな……?」 「ないよ、渋谷。ないんだ」 親友の声が意外なほど近くで聞こえる。おれを抱き締めるコンラッドの両腕とは別の掌が、そっと優しくおれの背を撫でた。 「………助けたいよ。でも……できないよ……」 「……こんなことになるなら、やっぱりあの時あいつらを膾に切って海へバラ撒いておくのだった…!」 「まったくです。どうしてそうなさらなかったのですか? 閣下もかなり甘っちょろい方ですね」 耳に流れ込んでくる声。おれを包む温もり。 荒廃した大地がある。そこに生きるしかない民がいる。 おれの国は平和で豊かで、この国でおれは、優しく有能な仲間に恵まれた王様でいられる。 この幸運に、この豊かさと暖かさに、ただ浸っていていいはずがない。 そう思う。のに。 結局、何度その話になっても同じ場所をぐるぐる回っているような状態で、日々は過ぎていった。 そしておれの胸の中では穏やかとはとてもいえない波が、大きくなったり小さくなったり、時には渦巻いたりしながら胸を内側から叩き続けている。 「おまえはこの国の王だぞ! おまえの仕事はこの国とこの国の民を護り支えることだ。それなのに……! どうしてお前はいつもいつもそうやって何の関係もない他人のために必死になるんだ?」 ヴォルフが呆れたように声を上げる。 「いつもいつもって……。ただおれは目の前で助けを求めている人がいたら、それを放っとくことはできないって言ってるだけで……」 「確かにあの二人はお前に助けを求めたかもしれないがな。しかし、もう何度も言っただろう? あの二人は新生共和軍とやらを代表している訳ではない。ただ単にコンラートを探しに来た元副官というだけの存在だ。向こうの者達がこぞってお前に救いを求めた訳ではないんだ。それどころか、魔王はコンラートを殺そうとしていると信じているのだからな!」 「それは単に誤解してるだけでー……。でも、シマロンの人達が皆、コンラッドに戻ってきて欲しいって思ってる事は確かだろ?」 それだって、どうだか分かるものか! ヴォルフがそう言って、ぷいと立ち上がった。 今日も陽射しが暖かくて、おれ達は執務の合間の休憩時感を、部屋の外のテラスで過ごしていた。 おれの前のテーブルの上には、クラリスが運んできてくれたお菓子とお茶がある。 空は青く澄んで、ぽっかりと浮かんだ雲が天空をのんびりと移動している。 眞魔国は今日も平和だ。こうしていると世界の色々な所で大地の崩壊が進んでいるとか、戦争が続いているとかが、本当のことかと疑いたくなってくる。 「あの二人はコンラートの副官だった」ヴォルフが続けて言った。「だからコンラートを求めるのは当然のことだ。コンラートを自分達の王にと望むのもな。だが大賢者も言っていただろう? コンラートがシマロンの王位につくことを良しとしない者達も多くいたのだと。新生共和軍の指導部では、大勢を理解できぬ愚か者共が勢力争いを激しくさせている。コンラートを求めるというのも、結局はその争いの上のこと、自分達の立場を強くしようとしてのものでしかない可能性だってある!」 「……ク−ちゃん達は……それはないと思うけど……」 「分かるものか!」 そりゃ分からないけど……でも。 クーちゃんとバーちゃんと権力争いって、どうも似合わないっていうかー……。 「あの二人は、本気で民を思ってここへ来たんだと思うけど……。違う?」 首を傾げて見上げた先には、コンラッドがいる。 護衛が一緒にテーブルについてお茶を飲んでいてはダメでしょう、という言葉を王様命令で退けて、コンラッドもクラリスも今は同じテーブルについている。責任感の強いクラリスは、かなり居心地が悪そうだ。ちなみに宰相と王佐には、大変申し訳ないけどそれぞれ会議に出てもらってるので今は不在だ。執務の続きは二人が戻ってきてから、という約束になってる。 「そうですねえ。権力争いなどが起きれば、二人ともまっ先に背を向ける方だとは思いますね」 「だよね」 でも、ユーリ。 コンラッドが続けて言った。 「確かにあの二人に、俺を王にという意志はもうないでしょう。ただ、俺が戻る事を望んでいるのは、俺がシマロンの王位に就く事に賛成していた人々です。指導部の中でも一国を支配するには力の足りない者や、多くは中級以下の兵士達でしたが……。俺に王位に就く意志がないことは明言してありますが、もしもまたあちらに向かえばその話が蒸し返されることは充分考えられますね」 「むしろそうならなかったらおかしいだろうね」 答えるのはコンラッドの真向かいに座る村田だ。 「ねえ、渋谷」 村田が改めておれに視線を向ける。 「まだ思い切ることはできないかい?」 「それは……」 ごめん、と呟いて、おれは皆の視線を避けた。 「君のその優しさは得難いものだと思うよ。僕には到底真似できない」 バカにしてる訳じゃないよ? 村田の真面目な言葉に、おれは「うん」と頷いた。 「でも僕にはね」 村田の瞳に真摯な光が宿っている、ような気がする。 「君が自分のその優しさに、雁字搦めになっているようにも見えるんだ」 助けを求める者を救おうとするのは人の自然な優しさであり、助けたいと望むのは自然な欲求だ。 村田の言葉に驚いて、思わずまじまじと顔を見つめてしまったおれに、村田が言葉を続けた。 「君はその思いが一際強い。それは人として素晴しい資質だと思うよ。でもね、渋谷、君は一国の王だ。優しさだけで民を護り国を護ることはできない。……本当のところを言えばね、民にとって優しい王であることは案外楽なことなんだよ」 「……え?」 「優しい王様は、民が国に望むことを片っ端から実現しようとしてしまう。税金が高いと訴えられれば後先考えずに安くしたりしてね。……最初の内は皆喜ぶだろう。でも民が望んでいるからと、無節操に何でもかんでも事を押し進めれば、国は早晩潰れてしまう。分かるね?」 さすがのおれにもそれは理解できる。 おれが頷くのを確認して、村田も頷いた。 「我が国では学費も医療費も無料だけれど、税金は安くない。それは必要だからだ。その代わり、現在でき得る限り公平な税制を敷いて、その税金が民の生活に還元されていると皆が実感できるよう、懸命に努力している。同時に民の経済力が上がるよう、産業面での指導や育成も行っている。したいと思う事、すべき事、そしてそれらを実現させる過程から派生する全ての事象、問題点を把握し、様々な検討を加えながら行政はなされている。もちろんまだまだ改良の余地はあるし、問題も次から次へと生まれてはいるけどね。僕は近頃頓に行政に関しての独立機関というか、さらに高次の専門部署が必要だと考えているのだけれど……。ああ、ごめん、話がずれた」 村田は苦笑すると、お茶のカップを持ち上げた。そして喉を潤すと、ふう、と小さく息をついた。 「王は民を思い慈しむ優しさと同時に、すべき事とすべきでない事、できる事とできない事をはっきりと見極める冷徹な視線と判断力を持たなくてはならない。優しさで思考を雁字搦めにされてしまっていては、それは持てないよ? もちろん君だけにその責任を負わせるつもりは僕達にもない。君が進むべき道を真直ぐ進めるよう、君を手助けするために僕達はいるのだしね。そして僕達は今回の問題について、君に進言し続けてきた。シマロンのことは、シマロンに生きる人々に全て任せるべきであり、それが基本だ。あの二人が君に求めたものは、あの二人の判断によるものであって、かの国の人々の総意ではない。シマロンの民は眞魔国に何も求めてはいない。よって現在この時点において、魔王陛下はウェラー卿の派遣を含む全ての行動を起こべきではない。渋谷、僕達のこの進言をそろそろ受け入れてはくれないかな?」 村田がカップを傾けながら問いかけてくる。 ふう、と思わずため息が漏れてしまう。 村田の言う事は正しい。そう思う。 そしておれはコンラッドを戦場を送りだしたくなんかないと思っている。 そう、ヴォルフの言う通りだ。もうとっくに答えは出てしまってるんだ。 なのに、どうしてこんなにこだわってしまうのだろう。 クーちゃんとバーちゃんの声が。言葉が。 おれに救いを求める民の叫びに聞こえてしまったから。 助けてくれと、おれに向かって懸命に伸ばされる腕が見えてしまったから。 助けになりたいと思ってしまった。 実際にシマロンの人達がおれに助けを求めてるワケじゃない事は、ちゃんと分かってるはずなのに。 そのくせ、その人達が本当に求めてるコンラッドを送り出すことはできないのに。 バカだよなあ、おれって。 また堂々巡りだ。 夜、温めたミルクのカップを両手で包むように持ちながら、ベランダで星空と街の灯を眺めていた。 涼しい夜風。掌の中の温もり。湯気と共にほんのり漂う香料の香り。瞬く無数の光。 疲れた身体と、らしくなく延々と考え続けてがちがちに固まった脳が、ゆるゆると解れていくような気がする。五感で感じる世界の全てが優しくて、おれはこの国が、この世界が、本当に好きだなーと心の底から実感してしまう。そんな実感の持てる場所にいられる自分が、本当に幸運だと思う。 ふいに、肩に重みを感じた。重みといっても……。 「いくら暖かいからって、いつまでも夜風に吹かれていると風邪をひきますよ」 すぐ後ろにコンラッドがいた。おれの両肩には上着が掛かっている。ベランダにいるのはコンラッドだけだから、きっとクラリスは部屋の中にいるんだろう。 「うん、ごめん……。気持よくって、ぼんやりしてた」 言いながらミルクを啜ると、思ったよりも中味は冷めていた。そんなに長く外にいた覚えはないんだけど……。それとも掌がカップの熱を吸い取ったのかな。 「どうすればいいんでしょうね」 風邪を引くと言いながら、コンラッドはおれを部屋に連れ戻そうとはせず、その場で口を開いた。 「どうすれば、あなたをその悩みから解放できるんでしょう」 「……おれは……」 部屋の灯に照らされたコンラッドの顔を見上げて、その静かな表情を見ているのが急に辛くなって、おれは視線を街の灯に戻した。 「クロゥとバスケスは、例えあなたが彼らの思いに反する答えを出したとしても、あなたを恨んだりしませんよ? 彼らを哀しませるのが……辛いですか?」 ほんのちょっとだけためらってから、おれは「うん」と答えた。 「うん。……それもある、よ。もうおれ、あの二人のこと、友達だと思ってるし。友達を哀しませるのはやっぱりイヤだよね。でももちろん、それだけじゃないよ?」 見上げれば、コンラッドが「分っています」と頷いた。 「ユーリは、あの時の、あの謁見の間でのクロゥの願いを……シマロンの人々全ての願いとして受け止めてしまったのですね」 「村田にはさんざん違うって言われちゃってるけどね。……あの時、クーちゃん達の後ろに荒れ地で苦しんでる人々の姿が見えたような気がするんだ。……錯覚だろうけど……」 コンラッドはおれの傍に立つと、星と街の灯が瞬く平和で暖かな闇に顔を向けた。 「シマロンの人々はこの国の事も、『魔王陛下』の事も、そしてもちろん俺の事も誤解しています。あなたがどう感じとったとしても、彼らは『魔王』に助けてもらいたいなどと全く考えていません。俺の知っている限り、それが必要だと考えているのは、今の所クロゥとバスケスと、それからダード老師だけだな」 「ダード、ろうし?」 「ええ。大神官という地位にあった聖職者でかなりの力を持った法術師です。といっても、魔族は魔物ではない、魔王は闇の王ではなく、むしろ救世主だと主張して教会からは当の昔に追放されてるんですけどね。迷信に囚われることのない立派な人柄で、新生共和軍の指導部においては盟主の片腕で実力者です」 「そんな人がいるんだ!? 神官で法術師なのに!? へえーっ、それってすごいことだよね! そういう人が魔族を理解してくれてるなんて……って、おれは救世主じゃないけどさ」 「そんなことはないですよ」 どういう根拠か、コンラッドは確信ありげににっこりと笑った。 「ユーリは俺を含めてたくさんの人の命や魂を救ってきました。世界だってちゃんと救えますよ」 「んな簡単に……。コンラッドはおれを過大評価し過ぎるよ……」 とんでもありません。 笑って言うと、コンラッドは「話を戻しましょう」と言いながらおれの手からカップを抜き取り、ベランダの端にあったテーブルの上に置いた。 「つまりそれほどあの地における魔族の評価は低い、というか、ひどいものです。俺の知る3名を除いて、誰1人として魔王に救いを求めている者はいないといっていい。そんな彼らを、あなたはそれでも救いたいと思いますか?」 おれは深呼吸して、おれの中にある答えがちゃんと言葉になるように、ゆっくりと口を開いた。 「……シマロンの人達が、おれをどう思っているかは……関係ないと思う。今苦しんでいる人達がいて、その人達を救う力がおれにあるなら、おれは、それを……おれの力を使ってできることをしたいと、思う。もし、このまま何もしなかったら……おれはきっと後悔する、と思うんだ……」 瞬く光に視線を向けたまま答えるおれの隣で、頷く気配がした。 「今、新生共和軍は崩壊しかけている。そしてそこに集った人々、兵の多くは俺がもう一度彼らの指揮を取る事を望んでいると、真実はどうあれ、クロゥとバスケスは伝えてきました。しかし俺にはその意志がありません。ただし、魔王陛下のご命令があれば話は別です。俺は陛下の臣として、陛下のご命令には従います。陛下、俺に再びシマロンへ行けとご命令になりますか?」 「イヤだ!」 考えるまでもなく、おれは首を激しく左右に振って答えた。 「それだけは絶対に嫌だ!」 全ての思考はそこで立ち往生してしまうのだ。 「ユーリ」 小さく息をつくと、コンラッドがおれに身体を向けてきた。 「なあ、コンラッド!」 コンラッドが何か言う前に、おれは急いで口を開いた。 「おれが、おれ自身ができることってないかな!? おれが直接、例えばまた変装してシマロンへ行って、それで民や、その新生共和軍の……」 「それこそ、とんでもありません」 きっぱりと否定されてしまった。 「勢いでものを仰らないで下さい。救いを求めてもいない国相手に、あなたがそこまでする必要がどこにあるのですか? 民を救いたいから? 俺を行かせたくないから?」 「………両方」 ふう、とコンラッドがため息をついた。 「できませんよ、そんなこと。それに魔王陛下がシマロンの地で力を奮ったと分かれば大変なことになります。新生共和軍はあなたに助けてもらったなどとは微塵も考えませんよ。内政干渉、最悪、魔族による国土の侵略と判断するでしょう。人間の他の国への影響も大きい。無意味どころか、状況を悪くするだけです」 「…………だよね」 バカなことを言ってしまった。村田の呆れ顔が目に浮かぶようだ。 「ユーリ」 我ながらしょぼっとした気分で視線を落としてしまうと、頭の上からコンラッドの穏やかに呼ぶ声が降ってきた。 「このままでは堂々巡りが延々続くだけです。どこかで結論を出さなくてはなりません。俺を行かせる気はないと仰るなら、それが答えです。それが分っているはずなのに、それでもまだあなたは自分にできることはないかと悩んでいる。ユーリ、教えて下さい。あなたの中に、まだ何があるのですか? 俺は猊下が仰せのように、あなたが優しいからという、ただそれだけが理由だとは思えません。あなたの中に、まだ何か、あなたを苦しめるものがあるのではないのですか? 何かがあなたの中で燻っているのなら、それが何なのか、おれに見せてはくれませんか?」 「それは……」 反射的に、胸に手を当てる。 掌の温もりに浮かび上がってくる、おれの中に……あるもの。 「………内乱で、シマロンの民は苦しんでいる。今、こうしている間も……」 静かに耳を傾けるコンラッドの気配。 「新生共和軍の指導部は崩壊しかけていて、このままでは戦争がいつ終わるか全然見通しがつかない。もしその人達が失敗したら、小シマロンも介入も激しくなって、ますます泥沼になってしまう。そして……新しい国造りを真剣に考えている人達は、皆、コンラッドが戻ってくることを……もう一度皆を指揮して、組織を立て直してくれる事を願っている……。戦争を一刻も早く終わらせたいと……」 コンラッドは何も言わずに、ただ聞いている。 「そうなれば……民達も救われる。泥沼の日々が、終わる……。でも、でもおれは……コンラッドを行かせたくなくて……行かせるもんかって思ってて……だから、コンラッドはシマロンに行くことは、ない。でも、そしたら、今、苦しんでるシマロンの人達は……」 思いきって顔を上げ、おれをじっと見つめているコンラッドを見上げる。 「シマロンの人達は、ずっと救われないまんまだ……」 ……ね、コンラッド? 聞くのが怖い。確かめるのが怖い。でも。 コンラッドが、わずかに眉を顰めておれを見下ろしている。 「それって……おれがコンラッドをシマロンに行かせないのって……おれの、我がまま、じゃないかな……? おれの我がままのせいで、シマロンの民は苦しみ続けなきゃならないんじゃ……」 「ユーリ、それは違うっ!」 コンラッドが焦った声を上げる。 「そんな……そんなことを思って、あなたは苦しんでいたのですか……!? ユーリ、それは違います。間違っています! ……大シマロンの支配と、占領地で絶えまなく起こる紛争や反乱で、あの地の民はもうずっと長い間苦しみ続けてきました。シマロンの民が今苦しんでいるのは、それが現在まで続いているということであって、あなたとは何の関わりもありません! 長年続いてきたあの地の荒廃と民の苦しみに、あなたの我がままなどが介入する余地はありませんよ。それにユーリ」 大きく息をついて、コンラッドが俺の肩を引き寄せ、そして腕の中におれを包んだ。 「 あなたがおれをシマロンへ向かわせないことが我がままなら、あなたの側から離れたくないという俺の願いも我がままになりますよ? グウェンもヴォルフも、そして猊下も。俺を行かせるべきではないという皆の主張も全て我がままになってしまいます」 「……みんな、おれを……可哀相に思って……」 「違います、ユーリ。……ユーリ」 おれを抱き締めるコンラッドの腕に力が籠る。 「新生共和軍の指導部、あの中で、いずれ勢力争いが激しくなることは、最初から分っていました」 その言葉に、おれは思わず顔を上げて、おれを見下ろすコンラッドと視線を合わせた。 「大シマロンに滅ぼされた国々の残党がそれぞれ勝手に作っていた対シマロンの抵抗勢力を、反乱軍として連係させ、一つの軍になるよう画策したのはこの俺です。その最初の段階で、いずれ混乱が起こることは予測済みでした。何せあの指導部は、失われたそれぞれの故国の復活を願い、かつての権力を取り戻そうとする者達でできていたのですからね。復興を願う国が一つだけでも組織は分裂しやすいものなのに、今回復活を目指す国は十数カ国に及ぶのです。おまけに指導部を構成するのがほとんどかつての王や王族、大貴族となれば……。彼らの勢力争いは、実は組織ができた瞬間から始まっていたのですよ。反乱が成功し、国造りが具体的になれば、同時にその争いが表面化するだろうということも、最初から分っていました。今回のことは、起こるべきことが起こったという、ただそれだけのことなんです」 「で、でも……クーちゃん達は……」 「クロゥ達も含めて俺を王にと考えてくれた人々は、俺が離脱しなければそのような事態にならなかったと思い込んでいるようですが、それは間違っています。俺がいようといまいと関係ありません。その証拠に、誰が新国家の王位に就くかで起きた喧々囂々の言い争いは、かなりすさまじいものでしたよ。俺にその気はないと言っているのに、決闘を申し込まれたりしてね」 そう言えば、王様に立候補する人が我も我もと手を挙げたって村田も言ってたような。 「問題は」と、おれの目を見つめながら、コンラッドの言葉が続く。 「それをどう収束させるか、です。俺はね、ユーリ、あの指導部の面々がクロゥ達が嘆いたり、猊下が嘲笑うほど無能が揃っているとは思っていないんですよ。本当に無能な者ばかりであれば、そもそも大国に反抗する組織を作ること自体不可能です。違いますか?」 「……えと……」 コンラッドの胸の中で、首を傾げて考えてみた。 そう言われればそうかもしれない。あんまり村田とかがバカにするから、よっぽどヒドい組織なんだろうとイメージしてたんだけど……。 「 新生共和軍指導部は決して愚か者揃いなどではありません。ちゃんと組織を立て直せる充分な力を持った人物が何人もいます。盟主も……女性ですが、長年一国の女王として名君と讃えられてきた人です。危機に対処する経験も能力もちゃんと備えています。それでも駄目なら、俺が行こうとどうしようと、それこそどうにもならないですよ」 「でもコンラッド、だったらクーちゃん達は……。それにコンラッドを待ってる人達は……」 「自分達の王だと見込んだ程の人物ならば、という彼らの思いは分からないではありませんが……。彼らはその分、指導部の他のメンバーを軽く見ている嫌いがありますね。しかし、俺が1人で剣を振り回してどうにかなるほど、あの国は、そして彼らの戦いは、ちっぽけなものではないのです。そして……」 俺がいないから民の苦しみが深まる訳でもなければ、俺がいるから救われる訳でもありません 。 「……コンラッド……」 「反乱が進むに連れて、組織は大きく育っていきました。命令系統も組織そのもののシステムも、複雑になっていきました。何より人の数が膨大になり、集まった人々の思惑も複雑に入り組んだものとなりました。そのような、規模としては一国を運営するに足る組織の混乱が、俺の復帰で万事片付くということはあり得ません。俺1人の存在にできることなどたかがしれていますよ。さっきも言ったように、俺1人が剣を奮ったからといって大国の巨大な内乱が一気に解決し、瞬く間に民が救われる、などという奇跡は起きないのです。ですからユーリ、俺が帰らないから民の苦しみが終わらないんだ、という理屈は成り立ちません。そんなことを言おうものなら、指導部の人々は激怒しますよ。思い上がるなってね。ねえユーリ、悩んでいるあなたには申し訳ないのですが、それこそ俺に対する過大評価というものですよ?」 「………救世主っていわれるより、よっぽど正当な評価だと思うけどなあ……」 ぼそっと呟いたおれの声に、コンラッドがくすっと笑った。 「でもさ、コンラッド」 それでも言い返すおれに、コンラッドが首を傾ける。 「ヨザックも言ってたよ。ずっと前に報告してもらった。向こうの人達の、コンラッドへの信頼はすごく深くて大きくて、ほとんどの人がコンラッドでなきゃって言ってるって。一般の兵士は皆、熱烈にコンラッドを支持してるって。離脱した人達もそうなんだろう? コンラッドがいなくなったから、でもって、勢力争いがひどくなって新しい国を作る希望が薄れてきたから離れてしまったんだ。混乱した状況をおさめることのできる人は、きっといるんだろうと思う。でもそこにコンラッドがいたら、もっとそれは早く進むんじゃないの? 離脱した人も帰ってきて、戦争も早く終わるんじゃないの? だったら、やっぱりおれがコンラッドを引き止めているのは……」 「ユーリ」 コンラッドがちょっと困ったように苦笑を浮かべた。 「それだとまるで俺があちらに行きたがっているみたいじゃないですか? 俺はユーリの側にいたいと言っているんです。ユーリに無理に引き止められた覚えは全くありませんよ?」 それに、とコンラッドは続けた。 「確かに俺がいた方が早く事は進むのかもしれません。それなりの人脈は築いてきたつもりです。それでも、大局的に見ればおれの力はほんの少し事のスピードを上げられるかどうか、という程度のものでしかありません。それも指導部全員が協力してくれれば、です。そうでなければ、もし彼らが権力を得ることに夢中になって、他の事が全く見えなくなっているなら、俺がどう足掻こうが事は破綻します。何せ指導部の連中は、俺をベラール王家の血を引いてはいるものの、今は依るべきものを何一つとして持たない一匹狼の剣士以上の者とは考えていませんからね」 「……コンラッドは狼じゃなくて、獅子だろ?」 おれの言葉に一瞬きょとんとしてから、コンラッドは口元を綻ばせた。 「ええそうですね、俺はユーリの獅子でいたいと思ってますよ」 「ねえ、コンラッド」 呼び掛けた瞬間、急に鼻がむず痒くなって、いきなり「くしゅんっ」とくしゃみが飛び出た。 「ああ、申し訳ありません、こんな場所で長話を……。さ、ユーリ、中に入りましょう。熱いミルクをもう1杯、いかがですか?」 うん、飲む、と答えて、コンラッドに促されるまま部屋の中に向かった。 「あのさ、コンラッド。コンラッドは……シマロンでやり残したと思うことはないの?」 「ありません」 即答だった。表情も少しも変わっってない。 でもおれは、瞬間的に確信してしまった。 コンラッドは嘘をついてる。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい
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