「……はい、ユーリ、あーん」 「あーん」 コンラッドがふーっと吹いて冷まして、ちょっとだけ口に含んでその熱さを確かめたものを、そっとおれに向けて差し出してくれる。 銀のスプーンの上には、お粥がほんのり湯気を立てている。 野菜と、それから太い麺を細かくしたもの(マカロニみたいなもん?)をとろとろくたくたになるまで煮込んだ、具沢山スープとリゾットのちょうど中間って感じの「お粥」だ。それをコンラッドがおれに食べさせてくれている。 「美味しい? ユーリ」 「んっ。おいひー」 見た目こってり味はあっさり。ほくほくと暖かくて、ここ数日でばさばさに荒れてしまったらしい胃に優しく染み渡る。 「……まったく……。ばかばかしくて見ておれん!」 「まあまあ。仲良きことは麗しきかな。いいじゃないか、暖かい目で見守ってあげようよ」 「生暖かいの間違いじゃないスかー?」 外野の呟きなんか気にしない気にしない。 だっておれ、病人だもん。まだ熱があるんだもん。 病人はうんと甘えて、心も身体もゆったり休めるのが仕事だってコンラッドも言ったもんな。 「デザートはフルーツの甘煮ですよ。シェイナが美味しく味付けてくれました」 「わーい」 体調を崩して、熱を出して、倒れてしまったらしい(その辺りの事は良く覚えてない)おれが、目覚めたのは今朝早く。 長い夢を見たような気分で目を開けたら、夜明けの光の中にコンラッドがいた。 ぱちぱちと何度も目を瞬かせて、やっと焦点を合わせて見上げたコンラッドは、目を充血させ、心配そうな顔でおれを覗き込んでいた。 ああ、コンラッドだ……。 そう頭が認識した瞬間。 まるで雷が轟くように、おれの頭に一気に色んなことが蘇ってきた。 コンラッドが死にそうなくらい苦しんでいること。おれが知らない間に、おれの周囲に起こっていること。そして、それから……。 「…っ! コッ、コンラッドッ!」 思わず叫んでしまったおれに、「ユーリ?」と、コンラッドがどこか弱々し気な、探るような声で答える。 「コンラッド! ごめんなさいっ!」 もう一度叫んで、それからコンラッドの首に飛びつくように上体を起こし、腕を伸ばした。ら、突如すごい目眩に襲われて、ベッドに撃沈してしまった。 「ユーリ!」 コンラッドが心配そうな声を上げて、覆い被さるように顔を覗き込んでくる。 「まだ熱があるんです。無理に動いてはいけません」 目眩が吐き気を呼んでくる。何とかやり過ごそうと、深呼吸を繰り返した。 「ユーリ、水を」 そう言って、おれの首の後に手を差し入れ、そっと頭を持ち上げて、唇に吸飲みの先を押し当ててくれた。 冷たい水が喉を流れ落ち、胃に落ち着いて、おれはそこでようやくホッと息をついた。 「……コンラッド……おれ……ごめんなさい」 「ユーリ」 「おれ、全然気がつかなくて……。何も知らなくて……。コンラッド、おれのこと、いつも考えてくれてるのに、おれのために一生懸命になってくれてるのに……そんなこと、分かってたはず、なのに……おれ…ったら……あんなこと、言って、コンラッドに、辛い、思い、させて……ホントに……ゴメン、なさい……」 「ユーリ」 コンラッドの大きくて節くれ立ってて、でもとっても優しい手が、そっとおれの髪を撫でる。 「あなたが俺に謝る必要など、全くありません。あなたは何も悪くないんです。悪いのは……。どうかもうそんなことを気に病んだりなさらないで、早く元気になって下さい」 ね? そう囁くように言って微笑むコンラッドは、丸っきりいつも通りの優しく落ち着いた雰囲気だった。村田達が教えてくれたみたいな、背骨が抜けてヘロヘロになった男なんてドコにもいない。……やっぱりあれはアレだな。おれを脅かすために、わざと大げさに言ってたんだよな。どーせ村田が企んだんだろうけど。 ……それでもやっぱりおれがコンラッドを傷つけたことは確かだ。 「コンラッド。おれがコンラッドのこと、嫌いだなんて言ったの、あれ、嘘だからな。勢いで口から飛び出しただけの嘘ででたらめだからな。ホントだからな。……あ、いまのホントっていうのはー……」 「嘘ででたらめというのが、本当のことという意味ですよね?」 そうそう、と頷く。コンラッドはやっぱり誰よりおれの言いたいことを分かってくれる。 「ごめんなさい、コンラッド。……怒ってる? 怒ってるよね? おれのこと、許してくれる? それとも、もう……」 「ユーリ」 おれのこと、嫌い? そう続けるつもりだったおれの言葉は、唇から飛び出す寸前で止まった。唇に、指の感触。 コンラッドがおれの唇をそっと指で押えておれの言葉を封じていた。おれを見つめる顔には優しい微笑み。 その指は、おれの唇を撫でるように滑ったかと思うと、すっと離れていった。 「もう謝ったりなさらないで下さい。俺は怒ってなどいません。許しを乞う必要もありません。ユーリはちっとも悪くないんです。あれは……」 「怒ってないなら許すって言って!」 「……ユーリ……?」 「許すって言ってもらえないと、おれ……」 おれの中で、きちんと終わらない。終わることができない。 おれのそんな思いを読み取ってくれたのか、コンラッドはそっとおれの両手を包むように握って、おれの目を覗き込み、そして「わかりました、ユーリ」と小さく頷いた。 「許します。昨日までのこと、何もかも。だからユーリ、あなたもどうか俺を許して下さい」 「……コンラッドは悪いこと、何にもしてないじゃないか……?」 「あなたがこんなになるほど辛い思いをしているのに、俺は何もできなかった。しようとしなかった。あなたと、もっとちゃんと話をすべきだったのに、あなたに拒まれることが怖くて、それを怠りました。……情けない男です、俺は……」 「コンラッド、そんなこと……」 「俺を許して下さいますか?」 数呼吸の間、ただじっとコンラッドを、コンラッドの瞳の中のおれの姿を見つめて、それからおれは、うん、と頷いた。 「許すよ、コンラッド。………これからは、おれの周りで起きてること、ちゃんと全部話してね」 はい、とコンラッドが頷く。 「……コンラッド………これで、仲直り、だよね?」 枕の上で、首をちょっと傾げてコンラッドの顔を改めて見上げると、コンラッドがふわっと笑って頷いた。 「はい、ユーリ。またお側にいさせて下さいね?」 「もちろんだよ! 絶対、おれの側から離れちゃダメだからなっ!」 コンラッドと仲直りはできても、いまだおれの中に残る痼りのような不安。 ヒスクライフさんから届いた、あの手紙……。 「絶対だぞ! 何があっても、誰が来ても、おれを置いてもうどこにも行ったら駄目だっ!」 はい、もう決して、とコンラッドが深く、はっきりと頷いた。 思わずほーっと安堵の息をつく。………というところで、ふと気がついた。 おれってば、コンラッドと手を握りあって、見つめあってるじゃんっ! それも……ベッドの上で!! うわぁ、はっ、恥ずかしー、っていうか、照れるっ! 自覚した途端に、顔がぶわっと熱く火照ってきた。たぶん……熱が一気に上がったかも。 ……でも。……でででで、でも……っ。この、シチュエーションは………。 ……美味しい……。美味し過ぎる……。 嬉し恥ずかし、なっ、なんて美味しいシチュエーション……! こっ、これは……っ。 ……気合いだ、おれっ! 照れてる場合じゃないぞ! こんなごっついチャンス、逃してたまるかーっ! 「……コンラッド……」 気合いが声に出ないよう一呼吸置いて、それからちょっと弱々し気に名前を呼んでみたりして。 コンラッドがふと気遣わしげにおれを見返した。よし! ……だが。 しまった。おれってば、自分が絶望的に経験不足だってのを忘れてた。 たまには恋愛ドラマでも観て、勉強しとけばよかったかも。じゃなかったら少女マンガとか。 ……一体ここからどうすれば、百戦錬磨と噂のコンラッドがうっかりムードに呑まれてくれるのか、でもって、「先に進んじゃってもいいかな?」って気持になってくれるかが……わ、分からない……っ! そもそも、そのムードって、何なんだ!? どうやって作るんだ!? ど、どうやったらコンラッドと、その……ききき、きす、とか………。 キス………。 ……………。 「……あれ?」 「ユーリ? 急にどうしました? お顔が赤いようです。また熱が……」 ふいに、頭の中でシャボン玉がぱちんと弾けた。みたいな気がする。 おれはおれを心配そうに覗き込むコンラッドをまじまじと見つめて、首を傾げた。頭の下で枕が捩れる。 「……何か……こういう感じ、前にもあった、ような……」 「前?」 「うん……。何か、ほんのちょっと前に……今とおんなじ様な感じで、おんなじ様な話をしてて、でもってー……それでー………」 えーと、と目を瞑る。 頭の中で、イメージはあるのに形が掴めない。もうちょっと、後もうちょっとで見えそうな情景が、確かに知っているはずの何かが見えない。胸にもどかしさが溢れる。 「……夢を、ご覧になったのでは?」 ゆめ? と、目を開けたら、視界の中でコンラッドが微笑んでいた。 「そう、夢。夕べはずっと熱が高かったですからね。きっと色々な夢をご覧になったでしょう」 そっかー、と胸に手を当ててみる。夢なら、思い出したくて思い出せないこのもどかしさも分かる。 「そうかも。……そうだ、コンラッドと話をしてる夢、やっぱり見たよ」 そうですか、とコンラッドが頷く。 確か……うす闇の中で、今と同じようにコンラッドがおれを見てくれてたんだ。 「内容はよく覚えてないけど………でも……」 「でも?」 鸚鵡返しにコンラッドが質問してくる。 「何か……すごく気持が良くて、しあわせーって感じの夢だった」 そう答えたら、おれをじっと見つめていたコンラッドが、「ならよかったです」とにっこり笑って頷いた。 「……さ、ユーリ、まだ熱があるんですから、もう一眠りして下さい。次にお目覚めになったら、何か消化のよいものを運んできますから、食事にしましょうね」 いつの間にか自由になっていたコンラッドの手が、毛布を顎の下まで引っ張っておれを包むようにすると、肩の辺りをぽんぽんと軽く叩いてその形を整えた。 「ぐっすり眠って、少しでも早く元気になって下さいね、ユーリ」 はーい。と良い子のお返事をして。 ハタッと気づいた。 おれってば、うっかりして……。 せっかくのチャンスをみすみす逃しちゃってるじゃないか、おいっ! 「おやすみなさい、ユーリ」 コンラッドの優しい笑顔が憎たらしい……。ああ……おれ様のばか……。 まあ、そんなこんなで、おれとコンラッドは何とか仲直りを果たした。 で、今、こうしてごはんを食べてるワケだ。 「……まったく! その手はなんのためにある。粥くらい自分で食べろ!」 我慢できないとばかりに、ヴォルフがベッド脇へやってくる。 「ヴォルフ」コンラッドが弟を嗜める様に呼んだ。「ユーリはまだ熱があるんだぞ。手にも力が入らないんだ。無理に自分で食べようとしたら、きっと手が震えて零してしまう。ユーリが火傷をしたらどうするんだ?」 「…………ったく、いい年をして……」 舌打ちするような呟きを、おれは聞き逃さなかった。 「いい年って何だよ、いい年って! 見た目は似たような年に見えても、おれはまだぴっちぴちの16歳だぞ! お前と一緒にするなよっ」 びしっと指差して怒鳴る。 そんなおれの指先に顔を近づけると、胡散臭そうに眉を顰めたヴォルフは、無言でじーっとおれの手を見つめた。 「………こうも力強く僕を指しているこの指が、微動だにしていないように見えるのは気のせいか?」 「……………………あっ、無理に指に力を入れたら、どうしよう、目眩がするー」 マズい。棒読みになったか? フォローのため、額に手を当ててちょっとくらっとしてみる。 「ああ、ユーリ、しっかりして下さい」 我ながらわざとらしく天を仰いで倒れかけたおれを、期待通りにコンラッドがキャッチしてくれた。 さすがだ、名付け親。 「せっかく熱が下がりかけているのに、無理をしてはいけませんよ? ヴォルフの言うことなんか、気にしなくていいですから。………さ、ユーリ、お粥がまだ残ってますよ。ほら、あーん」 「あーん」 「美味しい? ユーリ」 「うん、おいひー」 視界の隅で、ヴォルフがヨザックにずりずりと引きずられていくのが見えた。そっちのフォローは頼んだぞ、ダイケンジャー! おれは病人なんだから。それにここ数日、ほんっとに苦しかったんだから。 病人でいる間くらい、我を忘れて(?)甘えまくったって……いいだろ? そんな甘え甘やかされる(ついでに仕事もせずにゴロゴロできる)病人でいられる時間は短くて。 おれは程なく完璧な健康体に戻ってしまった。 コンラッドとは、もうすっかり元通りだ。 いつもにこにこして側にいてくれるし、お茶も淹れてくれるし、キャッチボールもする。ついでに脱走だって一緒にする。 脱走には、クラリスもよくつき合ってくれるようになった。村田やヴォルフやヨザックも加わって、団体様の大脱走になってしまうこともままある。 クラリスに関しては、あの「理想の彼氏はキングコング事件」(おれさま命名)と今回のことを通して、すっかり蟠りもなくなって……って、わだかまってたのはおれだけなんだけどー……、とにかく一緒に居て息が詰まるようなプレッシャーを感じることは全くなくなったし、色々気軽に話せるようにもなったし、上々の状態が続いている。 実際クラリスと話してみると、村田が感心するほど舌鋒は鋭くて、グリエちゃんとはまた別の意味で辛辣で、でもこれまで周りにいた人達の、言葉を選んだ話し方とは全く味わいが変わっていて、結構楽しい。 おれが勝手にクラリスとの間に作っていた壁がなくなったことを、たぶんずっと心配していただろうコンラッドは、ホッと胸を撫で下ろした様だった。 そうして数日が事もなく経って。 おれは執務室にいて、部屋に一緒にいるのは珍しく村田とクラリスの二人だけだった。 グウェンもギュンターもコンラッドもヴォルフも、何だかそれぞれ用事があって、それが絶妙のタイミングで重なって、全員が側にいないというちょっと珍しい状態になってる。 なのでこれ幸と、お茶とお菓子を用意してもらって、遠慮するクラリスも半ば無理矢理引き込んで、ソファーで一緒にお茶会と雑談を楽しんでいた。 それが30分くらい続いた頃。 いきなりすごい勢いで扉が開かれた。何事? と3人して立ち上がると同時にヴォルフが飛び込んできた。ずっと走ってきたのかもしれない。息が荒い。表情もかなり厳しい。 ヴォルフは最初、飛び込んできた勢いのまま執務机に向かいかけて、おれがいないのに気づいたんだろう、ちょっと戸惑ったように動きを止めてから、慌てて頭を巡らせ、ソファーにいるおれたちを見つけた。 「……そんな所にいたのか! 声くらい掛けろ!」 いや、お前が最初に声を掛けて入ってくればいいんじゃないのか? でもヴォルフの様子にはそんな反論が許されない切羽詰まった雰囲気がある。 「ヴォルフ? どうしたんだ? 何か…あったのか!?」 「………手紙が来た」 どすんとソファーに腰を下ろしてヴォルフが言った。 「……てがみ? 手紙って……」 おれと村田がソファーに座り直し、クラリスは席を外れた。ヴォルフのお茶を用意してくるんだろう。 首を傾げるおれに答えをくれたのは村田だ。 「ヒスクライフさんからの手紙だね? シマロンの反乱軍からウェラー卿を訪ねてくるっていう……」 「そうだ」 ヴォルフが頷いた瞬間、おれの身体がずしりと音を立てて、床に重く沈んだ、ような気がした。 「先ほど兄上の部屋に行ったら、コンラートと二人で話し込んでいた。どうやらこちらにくるという人物の名前が分かったらしい。ヒスクライフ殿が照会してきた」 「ウェラー卿の知り合い?」 「ああ。名乗った通りの人物だとしたら……大シマロンと戦っていた間、コンラートの副官を務めていた者達だそうだ」 「達?」 「二人、という話だ。一応確認のためにも、コンラートの知っている人物達の年齢だとか容貌などを細かく記してヒスクライフ殿に知らせることになっている」 なるほどね、と村田が頷く。 「わざわざ偽名を名乗ったり、他人のフリをする必要性もないと思うし……。たぶん本人達だよね。……そうか、じゃあ、これでまず間違いないな」 ああ、とヴォルフも頷く。 「居場所も何も、本当のところは何一つ教えていないということだから、そいつらがどうやってコンラートを見つけるつもりなのかは知らんが……。とにかくコンラートを向こうに連れ戻そうという魂胆があることだけは確かだ。おまけにどうやら反乱軍の者達は、コンラートがユーリに、というか、魔王に命を狙われていると勘違いしているらしい。貴族の端くれでありながら魔王を裏切り人間の地に走った大罪人、ということだな。もしかしたら自分を救出しようと考えているのかもしれないと、コンラートは頭を抱えていたぞ」 なるほどねえ、と村田がくすくす笑い出した。 「闇雲にこの国に来てどうするつもりなのか、ますます分からなくなってきたね。当って砕けろ、ってトコかな? かなり無鉄砲な人達みたいだね。とすると………渋谷? 大丈夫かい?」 「ユーリ?」 村田とヴォルフ、そして傍からクラリスの労るような視線も感じる。 でもおれは胸を押えたまま、しばらく何も答えることができなかった。 心臓が。 ばくばくと音を立て、どんどんと胸を内側から叩いている。 今にも骨が折れて、心臓が胸から飛び出してくるかもしれない。鼓動が激しすぎて、破裂してしまうかもしれない。心臓が暴れる痛みと息苦しさに、おれは胸を両手でぐっと押さえ付けた。それでいて、ハート形の心臓が胸から飛び出すという、マンガによくある描写を思い出してしまって、おれは何だか急に笑い出したい気分にもなっていた。 ……ちょっと変だな、おれ。 かちゃ、と、小さな音にふと我に返ると、クラリスが新たに淹れ直してくれたお茶が、おれの前で湯気を立てていた。さっきまでのものとは違う、柔らかな香りの香草茶だ。 3人の視線を受けたまま、そっと手を伸ばし、カップのお茶を一口、口の中に含んで香りを味わって、それから喉に流し込む。 瞬間、胸が暖かく落ち着いたような気がして、思わずほうっと息が漏れた。 「ごめん。もう大丈夫」 ちょっとドキッときちゃって。そう言って笑うと、やっと村田とヴォルフの表情が弛んだ。……ここんとこずっと心配掛けっぱなしだから、何かあるとすぐ皆して緊張するんだよな。 「おれさ」 暖かいカップを両掌で包むように持って、琥珀色のお茶を見つめながらおれは口を開いた。 「もう全部終わったって、勝手に思い込んでたみたいだ。こないだのことで、コンラッドと仲直りして、身体も元気になって、これでもう何もかもうまく行くんだって。……ヒスクライフさんからの手紙のことも、すっかり忘れてたよ」 「そうだよ」村田が静かにおれの言葉を肯定してくれる。「その通りだよ。終わってるんだ。君にとってだけじゃない、ウェラー卿にとっても全部終わってることなんだよ」 「そうだ、ユーリ。兄上達が話しているのを聞いたが、コンラートは怒っている様だったぞ。やっとユーリが笑顔を見せてくれるようになったばかりなのに、とな。またユーリに余計な不安を与えてしまうと、あれは相当苛ついていたな。兄上も、これから本格的に浮ついた者共を押えていく作業をしようというこの時にと、戸惑っておられるご様子だった。……シマロンの反乱など、コンラートにとっては昔の話だ。今はお前のことしか頭にない。だから安心して……」 「……でも……!」 そう言って顔を上げた先には、心配そうな表情の二人の顔があった。 「でも……その人達にとっては……まだ何も終わってないんだよ、ね……?」 渋谷、と村田が呟くようにおれの名を口にする。 「反乱はまだ続いてて、コンラッドがいなくなってからかなりキツい事になってるって、村田、お前が教えてくれたんだよな? それに……。おれ、前に聞いたことがあるんだ。コンラッドは、仕事を中途半端にして帰国してしまったって……」 「それ、ウェラー卿が言ったのかい?」 村田の語調が厳しくなる。おれは「いいや」と首を振った。 「前に、ほら、バイトしにグウェンの領地の学舎に行っただろう? その時そこで……学生の人達がそんな話をして討論してた」 ああ、そうかと、村田がホッとため息をついた。 「もしウェラー卿が自分の口でそんな事を君に告げたとしたら、僕はただじゃおかなかったよ」 内容だけじゃなく、その口調もえらく物騒だ。 「違っていてよかった。……渋谷、ウェラー卿のあの仕事にはね、終わりなんてないんだよ」 「え?」 「事は反乱を成功させるだけじゃ済まない。戦後処理は膨大なものになるし、その後の新たな国造りに至ってはね。一国をゼロから作り上げ、国として完成させるなんて、一生掛けたって終わるかどうか分からないよ。ただでさえ巨大な領土なんだし。すべき仕事は無数に絡まりあって、一つが終わればまた次、それが終わればまた。時間が経つにつれて、同じ仕事も内容がどんどんステップアップしていく。それはもうね、永遠に続くといってもいいくらいさ。つまりいつまで経っても、どこで終えても、仕事は中途半端なままなんだよ。どこかで断ち切らない限り、ウェラー卿を頼る人達は永遠に彼をあの地から離そうとしないよ。ウェラー卿が帰国を決めたあの時点は、あの時点において最良のタイミングだった。だからその事について、君が気に病む必要は全くない。……分かる?」 「……分かる、気がするようなしないような……」 へなちょこ。ヴォルフが呟く。 「たださ」 「まだ何かあるのか!?」 ヴォルフがくわっと目を瞠いて怒鳴った。 「おれの全然知らない人達がいるんだよな」 何だと? と、ヴォルフの声が訝し気なものに変わった。 「コンラッドがどんな場所で、どんな人達と、どんな風に過ごしてきたのか、おれ、全然知らない。想像もつかない。大シマロン王の側にいたコンラッドなんて、本当のコンラッドじゃないって思ってたし、帰ってきてくれたんだからもう関係ないって思ってた。その頃のことはおれも聞かないし、コンラッドも……話さないし……。でも、反乱軍を組織して、大シマロンと戦って……そうしている間にコンラッドは、たくさんの人と関わりあってきてるんだよな。だから、コンラッドと命懸けの毎日を共に過ごしてきた人達が、おれの知らないそんな人達がそこにはたくさんいるんだって……何て言うか、いきなり気づかされたっていうか……」 胸に疼くような痛みを感じて、おれは胸を押え、布をぎゅっと握りしめた。 「……村田。シマロンのあの一帯って、魔族への偏見が強いんだよな? 魔物がうじゃうじゃしてるとか本気で信じてたりするんだろ?」 ああ、と村田が頷く。 「そんなお伽話みたいな誤解と偏見が、いまだに強く根付いてるらしいね」 「なのに……その人達、コンラッドの副官をしてた人達は、ここへ来ようとしてるんだな。コンラッドを連れ戻すために、もしかしたら救い出すために……。それほど」 コンラッドを求めているんだ。 「渋谷」村田が語調を強める。「だからといって、彼らに同情するのは……」 「違う」 即座に否定するおれに、村田が眉を顰めた。 「おれは、そんな立派な男じゃないよ、村田。おれは……悔しいんだ……!」 「渋谷……」 「ユーリ……?」 「おれの知らない場所で、おれの知らない時間をコンラッドと共に過ごしたおれの知らない人達がいる……。その人達は、おれの知らないコンラッドを知っている。それが悔しい。ものすごく悔しいんだ! そしてその人達は、一緒に過ごしてきた日々の間に、コンラッドを信頼して、きっととっても大切に思って、そしてコンラッドの事を自分達の、自分達だけの仲間だって思ってるんだ……! だから……ここまで来ようとしてるんだ。恐ろしい魔物のいる国だって信じてるのに。コンラッドを求めて、おれからコンラッドを『救出』して、コンラッドを『取り戻す』ために……! おれからコンラッドを奪おうとしてるんだ……っ!」 コンラッドは、おれのコンラッドなのに! 執務室に、しんと沈黙が降りた。村田もヴォルフもクラリスも、ただ息を呑むようにおれを見つめている。 「……イヤだ。絶対にイヤだ。……コンラッドが生きるのはこの国だ。おれ達と一緒に、この国で生きていくんだ。コンラッドは、眞魔国のコンラッドなんだ……! 誰が来って、どんな理由があったって………コンラッドは………絶対に渡さない……っ!」 ほう、と息をつくと、同時に村田もヴォルフもほっと肩を落とした。 「おれ……ひどいヤツだな……? 魔族と人間が対等に向き合って世界を平和に、なんていつも言ってるのに、なのに……こんなコト言ってさ。……あっちは今とっても大変で、民も苦しんでいて、コンラッドの……助けを何より必要としてる、かもしれないのに……」 「そんな風に思う必要はないよ、渋谷」 思わず項垂れるおれに、村田が優しい声と言葉を掛けてくれる。 「あちらの人々がどう思おうが、ウェラー卿がシマロンに走ったのは紛れもなくこの眞魔国と君のためだけなんだからね。そもそも、ウェラー卿1人がいるかいないかで反乱の成否が決まるなんて、本来あり得ないよ。もしそれで国造りができないというなら、そんな連中に一国を背負う資格など最初からないと言っていいね」 ダイケンジャーの舌鋒は、相手が老若男女に関わりなく容赦がない。 「君の言う通り、ウェラー卿は眞魔国のウェラー卿だ。それ以外の存在に彼はなれない。なる気もないだろう。そう、彼は君のものだ。だから君は、堂々と胸を張ってそれを主張すればいいよ」 それからしばらくは何も起きない日々が続いた。 おれの周りはコンラッドとクラリスとヴォルフがきっちり固めてくれているし、国は平穏、仕事は順調、宮廷内も特にこれといった乱れはない、らしい。 おれを狙っているとかいう野心家だか何だかも、コンラッドとグウェンとギュンターがおれの気づかないところで張り巡らせた鉄壁のガードを破り、さらにコンラッド達最終防衛線を突破して、直接おれにアタックを掛けてくるような強者はさすがにいないようだ。それから聞いたところに寄ると、グウェンが貴族達の集まりがある度に、「お前達の企みは分かっているぞ。妙な真似をしたらただではおかん」という意味の言葉に色んな調味料を効かせた上で、遠回しに、さり気なく、アピールしたのが功を奏したらしく、一時自分勝手に燃え上がっていた彼らの欲望の炎は、現在かなり沈静化しているらしい。 少なくとも、 追い詰められ、煮詰まって、それ以上の危険な計画、もしくは妄想を現実化させようと動き出す者はいないという。 とは言っても、魔王陛下の寵愛を得ようという夢、ほとんど妄想、を捨てたワケでもないらしい。 今現在は、とにかく何とかしておれの視界にいい形で入りたい、おれの目に留まりたいと、それぞれがそのチャンスを窺い、水面下で争っている、という状況らしい。おれを喜ばすため、より珍しくて貴重でとにかく素晴しい貢ぎ物を集めようと、何人かの貴族達はかなりの激しさで競い合ってるそうだ。それも困りものだと思うけど……。 予想していた程の切迫感はないから、まだ今の所は問題ない。引き続き監視を調査を続けていくと、グウェンが報告してくれた。きっとお庭番の皆さん達が頑張ってくれてるんだろうな。 そして、ついで、という感じで、グウェンがヒスクライフさんから届いた2通目の手紙の事を知らせてくれた。おれの様子を見て、もうおれが知っていることに気づいたんだろう、ちらっとヴォルフを睨んでいた。 「その者達については、何か分かり次第ヒスクライフ殿が知らせてくれる。実際の所、本当に来るかどうかも分からんのだからな。今は気にする必要もなかろう」 「もし本当に来たとしても、どうやって俺を見つけるつもりなんだか……。でもいつまでもこの国をうろうろさせてはおきません。さっさと追い返しますから、陛下はどうぞその件についてはお忘れ下さい」 その程度のことに過ぎないんだと、グウェンとコンラッドの声と表情がおれに告げている。 おれを心配させまいとしてる二人の気持が分かるから、おれはただ頷いた。 頷いて、そして。 決めた。 「ヴォルフ、あのな……」 宰相と王佐は所用で不在。クラリスが部屋の隅でお茶の準備して、コンラッドがおれのリクエストを叶えに厨房へ向かっている間。 おれはヴォルフと村田を誘って執務室の外、バルコニーに出た。 「どうした?」 おれの顔を窺いながら、ヴォルフが尋ねてくる。 あのな。おれは二人だけに聞こえるよう、声を潜めた。 「次にヒスクライフさんからコンラッドに送られてくる手紙。それをさ」 ヴォルフと村田が、じっとおれを見ている。 「横取りしちゃうって……できるか?」 ずっと前。 ヨザックから報告を聞いた。コンラッドが、大シマロンに反乱を起こした人達の間で、どれだけ尊敬されて、頼りにされていたか。 その人達がコンラッドに、自分達の王様になって欲しいとまで願っていたことも。 きっと皆、コンラッドの事が好きだったんだろうな。強くて、凛々しくて、カッコ良くて、ホントに最高だもんな。 だからきっと、コンラッドが自分達から去っていくと知った時、泣いた人もいたんだろう。 コンラッドに戻ってきて欲しいと、今も祈っている人がいるんだろう。 眞魔国にきてコンラッドを探し出そうとしてる人達も、コンラッドの副官をしてたくらいだから、きっとコンラッドが大好きなんだ。 でも、あげない。 コンラッドは渡さない。 その人達よりずっと、おれ達の方が、おれの方が、ずっとずっとずっとコンラッドが好きで、大好きで、大事で、頼りにしてるんだ。 必要としてるんだ! そしてコンラッドも。 『俺が唯一最大望むことは、あなたのお側にいることです。あなたにお仕えしている時間こそが、俺の最も充実した、心満たされる時なのです』 そうだ。おれにはっきりそう言ったんだ。 おれと一緒じゃないと、自分が自分じゃなくなるって。壊れていくって。 そう言ったんだ! おれが求めてる。 コンラッドが求めてる。 だから、おれの知らないどんな人達がコンラッドを欲しがっても。 誰が来て、何を言っても。 絶対に渡さない。 おれが。 追い返してやる! →NEXT プラウザよりお戻り下さい
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