「感情」っていうのは、つまるところ、脳内の電気信号に過ぎないんだと、何かの本で読んだ。
 そんなものに右往左往するのは、バカげたことだと登場人物が嘯いてた。

 「心」とか「魂」とか、どこにあるかと尋ねられたら、日本人は胸を指す。でも欧米人は頭を指すんだと、やっぱり何かの本で読んだ。
 日本で欧米ほど臓器移植が徹底されないのはそういう意識の違いのせいもある、と書いてあった。……どうしてそういう結論になるのか、さっぱり覚えてないけど。

 もしもおれが自分の「心」抱き締めたくなったら、やっぱり両手の指を広げて、思いを込めて胸に手を当てる、と思った。じゃなかったら、胸ごと身体を抱き締める。
 間違っても頭を抱えたりしない。……それって何か違うし。

 アメリカ人とかって、自分の「心」や「思い」を抱き締めたいって思うこと、ないのかな?
 溢れる思いに胸が痛んだら、やっぱりそこに「心」があるって思わないのかな?
 ……あ、でも、そういえば「肩凝り」って日本人(もしかしたら東洋人全般? 分かんないけど)特有の言葉なんだって聞いたな。欧米人に肩凝りがないかっていうと、ない訳ないんで、あっちの人だって当然肩が凝る。でも、肩が凝って痛むのは当たり前の事なので、わざわざ「肩凝り」って呼んだり、だからそのために肩揉みするなんて端から考えないんだそうだ。
 外国にだってマッサージあるじゃん、と言ったら、彼らのマッサージと肩揉みは違うんだと、教えてくれたヤツが言ってた。
 だから………何が言いたかったかというと。
 欧米人は、胸が痛むのは当たり前で、だからといって、そこに「心」があるなんて考えないのかも知れない、って思ったんだ。
 だから………。

「………ワケ分かんね……」
 おれってば、何を考えてんだろ。

 はあ、と息をついて、おれはベッドに寝転がったまま、枕の方にころころ、それから逆方向にころころ、何度か往復して転がってみた。
 ………不毛だ。

 今日は日曜日で。だからホントは野球の練習をしたいところなんだけど、いつもの河川敷は町の行事に押さえられてしまっていた。せっかくの野球日和だってのに。
 草野球チームの練習は、先週の日曜にもあった。おれもちゃんと参加した。……ほんの1週間前だ。でもおれの時間感覚では、3か月以上も前のコトだったりする。
 思う存分練習して、家に帰って、おふくろが揚げる竜田揚げの香ばしい香りを嗅ぎながら、気持良く風呂に入った。ら、いきなり風呂の底が消滅して、おれは異世界に運ばれてしまった。
 で、異世界は眞魔国、おれの大事な国で王様業に励むこと3ヵ月とちょっと。
 渋谷家の内風呂とは桁違いにでかい魔王専用風呂から、ある日またまたいきなり帰ってきた。
 やれやれ、と髪を拭きつつ風呂場を出ると、おふくろが大量の竜田揚げをテーブルにセッティングしてるトコだった。
「あ、ゆーちゃん、ナイスタイミングよ〜。今、パパが帰ってきたところ。ゴルフ場のバスルームでお風呂済ませてきちゃったんだって。お兄ちゃんはどうせ遅いし、ご飯にしましょ」
「お、ゆーちゃん、今日の練習はどうだった?」
 冷蔵庫からビールと、冷やしておいたコップを取り出しながら、おやじが声を掛けてくる。
 おやじもおふくろも、おれと異世界の関わりにについてはちゃんと知ってる。でもおれは「今あっちから帰ってきたとこ」なんて、いちいち報告をしようとは思わなかった。何となく……「別のもの」だと思うんだ。何が「別」なのか、実はよく分かってない気もするんだけど。
「んー……楽しかった」
 野球が楽しくないはずないから、間違ってはないはずだ。
 でも、3ヵ月以上王様としてイロイロやってると、草野球の練習で何があったかなんて忘れてしまう。
 だから当然、次の週は練習場が使えなくなるからお休み、ということも忘れていた。
 久し振りの地球での野球だと気合いを入れて出かけてみたら、河川敷は市役所や小学校の校名が書かれたテントで埋まっていた。そこでようやく記憶を取り戻したわけだ。
 仕方がないからとぼとぼと帰ってきて、でも他に何も予定がないからすっかり手持ちがぶたさん…じゃなくって、手持ち無沙汰になってしまった。
 てなわけで、野球道具一式を入れたバッグを床に放り出し、ベッドに八つ当たり気分でどさりと腰を下ろし、そのまま寝転がって……。
 そしたら、意味不明の思考が頭をぐるぐるし始めて……今に至るわけなんだな。
 何だかなあ……。


 感情が、脳の電気信号に過ぎないなら、人を「好き」になったり「嫌い」になったりするのも、ただの信号なのかな。……モールス信号、みたいな?
 信号っていうと、これと、後は赤青黄色のアレとかしか思い浮かばないし。
 ただ回路を走るだけの電気信号に、深遠なものを求めるなんてバカげてる。感情なんて錯覚に過ぎない。持ってると思うだけ無駄なんだ、と、あの本の登場人物は叫んでた。
 面白いから読んでみろと、クラスメートに半ば押し付けられた、あれはミステリーだったっけ。内容はもう丸っきり忘れてしまったんだけど。いや、電気信号がどうとかも、忘れてたはずなんだけど。
 何でだろ。いきなり頭に蘇ってきた。

 ただの電気信号なら……っていっても、それがどんなものかも全然分からないんだけど、ひどく無機質なものだってことだけは何となく想像できるそれが、人の「感情」の正体なら、誰かを「好き」になるのはどうしてなんだろ。そもそも「好き」って、何なんだろう。
 どうしてたくさんの人の中で、たった1人、そのたった1人にそんな正体不明の「感情」を抱いてしまうんだろう。

 胸に手を当てた。

 一つのことを思うだけで、胸の真ん中、それこそ異世界の入り口みたいに深いところから、わんわんと何かが溢れてくる。
 それが心臓を叩いて、だから心臓が痛くて仕方がない。
 心臓が痛いから、涙だって浮かぶ。

 腕で目を隠した。

 こんな日曜の朝っぱらから。
 窓から見える空だって、あんなに高くて、あんなに透き通るみたいに青いのに。

 おれってば、何なんだ。

 どうしよう。どうしよう。

 おれ、どうしよう。なあ………。



 少し前から、何となく妙だなと思ってた。
 それが何だか、全然分かってなかった。
 分からないまま、おれはあの日、風呂場から眞魔国に飛んだ。

 最初に感じたのは、お湯の温もりだった。
 思わずラッキーと心に叫んだ。だって、おれ、素っ裸だし。これで城の噴水から現れようもんなら、間違いなく猥褻物陳列罪っつーか……変態さんだし。
 ぶはーとお湯から飛び出したら、そこは見慣れた魔王専用浴場だった。まじラッキー。

「お帰りなさい、陛下」

 優しい声にパッと顔を向けると、でっかいバスタオルを広げた笑顔の名付け親がいた。
「コンラッド!」
 無条件で嬉しくなって、おれはざばざばとお湯を掻き分けるようにコンラッドの元に向かった。
 瞬間、コンラッドの眼差しが訝し気に揺れる。おれの、何も身につけてない身体を見ている。
「あっちでも風呂に入ってたんだ。ここに出れてよかったよ」
 そう言うと、納得したように「なるほど」と笑った。
「身体はもう洗ってしまわれましたか?」
 その問いかけに、ううん、とおれは首を振った。
「入ったトコだったし、まだ。…あ、じゃあ、ここでこのまま洗っちゃおうかな」
「それがよろしいですね。では俺は、陛下が風呂から上がる頃にまたお伺いします」
 コンラッド! と、わざと声を尖らせてみる。
「陛下ってゆーな、名付け親!」
 いつもの突っ込みを入れると、コンラッドが「済みません、ついクセで」といつもの言い訳をしながらタオルを畳み始めた。それから立ち上がると、軽く一礼してその場を去ろうとして……なぜか立ち止まると、お湯に浸かるおれの顔を覗き込むようにした。
「………なに?」
「髪とか身体とか、洗って差し上げましょうか?」
 えっ、遠慮しますっ! 思わず吃って叫ぶと、コンラッドがくすくすと笑う。……からかわれてる。
「それは残念」
 そう言いながら背を向けようとした名付け親に、おれは両手で掬ったお湯を勢い良く掛けてやった。
 ……お湯に濡れても、コンラッドの笑顔は全然変わらない。

 彼が去った扉を、おれは何となく見つめてしまっていた。

 おれの名付け親で護衛で野球仲間のウェラー卿コンラートは、何をやっても何を言っても、とにかくカッコ良いんだ。


 コンラッドが大シマロンから帰ってきて。
 おれはもう、むちゃくちゃ嬉しかった。
 コンラッドがおれを見限ったわけでも、嫌いになったわけでもなかったことや、もうどこにも行かないと約束してくれたこと、そんなこんなが嬉しくて嬉しくて。でも同時に、もしまたどこかに行ってしまったらどうしようとか、明日目を覚ましたら、コンラッドがほんとは帰ってきてなかったりしたらどうしようとか、何だか妙な不安に襲われたりした。そんなコトあるはずないって頭では分かっているのに、不安はなぜかどんどん重くなる。コンラッドが帰ってきて何日もしない内に、おれは嬉しいのと怖いのと、とにかく色んなものが身体の中でごっちゃになって、今考えるとちょっとヘンになってた…かもしれない。よく覚えてない。
 覚えてるのは、コンラッドがいつもしっかり側にいてくれたこと。
「大丈夫だよ。どこにもいかない。ずっとユーリの側にいるよ」と、いつも囁いて、そしてぎゅっとしてくれていたこと。
 それから、「もう絶対、何があっても絶対絶対、コンラッドをどこにもやるもんか。誰にも渡すもんか」と、おれが胸に誓ったこと、だけだ。

 そうして、コンラッドはちゃんとおれの側にいてくれた。
 初めてのバイト(労働実習?)に出かけた時も、追いかけてきてくれた。
 新しい出会いもあって、すっごく楽しかった。コンラッドも一緒に護衛してくれたヨザックも、とっても有意義で、自分達も楽しかったと喜んでくれた。
 その頃くらいからだろうか。

 おれは、いつもコンラッドを見てる自分に気づいた。

 そんなおれに気づいたのは、おれだけじゃなかった。
「ユーリっ! どうしてそんな熱い目でコンラートを見ているっ!? この浮気者っ、尻軽っ、へなちょこっ!!」
 襟首をひっ掴んで、ヴォルフがおれの頭をわっさわっさと揺さぶる。
「…あっ……へ……だっ……いー…っ!」
 熱い目って、何なんだよ、それっ!
 へなちょこは違うだろうが!
 だから仕事の邪魔すんなよっ。
 インクが飛んで書類が汚れるーっ。
 頭ががくがくするので、言いたいセリフは口から飛び出すことを諦めて、胸に逆戻りした。

 どうどう、とコンラッドが苦笑しながら間に割って入る。
 執務中は執務に集中しろ、とグウェンのずしりとした声が響く。
 おれとヴォルフは慌てて居住まいを正して……って、どうしておれまで怒られるんだ?
 とにかく。
 おれは、気がつくと、いつもコンラッドの姿を追うようになっていた。

 その理由は、おれの中ですぐに見つかった。
 おれ、コンラッドに憧れてるんだ。
 だって、コンラッドってホントにカッコ良いだろ? 。
 まず美形過ぎないのがいいよな。じっと顔見てても、劣等感を刺激されることもなく、かっこいいなーってしみじみ見蕩れていられる。で、その顔に笑みが浮かんだりすると、ホントに気持良くなるって言うか。おれ、コンラッドの笑顔に、色んなモノを解してもらってきたって気もするし。
 それから、背も高くて、均整のとれたって言うんだよな、あの体つき。きびきびして動きに無駄がないっていうか、さすが軍人さんっていうか。とにかくどんな仕種も、表情も、何から何まで、全部カッコ良い!
 同じ男として、憧れても当然だろ?
 それともう一つ。
 おれはやっぱり不安なんだと思った。
 いつもさりげなく、コンラッドはおれの後ろに立っている。執務をしてる時も、歩いてる時も、何か理由がない限り隣には並んでくれない。半歩から1歩、いつの間にか後ろにいるんだ。だから…時々不安になる。
 ちゃんといてくれるか、おれを見ててくれてるか、確かめないではいられないんだ。
 それを無理に我慢してると、心臓の辺りがキリキリ痛くなってくる。口にしたら、ギュンター辺りが慌ててギーゼラさんを呼んでしまうから黙ってたけど。

 だから、いつも見てる。

 おれってば、小心者だってのは自覚してたけど、結構弱虫だったんだ。

 かなり情けなくはあるけれど、おれはそれなりに納得して、で、毎日をいつも通りに過ごしてた。
書類は山積み、ギュンターはすぐ汁だらけで叫ぶし、グウェンの眉間の皺は深いし、ヴォルフは怒鳴るし、そして……コンラッドは笑ってる。
 仕事をこなして、キャッチボールして、たまに、まあ時々、えーと、しょっちゅう…コンラッドと城を脱走しては街を見て回ったり、仕事を終えて訪ねてくれたヨザックに裏町を案内してもらったり、ヴォルフや村田も加わって、街中駆け回ったり、お茶したり。……あ、そういえば、次のバイトは新聞記者だと決めて、ティートのいる新聞社に行こうとしたら、何故か次々アクシデントが目の前で発生して、結局その日は行き着けなかったってコトもあったっけ。あれはヘンだったなー。コンラッドも残念そうな顔で、「眞王陛下が、今日は止めておけと仰せになっておられるのかもしれませんね」って慰めてくれたけど……ってコトはどうでもよくて。
 とにかくおれの日常は、おれなりに平穏無事に過ぎていった、はずだった。
 あの夜まで。


 大事な決裁だから、今日は逃げられんぞ、とグウェンに睨まれて、おれはキャッチボールもできないまま、その日は一日サイン書きに追われてた。
 やっとの思いで仕事から解放されたのはもう夕食時で、そのまま全員で、つまりおれとコンラッドとグウェンとギュンターとヴォルフとで、食堂に向かった。疲れたーとか取り留めもないことを話ながら廊下を歩いていたら、その時突然兵隊さんの1人が走って来て、コンラッドにどうしても見てもらって判断して欲しいことがあるって言ってきたんだ。王都警備の何とかって言ってたけど、とにかくコンラッドはその場でおれ達と別れて、どこかに行ってしまった。そして結局そのまま、夕食のテーブルに姿を見せなかった。
 食事を終えて、風呂に入って、おれの一日はそれで終わるんだけど、おれは大事なことをやり残したような気分を抱えてイライラしてた。理由はもちろん分かってる。
 今日は一日、コンラッドとろくに話ができなかった。どころか、顔もまともに見てない。ほとんど一日中、後ろに立っていたからだ。
 時折、ちらちらと振り返るおれに、コンラッドは必ず笑みを返してくれた。「ここにいますよ」と、言葉にならない声が聞こえるような気がした。その度に、ホッと息をついたりしてたんだけど……。

「よし」
 ヴォルフの鼾を背に、おれは部屋を飛び出した。
 ウェラー卿の部屋に行くんだから大丈夫、と当番の衛兵さんに一言告げて、足早に歩く。たぶん少し距離をとって、兵隊さんが従いてきてくれてるんだろうけど、それはもう仕方のないことだから気にしないことにしてる。おれがコンラッドの部屋に入ったら戻るんだろうし。

 コンラッドが不在の頃、彼の部屋はそのままになっていたけれど、そこはいつも冷たい風が吹いてるように寒々としてた。部屋にあるもの全部が、まるでモノトーンの絵画か、コンクリート製のモニュメントの様に温度をなくし、あらゆる生きてるものの気配を失っていた。ずっとその場にいるのが怖くなるくらいに。
 でも、もう違う。コンラッドの部屋は、ちゃんとコンラッドの部屋になった。生き返ったんだ。
 居間と書斎と寝室と浴室を備えた、まあ平均的日本人の感覚だとそれだけで大したもんだと思うけど、でも、元王子様の部屋としては信じられないくらい、魔王の部屋とは比べられないくらいこぢんまりとした、質素で、装飾品の少ない部屋だ。
 それでもそこはコンラッドの温もりに溢れてて、ホッと心が落ち着く。

 コンラッドが帰国してから何度も訪れた部屋の扉を軽くノックする。夜だから、ちょっと遠慮気味に。
 結構厚い扉だから、軽いノックで聞こえるのかといつも不安に思うけど、コンラッドがおれの合図を聞き逃したことは一度もない。それどころか、ノックしようと手を上げた瞬間、「いらっしゃい、ユーリ」と扉を開けられたこともある。ちゃんと分かるんだとコンラッドは言うけど、どうして分かるのかおれには全然理解できない。やっぱりキャリアを積んだ軍人さんはすごいんだって思うだけだ。
 なのに。
 その夜は、何度ノックしても扉は開かなかった。
 変だな、と思い、でも引き返そうとは全然思わなくて、おれは扉を開いた。コンラッドが部屋の鍵を掛けないってことは前から知ってたし。
「……ごめんください。……お邪魔します。………コンラッド、いないのか……?」
 入った部屋はほかほかと暖かかった。暖炉に火が入ってる。…ってことは、コンラッドはいるはずで、部屋を出ているとしてもすぐに戻ってくるはずだ。
 不法侵入の前科は、実は結構あったりする。勝手に寝室に入ってベッドに潜り込んだり、風呂を使ったりなんてことはさすがにしてないけど、コンラッドの帰りを待ってソファでうたた寝、なんてことは割とある。それでコンラッドがイヤな顔をしたことは一度もない。むしろ「お待たせしました」って、笑顔で起こしてくれたりする。だから、その時もおれはあまり気にしないで部屋に入り込んだ。

 すぐ戻ってくるだろうと思ってたから、おれは居間のソファにちょこんと座って、見慣れた部屋を何となく見渡していた。そしたら。
 あの、コンラッドの部屋最大の謎、棚の一番良い場所に鎮座してるアヒルのおもちゃが目に入った。
 ………地球産、だよなあ、どう見ても。
 あれはどうしたの? どうしてあんなに大事に飾ってあるの? 何度か尋ねたけど、コンラッドはいつも笑ってるだけだ。
 棚は、埼玉のおれの部屋にあるスチールの安物なんかとは全然違ってて、ハンドメイド(当然だけど)の、きっとちゃんとした職人さんが長年培ったプロの技を注いで作ったんだろうなと、おれみたいな素人にも分かるほど立派なものだ。無骨っていうか、がっしりとしてて、なのに良く見ると品の良さげな紋様なんかも彫ってある。そこにまっ黄色のアヒルが鎮座していると、何と言うかー……ミスマッチだ。
 コンラッドには、まだまだおれの知らない謎がいっぱいある。
 急にそう思いついたら、何だかじっとしていられなくなった。つまりその……おれの好奇心というか、探究心に火がついた、というか……。
 おれはソファを立って、居間をぐるりと見て回った。
 部屋の持ち主がいないところで、そうやって探るような真似をするのはよくない、と、頭の隅で理性の声がする。でも……何つーか、ほら、あるだろ? そういうことが。
 誰かのことを知りたくて、うずうずしてて、突然チャンスが巡ってきたら、もう居ても立ってもいられなくなるっていうことが。
 だけど机の引き出しを覗くような失礼な真似は絶対しない。そんなの、コンラッドに知られたら、軽蔑されちゃうじゃないか。
 おれは書斎(という名のほとんど書庫)に入り込むと、棚を丹念に見て、並んでる本の背表紙を目を凝らして読んだ。まあ、半分以上は指を使って読み取った。それで、コンラッドがどういう本を読むのかちょっとだけ分かって嬉しくなったりした。意外と歴史好きなんだ。新発見だ。
 それとびっくりしたのは、アルファベットで題名が書かれた本が数冊並んでいたことだ。
 アメリカから持って来たのかな? わざわざ?
 何の本だろうと俄然興味を持って指でなぞったけど、読み取ることはできなかった。つまりー…異世界の文字は理解できたのに、地球の文字は理解出来なかったというワケでー……お恥ずかしいです。英語の先生、ゴメンなさい。
 とにかく、おれはちょっとした新発見にすっかり気分が良くなって、さらに勢いづいてしまった。
 視線が寝室のドアに向く。
「………お邪魔しまーす」
 コンラッドの寝室の扉を開け、1歩、足を踏み入れる。

 その時だった。

 ガチャ、と扉を開く音がした。帰って来た? 一瞬そう思ったけど、違ってた。
 開いたのは、寝室の奥にあるもう一つの扉。浴室に通じるドアだった。

 コンラッド、お風呂に入っ……。

 浮かんだ言葉が、途中で消えた。

 浴室から、コンラッドが大きなバスタオルで身体を拭きながら出て来た。
 ほこほこと充分温もった様子で、寝室の温度が低いせいか、ほんのりと上気した全身から湯気が立ち上ってるように見えた。
 つまり。だからその。

 コンラッド、は、はだ……。

「あ」
「あ」

 身体を拭くコンラッドの手が止まる。おれの呼吸も止まる。
 そして次の瞬間、おれの心臓がどーんと音を立てて胸の中で破裂した。ホントにそう思った。

「……っ! …ごっ、ごごごご、ごめんっ!!」

 もう何が何して何とやら。
 気がついたら、おれはコンラッドの部屋を飛び出していた。
「ユーリ!?」
 コンラッドの声が聞こえたけど、とにかくおれは突っ走った。顔が燃えてるみたいに熱かった。


 部屋に駆け込んで(衛兵さん達は、さぞびっくりしただろう)、その勢いのままベッドにダイビングした。
 スプリングの効いたベッドが、ばうんばうんと大きく揺れて、ヴォルフの鼾が微妙に乱れた。
 そのまま毛布を手繰り寄せて、一緒に転がって来たヴォルフを邪険に蹴飛ばして、おれは毛布を頭から引っ被るとそのまま蓑虫になった。
 ベッドの真ん中で、額をシーツに押し付ける。勢いがよすぎて、打ち付けるになった。
 柔らかいし、全然痛くないけど、ばうん、と一つ、ベッドが揺れた。
 頭を上げて、もう一度額をシーツに打ち付ける。ばうん。今度は身体ごと。ばうん。

 どうしよう。ばうん。どうしよう。ばうん。
 見ちゃった。見ちゃった。ばうん。ばうん。

 コンラッド。

 コンラッド。すごく。

 綺麗だった……っ!!

 毛布を頭から被ったまま、おれはシーツにぐったりと身体を伸ばした。
 そして、火照った頬をシーツで冷やすように押し付ける。でも、頭に浮かんで離れないあの映像に、冷やしたと思った頬はすぐにかっかと熱くなった。

 男の身体って……あんなに綺麗なものだっけ……?

 考えて、それからあまりの恥ずかしさに今度はベッドをごろごろ転がった。

 何考えてんだ、おれ? おれだって男じゃん!
 同じ男の裸なんて、まじまじ見たいもんじゃ絶対ない! それでもおれ、飽きる程見てきたじゃんっ!
 親父や兄貴が、腰にバスタオルを巻いただけの格好で、冷蔵庫から缶ビールを取り出して、その場でゴクゴク飲んでる姿は、夏ならほとんど毎日見る光景だ。小さい頃は、そのタオルを剥ぎ取るのが面白かった。今は、みっともねーぞ、とか何とか言って無視してる。
 なのに、何でだ?
 おれ、何でこんなに興奮してんだ?
 こんなに。

 ………だって……。

 ほんとに綺麗だって思ったんだ。恥ずかしいとか照れくさいとかの先に、すっごい綺麗だ! って。

 長身で、でも頭の先から爪先までのバランスが完璧なんだと思う。
 逞しくて、でも、ヨザックみたいな逞しさと全然違ってて。そう、すっごくしなやかで。
 首から肩のライン。胸から腰の……それから……。

 何故だかうっとりと思い浮かべてる自分に気づいて、おれの顔はまたもかっかと熱くなった。心臓の鼓動もどきどきと薄い胸を叩いてる。……コンラッドの逞しくて綺麗な胸とは雲泥の差の、貧弱な胸だ。

 ほんのちょっとの時間だったはずなのに、何だか隅々まで思い出せる自分が堪らない。
 ホントに隅々まで……。うはぁ……。

「……あ」
 突然思い出した。
 そうだ。コンラッドの身体。
「傷、が……」
 身体中に、傷跡が残ってた。あれは ……。

「ユーリ」

 どーん、と、またまた心臓が爆発する。

「ユーリ? 起きてますか?」

 後頭部、毛布越しに、コンラッドの大きな掌を感じた。優しく撫でるように、おれの頭を包んでくれてる。
 もぞもぞと動いて、おれは毛布からちょこっと顔を出した。……謝らなきゃ。
 見上げたら、おれを心配そうに見ていたコンラッドが、ふわっと笑った。
「先ほどは失礼しました」
 先に謝られてしまった。おれの顔を見ていたコンラッドが何を思ったのか、くすっと吹き出した。
「お見苦しいものをお見せしまして」
 思わず毛布を撥ね除けて、がばっと起き上がった。
「見苦しくなんかなかったっ!」
 叫んだら、コンラッドがかなりびっくり眼でおれを見ていた。

 ……………だーっ!! おれは一体何をっ!!?

「じゃじゃじゃ、なくてーっ! えっと、そのっ」
 とっても綺麗だったとでも言う気か、おれっ!?
「こっちこそ、ごめん!」
 そうだ、おれ! エラいぞ! よく忘れずに謝った!
「そのっ、勝手に寝室に入り込んで! えっと、それから、風呂上がりをじゃまして……その……えーと、あ、あーっ!!」
 咄嗟にコンラッドの髪に両手を突っ込んでしまった。
「濡れてるじゃん! よく拭かなかったんだろっ。……えーと、ごめんっ、おれが、その……っ」
「突然駆け出してしまわれるから、慌ててしまいました」
「……ご……ごめん……。あ、そうだ、タオル……っ。拭かないと、コンラッド、風邪ひいて……」
 慌ててベッドから降りようとするおれの肩を、コンラッドの両手がそっと押さえる。
「……コンラッド……?」
「大丈夫ですよ、これくらい。……それより、どうしたんですか? あんなに慌てて。今もひどく狼狽えておいでになる。……何かありましたか? 俺の部屋においでになったのは……何か、問題でも?」
「…あ、や……そうじゃなくて……。その……コンラッドが、裸、だったから……その……」
 照れくさくなって。
 呟くようにそう言ったら、コンラッドがくすくすと笑い出した。
 どうしたんですか? ユーリ? 笑いながら、コンラッドがおれの顔を覗き込む。
「温泉に一緒に入ったこともあるでしょう? ユーリが風呂で俺の背中を流して下さったこともありましたよ? それなのに……」

 あれ?

 言われて、おれは一瞬きょとんとコンラッドの顔を見返した。

 そうだった。……そうだよ。
 ヒルドヤードの温泉で、入浴用の小さなパンツを穿いただけのほとんどオールヌードで、おれもコンラッドもヴォルフも……グレタはスクール水着だったけど、一緒にお湯に浸かったんだ。
 それから、魔王専用風呂でも何度か、雨に降られて濡れたり、汗を掻いたりした時に、遠慮するコンラッドをほとんど無理矢理引き込んで、一緒に入ったこともある。そう、お互いの背中を流したりも。
 それはほとんどコンラッドが大シマロンに行く前のことだけど、帰って来てからも……あれ? コンラッドに髪や、それに身体も……洗ってもらったりしてなかったっけ……?
 えっと、それはまあ、いいや。
 とにかく、おれがコンラッドの身体を見たのは、今回が初めてじゃない。
 そしておれがこんなにおかしくなったことは、これまで一度も……ない、よな?

「………だよね」
 そうですよ、とコンラッドが笑う。

 ベッドに横になると、コンラッドがそっと毛布を首まで引き上げてくれた。柔らかくて、ふかふかした肌触りが気持良い。ううん、それよりもっと、頭を撫でてくれるコンラッドの手が……。
「コンラッド…?」
「はい? ユーリ」
「……コンラッドの身体の傷が……増えてたような気が、する……」
 おれの頭を撫でてたコンラッドの手がぴくりと止まった。
「……本当に……お見苦しいものを……」
「だから! 見苦しくなんかないっ!」
 おれは思わず両腕を出して、額の上で止まったままのコンラッドの手を取った。
「コンラッドが命を護るために、ううん、この国や、その、おれのために、戦ってきてくれた証拠、だろ?」
 見苦しいことなんか、全然ないよ!
 叫ぶように言うおれに、コンラッドが笑みを返してくれる。優しくて、ひどく静かな笑みだった。
「ありがとう、ユーリ」
 コンラッドは、手を握ったままのおれの手を、逆にぎゅっと握り返すと、そっと毛布の中に戻した。そして、またそっと頭を撫でて、「もうお休み、ユーリ。側にいるから」と囁いてくれた。
 その言葉と、手の温もり、毛布の柔らかさ、それから、これだけ色々やってても、全然変化しないヴォルフの鼾が誘眠剤となって、おれの意識は急激に眠りの闇に落ちていった。

 ねえ、コンラッド……?

 それは呟きになっていただろうか。

 コンラッドの身体、傷だらけだったけど、おれ、それもみんな引っ括めたコンラッドの全部が。

 すっごく綺麗だって、思ったよ……?



「……………で? 僕に何が聞きたいわけ?」

 おれの真正面で、大賢者様がゆっくりとカップを傾けている。

 やっともぎ取った休憩を、おれはキャッチボールも諦めて眞王廟へ行き、村田と会うことに充てた。
 何事かとコンラッドは理由を聞きたそうにしてたけど、さすがに……言えないので黙ってたら、結局何も聞かずに眞王廟までお供をしてくれた。そして今は、大事な話があるからと告げて席を外してもらっている。
 この部屋に入る直前に見たコンラッドの、ちょっと不安そうな、そしてちょっと傷ついたみたいな表情が、さっきから胸をちくちく刺して何だか辛い。

「だからさ」
 おれは、話し始めた当初から、どうにもげっそりして見える村田に向かって、少しだけ身を乗り出した。
「おれ、変態?」

 カップを口にあてた形のまま、留まることたっぷり3秒。それから村田はカップをテーブルに戻すと、おれをじーっと見つめ、やおら「はぁぁぁぁ」とたっぷりわざとらしいため息をついた。
「………なんだよー」
 あのねえ、渋谷。
 ダイケンジャーが、いかにも僕は疲れてます、という声でおれを呼ぶ。
「君ね、周りが迷惑するから、いい加減自覚してくれないかな?」
「自覚、って………何の?」
 アメリカ人でもないくせに、村田は肩を竦めて両手を軽く掲げると、大げさに首を振った。
「自覚なんてね、人に教えられてするもんじゃないよ」
 何だよ、それ。言いながらおれは添えられていた焼き菓子を頬張ると、少々大きすぎた欠片をもっくもっくと咀嚼した。そんなおれをしみじみと眺めて、村田が「やれやれ」と呟く。
「……以前見たときは何とも思わなかったのに、その時は…えーと、心臓がどーんときて、頬っぺたがぐわっと燃えて、たまらなくなって逃げ出して、ベッドの中でドキドキばうんばうん……だったんだっけ? それから、翌日も……」
 うん、と焼き菓子を飲み下しながら、おれは頷いた。

 あの次の朝、起こしにきてくれたコンラッドの顔を見た瞬間、ばふんっ、と音を立てて、今度は脳が破裂した。あの、風呂から出て来た瞬間の映像が、一気に目の前に蘇ってしまったからだ。
 結局その日はほとんど1日、コンラッドが視界に入る度におれの脳は「ばふんっ」と爆発して、その炎で顔が真っ赤に燃えた。
「ユーリっ! お前、コンラートを見てどうしてそうも真っ赤になるんだっ!? まっ、まさか、本当にコンラートと……! こっこっこのっ、浮気者ーっっ!!」
 ヴォルフが絶叫し、コンラッドと決闘するとかめちゃくちゃなコトを言い出して、結局コトの原因を、おれはコンラッドはもちろん、グウェンやギュンターのいる場所で白状しなくちゃならなくなった。
「……風呂上がりのコンラートの身体を見てしまって……それで照れくさくなった、だとぉ……?」
「照れくさいというか、何というか……」
 てっきりバカバカしいと鼻で笑われると思ったのに、ヴォルフの声と雰囲気がますます険悪になっていく。
 そして。
「ユーリ!!」
 いきなり叫ばれた。と、次の瞬間。
「僕の身体を見ろっ!!」
 ヴォルフがいきなり上着をはだけ、シャツのボタンを引きちぎるようにして上半身を露出させた。
「……ヴォルフ……」
 何だかものすごい剣幕で上半身裸になったヴォルフが、おれを睨み付けてくる。
 何となく、妙な沈黙が部屋に広がった。誰もが、おれの様子をじっと窺っているような気がする。
 で、おれはというと。
 別に何ということもなく、どちらかというと呆れ気分で目の前の裸を見ていた。
 なぜならそれは、学校の更衣室やプールや風呂で、どうということもなくしょっちゅう目にしている同年代の、当たり前の身体と全く同じものだからだ。とにかく……そういう印象しか持ち様がなかった。

 そういえば、おれ、村田ともよく銭湯に通ってたんだよな。全部見てるし……。
 あれも何ともないよなあ。

 ふと気づくと、おれの反応を待ってるのか、ヴォルフが目をぎんぎんさせておれを睨み付けている。
 どうしょうもなくて、おれはため息をついた。
「……何やってんだよ、ヴォルフ。服、着ろよ。風邪ひくぞ」
 その瞬間、ヴォルフは何だかものすごく傷ついたように目を瞠き、それから顔をさらに赤く染めた。
「………ユーリ……っ!」
 怒ってる。何だかよく分からないけど、ものすごく怒ってるぞ、これ。
 思わず腰が引けたおれに向かって、ヴォルフが拳を振り上げる。それがぷるぷると震えていた。

「……っ、この……浮気者っ! 尻軽っ! 薄情者! そ、それから……っ!」
 噛み締めた唇が、わなわなと震えている。と、いきなりヴォルフは放り出してあった上着を引っ掴むと、荒々しく執務室を出ていった。

「………ヴォルフも何だか変だったよなあ……」
 しみじみ言うと、村田が困ったように顳かみをぽりぽりと掻いている。
「よもやここまで、とはねえ……」
「何がここまでなんだよっ」
「鈍い! ってコトさ」
「ニブい…? って、ヴォルフが?」
「き・み・だ・よっ! ……フォンビーレフェルト卿は、まあ、気の毒というか……」
「わっかんねーよ!」
「分かるよ!」
 おれの声に被せるように強い調子で言うと、村田はまたため息をついた。
「………このままじゃ………も……できないじゃないか……」
 俯くようにして呟かれた言葉は、肝心な部分が耳に入ってこなかった。
「……何だって?」
 問い返したおれに、「なんでもないよ」と村田が答える。
 それから気を取り直したように背筋を伸ばすと、村田はおれの目を真直ぐ見つめて口を開いた。
「答えは君の中にちゃんとあるよ。それもそんなに深い所に隠れてる訳じゃない。ちゃんと考えるんだ。そして自覚したら、その時はいつでも相談に乗るよ。今はまだダメだね。……さ、もう城に帰る時間だ。外でウェラー卿が心配してるよ。いきなり二人だけで話をしたいなんて言い出すからさ。彼を心配させたくないだろう?」
「それは……」
 もちろん、と頷いた。そして立ち上がる。
 村田はもうこれ以上、何も教えてくれないだろう。

 そして、それから程なくして。
 おれは、自分が村田が言う以上に、底抜けのニブちん野郎だってことを自覚することになる。  



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えーと。……ゴメンなさい。

ユーリ両性発覚話を書こうと思ったのですよ。確かに。
で、ユーリの女性の部分が成長するのは、恋心に比例するんだよね、とか捏造設定に浸っていたら、何やら始まりがこんなトコから。

コトもあろうに、いっちばん苦手なラブ! ですよ。

苦手意識があっちこっちに見え隠れしておりますが、すみません、おつき合い下さいませ。

さらさらっとボールパークの告白までいっちゃえ、とか思ってたけど、この分じゃどうなることやら、です。
とにかく頑張ります。

ご感想、お待ち申しております。