船出の鐘・4 |
「魔王陛下、宰相閣下、王佐閣下、そしてフォンカーベルニコフ卿アニシナ様がお見えです」 部屋に入って来たグリエさんが、改めてそう告げた。 一瞬の沈黙の後、凄い騒ぎと混乱が巻き起こった。役人達がバタバタと立ち上がり、並んでいた椅子を片付け、整列する。どの顔にも戸惑いが浮かんでいるから、きっとこんなことは滅多にないのだろう。と思う。が、私もそれでころじゃなかった。 魔王陛下。宰相閣下。王佐閣下。フォンカーベルニコフ卿アニシナ様。 眞魔国の。 支配の頂点に立っておられる貴い方々がっ!? 誰よりも何よりも。 偉大なる魔王陛下。がっ!!? 私のいる、この部屋に、こんな会議室に、おみ足をお運びになる!? クエスも、もちろん私も、部屋に集う人々からあっさりと存在を忘れ去られた。 私は、思わず後ずさり、背後にあった壁にぴたりと背中をつけた。 このまま壁の一部になろう。 陛下が御身をお運びになる場所に、私なんかがいていいはずがない。 だから、私は壁になろう。花なんて望まない。壁のシミで充分だ。 誰の目にも止まらぬように。誰の注意も引かないように。 混乱し切って、私は目を見開いたまま、呼吸も忘れて壁に背中からへばりついた。 グリエさんが扉の脇に立って敬礼する。それに合わせて、役人達も一斉に頭を垂れた。…クエスも、役人達のすぐ後ろに、まるで同僚のように立って、同じように深々と頭を下げている。 そうして。 漆黒のお召し物に身を包まれた陛下が、二人の男性と一人の女性を従えて、会議室に入っておいでになった。 あ。意外とお小さい。 ご無礼の極みだが、それが私の第一印象だった。 「魔王陛下」という言葉に反応する、何か漠然としたものが常に私の中にある。 眞王陛下を除けば、眞魔国史上最高の魔力を有するお方。地上の精霊全てを従える「精霊の王」。奇跡ともいわれる双黒の美貌の持ち主。 目にしたらひれ伏さずにはいられない、圧倒的な迫力と威風を常に溢れさせた存在。そして、その漆黒の瞳に映る世界、その胸に抱かれる思いは、何人にも理解し得ない神秘の高みにある存在……。 だけど、部屋に入って来られた陛下は、驚く程小柄で、華奢な体格をなさっていて、その歩みは威厳から来る重みよりも、頑是無い子供のように軽やかだった。 ああ、でも、本当に真っ黒な髪をなさっておいでなんだ……。瞳も真っ黒でいらっしゃるんだろうな。見てみたいな。私が陛下の瞳を覗き見る事なんて、できるはずもないけれど。 「……陛下におかれては、実務の現場で働く者達の仕事をご覧になりたいとのご希望です。手を止めるには及びません。仕事をお続けなさい」 灰色の髪の………なっ、何てお美しいっ! ………………えーと、おそらくこの方が王佐閣下だと思うけど…。 はっ、と役人達、そしてクエスが、一斉に声を上げて更に深く頭を下げた。誰かが指示したのだろう、演壇の上に陛下の御座所が急遽設えられていく。………でも、ここは会議室で、役人達の仕事場ではないんじゃないかしら…? だって、飾り気のないだだっ広い部屋に、あるのは演壇と、先ほどまで役人達が座っていた椅子しかないのだもの。まさか……クエスの話の続きをやるの? あの嘘っぱちを、魔王陛下の御前で!? 「私の、汚水処理施設について論じていたと聞いていますよ!」 ぴんと張りのある、気持がいいほど割舌のはっきりした、ついでにちょっとエラそうな声が、会議室に響いた。 陛下が椅子に腰を下ろすのを待たず口を開いたのは、フォンカーベルニコフ卿アニシナ様だった。 こ、この方が、あの有名な毒女……。 この方もまた、想像を裏切るお姿を為さっていた。私と違って、とっても小柄で、でも均整のとれた体つきで、ものすごくお可愛らしい顔立ちをなさっている。でも、猫に似た大きくてちょっと釣り上がり気味の目からは、出会った相手がことごとく畏縮してしまいそうな強い光が放たれていた。真っ赤な髪が頭の高い所で一つに、潔い程きゅっと結ばれているのですら、何だか意志の強さの現れのように思えてしまう。………自分に自信のある人って、羨ましいな……。 フォンカーベルニコフ卿の言葉に、おそらくその場で最も地位が高いのだろう1人の役人が、「ははっ」と畏まって前に進み出た。 「閣下のご考案なされました、汚水処理の実験施設に決定致しました土地の地主の子息で…」 役人が、そこでやっと思い出したように振り返り、後方に立つクエスを手招きした。クエスが─これだけは大したものだと思うけど─胸を張って堂々と、殿上人達の前に進み出ていく。 「……ケイロン・クエスと申します。彼は、ラドフォード行政府を行政官を勤めており、これまで様々な施策を上申実現し、ラドフォードの治世に多大な貢献を致しております。フォンラドフォード卿の御推薦により、血盟城にて………」 「この者の主張に、異議を申立てに来た者がいるとも聞いていますよっ」 …………心臓が、たっぷり10秒程止まったかもしれない。 役人達が─クエスも─、一斉に私を振り返った。一斉に。視線が私に突き刺さる。 「…あ………」 情けないと笑ってくれて構わない。 私は、壁になりたかった。真剣に、壁に傷の1本でもついてないかと手探りした。あればそこに身体を潜り込ませて、自分を隠してしまえるのに。 質量さえ感じる程の視線に晒されて、顔を背ける事すらできないまま、私はひたすら背中を壁に擦り付けていた。背中の隙間を、冷たい汗が流れていく……。 「………異議等と申すべきものではないようでございます。どうも下らぬ言い掛かりのようで……。そもそもどうやってここまで入り込んできたものやら……」 「申しあげます」 役人の言葉を遮って、クエスが一礼した。 「この者は、私が出向しておりました街役場に勤務しております、一介の事務職員でございます。職場でも変わり者と評判で、少々…頭の具合がよろしくないと漏れ聞いております。いえ、私はこの者の事は大して存ぜぬのですが、役場の同僚の話によりますと、何か妄想癖があるとか……」 「男の長広舌はうっとうしいだけです!」 すぱん、と話をぶった切られて、クエスが口を開いたまま間抜けな顔で動きを止めた。 「……言うべき時に言うべき事を口にしない男も困りものですけどねっ。そうは思いませんか、グウェンダル?」 グウェンダル。……フォンヴォルテール卿グウェンダル閣下。では、この方が宰相閣下。 フォンヴォルテール卿グウェンダル閣下は、何も口にしないまま、ぷいと横を向いた。 「そこのあなた!」 ………誰、だろう……? 「あなたです!」 フォンカーベルニコフ卿が、ビシッと真直ぐ私を指差した。 「……………ひ……っ」 指から何かが発射されて、私の胸を貫く。心臓の辺りに走った痛みに、私は一瞬本気でそう思った。 「いつまで壁に頼っているつもりです? そんなもの、あなたを助けてくれはしませんよ」 一体、何を怖れているのです? フォンカーベルニコフ卿が、数歩、私に近づいてきた。 「よく周りを見てご覧なさい。そうすれば実によく分かりますよ。私と、あなたと、そして、魔王陛下の半分を除けば、ここにぞろぞろ集う有象無象の輩は……」 小柄な、赤毛の愛らしい、しかし怖い程に気力に満ちあふれたその女性は、腰に手をあて、堂々とふんぞり返って言った。 「たかが男ではありませんかっ!?」 「…………………」 「…………………」 「…………………」 「…………………………………は……?」 「男など怖れるに足らず! しかし。初めて訪れた血盟城で、あなたが緊張するのはとてもよく分かります。いえ! 私は緊張して恐怖を覚えた事など一度もありませんけどねっ! とはいえ、私ではない一般人なら、それも致し方ないでしょう! ……ならばっ。これをご覧なさい!」 何を言われているのか今一つ分からないままに、私はフォンカーベルニコフ卿がずいっと、握り合わせた拳を正面に持ち上げるのを見つめていた。……いつの間にか、役人達も皆、その手に注目している。 ぱっと。フォンカーベルニコフ卿が握っていた手を開いた。 掌の上には。 一体の、人形が立っていた。…………どこから出したんだろう、これ。 人形は、真っ黒な髪に、真っ黒な服を着ていて……って、これ魔王陛下の人形…!? と、いきなり人形が動いた。両手をあげると、そこにこれまたいきなり扇が現れる。 白地の扇の真ん中には、どういう意味なんだか、真っ赤な丸が塗られていて。 それが。 突如。赤い女性の掌の上で踊りだした。 扇を上下に振りながら、人形がくいっくいっと身体を揺らして躍っている。おまけに。 ガンバレー。ガンバレー。ガンバレー。ガンバレー。 ガンバレー。ガンバレー。ガンバレー。ガンバレー。 声まで出してるし……。 「魔動応援人形、ガンバリタイゾー君っ。どうです!? この黒を纏った姿が、とあるお方を彷佛とさせるでしょう? 元気と勇気がふつふつと湧いてきたでしょうっ!?」 ………………………すみません、私………倒れてもいいでしょうか………? 「……脱力させてどうする…?」 耳にぼそりと、低く威厳のある声が響いてきた。虚ろな気分で前を見ると、眉を盛大に顰めた宰相閣下が顳かみを揉み、王佐閣下が深くて長いため息をついている。 その時。 くすくすと。 何だか、とっても楽しそうな軽やかな笑い声が耳に流れ込んできた。 魔王陛下、が。 椅子に座って、成りゆきを黙って見ておいでだった陛下が、右手を胸に、左手を口元に当てて、忍びやかに、でもいかにも楽しげに笑っておられた。 「…アニシナさん、それいい! さいこー。おれも一つ欲しいなあ」 …………あれ……? 「お気に召しましたか、陛下? まもなく毒女ばあじょん、獅子ばあじょん、プーばあじょん、汁ばあじょんなど出来上がる予定ですが…?」 「じゃあ、毒女ばーじょんと獅子バージョン。先行予約お願いします」 「畏まりました」 フォンカーベルニコフ卿が優雅に腰を折る。 あ、あれ……? 思わず。私は壁から離れ、駆けるように前に進み出た。「止まれっ」「無礼者!」と、有象無象のたかが男の声がいくつかしたけれど、気にはならなかった。だって……! 急ごしらえの、このお方が腰を落ち着けるには粗末な椅子に、それでもゆったりとお座りになって、魔王陛下が皆を見下ろしていた。 無礼を承知で、いいえ、そんな意識も浮かばないまま、私は陛下の真正面に立った。 陛下が顔をこちらに向ける。 視線が合う。 絶世の美貌。地上の奇跡。……それは全然嘘じゃなかった。 漆黒の髪、漆黒の瞳。この世で最も美しい色を纏った、地上で最も貴い人。 この世のものとも思えない愛らしさと、美しさと、何とも形容し難い神秘的な輝きに満ちあふれて、その方は私を、私なんぞをその視界に納められた。 にこりと。至上の君が微笑みを浮かべられる。 息ができず、苦しくて、喘いで、胸が痛くなって、また息が止まって、そして喘いで。何度か繰り替えしてようやく、私はぶしつけなまでに魔王陛下を見つめている事に気がついた。 ………顔が、やりきれないほど熱くなる。きっと今の私の顔は、見苦しいまでに真っ赤になっていることだろう。 どぎまぎと、そのお美しいお顔から目を引き剥がした私は、ふと陛下の右手が胸を押さえておられるのに気づいた。気づいたからどう、ということはないはずなのに、私は何かが引っ掛かって、そこから目を離すことができなくなった。 そして。 まるで、そんな私に気づかれたように。 私が見つめるその前で、陛下が胸元から手をお外しになった。 そこから。 青い。空より青い輝きが。私の目を。射た。 …………首飾り。が。 呆然とそれを見つめ、それから、もう一度、無意識に視線が陛下のお顔に移る。 私の表情に何をお読み取りになったのか。 陛下が再び、にっこりと笑みを私に投げかけられた。 そして。 陛下の口が、ゆっくりと動いた。 が・ん・ば・れ・お・ねー・さん 何故か。お口の動きに合わせて、確かに聞き覚えのある男の子の声が、直接私の脳裏に響く。だから。 涙が溢れて止まらなくなった。 では。 私が、私たちが共に過ごした一晩きりの仲間は。共に食事をし、同じポットのお茶を分け合い、暖炉の前で語り明かした小さな友達は。 それから。 ……………………………………脳天をぐりぐりやって、ほっぺたをぐにっと引っ張って、後ろ頭を思いきり叩き倒したガキんちょは……………。 ………………やっぱり、何もかも忘れて倒れてしまっちゃダメかしら…? 「……お前は、何か訴えたい事があって、ここまできたのではないのか?」 低い響きの良い声がして、私はハッとその声のした方に顔を向けた。 フォンヴォルテール卿。宰相閣下が、私を厳しい眼差しで見つめている。 「……あ、あの……っ」 瞬間的に気押されて、またも私は身体を強ばらせた。馴染み深い、喉の奥に固い何かが詰まったような感触…。 だけどその時。 まるで稲妻のように、一条の光のように、私の中に蘇った言葉があった。そう。 くじけそうになったら思い出して。 あなたはそう言った。 『おねーさん…グレイスは、このおれに、ちゃんと話す事ができたんだってこと』 『……グレイスは、おれといっぱい話をしたんだって』 そうだ。 私は夕べ、私の中にあるものを、この方にお話したんだ。 行政のあり方について。役人のすべき事について。古い慣習に囚われない、新しい行政のあり方、様々な施策について。一晩掛けて私は話した。 あなたに。魔王陛下に。 気後れもせず、緊張もせず、恐怖も覚えず。 私は。魔王陛下に対し奉り、己の考える所を全て、堂々とお話申しあげた。 その私が。 宰相閣下を怖れてどうする? まして、小役人の集団なんぞを怖がってどうする? クエスの言葉におののいて、一体どうするというのだ!? そうでしょう? オースターシア・グレイス! 今の私に。恐れるものなど何もない! 「申し上げます!」 今ようやく本当の戦いが始まるのだ。 いつの間にか涙も止まっていた。胸の痛みも、動悸も、震えも、何もない。ただ、そう、身体の奥の奥から沸き立つような熱さが。咆哮を上げ、渦を巻き、喉から飛び出そうとしている。だから、私はその衝動に身を任せる事にした。 「……汚水処理装置の実験施設、建設予定地につきまして、先ず申しあげます! そもそも汚水処理とは、第一に限りある資源を無駄に消費する事なく、再利用する事によって資源の枯渇を防ぎ、同時に国民に対して資源の重要性と有効活用の意義について啓蒙する事に意義があると存じます。第二に、汚水が無為に垂れ流され、その土地と河川、そして海水を汚染する事を防ぎ、我が国の美しい自然を護る重大な役目を負うものでもあります。海水に関しましては、現在進んでおります淡水化計画にとっても、この汚水処理の持つ意味は大きなものがありましょう」 魔王陛下、そして重鎮の方々が大きく頷かれた。 一つ息を吸って、話を続ける。 「我がラドフォードは内陸にあり、汚水は河川に流す他ありません。長い年月に積み重なった大地と河川の汚染は、いずれ重大な問題に発展する事と考えております。よって、汚水処理装置の実験施設を我らの土地に建設して頂く事は、実にありがたい思し召しと存じます。しかし……!」 実験に必要な汚水溜めを、予算と手間を省くために、3つの村の水源となる湖を使おうとしていること。ケイロン家が地主である事を理由に、村の人々に対し、一切の説明、及び後の生活を保障する約束がなされていない事。その湖は自然の宝庫であり、貴重な動植物もまたその生命を預けている場所でもあること。またその中で、村の人々と様々な生き物達が互いの境界線を破る事なく、共存している事。 何度も練習してきた主張を、私は懸命に訴えた。 「…お、お待ち下さい! 何とぞ、私の話を……!」 私の言葉の切れ目に、突然クエスが隣に飛び出してきた。 「この女の申す事は、とんでもない大嘘にございます! 汚水溜まりは、もし改めて溜める場所、水槽など を造ろうとすれば、膨大な予算と巨大な建造物が必要になります。実験に成功しても、いつ実用化されるかわからないものに、限りある予算を注ぎ込む事は難しいと存じます! それよりも、湖を使えば、運び込む手段を考えるだけで、大量の汚水を溜める事ができ、国庫にとっても有益と確信しております。また装置が実用化された後においても、この方法が最も合理的であるのは間違いございません! そしてまた、湖を水源とする村の者共に関しましては、恐れ多くも魔王陛下お声掛かりの事業、これに土地が使用されるのは名誉という他なく、不満を洩らすものなど居ようはずもございません。もしこれに不服を唱える者あらば、それはすなわち陛下に対し奉り逆意を持つ者ではなかろうかと考えまするっ」 クエスが横目で私を睨み付けた。後方から役人達の、おお、という声と拍手が起こる。 「………およそ、政と申すものは」 クエスが残した言葉の余韻が消えるのを待って、私はゆっくりと口を開いた。 「100年先、500年先、1000年先を見据えて掛かるが肝要と存じます。例えそれが田舎の街の、ほんの些細な事業であろうとも。……確かに、本格的な汚水溜まりを建設するのは費用が掛かります。しかし、今現在必要とされていますのは実験施設に使われるもの。決して大規模な運用を目的としたものではありません。愚考致しますに、せいぜい村一つ分、その村から出る汚水を溜めておくのに必要な水槽となれば、その予算の規模は決して莫大などと表現すべきものではありません。確かに魔王陛下のお声掛かりの事業となれば、村にとっても名誉でありましょう。しかし、それと村人の生活を脅かす事とは全く別の問題です。むしろここで重要なのは、村と契約を交わす事です。村に対しては、研究に最大限の協力を求める事と同時に、その実験によって村の土地、そして河川に重大な汚染が生じた場合の保障、また、装置の実用化の暁には、先ず最初にその村に完成された装置を設置することを約束することが肝要と存じます。……先程、ケイロン・クエス氏は、湖に汚水を溜める方法を、実用化の後にも取るべきだと主張されました。それはつまり、眞魔国の各都市、各村の、湖や池を一つづつ潰していくということです。自然を破壊しろということなのです。自然の豊かな土地、これすなわち精霊の息づく所。精霊を滅ぼすような真似をして、その王たる魔王陛下の治世がなりたちましょうか!? そして、国益とは、国民、そして国土の犠牲をもって生み出されるものであってはなりません! 為政者は、もしその政策が国家国民に必要であり、必ずや成り立たせなくてはならないものと判断したならば、例え実現の確証がなかろうとも、その将来に対し必要充分な投資を怠るべきではありません。ましてや、国土を汚すなどもっての外。どれほど後悔しようとも、一度滅んだ自然は、簡単には復元できないのです。目先の合理性とやらに惑わされ、100年先の国土に禍根を残すは、為政者、そして行政に携わる者にとって、恥ずべき事と申せましょう!」 ………………一生分、喋った……………。 疲労と満足のため息を私が零したその時、パチパチと大きな拍手が響いた。 「見事です! 見事な見識でした! ……納得しましたか、グウェンダル? 女性とは、かくも偉大な存在なのです。これからは心を改め……」 「お待ちを! 何とぞっ!」 満面の笑顔で(…私は別に女性代表ではないと思うのだが……)、フォンカーベルニコフ卿が宰相閣下を説教(?)し始めた時、再びクエスが動いた。 姿勢を正すと、魔王陛下に向けて深々と臣下の礼を取る。 「わ…我がケイロン家は、ラドフォードにおいて初代当主が重臣の列に連なって以来、代々国家のために尽すことを使命としてまいった家柄にございます! 我が父、現当主もまた、一族をあげて陛下に忠誠をお誓い申しております。この度の事も、眞魔国の発展のため、魔王陛下の御意に従い、当家所有の土地を、汚染される危険を承知した上で捧げ奉らんとするもの! 自らを犠牲にしても忠誠を尽そうとする我が一族の思いを、何とぞお汲み取り頂きたく……!」 「犠牲になるのはあなた達じゃない。湖がなくては生きていけない村人達と、自然よ!」 「だまれっ! ……申しあげます、この女は陛下の御意を得られるような身分の者では到底ございません! 卑しい農夫の娘。それも、馬もろくに持たず、騾馬を繋げたみすぼらしい荷車で毎日出勤してくるような、恥知らずでございます! このような身分卑しい女……」 「……尋ねてみたいことがある」 毒の様なクエスの言葉が、一瞬で浄化されたような気がした。 話を途中で遮られたクエスが、陛下からの直接のお言葉を賜ろうと、「はっ」と大きく声を上げて畏まった。 「民の声を、直接聞いてみたいと思ってるんだ」 思わず視線を上げて、陛下を凝視してしまった。……陛下の瞳は、まっすぐに私を見ている。 「そう……広場とか、どこか人の出かけやすい場所に、鍵の掛かった箱を置く。そして民の思う所、おれに対する批判でも良いし、要望でもいい。ちょっとしたアイデアでもいい。眞魔国をよくしていくために、そして国民が皆幸せに暮らしていけるために必要と思われる事を、何でも文書にしてもらって、その箱に投函してもらうんだ。そしてその文書は途中で誰かによって選別されることはなく、おれに直接届けられ、おれが直接目を通すようにしたいと思う。……それをどう思う? 現実的に、何が必要だと思う?」 はあ、とクエスが複雑な顔をした。そして私は…。 メヤスバコ。 確か、そんな名前ではなかったか? あの子…陛下がお育ちになった国のかつての王が行った政策。 そうだ。あれは……。 「申し上げます!」 最初に口を開いたのは、やっぱりクエスだった。 「民を大切になされる陛下の慈愛に御心。まさしく海よりも深いものと存じまする。陛下の臣と致しまして、まこと感激致しておりまする。……その件の箱についてでございますが、文書を投函する者に、資格は設けないのでございますか?」 「そう」陛下が頷かれた。「その時眞魔国にいる人なら誰でも。魔族でも人間でも、構わない」 「それは……」 クエスが絶句した。彼の中に、そんなものは絶対に存在し得ないだろう。 「おそれながら申し上げます。……民の中には、恥ずかしき事ながら、知識も教養もない愚かな者が多数存在しておりまする。そのような者達が、これ幸いと陛下に好き勝手を書き散らした文書を送りつけるなど、到底許されるものではございません。陛下のお目の汚れとなりましょう。また、庶民の陳情や訴訟につきましては、それを受け付ける係が役場におりますし、この血盟城にもございます。官僚の皆様方や役場の職員達が、処理できるものは処理し、陛下の御許にお届けするにふさわしいものがあれば、それを選ぶ。…それが、政の正道と存じますが、いかがでございましょう……」 自分の言葉に陛下がこくんと頷くのを確認して、クエスは安堵の息をついた。 「あなたはどう思いますか?」 陛下の目が、あらためて私に向けられた。口元が、意味ありげに微笑んでおいでになる。 私も一礼して、それからゆっくりと背筋を伸ばした。 「申し上げます。陛下の仰せ、まことに素晴しい思いつきと存じます。…民には、陛下にぜひにも聞き届けて頂きたいと、身を捩るように思い願う者が多くいると存じております。しかし、庶民がその思いを訴える場は役場か、せいぜいこのお城の訴状の受付のみ。意を決して訴えた人々の思いも願いも、おそらくそのほとんど全てが、陛下のお耳に届く遥か以前に消え去り、潰えていったことでしょう。もし陛下に直接、その思いを言上できるとあらば、民の歓びいかばかりかと存じます。……さて、その箱についてでございますが。何よりもまず、その箱がいかなるものであり、どのように扱われるものなのか、それを使おうとする者はどうすべきかといった決まり事、規則を明文化し、周知徹底させるが第一かと思います。そして次には、焦らぬ事」 「焦らない…?」 はい、と私は頷いた。 「どれだけ事細かく規則を連ねようとも、それが実感として感じ取る事ができなければ、そのようなもの無意味な文字の羅列に過ぎません。おそらくその箱を実際にどこかに据えたとしても、陛下のご期待にそえる文書がただちに届けられると期待するのは早計と考えます」 実際、そうだったのでしょう? 「だから、焦るな、と?」 「はい。その上で、なすべき事は調査、及び、信賞必罰の徹底と思います」 「調査と信賞必罰の徹底。……ほう。具体的に述べてみなさい」 その言葉は王佐閣下からだった。その隣では宰相閣下が腕を組み、フォンカーベルニコフ卿が目をきらきら、というよりは爛々と輝かせて、興味深げに私を見つめていた。 「はい。国政に関する批判でも、要望でも、何でも構わないと仰せになりましたその部分だけを取り上げて、個人的な願いごと、恨みつらみ、根も葉もない他人への誹謗中傷といったものが、投函される怖れもあるかと存じます」 「確かにあり得るな。自分に代わって、陛下に恨みを晴らしてもらいたいと願う者も現れるだろう」 宰相フォンヴォルテール卿が重々しく頷きながら仰って下さった。 「そこで徹底した調査が必要と存じます。それが魔王陛下が関わるべき問題なのかどうか、例えば個人的な訴えであろうとも、国のありように関わる場合もございましょう。その時は、お取り上げになる必要もあると思います。しかし、訴えられた事柄が、全くの虚偽、そして単なる誹謗中傷であった場合、これは厳しい罰則を適用すべきと思います。とするならば、文書を最初に開くのが魔王陛下であったとしても、その後で、投函された文書の真偽を見極める機関が必要かと存じます」 陛下とお三方がなるほど、と頷いた。 「逆に。それが、国家国民にとって有益であると判断された場合。新しい政策案であったり、有用な助言であったり、行政が見落としていた情報であったりした場合には、陛下のお褒めのお言葉はもちろんの事、最大限の報賞を与えるべきかと思います。……ここで重要なのは、庶民のそのような訴えがどのように扱われ、どのように判断されたか、そしてどういう理由で処罰を受け、もしくはどのような経緯で報賞を与えられたかを、全て公開する事です。そして、その判断が、身分や地位に一切関係ない事も徹底しなくてはなりません。文書の書き手が何者であるかを問うことなく、判断するはただその訴えの中味のみ。これらのことを実現徹底することによって、民は、陛下がお求めになる、眞魔国のため、民の幸せな生活のためという御心の内を理解し、ご期待にそうべく行動するでしょう。………陛下。一つ確認させて頂きたい事がございます」 「何?」 軽く小首を傾げられた陛下は、それはもう抱きつきたくなる程愛らしい。 「陛下におかれましては………たとえ、ご自分に対する批判、誹謗であろうとも、受け止める覚悟はおありになるでしょうか? ご自分を非難した者に対しても、お褒めのお言葉を与える事ができるでしょうか?」 ざわりと、私の背後から険悪な声音がわき起こった。無礼な。許し難い。陛下に対してなんたる非礼。何ゆえ閣下方はこのような痴れ者を………。 だが陛下は表情を変える事なく、そして3人の閣下は、黙ったまま陛下をみつめている。 陛下が、にっこりと笑って頷いた。 「……おれは、自分が完全でも完璧でもないことを知ってるつもりだよ。いまだにへなちょこって言われ続けてるし、自分でもそう思うしね。まわりの皆が本当によくやってくれているから、おれみたいなへなちょこでも魔王でいられる。おれは分不相応に褒められすぎだよ。ホントしみじみそう思うんだ。だから……それが、批判のための批判じゃなく、おれを傷つけたいためだけの誹謗中傷じゃなく、眞魔国を思い、民の行く末を思い、そのためについに発した怒りなら、おれは受け止めたいと思うよ。……たぶん、かなりへこむし、落ち込むし、それでまた皆に迷惑かけるかもしれないけど………。でも、うん、怒りとか悲しみとか苦しみとか痛みとか、そんなものから生まれてきた叫びなら……受け止めたい。受け止める事のできる王様になりたい。まだ実際にそんなものをもらったことがないから、大丈夫だって言い切る自信はないけれど……。でも、それがどんなにおれにとって辛いものになっても、皆の思いを、ちゃんと受け止めたいと思ってる。……それじゃダメかな?」 いいえ、と私は答え、そして深く頭を垂れた。涙が……溢れそうになる。 この人が王であることを。この王の治世に生きられることを。私は本当に幸福だと思う。 「………陛下がそのように思し召しであれば……必ずや、民の真の声が陛下の御許に届くことでありましょう」 本当に本当に。幸せだと思う。 「……まったく、これほどの者が田舎の役場の平職員というのだからな……」 「グウェンダルの言う通りです。箱について、陛下のあれだけのお言葉で、こうも具体的にしっかりとした答えができようとは……」 「ですから常々申しているのです! 女性というものは、かくも偉大な存在であり、これは太古の昔から………!」 宰相閣下と王佐閣下がしみじみと語り合い、隣でフォンカーベルニコフ卿が演説を開始した。 そして私は、胸にちくちくと走る罪悪感に、思わず狼狽えて視線を泳がせてしまった。だって。 これって、かなり、ズル…でしょ? 私は箱の事を、夕べからちゃんと知っていたんだし。 私の事を褒めて下さっているご様子のお三方から目を引き剥がしたところで、陛下とばっちり視線が合った。私はよっぽど困った顔をいていたに違いない。私と目が合った途端、陛下は苦笑し、肩を竦め、立てた人さし指を口元に当て、それからちろっと可愛いピンク色の舌を出した。 ………………………陛下……それで終わっちゃって、ホントによろしいんですかぁ………。 「今日はとっても収穫があったな!」 徐に陛下が立ち上がった。 「そろそろ行こうか」 宰相閣下達が、は、と姿勢を改める。と、宰相閣下が私にお顔を向けた。 「オースターシア・グレイス。お前も我々と来なさい」 「………は…?」 「他にも色々と政策案を持っていると聞いたぞ。それに……その男が手柄にした政策も、全てがお前の案だったということもな」 私の隣で、鋭く息を吸う音がした。 「じっくり話を聞かせてもらおう。……来なさい」 「あ……は、はい!」 演壇を降りた陛下が先に立って歩き始め、その後を3人の側近の方々が続く。その後ろを、少し距離をとって、私も続いた。 慌てて整列し、礼を取る役人達の間を扉に向かって歩いていく。部屋には、役人達と、叱責すらしてもらえなかったクエスが、放り出されるように残された。 ………こ、これが、魔王陛下の執務室………。 豪華、だけど、華麗というより、もっと実務的かしら。お部屋全体の造りや、一つ一つの家具は素晴しいものだけど、その扱われ方が……。書類や本や事務用品があちらこちらに乱雑に積み上げられていたり、机が見栄えよりも機能優先で配置されていたり……。想像してた神秘の部屋とは大分違うわ。むしろ役場とそっくり……。 「観察、終わった?」 「…もっ、申し訳ありません……っ!」 私ったら、ついじろじろと……。思わず直立不動になってしまう。 「何せ、最高意志決定者が、ちょくちょく行方不明になるものでな。執務に携わる者は朝から晩まで大混乱だ」 宰相閣下のしみじみとした言葉に、魔王陛下が「いい天気だな〜」と明後日の方向を向いてしまう。 その様子に、宰相閣下と王佐閣下が深くため息をついた。フォンカーベルニコフ卿だけが、にこにこと機嫌がいい。 「気にしなくてよろしいのですよ。いつもの事です。…もう間もなく揃うでしょう。さ、あなたもここに掛けてひと休みなさい」 いつもの事、というのは置いといて。………揃う……? 首を傾げた所で、扉がノックされた。そして。 「……ベイフォルトさん! オルディンさん…!」 フォンビーレフェルト卿に続いて、何だかとても懐かしい気のするベイフォルト親子が入って来た。 「…! グレイスさん!」 思わず駆け寄って、3人で手を取り合ってしまった。……本当に、怒濤の一日という気がしてならない。 コホン、と軽い王佐閣下の咳払いで、ハッと我に返った。そして、部屋の奥の漆黒を纏った存在を目にしたベイフォルト親子が、その瞬間、二人一気に凍り付いた。……呼吸まで止まってるような気がする。 執務机の向こうで、陛下がにこりと笑みを浮かべられた。 「ちゃんと話はできた? おじさん、じゃなくて、ベイフォルトさん」 そのお言葉と声に、固まったままだったベイフォルト親子が、揃って、震えながら荒い息を吐いた。肩が大きく上下する。 「…………ごめん。驚かせちゃったかな?」 親子、特に父親の方の衝撃が大きかったみたいだ。顔が引きつったように真っ青になって、わなわなと震えている。対してオルディンさんは、引きつってはいるものの、何かを確かめようとするように、じっと陛下を見つめている。 「………まさか………キア……?」 オルディンさんの言葉に、陛下がうん、と頷いた。 「ごめんなさい。騙すようなコトして。………で? ヴォルフ、どうだった?」 「ああ」フォンビーレフェルト卿が暗いお顔で頷いた。「……どうやら本当のようだ。まったく伯父上も何と愚かな……!」 「お前の伯父ではあるが………あの男ならやりかねん。目先の欲に取り付かれおって……」 「慎重に対処しなくてはなりませんね」 フォンビーレフェルト卿、フォンヴォルテール卿、そしてフォンクライスト卿が顔を見合わせて頷きあった。 「………落ち着いた?」 陛下の気遣わし気なお言葉に、ベイフォルトさんがほうと息をついて頭を垂れた。 今私たちは、執務室のソファに閣下方と並んで座り、お茶を頂いている。 よもや、魔王陛下の執務室でお茶とケーキをご馳走になるなんて、朝までの私だったら信じられないわ。 一息で最初のお茶を飲み干したベイフォルトさんのカップに、後ろからメイドさんの手で、すかさず新しいお茶が注がれる。 「…………魔王陛下に対し奉り、誠にご無礼を……」 ほとんど絶望的な声で謝罪の言葉を口にするベイフォルトさんに、魔王陛下が困ったように笑って手を振った。 「無礼なんて、これっぽっちもされてないし。……作ってもらったスープは美味しかったし、話はとってもためになったし。お礼のつもりで来てもらったんだから、そんな顔しないで下さい。ね?」 「………………もったいない………」 親子が揃って頭を下げる。 「ビーレフェルトの問題だが」宰相閣下が口を挟まれた。「必ず不正は正す。少々時間を貰うが、必ずお前達個人業者を困窮させるようなことにはしない。信じて待っていてもらいたい」 「……兄上の仰せの通りだ」 フォンビーレフェルト卿も頷いた。 「伯父上には、必ず正道に立ち戻ってもらう。事はビーレフェルトだけの問題ではない。……僕も……うかつだった……。とにかく、任せてもらいたい」 「ありがとう、ございます……!」 親子がまたも揃って頭を下げる。……震えているのは、もう緊張からじゃないだろう。 「言っただろ? ヴォルフは、きっとちゃんとしてくれるって」 「はい…!」 やっと笑みを浮かべたベイフォルトさんの瞳は、懸命に押さえた涙で光っていた……。 プラウザよりお戻り下さい →NEXT 途中はさらっと流して下さいねっ。 私ってホント頭の固い女だなあ…。 |