船出の鐘・5 |
「さて」 ようやくケ−キの味も分かるようになった頃、宰相閣下が口を開いた。 「ビーレフェルトの問題もはっきりしたし、汚水処理の実験施設についても、これからきちんと見直しがされるだろう。………それで、これからのことだが」 …これから……? 「オースターシア・グレイス、お前、新しく創設される陛下直属の行政諮問機関に入って働く気はないか?」 宰相フォンヴォルテール卿のお言葉は、最初の私の名前以外、何も頭に染み込んでこなかった。 低く渋い響きのお声に、うっとり聞き惚れていたとかそういうことじゃなくて。 本当に何を言われているのかわからなかったのだ。 「……あ、あの………」 「陛下直属とはいっても、実際は私の指揮下に入るのだがな。……有能な人材はどれだけいてもいい。何と言ってもこの陛下は、突如として思いもよらんことを言い出される。これまでの慣習やしきたりにとらわれていては、実務に支障をきたしかねん。陛下の(ここで閣下はじろりと陛下を睨み付けられた……)、飛び跳ねてどこへ飛んでいくか分からん発想についていける、柔軟な思考の持ち主がどうしても必要なのだ。お前ならうってつけだろう」 「私も賛成ですね」フォンカーベルニコフ卿が大きく頷いた。「あなたは変わり者と言われていたそうですが、それも当然です。あなたの周囲にいた者達の、器が小さ過ぎたのですよ。頭の固い、昨日と同じことを繰り返すことしか脳のない男連中に、あなたが理解できるはずはありません。有能な女性は、常にそうやって迫害されるのです。どうです、グレイス。愚かな男と戦い、有能にして気高い女性の地位を高めるため、これから共に戦おうではありませんか!」 いや、そういうことではなく。男性一同が深々とため息をついて、肩を落とした。……陛下はちょっと呆れたような、困ったような、でも楽しそうな、複雑な笑を浮かべて、賢明にも口を出されない。たぶん色々と学習されることがあるのだろう……。 「………あの……本当に、私…………?」 学者でもないし、身分もないし、ひきこもりだったし、それに、それに……。 「おめでとう、グレイスさん」 「あなたなら、きっとやっていけるよ。おめでとう!」 「あ、あのっ……」 ベイフォルト親子に祝福され、それでも私はおろおろと、何も答えられずにいた。だって。私なんかが……。 「グレイスはもう、一生に一度の勇気を出して、足を踏み出しただろう?」 陛下のお言葉が、私の耳を打った。 「たった一度の勇気を出して自分の壁を打ち破ったんなら、そこで立ち止まっちゃダメだよ。だって、今日の事で全部終わった訳じゃないだろう? むしろこれからじゃん。汚水処理の施設だってどうなっていくかまだ分からないんだよ? 今日のこの場所が最終地点? 違うだろ? グレイスの勇気が実を結ぶかどうか、これからが本番なんだよ。グレイスが、自分自身で、今、この瞬間からこそがんばらなきゃ。……そう思わない?」 「陛下………」 嬉しいとか、感動したとか、そんな実感が湧き上がる前に、私の目からポロポロと涙が零れて落ちた。 「陛下、わたし……」 袖で、ぐいと涙を拭いた。 「私………がんばります……!」 私は私の新しい道を行く。その扉を開いたのは、私自身なのだから。 「ベイフォルト、と言ったな。お前達もこれからこちらに顔を見せにきてほしい」 「…わっ、私どもがで、ございますか…!?」 宰相閣下のお言葉に、今度は揃って親子が仰け反った。それに頓着せず、今度は王佐閣下が口を開いた。 「あなた方の様な個人で貿易に携わる商人は、独特の情報を集めることができますしね。我々がどれほどがんばっても、情報の全てを掬い上げる事はできません。ならば、様々な分野の人材に活躍をお願いするのが最もよい方法と思います。……誤解しないで下さいね。あなた方を密偵にしようなどと考えている訳ではないのです。ただ、こちらに来られた時にはお顔を見せ、陛下や我々に、様々な国や人々の話を聞かせてもらいたい、というただそれだけなのですよ」 「今朝も言いましたけど」陛下が後を続ける。「色んな話を、外国の事も、貿易の事も、経済の事も、教科書に書かれていることじゃなくて、おじさ…ベイフォルトさん達が、直に目にしたり聞いたりしてきたことを、生きている情報を、おれに教えて欲しいんです。色んな事を知りたいんです。……どうでしょうか?」 ベイフォルト親子がまじまじと陛下を見つめ、そして二人揃って深々と頭を下げた。 「私どもで陛下のお役に立つならば、光栄に存じまする……」 「ありがとう」 勇気を出したのは、私だけじゃない。ベイフォルト親子もまた、生命を賭ける勇気を出してここにいる。 「さ、陛下、そろそろ執務を再開して頂きますよ!」 王佐閣下の言葉に、陛下が「げー」と声を上げた。 陛下と閣下方に御挨拶し、またすぐ会おうと約束を交わし(本当に恐れ多い事ながら)、私たちは退出することにした。 大きな扉が開かれ、部屋を出て一礼する私たちの前で、重い扉が再び閉められようとする。 「ささ、陛下。本日はこの書類全てに御署名をお願い致しますよっ」 「なっ、何これっ!? 山、高過ぎ。量が多過ぎだってば、ギュンターッ!」 「何を仰せになります? 昨日の分もしっかり入っておりマスですよ! 昨日散々心配させたつぐないをする、と仰せになりましたですよねっ!?」 「……言いましたー。言いましたけどねーっ…」 「書類が終わったら、昨日の罰に、ここと寝室の窓拭きだからな! 分かっているな、ユーリ!?」 「うっそー! ねえ、ちょっとさー、手加減ってものを………」 扉が重々しく閉められた。衛兵がすました顔で直立不動の姿勢に戻る。 ぷっと。 場所柄も弁えず、でも一度吹き出してしまったら、もう込み上げる笑いを止めることができなくなった。 腰を折り、お腹を抱えて笑い出す私の隣で、ベイフォルト親子も笑っていた。 目の前に、先が見えない程長い廊下が続いている。長い長い道。でもここで、私はこれから生きていく。 今日が私の、出発の時。 胸の中で、今高らかに、船出を知らせる鐘が鳴る。 《エピローグ》 王都を出て、帰路について、ラドフォードの端っこにある街にようやくたどり着いて。そしてそれを見た瞬間、私は道ばたにへなへなとへたり込んだ。 『祝! 魔王陛下直属行政諮問委員就任! わが街の誇り、オースターシア・グレイスさん! おめでとう!』 なんで街の入り口に……こんな横断幕が……。 顔を隠すように走り、馬車をつかまえ、故郷の村まで走ってもらい、そして。 今度は気を失いそうになった。 『魔王陛下直属行政諮問委員、オースターシア・グレイスさんは、わが村の出身です!』 やめて、おねがい、いやぁ……。 結局、私より、私を血盟城に迎えると言う知らせの方が、早く故郷に到着していたのだ。 私を見つけた村の人達にもみくちゃにされ、お祝され、宴会に突入し、家族とまともに顔をあわせる事ができたのは、夜もたっぷり更けてからの事だった。 興奮覚めやらぬ母。何度も何度も、魔王陛下の話をせがむ妹。ただただニコニコと笑う父。 「……じゃあ……アニエスの足をつけて下さると仰ったのかい? その……偉いお方が……!」 「そうなの」 『妹さんの話を聞きましたよ、グレイス。私にお任せなさい。私が製作した義足は完璧です! 完全おーだーめいどで、妹さんに合ったものを作ってあげましょう。いいえ! 遠慮は無用です! あなたは私の同志となって、これから共に戦っていくのですからねっ。それにあの戦争の犠牲者とあれば、援助するのは当然の事。残念ながら今だ量産を実現する事はできず、誰彼構わず提供する事は叶いませんが、これも縁というものです。この毒女にどんとお任せなさい!』 何を共に戦っていくのかさっぱり分からないが、フォンカーベルニコフ卿アニシナ様は力強く請け負って下さった。………それにしても毒女って、悪口じゃないの? 自称なの? 「何てありがたいことだろうねえ……。うちにこんな幸運が舞い込んでくるなんて……」 「幸運なんかじゃないさ」 エプロンで涙を拭う母を、父が穏やかに嗜めた。 「グレイスが勇気を出してがんばったからだよ。グレイスのお陰だ」 「父さんの言う通りよ……。お姉ちゃん、ありがとう…!」 アニエスが、ぽろぽろと涙を零している。 「やめてよ、私じゃないわ。陛下のおかげよ。陛下が………」 家出して下さったから。 そしてそれから、王都での出会いについて、魔王陛下について、私の話は夜を徹して続いていった。 「…ねえ、キャス。公衆大浴場を増やして欲しいって陳情の書類、あれもうこちらに届いてる?」 私は同僚の女性に声を掛けた。 村を、家を出るのはさすがに寂しかった。私が家を出れば、両親と足の不自由な妹だけになってしまう。出立の朝になってようやくそれに気づいたうかつな私に、両親も妹も大笑いした。そして、何も心配はいらないと、がんばってこいと送りだしてくれた。 そうして王都を再び訪れ、できたばかりの、まさしく新しい職場で、私の仕事が始まった。 少しづつ同僚もでき、以前出来ずにいたのが不思議なくらい皆と話をし、魔王陛下、宰相閣下、そして王佐閣下とお話することにも慣れていった。毎日が信じられないくらい充実してて、幸せで。 この間、妹が両親と共に王都、そしてこの血盟城を訪れた。フォンカーベルニコフ卿に足を調べてもらっている時、たまたま通りかかった魔王陛下がお言葉を掛けて下さって、両親と妹は卒倒しかけていた。妹はこの先何度かこちらにくることになっている。 そしてまた、ベイフォルト親子も、二度程お城を訪れていた。ビーレフェルトでは、すでに当主の交代が滞りなく終了している。 時間は確実に進んでいる。 「………ああ、あれ? あれはー……そう、確か、グラディアとミゲが別の書類を取りに行くついでに持ってくると言ってたはずよ?」 「グラディアとミゲが……? まだ戻ってこないという事は……どこかでまた大げんかになってるってことね」 「寄ると触ると、ですものねえ」 「その割にはよく一緒にいるのよね、あの二人」 「ほんと!」 私は同僚とひとしきり笑いあうと、整え終えた書類を手にした。 書類を手にし、訪れた宰相閣下の執務室では、宰相閣下と王佐閣下、そしてもうお一人がおいでになった。 我が眞魔国四千年のカセキ、じゃない、奇跡であられる双黒の大賢者猊下だ。 宰相閣下と王佐閣下は、書類だろうか、何か紙を手に、二人で苦々しく眉を顰めておいでになった。でも、ソファにお座りになり、お茶のカップを傾けておいでの猊下は、何だかとっても楽しそうだ。 「……あの、閣下……?」 猊下にご挨拶申し上げ、机に歩み寄った私に、閣下が手になさっていた紙を突き出した。…反射的に受け取ってしまう。 それには。 『おれ、いまあいにいきます、こんらっど。 しんぱい、ぽい。 げんき、やるき、どんき。 時の彼方で待っていて。 不束者ではありますが、何卒幾久しゅう、よろしくお願い申し上げます』 「…………………これは……」 「陛下の置き手紙だ」 「……置き、手紙………」 「陛下は夜のうちに、家出なさったものと推察される」 陛下はこちらとは全く文化の違う、異世界でお生まれになりお育ちになった。しかし、会話は完璧だし、文字は、まあ読めるし、読めなくても、魔力のおかげか、指でなぞって読み取ることがおできになる。ただそのせいか、作文だけがいつまでたっても身につかないし、上達しない。それが側近の方々の密かな悩みである事を私は知っていた。同時に、陛下がご自分を16歳だと主張なさる意味も、すでに学んでいた。 「まあ、これを意訳するとだね」 大賢者猊下が、実に楽しそうに口を挟まれた。 「ウェラー卿に会いに行ってきます。どうぞ心配しないで下さい。元気でがんばってきます。までが前半だね。この『鈍器でヤル気』ってトコロに、意欲が漲ってる気がするじゃないか?」 ……………そうか……? 宰相閣下の眉間の皺が、一層深くなった。 「と……ここまではいいんだけどねー。どうも後半は、自分で作文しようという意欲を放棄したみたいだな。『時の彼方で待っていて』というのは……」 「あの……」思わず、口を出してしまった。「それは、『ウェラー卿の大冒険』の最新刊の副題です」 最新刊にして、最終巻だ。陛下とウェラー卿の御関係が明らかになって、設定の違う『大冒険』は、発刊が難しくなってしまったのだ。 「ああ! なるほどねー。彼はアレの愛読者だったしね。……まあ、心配しないで帰りを待っていてくれと言いたいんだろうな。それで最後のこれは……」 「出典を、根本的に間違えている」 「だね。『よろしくお願いします』の一言が書けなかったかなあ? うーん、更なる勉強の必要性大、だねーっ」 どうしてこんなに楽しそうなんだろう、この人……。 「あの、それで陛下はお一人で………?」 私の質問に、まさか、とすかさず王佐閣下がお答えになった。 「すでに護衛が二名、陛下と合流しています。それと………」 難しいお顔で、またもため息をおつきになる。そのお言葉の後を引き取ったのは宰相閣下だった。 「……フォンビーレフェルト卿と母う……上王陛下が御同行なさっておいでらしい」 げ。そ、それって……。 「それだけの人達に会いに来てもらって、ウェラー卿もさぞ喜ぶだろうね!」 宰相閣下、王佐閣下、そして私も、思わず顔を盛大に顰めてしまった。 「とにかく」 気を取り直して、宰相閣下が徐に宣言なさった。 「……戻ってきたら、食事抜きで執務! それから作文100題! それと……城中のトイレ掃除だっ!」 ついに決行なさいましたね、陛下。 私は城の回廊を、くすくす笑いながら歩いていた。 バレなかったからよかったけど、ちょっとは私にも責任があることだし、陛下のお仕置き期間中は差し入れでもして差し上げよう。 春の陽射しが、回廊に射し込んで心地いい。 「さて、次は、と………」 私の仕事もまだまだ山積みだ。……もう陳情書は部屋に届いたかしら? 家出陛下とそのご一行を大シマロンまでお運びしたのが、ベイフォルト氏の新造船「嵐の夜の奇跡号」だと分かったのは、それからまだしばらく後の事だった。 おしまい。(2005/10/8) プラウザよりお戻り下さい
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