船出の鐘・3 |
子供の言葉に。 がくーっ、と、私の身体が床にのめり込んだ、ような気がした。 「………おねーさん? グレイス?」 「……気楽に言ってくれるわねぇ………」 一大決心をした。逃げずに王都まで来た。宿で予行演習までやった。だけど。 人ってねえ、そうそう簡単に変われるモンじゃないのよっ! そもそも、どうやったら血盟城に乗り込めるのよっ!? 乗り込んだとして。 私がっ、この私が、たくさんの人の前で、お城のえらい人達の前で……………ああっ!! 「………やって来たはいいけれど、直前でメゲそう、ってトコかなあ?」 オルディンさんは痛い所を突いてくる。 私はのろのろと、前のめりになった身体を起こした。 「………………ちょっと……いえ、かなり……。先ず何より、どうやって血盟城に入ればいいのかも……」 「考えてこなかったんだ?」 う。 「たのもーっ、って、正面玄関から堂々と入る! …あたっ!」 ほとんど条件反射で、子供の後ろ頭をはたいていた。 「私たちと、城まで一緒に行かんかね?」 ベイフォルト氏が、労るような言葉でそう言葉を掛けてくれた。 「私たちも訴状を提出に行かなきゃならんのだし。おそらく、一般国民の訴えを受け付けてくれる部署は一ケ所だけだと思うよ?」 「……はい……でも、あの……」 「ぐずぐず迷っている暇はないんじゃないかね? 幾つもの村の人々の暮らしや、大切な自然の存続が掛かっているんだろう?」 ハッと。私は顔を上げた。ベイフォルト氏の穏やかな問いかけが、父の声とダブって聞こえる。 「………………もうずっと子供の頃……」 ん? と、ベイフォルト氏が目を眇めた。 「父に……言われた事があるんです……」 『……本当の勇気はねえ、グレイス』 「一生に一度、奮い立たせる事ができれば、それでいいと。……父は幼い私に言いました」 「一生に一度?」 キアが、あの頃の私と同じ疑問を口にする。 「そうよ」 「……一度だけでいいの?」 思わず私は吹き出した。キアが不思議そうに首を傾げて私を見ている。 「一度だけ。心の底から本当に、今この時だと思ったその時にこそ、一生に一度の勇気を振り絞ればいいんだって。………父さんも私も気が小さいので有名だったから。お互い、一生に一度が精一杯だと思ったのよ。だからね、私、父さんに聞いたの」 『どうしたら、それが、一生にたった一度のその時だって分かるの?』 『分かるさ。その時が来たら、きっと。グレイスにもちゃんと分かる』 「……そして、父は最後にこう言ったわ」 『その時が来たら……逃げてはだめだよ』 「家から出て、役場に勤めると決心したのが、そのたった一度の勇気だとずっと思ってきたわ。でも違ってた。今ならそれがはっきりと分かるの。クエスの誤りを正す。そして、あの湖と村と自然を護る。それに力を尽すのが、私の一生に一度、振り絞らなきゃならない勇気なんだって……」 私は、あらためてベイフォルト氏に顔を向け、そして頭を下げた。 「明日、御一緒させて下さい」 「ああ、いいとも。……お互い、やれることを精一杯やろうじゃないか」 「はい!」 ベイフォルト親子と私、3人が顔を見合わせて笑みを交わしあった。……と。私の隣で、それはもう盛大なため息をつく誰かさんがいた。 「……子供が何をでっかいため息なんてついてるのよ。あんたでも悩みなんてあるの?」 あのねー、と、子供がぷくっと頬を膨らませる。その態度が子供だって言うのに。 だけどキアは、それ以上文句も言わず、再び小さく息をつくと、何げに肩を落とした。 「…………すごいなーって……。皆、ホントに一生懸命生きてんだよなーって。やらなきゃならないコトから逃げたりしないで、必死でがんばってんだよなーって……。あのね……」 キアが、ちょっと照れくさそうに微笑んだ。 「俺のコト、へなちょこへなちょこって、朝から晩まで言い続けてるやつがすぐ側にいてさ。いつも、へなちょこ言うなって怒ったり、文句言ったりしてたんだけど…。皆の話聞いてたら、俺ってば、まじでへなちょこかもって思っちゃった」 「どうしてだね?」 微笑ましいとでも言いたげな笑みを含んだ声で、ベイフォルト氏が尋ねている。この口調は、ほとんどお爺ちゃん気分じゃないかしら? 「………おれ、逃げてきたんだ。おれの…家、からさ。んー、プチ家出?」 「ぷ……? 何、それ?」 言葉の意味が分からなくて質問したのに、キアは答えようとしなかった。そして、胸元に手をやったかと思うと、襟の奥に指を入れ、何かを引き出した。 握った手の中から、長い紐、首飾り、が現れる。……紐にぶら下がっているのは、目が覚めるように鮮やかな青い石。 「……きれいな石ねえ。……それが……?」 「貰ったんだ。お守りだって。おれの……世界で一番大切な人から」 あら、ま。 「それって……まさか、恋人、とか……?」 まさかね。こんな……。 「子供だから、恋人なんていないとか思ってない?」 拗ねたような声に、思わず顔を背けた。見ると、ベイフォルト親子も気まずげに視線を泳がせている。 「………恋人、なんだね…?」 「じゃなくて、おれのだんな様! おれ達、もう夫婦だから!」 げほげほげほっ、と、ベイフォルト氏がいきなり咳き込んだ。オルディンさんは前のめりに、私は思わず仰け反ってしまう。何だよー、とますます子供が拗ねる。………どんな男よ、こんなガキんちょに手ぇ出すなんてっ! いくら見かけはこうでも、16歳でしょっ、16歳! 「……あー……幾つなのかな、その、え−と、君のだんな様は……?」 「えっとー……100歳くらい…?」 「…………………」 「…………………」 「…………………」 ベイフォルト氏は、顳かみをくりくりと擦り、オルディンさんも何やらぶつぶつ呟いている。 「そんなコトはどうでもよくってー…」 よくないわよ。ぜんっぜんよくないわっ! 「今、仕事でずっと会えないでいるんだ……」 この子供とは思えない程哀しげな声に、思わず息を詰めてしまった。 「忙しいとか言って、会ってくれないとか……?」 だったら、かなり怪しいわよ、その男。だまされてるんじゃ……。 だけどキアは、違うよ、と首を振った。 「国に……いないんだ。どうしてもやらなきゃならない仕事があって……今、人間の国にいるんだよ」 仕事? とベイフォルト氏が呟くように問いかける。キアは、うん、そう、と頷いた。 「たくさん話をして、おれも納得して送りだしたんだ。時間は掛かるけど、ちゃんと帰ってくるからって。おれも、待ってるって言ったんだ。おれにもここでやらなきゃならないことが山ほどあるし……。でも、でもさ……やっぱり寂しくって…! おれ、全然独りぼっちじゃないのに、寂しくなんかないはずなのに、それなのに寂しくって寂しくって、どうしようもなくなってさ……。やらなきゃならない事ほっぽり出して、家を飛び出して、ううん、逃げ出してきたんだ……。ここの花畑、よくあいつと一緒に来てたから……だから………」 立てた膝に顔を押し当てて、キアが何かを必死に堪えている。どうしてだろう? 苦労知らずの育ちの良さそうな子供なのに、この子は耐える事を、我慢する事を知っている。 「……へなちょこだなー、おれってば……」 みんな、がんばってるのにさ。 キアの声が、何だか苦しい程に切なくて。相手の男はアブない奴じゃないのかとか、もうちょっと自分を大切にしなさいとか、そんなお説教とは掛け離れた言葉が、思わず私の口をついて出た。 「会いに行けばいいじゃない」 え? と、キアが顔を上げる。ベイフォルト親子も、びっくり眼で私を見つめているけれど。……出てしまった言葉は、もう戻しようもない。 「………だから。ものすごい僻地とか、危険な場所とかじゃないんだったら…。行けばいいじゃないの。会いたいんでしょ? その人も、本気であんたを大切に思ってるっていうんなら、きっと会いたがっているわよ。だったら……がんばって会いに行きなさいよ」 キアは、しばらく呆気に取られた様子で、私をじっと見つめていた。そして、何か思い当たったように、「ああ!」と声を上げた。 「そっかー。そうなんだ……。会いに行けば……いいんだ……」 うわ−、目からウロコー。 また訳の分からない言葉を使う。 「……グ、グレイスさん。その、そういう事を安直に……」 「今はダメだけどね!」 唐突な程明るい声が、ベイフォルト氏の言葉を遮った。皆の視線がキアに向く。 「今はまだ、やらなきゃならない事がいっぱいあるし。先ず、それを片付けなきゃ! それで一段落ついたら………おれ、あいつに会いに行く!」 満面の笑みを顔に浮かべて、キアが宣言した。 私は、思わず目を瞠いてキアを見つめた。 その姿が、笑顔が。目に痛い程、清々しくて潔くて。胸の奥に最後までわだかまっていた、色んな固まりが一気に溶けて流れ去っていくような、そんな爽快感を覚えてしまって。 「ありがと! グレイスおねーさんっ!」 向けられる笑顔が、不思議なくらい嬉しくて。 私と同年代のクセに、16歳の子供に手を出した変態ぽい男が相手であろうとも。 この子は、その男ときっと幸せになる。 そんな根拠のない確信が、私の中に生まれて根付いた。 「…ねえ、おねーさん。おれのコトはいいからさ。聞かせてくれないかな、おねーさんの話」 え? 「………私の話なら、もう……」 「ああ、ゴメン。じゃなくて、おねーさん、行政について色々考えてるんだろ? それ、聞かせてくれない?」 「…そんな事に興味があるの?」 「近頃、頓に。リハーサル…予行演習やってみてよ。…それから、途中で質問とかもさせて欲しいんだけど?」 「………いいわ。人に向かって話した方が練習になるし。でも、下らない質問には答えないわよ? いいわね?」 「努力します!」 キアと一緒にベイフォルト親子も頷いた。 それを確認して、私は大きく息を吸いこんだ。 朝。 昨夜の嵐が嘘の様に、真っ青に晴れ渡った空を、私たちは並んで見上げていた。 4人とも、目をしょぼしょぼと瞬かせている。ほとんど寝ていないのだ。 キアは、意外な程鋭い質問者だった。 「学舎とは違う高等教育機関? それはすごくいいと思うけど、お金持ちや貴族だけが入るんじゃ、意味ないと思うんだよね」「税金はただ安ければいいってモンじゃないと思うけど? 大切なのは、国民が納得できる使い方をすることじゃない? 後は、不公平感をなくす事。そのためには?」「先の見えない事業に、どうやって国から予算を出させるの? 先行投資の必要性を教えて」………。 その度に、私は頭をフル回転させて答えなくてはならなかった。快感といえる程の緊張感。 クエスと話している時も、これほどの感覚は味わえなかったと思う。 緊張が心地いいと思ったのは、生まれて初めての経験だ。 ベイフォルト親子も、キアとはまた全く違う視点で質問を投げかけてきた。 「その物産なら、眞魔国でなくてもある。どうやって差別化していくのかね?」「組合と独占組織との違いをはっきりさせて欲しいな。競走相手である同業者と、組合を作る意義は?」「値下げ競走は一見売れているように見えて、実は商人を圧迫しかねない。客にとって魅力になるのは、値下げだけだと思うかね?」 …………もしかすると、本番よりも厳しかったかもしれない。 「……さあ、先ずは朝食でも作ろうか」 父親の言葉に、オルディンさんが「そうだね」と答える。だけどその時。 「おれ、もう帰る」 キアが突然そう言った。 「……キア、君……?」 「ほら、おれ、無断で出てきてたワケだし。たぶんものすごく心配してると思うんだよね。……帰ったら、雷とお仕置きが待ってると思うけど……」 言葉の割に、くすくすと楽しそうに笑っている。 「やらなきゃならない事を終わらせないと、先に進めないしね。がんばらなくっちゃ。がんばって、そして、こんな中途半端なプチ家出なんかじゃなくて、きっちりしっかりがっつり家出する! だから……行くね」 登ったばかりの朝陽を浴びて、キアがにこーっと笑う。家出は「きっちり」でも「しっかり」でも、まして「がっつり」でもないけどね。でも、長く伸ばした前髪の下、丸メガネの奥に、きらきらと輝く瞳が見えるような気がしたから、私は何も言わなかった。 「そうか。そうだね。……気をつけていきなさい」 ベイフォルト氏の言葉に、うんっ、と大きく頷いて、それからキアは表情を改めた。 「おじさん、えっと、ベイフォルトさん。夕べ色々とお話させて貰えて、本当によかったと思ってます。ありがとうございました。……できればー、また外国のコトとか、貿易や経済のコトとか、いっぱい聞かせてもらいたいデス。やっぱり、実際に現場で働いている人の話の方が、一番分かりやすいし、面白いし!」 それは嬉しいね、とベイフォルト氏は笑顔で頷いた。オルディンさんも、にこにこと少年を見下ろしている。 「こんな零細商人の話でよければ、いつでもいいよ?」 ベイフォルト氏の言葉に、「ありがとーございますっ」と、キアがぺこんと頭を下げた。それから顔をあげると、今度は私に向かって笑みを浮かべた。 「おねーさんも、ありがとうございました! おねーさんみたいな人がいるって分かっただけでも、すっごい収穫だったと思うよ。びしょ濡れになった甲斐があった!」 「……お家に戻って、お仕置きされてもそう思ってくれるなら嬉しいわ」 「大丈夫だよ! ………たぶん」 ああ、そう。 苦笑する私を見て何を思ったのか、キアが襟元に手を突っ込んで、またあの首飾りを引き出した。 陽の光を反射して、空より青く石が煌めく。その石を、愛おしげに掌の上に転がして、それからキアはゆっくりと口を開いた。 「おねーさん、覚えておいて欲しいんだ」 「……何を?」 「おねーさん…グレイスは、このおれに、ちゃんと話す事ができたんだってこと」 「…………………?」 首を傾げる私に、髪とメガネの奥から、キアが真剣な眼差しを送っていることに気付いた。 「………キア…?」 「行政のあり方、役人がすべき事、民のためにできるたくさんの新しい施策……夕べ一晩掛けて、グレイスはありったけおれに話してくれたよね?」 「…え、ええ……」 何が言いたいのか、よく分からない……。 「だから」 キアの声が強くなった。 「くじけそうになったら、思い出して。……グレイスは、おれといっぱい話をしたんだって」 私も、そしてベイフォルト親子も、何か不可思議な感覚に支配されて、言葉を発する事もできないまま、その場に立ち尽くしていた。 「…んじゃっ、おれ、行くねっ」 ハッと気がつくと、キアの雰囲気がまた変化していた。あの、やんちゃな子供に戻っている。……何か聞かなければならない事があるような気がしてならない。でも……何を聞きたいのか分からない。 手を一振りして、くるんっ、と踵を返したキアが、だけどその時「あっ!」と声を上げて動きを止めた。 「……うわー、さっすがグリ江ちゃん……」 キアの言葉に促されて、その肩ごしに目をやると、道の向こう、かなり離れた場所に男性が一人立っていた。傍らには馬が1頭、繋いである。遠くて顔は分からない。ただ……何だかとても明るい色の髪をしているような……。 その男性は腕を組み、木にもたれ掛かるように立っている。………どうしてこちらに来ないんだろう…? 「……君の、家の人かい?」 オルディンさんの言葉に、キアが振り返って「うん」と頷いた。 「おれが皆と話してるから、気をつかってくれてるみたい。……じゃ、今度こそ行くね。また会おうね!」 そう言葉を残し、キアは駆け出した。男性の元にたどり着くと、しばらく言葉を交わし、それから軽やかに馬に跨がった。馬の上からこちらに向かって何度も大きく手を振り、そして……道の向こうに去っていった。 「……また会おうね、って……。あの子、自分がどこに住んでるのかも言わなかったじゃないの…」 所詮子供の口約束とはいえ、ちょっと寂しい……かも。 「さあとにかく食事……あれ? 父さん、どうしたんだい?」 オルディンさんの戸惑ったような声。 「………ベイフォルト、さん?」 ベイフォルト氏は、目を眇め、背を伸び上げるようにして、キアが消えた方向を見つめていた。 「…………あれは……」どこか呆然とした声。「あの人は……知っているぞ………そうだ、まちがいない……あの人は……」 「父さん!? 一体どうしたんだ?」 少し焦ったような息子の声に、ベイフォルト氏がハッと目を瞬かせた。 「……いや……すまん。その、昔の……いや、似ていただけかもしれないが……。遠かったしな。だが……」 またも思考の奥に行きそうになる父親を、オルディンさんが引き戻す。 「父さん! 何を考えているのか知らないけれど、早く食事にしよう! ぐずぐずしている時間はないよ!」 小屋の食材をしっかり使わせて頂いて、私たちはきっちり腹拵えをした。食べると新たな力が湧いてくる。 そして、厨房のテーブルの上にお詫びとお礼を書き付けた紙と、3人で出し合った幾許かのお金を(あ、キアったら、ちゃっかり食べ逃げたわね!)置いて、私たちは一晩過ごした思い出深い小屋を後にした。 血盟城。 我が眞魔国の王城。魔王陛下のおわす、精霊達によって作り上げられた不落の巨城。 つまり。でっかい。 「…………初めて、見ました………」 私の住む街がどれほど田舎なのかを、しみじみ実感させてくれる王都の賑わいを抜けて、それでもまだお城の門にも行き着かないというのに、すでに私の足はがくがくと震えていた。 「私もこんなに近くまで来たのは初めてだよ…。いやはや、すごいもんだねえ……」 「ビーレフェルトの城とは、さすがに迫力が違うね」 あははと笑うオルディンさんの声も、かなり上ずっている。 「とは言っても、ここで逃げる訳にもいかん。がんばって行こう」 「は、はい!」 気を抜くと後ずさりしそうになる足を叱り飛ばしながら、私は前に前にと足を運んだ。 門衛に来意を告げ、城門から外れた場所にあるその部署に私たちはやってきた。……一般国民の訴えを取次ぐ唯一の窓口は、城の中にはなかったのだ。血盟城を何重にも取り巻く城壁の一番外側のさらに外、壁にぴたりとくっついた真四角の、小さな建物がそれだった。 大きな窓を改造したらしい受付窓口が開かれて、新兵らしい若い兵士が退屈そうに座っている。 他に人はいない。……どうしよう。ベイフォルトさんはここに訴状を出せばいいけれど、私はこんな所で止まっている訳にはいかないのに。 「何か、御用ですか?」 意外と丁寧に、少年兵が尋ねてくる。 「あの、訴状を持ってまいりました。受け付けて頂けますでしょうか?」 「はい、受付はいたしますが……どのような扱いになるかは、ここでは分かりません。必ず連絡先を明記しておいて下さい」 「ちゃんと書いてあります。……その」 「はい?」 「いえ、人の姿がないので……。何か訴えに来る人というのは、数少ないのでしょうかな?」 「そうですねえ」少年兵が、大人っぽく顎に手を当てて考え込む。もしくは、そんな振りをした。「以前は毎日相当な数の民がやってきたと聞いてますが、当代陛下の御代になってからはかなり少なくなりましたね。ご治世に不満を持つ民が少なくなったのが、もっとも大きな理由と聞いています。…ほとんど、地元の役場か、ご領主に訴えることで済むようになったのではないでしょうか?」 「……なるほど……」 「今週になってから、あなたが初めてのお客、いえ、訴人ですよ。………えーと、あなたは…?」 少年兵の目が私を見ている。どきりと胸が鳴った。 「…あ、あのっ、私、あのっ、……どうしても、お城の方にお話したい事が、その、今日……」 「ここには、文書で提出して頂かないといけないのですが?」 「あの、いえ、そうではなく……」 ………どうしよう。 どう説明すればいいのか分からなくて、ううん、どう説明しても、たぶんこの少年兵ではどうしようもないのが分かってしまって、ますます私はどうしようもなくなってしまった。 「あの……」 「……グレイスさん……」 ベイフォルト氏の、戸惑う声が背後から。前には、困った顔の少年兵。ああ……。 「ああ、その人達はいいんだ」 突然響いた声に、でも私は振り返らなかった。だって、全然聞き覚えのない声だし、私には関係ないに決まってるから。でも。 「あ、あなたは……!」 ベイフォルト氏の上ずった声に引きずられて、つい後ろを向いてしまった。 ほんの少し離れた所に、軍人が、立っていた。少年兵がバッと立ち上がり、敬礼する。それに軽く答えて、その軍人─一般兵士と違う立派な軍服だから、士官かもしれない─は、笑みを浮かべながら私たちに近づいてきた。 不思議な色の髪。熟れ過ぎた果実のような、夕焼け色の空のような………あら? この色、確か……。 「この人が提出した訴状は?」 軍人が少年兵に尋ねている。「これです!」という言葉と一緒に差し出されたのは、ベイフォルト親子の訴状だ。それをすいと少年兵の手から引き抜くと、軍人は私たちに顔を向けた。 「お三方は、どーぞこちらへ」 ……軍人とは思えない、何だかふざけた声音だった。 「………あの……っ」 当然の様に城壁を抜け、すたすたと歩く軍人の後ろから、ベイフォルト氏が声を掛けた。「父さん?」と、オルディンさんが心配そうに父親を見ている。 「…お久し振りですねえ、ベイフォルト・カルバンさん?」 「……………おお、やっぱり! ……私の事を覚えていて下さったか?」 「もちろん」 軍人が立ち止まり、明るい笑顔で私たちの方に身体を向けた。 「アルノルドへ向かう道すがら、散々酒を奢ってもらいましたしね。人生訓や蘊蓄も、たっぷり聞かせてもらったし?」 話の長いのには参ったけれど、酒は旨かった。 そう言って声を上げて笑う軍人の顔は、何だかいたずら小僧の様に見える。 「アルノルド!?」 「そうだよ、このお人は、ルッテンベルク師団の人だよ! ああ、生きておいでだったのか……! 確か、ウェラー卿の副官を勤めておいででしたな? ええと、そう、グリエさんだ! ええと、グリエ……」 「ヨザックです。…ええ。何と言っても手の掛かる隊長でねえ。苦労しましたよぉ。ま、それは今も変わりませんけど?」 くっくっく、と軍人─グリエ・ヨザックさんは笑い続けている。 何だか全然そんな感じがしないけれど、あのルッテンベルク師団の生き残りなら、この人はものすごい歴戦の猛者なんだ……! 思わずまじまじとその顔を見つめてしまった。 それにしても、どうして私たち、こんな簡単にお城の中に入っているのかしら? 「……あの、お伺いしたいのですが……」 まだ何か言い募ろうとする父親を遮って、オルディンさんが口を挟んだ。 「どうして僕達を…? それにあなたは確か今朝………」 「ま、それは置いといて。とにかくこちらへ」 疑問を軽くいなすと、グリエさんは更に私たちを城の奥に導いていった。 「……お連れしましたよ」 グリエさんが前を向いたまま声を発した。ということは、前方に誰かいるということで…。 首を伸ばそうとする前に、前を歩くグリエさんが横にずれた。 「あ……っ!」 瞬間、ベイフォルト親子が棒立ちになる。私も、吃驚して思わずぽかんと口を開いてしまった。 「お前達が、ビーレフェルトから訴状を運んできた者か?」 花々に彩られた回廊に、夢の様にきれいな金色の少年が立っていた。 「………フォンビーレフェルト卿…ヴォルフラム閣下……」 ベイフォルト氏の、喘ぐような声が耳を打つ。……………え…? 「……フォ…ッ!!?」 出かかった声を、とっさに手で押さえて止めた。 じゃあ、この金髪碧眼の、とんでもなく美しい少年が………前魔王陛下のご子息、元殿下今閣下、そして、当代魔王陛下の婚約者……元っ! なワケ!? どっ、どうしてそんなやんごとないご身分の方が……っ!? 「これが訴状です」 グリエさんから手渡されたベイフォルトさんの訴状をその場で開いて、フォンビーレフェルト卿はざっと視線を走らせた。………一体……? そっと横を見ると、ベイフォルト親子が、二人してわなわなと身体を震わせている。ほとんど絶望的な表情で。 訴状を読み終えたフォンビーレフェルト卿が顔を上げ、そんな二人の様子に眉を顰めた。 「………何という顔をしている? 僕がこれを握りつぶすとでも思っているのか? そんなことはしない。これが出任せならただではおかんが、真実なら………。とにかく、話が聞きたい。ついてこい。詳しい話を聞かせてもらおう」 そう仰って、フォンビーレフェルト卿はくるりと私たちに背を向け、歩き出した。 心細げに視線を向ける親子に、グリエさんはただ頷いて、「どうぞ」とだけ告げた。 大きく深呼吸して、意を決した様に表情を改めると、ベイフォルト親子もまた歩き出した。 「あ……あのっ……」 思わず後を追おうとしたところを、グリエさんに止められた。 どうしていいか分からないまま、おろおろとうろたえる私に、グリエさんが苦笑を浮かべる。 「お嬢さんにも、やらなきゃならない事があるんだろ?」 面白いようにぴたりと、私の動きが止まった。 そうだ。私にはここでやらなきゃならないことがある。………んですが。 「あ、あの……どうして……?」 どうしてそれを知ってるんですか? どうして私たちをここへ連れてきてくれたんですか? どうして……どうしてだろう。私は何か答えを知っているような気がする。何かがずっと引っ掛かって……。ああでも、あり得ない事の連続で、もう胸も頭もいっぱいいっぱいで……! 「さ、お嬢さんはこっち」 結局、問うことも答えを貰う事もできないまま、私は導かれるままに一つの扉の前に立つことになった。 「………したがって、汚水処理施設として、私は我が家の土地をそっくり提供することに致しました。眞魔国の発展と民の安寧のためであれば、我々は喜んで………っ!」 扉の向こう、大きな会議室のような部屋で、20人程の人々を前に滔々と言葉を繰り出していた人物が、私と目が会った瞬間に、彫像のように固まった。 背後で扉の閉まる音がする。その音を合図に、私はつかつかと部屋の中を進んで行った。 「…………グ、グレイ、ス……」 「何だ、お前は?」 ハッと気がつくと、演壇のクエスの前に並んでいた人々、おそらく血盟城の役人達が一斉に振り返っていた。 「…あっ、あの、我が街の役場の事務職員です! ええと、きっと何か緊急の連絡事項が………し、失礼…!」 引きつった顔に笑みを張り付けて、クエスが周囲に頭を下げ、そして私に向かって走りよって来た。 腕をぐいと掴まれ、部屋の隅に引きずって行かれる。 「………一体どうやってここに……! いや、そんな事はどうでもいい。何をしに来たんだ!? 今日はこの僕の大切な晴れ舞台なんだぞ! これで中央官吏になれるかどうかが決まるんだ。邪魔する気なら、ただじゃ済まないぞ! 家族がどうなってもいいのかっ!?」 「………卑怯者」 いきなり家族を持ち出して脅迫するなんて。そうなの。分かっていたつもりだったけど、あなた、そこまで性根の腐った男だったの。 私はクエスの手を、思い切り振り払った。 「あなたにっ。眞魔国と民の安寧を語る資格なんてないわ! あなたは中味が空っぽのただのろくでなしよっ。野心家ですらないわ!」 「グレイスッ」 ざわざわと、部屋の中がざわめき始めた。 「……何をやっているのだ、クエス!? その女は何だ。……おい、ここがどういう場所か分かっているのか?」 「申し訳ありません!!」 クエスが笑顔を浮かべたままで頭を下げた。笑顔。……こんなみっともない笑顔、初めて見たわ。 「どうやら、この女、頭が少々おかしいようです。何か訳の分からない、言い掛かりをつけにきたようで……」 「言い掛かり? ここをどこだと思っているのだ? 血盟城だぞ? ……おい、女、お前、どうやってここに入ってきたのだ? 答えなさい!」 役人の言葉に、クエスが再び私を見た。勝ち誇った顔で。 「そうだ、グレイス。一体どうやって、何をしに、ここへ来たんだ? さあ、言ってみろ。ここで、この方々の前で。ちゃんと言いたい事を言ってみろ!」 言えるものならな。クエスの目が、そう言って笑っている。 唇を。噛んだ。 悔しくて。 こんな男を。好きだと思った時が、確かに存在したのだから。 悔しくて。 大きく息を吸い込んだ。そして。口を開いて。 私は動けなくなった。 20人分の視線が、一斉に私に突き刺さってくる。 にやにやと笑うクエスが、憎らしくて、怒りが込み上げて、どうしようもないほどなのに。 ………軽蔑と、疑惑と、嘲笑と。 かつて私を苛んだ、恐怖の感覚が蘇ってくる。もうなくなったと思っていた胸の奥の小部屋から、這う様に、這いずる様に、それが私の中を侵食していく。 あんなにがんばったのに。 一生懸命練習したのに。 ねえキア、ねえベイフォルトさん。私、やる気満々で乗り込んできたはずなのに。 人の心って、どうしてこんなに脆いんだろう。 持ち主の想いも無視して、どうしてこんなに…………。 あれ……? 誰か、何か、言ってなかったっけ……? こんな時、挫けそうになった時………何だったろう、あれは………。 「おい! 衛兵を呼べ! 一体警備は何をして……」 役人の一人が外に向かって怒鳴り付けた、その時。 扉を、軽やかにノックする音が響いた。 返事を待たずに、大きな扉が開かれる。 そこから……グリエさんが、また顔を見せた。まるで、その時を待っていたみたいに。そして。にこやかに。 「魔王陛下がお見えになりましたよ、皆さん?」 そう告げた。 NEXT→ プラウザよりお戻り下さい
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