船出の鐘・2

 くすん、という小さな音は、すぐにしゃくり上げるような泣き声に変わった。見下ろすと、キアが立てた膝に額を押し付けて肩を震わせている。涙を堪えようとしているのか、ひっきりなしに目を拭っているけれど……。私はポケットのハンカチ─まだ湿っているけど、まあいいか─を、ぐいと顎の下辺りに押し込んでやった。全くもう、男、それもこんな年下の男の子に先に泣かれたんじゃ、私が泣けないじゃないの。
 「ごめんなさい」と、消え入りそうな声で呟く子供の側に寄ったオルディンさんが、頭の上で手をぽんぽんと弾ませた。
「昔の事だよ、キアくん。……もう20年以上も前に終わってしまった事なんだ」
「……も、おれ……そこまで、しらなく、て」何度も息を詰まらせながら、キアが言う。「そんな……死ななきゃ、家族を、守れないほど……おいこまれて……そんな……。みんな、覚悟して……?」
 キアが顔をベイフォルト氏に向けて上げた。
「ああ、あの人達は皆それを覚悟していたよ。……ウェラー卿は、一人でも多く連れて帰ると仰っておられたが……。あの方自身が、誰より生きては帰れないことを覚悟なさっていた……。自分一人の死と引換えに、多くの混血達を救う道がないかと真剣に考えておられた……」
 再び唇を強く噛んで、キアが頭を垂れた。
「………ウェラー卿は、本当に立派な方だ。あの時だけじゃない。ユーリ陛下を裏切ったとされた時も…。もちろん私はそんな噂、これっぽっちも信じやしなかったがね。言い訳一つなさらずに、己の使命を果たされるのは、ウェラー卿であればこそだ。……あの気高さは、まさしく王者がもつものだと私は思っているんだよ。時代が違っていれば、お父上が魔族であれば、もうほんの少しあの方を取り巻く条件が違っていれば……私はユーリ陛下でもフォンヴォルテール卿でもなく、ウェラー卿こそが魔王に選ばれていたと信じている」
 父さん、それは……と、どこか気遣わし気に息子が父親を嗜める。そんな息子に、ベイフォルト氏は分かっていると首を振った。
「誤解しないでもらいたいが、私はユーリ陛下を否定している訳じゃない。今のこの眞魔国において、あの方以上の魔王陛下など望むべくもない。私はただ……ウェラー卿は人の上に立つのにふさわしい、立派なお人だと言いたいだけだ」
「とってもよく分かります」
 誤解なんかしません。キアが潤んだ、でも強い声で断言した。私だって、憧れの方が想像以上に素晴しい方だと教えられて嬉しい。だからキアと一緒になって頷いた。……そんな私たちを見て、父親よりも息子の方がホッとしている。
「だからねえ、私は嬉しいんだよ。魔王陛下の愛したお方が、誰でもないウェラー卿だってことがね。そりゃ、私もビーレフェルトの民だからね、ヴォルフラム閣下でないのが残念じゃないとはいわんがね。それでも……私はやっぱりウェラー卿であったことが嬉しいねえ。シンニチの号外を読んだ夜には、あんまり嬉しくて一人で乾杯した程だよ。陛下は人を見る、実に良い目をお持ちだってね。何と言ってもあの方には、お母上以外後ろ楯らしいお人もなく、ウェラーを名乗った以上、係累と呼べるものもないのだからね。十貴族と姻戚関係を結ぶ事を捨てられて、あえてたった一人きりのあの方を……。ウェラー卿の選んだ人生は、独立自尊と言えば言葉は良いが……孤独な道だ。そんなあの方を、陛下は愛して下さったのだねえ。………ウェラー卿は魔王陛下の伴侶として、きっと立派に陛下をお支えになることだろう。それに驚いた事だが、魔王陛下は御子を御産みになることもできるそうじゃないか。あのお二人の御子となれば、お顔立ちもご気性もさぞ素晴しい御子がお生まれになるはずだ。ああ、それを思うと、今から楽しみでドキドキするよ」
 本当に楽しそうだ。昔の辛い思い出がある分、余計に嬉しいんだろうけど……私はさっきから隣から聞こえてくる妙な声の方が気になって仕方がなかった。「ひえー」が「どひゃー」になったかと思うと、「うんうんうんっ」と一頻り頷く声に変わった。何なんだろうと見ると、キアが今度は立てた膝の間に顔を挟んで、「うひゃーっ」と呻きながら悶えている。顔は分からないけれど、髪から覗く耳たぶが茹だったみたいに真っ赤だ。今、恥ずかしーとか聞こえたけれど、この子が恥ずかしがる必要は全くないのだから、たぶん聞き間違いだろう。それにしても……この子、つい今し方まで泣いてなかったっけ……?

「……それでね…………えーと? どうして陛下とウェラー卿の話になってしまったんだっけな?」
 4人でしばらくしみじみした後、ベイフォルト氏が首を傾げながらそう言った。
 あれ? と私もキアも、一緒になって首を傾げるが……分からない。あら…?
「フォンビーレフェルト卿のご名誉に関わるから、訴えを取り上げてもらえないかもしれない、という話からだよ、父さん」
 苦笑しながらオルディンさんが教えてくれた。おお、すっげー、とキアが素直に感心している。というか、話がずれたのって、私のせいだわ。
 そう言って謝ると、いやいやとベイフォルト氏が手を振って笑った。
「ええと……まあ、そういう訳でね。仲間達と密かに訴状を書いたんだが……上に上げられる前に握り潰される可能性の方が高いんだよ。そうなれば、署名した私たちは……良くてビーレフェルト追放だろうねえ。悪くすれば………」
「……身の安全が脅かされるとか……?」
 思わず口をついて出た言葉に、ハッとキアが顔をあげる。ベイフォルト親子はそれに答えず、暗い眼差しを床に落とすだけだ。
「…………そんなことをご領主がなされるとは思いたくないが………、しかし、五家との取り決めが表沙汰になれば、ご領主様だけでなく、ヴォルフラム閣下をも脅かしかねないからねえ。もしかすると魔王陛下とて……」

「そんなことにはならないよ」

 意外な程にきっぱりと強い口調で、キアが口を挟んだ。
「キア、くん……?」
 キアの顔(下半分だけだけど)は、もう涙の跡もなく、赤くもなっていなかった。ただ、きゅっと引き結んだ唇だけがほの紅く濡れている。
「利権だの利益だのを自分達だけで独占するために、罪もないたくさんの人達を苦しめるなんて…。そんなことに、領主が加担するなんて……。そんなの絶対許されないよ! 例えヴォルフ、ラム閣下がどうあろうと……いやっ、自分の伯父さんがそんな事をやってるって聞いたら、ヴォル、フラム、閣下だって、きっと率先してビーレフェルトを正しい道に戻そうとするに決まってるよ! それに、誰よりもおれ……ゴホッゴホッ、魔王、陛下が、必ずおじさんや、ひどい目にあってる人達を助けるっ!」
 絶対だよ!
 キアは自分で自分の言葉に頷きながら、きっぱりとそう言った。

 …………子供っていいなあ。ちょっと……この子の場合、子供っぽすぎるような気もするけど。
 魔王陛下や十貴族のお歴々、この国の支配階級の方々が、国民に悪い事をするはずがないって信じてるんだ。自分の国の民を、苦しめるはずがないって。そりゃあ、当代魔王陛下のご治世は、名君と呼ばれるのにふさわしいものだって、私でも思うけどね……。でも、貴族がどれだけ庶民を思っているかっていえば、かなり疑問だわ。まして十貴族となれば。
 同じ事を考えているのか、ベイフォルト親子も、どこか哀れむ様な視線をキアに向けている。
 ふと気がつくと、キアが、そんな私達の顔をじっと見つめていた。
「…………おれの言うこと……信じてない……?」
 そうじゃないよ、とベイフォルト氏が微笑んだ。
「ただね、長く生きているとね、怖くなるんだよ。……ついつい悪い方へ悪い方へと意識が向いてしまう。失敗や不幸に備える事ばかりがうまくなってしまうんだね。……思いも寄らない良い事など、そうそう身の回りに起こるものではないとね……」
 ベイフォルト氏が、また懐に─たぶんそこに訴状が入っているのだろう─手を当てた。
「……おじさん……。でもっ、訴状は出すんだよね!?」
「………ああ、提出するよ。ここまで来たんだし、それに、希望はゼロじゃない。役人達の中にも、誰か真剣に受け止めてくれる人だっているかもしれないしね。でもねえ……」
 ベイフォルト氏の眉が、暗く顰められた。
「…………正直言って、これがヴォルフラム閣下や兄上であられる宰相閣下、まして陛下の元に届く事はないだろう。そこまで至る道は山道に例えても、かなり長くて険しいからね……。昔から役人というものは、庶民の嘆きよりも、上流の方々の心証を害する方を怖れるものだ。出世に汲々とする小役人なら尚の事……。訴状は提出するが、考えれば考える程希望が薄らいでいく気がするよ……」
「……庶民の声を直接上にあげる道がないのよね……」
 ふと。思いつくままに、私はそれを口に上せた。そうだ。
「訴状にしろ、陳情にしろ、自分で直接望む所までそれを持っていく事はできないわ。私たちのような一般庶民は、ご領主様に訴えたければ、先ずは村や街の役場に、魔王陛下に訴えたければ、王都までやってきて血盟城の担当部署に訴状を提出するしかない…。でも、ベイフォルトさんの言う通りよ。どこへ提出しても、その声が本当に届いて欲しい高みまで登っていく可能性は哀しい程に低いのよ。残るのは、たくさんの役人と貴族達によって、さんざん篩に掛けられたものばかり。………魔王陛下とまではいかなくても、せめてご領主様に直接声を届ける方法…何か秩序だった制度を整える事ができれば……」
 いつものように無意識に、私は「自分」と「外部」を切り離した。頭の中が熱く唸り出す。だがその時、ふいに小さな子供の声が、私が作った壁をすいと通り抜け、鈍くなっていたはずの耳に届いた。
「………メヤスバコ………」
 え? いきなり壁が壊れた。かつてない経験に、私は思わず声を上げ、隣の少年を見下ろした。
「……キア…? あなた、今、なんて……?」
 今度はキアがきょとんを私を見返す。それからハッと気付いたように、唇を掌で押さえた。
「あ……あー…、あの…、おれのね、育った国でー…って、おれ、実は生まれも育ちも眞魔国じゃないんだけどー」
「え? だって魔族でしょ? なのに…」
「あのさ、今さら言うのも何なんだけど、おれも……混血なんだ」
 本当かいっ!? ベイフォルト氏が親子で大きな声を上げた。ちょっと気恥ずかしげに、キアが頷いた。
「そうだったのか…どおりで。……あ、もしかすると、あの大戦も知らないとか……?」
「うん。おれ、まだ16歳だし」
 ええっ!? と次に声を上げたのは私だ。じゃあ、成人の儀は終えていても、実質丸っきりの子供じゃないのっ。……子供っぽく見えたのも当然だ。16歳と言えば、本当ならまだ私の腰の高さまですら育っていない。7、80歳にしか見えない少年を前に、ベイフォルト親子も深々と息を吐いた。
「……まあ、それは置いといてさ。えっと、あのね、俺の育った国のショーグン、じゃない、王様が、やっぱり庶民の直接の声が聞きたいって思って、メヤスバコって箱を作ったんだよ。それをブギョー、じゃなくて、役場の前に置いたんだ。箱の鍵は王様だけが持ってて、他の人が開く事は許されなかったんだ。で、その箱には、国民なら誰でも王様に直に訴えたい事を書いて入れる事ができたんだよ」
「それ、伝説じゃなくて事実なの? 王が自らそう望んだと?」
「うん」キアが大きく頷いた。「そんな伝説になるような大昔じゃないし。ちゃんと書類とかも全部残ってるんだよ」
「……すごいわ、それって……」
「でも大変だったんだってさ。特に勝手の分からない最初の頃は」
「どういうこと?」
「王様に何でも聞いてもらえるってことで、それこそ何でも入れられちゃったんだよ。ええっと、確か隣のだれそれさんが、貸したお金を返してくれないとか、隣の庭の木の枝が自分の家まではり出してきたのに切らせてくれないとか、自分の夫が働かないから叱ってくれとか、かなり次元の低いのが。王様もさ、確かに庶民の声が聞きたいとは思ってたけど、それってそんな、ダンナさんがどうとか、隣の庭がどうとか、そんなんじゃなかったんだよね。王様も期待してた分、かなりがっかりしたって記録が残ってるんだって」
「つまりその王は、国や政の有り様についてとか、政策に対しての考えとか、国家国民のための意見や提案とかが欲しかったのね?」
「そういうこと!」キアが笑って頷いた。「でもそんな中にも光るものがあって、後々まで役に立つものもあったんだよ。旱魃とか不順な天候に左右されない強い作物があって、それを栽培するよう農家に奨励するべきだって意見を採用して、おかげで飢饉に飢え死にする人が減ったとか、医療を受けられない庶民の苦しみを訴えた訴状のおかげで、国立の、無料の診療所ができたりとか」
 それはものすごく分かりやすい話だ。なるほど……。
「……面白いわ。だとすると………」
「オースターシア・グレイスさんは凄いなあ……」
 感に堪えたような声が傍らから聞こえて、私の思考はそこで止まった。
 オルディンさんが、どこかしみじみ息をついて私を見ている。
「あの……」
「いやあ、貿易の事にしろ、訴状の事にしろ、とっても知識が深そうだし、色々と考えてるんだなあって思って。政治に興味があるの?」
 せ、政治なんてそんな……!
「…いえ、あのっ、………あ、ごめんなさいっ、私ったらまた話をヘンな方向にずらしちゃって……」
 私はすぐこうなんだから! 自分を責めつつ頭を下げると、キアも隣で「おれもだ。つい思い出しちゃって」と頭を掻いた。
「いや、いいんだよ。訴状はどうあれとにかく提出する事に決めたいるんだしね。出してしまえば……後はなるようになるさ。少なくとも……希望は持てる」
「大丈夫だよ」
 ものすごく無責任にキアが請け負った。
「絶対、大丈夫。うん、絶対放り出したりしない。だから任せて!」
「誰によ?」
 私の突っ込みに、キアの笑顔が固まった。あー、うー、と意味不明の声でごまかして。それから小さく、「まおーへーかにおまかせくださーい……」と棒読みで答えた。……私が16歳の頃も、こんなだったかしら…?
「オースターシア・グレイスさんは、街役場にお勤めだったよね?」

 キアの素振りにしばらく3人でくすくす笑った後、その笑みも消えない顔で、オルディンさんが私に話を振った。
「ええ」ちょっとだけ考えて、それから私は頷いた。「……過去形、ですけど。その……王都にやってくる前に、辞めてきたんです。戦後すぐだから、20年以上働いた職場でしたが……」
「役場を辞めるとはまた……。王都にはそれほど大切な用事で? あ、いや、失礼、ぶしつけだったね」
 少し慌てたようなベイフォルト氏に、私は頭を左右に振って答えにした。
「……ずっと一人で考えて、ここまで来てしまいましたけど……。何だか不思議なご縁も感じますし、よろしかったら聞いて頂けますか? その、ちょっと長い話になりますが……。ああ、それと」
 私の事は、グレイスと名前を呼んで下さい。
 そう告げると、ベイフォルト親子は本心から安堵したように笑みを浮かべた。3人の碌に素性も知れない男性(キアを「坊や」ではなくて「男性」と見るならば)と、一晩過ごす事になってしまった私に、彼らが相当気を遣ってくれている事がそれだけでも察せられる。……仕方がなかったとはいえ、最初、頑な態度を取ってしまったことが、申し訳なくてならない。
「グレイスかあ。響きの綺麗な名前だよね、グレイス?」
「………………あんたは『お姉さま』と呼びなさい!」
 軽やかに私を呼び捨てる脳天気な子供の脳天に、私は拳をぐりぐりと押し付けた。キアが首を竦めながら「どひゃひゃひゃ」とまたも訳の分からない声を上げる。
 そうして4人揃って、やっと大きな笑い声をあげる事ができた。



「私はラドフォード地方の中でも、小さな田舎の街の、そのまた郊外の山の中で生まれて育ちました。空気も良ければ、作物の実りも良くて、おかげですくすく育ってしまい、ご覧の通り、並外れたのっぽになってしまいました……」

 同年代の中でも飛び抜けて長身で、おまけにやせっぽちで、顔はそばかすだらけ。自慢と言えば、さらさらと伸びた銀色の髪だけだった。でも、そこだけが妙に美しかったせいか、逆に私の顔立ちや体つきと調和が取れず、結果、私は何とも見栄えのぱっとしない、不格好な娘となってしまった。
 後ろ指さしたり、意味ありげな視線を送ってきたかと思えば、ひそひそと囁きあったり、吹き出すように笑ったり、かと思えばあからさまに嘲笑したり、という態度をしょっちゅう見せつけられて、私の少女時代ははっきり言って暗かった。元々気の弱い性格だったのが、人の目という追い討ちをくらってしまい、すっかり萎縮していたようにも思う。そして待っているのは悪循環だ。
 ただでさえみっともない娘が、いつも猫背で、人と目をあわせる事もできないまま下ばかり向いて、ぼそぼそとしか喋れない。となれば、誰だってますます親しくなる気をなくす。
 そのため、いつも他人とうまく接触をはかれず、私は仕事につく事を早々に諦め、家事に精を出す事にしていた。戦争中のあの時まで。

 戦闘そのものは、私たちが住む街から遠い場所で繰り広げられていた。とはいっても、無縁でいられるはずもない。だが戦争の牙は、徴兵された父ではなく、妹アニエスに向けられた。
 父が戦地へ赴いて暫く後、身の回りの品を持って父に面会に行った妹が戻る途中、人間の攻撃を受けたのだ。妹は……両足を失った。
 「父さんがいるところだもの。たとえ戦地だって平気よ」と、ただ一人面会に向かった妹の無惨な姿に、母は自分と私を責め、私も、怖くて街を出られなかった私自身を責めた。
 そうして私は、似合わないと知りつつ、もったいなくて切れなかった銀髪を、ばっさりと切り落とした。そして、人出不足で人員を募集していた役場に応募したのだ。
 父だって、生きて帰ってこられるとは限らない。母は妹を支えなくてはならない。だとすれば、家族を支えられるのは私だけではないか。いつまでも、うじうじと母や妹の影に隠れて過ごす事は許されないのだ。
 私としては、これが一生一度の勇気、のつもりだった。

 とは言っても。
 どんなに一念発起で燃え上がろうとも、人というものはそうそう変われるものじゃないのだ。
 人とコミュニケーションを取る事を避けてきたツケは、職場ですぐに現れた。
 私は、そもそも人に話し掛けるという事ができなかった。話し掛けるきっかけ、タイミングが、どうしてもつかめないのだ。
 今、声を掛けてもいいだろうか? 邪魔ではないだろうか?
 人と話している時に割り込んで、不愉快にさせないだろうか?
 後ろから声を掛けるのは失礼だろうか?
 最初の一言は何と言うべきなのだろうか………?
 何か一つに引っ掛かると、もう身動き取れなくなり、結局「何か用か」と尋ねられるまで、棒の様に突っ立っているだけになってしまった。……仕事上の信頼も、友人も、こんな調子で得られるはずもなく。
 気がついたら、職場の片隅で一人書類を片付けるだけの存在になってしまっていた。


「………ちょっとぴんとこないんだけど……。だって、おねーさん、おれ達と普通に喋ってるじゃん?」
「ちょっとした転機があったのよ。……えーと、まあ、その……」
「あ、顔が赤くなった」
「ほほう。察するところ……アレだね? 恋だね?」
「コイですか?」
「鯛ですね?」
 お調子者の子供の頬っぺたを、ぎゅむ〜と両側に引っ張ってやった。おーお、柔らかいからよく伸びるわ。
「…〜っ、ごべんだざい、おでーざば……」
「………………………まあ、そういう訳で」


 書類仕事は、だけど私に合っていたと思う。やがて、書類を片付ける早さと正確さで、私はそれなりの信頼を職場で得る事ができるようになっていた。それだけじゃない。書類の中味を検討し、処理する年月の間に、私は行政のあり方について強い関心を持つようになってしまったのだ。
 街や村の行政、予算の分配、役所間や部署間の連係の強弱、危機に対する備えと機動力、特権と利害の行方、民の意識等々、抱いた興味はすぐに同心円状に広がって、やがてラドフォード全体の行政にまで至った。
 私は、行政に関する自分なりの見解を、いつしか文書にするようになっていた。元々、誰に見せるつもりもないものだ。おこがましいと言わば言え。
 それは私が、私自身の考えを整理するためのものだった。学者じゃないのだ。専門家の目で見れば、きっとアラだらけのシロモノだったと思う。
 そんなある日。
 外出から役場に戻ってみると、私の机の側に男性が立っていた。よく見ると、私が机の上に起きっぱなしにしていたあの書を読んでいる。

「…やっ、やめて下さいっ!」
 飛びつくように走り寄り、私はその文章を書き連ねたノートを引ったくった。
「ひっ、ひとのっ、人のものを、勝手に読むのは止めて、下さい!」
「………これ、君が書いたの?」
 驚いたよ、すごいね。
 笑顔で言われた。
 それが、クエスとの出会いだった。

 クエスは私より5歳年長で、地元の出身だが、ラドフォード行政府内で行政官として働いていた。それが、出向という形で街に戻り、役場で働いていたのだ。街でも名家の出で、私の上司よりずっと高い地位に就いている。名家のお坊っちゃんらしく、細面の、どこか貴族的な上品さを備えた若者だった。
 私には才能がある。それがクエスの口癖だった。
「君には行政官としての才能があるよ。どうしてもっとそれを主張しないんだい?」
 それができるくらいなら、苦労はしない。
 ある日クエスが、私がノートの書き連ねた政策を上申したいと言い出した。役に立つ政策だし、放っておきたくない、と。嬉しかった。初めて認められたと思った。しかし、私には自分の考えを人前で披露する勇気がなかった。
「僕が代わりにやってもいいかな?」
 クエスが遠慮がちにそう言い出した時、私はむしろありがたいと思った。私の考えが民の役に立つなら、誰が上申しようと構わない。それがクエスなら、尚の事。
 政策案は、クエスが自分の名前で表に出され、実現した。クエスは名を上げた。

「……おねーさんは、それが自分の考えだって言わなかったの?」
「言わなかったわ」
「悔しいとか……思わなかったんだ……」
「それどころか、嬉しかったわ。私の案がすばらしいと褒めそやされて、そしてクエスが認められて。……おかしいでしょ? でもね、その頃の私は、それだけでもう心底嬉しかったのよ」
「………その人のこと、好き、だったんだ……?」
 ええ、と私は頷いた。

 政策について、街や、行政のあり方について、私とクエスは時間も忘れて話し合った。クエスは真剣に私の言葉に耳を傾けてくれた。
 お喋りというには、面倒な話題ばかりだったような気もするが、その時初めて、私は会話の楽しさを知ったのだ。
 そして。クエスは次々に私の政策案を上司に提案し、そのほとんどが実現していった。私たちの街の行政は、そのためにラドフォード地方の行政府からも注目されるようになっていった。街の名家の出身で、新政策の立て役者であるクエスは、ますます名声を高めていった。
 私は相変わらずの、単なる事務処理係のままだったけれど、私の胸は、クエスと2人で街をよくしているのだという誇りに満ちていた。幸せだった。
 いつか、クエスというパートナーと共に、街の行政に携わりたい、2人で同じ道を歩んでいきたい、そんな夢を見る程に。………でも。

「……十貴族のお一人で、魔王陛下の側近でもあられるフォンカーベルニコフ卿アニシナ様と仰る方がいらっしゃるわ。……知ってる?」
 キアが、ちょっと迷ってから小さく頷き、ベイフォルト親子は「有名な方だからね」と大きく頷いた。
「魔王陛下のお声掛かりで、あの方と大賢者猊下が協力して開発することになった計画があるんです。それが、汚水処理と海水の淡水化計画」
 聞いた事があるよ、とベイフォルト氏が言った。オルディンさんも頷く。
「淡水化計画の方は、かなり進んでいるんじゃなかったかな? 海の水を真水にするなんて、魔術を使ってもできそうにないと思っていたがねえ。……しかし、汚水処理、というのは?」
「一度使って汚れた水を捨てずに集めて、もう一度綺麗な水に戻そう、というものなんです」
「できるのかい、そんな事が!?」
 ベイフォルト親子が、素頓狂な声を上げて仰け反る。キアは意味が分かってないのか、何の反応も見せない。私は親子に向かって頷いた。
「できるんです。それも魔術を使わずに、ある技術だけで。確かに……非常に高度な技術が必要ですが、私が計画書を見た所、決して実現不可能とは思いませんでした。それが実現すれば、例え魔王陛下のお力が衰えて旱魃が起こったとしても、水不足になりません。海水の淡水化と合わせれば尚更です」
「しかし……汚水を集めると言っても、どうやって…?」
「下水道です」
 私の言葉に、親子が「あっ」と声を上げた。
「計画書を読んで初めて、下水道とはこのためにあったのだと分かりました。それまでは、土地や川を汚さないためだろうとか、疫病対策だろうとか、その程度にしか考えていませんでしたが。今はまだ都市周辺にしかありませんが、あれなら汚水を一ケ所に集める事ができます。………魔王陛下の先の先を見据えたお考えの深さを知った時には、ただもうため息しかでませんでした」
「………その計画が、どうかしたの?」
 何故かほっぺたをこしこし擦りながら、キアが口を挟んだ。擦り過ぎたのか、頬が赤い。
「汚水処理の実験施設をどこかに造ると、フォンカーベルニコフ卿が仰せになったのよ」

 どこか適当な土地に、実験的な汚水処理の施設を建設する。立候補する街や村があったら申し出るように、という通達が、ある日役場に舞い込んできた。
 私はすぐに、これに立候補すべきだとクエスに提案した。
「私たちの街は、海もないし川もどれも細くて浅いわ。街中には下水道もあるけれど、結局汚水は川に流すしかない状態だわ。このままでは川も汚れる一方だし、疫病だって起きかねない。でも、処理施設があれば……! 実験施設があれば、きっと実用化した後に造られる本格的な施設も、一番最初にこの街に造ってもらえるに違いないわ! そうでしょ、クエス!?」
 気押された様に、クエスが頷いた。
「そのためには」考えに没頭すると、私は周りが何も見えなくなる。「施設を造る場所をすぐに検討しなくちゃ。実験施設だから、そう巨大なものではないとしても、それなりの敷地が必要になるわ。いずれは本格的な施設に転用できれば尚いいけれど…。汚水をためる水槽も必要よね」
「水槽?」
「そうよ。当然じゃない。集めた汚水を一時溜めておく場所がいるでしょう? 漏れて地面や川を汚さないように、頑丈な造りのものがいるわよね。建物も、しっかりしたものでないと。立候補を表明したら、すぐに計画を練りましょうよ!」

 実験施設は私たちの街の郊外に建設される事が決定した。
 いち早く計画を練り、具体的な建設案をもって立候補したことが、何より高く評価されたらしい。
 汚水の浄化が現実となれば、環境の面でも利水の面でも、私たちの街は格段の飛躍を遂げられる。
 クエスは行政官として絶賛を浴び、ラドフォードのご領主からもお褒めのお言葉を賜った。
 しかし。
 配られた計画書を読んだ私は愕然とした。

「……何か問題があったのかね?」
 ベイフォルト氏の問いに、私は唇を噛んで頷いた。あの時の驚きと怒りが蘇ってくる。
「街の郊外、いいえ、ずっと田舎の村に、その辺り一帯の水源となっている湖があるんです。澄んだ、美しい湖で、人々の喉や田畑を長年に渡って潤してきました。それだけではありません。その辺りは本当に自然が豊かで美しくて、植物はもちろん、様々な動物達も数多く生息しているんです。渡り鳥も毎年、何種類も飛来してきますし……。なのに……。クエスが提出した計画書には、その湖を、汚水を溜める水槽代わりにするとなっていたんです!」
「…そんな……!」
「そんなことになったらどうなるか! 湖は汚れ、村々は水源をなくします。そして何百年にも渡って大切に護られてきた自然が……! 自然に影響を与えない水槽を備える方法はいくらでもあるのに! そのための補助金だって、国から出るって言われてたのに……っ!」

「どういう事なのっ!?」
「何が?」
 詰め寄る私に、クエスは訳が分からないという顔をして眉を顰めた。
「汚水を溜める場所よ! どうして湖なの!? そんなことをしたら……」
「予算の問題だよ」
「補助金が出るわ!」
「湖を使う方が手っ取り早いし、楽じゃないか。汚水を集めるだけで済むんだから。わざわざ大きな建物を建てて水槽を造るなんて……。魚を飼うんじゃないんだよ? どれほどの大きさのものになると思ってるんだ?」
「処理施設が本格的に動くとなれば、結局造らなくてはならないものよ? 先行投資と思えばいいじゃないの。そんなことより、あの辺り一帯の自然がどれほど大切なものか分かってるの? 村のためだけじゃないわ、たくさんの貴重な植物や動物や、魚だって鳥だって……」
「あの湖の周辺は、僕の父さんが地主なんだよ。君、知ってたかい?」
「……い、いいえ…そうだったの……でも、それが……」
「自らの土地を汚水溜りに使おうとは、何と素晴しい犠牲的精神かと、ご領主様にも大層感激されてね。家族も大喜びしてるんだ。僕のことも、一族の誉れだってさ。それに君、大事な事を忘れてるよ。いずれそこには汚水処理施設ができるだろう? 湖が汚れたって、それからキレイにする事もできるじゃないか。まあ僕は、湖をずっと汚水溜りにしておく方が、どでかい水槽を造るよりも現実的だとは思うけどね。………とにかく、地主が決めたんだ、村の連中がそれに従えないと言うなら出ていけばいいんだよ。それに……魚? 鳥? 餌がなくなれば、どこか別の土地に移るに決まってるじゃないか。そんな些細な事よりも、汚水をどれだけ早く多く湖に集めるかを考えようよ、ねえ…」
 伸びてきた手を、私は振り払った。
「バカな事を言わないで! 汚水処理施設は、一年二年でできるものではないのよ? その間に、あの辺りの自然は壊滅するわ! 一度死んでしまった自然を復活させるのに、どれだけの年月と努力が必要だと思ってるの!?」
 国が滅ぶ訳じゃあるまいし。
 私の叫びに、クエスがバカにした様に呟いた。
 村の一つや二つ、湖の一つ、何だっていうんだい?
 私は呆然と、これまでパートナーだと信じてきた人を見つめていた。
「僕のこれまでの働きと我が家の街への貢献を、市長がご領主様に細かく報告してくれてね。今度、僕の行政に関する見解を、血盟城のお役人達の前で披露する事になったんだよ。信じられるかい? 血盟城でだよ? その反応次第では、ご領主様の推薦で、そのまま血盟城で奉職する事を許されるかもしれないんだ。ついに我が家から中央官僚が生まれるのだと、父さん達もそれはもう喜んでくれてね。……君にも」
 クエスがにっこりと、私がずっと好きだった優しい笑みを浮かべて言った。
「僕の相談に乗ってくれて助かったよ。感謝してる」
「……相談……ですって……?」
 クエスに相談されたことなんかない。いつも私が、私の考えを、問われるままにお喋りしてきたのだ。
「あなたに……行政に関する見解なんてないわ。あなたが出した案は、全部私が教えたものじゃないの!」
「何をバカな事を言ってるんだい、グレイス? 君、頭がどうかしたんじゃないのか? たかが、平の事務職員が、行政官の僕に教える? やれやれ、困った人だなあ」
「……クエス………あなた………」
「いいよ、そう思うなら、誰にでも訴えてみたらどうだい? 誰か信じてくれるかな? ……その前にグレイス。君、人前でそんな話、披露する事ができるのか? 僕を糾弾してみせる事ができる?」
「あ……」
 私はただ、愕然とその場に立ち尽くした。
 多くの人の前に立って、クエスを糾弾し、政策案は全て私の考えだと訴える私の姿……。
 ………あり得ない……。
「仕事をちゃんと続けたかったら、バカな事は二度と口にしない方がいいと思うな。それに、こんな言い掛かりをつけられたんでは、僕ももう君とはつきあっていられないね。悪いけど、今日限り、僕に付きまとうのは止めてもらおうか」
  「さいってーっ! そいつ、最低最悪のひきょーもんだっ!!」
腰を浮かせて、拳を振り回してキアが喚いている。何ともはやと、ベイフォルト親子がため息をついた。
「グレイスさんの能力を知って、利用していたんだなあ、その男……」
「そいつは今、王都に? その、役人達の前で見解を披露するとか……」
「明日がその日なの……」
 キアが静かになり、ベイフォルト親子と共に、私に視線を向けた。
「だから私………来たのよ」


 可哀想に思ってつき合ってやればいい気になって……。
 肩を竦め、首を振りながら私に背を向けるクエス。
 一歩一歩、私からクエスが離れて行く。
 その一歩、もう一歩、離れて行くに従って、だんだんと。
 何かふつふつとした熱く固いものが、私の足元から胸へ頭へ、登っていくのを感じていた。
 そしてそれが私の中、指の先から髪の先、一本一本までいっぱいになったと実感したその時。
 私は理解した。

 今、私は、その時を迎えたのだ、と。


 理由を告げ、だから仕事を辞めた、王都に行く、と告げた私に、母は仰天した。そして必死で止めた。
 王都に行って、じゃあ何をするんだと。気の弱いお前に、何ができるんだと。お前が相手にするのがどういう人なのか、分かっているのかと。そして、下手をすれば、家族皆がこの土地に住んでいる事ができなくなるじゃないか、と。
「お願いだから、辞めるのを取り消してきておくれ。お前のお給金で、どれだけ助かっている事か。アニエスの薬代だってあるし……。ねえ、頼むよ、グレイス」
 私を掻き口説く母の側で、父と妹が黙って私を見つめていた。
「……このまま黙っていたら、あの湖と自然が滅んでしまうの。それに……私、クエスを許せない……!」
 だから王都で、そして血盟城で、クエスを糾弾して、そして実験場の計画を変更してもらう!
「騙されたあんただって、悪いんじゃ……」
「母さん、やめて!」
 母の繰り言を止めてくれたのは、妹のアニエスだった。強い口調で母を止めると、私に顔を向けた。
「行っておいでよ、お姉ちゃん」
 気の強い妹は、足を失ってもその強さをなくさなかった。足がなくても私には両手があると、刺繍や縫い物に精を出し、立派にお金を稼いでいる。
 妹の瞳は、いつでも明るい。
「そいつ、クエス? 私も許せないわ! お姉ちゃんのお手柄を、全部独り占めですって? 冗談じゃないわよ! お姉ちゃん、ここが勇気の出し所よ。がんばって行ってらっしゃい!」
「父さんもそう思うよ」
「父さん……」
「グレイスが、ここ一番勇気を出そうと決めたんだ。家族が応援しなくてどうする? グレイス、行っておいで。結果がどうなろうと気にしないで、やれる事を精一杯やっておいで」
「あなた……」
 初めて見るであろう父の態度に、母は目を見開いて吃驚している。
 父は穏やかな瞳で、私の目をじっと見つめていた。
「いいね、グレイス。今この時と思い定めたのなら……」
 私は頷いた。
「ええ、父さん。私……逃げないわ」


「逃げない、と………」
 ほう、とオルディンさんが大きく息をついた。
 ええ、と頷く私。なんだけども……。
「すごい……」
 キアはひたすら感動している。らしい。
「おねーさんのおとーさん、かっこいいなーっ。妹さんも、すごいよねっ。そっかー、それで、王都に来たんだ。じゃあ明日は、おねーさん!」

 血盟城に乗り込んで、クエスと真正面から対決だねっ!!



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えーと、一応これ「マ王」です、か……?
ユーリ治世下における一国民のオリジナルストーリーになっちゃってる気が……。
だってまた字数エラーが出たんですもの。(涙)

ほんっと中途半端ですが、ご感想頂けると嬉しいですー…。