船出の鐘 |
「……本当の勇気はねえ、グレイス」 薪を割りながら、父が言った。 「一生に一度、奮い立たせる事ができれば、それでいいと思うんだよ」 幼い私には、父が何を言おうとしているのか、さっぱり分からなかった。 「一生に一度?」 「うん」 「……一度だけでいいの?」 「本物はね。…父さんやグレイスみたいにもともと気の弱い者が、そうそう勇気なんて振り絞っていられないよ。違うかい?」 「……………違わない……」 本当にお前は気が小さいんだから、と私はいつも母達に言われ続けてきたし、自分でもそう思っていた。幼かったその頃からもう既に。そして、私の気の小ささは父譲りだというのも、もう皆の間に定着した事実だった。 「だからさ。一度だけ。心の底から本当に、今この時だと思ったその時にこそ、一生に一度の勇気を振り絞ればいいんだ」 「……でも、父さん?」 「何だい?」 「どうしたら、それが、一生にたった一度のその時だって分かるの?」 「分かるさ。その時が来たら、きっと。グレイスにもちゃんと分かる」 ただね。父がじっと私を見て言った。 「その時が来たら……逃げてはだめだよ」 だから、父さん。 私。行くわ。 「…………どうして、こんなことに………」 思わず呆然と呟いてしまうその声も、しのつく雨の音に飲み込まれてしまう。 しのつく? いや、そんな生易しいものじゃない。まるで水の固まりを、誰かが怒りのままに地面に叩き付けているかのようだ。……誰かって、誰が…? 「……あの……おねーさん?」 幼い声に振り返ると、男の子が手にお盆を捧げて立っていた。お盆の上には湯気のたつカップが一つ。 「えーと……お茶、入りましたし、暖炉で温まりませんか?」 そう言いながら、お盆を差し出してくる。「ありがとう」とカップを取り上げて、でも窓際から動こうとしない私に何を思ったのか、その男の子はきょとんと首を傾げて私を見上げた。 年齢は60歳から80歳、くらいだろうか。妹のアニエスと同じくらいだろう。雨に濡れたせいか赤茶色の髪が顔の上半分を隠してしまっている。その下には大きな丸メガネ。……髪くらい上げればいいのに。見えにくくはないのかしら。 「……おねーさん、寒くないですか?」 「………ええ、大丈夫よ。気にしないでね」 本当は、ほっといて、と言いたかったのだけど……。心配してくれる子に、邪険な言葉は使いたくない。 「…えーと、君、坊や!」 「あ、はい!」 暖炉の火を調節していた中年男性に呼ばれて、男の子が振り返った。 「そろそろ息子の料理ができあがりそうだ。運ぶのを手伝ってやってくれるかな?」 「はい!」 よい子のお返事をして、男の子が厨房に駆けていく。 その後ろ姿を何となく目で追っていた私を、男性が見ていた。顔に苦笑が浮かんでいる。私が頑に近くに寄ろうとしない理由は、とっくに気付いているはずだ。……悪い人とは思わないけど、でもやっぱり……。 「………さあ、できた! 大したものじゃないが、少なくとも身体は暖まるよ」 厨房から、鍋を抱えた男性─150歳くらいだろうか─が、にこやかに笑ってそう言いながら入ってきた。その後ろから男の子が皿だの何だのを両手に抱えてついてくる。 暖炉の側に集まって(さすがに私も、この時ばかりは彼らの間に混ざった)、 皿に野菜やソーセージの切れ端を浮かべたスープを盛り、乾パンを配ったところで、中年男性が口を開いた。 「………これもまあ不思議なご縁だね。お嬢さんも坊やも色々心配だろうが、とにかく一晩、仲良く過ごそうじゃないかね?」 穏やかな力強い声。力強いのは、この男性の性格もあるだろうけど、力を込めないと雨音に負けてしまうというのもある。……本当にものすごい雨、いや、嵐、だ。これのせいで、私は……。 生まれて初めて、故郷から出た。 ラドフォードの田舎街からこの王都へ。馬車を乗り継ぎ乗り継ぎ、ここまでやってきた。 私は、オースターシア・グレイス。今年100歳。と、ちょっと。 人生の全てを賭けて、今この王都にいる。………いる、んだけど………。 運命の日の前日、つまり今日、そして朝、私は王都に到着した。それから宿に入り、明日の準備をし、1人で予行演習なんぞもしてみて、それから……。 初めて訪れた王都を、ちょっと散策してみようと思ったのが運の尽き、だったのかもしれない。いいやっ、今から運が尽きてしまっては、明日は一体どうなる!? 明日は……。 私の明日は……来るんだろうか……? 田舎育ちで、足腰に下手に自信があったせいで、私は初っぱなからかなり遠出をしてしまった。 城郭を出てしばらく行った山の中腹に、お花畑がある。そこの展望台から見る王都が、それはもう美しいのだと宿の人に教えられた。これが最初で最後の機会かもと思った私は、かなりがんばってそこまで歩いた。一年中花の絶える時がないというお花畑。元は魔王陛下専用の保養地だったそうだが、当代陛下によって一般に解放されたという。そこは、私が想像してたよりもずっと美しい場所だった。花々を揺らして過る風が、透明に輝いて見える程に。 展望台からの王都の眺めを堪能して、途中で買った「さんどいっちー」というハムや野菜やチーズをたっぷり挟んだパンとお茶を味わって、それから色とりどりの花に埋もれてまどろんで。 気がついたら、かなり陽が陰っていた。 たっぷり休んで元気が回復した私は、更に山の奥に向かった。……身体を動かす事で、これから私を待っている問題から目を逸らそうとしていたのかもしれない。 王都は治安もいいと聞いていたし、ちょっとくらい暗くなっても大丈夫だろう。そう思った。 そして。 結果は、暗くなる所じゃ済まなかった。 陽が落ちるより早く、一気に空が暗くなったと思った途端、イヤな予感のする重い風が木々を揺らし、それからすぐに雨が降り始め、と思ったら土砂降りとなり……嵐となった。 後悔する暇もなく、必死で山を駆け下りる途中、視界の隅に家の灯が見えた。眞王陛下、魔王陛下、ありがとうございます! そんな言葉を胸の中で唱えながら、私は木々の間にぽつんと建つ家─実は小屋、に飛び込んだ。 結局その小屋は、その辺り一帯を管理する人が使う、短期滞在用のものだったらしい。 勢いよく飛び込んだ小屋の中には、すでに先客がいた。中年男性とその息子という男性2人組だ。人の家に無断で飛び込んだ事を詫びようとする私に、自分達も同様だと中年男性が笑いかけてきた。中に入り、小屋に備えられていたタオルを勝手に使って身体を拭き、これまた厨房に常備されているらしいお茶を頂いて、ホッと息をついた頃になってようやく、狭い小屋に2人の見知らぬ男性と一緒なのだと気が付いた。我ながら、あまりにも鈍い。 これはもしかすると、危険な状況なのではないか。出ていこうにも外は嵐。同時に、中で何が起ころうとも、外に知られることもない。そして私は身を護るものを何一つとして持っていない。 次から次へと悪い想像が頭を過る。そんな私の恐怖心に気付いたのか、父親の方が何か言いたげに口を開いた。思わず身構える私。その時だった。赤毛の少年が、ぐしょ濡れになって飛び込んできたのだ。 私を含めて総勢4名。嵐が呼び寄せたメンバーがこうして揃った。 暖炉の火は赤々と燃え、身体も何とか乾き、食事もできた。 そんなのんびりした状況とは裏腹に、小屋の外の世界は、天籟、地籟、吹きすさび渦を巻き、天を泣かせ地を唸らせる暴風雨に、狂ったように掻き乱されている。小屋もかなり頑丈そうな造りではあるけれど、ひっきりなりし無気味な音を立てている。もし窓が破られたり、屋根が飛んだりしたらどうなるんだろう…。 もちろん、そんな状態の外に出ていけるはずもない。明日には天候が回復する事を祈りながら、結局私たちはここにいる。 男性の息子の方が、またもお茶の用意をしてくれた。 「………あの」 カップを受け取りつつ口を開いた私に、皆の注目が集まる。……いつものように、頬が熱くなるのが分かる。 「…いえ、あの……ごめん、なさい。その……何もお手伝いせずに……」 緊張していたとはいえ、私はここに来てから坐り込んだまま何もしていない。 「ああ、気にせんでいいですよ。私らはこういうことに慣れておるんでね。……でも、お嬢さん」 ようやく私たちとお喋りしてくれたね。 穏やかな表情で、中年男性がそう言った。息子の方も微笑している。……そんな顔でそんな風に言われてしまうと、実はまだ怖いのだとは言えなくなってしまう。男の子だけが、何も分からずにきょとんとしていた。 「……さて、眠ろうにもこの嵐だ。落ち着いて目を瞑ることもできやせん。お嬢さんも、見知らぬ男に囲まれたのでは不安だろう。……どうだろうね? 眠気がさすまで、お茶でも飲みながらお喋りでもしませんか? 先ずは、そうだね、自己紹介から」 一息つく頃、男性がお茶のカップを傾けながらそう提案してきた。……私に、気を遣ってくれているんだ。 ようやく気分が落ち着いてきて、私は自分がどれだけ失礼な態度を取っていたかに気付いた。やっと。 今さら謝る事もできず、私はただ微笑んで頷いた。親子がホッと息をついた。その誠実そうな親子の様子を見て、私はごめんなさいと、心の中で詫びの言葉を呟いた。私は本当に……人を見る目がないのだ。 「では、まず私らからだね。私はね、ベイフォルト・カルバンと言うんだよ。こっちは息子のオルディンだ。……ビーレフェルトで……交易船の船乗りをしているんだよ」 最後の方はどこか苦しげに男性、ベイフォルト氏が言った。だがそれよりも、次の言葉が私を驚かせた。 「王都へは……ある事で陳情に来たんだ。明日……血盟城に向かうつもりでいてね。その前に気晴らしの散歩でもと思ったんだが、結局こんな事になってしまってねえ。……これは何かね、城へ来るなと言う魔王陛下の思し召しだろうかねえ……」 どこか自嘲気味にベイフォルト氏が呟く。息子のオルディンさんが、父親の肩にそっと手を置いた。 「そんなことないよっ」私の隣に腰を下ろしていた少年が、いきなり叫んだ。「えとっ、その……魔王……陛下はそんなコトしないよ! だってその、悪いコトを頼みに来たんじゃないんでしょ?」 素直な子供の言葉に、ベイフォルト親子が揃って破顔した。 「ああ、そうだね。そうとも、当代魔王陛下は庶民の願いを邪険にしたりはなさらんさ。………悪い事などとんでもない。私らは……皆の願いを託されて、仲間の代表としてここへ来たんだから……」 「願いって……?」 「それは………、その前に、坊やの名前は?」 え? と少年がまじまじと親子を見つめ、それから突如何かに気付いたようにわたわたと慌て始めた。 「…え、えとっ、そのっ、あー………キア! 俺、キアって言います。よろしくっ。えっとー、王都に住んでて、ちょこっと散歩してたら嵐に巻き込まれました! 以上ですっ!」 ………ヘンな子。 何だか、取ってつけたような自己紹介だったわね。 「おっ、おねーさんはっ!?」 ほとんど無理矢理という感じで、男の子、キア、が私に話を振った。 「え? あ、ええっと…」 いきなりだったので、焦ってしまった。キアの事を言えないな、これじゃ。 「ごめんなさい、ぼんやりして…。あの、私、オースターシア・グレイスといいます。あの……ラドフォードから今日、こちらに着いたばかりで……。お花畑を見て回ってうろうろしていたら……こうなってしまいました。あの、色々と、その……ごめんなさい」 キアはぽかんとしていたけれど、ベイフォルト親子は分かってくれたらしい。何も言わなかったが、深く頷いてくれた。 「……あの、陳情で血盟城へ……?」 私の問いに、親子はこくりと頷いた。 「時間もあるし……そうだね、聞いてくれるかな、2人とも」 私と、そしてキアも、頷いた。 「……私は船を一艘持っていてね。そんなに大きな船じゃあないんだが、他国を行き来して貿易を行っているんだ」 「船長さんなんだ」 キアが楽しそうに言葉を挟んだ。男の子は好きよね、船長さん。だけどその言葉に頷いたベイフォルト氏は、少し哀しげだった。 「そう、船長だね。確かに……。だけど、自分の思う通りの交易はできないんだよ」 「……どうして?」 「船の船長ではあるけれど、貿易商人として認められていないからさ。他の領土では知らんが、ビーレフェルトではある時から、5つの家だけが貿易商人として認められ、私たちのような個人業者は五家のどれかの配下になる以外、貿易に携わる事ができんようになってしまったんだよ」 「そっ、そうなの!? どうして?」 「そうだねえ…」ベイフォルト氏が、目を閉じて小さく苦笑を浮かべた。「理由はね、ちゃんとあるんだよ。私たちのような零細業者を、一年中安定した仕事が続けられるように保護するためだとか、たくさん寄り集まった方がお互い助け合えるし、まとまれば大きな商いができるというのもある。確かに大きな取引をどんと扱う方が、利益は遥かに上がるねえ」 「なるほどー。……うん、分かる気がする」 素直にうんうんと頷くキアに、私は思わず吹き出した。この年齢でこの単純さ。かなりいいお家のお坊っちゃんと見たわ。 「………おねーさん、今もしかして笑った……?」 あら、バレた? だって仕方がないでしょ? キアはちょっと拗ねたように下から私を見上げている。…目が髪で隠れているので、実際の表情は分からないのだけど。 「キア、君? あなたね、ちょっと単純すぎるわよ。いいこと? 確かに零細商人がそれぞれで小さな仕事をするよりも、集まって一つの大きな仕事をする方が利益率ははるかにいいわ。ここまではいいわね? でもね、その上がった利益を、仕事に携わった業者達が等分に分けられればいいわよ。一つの仕事で上がる見入りは、きっと1人で行う取引よりずっと多くなる。けれど実際はそうじゃないの。大きな取引によって上がった大きな利益のほとんどを、ベイフォルトさん達じゃなく、その、ビーレフェルトで交易商人として認められた5つ、でしたっけ? そこの家が吸い取ってしまうのよ。つまりは、5つの家だけで仕事も利益も独占してる訳。そうでしょう?」 その通りだよ、とベイフォルト親子が大きく頷いた。 「どうしてっ!?」キアが素頓狂な声を上げた。「だってそれ、ひどくない? だったらおじさん達が集まって仕事する理由、全然ないじゃんっ!」 「ないのよ。たぶんベイフォルトさん達の様な零細の船長さん達には、決まった最低限の賃金しか与えられていないんじゃないかしら」 「全くその通りだよ、お嬢さん」 「すごいなあ、ええと、オースターシア・グレイスさん。……貿易関係の仕事をしてるんですか?」 「いいえ、とんでもない」 私はひらひらと手を振った。そもそもラドフォードには海もなく、貿易とはあまり縁がない。 「私は町役場に勤めて………ました。貿易なんて、全然。でも、5つの家だけで零細船主達を囲い込んでいるとなれば、それくらいの想像はつきます。貿易業は、かなり旨味のある仕事だと聞いていますし」 そうなんだー……、とキアがどこかがっかりと肩を落として呟いている。 「……ごめんなさい。俺、ちっとも分かってなくて……。ビーレフェルトでそんな……。でもどうして、その5つの家だけってなっちゃったんですか…?」 暖炉の上からお茶のポットを下ろし、新しいお茶をカップに注ぎながら、ベイフォルトさんが「そうだねえ」と低く唸るように言った。 「お嬢さんも言ってた通り、貿易は失敗すれば身上が潰れかねないが、成功すればこれがまた実に儲かる商売でね。旨味が大きいんだよ。……当代魔王陛下の治世となって以来、国の周辺から争いが消えていった。そして魔族と人間の国の交流も広がって、同時に貿易も盛んになった。それはとても素晴しい事だ。商人にとって、商いのチャンスが広がる訳だしねえ。……だけどやっぱり、そこでものを言うのは金と力なんだなあ……」 「もともと大商人だった五家が、ビーレフェルトの今のご領主に、貿易権を五家に独占させるように働きかけたんだよ」 「……ビーレフェルトの当主は、どうしてそれを……?」 息子、オルディンさんの言葉に、キアが質問を重ねた。 「お金に決まってるでしょ? 大儲けした内の何割かを差し出す事で、話がついたということよ」 頷く親子を見て、キアが唇を噛んで項垂れた。………どうしたんだろう……。 キアは顔を上げると、「それで?」と親子に話を促した。 「それで、中小零細の、私たちの様な商人は独自の仕事をする事ができなくなってしまったんだ。必ず五家のどれかから鑑札を貰い、回された仕事をこなし、上がった儲けはほとんど差し出さないとならない。……月の終りに施される金は、船の燃料とその月のツケの支払で全部消えてしまうよ」 これでは私らは生きていけない。ベイフォルト氏が悔しそうに呻いた。 「貿易はね、確かに大商人が大きな商いをするのが一番儲かるのは確かだ。だがね、小さな業者には、小さいなりにできることがあるんだよ。何より私らには機動性がある。速断即決即実行、ってね。あちらに珍しいものがあると聞けば、その場で船を全速力、誰より早く駆け付ける事ができる。それにどの国にも、大きな商人が見向きもしない職人が、それもどれほど名声を上げた職人よりもよっぽど腕のいいのがいてね、そういう職人と渡りをつけて、いい品を安く仕入れるということも、個人業者ならではの仕事だ。私もそれで随分仕事をしたし、そうやってできた人の繋がりは後々必ず生きてくる。国境を越えた人と人の繋がりが、仕事をすればする程広がっていく。それを実感するのもまた、個人貿易業者の醍醐味だよ。私はそれが楽しくて楽しくて……。でもそれが今はできなくなってしまった……」 「それで陳情を……?」 ああ、とベイフォルト氏が頷いた。手が、無意識だろうか、懐をぐっと押さえている。 「同じ個人業者達が、連名で書き上げた陳情書を持ってきたんだ。……もしビーレフェルトにバレれば、鑑札も取り上げられ、仕事もできなくなってしまうが……それでもね。それにこれは、ビーレフェルトの、いや、眞魔国全体のためにも重大な問題なんだ」 その言葉に、え? とキアが首を傾げた。 「大商人が音頭をとる仕事ばかりになってしまって、個人業者が携わっていた仕事がさっぱりできなくなってしまったからね。大きな仕事は確かに見入りも大きいが、そうそう続くものではない。実は、ビーレフェルトの貿易高は、ここの所ずっと下がりっぱなしなんだよ。つまり五家とご領主だけが金を手にして、ビーレフェルトそのものにとっては、貿易はじり貧が続いているのさ。このままでは危険だね。この問題を放っておく事は、ビーレフェルトだけの問題じゃない、眞魔国の国益そのものにも関わっってくる」 「そ、そーなんだ……っ」 俺、ホントに勉強不足で………、と、キアが今にも泣き出しそうに身を縮こまらせている。確かに勉強不足はあるけれど、そこまで落ち込まなくても。 そんな子供の様子に気付いてかどうか、ベイフォルト氏は「でもねえ」とため息をついた。 「各領地、特に十貴族の領地における自治権は強いからね。その領地について領主が決めた事には、そうそう魔王陛下も口を出されない。おまけにこの事に関しては、さっきも言った様なかなりもっともらしい、いかにも零細業者を保護し、援助するような理由がつけられているからね。訴えても取り上げてくれるかどうか…。ましてこれは、下手に扱えばフォンビーレフェルト卿ご一族の名誉にも関わってくるし…」 「どうして?」 本当に分からないんだろうか、この子。王都に住んでるはずなのに。 「フォンビーレフェルト卿ヴォルフラム閣下、と言えば分かるでしょ?」 私の言葉に、キアが「え?」と顔を上げた。………この子、ほんとに分かってないの? 「当代ビーレフェルトのご当主の甥子、フォンビーレフェルト卿ヴォルフラム閣下といえば、前魔王陛下のご三男よ? 自分の甥っ子が魔王陛下のお血筋とあれば、当代ご領主の威勢が強くなるのは当然だわ。まして、ヴォルフラム閣下は当代魔王陛下の婚約者でいらっしゃるのよ? 伯父であるフォンビーレフェルト卿の鼻もさらに高くなるというものよ」 私の言葉に、キアが困ったようにもじもじし始めた。何よ? 続くはずだった言葉は、後に続いたオルディンさんの言葉にいきない遮られた。 「あれ? オースターシア・グレイスさんは知らなかったの? ……そうか、まだラドフォードまでは届いてないのかなあ」 「…あの、何が……?」 「魔王陛下とヴォルフラム閣下との婚約だよ」船長さんがやっと笑った。「つい先日、破談になったんだよ」 「………え?」 破談…? 地上の奇跡と呼ばれて久しい、絶世の美貌の持ち主である双黒の陛下と、前魔王陛下の御子にしてやはり美貌を誇る金髪碧眼のヴォルフラム閣下。夢のように美しい、眞魔国繁栄の象徴、国民全ての憧れのカップル。あのお二人が………婚約解消!? 「…どっ、どっ、どうして…っ!? だってあのお二人は、初めて顔を合わせられたその瞬間に、2人同時に恋に落ちられたと聞いたわ!!」 ぶふうっ! いきなりキアがお茶を吹き出した。 「やだ、何よ、汚いわねっ」 「…ゴホ、ゲホッ、ケフっ、ご、ごめ、な……さ…ゲホッ、ゴホゴホッ……」 大丈夫かい? オルディンさんが声を欠けながら、側によってキアの背中を撫で始めた。 「……ゴホ……一目で………こいぃ……!? ケフン、コホッ……」 「そう聞いてるわよ。というか、ラドフォードじゃそれが常識だけど……違うの?」 「違ったようだね」 ほい、とようやく咳の治まったキアに新しいお茶を手渡して、ベイフォルト氏が言った。 「私はあの婚約は、ちょっとした手違いだったと聞いたね。もしくは、兄上のフォンヴォルテール卿が、お美しい陛下のいわば盾となるために、弟君を当座の婚約者に据えた、とも聞いたな」 「……………初耳です」 驚いた。 「でも、あの、どうして今そんなことに……?」 「魔王陛下には、心に決められた方がおいでになったのさ。それをはっきりさせたんだよ」 「ええっ!?」 「……シンニチで号外が出たんだけど……?」 「全然……。あの、私が住んでる所、街とは名ばかりで、ホントに田舎なんです。それに、私の家はこれまたさらに郊外の山の中、だし……」 そんなことより。 「あの、魔王陛下がお心に決められた方って一体……」 「ウェラー卿コンラート閣下だよ」 「ウェラー………ウェラー卿、コンラート閣下といったら、あの……まさか、あの……!?」 「ウェラー卿の大冒険」。私の愛読書の、偉大なるヒーローだ……! ウェラー卿コンラート閣下は、前魔王ツェツィーリエ上王陛下のご次男、当代魔王陛下の宰相フォンヴォルテール卿グウェンダル閣下の弟君、魔王陛下の婚約者であられたフォンビーレフェルト卿ヴォルフラム閣下の兄君、だ。 ご兄弟の中でも唯一、人間との混血で、20数年前の大戦の時にはそれはもう口にできない程の辛酸を舐められたとお聞きしている。 結局戦時に多大なる功績を上げられ、それまで軽んじられていたのが一転、国家の英雄となられた。 だけど、当代陛下の御代となったある日、突如コンラート閣下は魔王陛下を裏切り、怨敵シマロンに走った。閣下のその行為に、閣下を知るものはもちろん、国民の多くがビックリ仰天した挙げ句、無意味に右往左往したらしかったが、結局その離反行為は対シマロン秘密工作任務であった事が後に判明した。 大シマロンに反乱を起こし、国家を転覆させるという重大な任務を背負い、コンラート閣下は命がけで潜入工作を行なわれた。それだけではない。失敗した時には、反逆者の汚名を纏ったまま死を選ぶ覚悟でいらしたのだという。 結果、大シマロンでは閣下の指揮の元、反乱が起こり、大シマロンは滅亡の縁に立たされた。ウェラー卿コンラート閣下は、再び眞魔国の英雄となったのだ。 閣下帰国後は、さまざまな歌が、詩が、演劇が、閣下の英雄的行為をそれぞれの形で褒め讃え、どれもが大当たりを取った。特に評判だったのは小説だ。 「ウェラー卿の大冒険」と銘打たれた、ウェラー卿シマロン滞在時を描いた大河小説は、出れば当るの大人気。狡猾にして邪悪な人間達の欲望と策謀と、様々な魑魅魍魎が蠢くシマロン宮廷を舞台に、ウェラー卿の恋と冒険の日々が花開く……。 現在では小説だけではなく、評論や伝記も含めて、「コンラート閣下もの」は眞魔国出版界の一大ブームである。小説も数多くの作家が競うように書き連ね、対象年代も多岐に渡っている。学校の教科書にも採用されているはずだ。 その中でも、もう十巻以上も出版されている一番最初のシリーズは、全て私のベッドサイドに並べてある。就寝前にこれを読むのが楽しみで……。って、それはどうでもよくて。 「あのっ、本当なんですかっ!? 魔王陛下とコンラート閣下が……!?」 「そう」親子が揃って首を縦に振る。「どうやらお二人はもうずっと、密かに愛を育んでおられたらしいんだよ」 「……まあ…っ!」 か、感動だ……! 「どうやら、ウェラー卿が命がけでシマロンへ行かれたのも、戦を起こしたくないという陛下の想いを実現したいが故だったらしいねえ」 「まあっ、まあっ…!!」 「大冒険」とは、ちょっと…かなり展開が違うけど(アレは、シマロンの王女とコンラート閣下の恋物語だった)、でも魔王陛下がお相手の方がずっとずっと素敵だわっ!! ………視界の隅で、キアが俯いたまま妙にもじもじしているのが映る。どうでもいいけど。 「父はね、ウェラー卿と面識があるのが自慢で仕方がないんですよ」 「「ほっ、ホントっ!?」」 いきなり声が重なった。はたっと見ると、キアも私を見つめている。2人して、胸元で両の拳を握りしめているのが何ともはや。 「ほほう」ベイフォルト父がにやりと笑った。「どうやらお嬢さんも坊やも、ウェラー卿の信奉者のようだねえ。……察する所、あの小説の愛読者、かな?」 「……………全種類、全巻、持ってますぅ……」 私が告白するより早く、キアが照れくさそうにそう呟いた。 「あ、あなたも…!?」 「……てことは、おねーさんも?」 「ベッド脇に、全部揃えてあるわ」 「あ、俺も……」 同志だ。思わず2人でにこーっと笑いあった。わっはっは、とベイフォルト氏が楽しそうに笑いだした。 「でもね、本物のウェラー卿は、あんな小説なんか足元にも及ばない程素晴しい方だよ?」 「そっ、そうなんですかっ!?」 何て幸運なのかしら、私っ! 憧れのウェラー卿コンラート閣下を見知った人とお会いできるなんてっ。さっきまで感じてた不運なんて、あっという間にはるか彼方に消滅した。 「……面識があると言っても、もう20年以上も前、あの大戦の頃の話だがねえ」 「あ、じゃあ、ルッテンベルク師団の……?」 「そうだよ、坊や。よく知っていたな。……私はねえ……あの人達をアルノルドまでご案内したんだよ……」 「アルノルド……あの…アルノルドに……!?」 思わず、といった体でキアが腰を浮かせた。 「そう」ふと遠い目をして、ベイフォルト氏が頷く。「あれは本当に……辛かった……」 「……ルッテンベルク師団はね、混血だの人間の亡命者だのが寄り集まってできた師団だったんだが…。当事、巷間に伝えられるようなやくざなはぐれ者の集まりなどでは全くなかった。まして、国家への忠誠心の薄い半端者などではね……。確かに荒くれ揃いだったよ。お上品な騎士様など1人もいなかった。身につける剣も装備もバラバラで、上下関係もどこかいい加減だったねえ。でもそれはね、規律がなってないとか、まして眞魔国軍人としての誇りがないとか、そんなことじゃ全然なかったんだよ」 お茶を啜りながら、ベイフォルト氏の話は続く。もう何度も同じ話を聞かされているらしいオルディンは別にして、私とキアは、瞬きも忘れて話に聞き入っていた。 「…アルノルドへ向かう街道は、敵と味方が錯綜しててね。まっすぐ向かう事は危険だったんだ。それで、当時国内の交易に従事していた私らに、白羽の矢が当たったんだね。街道だけじゃなく間道や抜け道にも詳しい私らなら、安全に目的地に向かうことができるだろうからと……。同業者はみんな嫌がってねえ。そりゃそうさ、戦争で一番危険な最前線に飛び込む事になってしまうんだから。そして、案内する相手は混ざりもののルッテンベルク師団ときた。皆尻込みしてしまったんだよ。まあ、結局はしょうがなくなって、私が引き受けたんだがね」 ルッテンベルク師団……。ベイフォルト氏はどこかしみじみと、その名前を噛み締めるように呟いた。 「……普段は本当に皆好き勝手しててね。こんな事できちんとした戦いができるのかと、私も疑ったくらいさ。でもねえ、すごいんだよ。イザという時。そう、アルノルドに向かう途中、敵の小隊と出くわしたんだが、ウェラー卿が一言『戦闘準備!』と叫んだ瞬間、一見無法者の集まりは、瞬時に強力な師団に変貌したんだ。本当に一瞬の変化だったさ。ウェラー卿の指揮の元で戦うあの人達の姿ときたらもう…! 自分の目で見ていても、信じられないくらいだったよ。……強かった…! 完璧に統制がとれていて、それが激戦になってもちっとも崩れないんだ。本当に、すばらしい師団だった……! あれが……」 ベイフォルト氏の顔が苦渋に歪む。 「……あの人達が、ほとんど全滅したと聞いた時には……。辛かったよ……。結構長い行軍で、それなりに親しくなっていたしね…。そして、孤軍奮闘を強いられたあの人達のお陰で戦争にも負けずに済んだんだと、それが分かった時には……。辛かった。そして……哀しかったよ…」 しん、と、私たちの間に沈黙が下りた。 「………ウェラー卿が生還なされたのが、唯一の救いだったなあ…。あのお方は本当に立派でいらした。偉ぶったところなぞ微塵もなくてね。そりゃ上流階級のお歴々から見れば、卑しい血筋だったかもしれん。だが私ら庶民から見れば、やっぱり雲の上のお方だ。それなのに、平兵士にも、私にも、分け隔てなく接して下さって。本来ならあんな師団の指揮など、あんな……全員が死を覚悟しなくてはならんような師団の指揮をされるお方ではなかったはずなのに……。そうだよ、あの人達は、独り残らず死ぬ覚悟を決めていた……」 「……数で全然負けてたから……」 キアが低く呟く。 「数か…。そう、数からみても絶望的だったね。……でもね、坊や。そんなことは最初から問題じゃなかったんだ」 「……え?」 「………あの人達は、最初から死ぬつもりだった。いや、死ななきゃならんかったんだ」 「…どういうこと……?」 キアの疑問は私の疑問だ。私たちは2人してベイフォルト氏の言葉に集中した。 「十倍以上の数の敵にぶつかって、死に物狂いで戦い、そして死ぬ。そうして見せる他に、彼らにはもう、忠誠心を証明してみせる方法がなくなっていたんだよ。もし生き残れば、本気で戦わなかったのだろうと、下手をすれば、敵に通じていたのだろうと、糾弾されかねない状態だったんだ」 「そんな………」 「彼らは皆、家族を持っていた。その頃には、混血は反逆者、内通者だという言い掛かりともいえる評判が世間を支配していたからね。軍人ならともかく、何の身を護る手段を持たない彼らの家族は、常に命の危険に晒されていたんだよ。そんな家族を護るために……彼らは彼らの命を捨てる事によって、忠誠心を証明しなくてはならなかった……」 「……そんな……こと……」 ひどいショックを受けたように、キアは肩を震わせながら顔を伏せた。 「死んでこいと言われたんだよ、ウェラー卿は。そうすれば、混血のお前も英雄になれる。そして仲間の混血達も名誉を守れる。だから、華々しく死んでみせろと。………実の母親と伯父にね」 「ツェ………っ、上王陛下、は……」 「当時のお気持ちはどうあろうと、26代陛下はウェラー卿を死地に追いやった。護る努力もなさらなかった。死ねと仰ったのも同じだろう…?」 思わず上げた顔と肩を、キアはまた苦しげに落とした。 「……だが、ウェラー卿はご立派だった。あんな苦境にありながら、わずかの感情の澱み、恨みもつらみも憎しみも、何もあの方は身に潜ませたりはなさらなかった。諦念、というのかね……いや、諦めとは違うな……もっと透明な、清々しい程の、開き直りにも似た……強さ、強靱な精神の有り様というかね、そんなものを見た気がするよ。……思い出すねえ」 ベルフォルト氏が、愛おしむような視線を宙に向けた。 「あれは、ここを下ればアルノルドだという峠に到着した時だった。……ウェラー卿が私の側にやってこられて仰ったんだよ。ありがとうってね。『よくこんな場所まで共に来てくれた。心から感謝している。これ以上は危険だ。あなたは与えられた役目を、充分過ぎる程に果たした。……どうか無事にこの場所を離脱して欲しい』。切迫した時間と状況の中で、淡々とそれだけ口になされた。とても穏やかに微笑んでおられたよ。焦りだの恐怖だの気負いだの、まるっきり感じられない程落ち着いておられて………心底、惚れ惚れしたね。これこそ男だってね。男が惚れて、生涯かけてついていこうと決意させるような、強烈な魅力を持っておられた。師団の人達だってそうだった。誰も、もしかしたらその場所にいる中で唯一の生き残りになるかもしれない私に、羨む素振りも見せず、皆が笑顔で声を掛けてくれた。ありがとうよ、って。気をつけて帰れよ。家族を大事にするんだぜ……と……」 その声の一つ一つを思い出したように、ベルフォルト氏は潤み始めた目を瞬き、そしてそっと閉じた。隣から、くすん、と鼻をすする小さな音がする。 NEXT→ プラウザよりお戻り下さい
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