グランツの勇者・9−1


「いよー、シブヤの旦那!」

 わひょんっ。
 どうもその一言は心臓に悪い。
 9回裏ツーアウト満塁、3点差で敗北寸前。満塁策を取られた後、こいつと勝負で勝利だと軽く見られて立ったバッターボックスで、フルスイングしたらジャストミートしてしまい、うわっ、これってホームランじゃん!? おれってばサヨナラホームラン打っちゃったよーっ! と思ったらポール際でファウル、かと思ったら線審が腕を大きく回してくれて、え? やっぱりホームラン!? やったー! と思ったら、相手側の監督が抗議に飛び出してきて、ああ、やっぱり間違い? おれ、どうなっちゃうの? ドキドキドキドキみたいな……。

「よぉ、旦那、ミーモンは一体ぇ何をじたばた踊ってるんだ?」
「ミーモンってゆーな! モンモンもダメだぞ!」

 反射的に言い返してから、ユーリは大きく深呼吸を始めた。
 落ち着こう、おれ。

 ぜーはーぜーはーと深呼吸するユーリをつくづくと眺めてから、バッサとイシル、そしてコンラートは改めて顔を見合わせた。コンラートが逸早く頭を下げる。

「お早うございます」
「おはよぉさん。……あんたも律儀な人だな。俺達にそんな丁寧な言葉遣いをする必要はないんだぜ?」
「そうともよ。俺達とあんたの仲じゃねぇか」

 どういう仲だよ。
 「おはようございます!」と良い子の挨拶をしながらも、ユーリは唇をちょっとだけ尖らせた。
 シュルツローブ道場で最初に出会った2人は、いつの間にかすっかり親友気取りだ。優越感漂う満面の笑みで胸を張り、まるで特権の様にコンラートの両脇を固めると、気安く近づくなとばかりに周囲の門弟達を睥睨している。
 ユーリはコンラートの右脇に陣取ったイシルを押し退けるように身体をねじ込み、コンラートの右腕を取った。
 コンラートの隣はユーリの指定席なのだから。

「おお、カクノシン、来たか」

 行き会う門人達に挨拶すれば、新人に対してとは思えない丁寧な挨拶が返ってくる。一晩で、もうすっかりコンラートのことは知れ渡ってしまったようだ。
 コンラッドが誰より強くてカッコ良いからだと、ユーリは内心鼻が高い。実はバッサとイシルも鼻高々(彼らがそうなる根拠は不明だが)であるのだから、傍から見ればこの3人はそっくり同じ姿に見えたかもしれない。
 やがて、一際大きな声が掛けられた。
 前方には、ちょうど建物から出てきたらしいウルヴァント・ガスリーが、二振りの剣を手に立っていた。その傍らには、同じ様に剣を抱えたフィセルもいる。
 この2人が相手では、さすがにコンラートの『親友』であるバッサとイシルも強くは出られないのだろう。ガスリー達が近づくにつれて後方に下がり、まるでコンラートの従者の様に背後に控えた。気を利かせたつもりなのか、2人の内のどちらかが背後からユーリの袖を引っ張ったが、もちろんユーリはコンラートの隣から動かない。

「お早うございます」
「おはようございます!」
「ああ、お早う、カクノシン、それから……ミツエモンだったな?」

 ガスリーの、顔の表面いっぱいに×印を刻む無惨な傷は、まるで彼の存在そのものを否定するかのようだ。お前などいらない、消えてしまえと、その傷をつけた相手は言いたかったのだろうか。
 毎朝毎朝、起きて鏡を見る度に、自分を否定する傷を見なくてはならないこの人は、どんな思いで生きているんだろう。
 そんなことをふと考えてしまったユーリの前で、ガスリーは深い傷のせいだろう、どこか引き攣った、だが確かに朗らかな笑みを浮かべて彼らに真っ直ぐ目を向けた。

「昨日は突然いなくなったというから、ちょっと心配していたぞ? お前達、宿はどうしているんだ? 宿屋か? だったら金が要るだろう。宿泊所にまだ空き部屋があるから、いつでも移ってきて構わんぞ。ああそうだ、朝飯はどうした? この時間なら、まだ2人分くらい食堂に残っているんじゃないかな。イシル、バッサ、お前達2人を案内して……」
「あのっ」

 どんどん話を進めていく師範代に、コンラートが慌てて口を挟んだ。話の腰を折られたガスリーが、「ん?」と眉を顰める。

「…ありがとうございます。ですが、宿はこの街に住んでおります幼馴染の家に居候させてもらうことになっておりますので、どうかお気遣いなく。それに、朝食も済ませてきました」
「そうか?」意外そうにガスリーが言った。「大抵の新入りは食い詰めだから、すぐにここに転がり込むんだがな。……まあいい。居候生活が気詰まりになったらいつでも来い。ここは仲間が多いから、馴染めば楽しいぞ? ……食事も終わっているなら、さっそく練習といきたいのだが、構わんかな?」
「ええ、もちろん。よろしくお願いします」

 微笑んでコンラートが答えた途端、「俺が!」とフィセルが飛び出してきた。

「今日は俺が相手をする。いや、させて欲しい! あんたからは色々と学べると師匠もガス兄貴も言ってたし、俺もそう思う。よろしく頼む!」

 頬を紅潮させて叫ぶように言うフィセルに、バッサとイシルはきょとんと目を瞠り、ガスリーは楽しそうに笑っている。

「俺は構いませんが…?」

 言うと、「よし!」と気合の籠もったフィセルが、所有権を主張するかの様にコンラートの二の腕を掴んだ。
 「あ!」と一瞬声を上げたユーリだが、次の瞬間、何か思いついたように「そうだ!」と大きな声で言った。

「どうした? ミツエモン?」

 ガスリーに問い掛けられて、ユーリが「はい!」とはきはき答える。

「あのっ、カクさんのお世話を誰かにお願いしていいですか? おれ、カクさんが剣の練習をしてる間、厨房のお手伝いでもしてこようかと思うんですけど!」

「ちょっ…へっ…ユー……ミツエモン!?」

 慌てるコンラートを他所に、「おお、それは良い心掛けだ」とガスリーが感心したように頷いている。

「おい、ミーモン」バッサがここぞと声を上げる。「そいつは俺達に任せておけ! 何つっても俺達にゃあ、カクノシンを見出して師匠に引き合わせた責任ってものがあるんだからよ。ちゃーんと世話をするから、お前は安心して働いて来い!」
「………あんた達に見出してもらった覚えはないんだけど。それからミーモンっていうな!」

 それじゃ、カクさんをお願いします! 厨房の場所を教えてもらい、わたわたと手を振り主を止めようとするコンラートに「練習、頑張ってね!」と一声掛けると、ユーリはすぐさま走りだした。
 護衛が第一である彼の気持ちは分かるし、コンラッドの華麗な剣捌きはいつでも見ていたい。だが! それではスパイ大作戦は成功しないのだ! 今は何よりまず情報を集めなくては!
 ミッション遂行に燃える魔王陛下は、目的地に向かってわくわくと駆けて行った。

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「おやぁ、じゃあ坊やが昨日来た金髪さんの付き添いとかいう子かい?」

 厨房は血盟城の会議場並みに広かった。だが、その広さも感じられないほど、厨房では多くの人々が働いていた。
 朝食後の大量の皿をユーリと並んで洗うおばちゃんに尋ねられて、ユーリは笑顔で「はい! ミツエモンです! よろしくお願いします!」と挨拶した。
 おお、お行儀が良いな。元気な子だ。きびきびと働くおじちゃん達やおばちゃん達が楽しそうに笑う。

「悪いわね、ミツエモン君。カクノシンさんの方は本当に構わないの?」

 通りすがりにそう声を掛けてきたのはクレアだった。
 道場主の娘ではあるが、クレアはお嬢様らしく上げ膳据え膳の生活をしているわけではないらしい。今も、洗ったなりの洗濯物を大量に積み上げた籠を両手で抱えている。

「大丈夫です! カクさんが剣をやってる時は、おれ、見てるだけで何にもできませんから」
「大したもんだよねえ。見えないっていうのに、道場の誰も敵わなかったってんだろう?」
「カクさんの剣は世界一だよ! 今度の大会も優勝は絶対カクさんだからね!」

 自信満々で宣言すれば、厨房にいた全員がどっと笑った。
 思わずムッして、「本当なんだから!」と言い返すユーリに、「バカにしたわけじゃあないよ」と誰かが声を掛けてくる。通り掛った別のおばちゃんから、小さい子供でもないのに頭を撫で撫でされて、ユーリはきょとんと首を捻った。
 可愛い坊やだねえ。厨房の大人達がさらに朗らかに笑った。

 ここはもういいから、クレア嬢さんの手伝いをしてきておくれ。一緒に皿洗いをしていたおばちゃんにそう言われて、ユーリは外に飛び出した。
 厨房の裏手は、道場の最も奥、裏庭に当る場所だが、陽が燦々と射して気持ちが良い。そもそもこの道場は敷地が広い上に窓や回廊も大きく取ってあるので、どこにいても開放感に溢れている。

「本当に悪いわね。気を遣わせちゃって」
「いいえ、おれ、剣はからきしだし、こんなことしかできませんから」
「あら、そうなの? 不思議ね、あんな強い人と一緒にいるのに」
「……コ…カクさんが、いつも護ってくれるから、かな」

 クレアがちらっとユーリを見る。それから小さく微笑んで、分かる気がするわと呟くと、また新しい洗濯物を籠から取り上げた。
 洗濯物をパンパンと広げながら、張り巡らされた紐に掛けていく。まだしっとりと濡れた布からは、石鹸の良い匂いがした。
 クレアとユーリは、袖を二の腕まで捲り上げ、大きく手を伸ばして次々に手際よく洗濯物を干していった。

「おれ、ここであんなにたくさんの人が働いているなんて思いませんでした」
「皆さん、この近所に住んでる人ばかりなのよ。長い人は、この道場ができた頃から働いてくれているの。お弟子さん達と同じ様に家族も同じね」

 へえ、と応える頭の隅で、ふと思いついたことがあった。

「あの……お弟子さん達は家事の手伝いはしないんですか? 自分の洗濯物は自分で、とか……それに料理も当番制でとか」

 思い出したのは相撲部屋だ。確かちゃんこ番とかいうのがあって、弟子が料理を作るんじゃなかったっけ? 雑用なんかもやると聞いた気がする。
 レフタント家からの援助があったとしても、この30年、道場らしい活動ができなかったとしたら、ここの経営だって大変だったんじゃないだろうか。たくさんの弟子を食べさせていくにはお金が掛かるだろうし、弟子達が家事手伝いをすれば、お金だって浮くだろうに。

「そうね」クレアがユーリの思いを見通したかのように頷く。「お弟子さん達が料理を作ったり、薪割りをしたり、家の修繕をしたり、お洗濯をしたりしてくれれば、暮らしにも余裕ができるわね。実際、グランツの大抵の道場がそうしてるわ。でも、うちは違うの。……お父様がそのような考え方をすべきではないと仰ったのよ」
「先生が…?」

 そう、とクレアが頷く。だから道場の経営を支えていくのは結構大変なのよ、と苦笑するクレアの顔には、しかし不満の色が全くなかった。

「家のことをお弟子さん達が片付けてくれれば、お金を溜め込むことができるわ。暮らしだって楽になる。でもね、お父様はこう仰ったの。少しでも仕事を作って、一人でも多くの人を雇うことができれば、少なくとも雇い入れた人の生活が楽になる。金を自分達の内側に溜め込んで、自分達だけ楽になろうと考えるのは、武人のすべきことではない。グランツの武人は、ただ街道場で剣の腕を磨いていれば良いというものではないのだ。我々はいざというその時、民を守り、グランツを守り、眞魔国を守る剣となり盾とならねばならない。その自分達が自分達ばかりを楽にして、民の苦しみから目を背けていてどうする。我々は生活と修行のために必要最低限の金があれば良い。後はわずかでも共に暮らす民の暮らしに回すべきだって」

 だから我が家では、できるだけたくさんの人を雇って、お給金を支払っているの。
 そう告げるクレアの瞳は、父親への尊敬の思いに輝いている。
 へえ…! とユーリは目を瞠った。

 国家の経済を発展させるために重要な事項として、貨幣を滞りなく国中に循環させる、という項目がある。富を一部の資産家や支配階級に停滞させることなく、国の隅々にまで満遍なく循環させる。それが大事なのだと、以前村田が言っていた。
 もちろん、一道場が回せる金と国家レベルの金を同じに考える事はできない。そもそもエイザムも、国の経済という視点で金を道場の外へ回そうとと考えたわけではない。
 だが、それでも彼は大切なことを理屈抜きで理解している。ユーリはそう思った。

 シュルツローブ・エイザムは立派な人だ。

「なんて言ってるけど、この30年でグランツの道場はどんどん衰退してしまって、武人の質もすっかり落ちてしまったわ。とてもじゃないけど、国家の剣であり盾であると胸を張って言える状態じゃないのだから情けないわね」

 苦笑してそう言うクレアに、「そんなことないです!」とユーリは応じた。

「だって、この30年のことは道場の責任じゃないです! 悪いのは、そもそもアーダルベルトで……」
「え…?」
「あ、いっいえっ、そのっ、アーダルベルト、様も戻ってきたんだし、何もかも元に戻るんですから、きっとすぐに盛り返します! それに先生は立派な人だし!」
「そう思う? あなたもそう思ってくれる?」

 嬉しそうに問い掛けるクレアに、「もちろんです!」とユーリは大きく頷いた。

「先生は尊敬できる立派な人だって思います!」

 きっぱりと言うユーリに、クレアが瞳を輝かせた。

「ありがとう、ミツエモン君! 嬉しいわ、そう言ってもらえて」

 シュルツローブ・エイザムが立派な人物だというのは間違いないと、ユーリは新たに心に刻んだ。……ではなぜ。
 ガスール老人とルイザはあのように彼を、そしてこの道場を嫌っているのだろう……?

「……あの、クレア、さん? ちょっと聞いても良いですか?」
「あら、なあに? 分からないことがあったらどんどん聞いて頂戴?」

 これから家族同様に暮らしていくのだし、と笑顔で応えるクレアに、胸がちくりと痛むのを感じながらもユーリは続けた。

「あの……実はカクさんの幼馴染、なんですけど……」

 ああ、とクレアが頷いた。

「聞いているわ。この街で別の道場で修行なさってるんですってね。どちらななの? これからずっとその方のお家にお世話になるの? 肩身が狭いことはないのかしら? 昨夜はちゃんとご飯を頂けた? 今朝は? 本当にお腹空いてないの? 遠慮はいらないのよ?」

 質問責めのクレアに、ユーリは戸惑った。クレアの言葉は言葉だけではない情に満ちていて、彼女が真剣にユーリ達のことを案じているのが分かる。分かるだけに、いつものお忍びとは違う罪悪感のようなものが、ユーリの胸をちりちりと引っ掻く。
 ……もしかしたら自分は、あまりスパイに向かないのかもしれない。

  「あ…あの、大丈夫です。昨夜もお腹一杯食べられましたし……」

 昨夜の夜会。
 半日も経たずに街中にユーリがいることが広まったため、結局夜会には街の有力者達も招かれることとなった。本当に魔王陛下がお見えになっておられるのなら、ぜひぜひご挨拶を、それが許されないなら、せめて遠くからでもお姿を、と街の人々から懇願されてしまったためだ。
 ちなみに、レフタント家の当主は、シュルツローブ道場の幹部達を招こうとウィルヘルムに上申したらしい。陛下がグランツの道場に興味を持っておられるから、と理由をつけたらしいが、これはさすがに却下された。大会を目前にして、一道場だけを優遇するのは不公平だと判断されたからだ。当然ではあるが、レフタント家はこれで失点2(村田談)となり、当主はかなり不機嫌だったらしい。それはともあれ。
 申し訳ございません、まさかこのようなことになろうとはと、フォングランツ卿ウィルヘルムは平身低頭で謝罪したが、ユーリは笑って了承した。この半日で、グランツの民の苦労、そしてユーリへの思いを目で耳で心で受け止めた以上、面倒だの堅苦しいことは嫌だのといった理由で民を拒むことはできなかった。
 ただ困ったのは、夜会の本番、黒衣の礼装に身を包んだ魔王陛下と大賢者猊下を目の当たりにした民の代表達が、一斉に泣き出してしまったことだ。
 魔王陛下と、かつて反乱すら疑われたフォングランツの当主が笑顔で並んでいる姿は、ユーリ達が想像していた以上の感動を民に与えたらしい。挨拶の言葉を発する間もなくおいおいと泣き伏す大集団に、さすがのユーリも村田も困り果て、結局魔王陛下と大賢者猊下自らが床に泣き伏す民の中に入り、人々を直接宥めなくてはならなくなった。
 微笑みかけ、肩に手を置き、濡れた手を握り、民に感謝と労いの言葉を掛け、感激した民がさらに泣き出し、を繰り返し、ようやく全員が落ち着いて乾杯できる頃にはすっかり夜も更けていた。おかげでユーリのお腹は、魔王陛下を神の様に崇める民には到底聞かせられない切ない音を立てて鳴き続けることとなってしまった。

 ……だからもう食事が美味しくて、がつがつ食べちゃったんだよなー。
 ということは置いといて。

「その幼馴染なんですけど……実は、スールヴァン道場のお弟子になってて……」

 どういう反応を示すだろうとクレアの表情を伺うが、彼女はただ「まあ、そうなの」と笑みを浮かべて頷くだけだった。

「あちらは大先生が厳しい方だから、かなり経営状態は厳しかったはずだわ。その方、昔からのお弟子じゃないんでしょう?」
「…あ、はい、そうです」
「でしょうね。昔からの人は皆知ってるし……。でも良かったわ、あちらもお弟子さんが増えて、フェル達も一安心だろうから……」

 フェルの名を口にした瞬間だけ、クレアの眉が翳ったような気がしたが、それもすぐに消えた。

「フェルさんを知ってるんですか?」

 何か考えていたらしいクレアが、え? と顔を上げた。

「あら……ええ、そうね、知らなくて当然ね。……あのね、私のお父様は元々スールヴァン道場の門弟だったの。大先生の、戦争で亡くなった若先生を除けば一番弟子だったのよ? だからフェルとルイザとは子供の頃から知り合いで……つまり私の幼馴染ね。子供の頃はとっても仲が良くて、いつも3人で遊んでいたわ」

 そう言ってクレアは視線を宙のどこでもない場所に向けた。その横顔がひどく寂しそうで、ユーリは一瞬口ごもってしまった。

「あの……実は、その……フェルさんは違うみたいなんですけど、でも、お爺ちゃ…大先生とそれから……」
「大先生とルイザは私達を嫌っている。私達がスールヴァン道場を乗っ取ろうとしている。そう言われたんでしょう?」

 知っているわ、そんなこと。
 静かに微笑んでクレアは顔をユーリに向けた。

「でもね」思い出した様に洗濯物の皺を伸ばしながら、クレアが続ける。「私達は大先生やルイザを嫌ってなどいないわ。もちろんスールヴァン道場を乗っ取ろうなんて考えていないわよ? それどころか……」
「それどころか?」
「……お父様は……大先生を誰より尊敬しているの。大恩人だし、立派な武人でいらしたし。知ってる? ミツエモン君。大先生はね、このグランツで伝説の武人と言っても良いほど凄い方でいらっしゃるのよ?」
「聞きました。確か、『疾風ガスール』って呼ばれてたって。……あの、じゃあお爺ちゃん達の一方的な勘違いなんですか? でも、どうして? どうしてお爺ちゃん達はそんな誤解をしてるんですか? それに……先生もクレアさんも、分かっているならどうして誤解を解いて、お爺ちゃん達と仲直りしないんですか?」

 クレアがふっと目を細めた。それからユーリの表情を伺う様に顔を近づけた。

「……私達のことを……心配してくれているの?」
「心配って言うか…」目の近さにちょっとどぎまぎしながら、ユーリは答えた。「おれ、お爺ちゃんともルイザさんとも話して、2人とも良い人なのにどうしてかなって……。ちゃんとした理由があるならまだしも、勘違いで人を嫌うなんておかしいよ! おれ、どっちの道場の人も好きだから、喧嘩なんてして欲しくない。仲直りして欲しいんだ! ……おれなんかがこんなコト言うの、おかしいかもしれないけど……」
「そんなことないわ。……やっぱり心配してくれているのね。ありがとう、ミツエモン君」

 にこっとユーリに笑いかけてから、クレアは「あら、いけない」と放ったままの洗濯物を籠から取り出した。

「……お昼ご飯はお弟子さん達がそれぞれ勝手に取ることになってるし、午前の仕事も一段落したし、一休みしても良い頃だわ。お茶につきあってくれる? ミツエモン君」

 もちろんユーリは承諾した。


□□□□□


 2人が厨房に戻ると、すでにお茶とお菓子の準備ができつつあった。厨房の中央、最も大きな面積を占める調理台─材料を並べたり、切って捏ねて下ごしらえをしたり、配膳をしたりする─の上は綺麗に片付けられ、新たにお茶のポットやカップ、それから大量のお菓子が並べられている。どうやらここで働く人々は、皆で揃ってお茶にすることになっているようだ。
 カップの数からみると、ざっと20人くらいはいそうだとユーリは思った。

「クレア嬢さん、それから坊やもちょうど良かった。今お茶の準備ができたところよ」

 声を掛けてきたのは、先ほどユーリと皿を洗っていた年配のおばちゃんだ。
 勧められるまま、ユーリはクレアの隣に腰掛けた。

「こんな若い坊やがここにやってくるのは久し振りだな」

 並んで座る、かなり厳つい雰囲気の年配のおじさんが、相好を崩してユーリを見つめ、言った。

「これから若いお弟子もきっと増えるよ。グランツの冬の時代は終わったんだ。アーダルベルト様だって、罰せられるどころかそれはもう重要なお役目を任せられたって話だしなあ」
「魔王陛下がお出で下さって、大会もさぞ盛り上がるだろうね。二日後が楽しみで仕方がないよ。……陛下は私らにもお姿を見せて下さるだろうかね?」
「きっと大丈夫さ! 本当に、グランツはこれから良くなる。昔より、ずっと良くなるよ。ああ、絶対そうともさ」

 周囲のおじさんやおばさん達が、自分の言葉にうんうんと頷きながら、明るい未来について会話を交わし始めた。

「ほら坊や、好きなだけ焼き菓子をお取り。こっちのはあたしが作ったんだよ? 遠慮はいらないからたんとお食べ」

 すっかり顔を覚えたおばちゃんに勧められて、ユーリは皿の上に並べられた厚切りのパウンドケーキを数切れ、「ありがとう」と皿に取った。そして、頂きます、と口にすれば、しっとりと焼き上げた生地の甘味と相まって、混ぜ込んだ果物の果汁が染み出るような芳香と味わいが口の中いっぱいに広がった。

「これ……すごく美味しい!」

 思わず声に出すと、集まった大人達がそうだろうそうだろうと一斉に笑顔になる。

「ロルカおばさんはお菓子作りの名人なの。この辺りでは有名なのよ。気をつけてね? うっかりすると食べ過ぎて太っちゃうから」

 話を聞きながらぱくぱくと、瞬く間に1個を平らげ次に掛かっていたユーリが、ぐ…っと詰まる。

「大丈夫よぉ、坊や。1個や2個食べたっていきなりぶくぶくと膨れたりしないから。それどころか、坊や、あんたはもうちょっと太ったほうが良いんじゃないかい?」

 ロルカおばさんが言い、大人たちの笑いがさらに高まる。ユーリも「えへへ」と笑いながら、2個目のパウンドケーキに齧りついた。

「昔ね」和やかな空気の中、しばらくしてふとクレアが言った。「お父様はスールヴァン道場から独立したの。道場の後継者争いから身を引くために」

 突然語られ始めた道場の過去に、ユーリは慌てて口の中のケーキを飲み下した。

「…後継者、争い……?」

 ええ、とクレアが頷く。

 かつて、戦争が始まる少し前。スールヴァン道場ではガスール老人の後を誰が継ぐかで紛糾していた。
 当時、スールヴァン道場は数百人の門弟を抱えるグランツ最大の道場だった。フォングランツ本家の武術指南役でこそないが、その名はグランツ全土、いや王都にまで鳴り響いていたのだ。
 その道場の跡継ぎ、『疾風ガスール』の後継者となれば、その人物はグランツ武道界で重要な位置を占める存在となる。
 スールヴァン道場の後継者問題は、当時グランツで最も注目される大事件となっていた。
 ガスール老人には息子が1人いた。その息子は、さすが『疾風』の息子と褒め称えられるだけの実力を備えた武人であり、本来ならば何の問題もなく後を継げるはずだった。
 ところが、ここにもう1人、彼を凌ぐ力と人望を得た弟子がいたのだ。それがシュルツローブ・エイザムだった。
 エイザムこそ『疾風ガスール』の後を継ぐにふさわしいという声が出始め、やがて道場の弟子達は真っ二つに別れて争い始めた。
 その争いが流血の事態にまでした発展した時、ついにエイザムが決断した。

「お父様が大先生の後を継ぎたいと考えていたかどうかは分からないわ。でも門弟達が争って、大先生を哀しませることには耐えられなかったの。それで、お父様は道場を出たのよ。自分が身を引けば、争いは収まるだろうからって。ただ……お父様を慕っていた門弟達が、お父様と一緒にスールヴァン道場を出ると言い出したのは計算外だったみたいね。お父様は、それでは身を引くどころか、大先生に対する裏切りになると彼らを止めようとしたのだけれど、でも駄目だったの。師範代筆頭のガスリーも、その時スールヴァンを出た1人よ。……結局、お父様は一緒にスールヴァンを出た門弟達と新たな道場を開いたわ。それがこの道場よ」

 お祖父ちゃんにさんざん世話になっていながら、ごっそり弟子を引き抜いていった、と、確かルイザが言っていた。それがこのことなんだろう。
 視点が変わるだけで、同じ出来事も印象が全然違う。

「それでお爺ちゃんとルイザさんは……」
「いいえ、それは大した問題じゃないわ。ルイザは怒っていたらしいけれど、大先生からは感謝されたのよ。息子のために申し訳なかったって、わざわざこの道場においでになって頭を下げて下さったの。お前なら門弟を立派に率いていけるだろう。戦争も間近に迫っていることだし、グランツのため、眞魔国のため、共に頑張ろうと、道場開きのお祝いのお金も置いていって下さったくらいなの。ただ……」
「……ただ…?」

 ふっとクレアが言葉を切り、視線を伏せた。

「戦争が悪いのさ」

 声は斜め前方から起こった。顔を上げて見れば、いつの間にか静かになったおじさん達やおばさん達がじっとユーリ達に視線を向けている。

「……戦争で……何があったの…? どうしてガスールお爺ちゃんは……」

 ふいに、ぽんぽんと誰かの手がユーリの頭の上で跳ねた。

「戦争ってものはさ、坊や、何もかもぶち壊してしまうんだよ。何もかもね。あんたも知ってるだろう?」

 ロルカおばちゃんに覗き込まれて、わずかに躊躇ってからユーリは頭を左右に振った。

「……ごめん、知らないんだ。おれ、見た目通りの年じゃないんだよ。だって、おれ……」

 混血だから。
 そう言った瞬間、クレアを始め、厨房の大人達が一斉に目を瞠った。

「混血!? ほんとかい!? じゃあ、あんた、今幾つなんだい…?」
「あの……おれ、16、です、けど……」

 一瞬シンと場が静まってから、大人達が一斉に声を上げ始めた。

「何てこったい!?」
「ありゃまあ、だったら丸っきりの、ホントの坊やじゃないか」
「あの金髪さんは何を考えてるんだい!? こんな小さな子を旅に連れまわして」
「坊や、学校は? 親御さんはどうしてるんだい?」
「いたらこんな旅になんか出さんだろう?」
「ちゃんとした家で引き取って貰った方が良いんじゃないのかい? 着ている服だって粗末だし、身体も小さいし、細っこいし……。きっとろくなものを食べてないに決まってるよ」
「可哀想に…。辛かっただろう?」
「もう大丈夫だよ。エイザム先生が引き取ってくれるか、良い家を探してくれるよ。安心して任せておきなさい」
「ほら、お菓子をもっとお食べ。さぞひもじかっただろうねえ」

 ほとんど同時に、ボールが一斉に飛んでくるように声を浴びせかけられて、ユーリはきょときょとと顔を巡らせた。
 何を言われているのかよく聞き取れないが、とにかくユーリの身を案じてくれていることだけは分かる。分かるので、押し付けられたパウンドケーキは素直に頂いた。口いっぱいに頬張って、顔の筋肉総動員で咀嚼していると、身を乗り出してユーリを見つめるおじさん、おばさん達が、何だか泣きそうな顔でうんうんと頷いている。

 ……すごく同情されているような気がするんだけど……気のせい……?

 結局一番大事な情報を得られないまま、ユーリは勧められるまま、もりもりとお菓子を食べ続けた。


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プラウザよりお戻り下さい。




やっぱり二つに分けることとなりました〜。