「いきなり飛び出してきたと思ったら、2人一緒になって肩で息をしてやがる。ったく、何が起きたのかと思っちまったぜ」 ぐいっとお茶のカップを呷ってそう言ったアーダルベルトが、「酒にしてくれりゃあいいのに」とボヤいた。 シュルツローブ道場を飛び出したユーリとコンラートは、とにかく落ち着いて考えようと、アーダルベルトと共に村田達との待ち合わせ場所であるフォングランツ卿ハンス邸へと赴いたのだが。 気の毒なのは、何も知らされていなかったフォングランツ卿ハンスの邸の人々である。 アーダルベルトがやってきたということで、当初応対に出たのはハンスの家に代々家令として仕える男であった。 当主が魔王陛下歓迎行事のため、グランツ本邸に出かけていて不在、息子達も全員いないということで、その時点の邸における全責任は家令が負っている。その自覚の下、冷静沈着にアーダルベルトに対したベテランの家令は、当初、みすぼらしくも奇妙な格好をした大人と子供の二人連れを無視した。目を向けるにしても、アーダルベルトがいなければ勝手口にも通せないという態度も露骨な、いわゆる慇懃無礼な応対を通したのだ。大貴族の邸を預かる家令としては、無理もないといえよう。普通なら。 ところが。 「魔王陛下がグランツにお見えなのは知っているな?」 「もちろんでございます。まこと、ありがたきことと感激いたしております」 「その魔王陛下がな」 「はい」 「お忍びで街を散策なされてな」 「それは思いがけず嬉しきことを伺いました。ぜひグランツの民の、陛下への忠心をお感じ頂ければ幸いでございます」 「その陛下がな」 「はい」 「お疲れなので、一休みなさりたいと仰せでな。一番近いこの家にお連れした。ということでそろそろ客間に通してくれないか?」 「…………………はい…?」 「おい、こぞ……陛下」 「なに?」 「そんな妙な格好してるから、物乞いか何かと勘違いされてんだよ、じゃねえ、勘違いされておりますので、家の者にお顔を御見せ頂けませんか? ……コンラート、お前もだ」 「……あ。そっか」 ごそごそごそ。 「こんにちは! ユーリです。魔王です。隣にいるのはウェラー卿です。突然尋ねてきてごめんなさい。どうぞお構いなく。あ、そうだ、そろそろ大賢者も来ますんで、着いたら案内してくれます?」 一瞬の空白の後、一気にパニックに陥った家令始め、使用人達は上を下への大騒ぎとなってしまった。 その時、ちょうどタイミングを見計らったかのように村田とハンスの息子達が現れなければ、家令は襲い来る衝撃と恐慌のため心臓発作を起こしていたかもしれない。 そんなこんなとあって。 「お前がついてて……何でそんなに軽々と流されてんだ?」 ヨザックが呆れ果てた顔で幼馴染の顔を見遣る。村田がぷぷっと吹き出した。 大賢者猊下のご命令でスールヴァン道場の手伝いをする羽目になったヨザックと違って、うっかり気がついたらそうなっていたコンラートはかなりバツが悪そうに頬を赤らめている。 「流されたとか、そんなんじゃないんだよ!」 コンラッドは悪くないんだ、とユーリが慌ててフォローに入る。 「おれ達はシュルツローブ道場を探るために道場破りに入って、それでコンラッドが勝って、道場主のエイザムさんがおれ達をもてなしたいって言ってお茶に誘われて、そしたらー……」 どうしたんだっけ? ユーリに見上げられて、コンラートがふうとため息をついた。。 「道場主の娘のクレアと門人のフィセルが、魔王陛下がグランツにおいでになられたことを報告に飛び込んできたんです。御前試合になると喜んだエイザムが、俺も参加させると宣言して……どういう訳か、その場で入門したことにされてしまったんです」 そうそう! ユーリが勢い込んで頷く。 「つまり」村田のくすくす笑いは止まらない。「道場破りをした時点で、入門希望だと誤解されちゃったってことだろ? ほんと、その時の君達の慌てようを想像したら、笑いが止まらないよ」 まあ、とにかく。 何か言い返そうとするユーリを抑えて、村田が続けて言った。 「どうやらシュルツローブ道場は、聞いていたような悪党の巣窟じゃあなかったみたいだね」 あ、とユーリが小さく声を上げた。それからすぐに、「そうなんだ!」と大きく頷く。 「全然違うんだよ。エイザムさんも、師範代のガスリーさんも、それから門人の皆も……。荒っぽいことは荒っぽいけど、でもそれはスールヴァン道場も同じだし……。個性的だけど、悪人て感じは全然なかった。むしろ……良い人ばっかりだったような気がする」 君は? 村田の目がコンラートに向く。 「俺も陛下と同じ意見です。これでもああいう連中は長く見てきましたので、人物を見誤ることはないかと存じますが……。スールヴァンのガスール殿とルイザは何か誤解をしているのではないでしょうか。その点ではフェルの意見が正しいと思います」 なるほどねえ。村田が椅子の背もたれに背を預けて手を組んだ。 「ま、陛下の国にそんな悪党がぞろぞろ集ってなかったことは喜ばしいことだね。それで?」 「……え?」 「え? じゃないだろ? これからどうする? というか、君はどうしたいって考えてるのかな?」 それは……。 一瞬虚を衝かれたような顔をしてから、ユーリはふと視線を落とした。 全員が見守る中、やがてユーリは顔を上げた。目がまっすぐ村田を見る。 「あんな風に人を嫌い続けるのは、おじいちゃんもしんどいと思う。ルイザさんだって……。それが根拠のあることならまだしも、どう考えても誤解から生まれたものなら……何とかしてあげたいって思う。どちらもグランツを代表する道場だろ? あんな立派な道場がお互いを誤解して争ってるなんて、グランツだけじゃなく、眞魔国の武術界にとっても良くないんじゃないかな……って思うんだけど……」 どうかな…? ユーリの目が親友と、コンラート、そしてヨザックへと向く。 「ルイザの場合は」村田がくすっと意地の悪い笑みを浮かべて言った。「シュルツローブへの敵愾心がエネルギー源になってる気もするけどね。ま、それはそれとして」 放っておけと言っても、それができる君じゃないしね。 村田が笑みの種類を変えてユーリを見た。ユーリがパッと顔を明るく輝かせる。 「おいおい、待てよ」 呆れた声でアーダルベルトが割り込んできた。 「まさかと思うが、爺さんとシュルツローブの仲を取り持ってやろうとか何とか、考えてるんじゃねぇだろうな?」 「………考えてるけど?」 「あのなあ…!」 アーダルベルトが頭を抱えて呻く。 「小僧、お前はここに何をしに来たんだ!? 大会を見物に来たんだろうが。だったらそれに徹しろ! どうしてお前がたかが街道場のいがみ合いに首を突っ込むんだよ!? 自分がどういう立場か、また忘れちまったんじゃねぇだろうな? 魔王の自覚を持てって、宰相殿に年がら年中怒鳴られてるだろうが!? お前がそうやって妙なコトに首を突っ込むと、決まって回りが迷惑するんだよ。何度も何度もおなじことを繰り返しやがって。それも忘れたか!?」 「分かってるよ!」 ユーリは無意識に立ち上がり、言い返していた。 「ちゃんと分かってる! 面白がって首を突っ込むことじゃないってことくらい、おれだってちゃんと分かってるんだ!」 「でしたら何故です?」 その声は、思いも寄らない場所から起こった。 ほとんど聞き覚えのないその声に、一瞬きょとんとなったユーリが目を瞬いて周りを見回した。 「………え、っと…?」 その声の主は。 それまで魔王陛下と大賢者猊下の会話の邪魔にならぬよう、慎み深く控えていた一団、フォングランツ卿の6人の息子の中にいた。 「………兄上……?」 「…オスカー……? おい……!」 驚く兄弟達を尻目に、フォングランツ卿ハンスの五男坊、エドアルドのすぐ上の兄、が、胸もとで腕を組み、それまで見せなかった厳しい表情でユーリを見据えていた。 眞魔国で最も高貴な2人の人物、そして英雄と呼ばれる側近、彼らの注目にたじろぎもせず、フォングランツ卿オスカーは立ち上がり、優雅に一礼した。 「陛下に伺います。アーダルベルト殿も仰っておられるように、ことは庶民の道場の諍いに過ぎません。武門のグランツと呼ばれるように、この地方は武術家が多い。自然、民の気性も荒々しいものになりがちです。腕を競う者が集えば諍いも起こる。そんなことは昔から絶え間なく起こってきました。これが罪もない民の生命に係わることなら、グランツの、いいえ、眞魔国の名誉や存亡に関ることなら、陛下がお気に留められることもあるでしょう。しかしこれはそんなものではありません。一地方の、街の、単なる庶民の、ちょっとした感情の行き違いをであり、陛下はたまたまそれを目にされたにすぎません。そのようなことに、なぜ魔王陛下が興味を示されるのでしょうか?」 じっと見つめるオスカーの目に、どこか気圧されたかのようにユーリは目を見開き、突っ立っている。 「好奇心ですか? 下々の暮らしが珍しい? もしくは……」 オスカーの瞳に何かを求める光が瞬いた。 「取るに足らぬ民の生活に嘴を突っ込み、混乱させることを楽しんでおられるのか? だとしたら」 悪趣味なことだ。 「…お……オスカー……」 長男トマスの口から、擦れた、ほとんど音にならない声が漏れた。他の兄弟達も一気に血の気の引いた顔を引き攣らせてオスカーを凝視している。 「……おれからすれば」 緊張の糸がぎりぎりまで張り詰めた部屋に、ふいに響いたのは、ユーリの意外なほど穏やかな声だった。 「貴族の暮らしの方がよっぽど珍しいな。だって…知らなかったかな、おれ、もともと貴族でもなんでもない、丸っきりの庶民だよ? 正直言って、ここであんた達に恭しくされるより、街の市場や道場の人達と話してる方がよっぽどおれらしくしていられる」 でもまあ…そういうんじゃなくてさ。 言って、ユーリは思い出した様にソファに腰を下ろした。そして、卓に置きっぱなしの香草茶のカップを手に取ると、考えを纏めるように小首を傾げながらお茶を飲んだ。 それからゆっくりと、ユーリは立ったまま自分を見つめるオスカーに視線を向けた。 「おれは……民を数で考えたくないんだと思う」 「………は…?」 オスカーが、いや、その場にいたほとんど全員が怪訝な表情を浮かべて王を見る。 ほとんど表情を変えずにいるのは、村田、コンラート、ヨザックくらいだ。特に村田は、何かを期待するように唇の端に笑みを湛えている。 これって、極端なたとえ話なんだけど。 前置きしてユーリが話し出す。 「災害やさ、戦争やテロが起きた時に、こういう報道が…報告がされるんだよね。本日、50人がなくなりましたとか、今日は昨日より少なくて10人でしたとか、100人亡くなったあちらの場所より被害は少なくて5人で済みましたとかさ。そんな話を聞いてると、だんだん心が麻痺しちゃうんだよね。ああ、そうか、5人で済んだのかとか、100人に比べると少なかったよな、とかね。でも……本当はそうじゃないだろ?」 一体どんな話がなされるのか、さっぱり分からない顔で自分を見つめるグランツの兄弟達、そしてユーリの口から飛び出した言葉の意外な展開に、穏やかな表情を引き締めた側近達を、ユーリは小さな笑みを浮かべたまま見つめ返した。 「たった1人の被害だって、それは大変なことなんだ。それまで何年も何十年も精一杯生きてきた人の掛け替えのない生命が、何の罪もないのに無理矢理断ち切られてしまうんだ。本人だって辛くて苦しくて悔しくて堪らないだろうと思う。そして、残された家族や友人達は、ある意味、逝ってしまった人より何倍も辛い。どうして、どうして私の大事な人がって、神様や運命に問い掛けながら、大切な人を思い続けて、嘆き続けて、苦しまなきゃならないんだ。だけど……おれ達は時として、そうやって失われる生命を、無理矢理終わらされてしまった人生や、家族の思い出や、愛情や……たくさんの人のもう2度と還ることのない祈りや願いや夢を、ただの数でしか捉えられなくなってしまう。命のない、数字でしか見えなくなってしまう。おれは……それが怖くて、嫌で、堪らないんだ。おれは……おれの国の民を、ただの数や、それから……『下々』だの『取るに足らない庶民』だのって簡単な言葉で置き換えたくない」 そう言って、ユーリは「上手く言えないんだけど」と苦笑を浮かべた。 「だからおれは……その時出会えた人を、人との出会いを、大切にしたいんだと思う。数じゃない、下々なんて言葉で一括りにされて、人格も個性も否定されたモノでもない『人』と、ちゃんと体温をもった人と出会いたい。ちゃんと生きて、生活して、笑ったり怒ったり悩んだりしている人の、今この瞬間の命に触れて、『民』を実感したいんだと思う。そう……」 おれは、民の生きている鼓動を、自分の耳でちゃんと聞きたいんだ。 今、その部屋にいる全員が、真剣な眼差しで彼らの王を見つめている。 全員の眼差しを受けて、しかしユーリは「ゴメン。おれってホントに説明が下手で」と、照れくさげに笑った。 「おれの身体は1つしかなくて、城を出て、こうやって旅行をするのもなかなか難しくって、だからおれが触れることのできる民はほんの数えるくらいしかいない。ほとんどの民とは、全く何の接点もなく終わってしまう。偶然出会った民が苦しんでいたとしても、おれの知らないところで、その人よりもっともっと苦しんでいる人がいるかもしれない。本当は、おれの知らないところにいる誰かの方が、ずっとおれの助けを必要としているかもしれない。だからこそおれは、個々の民じゃなく、全ての民にとって最も良い政治を考えて実行すべきなんだろうと思う。それこそがおれの立場の、おれの仕事なんだろうと思う。世界のことや国のこと、うんと広い視野や高い視点で物事を見ることができなきゃならないんだろうとも思う。でも……それでも」 出会いを大切にしたいって思うんだ。 そこにいない誰かを見つめるように、ユーリが真っ直ぐな瞳を宙に向ける。 「だって……人と人が出会うって、奇跡的なことだって思うんだ。その奇跡に、身分も立場も関係ないって……そう思う」 懸命に言葉を捜しながら、ユーリはゆっくりと噛み締めるように言った。 「おれも『人』だから、だから……シブヤ・ユーリが、魔王でも何でもない1人の人間、魔族、として、出会えた人を、民を、おれは大切にしたい。すれ違って終わりになんかしたくない」 好奇心なんかじゃないよ? オスカーを真っ直ぐ見つめ、ユーリははっきりと言った。 「人の人生にちょっかいを出して、それを楽しむつもりもない。それほど傲慢じゃあない、つもりだ。ただ……おれが何かに首を突っ込むと、周りが迷惑してしまうっていうのは本当のことだ。皆に、おれは今までそれで散々迷惑を掛けてきた」 そう言うユーリの視線が、すっとコンラートに向いた。 静かなコンラートの眼差しと、ユーリの視線が絡み合う。 「でも…どうか許して欲しい。おれはおれでしかいられない。こうして…たまたま出会ってしまった人が困っているなら、何かに苦しんでいるなら、魔王としてじゃなく、1人の魔族としてのおれにできることがあるなら、精一杯やりたいと思う。そう思うことを、おれは……止められない……」 「止める必要はありませんよ?」 穏やかな、ユーリが時に胸が詰まるほどの切なさを覚える優しい声は、コンラートのものだった。 「……コンラッド……」 見つめる先で、コンラートがやっぱり優しく微笑んでいる。 「あなたはあなたの思うままに突っ走って行けばいい。後をついていくのは……たまにちょっと大変なこともありますけれど、でも俺達は決してあなたを見失ったりしません。あなたが望むことのために働くことは、大変なことがあっても迷惑なことなどでは決してありません。なぜなら、あなたが精一杯頑張ったその結果として、今のこの眞魔国があるからです。平和は国で、穏やかに暮らしていられる俺達の生活があるからです。傍から見て、どんな姿に見えようとも、紆余曲折や、どんな獣道に迷い込もうとも、あなたは必ず正しいゴールに辿り着いてきました。あなたがあなたであるからこそ、道は必ず開けてきたんです。民も導かれてきたのです。許しを乞うたりしないで下さい。俺達はどこまでもあなたを追い続けていきますよ? それに……」 ゆっくりと歩を進め、コンラートはユーリの真正面に立つと、卓に置かれた主の手を取り、そっと口付けた。 「出会いを蔑ろにすることなく、出会った人の、『王』の目から見れば取るに足らない事情も真剣に汲み取り、悩みの淵から救おうとする。あなたは誰に対してもその姿勢を変えようとなさらない。それはすなわち、どんな民であろうと、身分も地位も金も何も関係ない、全ての民を、あなたが心から愛しておられることの証、遍く民を慈しんでおられる証拠に他なりません。そのお姿を間近で目にし、魔王陛下の民への愛情を実感できる場所にいられる俺達は、本当に幸運なのだと思います。だからどうか、今の自分を否定したりなさらないで下さい」 思い込んだら一直線。それがあなたの良いところなんですから。 優しく囁くように言われて、ユーリの笑みがくすぐったげにふわりと広がった。 そして、軽く握られていた手をしっかり握り返す。 「ありがと。コンラッド」 「つまりね」 思わず見詰め合っていたユーリとコンラートがハッと顔を向けると、村田が人差し指をピッと立て、グランツの兄弟達に向けて口を開いたところだった。 「てっくり返って足をすりむいたのが泥だらけの野良猫であろうと、目にした以上陛下は放っておくことができないんだよ。別に面白がっているんでも、偽善でも、趣味でもなく、持って生まれた性分なのさ。あ、ウェラー卿の場合は単に超過保護の名付け親バカってだけだから。まあ、一言で言うとそんなトコだね」 「…………なるほど、猊下のお言葉で大変よく分かりました」 こらこらこら。 内心でツッコミを入れて、ヨザックはちろっと魔王陛下と幼馴染に目を向けた。 あんまりな一言で解説されてしまった2人、特に思い切りカッコつけた幼馴染は、手を握り合ったまま身動きもできず、何だかものすごくマヌケな顔で固まっている。 ……魔王陛下の忠実なる臣下として、ここは1発、気の利いた言葉で点数稼ぎ、いやいや、陛下の御心をお救いせねば……。 「……えー……」 「私、感動いたしましたわ!!」 へ!? またも響いた見知らぬ声。 全員が声の出所を探し、客間をきょろきょろと見回した。と……。 「……! はっ、母上……っ!?」 グランツの兄弟の誰かが叫び、全員の視線が一斉に一点に向かう。 その先、客間と中庭の間、開かれたガラスの扉の影から、1人の女性が半身を覗かせて立っていた。 「母上って……」 もしかして、エドアルド達の? ユーリが口に出してそれを問おうとするより早く、女性が客間に身を投げ出すように飛び込んできた。 ほっそりとした、というよりも、むしろ痩せた女性だった。窶れた面差しは儚げで美しくはあるものの、顔色は悪い。興奮しているのか、頬だけが赤らんでいるため、その顔色の悪さが一層目立つ。見れば、身に纏ったドレスは貴族女性の間によく見られる体を締め付けるデザインではなく、全体にゆったりとしている。身体の負担を慮っているのかもしれない。 女性はユーリの前で急いでドレスを調えると、恭しく膝を折った。 「陛下におかれましては、初めて御意を得ます、フォングランツ卿ハンスの妻、ここに控えております息子達の母、フォングランツ卿アンヌ・ゾフィーでございます」 「エド君達のお母さん!」 ユーリの声に、「はい」と女性、アンヌ・ゾフィーが頭を垂れる。 「ご無礼いたし、申し訳もございません。私、以前病を得ましてから、ほとんどこの邸を出歩くことがございません。そのため、陛下のお迎えもできず……。今も病みやつれた姿でご挨拶すべきかどうか、扉の影で迷っていたのでございます。不調法の段、何とぞお許し下さいませ」 「そんなこと…! あっと……おれ、ユーリです。初めまして、こんにちは。えっと、あ、そうだ、エド君には王都で仲良くしてもらってます。おれの大事な友達です! 今日は、突然お邪魔して、ご迷惑掛けて、本当にごめんなさい! あの、お体の具合が悪いのでしょう? どうかおれ達のことは気にしないで休んでください!」 「ありがたきお言葉……」 魔王の言葉に感動したらしいアンヌ・ゾフィーは瞳を潤ませ、ユーリをじっと見つめてきた。 「…あの……?」 「申し訳ございません、御無礼を……。ですが、私、先ほどの、民を数で考えたくないとのお言葉に本当に感激いたしましたのです。それで、思わず飛び出してしまいました」 「あ……あれ……。おれ、うまく説明できなくて……。本当はただのお節介に過ぎないかもとか思うんですけど」 かすかに自嘲するように言うユーリに、「とんでもございません!」とアンヌ・ゾフィーが首を振る。 「私は陛下のご政務についてはほとんど何も存じ上げません。ですが……想像に過ぎませんが、陛下の御前にはおそらく毎日膨大な数の書類が届くのではないでしょうか?」 「あ、はい、そうです! もう毎日毎日、どれだけ処理しても後から後から積み上げられていくんです! もう、こんなに!」 手で書類の高さを示してみせる王に、「さようでございましょう」とアンヌ・ゾフィーが頷く。 「おそらくその書類には、それはもうたくさんの数字が書いてあるはずです。産業に関する数字、税に関する数字、様々な理由ではじき出された様々な数字が、陛下の御目に触れてはご決済を受け、御前を過ぎていくのでございましょう」 「……あ……はい、そうです……」 「陛下はきっと……」 民の姿が、その数字に埋もれてしまうような気がされるのですね。 女性の静かな声に、ユーリがハッと目を瞬いた。 2人の様子を、その場に集まった全員が言葉もなく見つめている。 「民の実体、声も、命も、先ほど仰せになられた体温も鼓動も、薄っぺらい書類の中に埋もれて、何も見えないまま、感じられないまま、目の前を通り過ぎてしまうことがお辛くて仕方がないのではないでしょうか……?」 戦争やテロなんかを引き合いに出す必要もなかった。ユーリはふと思った。 そうだ。何もかも見えないままにしてしまう数字は、おれの日常の中にいつもあったんだ。 「民を感じたいとのお言葉、陛下のお優しさ、民への慈しみ……。陛下は私共が夢見ていた通りの素晴らしい魔王陛下でいらっしゃいました。……このような不遜な物言い、何とぞお許し下さいませ。ですが私、今本当に嬉しくて嬉しくて、泣いてしまいそうなほど嬉しく思っているのでございます。陛下の御心を知れば、民もきっと、私と同じ様に涙を流して喜ぶことと存じます」 「……エド君のお母さん……」 ユーリは思わずアンヌ・ゾフィーに歩み寄ると、床に膝をつき、細く痩せたその手を取った。 「陛下……!」 「ありがとうございます。そんな風に言ってもらえて、おれ、とっても嬉しいです。あの……」 その時だった。 アンヌ・ゾフィーの手を握るユーリの手が、ふわりと黄金色の光を、まるで燐粉を纏うように輝きだしたのだ。 光は瞬く間に2人の身体を包み込んだ。 「…あれ…?」 「これは……」 2人の声が重なった瞬間、2人を包む輝きは一気に光度を増し、熱が高まった。 「あ、熱…っ!」 「へ、へいか……っ!」 熱はさらに急激に温度を高めると、ユーリの手から腕を通り、渦を巻くように背骨に集まり、やがてパンっと弾けて……消えた。 「……ありゃ…?」 もう、光の痕跡も熱も、何も残っていない。 ……これってもしかして。 「どうやらまた無意識にやっちゃったみたいだね?」 見上げれば、村田がすぐ側に立ち、コンラートがユーリと同じ様に跪いている。 「うん……。そうみたいだ……」 差し伸べられたコンラートの手を取り、立ち上がったユーリはほうっと息をついた。ユーリの前では、床にへたり込んだアンヌ・ゾフィーがおろおろとユーリを見上げている。 「母上!」 「陛下、今のは一体……?」 わらわらとエドアルド始め兄弟達も集まってきて、ユーリとアンヌ・ゾフィーを取り囲んだ。 「フォングランツ卿アンヌ・ゾフィー殿。いかがです? 身体の調子は」 身を屈め、顔を覗きこむ村田に尋ねられて、アンヌ・ゾフィーがきょとんと目を瞬く。 「身体……? え……あ、あら……?」 「母上? どうされましたか!?」 「確か、お熱があると伺っていましたが……」 「母上!?」 「私……」 アンヌ・ゾフィーが自由になった手を目の前に翳し、ゆっくりと何かを確かめるように閉じたり開いたりを繰り返す。 それからまたゆっくりと立ち上がると、すうっと深呼吸を繰り返し、最後に長い息を吐き出してから息子達に顔を向けた。 「私……何ともないわ」 「え!?」 「熱っぽさが消えてしまったの。それどころか……深呼吸をしたらいつも胸が痛んだのに、どこも何ともないわ。だるさも、頭の重さも息苦しさも……何も、何もないの。それどころか……信じられない……気分がすっきりして……視界が急に明るく開けたような気がするわ……!」 母上。息子達が呆然と母を呼び、恐る恐る身体を動かしては調子を確かめる母親の姿を見つめている。 「陛下の癒しの魔力が発動したんだよ」 村田の言葉に、6人兄弟とその母が、ハッと目を瞠ってユーリに顔を向けた。 「言っただろう、性分だって。どうしようとかこうしようとか深く考える前に、まず行動するのが僕達の魔王陛下なのさ。その魔力も同様にね。相手が誰だろうと出し惜しみもない。……君達の母上は、もうすっかり良くなっておられるよ。後はしっかり食事をして体力をつけるだけかな。それですっかり健康体だ。僕が保障する」 まあ! と両手で頬を包むアンヌ・ゾフィーの瞳が輝く。だが彼女はすぐに表情を引き締めると、威儀を正し、ユーリの前に立った。その息子達もまた即座に母の背後に回り、1列に並ぶ。 「陛下」 アンヌ・ゾフィーが感情を抑えた声でユーリを呼ぶと、ドレスを摘み、ゆっくりと膝を、改めて床につけ、頭を垂れた。息子達もそれに倣い、片膝を床につき臣従の礼を取る。 「臣ごときに貴きお力をお与え下さいました事、フォングランツ卿アンヌ・ゾフィー、心より御礼申し上げます。まことに、まことに……ありがとうございました…! 私……このように身体が軽く、楽になりましたのは、20年ぶりでございます。本当に……私のような、何のお役にも立たぬ者にこのようなお慈悲を……。あまりにありがたく…申し訳なく、私、ああ、お礼の、申しようが……」 気丈に礼儀正しく振る舞おうとする意志が挫けたように、最後は涙声になる。 「陛下…!」 長男、フォングランツ卿トマスが、強い光の瞬く瞳をユーリに向けた。 「母をお助け下さいまして、本当に、ありがとうございました…! 当主、フォングランツ卿ハンスに成り代わりまして、衷心より御礼申し上げます! この上は、我ら6名、さらに己を磨き、陛下の御ため、この命を捧げてお仕えすることをお誓い申し上げます! 陛下、どうか我等の誓いをお受け取り下さいませ!」 気負った声を上げるトマスに、ユーリが思わず手を振る。 「あ、いや、そんな気にしなくていいから。て言うか……命なんて捧げてくれなくてもいいから」 その言葉に、アンヌ・ゾフィーと6人の息子達がハッと顔を上げる。 「それは……」トマスの声がどこか傷ついたように擦れた。「我等の忠誠など必要ないとのお言葉でしょうか……? それとも、我らをお信じ頂けないと……」 「違う違う! そうじゃないよ!」 ユーリが慌てて、手と一緒に今度は思い切り首も左右に振った。 「誰にだろうと、おれ、命を捧げて欲しいなんて思わないんだ。そういうの、嫌いなんだよ」 「嫌い……?」 「うん」 ユーリが何かを押さえ込むように目を閉じ、大きく頷く。頷いて、顔を上げ、そして目を開く。 その目には、それまで全く見せなかった、王の静かな決意が漲っていた。その決意は、周囲を圧する威厳となって王の全身から力を放ち始める。 ユーリの側近達は、アーダルベルトに到るまで、無意識の内に姿勢を正していた。 「命は他の誰のものでもない、その人のものだろ? 親からもらった掛け替えのないたった一つの大事な命を、軽々しく誰かに捧げるなんて言うな。忠誠心はありがたく頂くよ。でも命はいらない。言っとくけど、これが忠誠の証だとか言って、簡単に命を投げ出したりするなよ? そんなヤツ、おれ、大嫌いだから。命は大事にして、何があろうと何が何でも生き延びて、しっかり働いてくれ。おれが欲しいのは、生きて働く人だ。全ての命を惜しむ人だ。命を投げ出すことを躊躇わない人じゃない。そんなのいらない。何があろうと、誰に何を言われようと、石に齧りついても生きて、そしてなすべきことを為せ。それが国と民とおれへの忠誠心の証だ」 分かってくれる? 静かな表情で問い掛けられて、呆然と王の顔を見つめていたアンヌ・ゾフィーと息子達は、数呼吸の後、ハッと我に返ると、その場に平伏するように顔を伏せた。 だがその息子達の中で2人、エドアルドとオスカーの表情だけが家族と違っていた。 エドアルドは再び得た感動に頬を輝かせ、オスカーは……。 「畏まりまして……畏まりましてございます…!」 トマスが喉を詰まらせながら、叫ぶように答えた。 分かってもらえたらもう良いから、皆立ってよ。 ユーリの言葉に、全員が夢から覚めたように王を見上げた。 「うっかりしてたけど、おれ、お忍び中なんだから。そういう畏まったことはなしにしてもらわないと」 笑うユーリの顔は、もう無邪気な少年の顔に戻っている。 「喉、渇いちゃったね。ウェラー卿、ヨザック、どちらでもいいからお茶淹れ換えてよ」 「畏まりました。陛下もどうぞお座りください」 「だからー、お忍び中なんだから、陛下って呼ぶな。つーか、コンラッドはお忍びじゃなくても呼ぶな。いつも言ってるだろ、名付け親!」 「申し訳ありません、つい癖で」 「僕、その言い訳耳にするの、いい加減飽きてきたなー」 「猊下ー、もしかして妬いてますー?」 「……ヨザック、君、時々無駄に命知らずになるね」 「…ひ、ひえ……」 「よぉ、酒はねぇのか?」 まだぼんやりとしているグランツの母子を他所に、魔王陛下とその側近達はすでに常態に戻っている。そんな彼らを、エドアルドは瞳を輝かせて見つめ、そして。 「陛下」 「……え?」 振り返ったユーリのすぐ前に、フォングランツ卿オスカーが立っていた。 あ、とユーリが身体の向きを変えるのを待たず、オスカーは再び床に膝をついた。 「あの、だから立ってって……」 「陛下」オスカーがさらに頭を深く垂れて言った。「先ほどの私の愚かな言葉を、どうかお許しください」 オスカー! 兄上! 母と兄弟達が口々にオスカーの名を呼ぶ。 「陛下の深い御心も知らず、私はあのように不遜、かつ無礼極まりない言葉を口に致しました。その場で手討ちにされても仕方のない私の問いに、陛下は真剣にお答え下さいました。にも係わらず私は……陛下の御心を計りかね、その真意を素直に認めようと致しませんでした。臣下として、許されざる所業と存じます。ですが陛下は、私を責めることもなさらず、それどころか我が母の命を救って下さいました。私は……己の愚かさを、浅慮を、救いようのない未熟さを痛感致しました。ひたすらに愚かであったと、そう思います。何とぞ、私をお許しください。お許しになれぬとあれば、どのような罰でも受ける覚悟でございます。ただ、どうか私の家族には……」 「無礼なことを言われた覚えはないんだけど……。だって、あなたは分からないことを質問しただけだろ?」 「……陛下……」 きょとんと言い返すユーリに、オスカーが「しかし…」と言葉を詰まらせる。 「ほらほら!」 パンパンという音と共に、声が上がった。村田だ。 「そういうことをいつまでも言い合ったって埒は明かないよ? それに、君、オスカー君。結構君もヘタレだなあ。ウェラー君2号って呼ぼうか。パーマン2号みたいに」 パーマン2号は猿だと知っているコンラートが、複雑な表情で頬をぴくぴくさせている。ヘタレときっぱり決め付けられたのも結構キてるかもしれない。 「そもそもね、君の良いトコロはその世の中を斜に構えて見てるところなんだよ? それがいきなり良い子になったら面白みも何もないじゃないか」 「……面白み、ですか……?」 「そうさ。はっきりいってつまらないよ。世の中にはね、君みたいに物事を斜めに見る視点も必要なんだよ? これまでの自分を愚かなんてあっさり否定しないで、今回はちょっと間違えちゃったかな? って辺りで止めておきなよ。陛下も僕も文句を言ったりしないから」 「それで……よろしいのですか?」 「よろしいんじゃない? ね? 陛下」 「うん。いいんじゃないかな。……よく分かんないけど……」 最後の方はちょっと自信なげにユーリが呟く。 斜めに見てばっかりなのも、イロイロ問題あるんじゃなかろうか。……誰がとは言わないし、言えないが……。 「そんなことより、本家の夜会までもうあまり時間がないんだから、これからのことを決めよう」 はい、座って座って。 村田に急き立てられて、ユーリ達やアーダルベルトはもちろん、6人兄弟もアンヌ・ゾフィーも慌ててソファに腰を下ろした。 「さて、陛下」 「あ、うわ、はい!」 「大前提として、陛下はこのグランツ訪問を楽しい旅にしたい。メインイベントの武闘大会も、思い切り楽しみたい。だね?」 「もちろん!」 「だからこそ、スールヴァン道場とシュルツローブ道場の行き違いも、できれば円満解決して、皆仲良くして欲しいと思っている」 「です! ……こちらに来て思ったんだけど、グランツの民はさ、おれが想像していた以上に辛かったんだな。この点はアーダルベルトにしっかり反省してもらうとして」 エドアルドが大きく頷く側で、アーダルベルトが「分かってるって」と降参ポーズを作る。 「だからさ、辛いのも苦しいのももう充分だろうって思う。それが誤解ならなおさらだよ。……うん、おれ、休暇中だしお忍び中だから、王様の立場は臨時的に脇に置いといて、お爺ちゃんとルイザさんの誤解を解いて、二つの道場を仲良くさせたいって思います!」 力強い宣言に、「了解」と村田が頷いた。 「基本方針はこれで決定。さてこれからだけど、ヨザック」 「はい、猊下」 「君はスールヴァン道場で武術師範をしながら情報収集。これはお手の物だろ?」 「そりゃそうですが……。やっぱり大会には出ないとならないですかぁ?」 「陛下も言ってたけど、僕もグリエちゃんの勇姿が見たい、かもー……」 「………頑張ります!」 「ウェラー卿も同じくね。大会も参加だよ。陛下のためにも本気で頑張ってもらいたいな」 「…………はい」 情報収集は本職のヨザックに任せ、『カクノシン』はこのままシュルツローブ道場から姿を消して、謎の剣士で終わっちゃダメだろうか、と密かに考えていたコンラートは、がくっと肩を落した。 心細げに肩を落す(?)コンラートの腕を、ユーリがガシッと抱え込む。 「がんばろっ、コンラッド! 大丈夫! おれも一緒だから!」 いやいや、陛下が一緒だからウェラー卿も大変なんだろう、と全員が一斉に考えたが、「よーし! おれもしっかり情報収集するぞー!」と張り切る陛下を目の前にして、口にも態度にも出す者はいない。 「フォングランツ卿……って、全員そうか、あー、アーダルベルト」 「俺も何かやるのか?」 ちょっとめんどくさげなアーダルベルト。 「君とハンス殿の6兄弟は」 村田に見据えられて、使命感に燃える6人がゴクッと喉を鳴らす。 「特にこれって仕事はないんだけど」 付き合いの良い数人が、ずるっとソファの上でコケた。 「陛下の影供、というか、正体がバレないように陰からそっと護衛を頼むね? ヨザックやウェラー卿が連絡を取りたいと思うときには役に立って欲しい。それから、グランツのことについて、僕達の知らないことなどを教えてくれ。後は、君達なりの情報収集を期待するね」 畏まりました、と6兄弟が頭を下げる。 それに鷹揚に頷いて見せてから、村田が全員を見回した。 「スールヴァンもシュルツローブも、グランツにとっては重要な道場だろう? この二つの道場が手を取り合ってグランツの、一旦衰退してしまった道場武術を復活させることは、グランツだけじゃない、引いては眞魔国にとっても大事なことだよ。……たぶんね。とにかく、グランツの民のため、フォングランツのため、眞魔国のため、皆、しっかり頑張ろう! そして何より降って湧いたこの状況を」 思いっきり楽しもうじゃないか! 「……お前の基本方針って、はっきりきっぱりそれだけだろ?」 魔王陛下の呟きに、思わず深く頷く一同であった。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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