グランツの勇者・6


「武闘大会をご覧になるために、今日、ご領主様のお城にお入りになったんだって! お忍びだから民には知らされなかったんだけど、ご領主様や皆様がお城で盛大にお出迎えなさったんだってさ!」
「マッサ、それ、ほんとなの!? どうして分かったの!?」

 ルイザが興奮してマッサに詰め寄った。

「そりゃお城にはたくさんの召使達もいるんだしさ。その連中が出入りの商人やなんかにそっと教えてくれて、それで街の皆の耳にも入ったんだよ。それに、他のお屋敷で働いている連中も、ご主人達が魔王陛下を間近で拝見して、そりゃあ興奮してたって話してたってさ! もう一気に話が広まって、街中大騒ぎだよ! 魔王陛下がこのグランツにおいで下さったなんてさあ、もう信じられないよ! ルイザ、信じられるかい!? 今、すぐそこのお城に魔王陛下がいらっしゃるんだよ! 大先生! 武闘大会は御前試合になるんです! ……て、ちょっとぉ、そこ何してんだい?」

 せっかくの興奮に水を注されたという不機嫌な顔で、マッサが部屋の一角に目を向けた。
 彼女の視線の先では、お茶を妙なトコロに流し込んだユーリが、「げふっごふっがふっ」と男前に咽ている。

「あ、どうも騒がしくて済みません」

 主の背中をなでながら、にこにことコンラートが謝った。

「姐貴よぉ、それがホントならすげぇけども……」ヴァンセルが疑わしげな表情で顔をアーダルベルトに向ける。「じゃあ何でアーダルベルト様と、それにエドアルド様もこんなトコにいらっしゃるんだ?」

 あ、と声と表情を揃え、マッサとルイザが2人に顔を向けた。

「…あ、あー……」

 マズい、とアーダルベルトが眉を顰めた。
 もしここでヘマをやらかそうものなら、魔王陛下はまだしも、もう1人からこの先どんな報復を受けることか……。何が怖いといって、あの「慈悲深き」賢者からどんな目に遭わされるのか、全く想像できないところが異様に怖い。

「マッサの言う通りだ。陛下は今、城で旅の疲れを癒しておられる。俺は…まあその……せっかく故郷に帰ってきたのに、自分の家でまで堅苦しい接待はしたくなくてな。つまり……逃げてきた」
「あっ、あの、僕は!」自分もしっかりそれらしい言い訳をしなくてはと、エドアルドが気合を入れて声を上げる。「僕は分家の末っ子で、いてもいなくても問題ないし、せっかく友達が遊びに来てくれたし、友達の方が大事だから……」

「何バカなこと言ってるのよっ!!!」

 凄まじい雷がテラスに轟いた。

 エドアルドがびくぅっと全身を引き攣らせ。
 「がひょんっ」と喉からひっくり返った音が飛び出して、ユーリの咳が止まり。
 全員の全ての動きも止まった。

 彼らの目の前では、ルイザが腰に手を当て、柳眉を逆立てて立っている。
 何だか、ゴゴゴゴゴって地鳴りが聞こえるのは自分だけだろうか? ユーリはごくっと喉を鳴らしながら考えた。

「堅苦しい接待が嫌? だから逃げてきた?」

 あんた一体何様!?

 ルイザの怒りの糾弾に、ガスール老人やフェルも喉を鳴らすだけで何も言えない。

「あんた、この30年、一体何をしてきたの!? ウチの道場が、いいえっ、グランツの民が息を潜めて明日起こるかもしれない内乱に怯えながら生きてきたのは一体誰のせい!? ……これまでのことは良いわ。本当は全然良くないけど、でも、我慢してあげる。でもねっ! 30年ぶりに武闘大会が開催できるのは誰のお蔭!? グランツの民が息を吹き返したのは誰のお蔭!? そもそも! あんたがグランツの跡継ぎでございって、今こうしてヘラッとしていられるのは誰のお蔭なのよっ!?」

 全部全部、魔王陛下のお蔭でしょうがっ!!

 怒鳴りつけたかと思うと、ルイザはつかつかと大股でアーダルベルトの前に立ち、ぐいと胸を反らせて男を見上げた。

「その陛下がグランツにお出ましになられたとなれば、誰よりあんたが心を籠めてお迎えして、ずっとお側についてお世話申し上げるのが筋ってモンでしょうが! ……あんた、甘ったれないでよね」
「…る、ルイザ……!」

 フェルがようやく声を上げたが、ルイザは見向きもしない。

「あんたが帰ってきて、誰も責めないからって許されたなんて思わないで。あんたが今もグランツの跡継ぎでいることに、疑問を抱いている者は大勢いるわ。それを絶対忘れないで。……あんたが少しでもグランツの民に責任を感じているなら、今すぐお城に戻りなさいよ! そして陛下を精一杯お持て成しして。グランツの民がどれほどユーリ陛下に感謝申し上げているか、その慈悲深いご執政にどれだけ崇敬の念を抱いているか……。あんたもグランツの長になるなら、民のその思いを蔑ろにしないで。堅苦しいのが嫌だから逃げるなんて……絶対しないで!」

 あの…と立ち上がりかけたユーリは、二の腕を村田に抑えられて何も言わないまま椅子に座り直した。
 動きはそれだけで、他は全員、黙ったままルイザとアーダルベルトを見つめている。

「私を無礼だって怒る?」
「いいや」

 アーダルベルトがフッと笑って言った。

「あ、そう。別にお礼も、もちろんお詫びも言わないわ。さあ、行って。そしてフォングランツの次期当主として、なすべき事をして!」

 分かった。
 降参するように軽く両腕を挙げ、アーダルベルトが頷く。
 それからさりげなくコンラートに目配せすると、ルイザに笑いかけた。

「ルイザ、お前の言う通りだ。これは俺が全面的に悪かった。……ま、爺さんの顔も拝んだし、用は済んだ。これで俺は城に戻る。戻ってルイザの言う通り、陛下のお相手でもするさ」

 それだけ言うと、アーダルベルトは「じゃあな」と誰にともなく告げ、テラスから客間の扉に向かって歩き出した。
 申し訳ございません、アーダルベルト様! フェルが慌ててアーダルベルトを追いかける。
 わずかの後、「気にすんな。送る必要はないぜ」という声と共に扉の閉まる音がして、すぐにテラスに静けさが戻った。が。
 パンパンパンと、いきなり張りのある音が皆の耳に飛び込んできた。ハッとユーリが顔を向けると、ルイザが自分の頬を両側から叩いているところだった。

「ルイザ!」

 戻ってきたフェルが妹を叱り付ける。

「お前はアーダルベルト様に向かって何という無礼を……!」
「ああもう!」

 いきなりルイザが天を仰いで叫び、フェルが仰け反った。

「どうしてかしら、兄さん。一体どうしてだと思う?」
「な、なに……」
「魔王陛下がグランツにおいでになったことは、本当に嬉しく思うわ。フォングランツへの信頼がなければ、お忍びなんてできないものね? でも……どうしてお忍びなの? なぜ正式なご訪問ではないの? ……もし陛下が行幸あそばされれば、私達グランツの民は全身全霊で歓迎するわ。お金がないから大したことはできないけど、でも、精一杯の思いを籠めて陛下をお迎えするわ! アーダルベルトのバカをお許し下さったこと、グランツを信じてくださったこと、心からの感謝と尊敬を籠めて……。だってこんなことでもなければ、民は陛下に思いを伝えられないじゃない。私達の声をお届けすることなんてできないじゃない。陛下はどうして……グランツの民と向かい合って、私達の思いを受け取って下さろうとなさらないのかしら……」

 言うだけ言って、ルイザはかくんと肩を落した。
 ルイザ、と怒る気を削がれたらしいフェルが、静かに声を掛ける。

 その姿をじっと見つめていたユーリもまた、思わず視線を落とした。
 深いことは何も考えていなかった。ただ、それこそ堅苦しい持て成しが苦手だったから、気楽に旅行を楽しみたかったから、お忍びの理由といえばそれだけだ。
 それが……民の思いを蔑ろにすることに繋がるなど……考えもしなかった。

 その時ふと、肩に優しい感触があった。
 ハッと顔を上げると、そこにコンラートの柔らかな眼差しと微笑がある。
 大きな乾いた掌がゆっくりと、マッサージするようにユーリの肩、そして首筋を撫でる。いつの間にか強張っていた身体から、すうっと力が抜けていった。
 ふいに膝の上の手が温もりに包まれて、見れば隣の親友が自分の手を乗せていた。
 肩の手、手の上の手、それが「大丈夫、大丈夫」と伝えてくる。

 大丈夫。まだまだこれからいくらでも、民の声に耳を傾けることができる。

 両隣の名付け親と親友、それから大好きな仲間と友達に笑みを向けてユーリは頷いた。

「ルイザ、いい加減にせい」

 咳払いと、老人の声がする。

 ごめんなさい。素直な声と一緒に、ルイザが目元をそっと拭った。

「……じゃあ、僕達もそろそろお暇しようか」

 そう言って、村田が立ち上がった。だな、とユーリも立ち上がる。

「…あ、ご、ごめんなさいね! 私ったら……何だかあなた達に変なところばっかり見せちゃうわね」

 苦笑して謝るルイザの目が、今度はエドアルドに向けられた。心なし身体を緊張させるエドアルド。

「エドアルド、お友達が大切なのは分かるけれど、あなたもグランツの一員よ? あなただったら陛下に拝謁する機会だってあると思うわ。そりゃ…親しいお言葉を賜ることは難しいかもしれないけど……。でも、ねえ、できたら陛下に伝えてくれる?」
「何、を…?」

 ドキッとした顔で質問するエドアルドに、ルイザがクスッと笑った。

「グランツの民は、心から陛下を歓迎しておりますって」

 その笑顔に、ホッとエドアルドの、そしてユーリの緊張が緩んだ。

「分かりました、ルイザ。でも……それは陛下ももう充分お分かりだと思うよ」

 エドアルドの言葉に、ルイザが笑顔のまま、軽く首を傾けた。


「それじゃあ、お邪魔しました!」

 別れを告げるユーリに、「あなた方のおかげでよい経験をさせて頂きました」とフェルが頭を下げた。
 ルイザ、トーラン、ヴァンセル、それからマッサも同様に頭を下げる。彼らが主人筋であるエドアルドの友人一行、それどころか坊っちゃん2人のお供は元ルッテンベルク師団の一員と聞かされて、マッサの態度も一気に改まった。もちろん、コンラートとヨザックに対してだけ。
 孫や門人達の前で、小柄な老人がちょこんと立っている。
 ユーリが笑顔で頷きかけると、老人も何も口にしないまま、緩やかに頭を下げた。

「……あの〜……坊っちゃん〜……?」

 なぜかユーリ達と向かい合う形で立って、ヨザックが情けなさそうな声を上げている。

「あの……俺、ホントに……」
「言っただろ? 君はこの道場のお手伝い!」村田が指をピシッとヨザックに向けて言う。「残って皆さんと練習に励んでおいでよね。僕達はこれからまだイロイロ観光してくるつもりだけど……君は練習が終わったらエドアルド君の家に戻っておいでね」

 さくっと村田に言われて、ヨザックは泣きそうになった。
 たいちょ〜と、声にならない声がコンラートの心の耳に聞こえてくる。が。
 陛下、と猊下、のお望みに、ウェラー卿が逆らうはずもない。コンラートはこれ以上ないほど人の良い笑みを浮かべると、幼馴染の心の悲鳴を軽やかに跳ね返した。

「スケさん、頑張れよ。応援してるから」
「そうそう! ひいてはエド君のお家の役にも立つし。おれも応援するからね〜!」

 陛下にまで笑顔で言われてしまっては、もはやヨザックになす術はない。いつもは明るいお庭番が、情けない涙目をうるうるさせながらがっくり肩を落す。元気に跳ねるオレンジ色の髪の毛も、気のせいかぐったりヘタレている。
 そんなヨザックの様子をどう見たのか、ユーリは「じゃーねー!」と明るく手を振り、元気に踵を返した。そして足取りも軽やかに道場から離れ、すぐに行き交う人々の流れの中に入っていった。

「坊っちゃぁぁぁん!」
「良いじゃねぇか、スケ兄貴。永遠の別れじゃあるまいし。なあなあ、さっそくだけどよ、俺と手合わせしてくれよ!」
「スケ兄貴って何だっ!? 妙な呼び方すんじゃねぇよ!」

 両腕をヴァンセルとマッサに取られ、何だかんだと喚きながら、ほとんど引き摺られるように練習場へと向かうスケサブロウ、そして笑顔の妹。
 彼らの背中をトーランと並んで見つめていたフェルは、傍らの祖父にふと顔を向けた。

「……お爺様、あの……」
「何じゃ、フェル。……お前は練習に行かんのか?」
「今、参ります。そうではなくて、あの……」

 口ごもる孫にガスール老人が怪訝な表情で顔を上げた。トーランもまた、道場主であり弟弟子でもある青年が何を言おうとしているのか、黙ってその顔を見つめている。
 2人の視線を受けながら、フェルはずっと胸に引っ掛かっているモノを言葉にしようと、ゆっくり口を開いた。

「魔王陛下が……おいでになられているという話は、その、驚きでした、よね?」
「……当然じゃ」
「その………お祖父様はおかしいと思われませんか? あの、アーダルベルト様のことなのですが。それに……エドアルド様も……」
「……………」
「………フェル?」

 老人が押し黙り、代わってトーランが先を促す。

「アーダルベルト様が、このような時に、その…堅苦しいのどうのと逃げ出すなど……。以前ならまだしも、今は陛下より重要なお役目も頂いておられます。それに、ハンス様からも先日伺ったのです。アーダルベルト様は、表情には見せないが、この30年の己の所業をグランツの民に対する重い負債として受け止めておられると。そして、恐れながらその貴いお命すら奪おうとした己に一切罰を与えず、諸手を広げて迎え入れてくださった陛下に、命を捧げる覚悟すらお持ちであると……。そのアーダルベルト様が……」
「もう良い、フェル」
「エドアルド様もです! いくらお友達がやってきたとしても、魔王陛下がお見えになると分かっていてそのお迎えをすっぽかすなど、あの真面目なエドアルド様がなさるはずがありません! それにうっかり失念しておりましたが、アーダルベルト様の副官をなされておられるウォーリス様が、エドアルド様は士官学校に入学されて、魔王陛下の御意を得られたとお父上、ハンス様にお伝えになったと聞いております!」
「それは本当に!?」

 トーランが驚愕の声をあげ、フェルを、それから素早くガスール老人を見た。

「そうだ、トーラン、そうなんだ。ああ、俺はどうしてこんな大事な事を……。もしエドアルド様が陛下の御意を得ていたとしたら、尚のことお迎えをすっぽかすなどあり得ない!」
「た、確かにそうだ……。大先生、これは」

 もうよい!

 老人の大きな声が響いた。

「だから何だと言うのじゃ。我らには関りのないことではないか。そのようなことに頭を使う暇があるなら、とっとと練習を始めよ!」

 しかし、お祖父様!
 祖父に窘められて、逆にフェルの声に力が加わった。

「考えてみたら、おかしいとは思われませんか!? かのルッテンベルク師団の一員であり、アルノルドを生き延びてこられた勇者が、たかが商人の息子のお供になど……」
「黙れっ!!」

 顔を真っ赤にさせたガスール老人が、興奮して早口になる孫息子に怒鳴りつける。

「何を血迷っておるんじゃ、この馬鹿者が! トーラン! 何じゃ、お前までが一緒になって! あの方々はエドアルド様のご友人じゃ! それ以外の何者でもない! 決して魔王陛下と大賢者猊下などでは……」

「「大賢者猊下!?」」

 フェルとトーランの声が揃って跳ね上がる。
 その素っ頓狂な声音に一瞬ぽかんとしたガスール老人が、ハッと目を瞠ると慌てて手で口を押さえた。

「……お、お祖父様……? いま……大賢者、猊下と……」
「大先生……マッサは魔王陛下がおいであそばされたことは申しましたが、だ、大賢者猊下がご一緒とは……」

 お祖父様……まさか最初から知って……?
 呆然と呟くフェルとトーランの前で、口を押さえたままの老人は、やがてくるりと身体の向きを変えると、急によろよろと歩き始めた。

「……いたた、おお、痛い…! 何やら急に腹痛がぶり返しおったわ。ああ、頭も痛いのう。わしゃ、ちょっと頭がぼうっとしておるようじゃ、何を口走ったのかよく覚えて……」
「お祖父様!」
「大先生!」

 逃がしてたまるかと、2人の声が老人の背中に叩きつけられる。
 2人に背を向けて歩き去ろうとしていた老人の足が止まった。
 そして数呼吸の間を置いて、フェルとトーランの前でガスール老人の肩ががくりと落ちた。

「………老いたとはいえ……何たる失態……」

 低く呟かれる言葉に、フェルとトーランは素早く顔を見合わせた。

「お祖父様……ではやはり……!」
「大先生!」

 期待と興奮が溢れる声に、くるりと老人が振り返った。その表情はまるで敵を前にしたかのように、厳しく引き締まっている。

「このこと、お前達の胸に収めて二度と口にするな。誰にも、もちろんルイザにもヴァンセルにもマッサにも言うてはならんぞ」
「しかしお祖父さま、それでは……」
「あやつらがこのことを知ったら、どのように騒ぎ立てることか。忘れたのか? 今ここには、お供のお1人がおいでになるのだぞ。それも格別のご好意により、我が道場の一員として大会にも参加して頂けることとなったのだ。これ以上のご迷惑をお掛けすることは、絶対に許さん!」

 言われた言葉に、フェルとトーランが唇を噛む。その様子に、老人がため息をついた。

「フェル、トーラン、あのお二人はな、グランツの道場がどのようなものかただ見学にお見えになっただけなのじゃ。この道場にお見えになられたのは、何か特別な理由があったわけではない。エドアルド様を通じての、たまたまのご縁に過ぎん。だがルイザ達はそれでは納得すまい。また名門がどうのこうのと天狗になるであろうよ。………よいか。誰にも知られず、静かに始まり静かに終わってこそのお忍び。お2人のご希望は、只人として、民に立ち混じり民の目でグランツをご覧になることじゃ。それを……。まったく、城の使用人達も浅慮な真似を……。嬉しいのは分かるが、騒ぎ立ててはお二人のご希望を踏み躙ることとなる。よいな? フェル、トーラン。あのお2人はエドアルド様の御友人、王都の商人の御子息、それ以上のことをこの先決して口にしてはならん! 考えることも許さん!」

 強い口調で言い含められて、フェルとトーランは再び顔を見合わせた。
 ……偉大なる魔王陛下、そして大賢者猊下という貴いお2人が、揃って自分たちの道場をご訪問あそばされた。この喜びを、興奮を、同門の皆で分かち合いたい。できればフェルデンの人々にも知ってもらいたい。天狗になると祖父は言うが、ルイザは決して愚かな娘ではない。
 フェルとトーランの目の端、唇の端にわずかな不満が揺れる。
 それでも2人は、師匠である老人に向けてゆっくりと頷いた。
 その様を確認して、しっかりと大きく頷いたガスール老人は再び踵を返すと歩き始めた。

「……あ! お祖父様、お待ちください! あの、では……」
「これ以上その話は……」
「あのお供のお2人はどういう御身分の方なのでしょうか?」

 必死な孫の声に、老人は背を向けたまま、ふう、とため息をついた。それから顔だけを後に向け、孫と弟子を見る。

「フェル。お前はの、あのお方と剣で闘ったと思うているかもしれん。だがの、実際のところ、お前は獅子の尻尾で遊んでもろうただけなのじゃ。無益なことに頭を使うておる暇があるなら修行せい。そして今より少しでも強くなれ。せめて……」

 獅子が爪を出して相手をしてやろうと思うてくれるくらいにはの。

 それだけ告げると、ガスール老人は前を向き、すたすたとその場を歩き去った。

 老人の後姿を呆然と見つめていたフェルとトーランは、やがて三度顔を見合わせた。

「……………獅子……?」

 2人の瞳が戸惑いに揺れる。しかし、わずかな間の後、フェルとトーランが相次いで、これ以上ないほど大きく目を瞠り、ほとんど恐怖に近い驚愕に顔を引き攣らせた。
 答えを求めるように、二人の目が老人の背中を探す。だが、すでにその視界には誰もいない。
 ふいに、フェルの身体がよろめくように、背後の壁にぶつかった。
 そしてそのままずるずると背を滑らせ、すぐに地面に尻餅をつく形になった。無様な格好で地面にへたりこんだ青年の身体は、それきりぴくりとも動かない。
 若い道場主のその姿に、しかしトーランは諌める言葉を持たなかった。いや、彼もまた、驚愕に全身を引き攣らせ、ただ呆然と空間に目を泳がせていたのだ。

「……獅子……!」

 その言葉がフェルの口から発せられる。かと思うと、青年は大きな両の掌で自分の顔を覆ってしまった。

「……何てことだ……!」

 尊敬してやまないルッテンベルク師団。
 その中で。
 「獅子」と呼ばれる男は唯1人。


□□□□□


 街は道場に行く前と変わりなく、人出は多く、活気もある。だが、その活気が今はさらに明るく盛り上がっている、気がする。気のせい、かもしれないが。

「気のせいじゃないですね」

 コンラートの言葉に、やっぱりそうかーとユーリがため息をつく。

 今、ユーリ、村田、コンラート、エドアルドが歩いているのは、決して大通りではない。住宅や小さな個人商店が入り混じった、ごくごく当たり前の街の一画だ。道もさほど広くない。
 だがその道には、この辺りの住人だろう、人々がさも居ても立ってもいられない、興奮しきりの様子で歩き回り、目に付いた相手を誰彼構わず捕まえては声高に話しかけ、辺りを憚らず大きな声で会話を交し合っている。そこかしこに、そんな人の塊、人の輪ができていた。
 表情は皆明るい。目を歓喜に輝かせ、頬を紅く火照らせ、近くにいる誰かと手を握ってはしゃぎまわり、肩を抱き、掌を叩き合い、息継ぎする間もないほど口を動かし続けている。
 そしてそんな大人達の間を縫うように、子供達がこれまた元気に歓声を上げながら走り回っていた。

「母さん! 母さん、いる!?」

 ユーリ達のすぐ傍らを追い抜いた少年が、一軒の家の扉を開くと同時に叫んだ。

「母さん! 魔王陛下だって! 魔王陛下が今この街にいらっしゃるんだって! ホントだってば! 今度の大会をご覧になるために、わざわざおいでになったんだって! 酒屋のシャイおじさんがアクロブのお屋敷の厨房で聞いてきたって! お屋敷の旦那さんがさっきお城で魔王陛下をお迎えしたって! ホントだよ! 街の皆も言ってるよ!」

 開け放されたままの扉の奥から、少年の甲高い声が聞こえてくる。

「……まあ、遅かれ早かれこうなるだろうとは思ってたけどねー」
「分かってたのか? 村田!?」
「そりゃあれだけ多くの人に出迎えられちゃね。食卓の話題は僕達のことで持ちきりだろうし、それを召使や誰かも耳にするだろうし。そもそもアレだよね。おエラい人達って、使用人を家具か何かと勘違いしてるよね。彼らにも耳があって、考える頭もあれば口もあるってことを、時々すっかり忘れてしまうみたいだ。まあ……隠す必要を最初から考えてなかったのかもしれないけれど」

 村田の解説に、くはーとユーリが天を仰ぐ。

「てことで、これからどうすんだ?」

 その声はいきなり背後からした。全員が一斉に振り返る。

「アーダルベルト!」

 が、立っていた。

「でかい声で呼ぶんじゃねぇよ。誰が見てるか分からねぇだろ?」
「だったら君も僕達に近づかないでほしいな。あっという間にバレちゃうよ」

 横目で文句をつける村田に、アーダルベルトが肩を竦めた。

「あ、アーダルベルト?」

 ユーリが何か思い出した様にその名を呼ぶと、申し訳なさそうに眉を落した。

「どうした?」
「ん。……あのさ、ごめんな? おれ達のために、アーダルベルトが誤解されて……」
「誤解?」
「うん、ほら…ルイザさんに」

 ああ、とアーダルベルトが破顔する。

「別に誤解じゃねぇだろ、あれは。一度は言いたいと、あいつがずっと胸に溜めてきたもんだ。それがあそこで爆発したってだけさ。それに……あいつの言ったことに間違いはない」
「……アーダルベルト……」
「それはもう良いとして、これからどうする?」
「僕はもっと情報を集めたいな」

 情報!?
 いきなり何を言い出すんだと、ユーリが親友をまじまじと見つめた。

「おれ達、観光に来たんだぞ? 情報って何の情報だよ?」

 びっくりして尋ねるユーリに、ちっちっちと村田が指を振った。

「旅行の楽しみを深めるには、その土地やイベントの情報をきっちり集める。これって基本だろ? ましてメインイベントの武闘大会、『目指せ、グランツの星! 君こそ明日の勇者かもね!』ではさ、道場同士の複雑な事情と水面下の駆け引きがかなりありそうだし。うん、すごく興味深いな」

 ウチの大会に妙な名前をつけるな。アーダルベルトのボヤキは村田様には通じない。
 ねえ、ミツエモン?
 思わず後退りしたくなるほど無邪気な明るい村田の笑顔に迫られて、ユーリは無意識にコンラートの袖に縋りついた。

「なにカクさんの腕にしがみ付いてるのさ? ねえねえ、君もさ、スールヴァン道場の情報だけじゃ消化不良って気がしない? あの、時代劇なら悪者決定、ラスト15分前に黄門様や上様にけちょんけちょんにやられること間違いなしのシュルツローブ道場の実体も知っておきたいって思わないかい?」

 あ、それは。
 ぱちくりとユーリが目を瞬いた。うっかり忘れていたことを、たった今すっきり思い出しました、という顔だ。

「うん……それはー…そうかも」
「ユー…じゃない、坊っちゃん!」

 それは観光旅行に必要な情報でしょうか? 危険な予感から、進路変更を目指して発せられたコンラートの質問は、しかし、ユーリによって反論された。

「でもコ、カクさん! おれ達、お爺ちゃんやルイザさんの話しか聞いてないだろ? これもご縁だからってスケさんを置いてきちゃったけど、ライバルのシュルツローブ道場の実体はホントは分かってないんだよね? お爺ちゃんやルイザさんは、ものすごい悪者みたいに言ってたけど、フェルさんは違うって言ってたし……。だったらさ、やっぱりここはちゃんと自分の目で見て、シュルツローブ道場のことを判断しなくちゃって思うんだよ! じゃないと、良くないって思うんだ!」

 良くないって、一体何が良くないんでしょう?
 自分達は武闘大会を見物に来ただけであって、悪者を退治しに来た訳でも、世直しに来た訳でもないでしょう?
 どんな組織にも表の部分と裏の部分があって、ドラマの様に単純に正義の味方と悪役に分かれたりなんかしないんですよ?
 ……言いたいことは即座に幾つも頭に浮かんだが、拳を握り、それはもう「一生懸命!」をそのまま形にしたように意気込むユーリの姿を見ていたら、コンラートは結局何も言えずに肩を落した。

「はい! ではこれからの予定は、シュルツローブ道場の実体調査に決定!」

 朗らかな村田の宣言に、「おう!」と応えたのはユーリだけ。
 魔王陛下を実に上手く乗せる確信犯大賢者と、実に軽やかに乗せられる魔王陛下の愛らしいことこの上ない笑顔に、コンラートとアーダルベルトは顔を見合わせ、深々とため息をついた。

「あの、よろしいでしょうか?」

 おずおずと尋ねるのはエドアルドだ。うっかりしているのか、それとも思うところがあるのか、言葉遣いが敬語に戻っている。

「それではこれからシュルツローブ道場に向かわれるのですか?」

 何か問題あるかな? 問い掛ける村田に、エドアルドが考え深げに首を傾けた。

「いいえ。あの……もし御身分をお隠しになるのならば、用心の必要があるのではと考えたのです。先ほど申し上げました通り、シュルツローブ道場はレフタント家の武術指南を勤めております。いつレフタント家の者が道場を訪ねるか分かりません。その…陛下と猊下は変装なされておられますが、閣下は……」

 エドアルドの視線がコンラートに向く。
 確かにね。頷く村田の様子から、それはすでに分かっていたようだとユーリは思った。

「もし、御身分を明かしてということでしたら、先触れが必要かと存じます。その場合は、よろしければ僕がシュルツローブに赴いて……」
「その必要はないよ」

 村田があっさりと言った。

「身分をバラしたんじゃ、実体は掴めないからね。ここはやっぱりミツエモンとカクノシンでないと。という訳で」

 村田がにこっと、いや、間違いなく「ニヤリ」と、笑った。

「カクさん。君にもこれから変装してもらうからね?」


□□□□□


 街の外れの小さな店で、古着を漁る一行があった。
 通りでは、興奮する民がそこら中で声高に魔王陛下来訪の喜びを語り合っているものの、古手屋で布の山を掻き回す一行は見向きもされていない。

「これ! このマント! いかにも旅を続けてきた放浪中の浪人、じゃない、剣士が着るのにぴったり!」

 着てみて、着てみて、ほらほらっ。はしゃぐユーリに、コンラートは思わず苦笑を浮かべた。
 主はこの状況をすっかり楽しんでいる。試合見物に来て、どうしてこうなるのか未だにさっぱり分からないが、でもまあ……ユーリが喜んでくれるなら良いか。
 心を決めると、コンラートは受け取ったマントを勢い良く、空気を孕ませるように広げて、そのままふわりと身体に巻きつける様に羽織った。

  「わーおー。似合う似合う! ワイルドな感じでカッコ良い!」

 歓声を上げて、ユーリがパチパチと拍手をする。
 カッコ良いと言われて嬉しくないはずもなく、コンラートもにっこりと笑う。

「ほらほらっ、こういうのもあったよー!」
「おおっ、それ良い!」

 村田が店の奥から持ってきたのは、金髪の鬘だった。
 この古手屋、衣装だけでなく、格安の小物も扱っていた。品の様子からして、古手屋というより質屋といった方が近いのかもしれない。店の奥には各種バッグに、髪飾りだの首飾りだのといった宝飾品、帽子に靴、化粧道具一式、鬘、付け髭といったもの、ただしどれも中古、が所狭しと並べられていた。

 村田が持ってきた鬘はストレートの金髪、それも腰まであろうかという長さだ。
 ずいっと目の前に差し出されものを目にして、ユーリの笑顔のためにと心を決めたはずのコンラートも、さすがに眉を寄せた。

「これ……女性用ではないですか? これだけ長いのは結うためでしょう? こんな髪型、俺には到底似合いませんよ……?」
「君らしくなくて似合わないから変装になるんじゃないか。ほら、被ってみなよ」
「そうそう! でもおれは案外似合うと思うな! とにかくコン…カクさんの新たな面が発見できそうですげー楽しい!」
「……そうですか……楽しいですか……?」

 だったら仕方がないと諦めて鬘を受け取り、頭に被る。
 そうして主を見れば、ユーリと村田は感心したような、同時に今にも吹きだしそうな、何ともいえない顔でコンラートを見上げていた。

「カクさんぽくない〜っ。でもぱっつんストレートも似合わないこともないこともな……」

 そこまで言って、ユーリがぷーっと吹き出した。
 途端に2人の少年が互いの身体を叩き合って笑い転げ始める。

「……せめて、髪は後で纏めさせて下さい……」

 とにかく主が笑顔でいてくれるのが一番だと、コンラートは無理矢理自分を納得させてため息をついた。

「あの、よろしいですか?」

 何もしない、いや、できないまま、アーダルベルトと並んで見学者に徹しているエドアルドがおずおずと口を挟んできた。

「確かにその……立派に仮装、ととっ、変装だと思いますが、お顔がそのままではすぐに見破られてしまうと思いますが……」

 真面目なエドアルドの真面目な指摘に、村田が「その通り!」と指を立てる。

「という訳で、こんなものを見つけてきました〜!」

 村田が高々と上げて見せたのは……眼鏡だ。それも色つき。おまけに濃いこげ茶色の。つまりグラサン。

「これをつければもう完璧! 誰も君がかの超有名人だとは思わないよね!」

 という訳で。
 ついにカクノシンの変装が完成した。

「カクさん……何つーか、すっごい面白いっ! 最高!」
「いやー、新境地発見って感じ? ……どこかの委員長が見たら大喜びしそうだな……」

 イロイロな方面で大満足の二人の少年の傍らで、「何というか…」と、アーダルベルトが複雑な声を上げた。

「別の意味で目立つんじゃねぇか? その……うさんくさくて……」

 長旅にくたびれたマント、にも関らず、貴族女性でもここまではと思うほど異様にツヤツヤきらきらさらさらの金髪、この穏やかな陽射しの日に、無骨で不恰好な色つき眼鏡、そして剣。
 全体にあまりにちぐはぐで、それが何とも目を引く、というか、これこそ悪目立ちするというか……。

 確かに、と、エドアルドも胸の中で呟いた。そしてどこか同情的な眼差しをコンラートに向けた。
 ……閣下は、陛下のご感想が「カッコ良い」から「面白い」に変化したことに気づいておられるだろうか。いや、気づいたからってどうにもならないけれど……。

 自分はどんな反応を示せば良いのだろうと、生真面目に悩むエドアルドの隣で、アーダルベルトが肩を竦めている。

「もっと地味にしなきゃマズいだろう? とにかくその妙な色つき眼鏡は止めておけ。目が悪いってんならまだしも……」

 それだよ!

 村田が、我が意を得たとばかりに溌剌と声を上げる。
 逆に、コンラートとアーダルベルトはぱっと首を竦めた。この少年がこんな楽しそうな声を上げるとすれば、自分達を待っている未来は絶対楽しくないに決まっている。

「ねえねえ、ミツエモン!」

 しかし、村田が顔を向けて話しかけたのはユーリだった。

「この設定でいこうよ!」
「この設定って……」
「今フォングランツ卿が言ったじゃないか。つまり!」

 目の不自由な流浪の天才剣士さ!

 あ。
 一声上げて、ユーリが変装したコンラートに目を向ける。そして上から下まであらためてまじまじと見つめると、「なるほどォ!」と破顔した。

「カクさんは、旅の剣士だ。職業は用心棒に道場破り。ただ、目が不自由なので、日常の生活には助けがいる。そこでミツエモン、君の出番だ!」

 ぴしっと指さされ、ユーリは興奮気味にうんうんうん! と頷いた。

「君は、カクさんの日常生活のアシスタントあーんどマネージャーだ。カクさんの仕事は君が見つけてくるんだし、営業も君がやる。カクさんは剣は強いけど、目が不自由だから求人広告を読むことができないし、不器用で口下手だから自分を売り込むなんてできないからね。つまり君達はお互いがなくてはならない相棒というわけだ!」

 おう、任せとけ! 「なくてはならない相棒」に、すっかり有頂天になったユーリが両の拳に気合を籠めて宣言した。
 その傍らでは、「不器用…?」「口下手?」と眉を顰めて呟いているのが1人2人いないでもないが、世の流れには逆らえない。

「目の不自由な天才剣士……」

 なぜかうっとりと宙を見つめるユーリ。つまりこれって。

「座頭市だな!」

「しかし……」

 ザトーイチという、これまた摩訶不思議な響きにアーダルベルトとエドアルドが首を捻っている前で、コンラートが困ったように視線を落とした。(でもサングラスをしているので誰にも見えない)

「俺は…タップダンスはできないんですが……」

 タップダンス? ユーリと村田がきょとんとコンラートを見上げて、それから「ああ!」と声を上げた。

「カクさん、いくら座頭市だからって、カクさんに下駄でタップダンス踊れとは言わないから」
「そうそう。というか、アレでダンスしてたのは座頭市じゃなかったんじゃないかい? それにさ、座頭市といえば勝新さ! これはもう絶対だね!」
「カツシンですか……?」

 今度は宙を見つめて(でも表情は誰にも見えない)呟くコンラートに、そうそう! と応えてから、村田はユーリと向かい合った。

「じゃあ、カクさんとミツエモンはここで服を取り替えて。今の服は旅の剣士とその相棒にしては小綺麗過ぎるしね」
「分かった! ……って、おれ達だけ? むら、ケンシロウは?」
「何言ってるんだよ。相棒なのは君とカクさんの2人。僕はこれからエドアルド君と別行動だ」

 ええっ!?
 驚きの声を上げたのはユーリではなくエドアルドだ。

「いいかい?」エドアルドを無視して、村田がユーリへの言葉を続ける。「つまり、シュルツローブ道場を探るのは君達2人だけのミッションだ。バレないよう、かつ上手く立ち回って、しっかり情報を集めてくるんだよ?」
「しかし坊っちゃん!」

 コンラートが慌てて口を挟む。

「それでは護衛の任が果たせません!」
「君が護るべきはミツエモンだ。間違えるんじゃない。だからこそ相棒という設定なんじゃないか。ミツエモンが君の世話をするという理由で、君達は一緒にいられるんだからね。剣を振るう時は側にいられないというリスクはあるが、それはシュルツローブ道場の武士道精神に期待しよう。とにかく、君達2人は常に、どこでもどんな時でも、ぴったりくっ付いて寄り添って離れないこと!」
「ぴったりくっ付いて寄り添って?………了解っ! おれは今日からコバンザメになる!」

 嬉しそうにユーリが両腕を突き上げる。その様子を、コンラートがじっと見つめている(やっぱり表情は見えない)。
 坊っちゃん……。コンラートが低く呟いた。

「分かりました。……俺は今日からジンベエザメになります! ……あの、分かります?」
「………もしかして……信兵衛さんだからジンベエザメ……?」

 恐る恐る確認するユーリに、「そうです!」と嬉しそうにコンラートが頷く。

「………………」
「…………まあ、咄嗟に思いついたにしては良い線いってるんじゃない? もっともミツエモンと僕にしか分からないネタだけど。それより僕は君がジンベエザメを知ってたって方がビックリだね。つくづく妙な知識を蓄積してるよね、君って」

 村田的には褒めたつもりはないのだが、コンラートは照れくさそうに鬘の上から頭を掻いている。無意味だ。

 ところで僕の護衛だけど。
 さらっと話を変えて村田が言った。

「そっちは気にしなくて良いよ。フォングランツ卿アーダルベルト殿にはご退去願うけど、エドアルド君始め別のフォングランツ卿『達』がいるからね」

 ちらりと意味ありげに微笑まれて、コンラート、そしてアーダルベルトがため息をつく。

「お気づきでしたか…」

 ま、ね。くすっと笑われて、コンラートが苦笑し、アーダルベルトが肩を竦めた。
 エドアルドとユーリだけが、よく分からないという顔できょとんとしている。

「さ! 時間が惜しい。話は後で、とにかく今は行動しよう!」


□□□□□


「……やっぱり絶対アヤし過ぎるぞ、あれは……」

 雑踏に紛れて遠ざかる後姿を見遣って、アーダルベルトがしみじみと言った。その呆れたような声に、村田も苦笑を浮かべる。

 古手屋で揃えた貧しげな服装に着替え(店の主には、金を掴ませて協力してもらった)、服や財布などの小物は、やはり店で購入したずた袋に詰め込んだ。その荷物はユーリが背負い、2人は手を繋いで、たった今、目的地シュルツローブ道場に向かって出発したところだ。
 手を握っているのはもちろん、ユーリが目の不自由な相棒を手助けするためだ。
 2人の格好や様子がよほど妙に見えるのか、すれ違う人々が何となく避けていく、が、どうやら2人は気づいていないらしい。
 ……手を握って歩くっていうのが、嬉し恥ずかしで夢中なってるんだろうねー、2人とも。
 くすっと笑ってから、村田はアーダルベルトとエドアルドに目を向けた。

「さて、と。そろそろ出てきてもらおうか。ずっと隠れているのは大変だろうしね」


「……フォングランツ卿ハンスの長子、トマスでございます。その……このような場所ではございますが、御尊顔を拝し奉り、恐悦に存じます」

 できればその場で膝を付きたかったのかも知れないが、あいにくそこは公道。ひっきりなしに民が行き来する場所で正式な挨拶は到底無理だ。

「申し訳ございません。陛下と猊下のお邪魔をするつもりはなかったのですが……。あの、これは私の弟達、エドアルドの兄でございます」
「次男のフォングランツ卿ウォーリスでございます」
「三男、ステファンと申します」
「四男のヨハネスであります!」
「五男のオスカーです。弟がお世話になっております」

 自己紹介しては頭を下げる5人は、一応気を遣ってはいるのだろう、着衣は平凡な民の服装だが、如何せん洗練された容姿と物腰との間にあからさまなギャップがある。こんな一行が道で話し込んでいると目立つ、ということで、彼らは商店街の小さな茶店に入った。
 奥まった席で、全員にお茶が配られたところで自己紹介となったわけだ。

「兄上達……。つけてこられたのですか?」

 弟に迫られて、5人の青少年達が顔を見合わせる。

「つけてきたというか……。我々も影ながらお役に立ちたいと思ったんだよ」
「つまり、俺と同じで影供のつもりだった訳だな?」

 アーダルベルトに尋ねられて、トマスが頷く。

「もちろん、ウェラー卿やグリエ・ヨザック殿の腕を疑うわけではありません。眞魔国三大剣豪の名は知れ渡っておりますし。ただ……何かあった場合、お側にいればお役に立てることもあろうかと……」
「僕だけじゃ心許ないとお考えになられたのですね?」

 ちょっと拗ねたように言うエドアルドに、5人の兄達が一斉に苦笑を浮かべる。
 同じ苦笑でも、5人それぞれ雰囲気が違う。なかなか個性的な兄弟だと、村田は胸の内で1人ごちた。
 トマスは全身から穏和が漂い、ウォーリスは鋭い瞳に才気が漲り、ステファンは闊達、ヨハネスは朴訥、オスカーは……知り合いの女子高生が見たら、「これこそ耽美系美青年よ!」と叫んだかもしれない。質実剛健のグランツにしては、かすかに上がった口角も、決して露骨ではないものの、村田を値踏みするような眼差しも、どこか複雑な性情を表しているようだ。

「……まあ、とにかく、面白い」

 村田がクスッと口元を綻ばせた。

「とにかく」村田の目がざっと5人を見渡す。「良いところで来てくれたよ。分かっていると思うけれど、僕は陛下とウェラー卿とは別行動となった。陛下の側にはウェラー卿がいるし、それから、フォングランツ卿」

 村田の目がアーダルベルトに向く。

「君は2人の後を追って、さりげなくシュルツローブ道場の周辺を探って欲しい。万一の時にはすぐに動いてくれ。くれぐれもバレないようにね。僕は彼らがいるから大丈夫だ」
「了解した」

 言うと、アーダルベルトはスッと立ち上がり、「じゃ、俺は行くぜ」と店を出て行った。

「という訳で、君達、これから僕と一緒に行動してくれたまえ」

 村田の言葉に、フォングランツ卿兄弟一同がザッと背筋を伸ばした。

「はっ! お供させて頂きます、猊下。未熟者揃いではありますが……」
「それじゃダメだな」
「……は!?」
「僕達はね、エドアルド君が王都で知り合った友人なんだよ? 君、末弟の友達にそんな敬語を使うのかい? 普通しないだろう? 僕と一緒に行動するなら、そんな態度じゃ困る、というか、迷惑なんだよ」
「そ、それは……」

 戸惑った表情で、兄弟達が顔を見合わせる。

「ねえ、エドアルド君?」悪戯っ子の目で、村田がエドアルドに言った。「君のお兄さん達が僕達と付き合うというなら、必要なことがあると思わないかい?」
「ああ、ホントだね。僕もそう思うよ」

 エドアルド!?
 こともあろうに大賢者猊下に対し奉り、突如無礼な口を利き始めた弟に、兄が思わず声を上げた。
 村田とエドアルドが目を合わせ、ニヤっと笑う。

「特訓だ!」


□□□□□


 通りはますます人が増え、雑踏は連れ立って歩く人を簡単に引き離して2度と会えなくするほど混みあい、様々な音や声がけたたましく溢れかえっている。

「魔王陛下がおいでになっておられるなんて……! ああ、お出迎えしたかったねえ……」
「お忍びはグランツへの御信頼の証だという話だぜ?」
「大会ではもちろんお姿を御見せになるわよね?」
「一生の思い出になるよ、きっと!」
「ねえ、お母ちゃん、魔王陛下に贈り物をしたいの。私の作ったお人形。陛下は受け取って下さる?」

 右から左から前から後から、聞こえてくる人々の声に、ユーリは傍らのコンラートの右腕をぎゅっと抱き込んだ。

「坊っちゃん。……民は皆、喜んでいるんですよ? お忍びのことはあまりお気になさらずに。ね?」

 うん。何か深く思う様に、ユーリが大きく頷く。と、思ったら。

「カクさん!」

 腕を抱え込まれたまま、いきなり大きな声で呼ばれて、コンラートは思わず「はい」と答えた。

「あのさ、おれ達今は相棒なんだから。坊っちゃんはおかしいぞ? だろ? 敬語も変!」

 言われてみれば確かに。
 そうでした、とコンラートも頷いた。

「では…ミツエモン」

 そうそう、とユーリが笑う。

「それと。……あのさ、あんまり速く歩くのもどうかなって思うんだ。だってさ……」
「ああ……俺は目が不自由でしたね。とすると、早足はもちろん、ミツエモンの前に立って歩くのも変ですね?」
「だろ? だからさ、あの……もっとゆっくり歩こう?」

 はい。コンラートが微笑む。

 はぐれないように、抱えた腕をさらに力を込めて胸に抱く。歩きづらくなって、足取りは自然に遅くなった。妙な格好の二人連れを、人々が邪魔臭そうに避けていく。でも、そんなことはユーリは全く気にならなかった。
 取り替えたばかりの服はどこか埃っぽい。互いの匂いもしない。だが、布を通して感じるぬくもりと、絡めた掌の感触─大きくて、乾いて、剣胼胝だらけの─が、言葉にならない安心感をユーリに齎してくれる。

「………あのさ」
「はい?」
「敬語禁止」
「何だい? ミツエモン」
「……そんな声で囁くのも禁止!」

 頭の上で、くすくすと笑う声がする。頬が熱くなる。

「あのさ!」
「何だい?」
「……こんな風に遠出して、でもって……2人きりになるのって……久し振りだよね?」
「ああ……本当だ」
「何かさ……」

 おれ、今、すっごく嬉しくて、滅茶苦茶楽しい。かも。

 照れくさそうにそう告げるユーリに、コンラートの笑みが深まる。

「俺も。滅茶苦茶楽しいです。おっと、楽しいよ」
「ホントに?」
「本当に」
「……そか」

 良かった。

 いつまでも興奮の冷めない民が慌しく行き来する大通りを、2人はゆっくりゆっくり歩いていった。
 ずっとこのまま、2人寄り添って歩いていきたい。できるならば、この人生という長い道を。一緒に。そんな、告げられない思いをそれぞれの胸に抱きながら。

 とはいえ、どんなにスピードを落としても、歩いていればやがて目的地はやってくる。
 辿り着いたその場所、ユーリとコンラートの前には、シュルツローブ道場の立派な門があった。

「……お爺ちゃんのトコとは大分雰囲気が違うな……」

 資金の援助は遠慮なく受けていたというから、それも当然なのだろう。
 広い敷地をぐるりと巡る石塀は欠けも毀れもなく、堅牢な雰囲気を漂わせている。周囲も綺麗に掃き清められ、雑草1本生えていない。鉄製らしいずしりと重そうな門も、常に磨かれているのか黒光りして美しい。
 門の上には「シュルツローブ武道場」の看板が掲げられている。

 よーし。

 ユーリはコンラートから離れ、門の真正面に仁王立ちするとと、胸を張り、すうっと大きく息を吸い込んだ。

「たっのもーっっっ!!」

 青空に、少年の元気な声が響いた。


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場面転換に、□□□……というのを入れてみました。
私は場面転換を行間を大きく空ける事で示してきたのですが、全体の行間を空けるようにしたところ、それが分かりにくくなったような気がしたのです。
読者様からもその点のご指摘がありまして、今回こういう形にしました。いかがでしょう。

今回何が特別といって、次々にユーリ達の身分がバレていきます。
正体バレの瞬間が大好きな私としましては、ちょっと……と思わないでもないですが、あれでフェルさん達が「何か変だな?」と気づかないとすると、むしろおかしいと思いまして……。
でも、魔王陛下より、ウェラー卿の正体がバレた方がショックが大きいような気がしますが、そこはまあ…武人の性ということでお許しを。

次回は陛下と閣下の道場破りです。
シュルツローブ道場とは一体……ということで頑張りますので、次回もよろしくお願い申し上げます!
ご感想、お待ち申しております!