カン、カン、キン! 青空とそよぐ風の中、鋼と鋼が激しくぶつかり合う音が響いている。 「オヤジー! 遠慮すっこたぁねえぞ! こてんぱんにやっちまえ!」 先ほどのヨザックの腕前を見せ付けられたせいだろう。試合を見つめる門人達の張り上げる声にも熱が籠もっている。その中でもヴァンセルの声が抜きん出てでかい。 ガッ! 剣と剣が叩き付け合うようにぶつかる。 交差する剣を挟んで、ヨザックとトーランが視線を合わせた。 「……なぜ本気を出されない? いたぶっておられるのか?」 「とんでもねぇ」 長身のヨザックを睨め上げるトーランに、ニッと笑いかける。 ザッとトーランが引く。自分よりは背の低い彼に向けて、ヨザックは剣を軽く下に向けて構えた。 武人同士が闘う場合、身長差はあまり意味をなさない。ただ、長身の方は小柄な相手の胴を狙うよりは頭を狙う方が攻撃しやすいし、小柄な方が長身の相手の頭を狙うことはまずなく、大抵は胴を狙う。だが、武人の実力次第では、それが意外な結果を生むこともある。 身長差のある剣士が対峙する場合、長身の方は小柄な相手に合わせて剣を下に構えやすい。それを「剣筋を落す」という。 剣筋を落すと、長身の剣士の頭ががら空きになる。この時、小柄な方があえて長身の相手の頭を狙うことがあるのだ。ただしこの場合、小柄な剣士は格段の自信と実力を備えていなくてはならない。でなければ、あっさりと胴を横薙ぎに斬られ、一発で命を落とすからだ。 今、ヨザックは剣筋を落とし、胸と頭を空けてみせた。 次の瞬間、トーランは大きく踏み込むと、凄まじい速さで剣を一気にヨザックの頭に振り下ろ…そうとして、素早く腕を翻し、トーランの胴を狙って横に構えたヨザックの、その空いたわき腹に剣を繰り出してきた。 明らかに最初から狙っていた動きだ。 「……へえ、誘いだって見破ってたのかい?」 トーランの剣を跳ね返したヨザックが、くくっと笑う。 何だか嬉しくなってきちまったな。 皮肉ではない笑みを浮かべて、ヨザックが剣を構えなおす。 一旦引いたトーランが、一気に間合いを詰めてくる。 「………懐かしいな」 ユーリと村田の背後で、地面に膝をついて控えるコンラートが呟いた。 ちなみに、「ただのお供」であるコンラートとヨザックには当然椅子が用意されず、「フォングランツの御曹司」であるエドアルドはいたたまれない様子で身を固くしていたが、これはさすがにどう文句の言いようもない。 「コ…カクさん?」 懐かしいってどういうこと? そっと首を後に巡らせて、ユーリが問い掛ける。 その質問を受けて、コンラートが何かを思い出すように目を細めた。 「彼、トーランの剣は、決して華々しい剣ではありません。純血貴族が家庭教師や士官学校で教わるような正統な剣とも違う。坊っちゃんがお好きな時代劇なら、武家の子息が幼いころからちゃんとした師について学んできた、という剣とは全く違うのです。むしろ泥臭い剣法であり、戦い方です。言うなれば…そうですね、自己流の喧嘩剣法を実戦の中で磨いて、強くしてきた剣です。剣と共に、自分自身も、身体だけじゃなく精神も、強く逞しく成長してきた。成長する努力を惜しまず、真っ直ぐその道を突き進んできた。そういう剣です」 「……そ、っか……。うん。何となく分かる気がする。でもそれが懐かしいって……?」 「昔」 コンラートの微笑がわずかに深く、そしてどこか切なげに揺れる。 「ああいう剣を遣う男達が、俺の部下に大勢いました。いえ、ほとんどそんなヤツらばかりだったと言ってもいいくらいです。正統な剣技なんぞクソくらえ、要は勝ちゃあいいんだ、文句があるなら掛かってこい。そして掛かってきた相手をことごとく蹴散らし叩き潰す。強い、本当に強い男達でした。彼の剣を見ていたら……部下達の顔が次から次へと思い出されて……汚い言葉遣いをしまして、失礼致しました」 「いいよ、そんなの。すごくよく分かるし。………そっか、それで懐かしかったのか」 「泥臭い、でも強い剣、か。うん、僕も分かる気がするな」 村田が頷いて言えば、エドアルドも唇を噛み締めて大きく頷く。 「ヨザも、あ、いえ、スケさんも、きっと懐かしく思っているんでしょうね。久し振りに楽しんでますから」 「分かるの?」 「ええ、もちろん」 笑って頷き、コンラートは輪の中に視線を戻した。 剣は間断なくぶつかり合い、互いを弾き合う。遣い手達もまた、踊る様にステップを踏み、素早く踏み込み、横っ飛びに身を躱し、手首を翻し、自在に剣を操る。 くるくると目まぐるしく2人の位置が交替し、どちらかが構える間もなく技を繰り出したかと思うと、相手は即座に受け止め、さらに次の技に移る。 「…すげー! オヤジがここまで速いなんてびっくりだぜ! オヤジのやつ、隠してやがったな!」 チクショー! オヤジと慕うトーランの意外な力に、ヴァンセルがどこか嬉しそうに悪態をついた。 輪になって試合を見守る門人達もますます興奮してきたらしい、声援がさらに熱狂的になってきた。 「でもあいつ……トーランとここまでやれるなんて……」 「大丈夫さ! オヤジは強い! あんな赤毛ヤロウ、もうすぐけちょんけちょんに……」 「いや」 ヴァンセルとルイザの会話に、フェルの厳しい声が飛び込んできた。 「彼は……トーランより強い」 「兄さん!?」 「トーランは全力で戦っている。だがあの男は……」 ぐ、と唇を噛み締め、厳しい眼差しでフェルは赤毛の男、ヨザックを見つめた。 「あなただけではない。あなたの相棒もだ。なぜこんな真似をする?」 再び剣を交差させ、二人の顔が近づいたところでトーランが抑えた怒りの声を上げた。 「たかがお遊びじゃねぇか。何を必死になってんだい?」 「……どんな場合だろうと、俺は遊びで剣を握ったりしない…! そんな真似は相手にも、そしてこれまで修行を重ねてきた自分自身に対しても無礼だろう!」 良いねえ、気に入ったよ。 ヨザックが不真面目さの欠片もない、開けっぴろげな笑みを浮かべてトーランを見返す。 その笑顔に、トーランが怪訝に眉を寄せた。 「あそこで座ってる爺さんに頼まれてね」 「……大先生が…!?」 「名門の誇りと鼻っ柱ばかりが高くなっちまった孫達に、上には上がいるって勉強させてやってくれってさ。でも、お手柔らかにってね。だからご注文通りに手を抜いてる。もっとも俺の相棒は手を抜く方に一生懸命になっちまってるけど」 「大先生がそのような馬鹿げた頼みをするはずが……!」 「実力を教えるってことがかい?」 「手を抜いてくれと依頼することだ…!」 「しょうがねぇじゃねえか。よく見てみな。爺さんの隣に座ってるのは誰だ? フォングランツの次期当主と、あんた達が師範を務める家の若君だ。門人達はどうでも、あの二人の前で無様な格好を晒せるか? この道場の面目はどうなる? 大恥さらして、それでもあのフェルって道場主は、エドアルドの家の師範を続けることができる程の恥知らずか?」 交差する剣を押し合う格好のトーランの顔が、赤黒く染まり始めた。噛み締めた歯がギリッと鳴る。 「……だから、最初から手を抜くことになっていたと…? それでお前達は、自分達が負けるとは……考えなかったのか……?」 全然。 ヨザックがニカッと笑う。 「俺達は強い。アルノルドから生きて帰ってきたのは、運でも偶然でもない。そう言い切れるだけの自信はあるぜ?」 ダッと地を蹴り、トーランが後に飛び退った。 「………アルノルド……?」 「ああ」 ヨザックが頷く。 「お前達、2人とも、か…?」 「そうさ」 「では……ルッテンベルク師団の……?」 「まあね」 トーランが、鼻を大きく鳴らして息を吸い込み、それから大きく吐き出した。 剣がだらりと下がる。男の逞しい肩からも、ふうっと力が抜けた。 「まいった。降参する!」 「オヤジっ!?」 「トーラン!!」 いきなり降参を宣言したトーランに、ヴァンセルとルイザが驚きの声を上げる。門人達も皆、唖然とした顔を互いに見合わせている。 その中で、フェルだけが難しい顔でトーランを、そしてヨザックを見つめていた。 「今の話、口外無用だぜ? 少なくともこれが終わるまではな」 踵を返し、輪の外に出ようとするヨザックの言葉に、トーランがコクリと頷いた。 「すみません、エラい怖い顔で叱られちまったんで、大体のとこを喋っちゃいました」 「ああ、何か話してるからそうだろうと考えていたよ。即座に降参するとは思わなかったけれど……。負けるのも真っ平だけど、勝ちを譲られるのはもっと嫌だってところかな? でも、今フェルさん達にバラしてもらったら困るんだけどね」 村田に言われて、「それは大丈夫です」とヨザックが請合う。 「ちゃんと言っときましたから。その辺りのことはあいつも分かってるみたいです」 「ねえ、スケさん? カクさんがね、トーランさんの剣を懐かしいって」 ユーリの言葉に、ああ、と納得の声をあげ、ヨザックは視線をコンラートに向けた。2人の間に共通の思い出を持つものの笑みが浮かぶ。 「昔はああいうのがゴロゴロしてましたね。俺も懐かしかったですよ。でも妙ですよね?」 「何がだい?」 「あいつ、この道場の生え抜きなんでしょ? 道場できっちり教わったにしちゃあ自己流のクセが強いっていうか……」 「あいつはこの道場に来るまで街の暴れん坊だったのさ」 いきなりアーダルベルトが会話に加わってきた。 「トーランが!?」 驚いたのか、エドアルドが思わず声を上げる。 「ああ。知らなかったか? 家も家族もない、路地裏でかっぱらいをしながら生きてた孤児で、ちょっとでかくなった頃にはすっかりゴロツキになってったっていうから、剣もその頃に覚えたものだろうさ。ある日、爺さんが道を歩いていたら、トーランが金を巻き上げようと寄ってきたらしいんだな。それを懲らしめて、無理矢理道場に連れてきたのが始まりだったって聞いたぜ?」 「信じられない……」エドアルドが呟く。「だってトーランはいつも落ち着いていて、礼儀正しくて……」 「いつも落ち着いてて、礼儀正しくて、笑顔が爽やかだったりしたら、気をつけないといけないよー。実はギャグが寒かったり……あたっ!」 「ケンシロウく〜ん? 余計な茶々を入れるのは止めような〜?」 親友の低ーい声に、村田が「おっとっと」と姿勢を戻した。 くくっとアーダルベルトが笑う。 「とにかく、爺さんもかなり頑張って欠点を矯めようとしたらしいが、染み付いた癖は治らなかったみたいだな。だろう? 爺さん?」 はい、とガスール老人が頷いた。 「筋が良いのは一目で分かりました。わしと息子の指導で、めきめきと腕を上げ、予想していた以上にあれは強くなりました。だがどうしても治りきらない癖が残ってしまったのでございます。それが……孫のことに加え、道場をどうするか考えたときに引っ掛かったことでもあります」 「ま、俺達の仲間だったら、それがどうした、要は強けりゃいいんじゃねぇかって言い返すトコですけどね」 ヨザックの言葉にユーリがぷっと吹き出す。 「スケさん、それ、カクさんからも聞いたよ?」 ありゃりゃ? とヨザックがおどけた調子で軽く万歳をする。 「それじゃ、行ってきます」 コンラートがユーリと村田に一礼して言った。 「あ、カクさん、頑張ってね……っていうのも変だけど」 「フェルさんもどうやら気づいているみたいだね。目つきがすっかり悪くなってる。上手くやってきてよね、カクさん?」 「畏まりました」 にっこり笑ってコンラートが踵を返した。 輪の中央では、確かに眦に怒りを滲ませたフェルが、睨むようにこちらを見ている。 「どういうつもりなの!? トーラン!」 「そうだぜ、オヤジ、何であそこでいきなり降参したりすんだよ! 弟子達にも示しがつかねぇじゃねえか!」 ヴァンセルとルイザに詰め寄られて、だがトーランは微動だにせず、輪の中をゆっくりと歩いてくる茶髪の男を見つめていた。 「惨敗しては、示しどころじゃないでしょう」 「惨敗って……。トーラン、何言ってるのよ! あなたがあんな男に……」 「実力は彼の方が遥かに上でした。対峙してみればすぐに分かることです。……ルイザ、それからヴァンセルも、騒がしく文句を言う前に、もっと人を見る目を養いなさい」 「な、何だよ、オヤジ……いきなり……」 戸惑って顔を見合わせるルイザとヴァンセルから視線を外し、トーランは輪の中、向かい合って立つフェルと、カクノシンと名乗る男に眼を向けた。 「ふざけた真似は止めてもらう」 真面目な青年の真面目な怒りに、コンラートはふと笑みを浮かべた。その笑みに何を感じたのか、フェルがさらに深く眉を顰める。 「あなたも、あなたの友人も、我が道場を愚弄するつもりか?」 「とんでもない」 「後ほど、きちんと話をさせてもらう。今は……」 言って、フェルはスッと剣を上げ、構えた。 「スールヴァン道場の名誉のためにも、ここできちんと決着をつけさせてもらう」 「分かりました」 にこっと笑って、コンラートも剣を構える。もちろん逆手で。 「参る!」 フェルがするするっと間合いを詰めてきた。 カンカンカンと、間断なく鋼がぶつかり合う音が練習場に谺する。 「……兄さん、すごい…っ! 兄さんがあんなに激しくぶつかっていくなんて!」 兄さん、本気だわ! ルイザの声が驚きに跳ね上がる。 「フェル兄貴! いんや、師匠! やっちまえ! ギタギタにのしちまえ!」 トーランの試合がよほど消化不良だったのか、ルイザの隣でヴァンセルが手を振り回し、過激な声援を送っている。 フェルは剣を大振りしない。動きに無駄がなく、踏み込みも確実だ。そしてやはり確実に、相手の構えの最も弱い部分をついてくる。 だが……。 惜しいな。 コンラートは胸の中で呟いた。 「……な、何か……すごい迫力……」 ユーリがごくりと喉を鳴らして呟いた。 彼らの目の前では、2本の長剣が凄まじい攻防を繰り返している。だが、攻撃しているのはもっぱらフェルの剣だ。青年は様々な角度から、まるで怒りの鉄槌を奮う勢いで剣を打ち込んでいる。だがその攻撃を、コンラートはことごとく跳ね返していた。 攻防が激しいせいだろう、鋼のぶつかり合う悲鳴のような音は、まるで1つの音の様に連続して途切れない。当人達にも、そしてこの攻防を見つめる者達にも、呼吸1つ差し挟む間も許さないかのように。 「コンラッド…ああ、じゃないや、カクさんも凄いけど、フェルさんも……強い、よね?」 その辺りはめっきり自信がないので、ユーリはヨザックにおずおずとお伺いを立てた。 「強いですね。あれだけできるんなら、貴族の坊っちゃん方の師範としちゃ充分じゃないですか?」 ヨザックの視線が今度はアーダルベルトに向けられた。 「強いな。爺さんが嘆くほどじゃあない。叔父貴の家の師範としても、特に問題はない、だろうな」 アーダルベルトが頷く。 「だが、そうだな……ほら、坊主、お前が前に言っていただろう?」 「な、何?」 「剣術だの駆け足だの、それから、何だった? 水泳だの、か? 軍の訓練なんぞじゃなく、他人の命を奪うためでもなく、ただ楽しむために身体を鍛えて、そして鍛えた技を競い合うとか何とか」 「ああ!」ユーリが顔を輝かせた。「スポーツだ!」 うん、とアーダルベルトが頷く。 「そのすぽーつとやらさ。……フェルは強い。だがあれじゃあ本物の戦場で、命のやりとりギリギリのところを生きてきた武人には到底敵わない。フェルの剣は武人の剣じゃない。すぽーつの剣術さ」 あ、と、ユーリの顔に得心の色が浮かんだ。 「そっか……。そういうことなのか……」 「うん」村田も隣で頷いた。「フォングランツ卿にしては、無駄のない非常に分かりやすい話だったね。……つまり本物の合戦を生き抜いた戦国武将の剣と、泰平の世の道場剣術しか知らない侍との圧倒的な差だね」 どれだけフェルが強くても、本物の武人相手に敵うはずもない。ましてウェラー卿コンラートは「剣聖」と讃えられた、他に類を見ない最上級の武人だ。 村田の呟きに、ユーリも大きく頷いた。 「おまけに」アーダルベルトが呆れたように声を上げた。「あの野郎、慣れるのが早すぎるぜ」 「アーダルベルト?」 ユーリがきょとんと男の横顔を覗き見た。 「カクサンさ。ルイザが相手のときはまだ戸惑ってやがったのに、もう逆の構えをモノにしてやがる。ルイザとのあれっぽっちの試合で、30年の空白をあっさり埋めやがった」 どこか悔しそうに吐き出されたアーダルベルトの言葉に、ユーリはハッと視線を戻した。 輪の中では激しい戦いが続いている。 素早くステップを踏みながら攻撃を繰り出すフェルに対して、押されているように見せながら、そのことごとくを跳ね返すコンラート。 素人であるユーリの眼から見ても、攻撃に対するコンラートの反応には一瞬の遅滞もなく、動きも俊敏で全く無駄がない。と思う。 「……やっぱり……おれのコンラッドは世界一だ……!」 そっと、吐息の様に呟かれた言葉に、村田がクスッと、どこか微笑ましそうに笑みを浮かべた。 「あいつ……」ルイザが悔しげに唇を歪める。「私が相手のときはもっと弱そうにしてたわ…! 手を抜いてたのね。人をバカにして!」 「大丈夫っスよ! フェル兄貴はちゃんと見破ってたんだ。しっかり懲らしめてくれますって! ほらあの野郎、兄貴の攻撃に手も足も出やがらねえ。きっと兄貴があんまり強いんびっくりしてやがるんだ。田舎の剣術使いだからってバカにしやがって。今頃気づいたって遅いっつーの! そこだ! 兄貴! やっちまえ!」 元気いっぱいに声援を送るヴァンセルや門人達の中で、トーランが1人、眉をぐっと寄せて輪の中を見つめている。 内懐に飛び込んだフェルの剣が、コンラートの胸元を襲う。その剣を、コンラートがこれまでになく力を籠め、大きく振り払った。 コンラートのコンパクトな動きに慣らされていたフェルが、途端に体勢を崩す。 そしてそのまま、滑らかな動きで瞬く間にフェルに肉薄すると、コンラートの剣がスッと胸元に突き出された。 ……速い! 驚愕に、フェルの眼が大きく見開かれる。 その視界に、相手の冷静な、剣を交わしているこの時ですら変わらない穏やかな顔が映った。 負ける。 今から体勢を整えたのでは到底間に合わない。フェルがそう覚悟したその時だった。 男の、不思議な虹彩を帯びた茶色の瞳が、真っ直ぐにフェルの眼を見た。 2人の目が合ったその瞬間、男が柔らかく微笑んだ。微笑むと同時に、ほんの一呼吸分だけ、男の動きが止まった、気がした。 男が実際に止まったのか、それとも自分が男の動きを見切ったのか、判断がつかないまま、フェルは武人の本能のままに身体を捻り、剣を振った。 カンっ! 鋭い音が1つだけ響く。 ぜいっぜいっ、と、自分の喉から絞り出される荒い呼吸音を聞きながら、フェルは男を見、それから地面を見た。 空手の男が目の前に立ち、2人の間の地面には男が握っていた剣が落ちている。 「参りました」 にっこりと男が笑い、剣を拾う。それからフェルに一礼すると、カクノシンと名乗った男は主達の下に向かって歩き出した。 「やったぜ! さっすが兄貴!」 「兄さん、さすがよ」 門人達の歓声や拍手の音がフェルを包む。 カクノシンの息がわずかも乱れていなかったことに、フェルはその時になってようやく気づいた。 「カクさん、お疲れ様」 小さく拍手しながら、ユーリがコンラートを迎える。 はい、と笑顔のまま頷いて、コンラートがユーリの背後に廻る。 「それで」村田が背後に立ったコンラートに向かって言った。「どうだった? 実際に剣を交わしてみた感想は?」 「そうですね……ご老人はお孫さんに対して少々点が辛いようですね。思っていた以上に遣いますよ、彼は」 「カクさん、アーダルベルトがね、フェルさんの剣はスポーツの剣だって」 へえ、と声を上げると、コンラートはアーダルベルトのしれっとした横顔に目を向けた。 「非常に明快な表現ですね。俺もその通りだと思います。彼はとてもリズミカルな、良い動きをします。ですが、そのリズムを一旦崩されるともう対応できません。一定のルールの中では通用しますが、実戦での応用は難しいでしょうね。ですが、貴族の家の師範として、剣の基本を教えるには充分な実力を備えていると思いますよ?」 納得して頷くユーリ達。だがガスール老人にとって、それは到底慰めにはならなかったようだ。 がっくりと落ちた肩はますます老人を小さく見せている。 「ようよう!」 陽気な声はすっかり覚えたヴァンセルのものだ。 手を振りながらやってくる若者の側にはルイザもいる。 「結構やれっじゃねえか、あんたら! 俺ぁ負けちまったが、なかなか面白かったぜ! 帰るまでにもう1回くらい手合わせしてくれよ。今度は俺も油断しねえから。だけどよ、あんた」 ヴァンセルが太い指をコンラートに突きつける。 「ウチの兄貴、じゃねぇや、師匠を甘く見やがったな。どうだ、参ったか! これに懲りたら相手を見くびるような失礼な真似をするんじゃねぇぜ?」 「ホントよ」ルイザも腕組をして唇を尖らせる。「時間があったら、私とも再戦してちょうだい。私の実力を今度こそきっちり教えて……」 「黙れいっ!」 広々とした練習場に、怒気を孕んだ鋭い声が響いた。 ユーリ、村田、エドアルドはもちろん、ルイザとヴァンセルも驚きに飛び上がり、トーランと会話を始めていたフェル、そして散り始めた門人達もビクンっと顔を跳ね上げると、その声の主に一斉に視線を集中させた。 「……お祖父様……?」 思わず呼びかけるフェルの声が聞こえたかどうか、ガスール老人はやおら立ち上がると、ユーリ達一行に身体を向け、胸を張り、それからゆっくりと頭を下げた。 「お客人には、ご迷惑をお掛けいたした。お疲れでございましょう。あちらで茶など振る舞いますので、どうぞお出で下され」 再び一礼すると、老人はそれ以上誰にも声を掛けずに踵を返し、歩き始めた。 1度顔を見合わせて、それから頷き合ったユーリと村田が後に続く。 老人と、アーダルベルトを含めた客人一行が練習場を去る、その後姿を、フェル、トーラン、ルイザとヴァンセルを始めとする道場の人々は、何がどうなったのか分からない顔のまま見送っていた。 「……一体……お祖父ちゃんってばどうしちゃったの?」 「全然分かんね」 顔を見合わせて首を捻る2人の背後に、人の気配が近づいてきた。 「ルイザ、ヴァンセル」 顔を向ければ、フェルとトーランが並んで二人の元にやってくるところだった。 「兄さん、お祖父ちゃんは……兄さん? どうしたの?」 祖父だけでなく、兄の表情までがおかしい。ルイザは眉を顰めて兄を呼んだ。兄貴? と、ヴァンセルも怪訝な声でフェルに声を掛けている。 「俺は……」フェルの顔が怒りか、苦渋かに歪む。「俺は、あの男に……勝ちを譲られた」 ルイザとヴァンセルが驚きに目を瞠る。 「なに……何を言ってるのよ!? そんなバカなことあるわけないじゃない! あれはどうみたって兄さんの勝ちよ!」 「そうだよ、フェル兄貴、あの優男、そりゃ見た目以上に遣えるヤツだったけどさ。でも……」 「あの男が優男にしか見えない己の未熟を恥じろ、ヴァンセル」 いきなりの言葉に、ヴァンセルが息を呑む。 「オヤジ……」 ヴァンセルが引き攣った声でトーランの名を口にした。トーランはむっつりとした顔を、今度はルイザに向けた。 「先ほども言いましたが、ルイザ、あなたもです。あの二人に比べたら、あなたの実力など子供の遊びにも及ばない」 「トーラン…っ!?」 「ルイザだけじゃない、ここにいる俺も、フェル、あなたも、ここにいる全員が、です。フェルの言う通り、彼は勝ちをフェルに譲ったのです。そもそも、我々全員が一斉に討ち掛かっていったとしても、あの2人はものともしなかったでしょう」 「トーラン……何か知っているのか? 彼らは一体何者なんだ?」 フェルの言葉に、トーランは1度瞑目して、それからゆっくりと顔を上げた。 「あの2人は、いえ、お2人は、『アルノルド帰り』です。すなわち、かのルッテンベルク師団の一員であり、あの地獄の激戦を闘い、生きて帰ってきた本物の、正真正銘の強者です。のんびり道場剣術に勤しんできた程度の腕で、そもそも相手をしてもらおうということ自体おこがましい」 「……う、嘘ぉ!」 「る、るるる、ルッテンベルク師団っ!?」 「本当か!? トーラン、あの2人が、2人ともが、ルッテンベルク師団の!?」 はい。トーランが大きく頷く。 「彼らが手を抜いていることは最初から見て分かっていました。ですから、あの赤毛の男と戦っている間に聞きだしたのです。彼は…話してくれました。その……」 どうしようっ、私! いきなり大声を上げてトーランを遮ったのはルイザだ。 「ルッテンベルク師団の人だったなんて……! 私、私ったら、ああどうしよう、何て失礼な態度を……。兄さん、私……!」 「俺もだよぉ! フェル兄貴、どうしたらいいんだ!? まさかあいつら、ああ、じゃねぇや、あのお方達がこともあろうにルッテンベルク師団の戦士だったなんてよお!」 興奮して、嘆くやら天を仰ぐやらする妹と弟分の様子を視界に映しながら、フェルは深々と息を吐き出した。 ルッテンベルク師団。 仮にも武人の道を歩むならば、いや、例え武人でなくとも、この眞魔国においてその名を知らぬ者などいない。 ルッテンベルク師団と聞けば、誰もが自ずと姿勢を正し、敬意を表さずにはいられない。 その名は、眞魔国の全ての武人にとって、天頂に燦然と輝く星だ。 かの英雄ウェラー卿コンラート閣下に率いられ、わずか4000名で4万を超える大軍に挑み、一歩も引かずに戦い抜いた、眞魔国史上最強の軍団。 そして次々と仲間を失いながらもその戦意を些かも失わず、ついには劣勢著しい眞魔国に勝利の門を開いた、いいや、抉じ開けたのだ。 4000名の戦士の9割を超える生命をもって。 「……行こう」 フェルが重々しく口を開いた。 「ありがとうございました。まことに、面倒なことをお願いし……」 案内されたのは、客間と繋がるテラスだ。溢れる柔らかな陽射しと、髪を揺らして過ぎるそよ風が肌に心地良い。 門人が運んできたお茶を振る舞われ、一息ついたところで老人が深々と頭を下げて言った。 いえいえと、ユーリが笑顔で手を振る。 「おれ、実は、どれだけお役に立ったかよく分かってないんです。最後なんて、もしかしたらホントにコンラッドが負けちゃったんじゃないかって思ったくらいで……」 ちらっと隣に座る護衛の名付け親を見上げれば、「それは心外ですね」と苦笑が返ってきた。 護衛なのだからといつも通り背後に立とうとするコンラートとヨザックに、「もういい加減良いじゃん! お忍びだってこと忘れてない?」と無理矢理一緒のテーブルに座らせたのはユーリだ。「そうそう。僕達はただの商人の息子なんだし。それにここはフォングランツの武術指南を勤める家で、ここにはフォングランツ卿もいるじゃないか」という村田の応援もあって、結局全員が同じテーブルにつき、お茶とお菓子を頂くことになって今に到る。 「ごめんね」と手を合わせ、上目遣いで謝るユーリに、コンラートの苦笑が瞬く間に蕩ける笑みに変化した。 「勝たせて頂いたことにすら気づかぬとすれば、孫はもはや武人を名乗る資格はございませぬ」 老人がしみじみと語る。 「これで、己の実力がその程度に過ぎぬことに気づくでありましょう。大会にも、たとえ上位入賞はできぬとも、名門に驕り、浮つくことなく、腹を据えて掛かることができるはずです。できると期待したいと存じます。皆様方にはまことに……」 その時、「失礼致します」という若い男のよく通る声が、客間の扉の向こうから響いた。 「フェルか」老人がユーリ達にちらりと目を向けてから応える。「入りなさい」 部屋に入ってきたフェル、そしてルイザ、トーラン、ヴァンセルが、ガスール老人でもユーリ達でもなく、そのお供であるコンラートとヨザックの傍らに並んだ。 4人とも神妙な顔つきで姿勢正しく立っている。ついさっきまでキャンキャンと喧嘩腰だったルイザやヴァンセルも、真面目な様子で畏まっている。 「先ほどは失礼致しました」 フェルが先ず謝罪の声を上げた。頭を下げる若い道場主に従って、ルイザ達3名も同様に頭を下げる。 「私に、門人達の前で恥を掻かないよう配慮して下さいましたこと、お礼申し上げます」 「……怒っておいでかと思ったのですが…?」 コンラートの穏やかな言い様に、フェルは苦笑を浮かべた。 「最初は怒りを感じました。馬鹿にされたように思ったからです。しかし……トーランから話を聞いて……。ルッテンベルク師団の一員でいらっしゃった方にそのような怒りを抱くほど、私は厚顔無恥ではありません」 そんなことまで話したのかと、コンラート始めユーリ達の視線がヨザックに集中した。ヨザックがひょいと首を竦めて横を向く。 「あのっ!」今度はルイザが焦ったように声を上げる。「私、私もっ、ごめんなさい、いえっ、失礼しました! 本当だったら私なんてお相手して頂けるはずもないのに、それなのに、私、生意気言って……。でもまさかあの、あなた方のような英雄が商人に仕えているなんて思いもしなくて……」 「どうぞお気になさらないで下さい。……師団の話は昔のことですし、今の俺達は坊っちゃん達のお供に過ぎません」 にっこりと笑みを向けられて、ルイザはホッと安堵したように頬を緩めた。だが次の瞬間、キッと厳しい眼差しを取り戻すと、兄を押し退けるように前に進み出た。 「ルイザ?」 「カクノシンさん、そしてスケサブロウさん。あなた方お2人に、お願いがあります!」 怪訝に妹を呼ぶフェルに目もくれず、ルイザが決意の漲る声で言った。 「どうか、このスールヴァン道場の一員として、3日後の大会に出場して下さい!!」 「………ル、ルイザ……お前、何を……」 フェルの声が頼りなく宙に消えた。 あまりのことに、ただぽかんと目と口を開けているユーリ達一行、そしてアーダルベルトやエドアルドを始めとするグランツの人々の中で、唯1人、ルイザだけが唇を強く引き結び、燃えるような意志で瞳を輝かせている。 「お願いします! 図々しいお願いだということは分かっています! でも……っ」 30年ぶりの大会なんです! ルイザの、どこか悲痛な声が響いた。 「大会に出場しても、私達の今の力でどこまで勝ち進んでいけるか分かりません。おじいちゃんは私達がちっとも自覚していないと思っているみたいだけど、この30年、まともに修行できなかったツケがこの大切な時にまわってきたんだってこと、私達ちゃんと分かってます。たぶん……国中から集まる武人達とまともに勝負できるのは……兄とトーランくらいです。マッサも強いけど、トーランには劣るし……。あ、あのマッサというのは、トーランやヴァンセルと同じ古参の門弟で、女性なんですけど、私達とこれまで苦楽を共にしてくれた人です。今、酒場で女給というか、腕っ節を買われて、女給の名目で飲み屋街の治安を護る仕事をしてます」 つまり女用心棒だ。村田がユーリにそっと囁いた。ぽかんと口を開けたまま、ユーリが頷く。 「でも私、グランツ一の名門スールヴァン道場の娘として、おじいちゃんのため、戦争で死んだ父さんのため、たくさんの門人のためにも、少しでも上位に食い込みたいんです! 兄さんとトーランじゃ駄目っていうんじゃないんです。でも……!」 ルイザ。 妹の名を呼び、フェルがルイザの二の腕に手を置く。 「言葉を選ぶ必要はない。……俺の腕では到底上位入賞は無理だ。どんなに頑張っても、俺は何かが足りない。今日、カクノシン殿と剣を交わしてみて、それをはっきり自覚した。小手先の技術じゃない。俺は……。だがな、ルイザ。だからといってこの道場とは何の関係もない人に、それもルッテンベルク師団におられた方々にそんな依頼をするのはあまりに無礼だし、ある意味不正でも……」 「分かってるわっ!」 兄の手を振り払い、ルイザが叫んだ。 「分かってる、そんなこと……! でも、私、嫌なの。スールヴァン道場はグランツ一の名門よ? それが……。私はその誇りを失いたくない。スールヴァンの名を汚したくないの!」 「ルイザ、お前の言っていることは完全に矛盾している。ならばなおのこと、俺達は俺達だけで戦うべきだ。たとえそれで門人全員が初戦敗退しようとも……」 「嫌よ、絶対イヤ! 上位入賞できなくても良い。でもせめて、シュルツローブ道場の連中には負けたくない!」 シュルツローブの名を耳にした途端、ガスール老人の喉の奥から「うむぅ」という唸り声が漏れた。 「あいつら、この30年ずっとレフタント家の援助を受けていたのよ。そして、分家とはいえグランツの家の師範を勤めるウチが窮乏していくのを笑って見ていたわ。それだけじゃない、兄さんも分かってるでしょう? あいつらはウチを乗っ取ろうとしているのよ!」 「それはお前とお祖父様の誤解だ」 フェルがやれやれとため息をつきながら言った。 「シュルツローブの道場主であるエイザム殿は……」 「エイザムの名は口にするなっ!」 怒声がテラスに響き渡った。 その場に集う全員の視線が集中する中、ガスール老人が顔を真っ赤に怒らせて唇を震わせている。 「あやつの名をわしの耳に入れるな。そう申しておいたはずじゃ」 「お祖父様……」 フェルの困惑する声に、老人は問答無用とそっぽを向く。 「シュルツローブ道場というと、毒入り饅頭を持ってきた道場ですよね?」 ふいに口を挟んだのは村田だった。 老人、フェル、ルイザがハッと我に返り、慌てふためいた様子でユーリ達一行に顔を向ける。 「こっ、これは何という御無礼を……! 失礼申しました。何とも恥ずかしい、醜態を晒しまして……」 ガスール老人が、今度は羞恥と焦りに顔を火照らせて言う。フェルとルイザ、口を挟むに挟めずにいたトーランとヴァンセルも、お許しくださいと頭を下げる。もっとも彼らが頭を下げる相手はコンラートとヨザックであり、身の程知らずにとんでもない英雄達をお供にしている世間知らずの坊っちゃん達ではない。 「…あ、あの……むら、ケンシロウ? 饅頭に毒なんか入ってなかったんだぞ?」 ひたすら恥じ入る道場の人々の様子に、とにかく話を先に進めようとユーリが突っ込みを入れる。 そうだっけ? しれっと応える村田。 「シュルツローブ道場っていうのは、レフタント家の師範なのかい?」 村田が唐突に、視線をエドアルドに向けて質問した。確かにこういう質問を「友達」にするのは自然だろう、と思いつつ、なぜか不自然に深呼吸してしまうエドアルド。 落ち着け、ボロは出すなと自分に言い聞かせ、エドアルドは村田を見返し、頷いた。 「うん、そうなんだ」 エドアルドの自然(に見えるよう必死に演技している)な応答に、村田が満足げに頷く。 「シュルツローブ道場は歴史は浅いけれど、近年、確か戦争が始まる前…くらいからめきめきと頭角を現してきた道場だって聞いているよ。その評判が高まってレフタント家が師範に迎え入れたんじゃなかったかな…? この30年、活動はここと同じ様に自粛していたはずだけれど、道場自体は特に問題なく続いていたらしいから、おそらくレフタント家の援助は受けていたんだろうと思う。でも……詳しいことは分からないな。僕の家とは特に縁もないし」 言って、ちらりとアーダルベルトを見上げると、「ま、そんなとこだ」と偉丈夫も頷く。 ふーん、と村田が鼻を鳴らした。その隣で、恩知らずのろくでなしよ!と、 ルイザが憤然と吐き捨てている。 「おじいちゃんにさんざん世話になっていながら、いざとなったらウチの門人をごっそり引き抜いて出て行ったのよ! 後ろ足で砂を掛けるっていうのは、まさしくあれのことだわ」 ルイザの目はシュルツローブ道場を話題に上げた村田に向いている。コンラートとヨザックに対するのとは違い、ユーリと村田に対してはタメ口のままだ。この場合、2人がコンラートとヨザックの主であることは関係ないらしい。 「強いと聞けばどんどん門人に引き入れて、勢力を強めていったの。レフタント家はこのグランツ領でも1、2を争う名門だし、援助は潤沢だったはずよ。でもあいつらのことだもの、きっとレフタントの武術師範じゃ我慢できなくなったのね。あいつらの野望は『グランツ』の師範になることよ。それでウチに目をつけたわけ。スールヴァン道場を乗っ取って、エドアルド様のお家の師範になろうとしているの。そしていずれは御本家師範の座を狙っているのだわ。いいえ、たぶんフォングランツを名乗る全ての家の師範を、自分達で独占しようとしてるのよ! 間違いないわ!」 あの強欲ども! 言いながら怒りが込み上げてきたらしいルイザの隣で、フェルがため息をつきながら頭を左右に振っている。 「ルイザ、それは全部お前の勝手な推測じゃないか。彼らは……」 「兄さんは甘いのよ! だから簡単に丸め込まれてしまうんだわ!」 「ルイザ!」 お願いします! 怒りの声を上げる兄からぷいと顔を背けると、ルイザは改めてコンラートとヨザックに向かい頭を下げた。 「あなた方なら優勝だってできます! ルッテンベルク師団の一員でいらしたあなた方にこそ、『グランツの勇者』の称号がふさわしいわ! ……ねえ、あなた達からも勧めてよ」 どうやら搦め手でいこうと考えたらしい。ルイザの目がユーリと村田に向かう。 「あなた達だって、自分の家に仕える人がこんな大きな大会で優勝したら嬉しいでしょう!? 友達にだって自慢できるわ! お家の方も喜ぶわよ! ね? お願い! あなた達からも勧めて……!」 「いい加減にせい、ルイザ!」 さすがに我慢できなくなったのか、ガスール老人が鋭く口を挟んだ。 「勝手な事を申して、エドアルド様のご友人にご迷惑を掛けるな! これに関してはフェルの言う通りじゃ! たとえ結果がどうなろうと、大会では正々堂々と戦えばよい。そのように下らん策を弄するのは、武人として恥じゃと思え! この愚か者!」 「でもおじいちゃん……!」 「大先生!」ルイザの後から、ヴァンセルが首を伸ばして言った。「先生や兄貴の言うことも分かるけど、でも……」 「ヴァンセル! 余計な口を挟むな!」 「でもオヤジ、俺、この人らの本気の剣が見たいんだよ! 話に聞いてる、あんなすげェ戦場を生き延びてきたこの人らがどんな剣を遣うのか、しっかりこの目に焼き付けたいんだ! オヤジだってそうじゃねぇか? こんなすげぇ機会、逃せるか? 武人なら皆そう思うんじゃねぇのか? だってそうだろ?」 ルッテンベルク師団は眞魔国最強の英雄だぜ!? テラスがしんと静まった。 ただそよ風が、ユーリ達の頬を柔らかく撫でて過ぎていく。 「……大会の3日前にこの人らがここにきた。これを偶然って見逃すなんて、俺、もったいなくてできねぇよ。そりゃ坊っちゃん達には迷惑かも分からないけど……。ルイザが言うみたいに道場のためもあるけど、俺はそれよか、大会で本気で戦うこの人らが見たい」 打って変わって穏やかに、この根っから陽気で騒がしい男からは考えられないほど静かに言うと、ヴァンセルは困ったような顔で皆の注目から目を逸らした。 ……戦争なんかじゃなく、でも、本気で戦うコンラッド。……と、ヨザック。 ふと、ユーリの脳裏にソレが浮かんだ。 3日後から始まる大会は、いうなればオリンピック。控えめに表現しても国体。 だったら……。 「おれも……ちょっと観てみたいかも……」 「坊っちゃん!?」 「へい…ミツエモン!?」 「おいおい!」 ハッと我に返ったユーリは、反射的に隣のコンラートに顔を向けた。 めっ。 コンラートの目が伝えてくる。ユーリは思わず首を竦めた。 「そうでしょ!? そう思うでしょ!?」 俄然息を吹き返したのはルイザだ。 「ほら! 彼だってこう言ってるわ!」 「でも2人一度にはダメだな」 ルイザの気炎を抑える様に声が割り込む。 「…へ!? むらた、あ、あ〜、ケンシロウ!?」 「坊っちゃん、ちょ…、何言ってんですか!?」 「おい!?」 ユーリ、ヨザック、アーダルベルトがほとんど同時に声を上げが。もちろん、コンラート、エドアルド、そしてガスール老人もまた驚きに目を瞠っている。 「だって2人は僕達のお供なんだし、側からいなくなってもらっちゃ困るし……。そうだな、スケさん、君、この道場の人を手伝ってあげなよ。カクさんに協力してもらうかどうかは改めて考えることにして、とりあえず。ね?」 「ね? って、おま……」 呆れた声を上げる相棒に、村田はクスッと笑ってひょいと肩を竦めた。 「僕も君やヴァンセルさんと同じさ。よく考えたら、本気で戦うこの2人をまともに観たことがないしね。殺伐とした状況と関係ない時と場所で、でも本気の2人が観たい。どう? ミツエモン?」 「む……ケンシロウ……」 コクっと、ユーリの喉が鳴った。 うん。 ユーリが大きく頷く。 「おれも観たい!」 きゃあっとルイザが歓声を上げた。 「ありがとう! 1人だけだってもちろん構わないわ! ありがとう! ホントにありがとう!」 「坊っちゃん…!」 「待って下さい、その様な真似は道場主として…!」 「おい、良いのかよ!? って言うか、マズイだろ、そりゃ!」 慌てるコンラートとヨザックと並んで、アーダルベルトとフェルもほとんど同時に大きな声を上げた。 「アーダルベルト! …様は黙ってて下さい! 兄さんもよ! そもそも大会は剣に自信があれば誰が参加したって良いんだし、道場での選手の囲い込みなんて昔からよくあることだわ! 単にウチがやってなかっただけで、他の道場では当たり前のことよ。それにアーダルベルト様。どうしてあなたがここで嘴を入れるんですか!? それともこの2人に出場されたら何か困ることでもあるの!?」 2人の坊っちゃんを味方につけ、一気に勢いがついたルイザの主張に、うっ、とアーダルベルトが詰まった。 困る、というか、ウェラー卿とその元部下で現宰相の部下がグランツの武闘大会に参加するのは、その立場的にも色々と………おや? 「問題……ないのか……?」 大会に参加するのは商人の息子の護衛を勤める男達だ。それも、指名されたのはグリエ・ヨザックではなく、スケサブロウ。 もしもコンラート、ではなく、やはり商人に仕えるカクノシンという男がこの後参加することになったとしても、正体がバレない限り問題はない、かもしれない。 もしバレたとしても、むしろ大会に箔がつく、か? 実は魔王陛下と大賢者猊下がお忍びでお出ましになり、お気に入りの臣下を大会に参加させたのだと分かれば、グランツの民も大喜びするだろう。 「なあなあケンシロウ。とりあえずスケさんって……カクさんは? こうなったらおれ、カクさんの本気も観たいぞ?」 「まあ、慌てない慌てない」 ……絶対何か企んでる。 ふふ、と笑う村田に、ユーリ、コンラート、ヨザック、アーダルベルト、そして付き合いの浅いエドアルドまでもが、一斉に心の中で呟いた。 と、その時。 「大先生! フェル! 皆! ここにいるの!?」 困惑やら歓喜やら期待やら不安やら、色んな感情が溢れ始めたテラスに、扉が勢い良く開く音と新たな声が響いた。 「マッサ!? どうしたの?」 マッサといえば、女用心棒を務めて道場の経営に寄与しているという女性武人だ。 ユーリ達は一斉に、客間に飛び込んできた人物に目を向けた。 「ルイザ! 大変だよ! ああ、大先生! 大変です、今、街中大騒ぎになってます!」 「落ち着け、マッサ。お客人の前だぞ」 お客人と言われてようやく気がついたのか、マッサと呼ばれた女武人が立ち止まった。 がっちりとした骨太の女性だ。波打つ金髪を無造作に項でまとめ、ルイザと同じ様に男装をしている。 青い瞳のその顔立ちは決して醜くはないが、どちらかというと骨組みの堅さが強調され、頬の線も、むき出しになった首筋も、女性らしい柔らかさに欠けている。太い骨を柔らかな脂肪ではなく、鍛え上げた筋肉で覆っている、そんな様子が全身から感じられる、まさしく武人らしい立ち姿だ。 ああ、済みません、あたしったら…と言い掛けたマッサは、だが突如大きく目を瞠り、叫んだ。 「アーダルベルト様!? それに…エドアルド坊っちゃん! どうして? どうして今こんな時にここにいるんですか!?」 アーダルベルトとエドアルドが顔を見合わせ、マッサを見返す。ルイザ達も家族同様の彼女が何を言おうとしているのか分からずに、怪訝な表情でマッサの顔を覗き込んだ。 「マッサ、一体どうしたの?」 「どうしたもこうしたも」 マッサは何より大事な事を思い出したという顔で、改めてガスール老人に身体を向けた。 「大変なんです! 大先生!」 マッサが興奮をぶり返させ、頬をたちまち真っ赤に染めて叫んだ。 「魔王陛下が! 魔王陛下が今! お忍びでグランツにお出でになってるそうです!」 ぶふうっ! 自分には関係ない話だろうとカップに口をつけたユーリが、勢い良くお茶を吹き出した。 NEXT→ プラウザよりお戻り下さい。
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