グランツの勇者・2


 家族達に混じって、エドアルドは馬車から降りる魔王陛下の姿をずっと目で追っていた。
 双黒の貴い色が2人現れたときにはさすがに驚いたが、陽の光を弾いた眼鏡の存在で、そのもう1人が大賢者猊下であることに気づいた。
 まだ御意を得たことはないが、ユーリ陛下と同年代で、体つきなども同じことや、眼鏡を掛けておられるといった外見的特徴についての噂は耳に届いている。

 ……陛下は、大賢者猊下をグランツに伴ってきて下さったのか……!

 生まれ変わり死に変わり、4000年という途方もない魂の記憶を繋げ、生き続けてこられた奇跡の御方。
 ほとんどの日々を眞王廟で過ごされ、眞王陛下と眞魔国の現在と未来について神慮を交しておられるという偉大なる存在。

 魔王陛下と大賢者猊下という、眞魔国にとって、魔族にとって、いや、すでに人間達にとってすら至宝とも称される稀有な存在であるお二方が揃ってグランツをご訪問あそばされる。
 それはすなわち、グランツへの長年の疑いが完全に晴れたことの確かな証だ。

 魔王陛下、万歳! 大賢者猊下、万歳! 眞魔国、万歳! 魔族に栄光あれ!

 同胞達と共に歓喜の声を上げれば、その若い胸に感動と、未来への希望がふつふつを湧き上がってくる。

 魔王陛下はエドアルド達士官候補生を「友人」と呼んで下さる。だが、エドアルドはイヴァンが表現した様に、自分が魔王陛下の「御意に入った」という意識を持ってはいなかった。
 自分は陛下が、恐れながら「友人」と呼んで下さる士官候補生一同の中の1人に過ぎないし、特に自分を気に入って下さったという訳では決してない。まして、自分が陛下を「友人」と呼ぶのはあまりにも恐れ多すぎる。
 陛下が自分達士官候補生と共に過ごして下さったあの日々。思い返せば、それは夢のような光と幸福感に包まれた一時であり、同時に、まさしく夢以外のなにものでもないのではと思うほど、共に過ごした実感がない。
 現実に、どれほど近くにおいでになったとしても、やはりエドアルドにとって魔王陛下はあまりにも偉大で、手の届かない高みに存在するお方なのだ。
 十貴族の一員であるという事実だけで、エドアルドは己を過大評価する気にはなれなかった。その点、彼は自分の立ち位置を誰よりも冷静に把握している。

 アーダルベルトの声に従い、立ち上がったエドアルドの目に、伯父であるグランツの当主、フォングランツ卿ウィルヘルムと会話を交す魔王陛下と大賢者猊下の姿が映る。

 ……本当に…良かったですね、伯父上。

 伯父の後姿を見つめながら、エドアルドは胸にしみじみ呟いていた。

 アーダルベルトの不行跡のため、30年に渡って苦難の日々を送り続けたグランツ一族。
 そのアーダルベルトを責めることなく、信じ続け、自分が息子を信じるが故に苦しむ一族を懸命に護ってきた伯父。
 伯父を責めることは簡単だった。実際、一族の中には、アーダルベルトとの絶縁をと迫った者が何人もいる。
 それでも伯父は信じ続けたのだ。

 その全てが、今日、報われた。

 魔王陛下と大賢者猊下が、今度は長老達と会話を交しておいでになる。伯父の背中がちょっと緊張しているみたいだ。
 ……ご隠居様達は、時々何をしでかすか分からないからな。

 思わず笑みを浮かべて見つめる先では、エドアルドの父と3人の伯父達が陛下と猊下に挨拶を始めたところだった。
 その光景を見つめながら、エドアルドはふと眉を顰めた。

 魔王陛下、そして大賢者猊下の背後には、護衛としてウェラー卿とグリエ・ヨザック殿がおいでになる。
 伯父は、伯父達は、そして父は、ウェラー卿にもちゃんとご挨拶して下さっただろうか。

 考え出したら、急にハラハラしてきてしまった。

 ……まさか、コンラート閣下をただの護衛と勘違いして、無視したりなんてしてないだろうな。

 ウェラー卿は過去の戦ではもちろん、現在においても、宿敵である大シマロンの中枢に入り込み、王の寵を得ると同時に反乱軍を組織し、ついには一国を壊滅に追い遣るという、大殊勲を上げた英雄だ。
 たった1人で、魔族殲滅の旗を揚げていた敵国を滅ぼしたのだ。それも、失敗すれば己が反逆者の汚名を着る覚悟の上で。
 その間、グランツはといえば……何もしていなかった。
 どうしようもなかったとはいえ、十貴族の義務を果たすでもなく、ただ家を繋ぐことだけに汲々としてきたのだ。

 ……武門のグランツの名においても、コンラート閣下にはきちんと敬意を表して欲しい。それに、閣下は陛下の絶大な信頼を得ておられる方だし……。

 エドアルドの脳裏に、「カクノシン」に幼子の様に甘える「ミツエモン」の姿が蘇る。

 ……後で。
 エドアルドは思った。
 陛下や閣下に、個別にご挨拶する機会を与えてもらえるだろうか。

 実際のところ、自分は公式の場において、魔王陛下やウェラー卿からお言葉を賜ったことなどないのだから……。

 ふ、と小さく息を吐き出した、その時だった。

「エド君!」

 ………え?

「エド君もいたんだ! 久し振りーっ!」

 ………って。

「……ええぇ…っ!?」

 エドアルドの目に、満面の笑顔でぶんぶん手を振る魔王陛下の姿が飛び込んできた。
 と、思ったら。

 魔王陛下がっ。
 猊下も閣下も伯父や長老や父達をもほっぽって。
 たったかたったか走り出した、いや、走り始められたではないか。
 それも。
 自分、フォングランツ卿エドアルドに向かって!

 魔王陛下の標的、違う、目的が紛れもない自分自身だと頭の隅で自覚した瞬間、エドアルドが咄嗟に思ったのは、「敬礼しなくては!」だった。
 だがしかし。
 当然なすべきその行為は、駆けっこに慣れた魔王陛下のスピードに一呼吸分の遅れを取った。
 敬礼すべく上げかけた手を、魔王陛下の手にがっちりと握られてしまったのだ。
 息が止まる。

「エッド君!」
 視界いっぱいに魔王陛下のキラキラ笑顔。
 エドアルドの両手首を掴み、上下に思い切り良く振りながら、魔王陛下は元気一杯に声を上げた。
「久し振りっ。元気だった!?」
 魔王陛下で埋まる視界の隙間に、伯父や父達のビックリ仰天した顔が映っている。隣からは、「エ、エドアルド……!?」とうろたえる兄弟達の声もする。
「同じ敷地にいるのに、近頃なかなか会えないよね。皆はどう? アーちゃんやマチアスは? 変わりない?」
 陛下のご下問を受けているのだ。お答えせねば。止まりかけていた思考が何とかそこに行き着いて、エドアルドは懸命に呼吸を整えた。
「は、はい、陛下、あの…お久し振りでございます! 同期生は皆、元気で頑張っております」
「そっか! 良かった! ……あれ? 今学校はお休みだったっけ?」
「いえ、あの、陛下、一族の重要な催しがあるということで、特別に休暇を頂いております。戻りましたら補習と、課題の提出などを行うことになっております」
「そうなんだ。あの教官達のことだから、結構大変なことになりそうな予感だけど、頑張ってね!」
「あ、ありがとうございます、陛下……!」
 エドアルドの返事に、うん! と陛下が大きく頷く。その時。
 会話の流れを見極めていたのだろうか、ちょうど良いタイミングで、「陛下」と優しく呼ぶ声がエドアルドの耳に響いた。
「コンラッド! ほら、エド君がいたよ!」
 振り返って声を弾ませる魔王陛下に、いつの間にかすぐ傍らに立っていたウェラー卿がにっこり笑って頷く。
「はい。……久し振り、エドアルド。元気そうで良かった」
「はい、ありがとうございます、閣下! ……あの……」
 敬礼を! と思ったが、両手は相変わらず魔王陛下にがっちり拘束されている。
「陛下、エドアルドが困っていますよ?」
 困り果てた感情が、そっくり表情に表れてしまったのだろう。ウェラー卿コンラートは軽く苦笑を浮かべると、きょとんと見上げた主に言った。
「士官候補生らしく、きちんと敬礼した上で陛下にご挨拶したいのに、手を陛下にしっかり握られていてはご挨拶できません」
 ほら、と指さされて、魔王陛下は初めて自分がエドアルドの両手を掴んでいることに気づいたらしい。あ、そうか! と声を上げると、パッと手を離した。
「ごめんごめん。つい嬉しかったもんだから」
 笑顔にドキリと胸が高鳴るが、エドアルドはすぐに自分を見つめるウェラー卿の眼差しに気付いた。
「改めまして、お久し振りであります、陛下!」
 背筋を伸ばし、軍人にふさわしく、敬礼して声を張り上げる。
「グランツにおいで頂きましたこと、心より光栄に存じております!」
「うん。ありがとう、エド君」
 笑顔で頷く魔王陛下の姿にホッと息をつき、それからエドアルドはウェラー卿コンラートに向き直った。
「コンラート閣下、お久し振りです! グランツにようこそおいで下さいました!」
 尊敬を込めて敬礼すれば、見慣れた穏やかな笑みを浮かべ、ウェラー卿が答礼してくれた。
 ……コンラート閣下…? ウェラー卿コンラート…!? 小さな、だが驚きに満ちた声は、確かに隣の兄達のものだ。
 同時に背後に並ぶ人々からも、ウェラー卿…! あれが……、という声が上がり始める。

「しぶ、いや、陛下」

 ふいに、エドアルドの耳に聞きなれない同年代の少年の声が飛び込んできた。

 顔を向ければ、大賢者猊下がグリエ・ヨザック殿を従え、ゆっくりと近づいてくる。

「彼は?」
 猊下の視線がちらりと自分に向く。その瞬間、何かが眉間にぶつかるような衝撃を感じた気がして、エドアルドはピクリと肩を震わせた。
「村田! エド君だよ。アーダルベルトの年下の従兄弟で……」
「ああ、彼が士官学校を視察した時にできた『友達』かい?」
「そうそう! おれの大事な友達だ! エド君、おれの親友で大賢者の村田健! よろしくな!」
 『友達』の一言に、心臓が踊りだすのを自覚しながらも、エドアルドは三度敬礼をした。
「フォングランツ卿ハンスの末子、エドアルドであります! 大賢者猊下の御尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます!」
「村田健だ。陛下が友人と仰るなら、僕にとっても友人だ。陛下同様、よろしくね」
「こっ、光栄であります!」
 張り上げた声が、張り上げすぎてすでにもうひっくり返っている。興奮した時のクセで、耳たぶが異様に熱い。前後左右から突き刺さる皆の視線も滅茶苦茶痛い。

 陛下と猊下のお言葉は嬉しい。身に余りすぎて、恐れ多くて、だけど素直に言えば、飛び上がりたいほど嬉しい…! でも……。
 一族皆が打ち揃うこの場所で、こんなものすごいお言葉を陛下と猊下から賜ってしまっては、自分は明日からどんな顔で暮らしていけばいいのだろう……?

 だが、貴いお方の衝撃のお言葉はまだ終わっていなかった。
「エド君、じゃあ、エド君は今度の大会が終わるまでこっちにいるんだよな?」
「はっ、はい、陛下!」
「そっか。だったらさ、エド君、街を案内してくれない?」
「はっ……はあっ!? ぼ、僕が……」
「うん。アーダルベルトにって思ってたけど、エド君の方がいいな」
「おい」
 今度は従兄弟が口を出してきた。アーダルベルトは腕を組み、不満そうな顔で立っている。

 ……重要な人物が全員、エドアルドの真ん前に集結してしまった。もうどんな顔で立っていればいいのかも良く分からない。常に冷静であろうとしてきたエドアルドだが、すでに背中は汗に濡れている。耳たぶどころか顔が燃える様に熱い。

「俺の案内じゃ不足か?」
「何かさー、悪目立ちするだよな。おれ達みたく、平凡な庶民の雰囲気が皆無っていうか」
「……お前達のどこに平凡だの庶民だのの雰囲気があるんだ?」
「全身平凡じゃん」
「それよりも」と、大賢者が口を挟む。「フォングランツ卿、君の顔は多くの民に知られているだろう? その君に恭しく案内されたんじゃ、僕達のことがバレてしまうじゃないか。できれば最後までお忍びを続けたいしね。エドアルド君なら、僕達と同年代だし、遠くから訪ねてきた友人で済む。実際その通りなんだし」
「そういうこと!」
「と、陛下も仰せになっておられますし、フォングランツ卿ウィルヘルム殿、ハンス殿、エドアルド君を、そうだね、グランツに滞在する間、僕達の随身としてお借りしてもよろしいですか? ウェラー卿の一時的な部下という形で」
「もっ、もちろんでございますっ!」
 フォングランツ卿ウィルヘルムが、陛下と猊下の心変わりを恐れるように、大急ぎで頷いた。
「ありがたきお言葉、恐悦に存じます。未熟者でございますが……ウェラー卿、よろしくお引き回し頂きたい」
「畏まりました、フォングランツ卿」
 こちらはいつも落ち着いているフォングランツ卿ハンスと、同じくいつも(外見は)沈着冷静なウェラー卿コンラートが、穏やかに頭を下げ、礼を交し合う。
「じゃ、行こうか!」
 明るく言ったかと思うと、魔王陛下の手がエドアルドの手首を掴み、引っ張った。
「エド君も一緒にね!」
 引っ張られて、エドアルドの身体が一族の人々の群れから外れる。
 振り返った視界に、どこか興奮した笑顔の兄達や家の者達、そして、できれば気のせいであって欲しい引き攣った顔のイヴァンが映った。

 ……自分がこうしてグランツの列を離れることは、何か未来を暗示しているのだろうか……?



「陛下、そして猊下をこうしてお迎えできましたこと、まこと、夢のような喜びでございます」

 質実剛健をテーマにする武人の城らしく、外見だけでなくその内部もまた、絢爛とした雰囲気とは皆無だった。しかし、すっきりとした直線的な造りと、重いカーテンや絨毯、そして飾られた花までが渋い色合いで纏められた客間の設えは、少年の心を浮き立たせることこそないが、落ち着いていると言えばこれ以上ないほど落ち着いている。
 その広間で、ユーリと村田は最も上座に位置するソファに並んで座り、もてなしを受けていた。

「そして何より、陛下、グランツを代表いたしまして、いいえ、1人の親としまして、アーダルベルトの罪をお許し下さいましたこと、心より御礼申し上げます……!」

 深々と頭を下げられて、ユーリは「いいえ!」と手を振った。
 ちらりと見れば、アーダルベルトが意外なほど静かに苦笑を浮かべている。

「色々ありましたけど……でも、結局アーダルベルトには助けてもらったことの方が多いような気もしますし……」
「殺されかけたことも1度や2度じゃないけどね」
 隣からの余計な茶々に、ユーリがウッと詰まり、フォングランツ卿ウィルヘルムの顔も苦しげに歪む。
「…あー、えっと、でも……どうしてだか分からないんですけど……」

 アーダルベルトは絶対大丈夫だって、そんな気がしたんです。

 ユーリの言葉に、コンラート、村田、アーダルベルト、そしてヨザックがハッと目を瞠った。

「アーダルベルトがおれにどんな事を言っても、何をしても、でも、最後はきっと……大丈夫だって」

 えへ、と笑う魔王陛下に、フォングランツ卿ウィルヘルムや長老達は感激したのだろう、すでに涙ぐんでいる者もいるようだ。

 お茶のカップを傾け、照れ隠しだろうか、一生懸命お菓子を頬張る魔王陛下を背後から見下ろして、コンラートは小さく息をついた。
 隣に座る大賢者猊下も、おそらく自分と同じことを考えているのかもしれない、意味ありげな眼差しを親友に注いでいる。

 アーダルベルトが大丈夫だと、最後の最後はきっと助けてくれると、それをユーリに信じさせたのは、やはり彼の魂の中に眠る記憶なのだろうか。
 アーダルベルトへの信頼。彼女の……。


 魔王陛下と大賢者猊下の座るソファの背後には、ウェラー卿コンラートとグリエ・ヨザック、そして臨時の随身となったエドアルドが立っていた。
 随身の末座に立ちながら、エドアルドはコンラートの顔を見つめていた。
 特に表情らしい表情もなく、ウェラー卿はただ静かに陛下を見つめている。

 その様子に、エドアルドは、ふっと小さく息をつき、目を伏せた。

 この客間に陛下達が招かれ、そしてこの形で落ち着くまでに、実はちょっとした出来事があったのだ。

 魔王陛下と大賢者猊下の御一行と共に客間に入ることを許されたのは、フォングランツの当主と7人の長老達、そしてウィルヘルムの4人の弟達とその家族、さらにグランツの名こそ名乗らないものの、グランツ領内において有力とされる親戚支族の代表者達であった。
 これが公式訪問、行幸となれば、グランツ領内の有力者、大商人や学者、芸術家などがご挨拶ということになるのだが、それはさすがに省かれている。
 これだけの人々がかなり大きな広間とはいえ、全員ソファに座れるわけもない。魔王陛下と大賢者猊下、フォングランツ卿ウィルヘルムと長老達、そしてウィルヘルムの弟達以外は全員─もちろん女性達も─、壁際に一族の序列に従って並んで立っている。
 その形は少々魔王陛下の御意にそぐわなかったかもしれない。この王様は、人を、特に女性を立たせて自分は楽を、と考える人ではないのだ。
 だが、身分制社会にはその社会の秩序がある。
 例え立ったままであろうと、この部屋に招き入れられたことを彼らは名誉に思っているし、幸運に感じている。座れないと不満に思う者はいない。血盟城玉座の間で、魔王陛下と大賢者猊下以外の全ての人々が立っているのと同じことですよ、と、護衛の名付け親に囁かれ、何とか自分を納得させた魔王陛下は導かれるままソファに腰をおろしたのだが……。

 魔王陛下、大賢者猊下が着席したことを確かめて、グランツの人々もソファに座る。他の人々は姿勢を崩すことなく、立っている。そして、陛下と猊下の座るソファの斜め後には、護衛であるウェラー卿コンラートとグリエ・ヨザックが立った。
 その姿を確認した瞬間、エドアルドはハッと息を呑んだのだ。

 ウェラー卿コンラート閣下が、まるで一兵卒の様に立っている。
 前魔王陛下のご次男、ルッテンベルクの獅子にして、大シマロン崩壊の立役者であり救国の英雄であるウェラー卿が……!

「父上……!」
 エドアルドは咄嗟に父親の背後にまわり、その耳に顔を寄せた。
「ウェラー卿にもお席を…! 閣下を立たせたままにしておくなど、失礼ではありませんか…!」
 息子の言葉に、フォングランツ卿ハンスは魔王陛下の背後に控えるウェラー卿をちらりと見遣り、それからゆっくりと口を…。

「バカもん、エドアルド。ぬしは黙って陛下のお側に控えておれ」

 木と石を組み合わせた重厚な造りの、磨かれ使い込まれ、飴色に鈍く輝く巨大な卓を挟んだ向こう側から、ご隠居様の一人がいきなり叱責を飛ばしてきた。
 人々の視線が老人に集中する。
「ご隠居様、いかがなされた?」
 フォングランツ卿ウィルヘルムに尋ねられたその老人は、当主には目もくれず、顔を魔王陛下の向こう、ウェラー卿に向けた。

「ウェラー卿コンラート」
「はい」

 いきなり名を呼ばれても慌てることなく、微笑を浮かべたままコンラートが答える。
 むしろ魔王陛下の方が、一体どうしたのかと不安げに、顔を護衛にそして老人にと交互に向けている。

「ルッテンベルグの……ふん、尻尾の毛もろくに生え揃わん若造に、獅子とは笑えるわい。仔獅子で十分じゃ、仔獅子で。こりゃ、ルッテンベルクの仔獅子やい」

 思わず苦笑を浮かべるコンラートの前では、魔王陛下が驚きに目を瞠る。

「ぬしゃ、グランツへはどういう立場で参ったのじゃ? 上王陛下の次男坊としてかの、それとも…そう、王都守護の総司令としてか、もしくは……」
「魔王陛下の護衛として。それ以外にありません。グランツの長老殿」
「そうかえ」
 老人がうんうんと頷いた。
「ならば、ぬしが上王陛下の息子であろうが、どこぞの仔獅子であろうが、もしくは混血であろうが……」
 ごくっと誰かが喉を鳴らす。
「少なくともこの場において、それは何の関係もない。ぬしはただ、我等の大切なお客人であられる陛下の護衛」
 じゃな?
 そう問われて、ウェラー卿コンラートは微笑んだまま頷いた。
「仰せの通りです、長老殿」
「ならば、この場でぬしの席など用意する必要はない」
「もちろんです」
 コンラートの笑みが苦笑に変わった。
「御護りすべき主を放っておいて、のんびり座って休んでいる護衛などあり得ません。お気遣いは無用です」
「気遣ってなどおらんわい。ウチの小僧っこが気にしておるからよ。こりゃ、エドアルド、分かったかえ? 人にはの、その場その場で護らねばならん立場というものがあるんじゃ。そこの仔獅子は護衛以外の何者でもないわ。本人が誰よりちゃんと分かっておる。我らも同様じゃ。その場その場でそれぞれの立場がある。十貴族の一、フォングランツの当主が、たかが護衛に気を遣うなどあり得んわい」
 ぐ、と唇を引き結んだエドアルドの瞳に、それでも不満げな光が瞬いているのを見て取ると、老人はふんと鼻を鳴らした。
「だがそれはのぉ」
 今度は隣に座っていた別の長老が、のんびりと口を挟んできた。
「わしらがいつでもどこでもウェラー卿を軽んじて良い、ということでは絶対にないのじゃぞ? 往々にして、その辺りを間違える馬鹿が現れるものだがの」
「魔王陛下をおもてなしするこの場においてはただの護衛」
 今度はまた別の声だ。
「しかし、場を変えれば、その場と時にふさわしい立場が生まれるものよ。その時には我らも現代の英雄と呼ばれる男に相応しい対応をするであろうし、そうせねばならん。のう? そうであろう?」
「軽々しく英雄などと呼ぶでない」
 最初の老人がまたもフンと鼻を鳴らした。
「その称号を得るには、仔獅子はまだ若すぎるし経験も浅すぎるわ!」

「コンラッドは…!」
「閣下は…!」

 広間に2人の少年の声が重なった。魔王陛下と声を重ねてしまったエドアルドと、広間の人々がハッと目を瞠る。だが。

「仰せごもっともと存じます。長老殿。いいえ、フォングランツ卿ヒルデガルド、双月牙のヒルダ殿」

 わずかに硬くなった空間に、滑り込むように響いたコンラートの穏やかな声に、最初の老人が「こりゃ驚いた」と眼を剥いた。

「ようわしが分かったの。それも……双月牙とはまた懐かしい二つ名じゃ」
「有名ですから。士官学校で皆様のことを習う以前、子供の頃から、皆様は憧れの武人でした。肖像画も拝見いたしましたし、皆様の逸話も、周りの者にせがんで何度も語ってもらいました。双月牙のヒルダ殿、炎の斧ブルーノ殿、魔鳥エーリッヒ殿、天斬剣のヘルベルト殿、飛鳥返しのマリーア殿、天泣銀槍のハインリヒ殿、風雷陣ヴィクトル殿」
「こりゃこりゃ何とも!」
「いや、驚いた」
 はるか昔、戦場に轟いた二つ名を挙げられて、老人達が一斉に目を瞠る。
「……ほ、ほほ、ほっほっほっ……!」
 目を剥いたまま、声を上げて笑うのは最初の老人、双月牙のヒルダと呼ばれた人物だ。

「……む、村田…?」
「何だい?」
 魔王陛下と大賢者猊下がひそひそ話を始める。
「あの人……おばあちゃん、なんだよな?」
「ヒルデガルド、ヒルダだからね。うん、女性だね。双月牙かあ。なかなかカッコ良い二つ名だね」

「まったく……話に聞いた以上に心憎い男よの。仔獅子のくせしおって、女心をよくもまあ上手に擽ってみせることよ」

 ほっほっほ、と笑うヒルダの声は、なぜかどんどん艶めいていくようだ。

「………女心なんだな…?」
「うん。女心なんだよ」
 二つ名を呼ばれて擽られる女心……。
 さすが眞魔国夜の帝王。呟く村田を、ユーリがじとっと睨みつける。

「……あー……」
 コホンコホンと咳払いして、フォングランツ卿ウィルヘルムがちょっと苦しい笑顔をコンラートに向けた。
「さすがその名も高きウェラー卿。我が一族の誇りである長老殿達をそのように存じているとは、我らとしても嬉しい限りだ。後ほど、じっくり話をさせてもらいたいものだな」
「ありがとうございます」
 頭を下げるコンラートに頷きかけて、ウィルヘルムは改めて魔王陛下に笑顔を向けた。
「陛下、それで……この後のご予定は何かお立てになっておられますでしょうか? ご希望がございましたら、何なりとお申し付け下さい」
「…あ…ああ、はい…」
 ちらりと見上げれば、護衛の名付け親がにっこり笑って頷き掛けてくれる。うん、と頷き返して、ユーリはウィルヘルムに向き直った。
 ようやく遊びに行く話ができるらしい。ユーリの顔が少年らしく輝き始める。
「グランツは初めてですので、先ずとにかく街を見て歩きたいなって思ってるんです。馬車から覗いたら、街にすごく活気があって……」

 結局エドアルドの訴えはそれきり忘れ去られてしまい、「陛下のお側に戻りなさい」という父の囁きに従って、今は当初の位置に立っている。

 ……僕はつまり、まだまだ未熟者ということだ……。

 魔王陛下に対しても、ウェラー卿に対しても、あの日々で散々恥ずかしい姿をお見せしてしまったが、またここで1つ、己の幼稚さを露呈してしまった。

 ふう、とまたもため息をつくと、ふいにぽんと背中が叩かれた。
「………あ」
 いつの間にかすぐ傍らで、グリエ・ヨザックが立っていた。すっかり見慣れた、どこか皮肉っぽいあの笑みを浮かべている。
「グリエ殿」
「何暗くなってんだい? グランツの坊や。可愛いことを言ってくれて、隊長は結構喜んでると思うぜ?」
「そ、そうでしょうか……?」
「そうさ。それに……十貴族の若様が俺達の隊長の立場を思いやってくれるなんてな……ほんの2、30年前なら想像もできなかった。時代が変わったとはいえ……」
 ありがとよ。
 ニカッと笑い掛けられて、エドアルドは頬が熱くなったのを感じた。
 嬉しさが込み上げて、思わず笑顔を向ければ、グリエ・ヨザックも明るい笑みを返してくれる。
 だが、その時。

「ぜひ我が家をお役立て下さいませ!」

 張り切った声にハッと顔を向ける。この声は……。

「……レフタント卿……」
「ありゃ、誰だぁ?」
 グリエ・ヨザックから囁かれ、エドアルドは眉を顰めて答えた。
「グランツの親族、レフタント家の当主です。言ってみれば……ビーレフェルトにおけるタウシュミット家のようなもの、と申しますか……」
「あ、なるほどねー」

 レフタント家当主、レフタント卿カルヴァンは人々の列から1歩前に進み出ると、魔王陛下と大賢者猊下に向けて恭しく頭を下げた。

「陛下の仰せの通り、ただ今このフェルデンには、此度の武闘大会優勝を目指す屈強の武人達が内外より集まっております。我がレフタント家におきましても、優勝争いに加わること間違いなしと思われる猛者を何人も抱えておりまして、今現在その者共は、我が家の武術師範も勤めておりますグランツ最高の道場にて、最後の調整をいたしているところでございます。大会参加者がどのような者達なのかお知りになりたいとの仰せなれば、ぜひこの者共をご覧下さいませ。陛下と猊下の御成りがなれば、道場にとってはもちろん、選手達にとりましても、この上ない名誉となりますでしょう! お許しあれば」
 そう言って、レフタント卿は自分の背後に控える息子、イヴァンを手招いた。
「ここに控えております我が息、イヴァンにご案内させまする。どうか陛下と猊下のお供を務める栄誉を、何とぞ我が息にもお与え下さいませ」
 ささ、イヴァン、ご挨拶を、と父親に命じられ、前に進み出たイヴァンが「レフタント卿イヴァンでございます。お見知りおき頂けますならば、光栄至極に存じます」と頭を下げる。

「……結構強引な売込みをするな、あのご親戚は。ありゃあアレだろ? お前さんに張り合ってるんじゃねぇのか?」
 はあ、と苦々しげに頷くエドアルド。
「この30年……グランツはご存知の通りの状態でしたので……」
「あん? それがどうした?」
「苦境を乗り越えるためには、何としても一族が結束して支えあうことが重要だったのです。そのために、親族全ての家の協力が不可欠でした。特にレフタント家はグランツでも1、2を争う名家です。伯父ウィルヘルムは、自分がアーダルベルトを信じるが故に一族を苦しめているという自覚がありましたので……その……」
「ついつい下手に出ちまって、付け上がるのを許しちまった、と」
「付け上がるなど……。そんな大げさなものではないのです。レフタント卿も、決して伯父達を見下しているわけではありません。ただ……一人息子のイヴァンのことを何より大事に思っていて、彼を何とか世に出してやりたいと、できればグランツの中だけではなく、中央で名を成せるようにしてやりたいと考えている…と耳にしたことがあります」
「ふーん。それで、陛下がお前さんを友達扱いしてることに焦ったわけだ。でもありゃあ逆効果だぜ」
 含み笑いをするグリエを、え? とエドアルドが見上げる。

「では私はさっそく道場に使いを走らせまして、陛下と猊下をお迎えする準備をさせますれば……」

「いらないよ」

 ぽんと突き放すように言われて、レフタント卿がぽかんと口を開ける。

 村田がカップとソーサーを卓に置く。かちゃかちゃと、陶器が触れ合うどこか苛立たしげな音が響いた。

「何を勝手に話を進めているんだい? 僕達はお忍びだと、一体何度言わせれば理解してくれるのかな、君達は」
「………村田、言ったのは他の人で、おれ達はまだ一言も口にしてないんじゃ……」
 陛下の囁きは、大賢者猊下の耳を素通りした。
「どこへ行くか、何をするかはその時その場で僕達が決める。お願いしたいことがあれば、こっちから言うから余計なコトはしないでもらいたいね。それに、街の案内はエドアルド君にお願いしてある。君の息子の出番は今の所ないよ」

「こ、これは……私としましたことが、とんだ先走りを……」
 御無礼仕りました!
 慌てて頭を下げるレフタント卿に、猊下は肩を竦め、律儀な陛下は「どう致しまして」とちょっとズレた返事を、少々気の毒そうに返した。

 貴いお方の不興を買ったかとフォングランツ卿ウィルヘルムが狼狽え、弟達が眉を顰め、長老達が舌打ちして不快を表す中、アーダルベルトが一人、片頬を歪めるようにして笑っている。

「それじゃ陛下、そろそろ行こうか。せっかくもぎ取ったお休みだもんね。時間を無駄にしたくない」
「あ、うん、そだな。それじゃ、フォングランツ卿、おれ達これで失礼して、街の散策に行ってきます。お茶をご馳走様でした。お菓子もとっても美味しかったです」
 軽やかに立ち上がって挨拶する魔王陛下と大賢者猊下に、グランツの一同も慌てて立ち上がった。
「か、畏まりました、陛下、猊下。どうぞ気をつけてお出掛け下さいませ。あ、あの……それで、今夜でございますが、ささやかながら晩餐の準備を致しておりますので……」
 おずおずと言われて、ユーリと村田は顔を見合わせた。
「……まあ、初日だから仕方がないか」
 村田に言われて、「だな」とユーリも頷く。
「分かりました、フォングランツ卿。でもそういったことは今日限りにして下さい。これから朝食以外は全部、おれ達てきとーに済ませますので」
「て、てきとう、でございますか…!?」
 はい! と元気に頷いて、「それじゃ準備をしてきます」と言い置くと、ユーリと村田は連れ立って部屋を出て行った。もちろん随身3名も後に続く。

「だから言っただろう? 親父殿」
「……アーダルベルト……」
 部屋に置いていかれる形になったグランツの当主に、息子が苦笑しながら声を掛けた。
「遠くに住んでる甥っ子が遊びに来たって感じで行けと。変に持て成そうとすればするほど、あの陛下と猊下は嫌がるぜ?」
「…とは申せ……」
「お前さんもだ、レフタント卿カルヴァン」
 眉間を曇らせて考え込む親族の男に呼びかければ、レフタント家の当主は顔を上げてアーダルベルトを睨みつけた。
「あんなやり方は一番嫌われる。息子を売り込みたいなら、もうちょっと手を変えるんだな」
「アーダルベルト殿、貴公が陛下に取り入ったようにか?」
「カルヴァン殿!」
 思わずテオドールが声を尖らせる。
 アーダルベルトはしかし、怒りもみせず、にやりと笑った。
「ま、そんなとこだ。とりあえず、2人がお忍びだってことを忘れないことだな。それを余計な真似でぶち壊されると、陛下はともかく、あの猊下は……」
 怖いぜ?
 人の悪い目つきと、あきらかに街のゴロツキのような笑いに、集う人々がウッと鼻白む。
「さて、と、俺は2人の影共ってやつでも務めるとするかな」
「で、では、家の者を何人か連れて……」
「いらんよ、親父殿。大体コンラートとグリエ・ヨザックの2人が両脇を固めてんだ。少々の荒くれ共が勘違いしたとしても、何もできはしないさ」
 じゃあ、とアーダルベルトもまた部屋を出て行く。

「……十貴族の跡継ぎとは思えぬな。品がないと言うか、昔はもうちょっと……。陛下は一体アーダルベルトのどこを気にいられたというのか……」
「カルヴァン殿」
 フォングランツ卿ハンスが努めて冷静にその名を呼んだ。
「お言葉を慎まれよ。アーダルベルトは紛れもないグランツの次期当主。それにそのお言葉は、聞きようによっては陛下に対する不敬ともなりますぞ」
「………息子が陛下のお気に入りになったと分かった途端、気が大きくなったようだな、末っ子殿」
「カルヴァン!」
 さすがにウィルヘルムも声を荒げた。
「失礼した。……参るぞ、イヴァン」
 父の言葉に、「は」と頷くと、イヴァンは扉に向かって進み出よう、として、ふと足を止め、ハンスの前に立った。
「エドアルドにお伝え下さい。僕で役に立てることがあれば、何なりと言ってもらいたいと。それから……くれぐれも陛下と猊下のご不興を買うことのないよう祈っていると。エドアルドの未熟故に問題が起これば、せっかくの陛下のグランツに対するご好意が吹き飛んでしまいます。彼がその責任の重さをちゃんと分かっているのかどうか……」
「エドアルドはちゃんと分かっている」
 ハンスの背後から、そう言って前に進み出てきたのはオスカー、エドアルドの兄だ。
「そんなことは、お前に心配してもらうことではない。僕の弟はちゃんと役目を果たす」
「……ならばよろしいのです。僕はレフタント家の惣領として、グランツの将来を何より案じております。グランツを思うあまり、言葉が過ぎましたらお許しを」
 オスカーからすっと視線を外し、ハンスに向けてそう言うと、イヴァンは一礼して父と共に部屋を出て行った。
 同時に、分家や親族、レフタント家の関係者などが一斉に退出する。

「やーれやれ」
 素っ頓狂な声は、もちろんご隠居様だ。
 客間にはもうフォングランツの兄弟とその関係者、そしてご隠居様達だけが残されている。
「ウィルヘルムよ、お主がしゃんとせぬからこういうことになるのさ」
「ご隠居様……」
「まあ、ウィルヘルムを責めるな、ヒルダよ。カルヴァンも別にウィルヘルムに取って代わろうなどと考えておるわけでもないのだし」
「当たり前じゃ、バカもん」
「それにしても、のう、ウィルヘルム、それにハンスよ」
「はい」
「はい、ご隠居様」
「よもやエドアルドがあれほど陛下の御意に入っているとは思いもよらなんだの。これはグランツにとって嬉しい誤算じゃ」
「まったくです……。陛下が息子を友人と仰せになられた時には、さすがの私も興奮で踊りだしそうになりました。邸で待っております妻も、きっと喜びますでしょう」
「いつものんびりしたお主が興奮で踊りだすなど、天変地異の前触れじゃの」
 ご隠居様の言い様に、その場に残る人々、特にハンスの5人の息子達が顔を見合わせて笑いを漏らす。
「とにかく、これでエドアルドがこの先陛下にお取立て頂けるとなれば、グランツはアーダルベルトだけではなく、エドアルドという強い縁の糸を血盟城と結ぶことができる」
 はい、と人々が一斉に頷く。笑っていたエドアルドの兄弟達の顔も、すっと引き締まった。
「エドアルドには、しっかり役目を果たしてもらわにゃならんぞ?」
「弟はウェラー卿に心酔しております」
 ハンスの長男、エドアルドの長兄、フォングランツ卿トマスが父譲りの穏やかな口調で告げる。
「ウェラー卿の、一時的にせよ部下となれば、エドアルドもさらに張り切りますでしょう」
「ウェラー卿か……」ウィルヘルムの次弟、ゲオルグがしみじみと言った。「あの戦が終わるまでは、我ら十貴族の影を踏むことも許されなかった男ですが……」
「そんなこたぁ関係ないわい!」
 ご隠居の一人がゲオルグをどやしつけた。
「そもそも純血だの混血だの、ぐちゃぐちゃぬかす奴腹が阿呆なのよ。血は血じゃ。戦場で血煙を浴びながら命懸けで戦っておれば、そんなものを云々することがどれだけアホらしいか嫌というほど良く分かるというものじゃ!」
「わ、私は別に、彼が混血であることを論っているわけではなく……」
「重要なのは、ウェラー卿が陛下の全幅の御信頼を得ている男だということじゃ! あの武勲の凄まじさを見よ! あの男に比べてこのところの我らと言えば……『武門のグランツ』の名が泣くぞい!」
「落ち着け、ブルーノ。……つまりじゃ、わしらが言いたいのは、これまであまり縁がなかったが、これを機会にウェラー卿コンラートの人となりをしっかり見極め、できるなら、誼を繋げておくのが肝要であろうということなのじゃ。分かるの? ウィルヘルムよ」
「はい、ご隠居様。私もあの男とは1度じっくり話してみたいと思っておりました。これが良い機会であると私も思います」
 うん、とご隠居一同が大きく頷く。と。
「ウェラー卿コンラート、のう……」
 ふぉふぉふぉ、とご隠居の一人、ヒルダが思い出し笑いをしながら呟き始めた。
「想像以上にイイ男じゃったのう……。わしがあと300歳も若けりゃ」
 今夜にでも寝台に忍んでいってやろうものをなあ。
 ひょっひょっひょっと、ヒルダご隠居の笑いがかん高く響く。
「……………」
「……………」
「……………」
 若くなくて良かった、ウェラー卿をエラい災難にあわせるところだったと、グランツ兄弟及び関係者一同はしみじみ胸に呟きながら、それぞれ礼儀正しく聞かなかった振りをした。



「うっわー、すごい人だな! 王都にも負けてないよ!」

 馬車の中から目星をつけていた大通り、処狭しと露店が並び、身体をぶつけずに歩くのも大変なほど多くの人々が行き交う賑やかな一画にやってきて、ユーリは思わず声を上げた。

「フェルデンでは一番の目抜き通りです」ユーリの傍らで、エドアルドが畏まって解説する。「いつもにぎやかなのですが、今回は何といっても30年ぶりの大会開催ですから、露店も格段に多いですね」
「坊っちゃん! 1人で走っていかないで下さい! ……良いですね? 俺達から絶対離れてはいけませんよ?」
「へへ、了解、コンラッド……って、そうだ!」
 人ごみの中で突然大きな声を上げ、立ち止まってしまったユーリに、傍らを歩いていた人々がちょっと眉を顰めて通り過ぎて行く。
「……坊っちゃん、こちらに。こんな道の真ん中で立ち止まっては、皆の迷惑になります」
 コンラートが先導して、露店と露店の間、路地の入り口に向かう。
「それで? 何を思いつかれましたか?」
 コンラートに顔を覗きこまれ、「うん!」とユーリが目を輝かせる。
「名前だよ、名前! お忍びなんだから、名前を変えないと!」
「あ、そっか。そうだよね。分かっちゃう人がいないとも限らないし」
 親友に賛同され、ユーリが「だよな!」と頷く。
「えっとー……そうだな、エド君もいるし、ここは慣れたミツエモンでいく!」
「分かりました。では俺はカクノシンで、ヨザが…」
「スケサブロウ、だっけ? はーい、了解しましたー」
「………またそれですか……」
 エドアルドの眼差しがほんのちょっと遠くなる。
「お忍び慣れてる君達は早いな……。ええとー、僕は……」
「村田はケンでも大丈夫なんじゃないか?」
「やだよ! 君達が偽名を使って楽しむのに、僕だけ本名だなんてさ。変える、絶対変えるぞ。……えっとー」
 そうだ! わずかに宙を睨んでから、村田が破顔した。
「ケンシロウでいく! 名字はホクト」
「ホクト・ケンシロウ君!」
 ユーリが何かを握っているかのように拳を作り、村田の口元に持っていく。
「普段は何て呼べば良いのかなー?」
「ケンちゃんって呼んで下さい!」
「変わってねーだろ!」
 いきなり漫才に突入した魔王陛下と大賢者猊下に、エドアルドが何かとんでもないものを見てしまったような顔でぱしぱしと目を瞬き、コンラートとヨザックはくすくすニヤニヤと笑っている。
「というわけでエドアルド君!」
 いきなり目の前に迫ってきた大賢者猊下に、思わず仰け反るエドアルド。
「さっそく練習しよう。はい、僕の名前を呼んで!」
「……れ、れんしゅう……で、ございます、か……?」
「ああもうそこで既にダメ!」
「は、はあっ!?」
「僕達の設定を忘れたのかい? 僕と渋谷、じゃない、ミツエモンは、遠くから遊びに来た君の友人なんだよ? 君、友達に向かってそんな敬語を使ってどうするのさ。変だろ?」
「そ、それは……!」
 じゃあ一体この貴いお方は何をどうしろと仰るのか……!
「だから練習! はい、僕の名前を呼んで!」
「……あ、あの……」
 確か。
「ケン、シロウ、さ……」
「様なし!」
「で、ではっ、ケンシロウど…」
「殿もなし!」
「でででっ、でも…っ! そんな、無理です!」
 ほとんど悲鳴になってしまったが、人ごみの中なので誰も気にしない。
「仕方ないなー。よし」
 頬を引き攣らせるエドアルドの前で、ユーリと村田が顔を見合わせ、ニヤリ(エドアルド視点)と笑った。

「特訓だ!」

 数分後、人波に戻った5人は元気に露店をひやかし始めた。いや、エドアルド1人だけが、なぜか空ろな眼差しで、どこかふらふらと人ごみに揉まれている。酸素が足りないのか、口でぜーぜーと呼吸する姿も、激しく上下する肩も、どこか痛々しい。
「ほい、頑張れ。これっくらいでメゲてちゃ、この先あのお2人とは付き合えないぜ?」
 ヨザック改めスケサブロウからぽんぽんと背中を叩いて慰められ、エドアルドは必死で呼吸を整えた。
 そうだ。
 ゴクリと唾を飲み込み、エドアルドは生真面目に自分に言い聞かせた。

 僕は、魔王陛下と大賢者猊下の、臨時とはいえ随身に選ばれたのだ。それも、ずっと憧れ続けてきたウェラー卿コンラート閣下の部下として!
 グランツの名誉のため、士官候補生の代表として、そして僕自身の夢のため、このお役目に励まねば!

「…はっ、はい! 僕、頑張ります! どんな試練にも打ち勝って見せます!」
「………いや、そんな大げさに考えなくてもいーんだけど……」

 拳を握って決意表明するエドアルドに、ヨザックはポリポリと頭を掻いた。

 露店では、揚げ菓子を前にユーリが瞳をキラキラとさせている。
「ドーナツだ! うまそー。なあ、コンラ、じゃないカクさん、そろそろおやつの時間だから、こういうのも食べて良いよな!?」
「夕食に影響しない程度でしたら構いませんよ?」
「っていうか、ミツエモン、さっきさんざんお茶菓子を頂いただろ? まだ入るのかい?」
「おうっ、全然へーき!」
「そこの坊っちゃん! 揚げたてだよ! 美味いよー! こっちのは砂糖掛けだ。こっちのは蜜を絡めてある。そっちのは干し果物を錬りこんであるんだ。ああ、それは中に甘い餡が詰めてあるんだよ。どうだい?」
 店主に勧められ、ユーリがわくわくとコンラートを見上げる。
「じゃあ、全種類1個ずつもらおうかな」
 言いながら、コンラートあらためカクノシンが懐から財布を取り出した。「ありがとさん!」と店主が手作りらしい粗末な紙袋に揚げ菓子を詰め始める。

「あ、ポッカですね」
「ポッカ?」
 レモン? と続けそうになるのをすんでで押し留め、ユーリは袋の中身を覗き込むエドアルドに尋ねた。
「はい。露店菓子の定番です。僕も子供の頃から良く食べ歩いて、母に叱られました」
「なるほどねー。ってトコで、はい、エドアルド君、言い直し!」
 村田の命令に、うっ、と一瞬詰まりながらも、エドアルドは表情を引き締め、深く息を吸い込んで口を開いた。
「ポッカはグランツの露店ならどこでも売ってる定番のお菓子なんだよ僕も小さい頃さんざん食べては母に叱られたものさー!」
「……エド君、棒読み……」
 一気に言ってまたも肩で息をするエドアルドに、ユーリが呟き、村田が肩を竦めて首を振る。
 あまりに可哀想だと思ったのか、「せめて努力は認めてやってください」とコンラートがしみじみと取り成した。

「そういえばさあ」
 コンラートとヨザックと自ら申し出たエドアルドに毒見をしてもらい、それをさらに分けて、皆でポッカをぱくつきながら露店を廻っていた時、ユーリが思い出した様に言った。
「エド君、さっきこれをよく食べたって言ってたよな? エド君もれっきとしたグランツの若様だろ? こんな露店にしょっちゅう来れたのか?」
「あ、それは」
 口の中のポッカを急いで飲み下し、エドアルドが答えた。
「ご存知……あっ…じゃなくて、えーと……その……ミツエモン、も、知っての通り、僕の父は当主の末弟なんです…あー、末弟なんだ。僕と同じで、あまり家に縛られることもないし、元々身分や地位に拘る人じゃないん…だよ。だから僕達兄弟も比較的自由に街と邸を行き来をさせてもらえたんだ。兄弟も男ばっかり6人だし、皆冒険好きだし、だからお供をまいて露店でお菓子を買って食べ歩くってこともよくやったな。不潔だとか、何が料理されているか分からないといって、母には嫌がられたけどね」
 その調子その調子と村田が笑って頷く。
「それに」
「それに?」
「僕の家の剣術指南を勤めていた道場にも、よく遊びに行っては露店で売ってるお菓子を食べさせてもらったし」
「剣術指南?」
 村田がふいに口を挟んだ。
「そういえば、君の親戚もそんなことを言っていたね。貴族の家に剣術指南がいるのは分かるけど、道場って?」
「はい、じゃない、ああ、その…」
 ちょっと間が空くとまたイロイロ苦しくなるのか、エドアルドは小さく息をついてから言葉を続けた。
「グランツには武術を教える道場がたくさんあるんだ。ほとんどはこのフェルデンに集まっている…けど、ね。高名な師範に多くの弟子がつくのはもちろんだけど、ただ弟子に教えるだけじゃなく、商家に抱えられてその家の者や家屋敷の守りについたり…」
「用心棒だな!」
 うんうんと頷くユーリ。ヨージンボーとは何だろう? と内心首を捻りながらもエドアルドは解説を続けた。
「さらに高名になると、貴族の家の武術師範になるんです。じゃなかった、なるんだ。グランツ本家には本家の、僕の家には僕の家の、それぞれ師範がいるんだよ。1人の武人が単独で師範に雇われる場合もあるけれど、大抵は道場主が貴族の子弟の師範になって、その弟子が家の関係者、従者や使用人の武術指南をするんだ。つまり1つの道場がまるまる1つの家の武術指南を担当するわけだね」
 へえ、と村田が興味深げに目を瞠った。隣ではユーリが「つまり剣客商売だな! 腕に覚えのある侍が、大名や旗本の剣術指南役として召抱えられるのと同じだな!」と目を輝かせている。
「グランツ一族全体の剣術師範じゃなくて、家ごとに違うんだ。面白いなあ、それ。師範を務める道場っていうのは代々決まってるのかい?」
「一応決まっているけれど、それを打ち切って他の道場に乗り換えることもない訳じゃないです、えっと、ないよ。例えば、師範である道場主が亡くなって跡継ぎがいないとか、弟子や子供が跡を継いでも実力的に以前より劣る判断されたりとか、その道場には問題がなくても、他にもっと強い武人が登場して、その人に師範を依頼することになったりとか……」
「じゃあ道場同士が師範の座を巡って争うこともあるのか!?」
 時代劇好きの血が騒ぐのか、勢い込んでユーリが質問してくる。
「争うというか、より良い家、家格の高い家、勢力のある家、何よりグランツ本家に近い家に抱えられれば、道場の格も必然的に上がからね。機会があれば取って代わりたいと考えている道場はいくらでもあるだろうな」
「機会があれば、ね……」
「もしかしたら」
 それまで黙って聞き役に徹していたコンラートが、ふと会話に参加してきた。
「その機会が、今回30年ぶりに巡ってきた、というところなのかな?」
 え? とユーリがきょとんと目を見開き、村田がうんと頷く。
「仰るとおりです」
 エドアルドも大きく頷いた。なぜかコンラートに対しては、タメ口を利く努力を最初から放棄している。
「今、グランツ領内の全ての道場は、ようやく力の見せ所が来たと、それはもうものすごい盛り上がりなんです」

 グランツの武術道場は、この30年、本当に悲惨な状態でした。

 目抜き通りを抜けた広場の噴水に腰掛けて、買い漁ったおやつをぱくつきながら一休みを初めて間もなく、エドアルドがしみじみと言った。

「グランツに反逆の疑いが掛かったからだね?」
 村田の言葉に、エドアルドが頷く。
「そうです…あ、済みません、そうなんだ。武闘大会には眞魔国各地から実力のある武人が多く集ってくるけれど、何よりグランツ領内の道場にとって、自分達の力を示して名を上げる絶好の舞台だったんだ。そこで優勝して、『グランツの勇者』の称号を得れば、グランツだけじゃない、眞魔国全土に名が知れ渡る。それが自分達の道場から出れば最高の栄誉だ。だから、以前は大会が始まる前から、各道場はそれぞれ名のある武人を自分達の道場に引き入れようと運動したり、他の道場から引き抜こうと画策したり、それはもう、何というのかな、華々しく活動していたんだ」
「時代劇的に目に見えるような光景だなー」
 妙に嬉しそうにユーリが言った。おそらく今彼の眼前には、立派な門構えに大きな「○○道場」の看板を掲げた剣術道場と、竹刀や木刀で稽古に励む丁髷頭の武士達の姿が映っていると思われる。
「でも……アーダルベルトのあの事件が起こってからこの30年、グランツの道場は表立って活動することがほとんどできなくなってしまったんだ。いつ何がきっかけで、公式に反逆者の烙印を押されてしまうかも分からない。十貴族から除外されるだけならまだしも、最悪反乱を疑われて、グランツ討伐の兵を送られてしまうかもしれない。そんなことになれば内乱が起きてしまう。だから、伯父はグランツ領内の全ての道場に活動の自粛を命じたんだ。武闘大会はもちろん中止、道場が腕の立つ武人を集めることはもちろん、弟子を集めることも、武具を揃えることも、貴族の武術指南に励むことも最低限にして、決して武力を誇示するような真似をするな、と……」
 なるほど、と全員が頷く。
「本来なら常に己の力を誇示してこその道場が、目立たぬよう目立たぬようと息を潜めるようになって、結果いくつもの道場が潰れてしまったんだ。道場に弟子入りしても、グランツではもう名を上げる術はないわけだし、下手をすれば反逆者の一味扱いされてしまう。だから弟子はどんどん減るし、道場の社会的地位も勢力も落ちる一方、ということになってしまったんだよね」
「残ったのはどれくらいなんだい?」
「元の半分ほど、かな……? 皆死に物狂いで頑張って生き延びてきたから、今回大会が復活することになって、彼らが誰より喜んだと聞いたよ。僕の家の道場へは僕の兄が出向いて大会復活の報告をしたのだけれど、落ち着いていたのは道場主だけで、他は皆、手を取り合って泣くやら喝采を上げるやら、大騒ぎだったって」
「じゃあさ! また腕の立つ武人を集めたりしてるんだな!」
「開催は後もう3日後だから、人集めは終わってるかもしれないけれど、他の道場の偵察とか、遠慮がなくなった分、活発に活動してるでしょ……だろうね」
 うんうんうん! とユーリが妙に勢い込んで頷いている。
「ところでさ!」
 と、ユーリが振り向いた先はコンラートだった。
「おれ、ずっと疑問に思ってたんだけど、その大会、コンラッ…とと、カクさんやスケさんは参加したことないのか? 出てたら絶対優勝できるって思うんだけど」
「俺達ですか?」
 コンラートとヨザックが顔を見合わせる。
「そう…ですね、まず、現役の軍人はそのような大会に参加することは遠慮する、というのがありましたね。別に決まりではないのですけど、一応。それと……俺にしろヨザ、いえ、スケさんにしろ、複雑な立場がありましたので……」
「まあ有体に言っちまえば、コイツの場合は母親の血筋的にも『グランツの勇者』を名乗るのはちょいとマズいってのがありましたし、グランツにしても混血に自分のトコの大事な尊称を名乗らせたくないってがありましたんですよねー」
「そ、そんなことは……っ」
「昔は」
 思わず口を挟んだエドアルドを、ヨザックが遮る。
「良い悪いじゃなく、それが当たり前だったんだよ」
 う、とエドアルドが唇を噛んで目を伏せた。
「……あー…あの、ごめん、なさい。おれ、変な話にしちゃって……」
 眉を落してしょんぼりと謝るユーリに、コンラートが首を振る。
「気にしないで下さい。昔話ですよ」
「そうですよー、坊っちゃん。今じゃ笑っちゃうような大昔の話です。今は混血がどうのこうの、誰も気にしませんし」
 気にすれば、漏れなく「不敬罪」が降りかかる。
「…う、うん、ごめんね。……えっと、あの、あのさっ、エド君!」
「は、はい!」
「おれさ、道場って見てみたいな! エド君ちの道場、案内してくれない?」


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どこまで進んでも丁度良い切りどころがなくて、結局凄まじく長くなってしまいました。
相変わらず、妙に細かいトコまで書き込んでおります。読みにくくてすみませんっ。
本当はこの回でとっくに道場に行っているはずだったのですが……。
次回からは新たなキャラを加えまして、大会に向けてのお話を書いていこうと思います。
次回も頑張りますので、どうぞよろしくお願い致します。
ご感想、お待ち申しております!