「…………げ」 いつまでそんなふざけた格好でいるつもりかと。 ヒルダの一声からたっぷり間を置いて、きょとんと目を瞠っていたユーリの喉からヘンな声が漏れた。 これまでと違い、まるで観客達に聞かせる様に、いいや、観客達に聞かせるために、声を張り上げてヒルダがそのセリフを口にした瞬間、狙い通り観客席は静まった。 「何言ってんだ? あの女」 フィセルが観客達の心情を代弁する様に言う。 「…おい、止めろ、婆ぁ、ここでは止めろぉ……!」 アーダルベルトが唸るように呟いている。 目を凝らして見つめる先では、2人の武人が距離を取って向かい合っていた。 コンラートはかすかに眉を顰め、ただじっと立ってヒルダを見つめている。 「それとも何か?」 ヒルダがわざとらしく腕を組み、胸を反らすようにコンラートを眺めると、バカにしたように笑って言った。 「金髪をそのような形でなびかせることに憧れていた、とか?」 「違いますっ!」 一瞬で冷静さをかなぐり捨てるコンラート。 「じゃあ趣味」 「じゃなくっ!」 「あー、たいちょー、乗せられちゃダメだってぇ」 いくら何でもマズいでしょー。ボヤきながら、ヨザックがため息をついた。 「……よっぽどあの格好がイヤだったんだろうなー。分るけどぉ。つーか……」 あんた、そんなに乗せられやすい男だったっけ? ヨザックのため息が深く深く流れていった。 ふふん。ヒルダが鼻を鳴らして笑った。 ヒルダもコンラートも人並みはずれて美声だし、声に張りがあって良く伸びる。だからその気になればいくらでも声を響かせることができたりする。……その気になってなくても、乗せられるとついつい声が大きくなるのはよくあることだ。 「お前と戦うのを楽しみにしていた。……最初に会った時からな」 声を上げて何か反論しかけていたコンラートが、ぐ、と言葉に詰まった。 「お前にだ。分るだろう」 またコンラートから表情が消え、眉がさらにキツく寄せられる。本人は自覚していないだろうが、その様子は王都で待つ兄そっくりだ。 「そのバカげた変装を取れ!」 変装!? 会場が一気にざわめき始めた。 「変装って何だよっ!? あの女、兄貴に一体何言ってンだよっ!」 「うるさいわねえ」 ユーリ達の周囲でも2つの道場の門人たちがざわざわと、だが若君達が同席しているからか、わずかながら遠慮がちに声を上げ始めた。その中で、「カクノシン」の弟分を自認しているフィセルの声が一際大きく遠慮もない。 それに噛み付いたのがルイザだ。 「なーんにも知らないくせに、カクノシンさんを兄貴呼ばわりするんじゃないわよ。図々しいったら」 「何だと、おい! 知らないって何だよ。図々しいって、お前、どういうこったよっ!?」 「あんたにお前呼ばわりされる謂れもないわ!」 「黙れ、馬鹿者!!」 互いに腰を浮かし、ほとんどファイティングポーズを取りかけていた2人の間で、耳と腹にずしりと響く声が上がった。 「…お、おじいちゃん……」 腕組みをし、目を閉じたままのガスール老人が、一声上げた後はまた不機嫌そうに口をへの字にしている。 「失礼致しました、大先生。フィセル、座れ」 ガスールの隣でエイザムが頭を下げる。その姿を目にして、何か言い返しかけていたフィセルがむっつりと席についた。 「ルイザ、お前も座れ。お前こそ……何も分かっていないんだ……!」 「…え? それ……どういうこと? 兄さん?」 フェルに、低いが厳しい声で叱りつけられ、ルイザの瞳も戸惑いに揺れる。 正体は分らないが、自分たちが理解している以外の何かが靄のように立ち上ってくる、そんな感覚に、その場に集ったほとんどの者が、そこはかとない不安を覚えて顔を見合わせた。 正面に顔を向ければ、なぜか一番良い席に並んで座っていた二人の少年が、いつの間にか観覧席の仕切りの塀に身体を預けて立っている。寄り添う様にして立つ、年恰好も同じ少年達─ミツエモンとケンシロウ─は、闘技場内で向かい合う2人の戦士の会話を一言残らず聞き取ろうとするかのように身を乗り出していた。 そして。 「それになあ」 何が「それに」なのか、ヒルダはちょっとコンラートを見下したような、高慢な口調で言った。 「お前が負けたとき、このような変装をしていたせいだなどと、後からうつけた言い訳をされたくない」 コンラートの眉間がさらにぐっと寄った。 「……俺が。そのような見苦しい言い訳を口にすると?」 「さあな」ヒルダがひょいと肩を竦める。「だが、お前が言わなくても誰かが言う。私の勝利にかすかであろうと瑕疵がつくことなど許せん」 「俺と貴女が戦って」コンラートが低い声で言った。「そのような曖昧な勝負になるはずがない」 「その通りだ」 我が意を得たとばかりにヒルダがにやりと笑う。 「お前とならな。シュルツローブ道場のカクノシンなどという、どこのごろつきとも分らぬ者ではなく」 「兄貴をごろつき呼ばわりしやがった、あの女!」 許せねえ! フィセルが叫んで席を立ち、仲間達の前を強引に押し通ると、近くの階段を駆け下り、ユーリ達が立つ観覧席の仕切り壁に向かって突進していった。 「もう一度言う。私はお前と戦いたい。何も隠さず、何ものにも隠されていない、おまえ自身とな。そのふざけた変装を取れ。素のままのお前に戻れ。そして私と戦え!」 ウェラー卿コンラート!! ヒルダが相対して立つ男に真っ直ぐ指を突きつけ、その名を叫んだ瞬間、会場の全ての動きが止まった。 今にも仕切り塀に取り付き、乗り越えようかとするほどの勢いだったフィセルも、不自然なポーズでぴたりと止まる。 「…………え…?」 意味が全く分らないという顔で、フィセルがぱしぱしと瞬きを繰り返す。まるで、横っ面を引っ叩かれて、ようやく目を覚ました酔っ払いか何かの様に。 「……いま、なんて、言ったの? あの人……」 冷静な兄の様子に気付かないまま、ルイザがふらりと立ち上がり、呆然と呟いた。 思わず腰を浮かせたのはルイザだけではない。観覧席を埋める観客達のおよそ半数は、耳に飛び込んできたあり得ない名前に飛び上がり、もう半数は驚きのあまり目と口をポカリと開けたまま椅子の上で固まっている。 言葉もなく愕然と固まっている人々と、驚きのあまり意味を成さない言葉をうわ言の様に呻く人々の中にあって。 「やってくれたねえ」 村田が苦笑交じりに親友に言い。 「うん。……どうするかな、コンラッド」 ユーリが壁の縁に手を置いて、コンラートを見つめたまま頷く。 「どうするもこうするも」村田が吹き出すように笑って続ける。「決めるのは君だよ」 「……は!? おれ!?」 驚いて親友に顔を向けるユーリに、村田が「当然だろ」と肩を竦めて見せた。 「ウェラー卿が君の命令、もしくは許しもなくアレを取るもんか。どれだけ素のまんまの自分に戻って、存分にヒルダ殿と戦いたいと思ったとしてもね。君が指示しない限り、ヒルダ殿が何と言おうと彼は『シュルツローブのカクノシン』で通すよ」 「……あ……」 そうか。頷いて、ユーリはグラウンドの中のコンラートに視線を戻した。 「…畜生、婆ぁ、やりやがったな……!」 俺の苦労も知らずにと頭を抱えていたのはほんの数呼吸、アーダルベルトはすぐにキッと顔を上げると、即座に頭を翻し、彼らの周囲をぐるりと囲む兵士達に合図した。 ちょっと体型の良いのがたまたま揃っているだけの、ごくごく一般的な民という顔で身を乗り出していた兵士達の表情が、合図を受けて一気に引き締まる。 彼らはすぐに、取り決めてあった「陛下&猊下をお護りするための絶対防衛線」を構築すべく動き始めた。 グラウンド内の会話に全神経を持っていかれている一般客が気づかない内に素早く席を立ち、移動し、ユーリと村田のいるエリアに子猫一匹侵入できない壁を作る。 それを確認し、アーダルベルトは気を取り直した様に顔を2人の戦士に向けた。 ざわめく観客席に目もくれず、コンラートとヒルダはほとんど睨みあう様に立っている。 コンラートの名を見事にバラした後のヒルダは、もはや次の行動はお前次第だと言いたげに、それきり口を閉ざしてしまった。 ……どうすべきか。 思わず眉を顰め、唇を引き締めて、コンラートは考えを巡らせた。 ヒルダと戦いたい。 武人として、これまで自分が培ってきたものが、果たしてどれほどのものなのか。自分自身が幼い頃から憧れ、ある種目標としてきたこの伝説の武人相手に試してみたい。試すという言葉が不遜というなら、挑んでみたい。そして。 勝ちたい。 己の名誉のためではなく、もちろん「グランツの勇者」という称号のためでもなく、ただユーリの護り手として誰よりもふさわしいと自分自身が認めるために。 だがそれでも、コンラートは自ら変装を取るつもりはなかった。 このアヤしい格好は大賢者猊下のお遊びだが、ユーリが望んだことでもある。ユーリの許しもなしに、これだけの人々の前で正体を明かすことはできない。何よりユーリの身の安全が重要だ。 グランツの人々の魔王陛下への崇敬の念は熱狂的なものだが、その熱い瞳は、いわば絶対に手の届かない天空の彼方におわす御方を夢見るものだ。その陛下が、自分達の住む世界、自分達が今いる観客席、自分達と同じ目の高さ、いや、ほとんどの人々にとってはさらに低い場所、擂り鉢状の観客席の一番下部、落ち着いて席に座っていられない若者や子供達と同じ様に仕切り塀に寄り掛かっていることを知ってしまったら。 コンラートの脳裏に以前テレビで観た、アイドルスターの出現にほとんどパニックに陥り、理性をかなぐり捨てて殺到するファン達の姿が浮かんだ。 もしこれほど多くの人々が、その気になれば陛下のお側近くに行けるということに気づいてしまったら。 ……怖すぎる。 魔王陛下の護衛として、そのような状況が発生することは絶対に容認できない。 とすれば、この後すべきことは自ずと決まる。 「失礼だが、あなたが何を言っているのかさっぱり……」 分らない、と声を張り上げかけた時だった。 「コンラッド!」 あってはならないはずの呼びかけが、聞き慣れたかの人の声でなされた。 まさか、とコンラートが慌てて顔を巡らす。 その視線の先で、ユーリが仕切り塀から懸命に身を乗り出していた。 「コンラッド!」 再びの声に、人々の視線が集中する。 どれだけ離れてもはっきりと識別できる主が、そこで一生懸命背伸びをして、それから大きく手を動かした。 横にいっぱいに広げられた両腕が、そのまま頭の上に上がり、大きな丸を作る。 「いいよーっ、余計なモン取っ払って、思いっきりやっちゃってーっ!」 「……思い切りって……」 やってくれた。 コンラートは大きな掌で顔を覆おうとして手を止めた。サングラスをしていたのだった。うっかりこの暗さに慣れていたらしい。 ……きっと今頃、アーダルベルトや、陛下を御守りする使命感に燃えている少年達が真っ青になっているだろう。 猊下はおおっぴらに、そして幼馴染は心ひそかに面白がっているだろうか。いや、案外職務熱心な幼馴染は、観客が歓喜のあまりの熱狂状態に入る恐れに危機感を覚えているかもしれない。 どちらにしても。万一のことが起きれば、幼馴染とアーダルベルトを中心とした彼らは、必ずユーリと猊下を護り通す。それだけは間違いない。 コンラートの口から、ふっと小さく笑いが漏れる。 ……だったら良いか。 そう思った。 幼馴染の実力を信じ、アーダルベルトとその兵士達を信じ、少年達を信じ、誰よりユーリの威光を信じて。 コンラートは改めて身体を真っ直ぐユーリに向けた。ユーリもまたコンラートを真っ直ぐ見つめている。 その姿をしっかり視界に納めると、コンラートは胸に手を当て、ゆっくりと大きな仕草で、しかし優雅に頭を下げた。 コンラートが自分に向かって完璧な臣下の礼を取る姿を、ユーリは照れくささと誇らしさの入り混じった、どこかこそばゆい感覚を胸に覚えながら見つめていた。 ……コンラッドは、ヒルダ様と思い切り戦いたいと思っていた。それを心底楽しみにしていたんだ。 コンラートとヨザックにとってすら「伝説」となった偉大な戦士と戦うというのは、武人としてきっとものすごく光栄なことなのだ。それくらい、武人でないユーリにも理解できる。 ……だって、もしおれ達の「ダンディライオンズ」が埼玉西武ライオンズの、それも1軍選手と試合をすることになったら! すっごい幸運にもう有頂天になって、勝つだの負けるだのどうでもいい、とにかくもう興奮してアドレナリンはガンガンで、すごいことになるに決まってる。嬉しくって嬉しくって、心の底から光栄だって思える。 たとえあの変装を解かないままだったとしても、コンラッドはそれに邪魔されることなく、存分に戦うことができる。これは絶対だ。 でも……。 口元がヘンな風に緩んだ。だって、気がついたから。 おれが見たいんだ。 コンラッドを。 「カクノシン」じゃなく、コンラッドを。 眞魔国の歴史に燦然と輝く英雄と、堂々と闘う現代の英雄ウェラー卿コンラートを。 そして。 おれの、おれだけのコンラッドの。 勝利を。 「誰より、おれが見たいんだ」 そうきっぱりと言えば、背後に集まる親しい人々の視線が一斉に自分の背中に集中したことが分った。 「ふふ」と、隣にいる親友のかすかな、でも優しい笑いがユーリの耳元の空気を揺らす。 下げた頭をゆっくりと上げ、そして昂然と胸を張ってユーリを見つめるコンラートに、ユーリは満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。 それを受け止めて、コンラートもまたこくりと頷く。 「……あ、あの……コンラッド…って……?」 フィセルの声だろうか。初めて聞いたような、ひどく弱々しい、今にも泣きそうな声だ。 ユーリの背中に感じる皆の視線が、一層強くなった。誰もがユーリに答えを求めている。 「……ミツエモン…くん…?」 女性の声はクレアだろうか、それともルイザ? その名前を口にすることを、どこか恐れているようにおずおずと呼びかけてくる。 何かが起こる。 それを予感してか、動きも音も止み、静まり返る闘技場。 漲る不可思議な緊張感を気にした様子も見せず、コンラートはゆっくりとマントを外した。 人々が一斉に喉を鳴らす。 マントの下からは、ごく質素なシャツ─心臓を護る簡素な革の胸当てが装着されている─とズボンとブーツに身を包んだ均整のとれた全身が現れた。 これまでまともにマントに隠された身体を見ていなかった人々から、「ほー」と感歎の息がもれた。 そして次に、彼が色つき眼鏡を外し、異様に艶めく金髪に手を掛け、それを外した瞬間、観客席の人々から「おおっ!?」と一斉に、今度は驚嘆の声が溢れた。 一皮剥いた(?)後、現れたのは、茶色の短髪をわずかに乱した、だがアヤしさは欠片もない、端正この上ない青年だったのだ。 「ほ、ほんとに変装!? あれが兄貴の本当の姿なのか!? だって……どうしてそんな……!? あ……ウェラー卿って……でもまさか! まさかそんなことある訳ないだろっ!? だってミツエモンが…! なあっ、そうだよな!? でもじゃあ何であんな格好を!? おいなあ……誰か……何とか言ってくれよ! 師匠! どういうことなんだよ! これって一体……!?」 「うろたえるでない、見苦しい!」 ビシリと声がして、浮つき掛けた空気が即座に引き締められた。 2つの道場にとっての祖師であるガスール老人が、腕組みをしたまま厳しい眼差しをグラウンドに向けている。 「良くそのお姿を眼に刻みつけよ! あの方こそ、かつてルッテンベルクの獅子と畏れられたる御方」 ウェラー卿コンラート閣下その人じゃ! シュルツローブとスールヴァンの2つの道場の人々の内、ガスール、フェル、トーランを除く全員が、愕然と顎を落とし、目を剥き、その言葉を発した老人を凝視した。 「……そん、そん、な、ばか、な……」 エイザムが戦慄く様にその声を漏らした。周囲の人々も、与えられた情報がどうしても脳に沁み込まないのか、呆然としたまま一切の動きを止めている。 だがやがて、老人に向けられていた彼らのその首は、怖々と、そして音を立てるようにぎくしゃくと、ゆっくり動き始めた。 その視線の行く先は、仕切り壁に凭れる様に立つユーリと村田だ。 やれやれと額に手をやるアーダルベルト、さあいよいよですかー? という顔のヨザック、これからどうなるんでしょうという顔を揃えたエドアルド達年少組の背後から、たくさんの、ほとんど恐怖の色に染められた強烈な視線がユーリと村田に向かってくる。 「……えへへ……」 思わず頭を掻きながら、照れ笑いを浮かべてしまうユーリ。とりあえず笑っておくのは日本人の性だ。 その時。 「陛下!」 凛とした張りのある声が人々の耳を打った。観客席がまたまた一気に沈静化する。と、同時に、あらたな驚愕がそこに集う人々を襲った。 声の主、ヒルダの顔は貴賓席とは全く違う方向を向いている。 「カクノシン」として知っていた人物、そして今彼女の口から「ウェラー卿」と呼ばれた青年が向いているのと同じ方向、そしてたった今、「カクノシン」に向けて声を放った、まさしくその少年に向かって貴い称号を口にしたのだ。 それが理解できた瞬間、人々がざわりと揺れた。 「ヒルダ殿!」 慌てるコンラートに、悪戯っぽく笑いかけ、それからヒルダは再度ユーリに向かって大きく口を開いた。 「陛下! 我等の思い、ご理解頂けました事、心より感謝申し上げます! 陛下のご温情、光栄の至り! この上は、我ら両名、眞魔国の歴史に残る試合をご覧に入れましょう! 陛下、猊下! 貴き御方々よ、我らの戦い、何とぞご照覧あれ!」 ヒルダにしっかり顔を向けられて。高らかに宣告されて。ユーリと村田は顔を見合わせた。 「まあ……ここまできたら、僕達だけこのまんまって訳にはいかないよね」 村田が肩を竦め、苦笑して言った。 「……だよな」 そろっと背後の観客席に目をやれば、エイザムが、ガスリーが、クレアが、ルイザが、ヴァンセルが、そしてお菓子の籠を抱えたままのロルカおばさんやお茶の道具を抱えたおじさんが、やはり凍りついたようにその場に立ち尽くしている。 よくよく見れば、ロルカおばさんの身体は小刻みに揺れて、いや、がくがくと震えて、籠に盛ったお菓子が今にも零れ落ちそうだ。 全員が、視線は向けたものの、開いた口からどんな言葉も発せられなかった。誰もが、今これ以上のことを考えられない、考えたら、何か口にしたら、とんでもない結果を招いてしまう、そうなれば、自分たちはもう耐え切れない、そんな思いを全身からありありと溢れさせて固まっている。ちょっとつついたら、彫像が倒れる様にバタンと倒れて粉々になりそうだ。 そしてそんな目でユーリ達を見つめているのは、2つの道場の顔見知り達ばかりではなかったりする。 彼らの周囲、彼らを護る兵士達の壁の外側にたまたま陣取っていた人々が、ヒルダの視線を追って、ユーリと村田の存在に気づいてしまったのだ。 人々はほとんどが立ち上がり、兵士たちの壁から身を乗り出し、つま先だって、ユーリと村田を懸命に覗き見ている。 「いずれ道場の皆には、ちゃんとするつもりだったけど……」 まさかこれだけたくさんの人がいる観客席で、とは予想してなかった。 でも仕方がない。 ユーリと村田は顔を見合わせて頷きあった。 息が詰まるような緊張感に静まり返る観客席で、ユーリと村田はまずコンタクトレンズを外した。 素早く側にやってきたヨザックが、スッと2人に手を差し出してレンズを受け取る。 それからまた2人、今は漆黒の煌きを宿した瞳を合わせ、一緒に鬘に手を掛けた。 2人の赤茶色と金髪の鬘が、頭から滑るように離れる。 漆黒の髪が現れた。 人々が息を呑む。 ユーリと村田は見合わせていた顔を、ゆっくり観客席に向けた。 突如その姿を現した2人の美貌の双黒に、人々の驚愕の表情がさらに泣きそうに歪んだ。 「騙すようなことをしてしまって、ごめんなさい。おれ、ユーリです。えーと、ご覧の通りの魔王です。こっちはおれの相棒の大賢者で、村田健です」 改めまして、こんにちは。 そう言って、ユーリと村田はぺこりと頭を下げた。 呆然と突っ立つ人々は、全く反応できない。 「本当はそんなつもりじゃなかったんだけど」 眉を八の字に落とし、小首を傾げ、ちょっと困ったような微笑を浮かべてユーリが続ける。それを目の当たりにしてしまった何人かの人々が、ガクガクと痙攣するように身体を震わせた。 「結果的にあなた達の親切や信頼を裏切るようなことをしてしまいました。本当にごめんなさい。でもおれ、おれ達、あなた方と一緒に過ごせてとっても楽しかったんです。あなた方と過ごしたこの日々は、グランツの素晴らしい思い出です」 ありがとうございます。 ユーリと村田が、再びぺこりと頭を下げる。 やっぱり誰も反応できない。 だがそこで。 「陛下」 そう言いながら立ち上がったのは、ガスール老人だった。 ゆっくり立ち上がり、棒の様に突っ立っているエイザム達を押し退けるように階段通路に出てくると、ゆっくりと段を下り始めた。ガスール老の後には、供をするようにフェルとトーランがつき従う。席では、口をパクパクさせたルイザが彼らの背中を見送っている。 彼らは間もなくユーリと村田の前に立つと、徐に観覧席の床に膝をつき、頭を垂れた。 「陛下の慈しみ深きお言葉、まこと恐悦至極に存知奉りまする」 3名が改めて深く頭を下げた。 「グランツの道場の有り様を知りたいと思し召されたこと、この地にて武人としての修行を致してまいりました我らには、まこと光栄の至り。感謝の言葉は、我らこそが申し上げねばなりませぬ。陛下、まことに、まことにありがとうござりました……!」 深々と頭を下げる3名の武人の姿に、ユーリは笑みを浮かべて頷いた。 「ありがとう、お爺さん。…いえ、スールヴァン・ガスール、眞魔国の誇る英雄の1人、疾風ガスール殿」 陛下だ! 兵士達の壁の向こう、身を乗り出していた観客の1人が声を上げた。 陛下だ! 陛下がすぐそこにおいでになるぞ! お顔が見える! お姿がすぐそこに! 笑っておられるぞ! 見える! 見えた! 信じられない、こんな近くで! ああ、何とお美しい…! 驚きと歓喜に溢れた叫びが次々に上がりだす。 陛下! 陛下!! 魔王陛下の姿を目にすることができた者もできない者も、一斉に声を上げ始める。 だが一気に観覧席を席巻するかに思えたその叫びは、ふいに静まった。 ほっそりとした腕が、何かを指し示すように伸ばされている。 ユーリの腕だ。 それは民の歓呼の声に応える様に振られるでもなく、ただ柔らかく天に向かって伸ばされていた。 ほとんどの民にとって目の遥か下方で上げられた手は、支配的でも威圧的でもなく、子供が教師に質問するときの様に無心で無邪気な仕草に他ならなかった。言葉にするなら、「ちょっと待ってね?」だ。 だがしかし、それを目にした瞬間、理性を飛ばしかけた民の叫びは治まったのだ。 「……何、たること、だ……!」 ふいに響いた声は、出ないものを無理矢理押し出したような、ある種苦痛に満ちていた。 ユーリ達の視線が声の主に集まる。 呆然と突っ立っていた人々の中で、シュルツローブ道場の主であるエイザムが、顔も声も引き攣らせながら口を戦慄かせている。 「へいか……魔王陛下……あの、少年が、彼が……魔王陛下、と、ウェラー卿……!」 何たることだ! 再び呻くと、エイザムな何かに突き動かされるように門弟たちを押し退け、転がるように階段を降りてきた。 「無礼を、我等の無礼を! なっ、何とぞお許し下さいませ…っ!!」 悲鳴の様にそれだけ言うと、ガスール達すら押し退けるように(おそらくパニックのあまり師匠の姿が目に入っていないのだろう)ユーリの前に手を突くと、額を床に叩きつけるように頭を下げた。 道場主のその姿にようやく他の人々も事態を悟ったのか、水鳥が飛び立つ時の様にバタバタと、慌てふためいて飛び出してきては膝を折った。ガスリーはエイザムのすぐ後まで飛んできて、水に飛び込むように身体を投げ出してきた。 「知らなかったで済まされることではございませぬ! ああ、何たる無礼を、私は…!! お許しを、陛下! 全てはこの私1人の責任にて、何とぞ罰はこの私………っ!?」 必死で言葉を繰り出していたエイザムが、ハッと顔を上げる。 信じられないことに、本当にあり得ないことに、目の前に、漆黒の瞳がある。そして冷たく汚れた床についた己の手には……。 「エイザム先生」 エイザムは己の両手が少年の掌に包まれているのを見た。 「罰なんて、責任なんて、そんなことを言うの止めてください。おれ、言ったでしょう? ほんの数日だけど、おれ、本当に楽しかったんです。グランツに来て、ただ試合を観るだけなんてつまらないって思いました。初めて訪れたこの街を知りたかったし、『武門のグランツ』を支える道場がどんなものなのか、グランツの武人がどういう人達なのか、知りたいと思いました。だからガスールお爺ちゃんのいるスールヴァン道場に行ったし、スールヴァンと並んでグランツを代表するシュルツローブ道場にも行きました」 本当はちょっと違うが、この際細かいこと(たぶん…)は良いだろう。 「ガスールお爺ちゃんが一目で『カクノシン』がコンラッド…ウェラー卿だってことを見抜いちゃったんで、そちらに伺うときは変装していきました。正直、見学だけのつもりが、入門って事になって試合に出ることになった時はびっくりしたけど……」 エイザムと、その背後に畏まるガスリーの、真っ赤になった顔にダラダラと汗が流れる。 「でも、ウェラー卿の戦いぶりを観られるから、それもとっても嬉しかったし。ホントですよ?」 エイザムの手をポンポンと叩き、それから赤くなったり青くなったり忙しい表情のガスリーに笑いかける。ガスリーの顔からまたどっと汗が吹き出した。 それからふとユーリは表情を変えると、スッと立ち上がった。 エイザム達、そしてガスール達の視線が追う。 「でもそれよりも」 言って、ユーリはゆっくりと、彼らのずっと後で畏れ慄いている人々に歩み寄った。 ユーリの前には、ルイザやヴァンセル達スールヴァン道場と、フィセルやイシル、バッサ達シュルツローブ道場の門人達や関係者、クレアにロルカおばさん、おじさん達、『ミツエモン』に温かく接してくれた人々が、できることなら穴を掘って身を隠したい風情でひれ伏している。 「あんなに親切にしてくれて、心配もしてくれたあなた方を騙すようなことになってしまって、申し訳ないって思ってました。どうか許して下さい」 滅相もございませんです…! 誰かが震える声で言う。 でも、おれ。ユーリは彼らを見つめながら続けて言った。 「あなた方と過ごした時間、厨房や洗濯物の片づけを手伝っている時も、掃除をしている時も、それから皆でお茶を飲みながらお喋りしている時も、本当に楽しかったんです。……ルイザさん」 「…っ、はっ、はいっ、陛下…! あっ、あの…っ!」 「ごめんね? ルイザさん」 ユーリにいきなり謝られて、ルイザが目を瞠る。 「先ず最初に、あなたに謝らないとならないです。嘘ついてごめんなさい。エド君達を怒らないでね? 皆、おれの希望を叶えようとしてくれただけだから。あ、それからお爺ちゃんとフェルさん達も。おれのことを知ってる人は少ない方が良いって判断してくれたんだ。決して貴女を蔑ろにしたわけじゃないですから」 「あっ、あの…!」 思わず、といった様子でルイザが顔を上げた。目に必死な思いが漲っている。 「お爺ちゃん達を責めたりなんか……! あ、あのっ、私っ、短気だし、すぐにその……っ、申し訳ありませんっ! 兄の言う通りでした。私、本当に何も分っていなかった…! 私ったら、調子に乗ってあんな……!」 「ルイザさんがおれに謝ることなんかないです。それから、クレアさん?」 名前を呼ばれて、クレアがそれでも気丈に「はいっ」と応える。 「親切にして下さって、ありがとうございました! 先生達を助けて、道場の家事を取り仕切ってる姿はとっても頼もしかったです。大事なことも教えてもらったし」 「……大事な、こと……?」 思わず顔を上げるクレアに、ユーリが「うん」と頷きかける。だがそれ以上言わずに、ユーリは顔を今度はロルカおばさんに向けた。 「ロルカおばさん、それにおじさんも」 名前を呼ばれて、這い蹲るような姿勢でいたロルカおばさんと厨房のおじさんは、揃って1度ふるりと身体を震わせると、小さく返事をした。「はい」と言えずに、ほとんど「ひぃっ」という小さな悲鳴だったけれど。 「おばさんの焼き菓子、とっても美味しかった。……これ、貰っていい?」 ロルカおばさんの膝元に置かれた籠に手を伸ばし、まだ残っていた焼き菓子を手にした。 一口齧って、「うん、やっぱり美味しい」と笑顔を見せれば、「もったいない…!」とロルカおばさんが涙混じりの声を上げる。 「知らぬこととはいえ、わしら、本当に何というご無礼を……」 「もう謝らないでよ」 おれ、誰にも謝ってもらいたくなんかない。 きっぱりとしたユーリの言葉に、全員が顔を上げた。 「謝るのはおれの方で、あなた達じゃない。おれはあなた方に心から感謝してます。何度も言っただろ? おれ、楽しかったって。『ミツエモン』と『ケンシロウ』と『カクノシン』と『スケサブロウ』は、魔王でもなければ大賢者でも、そのお供でもない。ここであなた方と出合って、あなた方と楽しい日々を過ごしたただの魔族です。どうかそれを理解して、もう畏まるのはやめて下さい。ね? 皆、お願い、起きて、一緒に試合を観ましょう。……ねえ、フィセルさん、ウェラー卿と正真正銘本物のヒルダ様との勝負、観たくないの?」 名指しされたフィセルが、一旦恐れ入ったように「ははーっ」と頭をぐりぐり床に擦りつけてから、突如何かに気付いた様にきょとんと顔を上げた。 「………本物の……ヒルダ様……?」 フィセルの言葉に同調するように、エイザム達門人一同、そして魔王陛下のお声を聞こうと耳を澄ませていた人々が、怪訝な表情と声を上げ、ユーリを見つめた。 「さーて!」 その時ようやく。 待ちに待ったというか、少々待ちくたびれた様子の声が響いた。村田だ。 「そろそろ良いかな、君達? …ったく、延々終わんないんじゃないかってハラハラしたよ。こんな調子じゃいつまで経っても世紀の試合が行われないじゃないか。……お待たせしまして、すみませーん、ヒルダ様!!」 いきなりグラウンドに向いたかと思うと、村田が手でメガホンを作って、大きな声で怒鳴った。 「イロイロ踏まなきゃならない手順がありましてーっ! そろそろ良いですんで、ガンガンやっちゃって下さーい! せーっかく薬で若返ったのに、時間が無駄になるともったいないですもんねー、フォングランツ卿ヒルデガルド殿! 偉大なるグランツのご隠居様!!」 「くっ、薬で若返ったーっ!!?」 素っ頓狂な声、というか絶叫が、そこかしこから一斉に上がった。 「猊下!!」 闘技場のグラウンドから、ヒルダらしからぬ焦った声が返ってきた。 それが面白かったのか、村田がニヤッと笑う。 「僕達の正体バラしておいて、自分は通りすがりを装おうなんてちょっとズルイですよ? でしょう、ヒルダ様? それに、ウェラー卿だって、ご隠居様の偽者なんかじゃなく、ヒルダ様、あなた自身と存分に戦いたいと思っているはずです」 グラウンド上で、ヒルダが大きく息を吸った。 しかしさすがに武勇では誰にも引けを取らないヒルダ。それだけで即座に気持ちを切り替えたらしい。 やはりニヤリと笑うと、腰に手を当て、堂々とふんぞり返った。 「確かに猊下の仰せの通り! 私も堂々、フォングランツ卿ヒルデガルドとしてウェラー卿と剣を交わそう!」 「…ま、まさか、では、あの方は本当に……!? まさか……」 思わずふらりと立ち上がり、エイザムが呻いた。 「あのお方は紛れもない本物のヒルダ様じゃ!」 そこに響いたガスール老人の、ずんと重い言葉に、全員の視線が集まった。 「幼き頃よりお仕えした、このスールヴァン・ガスールが言うのじゃ! さあ、いつまでもぐずぐず言うて陛下のお心を煩わせるでない! お前達の詮無い繰言など、陛下も猊下もお望みではないわ! さっさと席について、試合を観せて頂くのじゃ! 陛下も仰せの通り、ウェラー卿とヒルダご隠居の真剣勝負など、観たいと思うて観られるものではないぞ! ここにこうしておられるは、まさしく武人の誉れ。とっとと席に戻れ、未熟者共!!」 これまたグランツの歴史に名を残すガスール老人に喝を入れられ、エイザムやガスリー、ルイザやヴァンセルなど道場の人々はもちろん、クレアやロルカおばさん、そして兵士の壁を乗り越えんばかりに身を乗り出していた観客一同も、一斉に席に戻った。 「ほら、渋谷」村田がユーリを呼び寄せる。「締めと、それから新たな始まりは、やっぱり君が仕切らないと。だろ? 王様」 「おう」 どうしろってんだと言い返すこともなく、ユーリは村田に笑い掛けると、仕切り壁の上に片手を置き、背伸びをするようにぐるりと観客席を見回した。 それから、両手を高く伸ばし、民に向けて大きく手を振り始めた。 「皆さん! 驚かせてごめんなさい!」 あまりの成り行きに、息を詰めて事態を見守っていた者、訳が分からず呆然としていた者、興奮してはしゃぎまわっていた者、それぞれが「おお…っ」と安堵の、そして更なる興奮の声を漏らした。そしてその一声は、「陛下! 陛下!!」という、ユーリを呼ぶ歓呼の声に進化していった。 偶然ユーリ達の近くに陣取ることのできた民達は、己の幸運に感動の涙すら流しながら懸命に身を乗り出し、叫び、そして手を振っている。子供を連れた親は魔王陛下の視線が我が子に向くことを期待して、幼子ほど高く高く差し上げている。ほら、坊や、陛下に手を振って。陛下って、お呼びして。もし陛下が我が子に手を振って下されば、どれほどの祝福となることか! ユーリが一旦下ろした手を、再度、今度は振り回すことなくスッと上に上げた。 またも一気に人々が静まる。静まると同時に、期待を籠めた沈黙が、波が押し寄せる様に観客席を覆った。 「あんな高い塔の上にいたんじゃ全然見えないし、何より皆さんと一緒に試合を楽しみたくて、こっそりこちらに下りてきてました!」 観客席の民達から、わあっと一斉に拍手が湧き起こった。奢りのない魔王陛下のお言葉と態度が嬉しい。それで本当に自分達と同じ場所に下りてきてくれたその事実がしみじみと嬉しい。 「でも、おれのために、フォングランツの皆さん、兵士の皆さん、それからスールヴァン道場とシュルツローブ道場の皆さんには、とってもお世話をお掛けしてしまいました。皆さん、ご協力ありがとうございます!」 ユーリが観客席に控える兵士や道場の人々に向けてそう言うと、人々からまたも温かい拍手と歓声が湧き起こった。同胞であるグランツの民が魔王陛下のお役に立ったこと、そして彼らに陛下が感謝を示してくれたことを、素直に喜んでいるのだ。 ユーリの言葉を受けて、エドアルド達フォングランツの若者達がザッと立ち上がり、エドアルドは敬礼を、他の者達は胸に手を当てて腰を折った。ほとんど同時に、壁となってユーリ達を護る兵士も一斉に敬礼をする。そしてまたガスール老人始め、ようやく冷静さを取り戻した道場の武人や関係者達も立ち上がり、ピンと背筋を伸ばしてから深々と頭を下げた。 一層高まった拍手と歓声に、盛大な苦笑を浮かべたアーダルベルトがやれやれと頭を掻いている。 「おれのわがままで、コン…っとと、ウェラー卿に変装してもらい、シュルツローブ道場のエイザム先生にご協力頂いて門人として参加させてもらいました。そして今、ウェラー卿と、グランツの皆さんの誇りであるヒルダ様の試合が開催されようとしています。この試合を、皆さんと一緒に観戦できることを、おれは心から光栄に思っています! 皆さんもどうか、記念すべき大会の最後の試合を、存分に楽しんで下さい! そしてウェラー卿、ヒルダ様!」 ユーリの、王としての顔が2人の武人に向く。 コンラートとヒルダが姿勢を正し、胸に手を当て、王の言葉を待つ。 「……ここで、最後まで、しっかりと観ています」 この2人に、多くの言葉を費やす必要はない。何をすべきか、彼らが誰より分かっている。 「新たに歴史を始めるグランツの民のために、そして眞魔国の全ての武人の夢と誇りと名誉のために。……頑張ってください!」 ここで観ているから。 思いを籠めて、ひたとコンラートを見つめれば、薄く笑みを浮かべた男がコクリと頷く。 ユーリが話し終わると同時に、どうっと会場が湧いた。拍手と歓声が熱い空気を掻き回し、さらに興奮のボルテージを上げていく。 そこでヒルダが深く頭を下げ、それから胸を張って息を吸い込んだ。 ヒルダが魔王陛下のお言葉に応えようとしている。それに気づいた人々はすぐに口を閉じ、ヒルダの言葉を待った。 「ありがたき魔王陛下のお言葉、恐懼の極みに存知奉りまする。この上は陛下のご期待に添うべく、最高の試合を御見せ致しますことをお約束申し上げます。百年、いや千年後の世になろうとも、魔族の歴史において比類なき英雄と讃えられるであろうウェラー卿と剣を交す機会を得た喜びは、かつて武人として生きた我が身にとって、何にも勝る喜びでございます!」 ヒルダに顔を向けられて、コンラートが胸に手を当て、優雅にお辞儀をした。 「ありがとうございます、陛下。そして、フォングランツ卿ヒルデガルド様の過分なお言葉にも感謝申し上げます。そしてお許し頂ければ、同じ言葉をお返し致したく存じます。ヒルダ様、貴女は武人を目指す俺にとって、最も尊敬する武人の中の武人。こうして陛下の御前にて試合うことができる奇跡に浴せたことを、心から栄誉と存じております。魔王陛下、大賢者猊下、そして危険な技を行使してまでこの大会への参加をご決意なされたご隠居様皆様に、衷心より御礼申し上げます」 わあっと歓声─女性の声が異様に高い─が上がり、一際大きな拍手が続く。 だが。 「武門のグランツの名はこの30年、すっかり地に堕ちた」 突然そう断言したヒルダに、盛り上がっていた民の歓声が、戸惑いのざわめきに変わった。 「我らは不遇を理由に武人の本分を忘れた者共に喝を入れるため、あえて自然の摂理に逆らい、この身を得て、大会に参加した。だが今は……1個の武人として、余念の一切を払い、貴公と戦いたい…!」 「光栄です。お手柔らかに、とは申しません。俺も力の限りを尽くしてお相手させて頂きます…!」 「望むところ!」 いざ! もはや「グランツの勇者」の称号も一切関係ない。2人は同時に剣を抜くと向き合った。闘気が一気に燃え上がる。 ウェラー卿コンラートとフォングランツ卿ヒルデガルドの勝負が始まった。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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