グランツの勇者・18


「…………あれ……なに……?」

 もともと大きな目をさらに大きく瞠り、ユーリは誰にともなく言った。
 視線の先に、何だか信じられないものがある。

「だから言っただろう」

 アーダルベルトが答えた。

「あれがヘルベルト爺さんの『天斬剣』だ」

 ベスト4を決定する最後の試合。
 「シュルツローブ道場のカクノシン」とご隠居様の「偽者」の1人、「天斬剣のヘルベルト」の対決。
 今2人は、試合前の挨拶として互いに向かい合っている。
 コンラートが腰に差しているのは、いつも通りの剣一振りだ。だがヘルベルトの剣は……。

「あんなもので闘えるのか? いや……あれを振るのか? 振れるのか!?」

 エドアルドかイヴァンか、若い声が呆然と言った。それはそのままユーリの心の声でもある。
 観覧席に集う人々も、それを目にした瞬間から息を呑んだように静まっている。

「金太郎の鉞(まさかり)、と言いたいところだけれど、ちょっと大きすぎるね。刃の部分だけで身長越えてるじゃないか」

 その通りだった。
 ヘルベルトの手に柄がある。その太い柄が既に異様に長い。その柄だけでヘルベルトの身長の倍を越えている。そしてその先に斧に似た刃がついている。幅広の刃は斧というより鉞と呼ぶべきかもしれない。だがその長大さを考えれば、もはや何と呼べば良いのか誰もが頭を抱えるだろう。
 村田が口にした通り、その八の字に広がる刃の、最も長い刃先の部分はヘルベルトの身長並み、もしかしたらそれ以上ある。ちなみにヘルベルトはコンラートより身長が高い。

「一体どんな鍛冶屋があんなものを鍛えたんだろうね。あれだけの巨大さ、それに見合った厚さ、だけならまだしも、これが斬れ味抜群とくれば……僕はそちらの方にも興味があるなあ」

 腕組みをして、村田がしみじみと言う。確かにこれを鍛えた鍛冶職人はものすごい達人だろう。

 その時、呆然と見つめていた司会進行が、突如己の役目を思い出した様に声を上げた。

「じゅ、準備は…よろしいですか? 本当に? え、あ、ええと………で、では……始め!」

 これがちゃんと試合になるのか不安なのだろう、迷うように、だがついに試合開始を宣言した。


 コンラートとヘルベルトは、距離をとって向かい合っている。
 ヘルベルトからそっと視線を外し、コンラートは腰に差した剣に目をやった。愛用してきた剣は、今日もしっくりと手に馴染むだろう。
 ヘルベルトにとってもそうだろうとコンラートは考えた。
 どれほど奇天烈に見えようと、ヘルベルトにとってもあの武器は、戦場で数多の敵を屠り、彼と彼の同胞を護ってきたものであり、何より慣れ親しんできたものだ。
 非常識に見えるからといって、そこにコンラートとの違いはない。

 ふいにヘルベルトが柄を握る右手を上げた。集う人々が一斉に注視する中、ヘルベルトは自分が手にしている得物を、まるで短剣か何かの様に軽々と振って見せた。重量級という表現すら足りない天斬剣が一振りされれば、風が巻き起こり、勢い良く土埃が舞う。同時に民の「おお!」という、驚きとも呆れともつかない声が上がった。

「久し振りにこれを持った」

 がっしりとした体格、盛り上がった筋肉を隠した赤銅色の肌、ポニーテールに纏められた、豊かにカールする金茶色の髪、大きな碧の知的な煌きを宿した瞳、楽しそうに上がる口角、全体として陽気な偉丈夫という雰囲気の男だ。
 ……精神的には、ヨザックのまた従兄弟のような感じか。
 ふと思いついて、コンラートは笑みを浮かべた。

「お、笑っているな?」

 頭の上でぐるんぐるんと天斬剣を振り回しながら、それをまるで意識していないかのようにヘルベルトが言う。
 いえ、と答えて、軽々と回る相手の手首を見つめ、それからコンラートはヘルベルトの顔に視線を戻した。

「この大会では、これまでずっと普通の剣をお使いだったのですね」
「うん」ヘルベルトが子供の様に頷く。「あまりに可哀想だからな」
「確かに、そのような剣を目の前で見せられては……」
「相手がじゃない。天斬剣が可哀想なんだ。つまらぬ者相手にこれを使っては、天斬剣が泣く。いや、拗ねる。こいつは結構気難しいんだ」
「……光栄ですと申し上げなくてはなりませんね」
「気にしなくて良い。今の所、お前以上の剣士はいないという話だからな。実際なかなか遣う。うちのアーダルベルトも良く遣う方だと思うのだが、如何せん、あいつは根性が足りん。そこが少々気に入らん」
「……この30年を思えば、ある意味大した根性の持ち主だと思いますが?」
「たった30年ぽっちでか!? 朝、遊びに家を飛び出した子供が、夕食前に腹を空かせて戻ってきたのと大して変わらんじゃないか! あれだけのことをやり抜こうと思うなら、せめて100年は粘らねば!」

 100年もあの男にあれこれ画策されては、こちらが大迷惑だ。
 コンラートは内心ため息をついて、何で俺がと首を捻りつつ反論してみた。

「しかし、グランツの苦難と民の苦労は……」
「俺は今、アーダルベルトの話をしている。グランツの話はまた別のことよ。ところでそろそろ始めんか? 話をするなら、夜にでも酒を呑みながら存分にしよう。もっとも俺は大酒を呑むと、何を話したか朝にはすっかり忘れてしまうがな」
「なるほど……」

 陽気で傲慢。
 似ているようだが、やはり幼馴染とはかなり方向性が違うようだ。
 無意識に苦笑が浮かぶ。
 また笑っているなと楽しそうに言いながら、ヘルベルトが巨大鉞を高々と構える。

 「シュルツローブ道場のカクノシン」と「ご隠居ヘルベルト様の偽者」の試合が始まった。


□□□□□


 ごうん!
 鋭い刃ではなく、肉厚の鉞だからだろうか、それともその巨大さだからだろうか、ヘルベルトの武器が一振りされると、空気が重く鈍く震えて鳴る。

「……うー、何だか振動がお腹に響くぞ」
「楽器でもないのにあれだけの重低音を響かせるんだもんね。天斬剣の重量も相当のものだし、あれを軽々と振り回すヘルベルト殿もものすごい怪力だよ」

 とは言っても。村田が隣に目を向けた。
 隣には、よもや自分が「遊びに出かけて腹を空かせて帰ってきた子供」扱いされているとは夢にも思わないアーダルベルトが、厳しい眼差しで闘技場の2人を見つめている。
「天斬剣を振り回すためには魔力の補助が必要だ。そうだろう? フォングランツ卿」
「たぶんな」

 ちらりと横目で村田に目を遣り、肩を竦めてアーダルベルトが答える。

「だが腕は立つぞ。いくらでかいからといって、剣の腕もなく敵を倒せるわけがないからな。爺さんは1人でかなりの数の敵を相手にして、それをことごとく全滅させてきたという話だし」
「叙事詩では」エドアルドの兄の1人が、後からおずおずと口を挟んできた。「千を越える大隊をお1人で殲滅なされたとありますが」
「『ヘルベルト、天斬剣を一振りすれば、敵1千が首、その刃を飾る』ってあれか? いくらでかいからって、あの刃の上に千人分の首が乗るかよ。そりゃ単なる景気づけだろうが」

 アーダルベルトが呆れた顔で振り返り、言った。

「俺も本人から自慢話を聞かされて育った口だが、そのたんび敵の数が増えてたぜ? 確かに天斬剣は1対1の闘いに使うものじゃない。本来はな。あのでかさだ、一振りで複数の敵を吹っ飛ばすことができる。とはいっても実際のところは……どうだろうな、せいぜい一度の戦いで百かそこら……そんなところだろう。それだって大したもんだ。今の剣と剣の戦じゃ、1人が1日で百の敵を倒すなど絶対あり得ない話だ」
「それはもちろんそうでしょうが……」
「というかさあ、普通人を相手に戦っていたら、刃にすぐ脂が巻いて斬れなくなるものだろう? 100人も続けざまに斬れる? その辺どうなってるのかな。もしできるとしたら、僕はやっぱりあれを鍛えた人を知りたいなあ」

 会話に村田が加わった。アーダルベルトが何か言い返している。

 その会話を右から左へと聞き流し、ユーリは闘技場のコンラートに目を凝らした。

 ……コンラッドは1人であの天斬剣と闘わなきゃならない……。



 ユーリ始め、人々が息を呑んで見つめる中、2人の闘いは続いている。だがそれを「闘い」と呼ぶことに、誰もが首を捻るだろう。
 試合開始の声が掛かってから、剣を奮っているのはヘルベルトだけなのだ。
 コンラートは剣を抜いてさえいない。
 天斬剣はあまりに巨大、そして長大であるためか、あまり人の姿が目立たない。まるで「天斬剣」だけが空気を重く震わせながら縦横無尽に闘技場を駆け回っている、そんな印象がある。
 だが、天斬剣を使いこなしているのは紛れもないヘルベルトであり、彼と天斬剣を相手にして、コンラートは実はずっと逃げ回っているだけだった。
 ウェラー卿コンラートが剣から逃げ回る。
 あり得ない表現だ。
 だが、人々の目にはそう映る。

 天斬剣がぶおんっと音を立て、大きく水平に銀の軌跡を描いた。コンラートが咄嗟に後ろに飛び退る。もしまともに身体で受け止めていれば、胴は真っ二つの位置だ。

「兄貴! 兄貴、頑張れっ! そこっ、危ねぇぞ!」

 何で剣を抜かねぇんだ!
 聞こえてくるのはシュルツローブ道場門人一同の応援の叫び。ほとんど怒声に聞こえるのは、もうすっかりコンラートの弟分を自認しているフィセルだ。
 その声を耳にしながら、村田が「ふん」と息を吐き、背中をとんと座席の背もたれに当てた。

「実に見事な逃げっぷりだ。反撃する気配さえ見えない」
「逃げてんじゃない!」ユーリが咄嗟に怒鳴った。「コンラッドは避けてるだけだ! あんなのとまともに闘えるわけねーんだから!」
「その通りだ」

 頷いたのはアーダルベルトだ。

「天斬剣がその名を持つのは、単にでかいってだけじゃねえ。切れ味が並みじゃないんだ。そう言やぁ、人間たちが魔族の攻撃を防ぐために造営した壁、確か前後を鉄の板で覆った分厚い石壁だったそうだが、それを野菜でも切るみたいに簡単に、一撃で切り崩したって話も残ってるな。鉄板と巨大な石の切り口は、そりゃあ滑らかだったらしいぜ? ちなみにこれは話半分の伝承じゃない。その石壁は長いことそのままにされてて、多くの魔族や人間たちが見物に訪れて記録しているからな」
「それはまあ、大したものだけどね」

 村田が軽く肩を竦めて言った。

「このまま天斬剣から逃げ回っていても勝負はつかないだろう? もっとも、あのウェラー卿が考えもなしに刃から逃げ回るとは思いたくないけれど……」
「当たり前だろ!」

 視線をグラウンドに向けたまま、ムッとした口調で返して、ユーリはさらに身を乗り出した。
 ヘルベルトは闘技場のグラウンドを踊るように飛び回り、天斬剣は人々の熱気が溢れる大気を斬り裂き斬り裂き斬り裂き続ける。素早くマントを翻し、剣の巨大な切っ先から身を躱す姿はものすごく、そう、軽やかで、華麗で、カッコ良い!  とはいえ……。
 悔しいけれど。ユーリは思った。
 歯噛みしたくなるほど悔しいけれど、それでも、コンラッドが反撃1つできないまま逃げ回っている、というのも事実だ。今、現実に目の前で展開している間違い様のない現状だ。
 どんなにその動きが、ユーリにはとても真似できないほどキマっていたとしても……。

「………あれ?」

 ふと、ユーリの口から妙な声が漏れた。

「渋谷?」

 村田がどうしたと尋ねてくる。

「……う、うん。……何か、その………変な、っていうか、コンラッドが何か……あ、じゃない、コンラッドの何か、が……変わってきた、ような……」
「変わった? ウェラー卿がかい?」

 村田の質問に、ユーリが自信なさ気に首を傾けた。


□□□□□


「何じゃ、あの男、逃げておるだけではないか。えい、口ほどにもない」

 マリーアが扇を揺らしながら詰まらなそうに言った。

 貴賓塔の露台である。
 そこに、対戦中のヘルベルトを除く6人が集まって、闘技場を見下ろしていた。
 露台の縁に肘をつき、ヒルダは無言でじっと試合を見つめている。

「……逃げ回る……」

 やがて、ヒルダの口から小さく声が発せられた。

「ウェラー卿コンラートが刃から逃げる、か……」
「だがヒルダ。私には、彼が何かを待っているようにも思えるのだがね?」

 そう言ったのはエーリッヒだ。ドラキュラ伯爵を連想させる痩身に、アルカイックな笑みを浮かべてどこか楽しそうに目を細めている。

「……ああ……確かに」ヒルダが大分間を置いてから頷いた。「ようやく変わってきた」
「変わってきた? どういうことじゃ? ヒルダ?」

 マリーア始め、他の者もヒルダの側に寄ってくる。

「あの男の気が、細くなってきた」

 ヒルダが何かを期待するように、「ふふ」と小さく含み笑いを漏らす。

「細く……」エーリッヒが呟き、それからヒルダの顔を覗き見た。「それはつまり……」

「精神が集中している、ということさ」
「天斬剣から避けるためではないのかえ?」
「いいや」マリーアの質問にヒルダが首を振る。「それなら最初からやっている。あの男、天斬剣を避けながら、ずっと別のことのために精神を集中していたのだ。今はもう、剣を避けることに意識を向けていない」
「無意識で避けているというのか!?」

 あの天斬剣をか!? ヴィクトルがまさかという声を上げる。

「そうだ。剣から逃げ回って見えるのは、あの男が精神を集中するための時間稼ぎだ。……大したものだな。あれだけ激しく動きながら、ああも見事に気を絞ることができるとは」

 あの男と早く闘いたい。

 舌なめずりするように呟くヒルダの声を耳にして、エーリッヒがくすりと笑った。

「まるで、ウェラー卿と早く床を共にしたいと言っているようだぞ?」
「私にとってはどちらも似たようなものさ。もっとも、寝てみるならもう1人も捨てがたいがな」

 くすくすと、心底楽しそうにヒルダが笑った。


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「ウェラー卿の何が変わったと思うんだい? 渋谷」

 村田に問われて、「分らない」とユーリは首を振った。

「全然分らないけど何となく……オーラの色が変わった、みたいな……」
「オーラねえ……」
「いや、小僧の言う通りだ」

 アーダルベルトも難しい声で続ける。

「オーラが変わったって?」
「おーら? 何だ、それは。そんな訳の分らんものじゃない」
「では何なのです!? アーダルベルト殿!」

 後からエドアルドが急かすように声を荒げた。そこへ。

「隊長の気が、一気に高まってきましたねー」

「ヨザック!」

 興奮し、立ち上がる人々を掻き分ける様に、ヨザックがようやくユーリ達の元に戻ってきた。

「遅くなりました〜。負けたもんでやっと戻ってこれたんですが……。いやもう、ここまでくるのにとんでもなく手間取っちまって」
「揉みくちゃにされたんだろう? 衆人環視のあの場所で、あーんなコトやって、あれだけ目立ったんだからね」

 そっぽを向かれたまま村田に言われて、ヨザックがドキリとしたように胸を押さえた。

「あ、あはは……あー……えーと……」
「グリエちゃん、とにかく座ってよ。コンラッドの気がどうなってるって!?」

 ユーリの声に救われたように、ヨザックが急いで席に着く。

「隊長、集中してますよー。もう天斬剣が向かってくることなんか気にしてないですね、アレは。とにかく今は集中を高めて、その一瞬を待つ。そんなとこですね」
「その、一瞬……?」

 はい、とヨザックが頷いた。

「その一瞬で、全部決まります」


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「逃げ回っているだけでは、俺には勝てんぞ!?」

 陽気に、そして豪快に言ってヘルベルトは天斬剣を振り上げた。
 コンラートは何も答えない。答えないまま、ただじっとヘルベルトを見つめている。いや、ヘルベルトと天斬剣の形をした「気」の動きを、ただじっと見つめている。コンラートの目の奥、武人として培ってきた感覚の全てでもって。

「剣聖と呼ばれるほどの男の剣捌き。俺にも見せてくれんか? それが楽しみだったのだからな!」

 言うが早いか、振り上げた天斬剣を袈裟懸けに振り下ろした。
 巨大な鉞状の剣が、鈍い銀の残像をわずかに残し、宙を素早く切り裂く。
 常人であれば、驚きと恐怖に目を瞠る時間すらなかっただろう。だがコンラートは滑るように後方に、ほんの半歩だけ下がってそれを避けた。
 鼻先を刃が通り過ぎるが、コンラートの表情に変化はない。


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「…い、今のはギリギリでしたね……」

 エドアルドが「危なかった」と呟いた。

「いや、違うね」

 背後から聞こえた少年の声に、村田が答える。

「猊下?」
「村田?」

 エドアルドとユーリの声が重なる。

「ギリギリでやっと避けたんじゃない。見切ったんだ。だろ? ヨザック」
「はい。猊下の仰せの通りです」ヨザックが頷く。「天斬剣を避けるために必要な、最小限の動きってことです。あれだけ動けば確実に避けられるってのを、つまり見切って動いてるわけです。……気がどんどん絞られてます。ものすごい集中ですよ……。そろそろです」

 その言葉に思わず喉を鳴らし、ユーリは急いで視線をグラウンドに戻した。闘技場では、ヘルベルトの天斬剣が、まるで重量がないかのように軽々と宙を舞っている。そしてその刃の向かう先に立つコンラートが、最初の頃に比べれば格段に小さな動きでそれを次々に避けていた。

 突如、ザッと音を立てて、コンラートとヘルベルトの2人が同時に後ろに飛び退った。
 そしてお互いに何かに耳を澄ます様に、腰を落とした体勢のまま向き合っている。

「……ヘルベルト爺さんだって、並大抵の腕じゃあない」

 アーダルベルトが声を低めて言った。

「ここに居たって分かるんだ。闘ってる爺さんが何も感じてないはずはねえ。コンラートが何かを狙っていることも、もう分かっているだろう」

 さあ、どうする?
 誰にともなくアーダルベルトが問い掛けた。


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「………このままでは埒があかないようだな」
「……………」

 天斬剣を構えたままヘルベルトが言うが、コンラートは無表情のまま何も答えない。

「なんだ、剣だけでなく、声も出し惜しみか?」

 くくっとヘルベルトが笑った。

「俺はこの天斬剣を相棒にして以来、ただの1度も敵と剣を交わしたことがない。俺の天斬剣を受け止めることができた奴は、今まで1人もいなかった。まあ、当然だが。しかし、お前ならと期待したのだが……やはり無理だったか」

 残念だなあ。鷹揚に、言葉の割には明るく、ヘルベルトが胸を張る。やはり自分は1番だ、天斬剣は無敵だと、全身で宣言している。

 ヘルベルトは天斬剣をゆっくり大きく振りかぶった。

「見事な逃げっぷりだったが、ここまでにしよう。あまりちょこまか逃げ回る姿ばかり見せ付けては、いずれお前の名にも係わるだろう。何といっても貴きお方がご観覧なされておられるのだからな。……『シュルツローブ道場のカクノシン』とやらの名、俺がここで」

 とどめを刺してやろう。

 ずいっと、ヘルベルトが足を前に踏み出した。


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「……コンラッドの……周りの空気が……」

 ユーリが小さく呟く。自分が呟いていることにも気づいていないのかもしれない。ユーリの大きな目は瞬きも忘れた様にグラウンドを見つめている。
 村田も、アーダルベルトも、ヨザックも、そしてエドアルド達も兵士達も同じだ。席を埋める観客達もまた、高まる緊張感を肌で感じているのか、息を呑み、じっと身を固くして、一瞬足りともその「結末」から目を離さぬようにと瞳を凝らしている。
 音が消えた。人のざわめきはもちろん、喉を鳴らす音、呼吸音すらも。
 わずかでも音を立てれば、何か重大な過ちを犯してしまうと知っているかのように。

 ユーリの目に、そこにないはずの何かが映った。ような気がした。
 捩りあわされ、細く細く練り上げられた、何か。

 ヘルベルトが1歩、大きく前に踏み出す。
 コンラートは中腰に構えている。
 ヘルベルトの天斬剣が、天空に煌く陽を受け、光を放つ。

「うおおおお……っ!!」

 ヘルベルトの雄叫びが闘技場そのものを、そして人々を圧倒する。

「コンラッド…っ!」

 天斬剣が、頭上遥か高い位置から、コンラートに向かい一気に振り下ろされる。
 コンラートを取り巻く「オーラ」が燃え上がる。ユーリはそれを見た。

 天斬剣が脳天を直撃する、その直前、コンラートがしなやかに後に下がった。と、同時に、腰をぐっと落とし、剣を無音の、だが裂帛の気合と共に抜いた……!

 音とも、衝撃ともつかないものが、大気と人々の鼓膜を振るわせ、そして消えた。

 ゴクリと、そこでようやくユーリの喉が鳴った。声を上げたわけでもないのに、なぜかひりついた喉が痛む。
 シンと静まり返ったグラウンドでは、天斬剣を垂直に振り下ろしたヘルベルトと、それと交差するように剣を横薙ぎに払ったコンラートが、その最後の体勢のまま対峙していた。

 やがて、ぐ、と顎を引いたヘルベルトが、振り下ろした天斬剣を持ち上げようとした。
 その時、天斬剣の刃に光が走った。
 光は、男の身長よりも長大にして肉厚な鉞の刃のほぼ中ほど、刃先から柄の辺りまで流れるように走ると、最後にきらりと煌いて消えた。
 消えた瞬間。

 天斬剣の刃、その下半分が、中央から分離するように、闘技場グラウンドの大地に落ちた。

「あ……」

 ヘルベルトの目が、これ以上ないほど見開かれる。
 あり得ないものを見た。見たものが信じられない。ぽかりと開いた口と、見開かれた目が、雄弁にその思いを語っている。

 おぉぉぉぉ……。
 それまで止まっていた人々の呼吸が一斉に再開する。その音が、感嘆符と共に闘技場に溢れた。

「へえ」村田が目を輝かせる。「居合いかあ。なかなか良い呼吸だったね。……彼も時代劇専門チャンネルを観たのかな?」

 どこか満足そうに微笑む村田の隣で、アーダルベルトが愕然と唇を戦慄かせていた。

「………ぶった斬り、やがった……。天斬剣を……!」

 呆然とした口調でアーダルベルトが言う。

「あれを…まさか……! あの野郎……っ!」

 武人として思うところがあるのだろう、アーダルベルトが拳を膝に打ち付けて呻いた。そしてすぐ、突如何かに気付いた様に顔を上げた。

「あれは……本物なんだぞ……? 眞魔国の、魔族の歴史に燦然と……国の、我ら種族の宝だぞ! それを……!」
「正式の試合に、持ち主が自らの意思で持ち込んで使用したんだ。その結果だよ?」

 村田が軽く肩を竦めて平然と言った。

「ウェラー卿に、何一つとして非難される謂れはない」

 そりゃ理屈はそうだろうが…! 言い返すが、すぐに諦めたのか、アーダルベルトの口から深々とため息が漏れた。

 グラウンドで、ヘルベルトはようやく愛剣に起きたことを認めることができたのか、刃の切り口を撫でるようにしながらじっと見つめている。その正面で、コンラートはすでに剣を鞘に納めていた。

「……コンラッド、もう試合が終わっちゃったみたいにしてるけど……。危なくないのかな? だって半分になったって、あんなにでっかいんだぞ? 闘おうと思ったら、どれだけだって……」
「試合は終わったよ、渋谷」
「でも、村田…」
「天斬剣はウェラー卿の一撃で折られた、というか、斬り落とされた。ウェラー卿の剣に敗れたんだ。あれはもう天斬剣じゃない。少なくともヘルベルト殿にとってはね。それは誰よりヘルベルト殿が分かっている」

 そう言い切った村田の顔をじっと見つめてから、ユーリはグラウンドに視線を戻した。

 グラウンドでは、半分にされてしまった天斬剣を、つくづくと眺めていたヘルベルトが、ようやく顔を上げ、コンラートを見た。

「……やってくれたなあ……。見せて欲しいと思ったし、剣を交わしてみたいとも言ったが、よもや……」

 手の中に残った柄を持ち上げ、あらためて半分─それでも剣より長く、斧や鉞より鋭い刃はどっしりと重い─になった天斬剣の名残を掲げた。

「……よもや、こいつを斬る腕を持っていたとはな……。あまりに意外というか、想像もできなかった。だから……」

 怒る気にも嘆く気にもなれんわ。

 どこか可笑しそうに言うと、ふんと鼻を鳴らして天を仰いだ。そして大きく口を開いた。

「参った!」

 高らかに宣言すると、ヘルベルトはくるっと踵を返し、そのまた大股で闘技場を去って行った。

「……しょ、しょうしゃ……勝者! シュルツローブ道場、カクノシン選手!!」

 うおおお! 
 ヘルベルトの姿が消えた瞬間、人々が一斉に立ち上がり、腕を振り上げ、足を鳴らし、歓喜と祝福の叫びをコンラートに向けた。

 胸に溢れるものを「はーっ」と吐き出すと、ユーリはお尻をぽとんと席に落とした。
 とたん、上半身を折るようにして、ユーリが掌に顔を埋めた。

「……勝った…。コンラッドが勝ったぁ……!」

 嬉しくて、本当なら飛び回りたいのだが、何だか一気に身体から力が抜けてしまった。ふわぁ〜と空気が抜けるような声を上げるユーリの背中を、親友の手がぽんぽんと叩く。

「閣下……お見事です…!」

 ふいにユーリ達の背後から、喉が詰まったような声が聞こえてきた。振り返るまでもなくエドアルドのものだと分る。

「天をも斬り裂くと言われたあの剣を……一撃で……! 気を練り上げるとはこういうことだったのですね! 感動です、閣下! 僕は、僕は!」

 一生、閣下についてまいります!

 拳を握り締め、エドアルドが宣言した。何だか目が潤んでいる。

「頑張れ、エドアルド!」兄の一人がエールを送った。「コンラート閣下は、武人として命を預けるに足る立派な方だ!」
「そうだ、エドアルド。だがお前もますます精進せねばならんぞ!」
「もちろんです、兄上! 僕は、閣下に頼みに思って頂けるよう、修行に励みます!」
「……少し、羨ましいかもしれないな、エドアルド」

 意外な声はイヴァンだった。エドアルドがハッと友人、とはちょっと違うが、幼馴染(であることは確かだ)の顔を覗き見た。

「よほどのことがなければ軍務につくことはないだろうが、それでも僕も武人の端くれだ。だから……今のウェラー卿の戦いぶりには……この僕にしても何か、胸に込み上げるものを感じた……。純血だの、魔力の有無など、武人にとって何の意味もないことを、このわずかの時間ではっきりと思い知らされた。あの方は偉大な武人だ。まさしく、眞魔国の誇りだ…! その方のお側で自らを鍛えていけるお前が……僕は羨ましい……!」
「………イヴァン……!」

 おお! と見守るユーリ達の傍らで、「おいおい!」とアーダルベルトが声を荒げた。

「一族の英雄を倒されて悔しいとは思わないのかよ!? お前達、全員グランツだろうが!」

 コンラートを無条件に賞賛する青少年達に、アーダルベルトとしては言いたいことがあったのかもしれない。
 だがその途端、アーダルベルトは少年達(+若手の兵士達)から、一斉に白ーい目を向けられた。

「だから何だと仰るのですか?」

 ふんっ、と、エドアルドとイヴァンが、揃って鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
 あんたに言われたかねーよ。現代日本男子高校生風、もしくは政権交代で首相の座に就いた某氏の国会答弁風に訳したらそんな感じかもしれない。

「…うわー、ばっちり揃ってたぞ、今の2人」
「息が合ってるよねー。うん、良かった良かった、仲良きことは麗しきかな、だね!」
「……あの、済みません、坊っちゃん方。グランツの旦那がちょーっとばかり可哀想な気もするんですが……」
「自業自得」
「………仰せごもっとも……」

「とにかくこれで、コンラッドとヒルダ様の決勝戦だな!」

 楽しみだと瞳を煌かせるユーリ。
 その前にフェルの試合があるのだが、若い道場主にとって気の毒なことに、その事実を指摘する者は誰もいなかった。


□□□□□


 闘技場のグラウンドでは、ヒルダとフェルが向かい合っていた。

「……いきなり準決勝かぁ〜。1試合だけだけど」

 ほんと、アバウトだなあと村田が苦笑する。

 ベスト8の試合で、今日残るはずだったのは4人。だがヴィクトルとハインリヒは試合放棄となって、結局残ったのは3名、フェルとヒルダとコンラートだ。
 本来ヴィクトルとハインリヒの内の勝者がフェルと闘い、ヒルダとコンラートが闘って勝者が決勝に残るはずだったのだ。しかしその組み合わせは不可能となったことで、ヒルダとコンラートのどちらかがフェルと闘って決勝戦に残る選手を決める、そしてその試合は本日の内に行うと、コンラートの試合の後、突然告示されたのだ。

「本当だったら……フェルさんは不戦勝で決勝に残らないとおかしい、ような……?」

 うっかりその存在を忘れていたユーリが、ちょっと申しわけなさそうに確認した。

「地球的には確かにそうだね。ああ、ルイザも一応抗議したらしいよ。組み合わせが決まっているのだから、兄は『グランツの勇者』獲得をかけて、決勝戦に出場できるはずだって」

 村田が頭の後で手を組んで、背伸びするようにして言った。

「でも午前中に言った通り、それじゃあウェラー卿とヒルダ殿の準決勝が実質的な決勝戦になって、一番盛り上がらなきゃならない決勝戦が思いっきり尻窄んじゃうってね。大会執行役員達は、『名誉ある「グランツの勇者」を定める決勝戦は、単に組み合わせによるものではなく、最強の2人が残るものでなければならない』って理屈でこの試合を決定したらしいよ。それも分らなくはないけどね」

 その告示がされて間もなく、ヒルダがフェルの相手をすることが発表された。

「ルイザの気持ちも分かるがな。準決勝で敗退するのと、決勝戦で敗れるのとでは全然意味が違う。道場のこれからを考えれば、決勝戦まで勝ち進んだって額を門の上に掲げたかっただろうさ。ああ、フェルの相手は婆さんだ。自分からやると進言したらしいぜ」

 それを伝えたのはアーダルベルトだ。

「フェルはガスール爺さんの孫だ。爺さんはヒルダ婆さんにガキの頃から仕えてきたし、婆さんもそれなりに思うところがあるんだろうよ。フェルもちっとは粘らないとな。あんまり無様に負けちまったら、名門道場の主を馬鹿にしたのどうのとルイザがどんなに喚き散らしたところで、そら見たことかと笑われるのがオチってことになっちまう」

 という訳で今、フェルとヒルダが闘技場で対峙しているのだ。


□□□□□


「ガスールの孫か。ハンスの家の師範を勤めているとは聞いたが、こうして間近で会うのは初めてだな」
「はい」

 フェルが恭しく頭を下げた。ヒルダ達が紛れもない本物の「ご隠居様」であることは、すでに祖父の口から聞いている。

「このような栄誉ある場にて剣を交わして頂けること、光栄に存じております」

 ほう。ヒルダが可笑しそうに声を上げた。

「お前、私と剣を交えるだけの実力の持ち主か?」

 何気なく口にした挨拶を辛辣に返されて、フェルがぐっと詰まった。思わず唇を噛む。

「お前の祖父は、その二つ名を持つに相応しい技量の持ち主だった。可愛い私の一番弟子さ。お前の父も、ガスールには及ばぬものの、武人の気概に満ちた男だったと記憶している。だがお前はどうだ? 私が剣を交わしてやっても良いと評価するには、そうだな、ガスールまでとは言わぬ。だがせめて、父親程度の腕は最低限必要だが?」

 フェルが唇を噛み締めたまま、キッとその目線を上げた。

「確かに……確かに私の実力は、祖父に遠く及ばず、父の足元に…及ぶか及ばぬかは分りませぬが、それでも! 祖父と父の名を辱めぬよう、名門道場の主として家を支えていけるよう、修行に励んできたつもりでおります! 今ここに! わずか3名しか残らぬこの場に私がいることが、その証とはならぬでありましょうか!? グランツの武人として私は……」

「今のグランツに、武人などおらぬ!」

 ヒルダの一喝に、フェルが愕然と目を瞠った。そ、それは……と呻くが、後の言葉が出てこない。

「この30年、グランツを取り巻いてきた状況は、確かに逆境と呼べるものだっただろう。だが、結局お前たちはそれに甘えてきたのだ。グランツに反逆の疑いありとされてはならぬと、だから試合うことはもちろん、修行もろくにできぬのは仕方のないことだと己を甘やかしてきた。その結果としての今の体たらく。情けなくて涙も出ぬわ!」
「ではどうすべきだったと仰せか!? 我らはそれでも道場の灯を絶やしてはならぬと……」
「道場など畳んで、とっととグランツを出れば良かったのさ」
「………!?」
「グランツを出て、他領で修行に励み、我らに対する疑いが晴れて後、帰ってくれば良かった。家を護り、道場を護るなどと、ちっぽけなものに拘るからどんどん小人になっていくのよ。真に己を鍛えよう、真の武人を目指そうと志した者がいたならば、おそらくとっくに外へ出ているであろう。その者がグランツに戻ってくるかどうかは知らん。だが、そやつらの方が、家がどうの名がどうのとほざく連中より遥かにましだ。のう、武人とはそも何であるのか、お前は己の中で答えを求めたことがあるのか? 武人であるならば、何を選び、何を捨てねばならないか、一度でも考えたことがあるのか? ……ないのであろうな。受け継いだものを護るため汲々としてこの月日を生きてきたとあれば」

 ヒルダの言葉に、フェルの喉が鳴る。

「武人とは、そも孤独なものよ。そして孤独のままに戦い続けるものさ。あのウェラー卿にしても然りだ。かの時、あの男は我らが受けたと同じような疑いを、その身1つに被っておったのだからな。しかし、疑われておるから、蔑まれておるから、あの男は身を縮めていたか? 一時でも修行を怠ることがあったか? ウェラー卿コンラートは我が種族の歴史に残る正真の武人だが、あやつの腕も、気概も、誇りも、何もせずに得られるものではない。魔力を持たぬあやつはひたすら己を鍛え、それを力に逆境を乗り越え、その責任を全うしたのだ。そして今も、責任を果たし続けている。しかるに、お前は、お前達はどうだ?」

 それは……とフェルが視線を落とす。
 背景がそもそも違うのだし、いくら何でもコンラッドと比べるのは可哀想と、その場にユーリがいたら言っただろう。だが、フェルも武人の端くれだった。護るべきものと捨てるべきものとを間違えたのだという指摘は、確実にフェルの胸を抉った。

「来い」

 ヒルダが言った。

「甘ったれて過ごした30年が何をお前から奪ったのか、今から私が教えてやる」

 ヒルダが剣を構える。その姿をまじまじと見て、それからフェルも剣を抜いた。

 ……覚悟を決めよう。自分は負ける。おそらくは、いや間違いなく完膚なきまでに。

「だがそれでも……諦めたりはしない……!」

 どれほど惨めな姿を妹や門人達に晒すことになろうと、いや、晒してこそ、我々は新たな出発点に立てるのかもしれないのだから。

「せめて一合!」

 口が挟めずぽかんとしていた司会進行が声を上げる前に、フェルはヒルダに向かって突進して行った。

 いきなり試合が始まったことに、観客たちが一斉に身を伸ばす。

「でえぇぇぇぇい……っ!」

 フェルの剣がヒルダに襲い掛かる……!

 ガキ…ッ! と、1度だけ鈍い音がした。
 次の瞬間、フェルが手首を抱え込むようにして地面に蹲った。剣はすでに落ちている。

「……ぐ……っ」

 腕を胸に抱え込み、肩を震わせながら身を起こすこともままならないフェルのすぐ前に、剣を鞘に納めたヒルダが立った。

「その痛みを忘れるな。そして父を越え、祖父に1歩でも近づけるよう精進しろ」

 私がお前にやれる言葉はこれだけだ。
 そう告げると、ヒルダはくるっと身体の向きを変え、すたすたと歩き始めた。

「……ヒルダ様……っ!」

 ヒルダが振り返ると、フェルが顔だけ上げてヒルダを見上げている。

「…必ず、いつか……必ず……あなたと剣を交すに、足る、武人に……なってみせます……!」

 ありがとうございました! 腕を抱え、地面に膝をついた状態で頭を下げるフェルに、ヒルダが苦笑を浮かべた。

「さても生真面目なことよ。……少しは肩の力を抜け。そんなことでは、どう足掻いてもガスールの境地には行き着かんぞ? だがまあ……」

 頑張れ。
 そう笑い掛けると、ヒルダはスイッと踵を返し、颯爽と歩き去った。


 兄さん、しっかりして!
 遠くからルイザの叫び声が聞こえてくる。
 その声を耳にしながら、アーダルベルトが「やれやれ」とため息をついた。

「もうちょっと……稽古をつけてやるとか、そういう気遣いはねぇのかな、あの婆ぁは」
「修羅場を潜ってきた武人らしいシビアさじゃないか。僕は好きだね、ああいうの」
「到底叶わないだろうとは分っていましたが……見事なまでに相手にしてもらえませんでしたね……」
「あ、ルイザさんが……飛び降りたぞ? あれはヴァンセルさんかな? どんどん続いてるけど……。大丈夫かな? ここ、結構高いのに……」

 まあ、とにかく。

 ふと上がった声に、お喋りしていたメンバーがぴたりと口を閉ざした。
 ヨザックが、のんびりした表情でのんびりと両手両足を伸ばしている。

「これでいよいよ明日は、隊長とご隠居様の決勝戦ですねー」


□□□□□


「あ、兄貴ぃ〜…」

 コンラートは思わず苦笑を浮かべた。フィセルは涙で顔をくしゃくしゃにしている。
 今度は、闘技場のグラウンドから下がった途端に道場の人々に取り囲まれてしまったのだ。

「まったくこいつは……。まだ決勝戦が残っているのだぞ?」

 エイザムが苦笑しながらフィセルの後頭部を叩いた。叩く手に愛情が籠もっているのは、その様子を見つめる人の表情からも明らかだ。

「…っ、すっ、すんません…! けど、俺っ、兄貴があんまりすごいんで……!」

 分る分ると、シュルツローブ道場門人一同が何度も大きく頷いた。
 エイザムがフィセルに「仕方のない奴だ」と笑い掛けてから、その目をコンラートに向けた。そしてしみじみとコンラートを見つめてから口を開いた。

「君が剣を振ったのはただ1度きり。だが……気を高め、集中し、そして集中した全ての気を籠めたあの一撃、どれをとっても武人として最高の手本となる一戦だったと思う。君の戦いぶりを全て目にすることができた武人は幸運だ。そして、その君を一門の同胞とする我々は実に実に幸せ者だ」

 ありがとう、カクノシン。
 頭まで下げるエイザムに、「とんでもありません」とコンラートは首を振った。
 自分たちはもう間もなくこの地を去る。彼らを失望させるにしても、できることなら彼らの中に何かを残して去りたいと思う。できることなら、武人として大切なものを、何かひとつでも。

「『グランツの勇者』は絶対兄貴のもんだ! 兄貴こそ、勇者として讃えられるのに相応しい男だ!」

 意気込むフィセルに、イシルやバッサといったお馴染みの面々がどこか熱に浮かされた様子で賛同している。

「……最善を尽くします」

 とりあえず、そう言うしかなかった。それは今コンラートが口にできる、ただ1つの真実であるのだから。


□□□□□


「お前が『グランツの勇者』の称号を取っちまったら取っちまったで、またイロイロ起きそうな気もするんだけどなー」

 酒のグラスを軽く持ち上げてヨザックが言った。

 その夜。
 魔王陛下と大賢者猊下の寝室に挟まれた控えの間で、コンラートとヨザックはいつもの様に酒を酌み交わしていた。
 ユーリは「やっぱりコンラッドが1番だ!」と大はしゃぎで、一体いつ居合いを習得したのか、やっぱり時代劇は役に立つ、天斬剣は国宝だとアーダルベルトが言っていたけれど、弁償しないと駄目だろうか、ヒルダ様はコンラッドにも迫ってくるかもしれない、その時はすぐに逃げた方が良いんじゃないかとおれは思う、いやもちろん、ヒルダ様とキスするかどうかはコンラッドの気持ちの問題だけれど、え? その気はない? あ、だったら良いけど、あ、もちろんコンラッドの気持ちの問題だけど、などとわずかも休まず騒ぎ続けたせいか、すでにぐっすり寝入っている。
 宵とはいえ、大人の時間はまだまだ残されている時刻だ。

「まだ俺が勝つとは決まっていない」
「あらら、弱気? こりゃまたどうしたわけ〜?」

 コンラートは苦笑を浮かべてグラスに口をつけた。グランツの地元で醸造されたという自慢の酒は、武門の地らしくどこか無骨で、だが媚びのないさっぱりとした後口だ。

「弱気になったわけじゃない。試合そのものは楽しみだし、負けると考えているわけでもない。ただ、武人の試合だ、何が起こるか分からないからな。ところで」

 試合ってみて、実際のところどうだった?
 尋ねられて、今度はヨザックがひょいと肩を竦めた。

「どうってね〜、剣を交わした時間は短かったし……。ヒルダ様は俺ととことんやる気は最初からなかったわけだから、実力の切れ端でもモノにできたかどうかはびみょーだねー」

 だろうな、とコンラートは頷いた。

「でもホントは、そんな質問がしたいんじゃないだろ?」

 ヨザックの言葉に、コンラートがちらりと眉を上げた。

「わくわくして、うずうずして、一刻も早くあの人と試合がしたくて……たまんねーんだろ?」

 ニヤッと笑う幼馴染に、コンラートの苦笑が深まった。

「陛下にはあまりお聞かせしたくないがな」
「どうして?」
「……闘うことが好きでたまらない男だと……」
「思われたくないってか?」

 今度はコンラートが肩を竦める。

「坊っちゃんはあんなに楽しそうじゃねーの。お前ってホントに……」

 カッコづけの激しいヤツ。

「言ってろ」

 自覚があるのかないのか、コンラートはヨザックに向けてグラスを掲げた。


□□□□□


 そしてついに決勝戦の朝を迎えた。
 決勝戦は午前の内に開催される。そしてその後は、新たに誕生した「グランツの勇者」の栄誉を讃え、1日中お祭り騒ぎとなるのだ。

 ユーリ達が朝食もそこそこにやってきたメイン闘技場は、すでにすし詰め状態の観客達がすっかり興奮状態だった。
 まだ選手─もちろん「カクノシン」と「ヒルダご隠居の偽者」─がグラウンドに姿を見せていないというのに、あちこちから歓声が湧きあがっている。もちろんその全てがコンラート=「カクノシン」に向けてだ。
 「カクノシン! カクノシン!」という叫びはウェーブの様に広がって、どんどん大きくなっていく。

「うわー、すげー、コン…カクさんへの応援一色だな! ……ちょっとヒルダ様に申し訳ない気もするけど」

 後半の言葉はちょっとだけ声を潜めて言えば、村田が「それはあの人達も覚悟の上だから」と応える。

「俺達も声を上げましょうよ!」

 遅れてなるかと声を上げたのはフィセルだ。エイザム達に一生懸命訴えている。
 なぜその姿が見えるかというと、そこにシュルツローヴ道場の面々が揃っているからだ。

「ガキっぽいわね」

 今度聞こえた声はルイザのものだ。「止めろ、ルイザ」と窘めるフェルの声も。
 どうして彼らの声までするかというと、やっぱりスールヴァン道場の面々もその場に揃っているからだ。

 何だと!? フィセルが気色ばんでルイザに迫る。いや、迫ろうとしたところで、ストップが掛かった。

「バカもん、フィセル! 若君方の御前でみっともない真似をするな!」
「ルイザ、お前もだ。貴い方々の御前でスールヴァンの名を辱めるな」

 エイザムが叱りつけ、フェルも低いが厳しい声で妹を窘める。
 シュルツローブとスールヴァンの間で散りそうだった火花が、一旦沈静化した、ように見えた。

 やれやれとため息をついて、ユーリと村田は顔を見合わせた。

「ミツエモン? 坊や? 食べるかい?」
「あ! 美味そー!」

 ロルカおばさんもいる。お得意の焼き菓子も山盛りで一緒に。
 何だか大変だねえと笑い掛けながら、焼き菓子を盛った籠を差し出してくる。
 すぐ側にはアーダルベルトも兵士達もいるのだが、魔王陛下と大賢者猊下が大喜びでお菓子を摘んでいるので、老女が近くに寄るのを阻むことはしなかった。

 彼らを集めたのはユーリだ。
 最後の試合なのだし、コンラッド…いやいやカクさんのことはどちらの道場の人もよく知っているのだし、せっかくなんだから皆で一緒に観よう! と提案したのだが、その時点ではさほど深い意味はなかった。
 ユーリの意を受けて、シュルツローブ道場の面々はイヴァンが、スールヴァン道場の面々はエドアルドが話をつけて連れて来た。シュルツローブの一行の中には、クレアはもちろん、手伝いに来ていたロルカおばさんや厨房の男衆もいる。
 特等席で決勝戦を観られるとあって、いそいそとやってきたそれぞれの道場の人々は、あまり仲が良いとは言えないもう1つの道場の人々の顔を見て、それぞれ盛大に顔を顰めた。おまけにそこには、よく見知った若君方だけではなく、なぜかグランツの後継者であるアーダルベルトまでが同席していたのだ。なぜこれほどの貴賓がと、頭を捻ったし、わずかながら腰が引けたのも事実だ。
 だが、これほど良い席で観戦するなどそうそうできることではないのだし、何といってもこれから決勝を闘うのは彼らの友であり仲間であるカクノシンなのだ。この上は、カクノシンが「グランツの勇者」の栄誉を手にするよう、最大の応援をしようではないか。という訳で、ただ今ユーリ達、そしてエドアルド達いわゆる「グランツの若様方」の背後には、「大先生」であるガスール老人─むっつりと眉を顰め、何かを拒絶するように腕組みをしている─を中心に、それぞれの一門の者達が固まって席を占めているわけである。
 ちなみに彼らの周囲には、ごくごく平凡な男女が席について賑やかに試合の開始を待っているが、彼らはもちろんアーダルベルト配下の兵達である。
 特に今回は、「何となく、何かが起こる予感がするよ。というか、渋谷がここまで関って、平穏に物事が治まるなんてあり得ないじゃないか」という某氏の不吉な予言に従って、これまでの数倍の兵達が彼らを取り囲んでいる。
 万一何かが起きた時、陛下と猊下の身を護れるよう、人垣、壁となる兵をがっちり厚く配備してあるのだ。

 さてさて。
ロルカおばさんの焼き菓子とお茶とでホッと一息ついたユーリは、改めて観客席を眺めた。

「ほんとにすごい人だねえ」

 ロルカおばさんと、若様にお茶を配っていた厨房のおじさんが頷きあっている。

「こんな良い席でカクノシンさんの応援ができるなんて、俺達は幸運だよ」
「全くだねえ。試合の結果がどうなるにしろ、これでこれからシュルツローブの名前が上がるのは間違いなしだし。あたし達もますます忙しくなるねぇ」
「忙しくなるのは嬉しいことさ。お互い頑張らなきゃな」
「おじさんもロルカおばさんも」

 思わずユーリが口を挟んだ。2人がにこやかな顔をユーリに向ける。

「本当に身体に気をつけて、元気でいてね? そして、先生やクレアさんや、道場の皆を助けてあげて」

 何を言ってるんだい? ロルカおばさんがさも可笑しそうにユーリに言った。

「ミツエモンも一緒じゃないか。ああ、でもあんたはちゃんと学校に行かなきゃね。まだいっぱい勉強しなきゃならないんだし。でももう旅なんかしなくていいんだよ。あたし達とずっと一緒に仲良く暮らしていこうね」

 あ。小さく声を上げて、ユーリは困ったように視線を逸らし、それから突然思い出した様にお茶をゴクリと飲み下した。
 もう間もなく別れがくる。その時は……。

「ほらほら、出て来たよ!」

 救いの主は村田だ。その声に合わせて、人々の目が一斉にグラウンドに向かう。

 瞬間、人々の「うおぉぉぉ!」という叫びが一斉に起こった。
 一方の扉からはコンラート、いやいや、金髪グラサンマント姿のカクノシンがゆっくりと入場してくる。歓声が一気に高まった。兄貴! と、すでに全開状態のフィセルが立ち上がって手を振り回している。
 もう一方の扉からはヒルダが堂々と大股でやってくる。炎の様に逆立つ赤毛、完璧なボディラインを強調した、真紅と黄金に彩られた戦闘服、というにはあまりにも護る面積の狭い鎧、小麦色の肌、その下の引き締まった筋肉、引っ込んだ腹、窪んだ丸い臍……。
 彼女には観客達のブーイングが叩きつけられる。

「うー、カッコ良いなー、ヒルダ様」

 ブーイングもBGMにしてしまうヒルダの顔には、笑みすら浮かんでいるようだ。

「あれー? 開口一番にヒルダ様? ねえねえ、ウェラー卿とヒルダ殿のどちらがカッコ良いと思う?」
「コンラッド」
「うわ、即答」

 質問した村田が呆れた様に肩を竦めた。

「当たり前だろ?」ユーリがそんな友人にそれこそ呆れた目を向ける。「でもほら、今のコンラッドはカクさんで、本来のコンラッドじゃないし」

 ユーリがそう言った瞬間だった。

 ヒルダがいきなり立ち止まり、軽く右手を上げた。
 闘技場が一気に静まる。フィセルもふっと口をつぐんだ。それから、どうして口を閉じてしまったのか分らないという様に、きょとんと左右を見回している。
 他の観客たちも同じだった。ヒルダの手の動きを目にした途端、何か絶対的なものから命じられたかの様に黙ってしまったのだ。

「すごい。強烈な場の支配力だ」

 お見事と村田が手を叩く。

「あの隠居共を長年仕切ってきやがった婆ぁだからな」

 さもあろうとアーダルベルトも唸る。

「羨ましいなー…。おれにはとても真似できないもんな」

 その場に集い、ユーリを囲むメンバーが一斉に視線を自分たちの王に向けるが、グラウンドを凝視しているユーリは気づかない。

 ユーリや静かになった観客達が見ている先で、ヒルダがすっと手を降ろした。
 そしていきなり、張りのある声で言った。

「それで? お前は一体いつまでそんなふざけた格好でいるつもりだ?」


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長い長い、またまた長くなりましたー。うう。
ただ、ヒルダ様の最後のセリフで終わりたかったもので……。
でも、そこに到るまでの状況説明がまたなかなか終わらなくて。
頭の中の映像は、ちゃちゃっと終わっちゃうんですけどねぇ。
とにかく決勝戦。正体バレを私自身も楽しむつもりです。
ご感想、お待ち申しております!