グランツの勇者・14


「マリーアだのブルーノだの」シュルツローブ道場の道場主がぎゅっと眉を顰めた。「あまりに不敬ではないか。こともあろうに、我がグランツの偉大なる英雄であるあの方々の名を騙るとは。まして、使う技まで同じときた。……一体どうやって会得したのか……」

 どうにも分らんし、不気味だ。
 炙った骨付き肉に齧り付いて、エイザムはぼそりと言った。

 現在「フォングランツのご隠居様」であり、「伝説的英雄」である7人と同じ名乗り、同じ技を使う者達が現れたという情報は、大会初日に会場を訪れた全ての人々の知るところとなっていた。
 ここはご隠居様達の地元。武名は高いし、技もよく知られているのだから当然といえば当然なのだが……。

「これまであの方々の技を復活させた武人はいなかったのですか?」

 コンラートの質問に、「バカを言え」と師範代のガスリーが吐き捨てた。

「伝説の戦士とはいえ、御本人方がまだ皆様揃って矍鑠とされておられるのだぞ。勝手に技を我が物にするなど許されるはずがない。まして名まで騙るとは! ……若様、何ゆえご領主様はあのような者共の大会参加をお許しになられるのでしょうか。いや、大会どころか、不敬の罪で捕らえてもよろしいのでは? もしお立場上それができぬと仰せであれば、我らがヤツらをひっ捕らえ……」
「できるのか?」

 テーブルにつき、肉と野菜を挟んだ「さんどいっちー」を上品に口に運びながらイヴァンが尋ねた。
 あっさりと返された言葉に、ガスリーが鼻白んだように顔を顰めた。

「僕も目にしたが、あの技は本物だぞ。ご隠居さま方の技を忠実に復活させたということであれば、お前達が束になっても敵わんと思うがな。それに我が国は法治国家だ。400年前の技を復活させることが、一体どういう罪に当るというのだ? よしんば彼らの行いが罪であるとしても、お前達に人を捕縛する権限はない」

 我が家の武術指南であるからといって勘違いするなと言われ、また同席するフォングランツの若君達の非難の視線も受けて、ガスリーの頬が赤黒く染まった。
 「申しわけございません」と頭を下げるガスリーに、イヴァンが鷹揚に頷く。

 昼である。
 「スケサブロウ」の試合(これも瞬殺で終わった)を見届け、ヨザックも加わって、一行は選手控えの広場に戻ってきた。ヨザックが加わったことで、アーダルベルトは一旦一行から離れ、広場に着いた時点でガスール老人もさりげなく姿を消した。また必要があれば、それぞれの判断で一行に合流してくるだろう。
 広場では相変わらず多くの人々が行き来をしているが、そこには朝と違う匂いが混じっている。
 食材を調理する匂いだ。
 どうやらこの広場では、火を焚いて料理をすることも自由らしい。露店で買い求めた軽食を摘む選手も多いが、天幕の前に即席の竈を作り、豪快にキャンプ料理を作っているグループも数多くいる。

「おお、若君、お帰りあそばしませ」

 シュルツローブ道場の天幕からエイザムが飛び出してきた。天幕の前では、一抱えもありそうな肉の塊を串に刺し、じっくりと焼いている真っ最中だった。肉の側で焼き具合を見ているのはガスリーだ。その周囲を、クレアやロルカおばさん達がパタパタと忙しげに走り回っている。
 肉の焼ける良い匂いが、ユーリの胃をダイレクトに刺激してきた。

「うわー、おれ、急にお腹が空いてきた気がする」
「……あれだけお菓子を食べといて、もうお昼が食べられるのかい?」
「お菓子とご飯は別腹だろ?」
「別腹の意味が違うよ」

 囁きあう2人の少年など視界に入らない様子で、エイザムが近づいてくる。
 イヴァンとフォングランツの若君達に再び一礼してから、エイザムはコンラートに顔を向け、その二の腕を軽く叩いた。

「先ほどの試合、観ていたぞ。相手が相手だが、それでもやはり見事だった。さすがだな」
「ありがとうございます」

 小さく礼を返すコンラートに頷きかけてから、エイザムはイヴァン達に向き直った。

「若殿におかれましては、お昼はいかがなされますか? 大したものはできませんが、もしよろしければ卓をご用意致します。せっかくの武闘大会でございますし、このような場所で食事をするのも一興かと存じますぞ?」

 たまには下々の者と関ってみてはどうかと誘うエイザムに、イヴァンとエドアルド達が顔を見合わせた。
 エイザムの隣に、彼らが帰ってきたことに気づいたクレアとフィセルもやってきた。高貴な若君達のお相手を無事務めているだろうかと、心配気な顔で見つめてくるクレアに、ユーリはニコッと笑い掛けた。

「おれ、朝は何の手伝いもできなかったから、お昼は道場の人達と一緒にしたいな!」

 若君を差し置いて何を言い出すのかと、エイザムとクレア、そして様子を窺っていたガスリーやフィセル達門人が顔を引き攣らせる。だが次の瞬間、「ではそうしよう」とイヴァン達が頷いたのを見て、全員が一斉に揃って目を剥いた。

「……ということで、僕達はここで食事にするが」

 お前達はどうする? ニッと笑って尋ねられ、エドアルド達兄弟がムッと唇をゆがめた。
 レフタント家はシュルツローブ道場の後援者。コンラート=カクノシンはシュルツローブ道場の一員。ユーリ=ミツエモンはその付き添いで道場の小間使いで、現在はイヴァンにつけられた小者。ユーリとイヴァンが共に行動するのは当然のことだが、エドアルド達は違う。
 同じ護衛の役を頂きながら、イヴァンほど自然な形で側に侍ることができない現状に、エドアルド達が歯噛みしかけたその時。
 ふいに声が上がった。

「僕達もご一緒して良いですか?」

 え? とエイザム達が顔を向けた先には、当然の事ながら村田がいる。
 ミツエモンと同年代、にっこりと無邪気(…)に笑う少年に、シュルツローブ道場の面々が首を傾げた。

「君は…?」
「あ!」ユーリが咄嗟に声を上げた。「おれの友達なんです! それからこっちにいるのがコン、ととっ、カクさんの幼馴染のスケさんです!」
「スケサブロウです〜。よろしくぅ」

 うふふーとしなをつくって挨拶されて、エイザム達が軽く身体を仰け反らせた、が、すぐに大事なことに気づいたと言わんばかりに表情を変えた。

「カクノシンの幼馴染というと……元ルッテンベルク師団の、かね!?」

 勢い込んで尋ねるエイザムに、ヨザックが「はい、そうですよ〜」と応える。
 今度はエイザム達が嬉しそうに顔を見合わせた。

「ルッテンベルク師団の強者が2人も……! いや、これは何とも嬉しいことだ! ぜひ一緒に、色々と話を聞かせてくれたまえ!」
「あ、エイザム殿!」

 慌てて声を掛けたのは兄弟達の長男、フォングランツ卿トマスだ。

「我々もぜひ彼らの話を聞かせてほしいと考えているのです。ご一緒してよろしいですか?」
「おお、もちろんでございますとも! フォングランツの若君方をお迎えできますこと、恐悦に存じております。ささ、どうぞどうぞ!」

 おい! 若君方のために卓を用意しろ!
 師範代の一声で、門人達が一斉に動き出し、瞬く間に大きな食卓が出来上がった。

 招かれ、食卓についたのは、道場主のエイザム、師範代筆頭のガスリー、コンラート、ヨザック、そしてイヴァンとフォングランツ家の兄弟達だ。
 エドアルド達がハッと気づいて慌てたことに、そこにユーリと村田の席はなかった。
 当然である。
 ユーリはコンラートの付き添いであり、道場では小間使い、今もイヴァンの小者にすぎないのだ。村田とて、ユーリが「おれの友達」と紹介してしまった段階で同じ立場の者と認識されている。
 フォングランツ家とレフタント家の若君達が揃う卓に、「ミツエモンとその友達」が迎えられるはずがない。
 焦ったエドアルド達だったが、伺い見たコンラートとヨザックは落ち着いていた。
 こうなることは最初から分っていたという顔だ。
 なのでエドアルド達も平静を装って席についていたのだが。

「はい、どうぞー。お肉が焼けました!」
「ワイン、持って来ましたよ〜。赤にしますか? それとも軽い白?」

 クレアやロルカおばさん、いつもは裏方を手伝う男衆に言いつけられるまま、酒や料理を運んでくるユーリと村田に、エドアルド達兄弟、そしてイヴァンは落ち着かない顔をきょときょとと動かしていた。
 こともあろうに、自分達は客分で、魔王陛下と大賢者猊下が召使よろしく給仕に励んでいるのだ。
 何か皿を1つ前に置かれるだけで彼らの腰が浮き、反射的に頭が下がり、口からは恭しい言葉が漏れそうになる。

 エドアルドはもちろん、斜に構えて世間を見ているオスカーや、フォングランツの懐刀候補であるイヴァンまでが、困り果てた顔で身体を揺すっているのを見て、コンラートとヨザックは思わず微笑みを浮かべた。
 しっかり者の顔をしていても、やはりまだまだ経験不足の少年達だ。
 翻って、ユーリと村田が状況を心底楽しんでいることは明らかだった。
 串に刺して肉を焼くという豪快な調理法が珍しいのか、ユーリは目をキラキラさせてそれを見つめ、ちょこちょこと手を出しては厨房係りらしい男に叱られている。そしてクレアやロルカおばさんに何か言いつけられると、すぐに立ち上がり、楽しくて仕方がないという様子で軽やかに飛び回っていた。村田も同様だ。こういう時、普段は自分にも他人にも厳しい賢者殿も年齢相応の少年になる。

「はい、どうぞ!」

 村田が料理の大皿を卓に置いた。
 凝った料理はない。焼いて塩と香料で味付けた肉と、どっさりの温野菜に生野菜。これらを挟んで食べられるように薄切りにした数種類のパン。そしてワインと果物。
 料理を一通り揃えると、村田が誰にともなく言った。

「これで全部です。どうぞ皆さん、『先に』たっぷり食べて下さいね! 僕達はその『後』で頂きます。でもミツエモンがお腹を空かせてて、今にもお肉に齧りつきそうなんですよねー」

 何を言っているのかと、エイザム、ガスリー、そしてやはり給仕していたフィセル達が怪訝に眉を寄せる。
 だが、コンラートとヨザック、そして臨時の護衛達はすぐにその意を察した。
 さっさと毒見をしろと言っているのだ。じゃないと、ユーリは気にせず何でも口に放り込んでしまう。

「で、では! 頂こうか、エイザム殿?」
「あ、はい! では、僭越ながら私が乾杯の音頭を………お!?」

 エイザムがグラスを持ち上げ、ちょっと気取って乾杯を告げようとする前に、少年達が一斉に料理に手を伸ばした。
 何かに追われているかの様に大急ぎで皿に肉を取り、野菜を取り、パンを取り、どこか必死の形相で口に放り込む高貴な少年達を、エイザム達が呆気にとられた顔で見つめている。
 くすりと笑って、コンラートはワインのグラスを持ち上げた。
 エイザム殿、と呼びかけると、エイザムが戸惑った顔をコンラートに向けてくる。

「大会の成功を祈って」

 乾杯。
 きょとんとした顔のまま、釣られる様にエイザムとガスリーがグラスを掲げた。



「はい、ミツエモン、それからケンちゃんも、お腹空いただろう?」

 即席の厨房となった竈の側、敷物の上に腰を下ろした2人は、ロルカおばさんが作ってくれた分厚いサンドイッチを受け取った。目の前では肉が美味そうな肉汁を滴らせながら焼かれている。

「足りなかったら言うんだぞ? 新顔の坊やもな。遠慮はいらんぞ。肉はたんとあるからな?」

 焼き係のおじさんの笑顔に笑みを返し、ユーリと村田はサンドイッチに齧りついた。2人の側では、クレアやロルカおばさんも一緒になって腰を下ろし、食事を始めている。

「ほら、2人とも、喉が詰まるから果汁も一緒にお飲み。……疲れただろう? 貴族の坊っちゃん方にお仕えするのは気が張るもんねえ」
「大丈夫だよ! とっても楽しいし………ほえ、ふぉいひー!」

 がぶりと齧りついたサンドイッチで頬をまん丸に膨らませ、ユーリが幸せそうに声を上げた。
 サンドイッチは、生野菜と蒸かして輪切りにした芋、チーズ、気前良く厚切りにした焼きたて熱々の肉を重ね、そこにシュルツローブ道場の厨房特製ソースをたっぷり掛け回したものだ。
 一口食べると、パンに染み込みきれなかった肉汁とソースが滴り落ちてくる。
 指を汚すそれを、ユーリと村田は舌で舐め取りながらモリモリと食べた。

「おやおや、よく伸びる頬っぺただこと!」
「若い子は良いねえ。本当に美味しそうに食べてくれる」

 肉を焼くおじさんやロルカおばさん、クレア、それからいつの間にか集まってきていた手伝いの人々が声を揃えて笑った。

「でもこれ、本当に美味しいですよ!」

 村田が言うと、「可愛い子に褒めてもらえるのは嬉しいねえ」と、ロルカおばさんが村田の頭を撫でて言った。

「ロルカおばさんが作ったお菓子も美味しいんだぞ!」

 サンドイッチを飲み込んだユーリが大きな声で言えば、おばさんの相好がますます崩れる。

「たーんと焼いてあるよ。若様方にお出しした後で皆にも配ろうねえ」
「やったー!」
「わーい、楽しみ〜」



 コンラート達の食卓から少し離れた場所、肉を焼く竈の周りで、ユーリと村田を囲むように人々が座り、昼食を摂りながら笑いさざめいている。
 うららかな陽射しを浴びて笑う主の表情を確認したコンラートの頬が、ふっと緩んだ。

「じゃあ次があの自称『マリーア』って女ですね! どんな風に闘うか、もう決まってるンですか!? 勝算は!?」

 テーブルの脇に立っていたフィセルが、ヨザックに向かって身を乗り出して尋ねた。

「ん〜、勝算ねえ……」ヨザックが指を唇に当てて視線を空に向ける。「スタイルはぁ、アタシの方が上だし〜、胸だってアタシの方が大きいし〜、色気だって……」
「何の勝算だ、何の! 大体お前の胸は筋肉だろうが!」

 って、どうして俺がいつも突っ込まなきゃならないんだ。思わずボヤくコンラート。
 だがすぐに「それが幼馴染の宿命ってものじゃな〜い」と返されて、サングラスに隠された目が剣呑に眇められた。
 食卓の周りでは、ヨザックのオネエ言葉と異様な色っぽさに、エイザムはもちろん、ルッテンベルクの英雄の話を聞こうと集まってきた道場の門人達が顔を引き攣らせて固まっている。
 もちろんヨザックとコンラートは気にしていない。

「あー、俺も『完璧ちゃいな』を持ってくりゃあ良かったよなー。似たようなドレスだし、対決するにはぴったりだし。それにしても、まさかこんなトコで女王の座を争う戦いに巻き込まれるなんて……うふふ、さいこー!」
「何が最高だ! そもそも争ってるのは女王の座じゃない。もしそうなら俺もお前もお呼びじゃない。……おい、まさかと思うが、マリーア殿に張り合って、ドレス姿で試合に臨んだりするなよ?」
「あっちは若作り、こっちは女装。変身って意味じゃ似たもの同士だし〜」
「……………」

 それは変身じゃない。化けてるんだ。
 似たようなチャイナドレスで闘う幼馴染とご隠居様の姿をうっかり想像してしまったコンラートは、げっそりしたようにため息をついた。


「エドアルド」

 そっと弟の耳に囁きかけたのはオスカーだ。

「陛下とお2人は士官学校に、ご身分を隠して視察においでになられたのだったな?」
「ええ、そうです、兄上」
「その時も……こんな感じだったのか…?」
「このまんまですね。……同期生は陛下が僕達に気を遣ってお芝居をなさっておられたのだろうと推測してましたけど……」

 そうじゃなかったみたいだ。
 何を思い出したのか、エドアルドがぷぷぷっと小さな子供の様に吹き出した。
 ふう、と小さく息を吐いてから、オスカーはかすかに肩を竦めた。

「陛下の素顔を知ることができて、僕達は幸運だな。……たぶん」


 食事を終え、お茶とロルカおばさんのお菓子が配られ、食事中は遠慮していた門人達も、もう良いだろうと考えたのかテーブルを囲んで熱心にコンラート達に話しかけている。
 それを適当にいなす彼らの周囲では、ユーリと村田が食後の後片付けにパタパタと走り回っていた。
 その時ふと、エイザムが席を外した。トイレにでもいくのかもしれないと思いつつ、ユーリはその背中を追った。

「エイザム先生」

 やはりトイレだったらしいエイザムが戻ってくる途中で、ユーリは進路を塞ぐように前に出ると声を掛けた。

「ミツエモン。どうかしたか?」

 きょとんと問い掛けてくるエイザムの前に駆け寄って、ユーリはその厳つい顔を見上げた。

「さっき、ガスールお爺ちゃんと一緒になって、話をしてきました」
「……む……そうか……」

 ぎゅっと唇を引き結ぶエイザムの目を、まっすぐ見上げる。

「お爺ちゃん、言ってました。エイザムがどういう男か、誰より自分が1番良く分かっているって。だけど、真実を語ってくれないって。真実を語ってくれないのは、自分を信じてくれてないからだって。先生に信じてもらえないことに、お爺ちゃんとっても傷ついてます。……先生!」

 ユーリを押し退けるように歩き出すエイザムの背中に、ユーリは声を上げた。

「先生はお爺ちゃんに憎まれることで、自分を罰しているつもりなんですか!? でも! そのお爺ちゃんが、先生よりずっと傷ついて苦しんでいるって思いませんか!? もう終わりにしても良いんじゃないでしょうか!」

 立ち止まったエイザムの身体が強張り、拳が震えている。今にも振り返って怒鳴りつけてくるかもしれない。それでもユーリは口を開いた。

「お爺ちゃんは……!」
「どうしてだね」

 意外なほど穏やかな声が、逆にユーリの勢いを削いだ。開いた口を思わず閉じてしまう。

「どうして君は、他人のことにそんなにムキになるんだね? たまたま訪れた街で、たまたま出会っただけだろう。共に過ごした時間も、ほんのわずかじゃないか。これからどう付き合うことになるかも分からないというのに……」
「確かにおれは、お爺ちゃんともエイザム先生とも、出会って大した時間は経ってません。でも、おれ、お爺ちゃんが大好きです。お爺ちゃんは頑固で、意地っ張りで、だけどとっても優しい良い人です。どんなに付き合いが浅くたって、好きになった人が苦しんでいたら、助けたいって、力になりたいって思うのは、当たり前のことじゃないでしょうか…!?」

 エイザムの身体から目に見えて力が抜けていった。同時に、ふう、と長く深いため息が漏れる。
 それからゆっくりと、エイザムが振り返った。

「………子供だな」

「確かに彼は、ああ、僕も同様に子供だけど」

 ふいに別方向から飛んできた声に、エイザムとユーリが同時に顔を巡らせた。
 2人の顔が向いた先に、村田が、そしてコンラートとヨザック、加えてフォングランツ卿ハンスの息子達とイヴァンが立っていた。

「この国の現在の繁栄は、無鉄砲な子供ががむしゃらに突っ走ることによって齎されたものでもあるんだよ?」

 村田の口調と言葉の意味に、エイザムが顔を不快気に歪めた。

「ふざけた物言いは止めなさい。場合によっては不敬を問われる。小賢しいとは、賢いことを意味する言葉ではないのだ。……ミツエモン、私は子供だからといって君を馬鹿にしたわけではない」

 エイザムがユーリに顔を向けて言った。その背後で、村田がひょいと肩を竦め、コンラートとヨザックが途端に視線を宙に向け、エドアルド達とイヴァンが揃って顔を引き攣らせたことには気づいていない。
 ちなみに、彼らの周囲にはアーダルベルト配下の兵士達が、通りすがりの一般人を装って警護に詰めていたが、エイザムの村田への一言を耳にした瞬間、全員が一斉に「ひいっ!」と真っ青になって凍り付いた、が、やっぱり誰も気づいていなかった。

「子供だからこそ、堂々と胸を張って言えることもある。それが……羨ましいと思ったのだよ……」
「先生……」

 お爺ちゃんを助けてあげて下さい!
 1歩踏み出して、ユーリが声を張り上げた。

「お爺ちゃんは苦しんでいます。本当の事を、戦場で何があったのかを、ちゃんと教えてあげて下さい!」

 一生懸命なユーリの表情に、エイザムが深々とため息をつく。

「先生!」
「もういい。これ以上言うな」

 もう何も聞かないという断固とした表情を見せると、エイザムは大股で歩き始めた。
 ここで逃がせばまた最初からやり直さなくてはならない。
 焦りがユーリを襲う。

「先生!」

 だから思わず言ってしまった。

「おれと賭けをして下さい!」
「……賭け?」

 唐突な言葉に驚いたのか、エイザムが足を止めて振り返る。
 はい! ユーリは大きな声で叫んだ。

「コ……カクさんが! カクさんが優勝して『グランツの勇者』の称号を手にしたらおれの勝ち! その時はお爺ちゃんに本当の事を話して下さい!」

 はあっ!?
 エイザムが顎を落として目を瞠る。その目がまじまじとユーリを凝視している。

「あのー……」

 鼻息も荒くふんぞり返るユーリと、呆気に取られた様子で立ち尽くすエイザム。
 その2人を眺めながら、エドアルドが誰にともなく言った。

「ウェ……カクノシンさんはシュルツローブ道場の、その、一応門人で、エイザム殿はそこの道場主ですよね?」
「……だな」

 コンラートが応え、その場の全員(周りにいた兵士たちを含む)が頷く。

「だったら、エイザム殿も当然カクノシンさんの優勝を望んでるし、カクノシンさんならそれが叶うと期待もしてますよね?」
「だねえ」

 今度はヨザックが応え、また全員が頷く。

「ということは、この賭けって本来成立しないんじゃないでしょうか? だってどちらもカクノシンさんの優勝を望んでるし、期待してるし、エイザム殿がカクノシンさんが負ける方に賭けるなんてあり得ないんですから」

 確かにその通り。
 またまた全員が深ーく頷いた。

「言ったモン勝ちだね」

 村田があっさりと結論を出した。

「怒涛の勢いでやられたら、変だなーと思いつつも流されちゃうのが哀しい人の性ってものだよ。それに、エイザム殿は分かっていてもこの賭けに乗るよ」
「どうしてですか!?」
「どんな意地っ張りでもね、心の隅では本当の事を知ってほしいと願っているものさ。自分に真実を話させた責任を賭けに押し付けられると思えば、案外彼も覚悟を決めることができるんじゃないかな」
「そ、そういうもの、でしょうか……?」
「たぶんね」

「分った」

 村田の言葉とほとんど同時に、エイザムが低い声で言って頷いた。
 おお…! 感歎のため息が一斉に周囲から漏れる。
 ユーリが大きく頷いた。
 この瞬間、賭けが成立したのである。

「つまり俺は」

 コンラートが苦笑と共に言った。

「責任重大ということになってしまった訳ですね」


□□□□□


 ご隠居様の1人、ブルーノが会場を1つ使用不能にしてしまったため、大会進行は初日から躓くことになってしまった。グランツの御領主様はちょっとご不興らしい。

 とりあえずユーリはご機嫌である。

「やったぞ。ついにエイザム先生に本当の事を喋ってもらえるようにできたぞ!」

 うんうん。村田がニコニコ笑って頷いている。

「確かに見事な力技だったねー。後はウェラー卿が優勝するだけだ。簡単簡単。前途は明るい!」
「おう!」

 ちょっと意地悪が入っているようだが、言われた方が気づかなかったらそれは純粋な励まし以外のなにものでもない。たぶん。
 ニコニコと邪気のない笑顔で向き合う陛下と猊下の周りで、臨時の護衛達がため息をついた。

 夜の挨拶をしてグランツの城を下がったエドアルド達は、門を出た途端、自然と輪になって互いの顔を見回しあった。イヴァンもいる。この際彼だけをのけ者にしてしまうほど、エドアルドも兄弟達も薄情ではない。

「……もしウェラー卿が優勝できなかったら……」
「不吉な事を口にしないで下さい、兄上!」
「し、しかし……」
「ウェラー卿は優勝なさいます! ……きっと!」
「お前の気持ちは分かる、エドアルド。それに、ウェラー卿が偉大な武人であることを誰も疑ったりしていない。ただ、こういう試合は何が起こるか分らないものだから……」
「何といってもご隠居様が相手だしな」
「それでも……!」
「もしウェラー卿が敗れてしまわれたら、魔王陛下はさぞ失望されるでしょうね」
「確かに。だがそれ以上に怖いのが……」

 猊下だ。

 その一言が出た瞬間、7人の間に重い沈黙が下りた。

「よし!」エドアルドが突然大きな声で言った。「『ふぁいと』をしましょう!」

 ふぁいと…?
 全員がきょとんと最年少の少年を見つめた。

「僕達には何もできないけれど、僕達一致団結して陛下と猊下をお護りし、合わせてコンラート閣下の優勝を信じて応援していきましょう!」

 手を出して!
 いきなり言われて、エドアルドの兄達とイヴァンがきょとんと目を瞠る。

「士官学校で陛下に教えて頂いたのです。仲間達が共に頑張っていこうと、決意を込めて誓い合う儀式なんです! さあ手を出して!」

 兄達がおずおずと差し出す手をエドアルドがぐいと掴み、どんどん重ねていく。

「ほら! イヴァンも!」
「え? あ……」
「まさか、陛下のお心に添う働きをするつもりはないとでも言うつもりか?」
「とんでもない!」
「だったら手を出せ!」

 イヴァンの手を引っ張って1番上に重ね、更にその上に自分の手を乗せて、エドアルドが全員を見回した。

「僕が『ふぁいと!』と言います。そうしたら皆で気合を込めて『おう!』と声を合わせてください。これで心を1つにして頑張ることになります。陛下がそのように仰せになりました。実際、あの時の僕達も、これをやってどんどんやる気が湧いてきたんです。良いですね? いきますよ?」

 ふぁいとぉ!

 お、おーっ!

 ……勢いでやられると、何だか分からないが言いなりになってしまうというのは、確かに猊下の仰せの通りだ。
 輪になって手を重ねたまま、トマスを筆頭とする兄弟達とイヴァンは考えていた。……頬がひどく熱い。
 満足気に頷いているのは末弟だけだ。
 末弟は。
 オスカーはふと考えた。
 陛下や猊下、そしてその最も近しい─それもかなり個人的に─人々の影響を強く受けているのではないだろうか。
 それは良いことだ。弟が魔王陛下のお側近くにいるという何よりの証だ。素晴らしい。
 なのに。
 ……どうしてだろう。興奮とか高揚とは別の意味で胸がドキドキするような……。

「明日からも頑張りましょう!」

 そ、そうだな……。
 エドアルドの張り切った声に、イヴァンもどこか毒気の抜けた顔で頷いている。
 それはそれで良い事だろう。この2人にとっては。色々と胸に言い聞かせ、オスカーも頷いた。
 明日も朝が早い。何といってもグリエ・ヨザック殿とマリーア様の試合がある。

「……頑張ろう」

 色んな意味で。

 オスカーの心の声が聞こえたかのように、全員が深く頷いた。


□□□□□


 一日中走りまわり、大声をあげ、元気いっぱいに活躍していたせいか、今夜の主は一際寝つきが良い。
 ユーリの口元まで上げた毛布をそっとポンポンと叩いて整え、コンラートはベッド脇の椅子に腰を下ろした。そしてそのまま、主の寝顔を覗き込む。……護衛で名付け親の特権だ。
 小さく開かれた口からは、すくーすくーと、実に健やかな寝息が聞こえてくる。
 コンラートは手を伸ばし、頬にそうっと手を添えた。
 掌にほんのりと温もりが伝わってくる。
 熱い血、命の温もり。
 この人の、情熱、希望、夢、祈り、希いの全てが活き活きと放射されている証。
 それに、こうして触れていられる幸運。

「……俺は、幸せな男です……」

 う…ん。
 コンラートの声に応える様に、ユーリの口から小さな声が漏れてきた。

「………コン、ら……?」

 親とはぐれた子供の様な声。焦点の定まらない黒瞳がコンラートを探している。

「起こしてしまいましたか? 俺はここにいますよ? 側にいますから眠って……」
「コンラッドは…」

 ユーリの声がコンラートの言葉に重なった。

「おれの、コンラッドは……」

 世界で一番強いんだ。

 子供がむずかるように言う。

「おれのコンラッドはぁ、せかいでいちばん強くてぇ、いちばんカッコいいンだぞぉ…?」

 誰に告げているつもりなのか、ちょっと拗ねたように口を尖らせるユーリの愛らしさは、巨大ハンマーが脳天を直撃するに等しい、だが幸せな衝撃を与えてくれる。コンラートの笑みが蕩けるように深くなった。
 上体を乗り出し、ユーリの顔を間近で覗き込んで微笑みかける。

「1番ですか?」
「うん…!」

 答えて、ユーリがぱあっと笑った。笑顔の明るさと、そこに溢れる確信に、一瞬胸を突かれて言葉が出ない。その間に、ユーリの瞳がふっと空ろになった。コンラートが見つめている前で、ユーリが深い眠りに落ちていく。
 くぅ、すくぅ。呼吸が確実な寝息に変わった。
 コンラートの唇が、再び柔らかな弧を描く。

「これだけのエネルギーをあなたから頂いて、俺が負けるはずがありませんね。でしょう? ユーリ。俺はあなたを何より信じているのですから、あなたが信じてくれている俺自身を、俺も信じていきます」

 枕の上に散った黒髪をそっと手で梳く。
 主はもう目を覚まさなかった。



「てなわけで、ちょいと飲まねぇか?」
「会話の流れが見えないんだが」

 ユーリの寝顔を存分に堪能して部屋を出ると、にやにや笑いの幼馴染の顔に視界を支配された。
 まさか坊っちゃんに、悪さしてたンじゃねえだろうな?
 ヨザックに殴りつける真似をして、2人で控えの部屋に入った。

「それにしも、坊っちゃんもひどいわぁ」

 さも悔しそうな声に顔を見れば、どこから持ってきたのかレースのハンカチに口に挟んで引っ張っている。
 噛み千切るなよと声を掛けて、コンラートは酒の並んだ棚から1本選んでテーブルに運んだ。

「アタシだって優勝狙ってるのに〜。坊っちゃんの期待を担う資格は充分あるはずなのに〜」
「陛下はお前に期待してないわけじゃない。あの時はおそらく咄嗟に……」
「咄嗟にお前の名前しか出てこなかったんだよな〜。坊っちゃんったらはくじょお〜」
「ヨザ!」
「冗談だって」

 コンラートの怒った顔が面白いと、ヨザックがグラスを手にけらけらと笑う。
 天を仰いで深々とため息をつくコンラートに、ヨザックの笑いが深くなった。

「ちゃんと分かってるって。とにかく、ご隠居様との対決は先ずは俺からだ」
「ああ。……ユーリはきっと全力でお前を応援するぞ。期待に応えろよ?」
「とーぜん」

 ヨザックが指をコンラートに突きつける。

「お前の露払いは、このグリ江がちゃーんと務めてあ・げ・る」

 ばかヨザ。
 あ、ひどーい。
 軽口を叩き合って、2人はグラスをチンと合わせた。


  □□□□□


 満員御礼の闘技会場で、ヨザックとマリーアが対峙していた。

 久し振りの大会ではあるが、開催前からかなり下馬評の高い選手が実は何人もいた。
 大抵は地元の道場に所属する武人達だったのだが、蓋を開けてみると、意外にも全く無名の選手達が一気に衆目を集めることとなった。
 今対峙している、「スールヴァン道場所属のスケサブロウ」選手と「色々不明で不詳のマリーア」選手もそうだ。
 「スケサブロウ」はこれまで相手と1合以上剣を合わせることもなく勝ちを納めていたし、「マリーア」は何と、グランツが誇る偉大な武人であり、現在「ご隠居様」の1人としてフォングランツに重きをなしている『マリーア様』と同じ名を名乗り、どころか、その技までも我が物にしている。
 故にこの2人の対決は注目度も高く、闘技場には怒涛のごとく人々が押し寄せていたのである。

「何じゃ、つまらぬの。もっと趣向を凝らした装束を見せてくれるかと思うたぞ?」

 今日は濃い紫色の地に金銀紅の牡丹(もどき)柄チャイナのマリーアが、本当につまらなそうに扇を揺らしている。
 対するヨザックは、シャツとズボンとブーツという軽装に、急所だけをきっちり押さえた簡易型の革鎧を身につけている。どちらかというと機動性を重要視した格好だ。

「う〜ん、ちょっとは迷ったんですけどね〜。でもアタシがドレスを着るとマリーア様の影がうすくなっちゃうから。ご期待に添えず、ごめんなさいね〜」

 うふ、としなを作って答えるヨザックに、「ふざけおって」とマリーアが眉を顰める。

「まあ、よいわ。最悪、体調を崩したのなんのと理由をつけて逃げ出すかも知れぬと考えておったからの。出てきただけ良しとしよう」
「おや。どうして俺が逃げ出すと?」
「陛下のお側近くにいて、あまりに無様な姿を晒すわけにもいかぬであろ?」
「またそんなご冗談を〜。マリーア様ったらお・茶・目!」
「なんじゃと?」
「だって俺負けませんし〜。坊っちゃんにお見せするのは華麗に勝利する俺の姿ですから」
「………減らず口を……!」

 不愉快気に吐き捨ててマリーアは扇を掲げ、ヨザックは剣を抜く。

「な、なんかさ、2人の間にさ、火花が散ってるよな?」
「散ってる散ってる。チャイナ女王の座が掛かってるもんね。ヨザックも必死だ」
「……争ってるのってそこなのか…?」
「まあまあ。ほら始まるよ」

 観覧席の縁に村田と並んで身体を凭せ掛け、ユーリは会場にいる2人に目を凝らした。
 火花はすでに炎となって2人を包んでいる。ような気がする。

 司会兼進行役兼審判が、すっと手を上げた。

「これより試合を開始します。両者用意は…良いですね。では…始め!」

 間髪入れず、ヨザックはマリーアに向かって一気に突き進んで行った。
 足は激しく動いているが、低い体勢を取った上体は安定している。マリーアに向けた視線は微動だにしない。
 マリーアは、一瞬で変化した男の鋭い視線に、ほんの半呼吸、射竦められた己を自覚していた。チッと舌を打つと同時に扇を投げ上げる。
 扇が中空で止まり、分裂する。

「行きゃ!」

 分裂し、鳥となった扇がヨザックに向かって飛んでいく。
 やはりヨザックという男を警戒しているのだろう。鳥はこれまでの試合で見せたものより格段に数が多い。
 真紅の鳥はヨザックの元に一直線に飛んでいくと、即座に四方八方から襲い掛かり始めた。

「グリエちゃん!」

 ユーリの口から思わず声が迸る。

「妾の鳥の餌食になるがよいわ」

 おっほほほ……と高らかに上がりかけたマリーアの笑いが、ぴたりと止まった。
 そして猫のような目、その眦がきゅうっと上がった。

「……っ、こやつ…!」

 マリーアに対した敵は、鳥に襲い掛かられると先ず間違いなく足を止める。そして鳥を振り払おうと、のたうち回った挙げ句に自滅していくのだ。振り払っても振り払っても襲い掛かる無数の鳥、そして切り裂かれていく我が身。誰もが恐慌に陥り、戦うどころではなくなってしまう。冷静さをなくした戦士は、その瞬間に戦士ではなくなる。

 だがヨザックは。
 襲撃してくる鳥を、一切無視した。
 ただ唯一、真正面から彼の突進を阻もうとする鳥を剣で跳ね飛ばすだけで、他の鳥が肌や服、革鎧を切り裂いても、その表情は全く変わらない。
 マリーアは、己が飛ばし、縦横無尽に飛び回る真紅の鳥の壁の向こうから、自分を見据える男の瞳に愕然としていた。
 これまでマリーアの鳥に襲い掛かられて、これほど冷静な、そして闘気に溢れた眼差しを向けてきた敵はいない。
 それどころか……あの男の唇には笑みすら浮かんでいるではないか……!
 マリーアは背筋がぶるりと震えるのを実感した。……初めての感覚だ。

 ヨザックがマリーアとの距離を一気に縮める。
 マリーアが剣の間合いに入ったと見た瞬間、ヨザックは鋭くその剣を突き出した。
 マリーアがハッと身を捩ってそれを避ける。同時に扇を出し、鋭く振った。閉じた扇が鋭い刃を持った短剣に変わる。

「妾が接近戦に弱いと踏んだかえ!?」
「踏みましたとも」

 笑いながら、ヨザックは更に間合いを詰めた。

「その戦法、運動には不向きなそのお衣装、敵を間合いに入れるのはお嫌いとみた。当ってるでしょ?」
「浅薄な判断じゃ!」
「いえいえ、とんでもなーい」

 言い合いながら、ヨザックの剣とマリーアの短剣は何度も交差し、鋭い音と火花を散らしている。だが攻撃しているのは専らヨザックで、マリーアは防戦一方だ。

 ちいっ! 苛立ったマリーアが、長い足を一閃させる。スリットから伸びた白い足が、ヨザックの腹に襲い掛かった。が、ヨザックは軽々とそれを躱した。

「頂き!」

 蹴りを躱されたマリーアの体勢が一瞬崩れたのを、ヨザックは見逃さなかった。
 呼吸を置かずその身に迫ると、短剣を握るマリーアの手首を素早く捉え、剣を細い喉元に押し当てた。
 2人の動きが止まる。

 しんと闘技場が静まった。

 舞い上がった砂埃が、ゆっくりゆっくり地に下りていく。
 舞踏を始めるかのような姿で組み合う2人の姿が、観客達の前に露になる。

「俺の勝ちです」

 耳に優しく囁かれ、マリーアがキリッと歯を噛み締める。

「……認めたくはないが」マリーアがヨザックの瞳を下から覗き込むようにして言った。「間近で見ればおぬし、なかなか良い男だの」
「おや、さすがご隠居様。お目が高〜い」
「いつまで淑女の手を押さえつけているつもりじゃ? その剣も。無礼であろ。放しゃ」
「放したら襲い掛かってくるでしょ? その前にちゃーんと負けを認めてくださいね」
「……前言撤回じゃ。性悪め」

 妾の負けじゃ!
 それでも潔く宣言するマリーア。ヨザックが「どうも〜」と手と剣を引いた。

「しょ…」進行役兼審判が気を取り直した様に手を上げた。「勝者!」

 スールヴァン道場所属、スケサブロウ選手!

 ドウッと観客席が沸いた。

「や、やったーっ!! さっすがグリエちゃん! 強いっ! ご隠居様に勝った〜!!」

 わおー! 飛び跳ねるユーリの隣で、村田も「エラいエラい。後でご褒美をあげよう」と拍手している。
 観客席の別の一角でも、一際賑やかに喝采を上げている集団がいるが、おそらくスールヴァンの門人達だろう。

「すごい……っ! 見たか!? なんて鮮やかな……!!」
「まさかご隠居様相手に、こうも見事に勝ちを納めるとは…! さすがは眞魔国三大剣豪グリエ・ヨザック殿!」
「魔力を持たぬ身で、伝説の勇者相手に一歩も譲らぬあの胆力! 剣の技量といい、何という……。すごい……!」
「聞きしに勝る武人だ。エドアルド、お前も武人として己の無力を嘆くのなら、ご隠居様の魔力ではなく、あのような人物を前にしてこそ為すべきだぞ」
「はい、兄上、僕も仰るとおりと思います! 本当に、グリエ殿は素晴らしい剣士です。でも! ウェラー卿は更にその上をいかれるのですよ!」
「この大会を目に出来る者は、本当に幸運だぞ! 武人であれば尚のこと、ここで目にしたことはきっと、生涯の財産になる…!」

 エドアルド達兄弟も、イヴァンも、そして周囲を固めて護る兵士達も、興奮に我を忘れて絶叫し、手を振り上げている。
 自分たちの地元、グランツの偉大なる英雄であるご隠居様の1人を見事に破ったヨザックに対して、だが現代のグランツの人々は怒りや悔しさではなく、純粋な感歎と畏怖の思いを抱いているようだ。

 興奮しきりのエドアルド達の傍らでは、アーダルベルトが「ふふん」と鼻を鳴らして余裕を表情を浮かべ、そのすぐ側ではガスール老人が呆然と闘技場を見つめている。

「じいさん、どうした? まさか400年前の技が永遠に勝ち続けると思ってたわけじゃねぇだろ?」
「年数など関係ござりませぬ。あの方々のお力は、その技は、絶対不滅のもの、完全無欠にして何を相手にしようと決して、決して敗れるようなことはなく……」
「敗れたじゃねえか」

 ぐうっとガスール老人の喉が鳴る。

「確かに腑抜けも多くなった。何のために腕を磨くか、理由をなくして剣を折ったヤツもいる。けどな、爺さん、それでも強いヤツは強い。特に、護りたいと思うものを持ってるヤツはな。そして、爺様や婆様達も完全無欠なんかじゃねぇのさ。……グリエは最初から勝算があったんだぜ? 爺さん、昔を懐かしむのも自慢するのも良いが、あまり今時の若者を馬鹿にするもんじゃねぇよ」


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「……やりおる」

 貴賓塔の露台の縁に身を任せ、頬杖をついて闘技場を見下ろしていた赤毛の女がニヤリと笑って言った。

「楽しいな」女の側に数人の男達が集まってくる。「これほどわくわくするのは何年ぶりかな」
「少なくとも俺は、忘れもしない382年前のガンダーガルの戦い以来だ。あの時も1人、剣を交すのが楽しみで仕方のない好敵手がいたからな。……骨のある敵というのは、いそうでなかなかいないものだ」
「確かに」男達が笑いながら、闘技場の朱色の髪に視線を向ける。「ああいうのを目にするのは久し振りだ」
「ともかく」

 小麦色の肌を惜しげもなく晒す真紅の女が、頬杖のまま言った。

「武人と称する今時の腰抜け共に、しっかりとカツを入れてやらねばならんのだからな。我らが負けていては話にならん」

 勝つぞ。
 女、ヒルダの言葉に、周りを囲むご隠居様達が一斉に「おう」と頷いた。


 でもぉ。
 ヨザックがドレスの襟元を整えているマリーアに言った。

「性悪度と腹黒度に関しちゃ、俺なんてひよっこもひよっこ。天空のお月様と土の中のミミズ、それ以上の差があるんですよー」
「……おぬし、それは一体誰と比べての話じゃ?」

 とにもかくにも。
 ヨザック、ご隠居様に勝利、である。


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やっとヨザックの試合が終わりました〜。
というか、確か14話はヨザックの試合から始まりますとか言ってたような気がしますが、結局ラストになってしまいました。こうやって話数が嵩んでいくんですね。
次はコンラッドです。
ご隠居様、残り5人。
……こんなに作るんじゃなかった……といっても後の祭り。
頑張ります!
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