グランツの勇者・10

「おお、ちょうど良かった! カクノシン! レフタントの殿様と跡継ぎの若様がお見えになるそうだ。ぜひ君を紹介………って、え!? おい!?」

 カクノシン!? ミツエモン!

 手を繋ぎ、脱兎のごとく走り出した2人の背中を、道場主エイザムの声が追いかけてくる。

「すいませんっ! ちょっとトイレ!」

 二人三脚よろしく足並みを揃え、とりあえず目に付いた建物の影に2人は滑り込んだ。
 並んで壁にもたれ掛かり、全く同じタイミングでほーっと息をついたところで、ユーリとコンラッドは顔を合わせた。
 赤茶色の髪の毛越しとサングラス越しで、2人がしみじみ視線を合わせる。その途端、いきなりユーリが「ぷぷっ」と吹き出した。

「ユ、ミツエモン?」
「…ご、ごめん。おれ……何だか今、急に……。あのね、コン…カクさん」
「何だい? ミツエモン?」
「考えてみたらさ、おれ達ってば、観光旅行に来ただけなんだよね。なのに、こんなトコで一体何やってるんだろうって思って。こんな慌てて逃げ出したり」

 何にも悪いことはしてないのに、吹っ飛んで逃げ出した自分の姿を思い浮かべたら、何だかもうおかしくて。
 口を手で覆い、ぷくくくとユーリが笑う。
 コンラートがまたもしみじみため息をついた。

「………できれば、もうちょっと早くそれに気づいてくれたらなあ。俺なんて、こんなヘンな人になってるのに」

 グウェンが見たら何と言うか。
 オーバーに肩を竦め、情けなさそうに自分を見下ろすコンラートに、ユーリはさらに吹き出した。
 声を殺しながらも弾ける様に笑うユーリに、コンラートの表情も楽しげなものに変わる。

「ホントに、おれ達ってば……」

 何やってんだろね。
 ぷっくっくと2人、額をくっつけ合うようにして笑った。


「……さすがに駄目だよね、顔を合わせるのは」
「この格好です…だからね。たぶんバレないだろうとは思うが……」

 もし正体がバレても、レフタント卿は大喜びするだけで特に問題はないのだが、お忍びと情報収集はそこでストップしてしまうだろう。せっかく仲良くなった道場の人達とも、否応なしに距離ができてしまう。レフタント卿はガスール老人の様に、ユーリがお忍び中であること察しても、それとなく話を合わせてくれるような繊細な心遣いにちょっとばかり縁遠いような気がするのだ。

「気遣うどころか、俺達がここにいることを自分の手柄にしそうな気もするね。少々自己顕示欲が強い人物のようだし……」

 レフタント卿とまともに話したことはないにも係わらず、ユーリは深く納得して頷いた。

「これからどうする?」
「エイザム殿は俺達を探させるだろうから……仕方がない、今日のところは戦略的撤退ということで」
「だね。でも……いきなりいなくなったら怪しまれるんじゃない? 明日、どう言い訳する?」
「気分が悪くなったとか、それこそ何とでも。最悪の場合は消えればいいわけだから」
「……それは…そうだけどー…」
「最悪の場合だよ。とにかく今はここを出ることだけを考えて」
「…うん。分った」
 壁の陰から顔を出し、そうっと辺りを見回して、人気のないことを確認する。おそらく門人達は総出でスポンサーの歓迎に出向いているのだろう。

「……何か、ホントにスパイ大作戦やってる気分になってきたなー」
「癖になりそうなんて言わないで下さいね?」
「カクさん、油断するとすぐに敬語になっちゃってるぞ? よし! そろそろ行こう。カクさん、ほら、おれの手を握ってついてきて!」
「……ユー…ミツエモンが先に行くの?」
「もちろん! つーか、どう考えたってカクさんがおれを引っ張っちゃおかしいじゃん。ここはおれにまっかせなさーい!」

 よし! 今だ! コンラートと手を繋ぎ、正門と思しき方向を見定め、走り出そうと足を踏み出した。ところへ。

「カクノシン殿!」

 ……3歩も進まない内に見つかってしまった。あちゃーと呟くユーリの後で、コンラートが額を押さえている。
 進行方向からは、フィセルが鋭利な風貌をにこやかに緩ませて駆けてきた。

「良かった、こちらにおいででしたか。レフタント家のご当主様と若君がご到着です。すぐにお連れするようにと師匠が……」
「済まないんだが」慌ててフィセルの言葉を遮るコンラート。「急に用事を思い出したんだ。すぐに行かないとならない。エイザム殿には君からよろしく伝えてもらいたい」

 少々焦り気味の口調で伝えるコンラートに、フィセルが仰天したように目を剥いた。

「用事って……カクノシン殿、もしかして、レフタント家がどういう家柄かご存じないのですか? レフタント家はフォングランツの……」
「それは充分承知している。だがすぐに出ないとならないんだ。悪いが頼む。このまま行かせてくれ」
「しかし……! レフタント家のご当主に覚えが目出度くなれば、カクノシン殿も……」

 フィセルが懸命に説得しようと言葉を連ね始めた時、ハッとコンラートが顔を上げた。
 母屋の方向からざわざわと人声が近づいてくる。

「……そうか! ガスリー、お前も敵わんほどの腕前か! さすがはルッテンベルク師団の生き残りよ。しかしこれは我が家にとってもまさしく吉兆! さっそくにも……」

 聞き覚えのある男の、辺りを憚らない大きな声に、コンラートは思わずユーリの手を取った。

「裏から出よう。…フィセル、済まないが後をよろしく頼む!」
「待って下さい!」

 フィセルが咄嗟にコンラートの腕を掴む。

「何か訳があるんですか!? もしかして……レフタント家と何か確執があるとか…? あ、あの……俺! カクノシン殿のお役に立ちます! 何でも言ってください! あ……でも、もし師匠達に迷惑が掛かるとしたら………いえ! だとしても、俺が道場を出て行けば済むことですし!」
「いやいやいや、それはないない」

 かなり思い込みの激しい青年に、ユーリとコンラートは揃って手を左右に振った。

「とりあえず外へ出よう」

 ユーリの肩を抱くようにして、コンラートが踵を返す。だが。

「カクノシン! ここにいたか!」

 遅かった。
 コンラートはさりげなくユーリを背後に隠し、声のした方向に体を向けた。

「おお! この男か!」

 練習場に案内するところだったのか、先頭に立つエイザムのすぐ後には紛れもないレフタント卿が、息子のイヴァンやエイザム達を従えて立っていた。その後にはレフタント家の家人と思しき武人達と、シュルツローブの大勢の門人達が控えている。
 満面の笑みを湛えていたレフタント卿だったが、「カクノシン」の姿を認めた途端、きゅっと顎を引き、「……これはまた変わった風体だの」と眉を顰めた。
 だがすぐに、少々わざとらしく相好を崩すと、親しげに腕を広げ、コンラートに近づいてきた。

「お主が元ルッテンベルク師団の一員という……あー、名前は何だったかな? え? カク、ノシン…? 変わった名だな。ああ、まあ良い。カクノシン! よくぞシュルツローブ道場に入門してくれたな。歓迎するぞ!」
「カクノシン、フォングランツの親族筆頭でいらっしゃるレフタント家の殿様だ。ご挨拶を」

 レフタントの当主に先んじてコンラートの傍らにやってきたエイザムが、重々しく宣う。

「……あー…」手を口元に当て、コホンと咳払いして、「お初にお目にかかります。カクノシン、と申します」

 ゴホゴホ。無理に低い声を出し、わざとらしく咳をして、目礼すると見せかけてスッと目線を外す。同時にもう片方の手で、覗き見しようとぴょこぴょこ動く背後の主をしっかりと押さえる。
 不審なコンラートの動きに、レフタント卿が眉を顰めた。慌ててエイザムが取り成しに入る。

「殿、カクノシンは目が不自由ですので、他の者の様には……。何とぞお許しを」
「…む、そうであったな。……うむ、そういうことであれば無理もなかろう。良い良い、挨拶など気にするな。それよりも、噂の剣の腕をぜひ見せてもらおうではないか! いや、すぐに私の供をして、城に参上してもらった方が良いかな?」
「殿、それは…」
「エイザム、お前も一緒に来るが良い。実はの、お前達も知っているかと思うが、かのウェラー卿もまた今グランツに来ているのだ。もちろん魔王陛下のお供としての」
「ウェラー卿が!?」

 思わず叫んだのはエイザムではなく、ウェラー卿の大ファンであるフィセルだった。ライトが当ったかの様に顔を輝かせた青年は、だがすぐに己の無礼に気づき、慌てて頭を下げた。

「もっ、申し訳ありませんっ!」
「構わん構わん」レフタント卿が鷹揚に頷く。「武人を目指すならば、ウェラー卿コンラートの名は憧れであろう。その気持ち、良く分かるぞ? 何と言ってもウェラー卿は、眞魔国の歴史に輝ける名を残す、生きた伝説の武人であるからのう」

 そうそうその通り。コンラートの背中に額をつけて、ユーリは呟いた。

「カクノシン、そなた、ルッテンベルク師団の一員であれば、さぞウェラー卿と会いたかろう。ウェラー卿とて、かつての部下との再会を喜ばぬはずがない。この私が取り次いでやるゆえ、ウェラー卿と積もる話に花を咲かすがよいぞ?」

 ドッペルゲンガーじゃあるまいし、できませんから、そんなこと。

 魔王陛下の側近中の側近であるウェラー卿に接近する理由ができて、レフタント卿はご満悦らしい。フィセルに向かい、「何だったら、そなたも供としてついて来るがよいぞ。うまくすれば、魔王陛下にもご挨拶が叶うやもしれぬしな」と気前良く声を掛けている。

「申し訳ありませんが」

 盛り上がるエイザム達を前に、コンラートはきっぱりと言った。

「急用ができましたので、今日はこれで失礼させて頂きます。それでは」

 ぐずぐずして妙なツッコミをされても困る。唖然として自分を見返すエイザム達を無視して、コンラートは背後に隠していたユーリを抱え込むように歩き始めた。ユーリもレフタント卿から顔を背け、コンラートの腕を引っ張るように足早に正門に向かう。

「待てぃっ!」

 しばし呆気に取られていたらしいレフタント卿が、コンラートの背中に怒声を叩き付けてきた。

「わしがウェラー卿に会わせてやろうというに、何だ、その無礼な態度は!? 貴様……!」

 さては、ルッテンベルク師団の生き残りというのは出まかせだな!

 決め付けるレフタント卿に、門人達がどよめいた。

「真にルッテンベルク師団の一員と言うなら、ウェラー卿に挨拶の1つもしたいと願うのが当然の情というもの。それをまるで迷惑とでも言いたげなその態度……。こやつ、偽者に違いないわ! 救国の英雄の一員を騙り、その名を汚すとは、許すべからざるやつ……! エイザム! そなた、このような男に欺かれるとは情けないぞ! それでも我がレフタント家の武術指南か!? ……お前達! この痴れ者を捕らえよ! ルッテンベルク師団の生き残りを騙る下劣な男を捕らえたとお知らせすれば、ウェラー卿だけではない、魔王陛下もお喜びになるであろう……!」

 魔王陛下に繋がるネタは、何であろうと拾いたいらしい。主の命を受け、レフタント家の私兵が動き出す。
 ムッとしたユーリは、思わず身体をレフタント卿達に向け、叫んだ。

「コ…っ、カクさんは嘘なんかつかないぞ! 正真正銘ルッテンベルク師団の一員だったんだからな! そりゃ今のはちょっと不審者っぽいとは思うけど……。でもっ。自分の思い通りに動かないからって、簡単に偽者扱いすんなよな! 人には事情ってモンがあるんだから!」

 実は私が噂のウェラー卿本人ですって事情が。ついでに魔王もいたりするし。

「ミツエモン!」

 コンラートがユーリを懐に引き戻す。
 高貴な存在である自分に叩きつけられた暴言に、愕然と顎を落としていたレフタント卿の顔が、瞬く間に赤黒く染まり始めた。

「ぶ…っ、無礼な……!」

 小僧、許さん…! そこに直れ!
 レフタント卿の手が剣の柄に掛かった。コンラートが素早くユーリを背後に回す。

 ……いざとなれば、この場で身分をばらすしかないか。
 コンラートがそう考えた時。

「お待ち下さい、父上」

 それまでずっと沈黙したままだったレフタント卿の1人息子、イヴァンが、スッと前に進み出て言った。

「イヴァン、そなたは下がっておれ」
「父上、早まった真似はなさいませぬようお願い致します」
「……な、なんじゃと……?」

 息子の言葉に、レフタント卿がきょとんとした顔を向ける。

「ようやく復活した大会を目の前にして、レフタント家の者が大会参加者と争ったとなれば、あらぬ噂を生み出すことになります。ひいては大会の開催にも関るかと。魔王陛下もお見えになられた記念すべき大会です。その名に、傷1つつけることは許されませぬ」
「争うのではない! 捕らえるのだ! そもそもこのような下賤の輩の1人や2人……」
「父上!」

 ピシリと遮ると、イヴァンはちらりとコンラート達に目を向けた。

「どのような罪をもって捕らえると仰せですか? その者は何かを盗んだわけでも誰かを傷つけたわけでもありません」
「このわしに対して無礼を……!」
「無礼を働かれたという理由だけで、我が家の私兵が闇雲に人を捕縛することはできません。お忘れですか? そもそもこの者はただ、急用があると申しているだけではありませんか。父上の思し召しには添わぬかもしれませんが、無礼を告発するほどのものではありません。それに父上、彼はエイザム殿が恐るべき遣い手と評した人物です。万一当家の者が傷つけば、ことは我が家の傷だけでは済みません。大切な大会を前にして、軽挙はお慎み下さい」

 息子に懇々と諭されて、少々バツが悪くなったらしいレフタント卿が顔を盛大に歪めながらも、「確かに……」と頷いた。
 父親が不承不承頷いたことを確認すると、イヴァンは即座にコンラートに身体を向けた。

「もう良い。下がりなさい」

 顔は無表情だが、目が「早く行け」と言っている。
 コンラートは懐に抱き込んだユーリを促した。じっとイヴァンを見つめていたユーリが、ハッと気付いた様に前に飛び出し、コンラートの手を引き始める。
 そして2人がイヴァンのすぐ傍らを通り過ぎようとしたその時。
 ふいにイヴァンが、スッと2人に体を寄せてきた。

「……アーダルベルト殿が外で待っておられるようです。どうぞお気をつけて」

 ハッと目を瞠り、視線を巡らす。
 だが、ユーリの視界に入ったイヴァンは、すでに彼らに背を向け、父親の下に向かって歩き始めていた。


□□□□□


 夜。フォングランツの城の客間で、テーブルを囲む面々がいた。
 客間にいるのは、魔王ユーリ、大賢者村田、コンラート、そしてヨザックの主従カルテット、さらにレフタント卿の1人息子、イヴァンがユーリ達の真正面のソファに座っている。

「わざわざ来てもらってごめんね? お父さんは何か言ってた?」

 気さくに声を掛ける王。鹿爪らしい顔で「いいえ」と答えるイヴァン。
 はい、どうぞーとお茶を置くヨザックに軽く目礼を返してから、イヴァンは改めて王に顔を向けた。だが視線を合わそうとはしない。王と真正面から目を合わせるのは礼儀に悖ると考えているらしい。

「お召しを受けまして後、すぐに準備を整え家を出てまいりましたので、父には何も伝えておりません。頂きました書状にも、1人でとの仰せでございましたし」

 もし息子が魔王陛下の直々のお召しを受けたと知ったなら、あの父親は喜び勇んで、何が何でも同行しようとするだろう。息子は自分の父の性格をよく理解しているようだと、ユーリ達は頷いた。実はそれがちょっとばかり気がかりだったのだ。
 こう言っては何だけど。村田が口を開く。

「似た者親子かと思っていたんだけど、そうでもなかったみたいだな。それにしても、あの変装を見破るなんて、なかなか観察力があるね、君。どうして分ったんだい?」

 大賢者の言葉に、「恐れ入ります」と頭を下げてから、イヴァンは軽く小首を傾けた。

「どうしてと申されましても、何がどうとはお答えできません。ただ、あの場におられたお2人の雰囲気に既視感のようなものを感じました。確信致しましたのは、陛下のお声でございます。父に言い返された時のお声で、これは間違いないと。……陛下」

 イヴァンがそこで、ユーリに向かって頭を深々と下げた。

「シュルツローブ道場におきましての我が父の無礼。何とぞお許し頂きたく……」
「無礼なんてされた覚えはないよ」

 驚いたようにユーリが目を瞠る。

「だってあそこにいたのは流浪の剣士のカクノシンとその付き添いのミツエモンなんだから。それに、自分で言うのも何だけど、かなり挙動不審だったと思うしさ。……それにしても1発でバレたのは初めてだなー。ガスールお爺ちゃんの場合は、コンラッドの顔を覚えていたって理由があるけど。それに、おれはまだしも、あの格好のコンラッドを見破るのは凄いよ」

 な? コンラッド。
 同意を求められて、今は私服でユーリの隣に座っていたコンラートが「仰せの通りです」と、複雑な表情で頷いた。

「正直申しまして……あんな格好でも俺だと分かるというのは……ちょっとショックです……」

 情けなさそうなコンラートに、イヴァンを除く全員が吹き出した。

「それより」

ユーリが急いで表情を戻すと言った。

「まずはお礼を言わなくちゃな。今日はありがとう。正直助かったよ。コンラッドもおれも、あんなところで正体バラしたくなかったしね。これが言いたくて今夜わざわざきてもらったんだ。ホント、ごめんな?」
「とんでもございません。ですが……驚きました」

 お伺いしてもよろしいでしょうか?
 慎み深く視線を伏せながら、イヴァンが言った。

「いいよ。何でも聞いてくれ」

 気安い言葉に、イヴァンが「は」と軽く頭を下げる。

「何ゆえ、あのような身なりでシュルツローブ道場にお出であそばされたのでしょうか。シュルツローブは我が家の武術指南を勤める道場でございます。先だって父も申しておりました通り、ご希望とあれば我らがご案内いたしましたものを……。それに、聞きましたところ、ウェラー卿がシュルツローブの一員として大会に参加なされるとのこと。我らにとってはこの上なき光栄なお話でございますが……」

 あー、それはなー。ユーリが「たはは」と照れくさそうに笑いながらこめかみをポリポリと掻く。

「間違ってはいけないな」

フォローするように村田が発言した。

「今陛下も仰せになったが、あの時道場にいたのはカクノシンと付き添いのミツエモンだ。大会に参加するのはカクノシン。決してウェラー卿ではない」
「……お身の上を、エイザム達も存じ上げないのですね?」
「そうなんだ」ユーリが頷いた。「ホントはさ、シュルツローブ道場を探り……いやいや、見学に行っただけだったんだよ。それが入門希望と間違われて、まあそのー……成り行きでそういうことに。今村田も言ったけど、大会に参加するのはあくまでカクさんなので、そのつもりでいて欲しいんだ。それと……」

 どうして身分を隠して、変装までしてあそこいいたかだけど。
 続けるユーリに、イヴァンが「はい」と応える。

「やっぱり、民のありのままの生活と声を見たり聞いたりしたいってことだな。魔王だぞってあの場に行っても、誰も本音を聞かせてはくれないし。お仕着せの美辞麗句や礼儀正しい応対なんて、おれ、全然欲しくないんだ」

 にこやかな笑みを浮かべながらも、きっぱりと言う魔王陛下を、イヴァンは目にかすかな驚きを浮かべて見つめている。
 それは…と小さく呟いて、だが後を続けることなく、イヴァンは再び視線を伏せた。

「では」わずかな沈黙を置いて、イヴァンが口を開いた。「もう1つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろん。どうぞ?」

 そこで初めて、イヴァンは顔を上げ、避けることなくユーリと視線を合わせた。

「恐れながら……民の声をそれほど大切になさっておられる陛下が、何ゆえにアーダルベルト殿をお許しになられたのでしょうか」

 その質問を発した瞬間、その場にいた全員、ソファに座るユーリも村田もコンラートも、そして窓際に身体を凭せ掛けて立っていたヨザックも、驚いたようにイヴァンを見返した。
 ぱちくりと目を瞬かせるユーリの、その表情を見逃すまいとするかのように目を凝らすイヴァン。よほど胸に溜まっていた疑問だったのか、その眼差しが放つ光は険しい。

「……ここに来た最初の時に言ったと思うけど……」
「アーダルベルト殿は大丈夫だと思われた」
「うん」ユーリが頷く。「本当にただそう思ったんだ。だから言葉で説明しろと言われてもなかなか難しいんだけどな」
「アーダルベルト殿は、人間に与し、反魔族の行動を起こしただけではありません。陛下のお命すら奪おうと画策したと聞いております」
「画策どころか、実際剣を抜いて向かってきたこともあったよね」

 村田がお菓子を口に放り込みながら余計な事を言う。

「……ならば尚更のこと、国家への裏切り行為と陛下への大逆です。アーダルベルト殿の罪は申し開きの余地のないものではありませぬか。これをなぜあっさりと許されたのでしょう。アーダルベルト殿を許されては、国の内外に示しがつかぬと愚考いたします」
「我が国に大逆罪は存在しないけどね」

 またも合いの手のような大賢者の茶々に、煩げに眉を顰めたイヴァンがちらりと視線を流す。
 ……怖いもの知らずの坊っちゃんだとヨザックは肩を竦め、日本語でいう「知らぬが仏」とはこういうときに使うのだろうかとコンラートは考えた。

「法的に存在しなくとも、大逆という言葉と、その言葉の持つ重みを我らは知っております。それで充分ではございませんか?」

 言い返したイヴァンに、村田が「へえ?」と楽しそうに笑った。
 そんな大賢者からスッと目を離すと、イヴァンは改めてユーリと向かい合った。

「アーダルベルト殿が出奔し、反魔族的行動を起こしたことが判明した時、私の父を筆頭とする親族の多くが、アーダルベルト殿を廃嫡する旨、ご領主であるフォングランツ卿に申し上げました」
「うん。知ってるよ。でもアーダルベルトのお父さんはそれをしなかった」
「はい。そのために、グランツは反逆を疑われ、十貴族としての面目を甚だしく失墜させることとなりました。そして民は、いつ魔王陛下が我らを叛徒とみなし、攻撃してくるか分らない状態で、30年もの間怯え続けることとなったのです」

 それはエドアルドからもよく聞いていたし、このグランツにきてわずか1日の間にも充分思い知らされた。
 グランツの民がどれほど辛苦に耐えてきたのか、それを思い、ユーリは大きく頷いた。

「陛下は我が父をどのように観られましたでしょうか」
「レフタント卿を?」

 いきなりの問い掛けに、その真意が読めないユーリがきょとんとイヴァンを見返す。

「おそらくは取るに足らぬ小人物と観られたかと存じます。息子の口から申すのもどうかと思いますが、名家の誇り高く、誇りを自覚しているが故に自己顕示欲が強く、身分の高さと能力を混同した野心家で、出自や立場の低い者と看做せば軽々しく見下す無用心な性情がございます。その部分につきましては、陛下、そしてウェラー卿にもご理解頂けると思いますが……」
「……自分の父親をすごく冷静に分析してるんだな……」

 冷静というよりは、非情と言った方が合っているかもしれない。

「恐れながら、陛下や猊下、そしてフォングランツのお歴々に比べれば卑小ではありますが、私も人の上に立つことが定めの身の上でございますので、人を客観的に観察する必要性は身に沁みて感じております」

 ……なるほど。
 それしか言えずに、ユーリはコクンと喉を鳴らした。

「ですが」

 イヴァンが眦をキッと上げてユーリの目を真っ直ぐに見た。

「父は決して悪人ではございませんし、愚か者でもありません」

 最も愚かなのはアーダルベルト殿。その次がフォングランツ卿ウィルヘルム様とそのご兄弟。

 イヴァンがきっぱりと言った。

「フォングランツ家には、国家に仕え、魔王陛下に仕え、グランツの民を守る責務がございます。アーダルベルト殿があのような形で国を出奔したからには、ご領主、フォングランツ卿ウィルヘルム様は即座に彼を切るべきでした。ですがあの方はそれをなさらず、かといって、アーダルベルト殿を支持して血盟城と対立することもなさらなかった。ただただ辞を低くして、身を慎む以外何もなさらず、そして民に対しては決して軽挙妄動に走らぬようにと命じるのみ。道場はまともな稽古も禁じられ、武門のグランツの名は地に堕ちました。魔王陛下のお命を狙うような大罪人を庇い、そのくせ中央と対立することを望まず、我らを含め、グランツの民はいわば生殺しの状態で30年もの間放っておかれたのです。これが英明な領主のすることでしょうか」

 湧き上がる感情を無理矢理抑えるかのように、イヴァンがぐっと唇を噛み締める。

「アーダルベルト殿を廃嫡し、勘当すべし。そして即座に血盟城に上がってその旨を奏上し、グランツに叛意これなきことを申し開きせよと、父は何度もフォングランツ卿に申し上げました。親族の筆頭として、それが義務だと考えたからです。このままではグランツの民は呼吸すらまともにできなくなる。グランツは枯死してしまうと、父は口癖の様に言っておりました。……父は欠点の多い人物ではありますが、決して非道な人ではありません。父なりに民の苦労を憂いておりましたし、上に立つ者としてその義務を果たさねばならぬと考えておりました。そのような父を、皆様方は愚かと思われるでしょうか…?」

「思わないね」

 即答したのは村田だった。

「少なくとも、アーダルベルトの所業への対処として、君のお父さんの進言は正しい。僕もそう思うよ」

 全面肯定されたことがよほど意外だったのか、イヴァンが目を瞠る。だが、それに対して村田が苦笑を浮かべたのを見て、慌てて視線を戻した。

「あの……」ちょっとしどろもどろになるイヴァン。「……ありがとうございます。その…そのように仰って頂けるとは思っておりませんでした……」
「どうして?」

 ユーリに尋ねられて、イヴァンはまた思い出したように視線を伏せた。

「陛下が……お命を狙われてもなお、アーダルベルト殿を許されたから、です。父や私がアーダルベルト殿に抱く感情は、陛下のお心に背くことになりますゆえ、ご不快に思われるかと……」
「そんなことはないよ」

 ユーリに明快に告げられ、ハッと顔を上げたイヴァンが、真正面に座る至高の存在の笑顔に眩しげに目を細めた。

「でもさ、グランツは反逆者にされなかった訳だし、アーダルベルトも反省……たぶん……して、帰ってきたわけだし。結果的には……」
「結果論など無意味です…!」

 激しい口調で遮られて、ユーリの肩がぴくりと跳ねる。
 ハッと気づいたイヴァンが「申し訳ありません!」と即座に頭を下げた。だが、すぐに何か覚悟したように顔を上げると、再びユーリに向かって口を開いた。

「グランツが叛徒として責め滅ぼされることがなかったのは、アーダルベルト殿の出奔がシマロンとの大戦の只中に起きたからでございます。外の敵に対処せねばならぬ時に、内に兵を向けることは自殺行為。政に暗いあの摂政殿ですら、内乱を起こすことに躊躇いを覚えた、ただそれだけにございます! ですから、本当に危険だったのは戦後なのです。当時の摂政殿は、己の采配を愚弄した形のアーダルベルト殿に激怒なさっておられました。その怒りは当然グランツに向けられました。とはいえ、十貴族の一を滅ぼすとなれば、これは大事。摂政殿はおそらく、いえ間違いなく、多数の諜報部員をグランツに送り込み、反逆の確たる証拠を得ようとしていたはずです。それゆえ、フォングランツ家の一族は、その家の子郎党に到るまで、ただひたすら身を慎んでまいりました。尚武の一族と名高いからこそ、武人も武力も集りやすく、反逆を疑われやすい。だから武闘大会を廃止し、武人達の活動も制限させました。武人でもない民が一所に集まることすら許しませんでした。血盟城がグランツを責め滅ぼそうと決断する切っ掛けを与えぬように、必死だったのです。だがそのために、民がどれほど苦しんだか……! ……戦後、グランツは長らく立ち直れず、民の生活は逼迫しました。ウィルヘルム様の愚かな父の情が、民を殺しかけたのです! ですがアーダルベルト殿は……そんな一族の苦労も民の苦しみも、全く斟酌されなかった。恐れ多いことに……」

 即位なされて間もないユーリ陛下のお命を、己の剣にて奪おうとまでした……!

 歯軋りの音が聞こえそうな険しい表情で、イヴァンが言った。その声は、まるで呪いの言葉の様に低く、怒りに満ちていた。

「それを知らされた時の我等の怒りと民の恐怖が如何程のものであったか、陛下にはお分かり頂けましょうか。……陛下。陛下にお伺いいたします。もしこれが、ツェツィーリエ陛下の御世であったならば、アーダルベルト殿が狙ったのがツェツィーリエ陛下や摂政殿であったならば、陛下は、そしてあの摂政殿は、のこのこ戻ってきたアーダルベルト殿を許したでしょうか? 弑逆を計った息子を、それでも我が跡取りと呼び、庇うフォングランツ家を、息子の罪とは関りなしとして見逃してくれましょうか…!?」

 それは……。
 言葉を続けることができず、ユーリは唇を引き結んで、イヴァンの強い視線から目を逸らした。

「前王であろうと」答えの出ないユーリを意識する様子もなく、イヴァンが続ける。「その前、またその前……どの御世であろうと、いいえ、内外のどの歴史を紐解いても、弑逆を企む者とその身内が何の罰も受けずに許された例などありません。それをなされたのは……ユーリ陛下、貴方様ただお1人でございます……! グランツが命永らえ今に至ることができた理由はただ1つ、当代陛下がユーリ陛下であったこと、ユーリ陛下が運よくお人柄の良い方であったこと、それだけです! 誰も罰せられることなく、全てが元通りとなれたのは、たまたま運が良い目に転がってくれた。本当に、それだけなのです!」

 皮肉でも、おべんちゃらでもないことは、その必死の眼差しを見れば分った。
 イヴァンの唇が、おそらく胸に湧き上がり渦巻いているであろう激情に震える。

「だから結果論など、何の意味もありません! ウィルヘルム様のなさったことが、いいえ、なさらなかったことが正しかったなどと、口が裂けても申せません! アーダルベルト殿を廃嫡しなくて良かったと、ウィルヘルム様やご兄弟達が笑っている姿を苦々しく思うことは、決して間違っていない。正しいのは我々の方だ……!」

 イヴァンを襲った激情は、次の瞬間、唐突に去った。
 ハッと目を瞠り、ギュッと口を引き結び、こくりと唾を飲み込む。そんなイヴァンの、閉ざした唇と膝の上に置かれた拳が小さく震えるのを、ユーリはしばらくじっと見つめていた。

「も、申しわけ……」
「アーダルベルトが帰ってくるまで」

 イヴァンとユーリの声が重なり、イヴァンが即座に口を閉ざす。その様子にかすかに苦笑を浮かべてから、ユーリは改めて口を開いた。

「ほんとはね、色んなことがあったんだよ。簡単に説明できないくらい、色んなことが……。確かにおれはアーダルベルトに命を狙われた。でも、同じくらい、助けてもらったこともあるんだ。その場その場で、色んな状況に出くわして、対立したり、協力したり、色々とあった。その長い時間を通して、おれはアーダルベルトを信じても良いんじゃないかって考えるようになったんだ。そして、アーダルベルトが自分のしたことをちゃんと分かった上で眞魔国に帰ってくるなら、きっとそれなりの覚悟をしているだろうし、だったら大丈夫だって判断した。……ごめん、納得してもらえるようなちゃんとした説明ができなくて」
「それは…とんでもございません」

 申し訳ありません。イヴァンが言って、頭を深く下げた。

「見苦しく興奮してしまい、陛下に対し奉り、とんでもない無礼を申し上げ……」
「だから、全然無礼じゃないってば」

 苦笑を浮かべ、ユーリは軽く手を振った。

「聞いていいかな?」

 そこでふいに村田が口を挟んだ。
 は、と答えて、イヴァンが顔を向ける。

「フォングランツ卿兄弟が結束し、君達親族がどれだけアーダルベルト放逐を進言してもそれを受け入れようとはしなかった。この30年ずっとその状態が続いてきた訳だね? 君達がフォングランツ当主殿の、当主としての資質をそれほど疑っていたのなら、親族筆頭であるレフタント家はグランツの民を救うため、フォングランツの当主をこそ放逐する、という手段を取ろうとは考えなかったのかい?」
「…村田、それって……」

 ユーリ、そしてコンラートも驚いた顔で村田を見返す。

「できるはずがございません」

 一瞬だけ驚いた顔をしたイヴァンが、わずかにムッとした表情になったかと思うと、きっぱりと言った。

「そのような真似をすれば、間違いなく内乱になります。グランツに乱ありとなれば、摂政殿がその機を逃すはずがありません。グランツの武人が分かれて争っている状態で、国軍に適うはずもありません。グランツは踏み潰されてしまいます」
「根回しという言葉があるじゃないか。当主放逐に動く前に、血盟城と話をまとめておけば上手くいく可能性は高いよ? 摂政殿を喜ばせれば、君のお父上がグランツの領主にもなれたかもしれない。その可能性は考えなかった?」
「あり得ません」
「どうして?」
「父はレフタントであって、フォングランツではありません。グランツはただの貴族の領地ではありません。誇り高き十貴族の一、フォングランツの治める土地なのです。この地を治める資格を持つのは、フォングランツを名乗る者。それ以外にありません。他の者がこの地を治めることなど、絶対に許されません。レフタントはフォングランツを支える家の筆頭なのです。例えご領主殿との仲が拗れていたとしても、そこにもし、グランツを攻め滅ぼし、この後を襲おうとする者が現れれば、レフタントはフォングランツ家を護るために戦います。確かに父は権力志向が強く、野心もございます。だが決して己の野心に取り込まれ、護るべきものを見失うことはございません。私はそう信じております。国を支え、陛下をお支え申し上げるフォングランツ家、そしてそのフォングランツ家とグランツの民を護り支える。それがレフタントでございますれば……!」

 強い光を浮かべてきっぱりと言い放つイヴァンの薄水色の瞳には、主を補佐する家の嫡男としての誇りと気概が溢れている。
 キッと眼差しを向けられて、村田が柔らかく微笑んだ。
 ユーリもまた、ほうと息をつき、改めて正面に座る、見た目だけは同年代の少年をまじまじと見つめた。

「悪かったね、妙な事を言って」

 村田が穏やかな声で言った。
 イヴァンが、どうやら再び熱くなったことを恥じているらしく、居住まいを正し、紅潮した頬を隠すように頭を下げた。

「陛下と猊下に対し奉り、無礼に無礼を重ね……。お許し下さいませ…!」
「だから無礼じゃないって……なんだかおれ、こればっかり言ってるな」

 ユーリがくすくすと笑った。イヴァンが困ったように目を伏せる。

「じゃあイヴァン、あ、イヴァンって呼んでもいいかな?」
「も、もちろんでございます! あの……光栄に存じます」
「そんな大層なことじゃ……。ま、いいか。……あのさ、じゃあイヴァンやお父さんや他の親族にも、まだアーダルベルトの事を許していない人は結構いるんだな?」
「事ここに到りましては、もはやいないに等しいかと。すでに陛下にお許しを頂き、重大なお役目も頂いておりますので、皆、ひたすら安堵しております」
「でもイヴァンは許していないんだね? あ……そういえばエド君も、許さないぞってアーダルベルト本人に宣言したんだったっけ」

 ユーリの言葉に覚えがあったのか、イヴァンが「はい」と頷く。

「イヴァンも知ってるのか?」
「知っているも何も、親族一同ほとんど全員が集まった場所でのことでしたので……。あれには、私もかなり驚きました」
「どうして?」
「彼は……フォングランツですから。てっきり父上やお歴々と同意見だとばかり思っていたのです。まさか彼が私達と同じように感じていたとは……」
「後からお父さん達にこっぴどく叱られたって聞いたな」
「さもありましょう。あのご兄弟の結束は実に固いものがあります。エドアルドのお父上は、その中でもかなり融通の利くお方でいらっしゃいますが、この件につきましては1歩も譲られませんでした。……そうですね」

 イヴァンがくすっと笑う。
 分らずに、小首を傾げるユーリ。
 失礼しました、とイヴァンが軽く頭を下げる。

「今、思いついたのです。もっと早くエドアルドが私達と同じ意見であると分っていれば、それこそ摂政殿に根回しをした上で、エドアルドを奉じ、ウィルヘルム様を放逐する、という手があったかと」

 そしてその後、エドアルドをグランツの当主に据え、実権はレフタント家が握る。
 行われなかった謀略に、ユーリが複雑な表情を浮かべた。

「ですがこれは計画倒れに終わるでしょう」

 大分落ち着いたらしいイヴァンが、余裕の笑みを浮かべて言った。

「エドアルドには私の父のような俗っぽい野心がございません。おまけに、そうそう巷にいない程の頑固者。エドアルドの兄達も、ああ見えてかなりクセ者揃いでございますので、彼が我々の口車に乗って、容易く一族を裏切ることは致しませんでしょう」

 イヴァンの笑みに、ユーリは思わずため息をついた。
 もしかしたら、からかわれたのかもしれない。

「イヴァンはエド君と同年代だよね? 仲良しなの?」
「いいえ、全く」

 即答だった。

 そ、そうなんだ? 鼻白んだ表情のユーリに問われて、イヴァンは「はい」とキッパリ頷いた。

「幼い頃は……年もほとんど変わらず、家柄的にも近しいため、よく共に過ごしたものですが……。性格の違いなどもあり、長ずるに従って自然と疎遠になってしまいました」
「…そ、っか。親戚なのに疎遠って、ちょっと寂しいね」
「いえ、別段さほどのことは」
「そ、そう…?」
「また父の話になりますが」イヴァンが何かを思い出した様に苦笑を浮かべる。「まだ幼い頃、エドアルドのお父上やエドアルドの前に立つと、父は必ずこう申したものです。エドアルド殿はフォングランツの若君。親戚であり、友人であるからといって、決して無礼のないようにせよと。ところがレフタントの家で身内だけになりますと、父は全く違うことを口にしました。エドアルドなど分家の末子。フォングランツを名乗ろうと、将来はたかが知れている。イヴァン、レフタント家の長子であるお前に比べれば何ほどの者でもない。分家の末子などはるかに格下、見下してやって構わん、と。ウィルヘルム様の末弟であるハンス様は、よほどのことが起きたとしても、フォングランツの当主になることはまずありません。ですから父は、エドアルドの父上を昔から軽んじてまいりました。そのハンス様のさらに末子となれば……。父にとってエドアルドは、フォングランツを名乗るも図々しい存在でしかなかったのでしょうね。それでも彼は紛れもないフォングランツです。表向きは礼節を守らねばならず、それがまた癪だったようです。……家柄や血統によって勝手に序列を作り、それに従って対応を変えるのは、父の悪い癖です。父にとって主と呼んで然るべきフォングランツは、当主殿とその御一家だけなのです」

「とても分りやすい忠誠心の持ち主だね」

 村田がクスッと笑って言った。はい、とイヴァンも笑みを返す。

「ですが、幼い私は混乱してしまいました。実際、どういう態度で接すれば良いのか分からなくなってしまったのです。これでは友情など育めません。おまけに、同年代の私達は、その家柄もあって周囲から常に比較されながら育ちました。そのためでしょう、いつしかお互いがひどくうっとうしい存在になってしまったのです」
「…そ、そうなのか……。で、でも仲が悪いとか、嫌いあってるとか言うんじゃないんだろ?」
「別に確執のようなものがある訳ではございません。互いに互いの立場を尊重した付き合いをしている……つもりです。ただ……」
「ただ?」
「意識しているつもりはない、はずなのですが、やはりフォングランツの一族の中では、その言動が最も気になる相手…のように感じております」
「つまり、意識してるってことだろ?」
「……そうなりましょうか」

 苦笑するイヴァンに、「だったら仲良くすれば良いのに」とユーリがちょっと呆れたような声を上げた。
 しかしイヴァンは、苦笑を浮かべたまま、その首を左右に振った。

「いつしか距離ができて、すでに80年です。お互い、進む道も固まってまいりました。私達はこれで良いのだと思います。それぞれが己の行く道をみつけ、己のやり方でこの国とグランツを支えていけば良いのです」
「……そういうもの……かなぁ……」

 釈然としない様子で腕組みをし、首を捻る魔王陛下に、イヴァンの苦笑がほんの少し色合いを変えた。

「本当に……驚きました」
「何が?」
「私やエドアルドのように、雲上人たる陛下の大いなる歩みの前には取るに足らぬ者、卑しきこの地上には、それこそ浜辺の砂粒にも負けぬほど溢れております。それらの仲をいちいち取り持っておられては、お心の休まる暇もなくなりましょう……。恐れながら、陛下がお心を悩ますとすれば、それは眞魔国の行く末以外になかろうと存知まする。些事にお心を留める必要などございますまい。どうかお捨て置き下さいませ」

「取るに足らない存在なんてない」

 スッと静かに、わずかの高ぶりもなく発せられた声に、なぜかイヴァンはハッと胸を衝かれて目を瞠った。
 真正面に座る魔王陛下が、それまで見せていた幼さを脱ぎ捨てたかのように、落ち着いた眼差しをイヴァンに向けている。

「おれは雲の上で暮らしてるわけじゃない。おれもまた、この地上で、皆と同じ様に悩んだり、怒ったり、泣いたり笑ったりしながら生きてるんだ。おれだって、皆と一緒だよ。おれの腕は、ほら、これだけしか伸びない」

 言って、ユーリは両腕をスッと前に広げて見せた。

「そしておれの手は、せいぜいボールを一つか二つ、握ることしかできない」

 手のひらを上に、イヴァンの前に広げて見せる。

「おれは、この国の全ての人が今どうしているのか、何に悩み、何に苦しみ、何を喜びとしているのか、全然分らない。この国の王様なのに、この国の人のために生きることがおれの仕事なのに、おれが出会える人はほんのわずかしかいないんだ。だからおれは、その出会いを大切にしたい。人との出会いをつまらないことだなんて思わない。出会えた人がどんな人だろうと、取るに足らないなんて思わない。皆、おれの大切な大切な人達なんだ。その、たまたま偶然出会えた人が苦しんでいるなら、悩んでいるなら、この、おれのこの手で何かできるなら、おれの力を必要としてくれるなら、おれはできることを精一杯やりたいと思う。そしてそれは、決して王の仕事を蔑ろにすることじゃないと思う。1人でも多くの誰かと出会って、その人の悩みや苦しみや願いを知ることが、国の行く末を考えるための大きな力になると思う。なって欲しいと思う」

 分ってくれるかな? 分ってもらえると嬉しいな。
 そう言って、ユーリはちょっと照れたように微笑んだ。

「それは……」

 開きかけた口を閉ざし、イヴァンは瞳を泳がせるように伏せた。

「実はさ、今のイヴァンと似たようなことを、エド君のお兄さんからも言われちゃったんだよね」

 伏せた目を、ハッと上げる。

「……あの中の、誰でしょうか?」
「オスカー、だっけな。エド君のすぐ上のお兄さん」

 ああ、とイヴァンが得心したように頷いた。

「捻くれ者を気取っておりますが、実のところ、かなり直情型の熱血漢なのです。本人は無自覚ですが。……そうですか、彼が私と同じ様に……。彼とはエドアルドよりはるかに反りが合わないのですが……オスカーの二番煎じとは、ちょっとがっかりしました」
「……君、本当によく観察しているね」

 いきなりプッと吹き出した村田が、楽しそうに笑いながら言った。

「見かけによらず度胸もあるし。……ねえ、渋谷。グランツに来てホントに良かったね。こんな面白い面子が次から次へと現れて、全然飽きないよ」
「……お前な……」

 笑う大賢者と呆れ顔の魔王陛下に対し、「恐れ入ります」とイヴァンが頭を下げる。
 確かに度胸があると、コンラートとヨザックがそっと顔を見合わせて笑った。


「長いこと引き止めてごめんね? 今夜はわざわざ来てくれてありがとう」

 今夜はこれでと、全員がソファから腰を上げたところで、ユーリが言った。

「滅相もございません」イヴァンが深々と頭を下げる。「多々失礼を申し上げましたること、何とぞお許し下さいませ」
「だーかーらー。失礼も無礼もないってば。それより、おれとコンラッドの正体、誰にも言わないでくれよな? お父さんにも」
「畏まりました」

 そう返事をして、それからイヴァンはコンラートに身体を向けた。

「先ほども申し上げましたが、シュルツローブ道場から閣下が大会に出場なされること、まことに光栄に存じております。大会におきましては、名高きウェラー卿の剣の冴え、堪能させて頂きたく存じます。私如きがこのように申し上げるのは不遜とは存じますが、ご活躍をお祈りいたしております」
「ありがとう、レフタント卿」

 きちんと頭を下げて挨拶するイヴァンに、コンラートも笑みを浮かべて頷いた。

「シュルツローブ道場と、彼らを後援しておられるあなたの家に恥を掻かせぬよう、力を尽くそう」

 は、と再びコンラートに向けて頭を下げ、それからイヴァンは改めてユーリと村田に身体を向けた。

「それではこれにて御前を失礼させて頂きます」
「うん。本当にありがとう………って、ちょっと待って!」

 踵を返しかけていたイヴァンが、驚いたように動きを止める。

「……あの…?」
「渋谷、どうしたの?」
「聞きたいって思ってたこと、忘れてた!」

 イヴァンなら知ってるかもしれないから。そう言って、ユーリは改めてイヴァンの名を呼んだ。

「あのさ、知ってるかな? シュルツローブ道場とスールヴァン道場のことについて。どうしてガスールお爺ちゃん達が、エイザムさんをあんなに嫌っているのか、理由を知ってる? 戦争中に何かあったらしいけど……」

 それは、と目を瞠ってから、イヴァンはふと考え込むように眉を顰めた。

「戦時中のことは、エイザム殿もあまり語ろうと致しませんし、私も特に尋ねた事がないので具体的には存じません。噂は耳にしたことがありますが、何分噂ですので、信憑性には欠けるかと。実のところ、私はこの噂を全く信じておりません。内容があまりにも……。ですが、スールヴァン道場の者達がどうやらその噂を信じているらしいということは、ちらと聞いたことがあるように……思いますが…」
「噂って!?」

 はあ、とわずかに躊躇ってから、イヴァンが口を開いた。

「スールヴァン道場の後継者、あのガスールの息子とエイザム殿が、戦場でたまたま同じ作戦に従事することになったそうです。当時、エイザム殿はスールヴァン道場の門弟を割ってシュルツローブ道場を創設しておりましたが、その……覇を競っておりましたスールヴァン道場の凋落を狙ったエイザム殿が、戦闘の混乱を利用して、自らその……」

 1度口を閉じ、困ったように首を傾げ、ユーリの表情を確認してから諦めたように再び口を開く。

「ガスールの息子を殺害した、と」


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大会の開会式にこぎつける……には程遠いところで終わりました。
だから予定を書くのは止めようと、いつも思っているのに。
それからせめてキリの良いところまで、と思いましたら、結局こんなに長くなりました。うーん。

イヴァン君が妙にしっかり者(?)になってしまいました。
いかにもイヤなヤツになる予定だったのですが〜……やっぱり癖のある人を書くのは好きですが、ただのイヤなヤツはどうも書きたくないみたいです、私。
おまけに、似たような会話が繰り返されておりますねー。
構成力のなさを露呈してしまいました。もっとちゃんと書かなきゃ。

更新が遅くて申し訳ありません。日常生活、何をしているわけでもないのに時間に追われております。一日があっという間に過ぎてしまいます。
心にも身体にも、もうちょっと余裕が欲しい今日この頃。
ご感想、お待ち申しております!