その日。 眞魔国グランツ領の中心地、フェルデンを囲む山の中腹に建てられたグランツ城では、密やかな興奮の中にあった。 「お迎えの準備は整っておるのか!? ……おお、そうだ! 甘味がお好みだと聞いておるぞ。茶菓子の用意などはっ」 せかせかと城内の回廊を歩き回る人物は、豪奢な衣装を身に纏った、初老─髪も、顔の下半分をほぼ覆う豊かな髭も半白髪、の男性だった。年齢は300歳前後か。 「兄上、落ち着いて下さい。準備は全て整っております。朝の内に、皆で点検して回ったではありませんか。それもすでに3回も」 男性の後ろにつき従っていた人物が、さりげなく苦言を呈した。彼の傍らでは、中年から壮年に到る年齢と思しき男性達が3名、同じ様な表情で頷いている。 「お菓子も血盟城から得た情報で、お好みに合いそうな品を数点、すでに調えておりますことも先ほどご報告いたしました。ウィルヘルム兄上、兄上は我がグランツの長なのですぞ。オットー兄上の仰る通り、お願いですからもう少し落ち着いてください」 「それは分かっているのだがな、テオドール……」 「準備は万全です。それに兄上、今回の御訪問はいわばお忍びの旅。行幸という訳ではないのですし、あまり堅苦しくお考えにならずとも……」 「それもそうだと思うのだが、ハンス、しかし……」 「いやいや! 用心し過ぎて過ぎることはない!」 兄弟らしき4名の語らいの中に、突如割り込んできた声と、複数の人影があった。 「……ご隠居様方……」 兄弟達とは違って、新たな人物達は皆かなりの老人達ばかりであった。おそらく魔族の平均年齢を軽く凌駕しているであろうと思われる年代だ。 思い思いの形に整えた髪はどれも見事な白髪で、皆顔には深い皺が刻まれている。おまけに揃いも揃って動きやすいゆったりとした長衣を纏っているためか、一見しただけでは男性なのか女性なのかもはっきりしない。ただ、どの老人達も、目に炯炯とした光を宿しているところに、なかなかの威厳があった。 「陛下は、我が国の王であり、我らの主というだけの存在ではない! 我らグランツの一族にとって、掛け替えのない大恩人じゃ! 例えお忍びであろうとも、最上のお出迎えをするのが当然の礼儀というものであろう! そのような事を申すから、グランツは野暮だの何のと陰口を叩かれるのじゃ!」 「いや、御隠居、お忍びにもかかわらず堅苦しいお出迎えをすることの方がよほど野暮……」 「黙らっしゃい!」 「……申し訳ありません」 憤然と怒鳴りつける老人に、口を挟みかけた中年男性、さきほどテオドールと呼ばれた人物がため息混じりに謝罪する。 「お菓子は固いものは駄目じゃぞ?」 横から別の老人が、のんびりと口を挟んできた。 「固いと噛み切れんし、うっかりすると喉に詰まる。ありゃあ良くない。お菓子は柔らかい練り菓子が一番じゃ。とろとろとのう。とろとろしたのが良い。ちゃんと用意してあるかや?」 「じじ……あ、いえ、ご隠居様方のお口に合うものもちゃんと用意してございます」 ハンスが少なくとも表向き神妙な顔で応える。 「ところで」 またも別の老人がしゃしゃり出てきた。 「今回の御訪問は、何ゆえにお忍びなのじゃ? 我がグランツへの初のお出ましというのに、公式な行幸ではないというのは何とも解せぬ。よもや陛下の、我がグランツに対する無辺のご好意を不快に思う輩が妨害したのではあるまいか!?」 老人の推理(?)に、集まった老人達、ご隠居様一同が「おおっ!」と声を上げた。 「すりゃ一大事! 妨害してきたとなれば、それは何者であろうかの!?」 「陛下のすぐお側に侍る十貴族となれば、やはりシュピッツヴェーグかヴォルテールかクライストかビーレフェルトか……」 「けしからんことじゃ! ここは正式に抗議をせねば!」 「いざとなれば討ち入る覚悟でやらねばならんぞ!」 「おお、そうじゃとも! もはや遠慮も気遣いも無用なのじゃからの。グランツの心意気、ここで見せねば何とする!」 「ではさっそく、家の子郎党供なって……どこへ行くのじゃ?」 「まずはヴォルテールじゃ! あのこわっぱ、宰相などと粋がっておるが、わしから見ればまだまだ青二才、ここはしっかり意見してやらねば!」 「おお、そうだの。クライストの小僧も、何やら小賢しく人にものを教えておるとか。大して長く生きておるわけでもあるまいに。生意気なっ」 「そうじゃそうじゃ。わしら位生きておらねば、世の道理など分かろうはずもないわ」 「ではさっそく! ……行き先はシュピッツヴェーグだったの?」 「いいや、ビーレフェルトじゃ! 先ほどわしが言うたであろうが!」 「違っておった気がするぞ?」 「ええい、ボケおったか! いざ、行かん、悪徳蔓延る……えーと、どこだったかの?」 「いい加減にして下さい! ご隠居さまっ!」 どこへ討ち入るのだったか、老人達が考え込み始めたその時、彼らよりは若い声が荒々しく老人達の耳を襲った。 おや? と老人達が一斉に顔を巡らせれば、そこには当代グランツの長であるフォングランツ卿ウィルヘルムの3番目と4番目の弟、オットーとテオドールがぜーぜーと苦しげな息をしながら肩を怒らせていた。彼の後ろでは、長兄であるウィルヘルムが困った顔で手を揉み、末弟であるハンスが「はは…」と苦笑を漏らしている。 「………どこぞへ走ってまいったのか? お前達、えらく息が弾んでおるのう?」 「ご隠居達が全然口を挟ませてくれないからですっ!」 オットーが怒鳴りつける。 「何を怒っておるのじゃ、2人とも」 「ヴォルテールに討ち入るのなんのと、滅茶苦茶なことを仰るからでしょうが!」 おお、ヴォルテールじゃったわ。老人達がようやく思い出したと手を打つ姿に、テオドールが苦々しく顔を歪める。 「ご隠居様方」 2人の弟の肩に軽く手を置き、ウィルヘルムが前に進み出てきた。 「今回の魔王陛下のお忍びは、30年ぶりに我がグランツで開催される大会のことをお知りになった陛下が、ぜひ直接観てみたいと仰せ下さりまして実現したものです」 「そうじゃ」老人達が頷く。「だから、正式に魔王陛下のご臨席を賜れば良いのじゃ!」 「陛下は、自分が突然訪れては、久し振りに大会を開くグランツの負担になるだろうとお考え下さったのです。それに、なるべく堅苦しい公式行事はなさりたくないとも仰せであったと聞いております。お忍びで、気楽にグランツを楽しみたいと。それはいうなれば、陛下がいかに我らグランツに対し心安く思っておられるか、隔意がないかの証です。そうは思われませんか?」 そう言われてみればのう……。だがのう……。老人達が顔を見合わせて唸るように呟き始める。 「と、いう説明は!」 オットーがまたも声を荒げていった。 「このお話がなされた一番最初に、皆様にもちゃんと申し上げました!」 「……わしゃ、聞いた覚えがない」 「説明とはいつのことじゃ?」 「知らんの」 「わしも知らん」 「わしは耳が遠いからの」 「聞いたかも知れんが忘れた」 「今朝何を食したのかも忘れたのに、そんな大昔のことなど覚えておるもんかい」 ふぉっふぉっふぉという老人達の、空気が抜けるような笑い声。ウィルヘルムとハンスの苦笑が深まり、オットーとテオドールの眉がぐぐーっと寄る。その時。 「兄上!」 またもウィルヘルムを兄と呼ぶ別の男性が、回廊の先から姿を現した。 「ゲオルグ、如何した!?」 「馬車が市街を抜けたと連絡が! 間もなく御到着です!」 おおっ! その瞬間、老人達の目がカッと見開かれた。 「陛下の御到着じゃあっ!」 「お迎えするのじゃ!」 「急げ! 遅れてはならんぞっ!」 叫んだと思うと、当主やその弟達を差し置いて、老人達が一気に全速力で走り始めた。 「…じ、じい様達、どうしてあんなに足が速いんだ……?」 「さすがその昔、戦場を荒らしまくったじい様とばあ様だな」 「こら、お前達、なにをのんびりしている! 早く追いかけるぞ! あのままでは、陛下が御到着の前に2、3人心臓発作でぽっくりかもしれん!」 陛下の御前に死体がゴロゴロでは、歓迎にならんではないか! 「……あ、兄上、そちらの心配ですか……?」 温厚で真面目な性格なのだが、時折かっ飛んだことを口にする兄に、3人の弟達は足を速めながらため息をついた。 「へーっ。ここがグランツの首都かあ!」 赤毛の少年が、馬車の窓から顔を出し、風に髪を靡かせながら弾んだ声を上げた。 「顔を出していては危険ですよ、坊っちゃん」 馬車に伴走する馬の上から、茶髪の青年が笑って声を掛けた。 「分かってるって、コンラッド!」 これも笑顔で応える少年、もちろん眞魔国第27代魔王ユーリ陛下、に、別の声が掛かった。 「ほら、前を見てみな。山の中腹にある、あれがグランツの城だ」 野太い声は、馬車の前方を走る馬の上から発せられた。金髪の偉丈夫、フォングランツ卿アーダルベルトが、顔だけをユーリに向けている。 「あれが! へえー、なんかごっつい感じの城だな!」 「質実剛健ってんだ。グランツは、街を見ても分かるだろうが、華麗だの優雅だのって言葉とは無縁だからな。武門のグランツって聞いたこたぁねえか?」 「あー……あるある!」 「グランツは尚武の一族。だから他の十貴族からは野暮ったいだの垢抜けないだのと言われるが、素朴で率直で良い民さ。嘘や妙な駆け引きも苦手だから、損をすることも多いがな」 苦笑する男は、それでもグランツの街と民を愛しているのだろう、街並みに向けられる目は優しげに細められている。 「……アーダルベルト、やっぱり故郷は良い?」 少年に問い掛けられて、男は驚いたように目を瞠り、振り返った。 馬車から覗く少年の顔には屈託のない笑みがある。 男はフッと笑って、「まあな」と答えた。 「長いこと馬鹿をやって、それなのに文句も言わずに俺を迎えてくれた場所だからな」 「馬鹿は今も変わんねぇだろ」 馬車と併走する馬に乗る護衛その1、ウェラー卿コンラートの後ろから、わざとらしく潜めた声が掛かった。護衛その2のグリエ・ヨザックだ。 「笑えるな。あの旦那がちょいと里帰りしたくれぇで浮かれてるぜ」 何となく微笑ましくて、2人はくすりと笑いを漏らした。 「なあ、さっきアーダルベルトがショーブの一族って言ってただろ? あれって勝負か? それとも菖蒲……じゃないよな。いつも戦ってる一族ってことか?」 「勝負でも菖蒲でもないよ」 顔を引っ込めたと思った途端に質問してくる親友に、同乗する少年が苦笑して答えた。 「尚武の一族。武道や武勇を重んじる一族ってことさ。だからこそ、今回の大会が開催されるわけだろう?」 おー、そうだった。ユーリが頷き、窓の外を流れる街の様子に改めて目を向ける。 それにつられる様に、今回のお忍び旅行に付き合うこととなった魔王陛下の親友、金髪青い目のいつもの変装をした大賢者村田健もまた外に目を向ける。 「確かに質朴という表現がぴったりの街だね。だけどさすがに雰囲気は盛り上がってるな。人出も多いし、民の表情も明るい。君も感じるだろう?」 村田の質問に、ユーリは口元に笑みを浮かべて頷いた。 「ああ。……あ、ほら、見ろよ、村田。通りに花や幟が飾ってある。あっちの横断幕みたいなのもキレイだな!」 「どうやら街の中心部に入ってきたみたいだね。ああ、屋台が並んでるよ。後でひやかしてみようよ。せっかくのお忍び旅行だし、僕もうんと楽しみたいな」 珍しく遊ぶことに前向きな村田に、ユーリは「おうっ」と大きく頷いた。 ことの起こりは半年前。 道路普請と上下水道工事の進捗状況を報告するため血盟城にやってきたアーダルベルトが、ふと漏らした一言があった。 「小僧のお蔭で、グランツもどんどん昔の雰囲気を取り戻してるらしい」 相変わらず魔王陛下を小僧呼ばわりしながら、それでも妙に神妙な声音で言うものだから、魔王陛下の執務室に集っていたいつものメンバーは、皆、何があったのかと眉を寄せた。 視線が集中していることに気づいたアーダルベルトが、苦笑を浮かべ、「大したことじゃねえ」と手を振る。 「30年ぶりに武道大会が開催されることになったと、つい2、3日前に連絡がきてな」 「グランツの武道大会というと」 ギュンターが目を瞠って声を上げる。 「あの、『グランツの勇者』ですか!?」 グランツの勇者、の言葉に、グウェンダルもほうと顔を上げた。 「その称号、久し振りに耳にしたな。……そうか、開催されなくなって30年経ったか」 なるほどな、としみじみ呟くグウェンダルに、ついに我慢しきれなくなった魔王陛下がペンと書類を振り振り大きな声を上げた。 「なあ! 何なんだよ、そのグランツの勇者って! おれにも教えろよー!」 仲間外れが嫌いな陛下に、教育係が「そういえば、陛下はご存知ありませんでしたね」と優しく微笑んだ。 「グランツ領では、30年前まで毎年武道大会が開催されていたのでございます。『グランツの勇者』とは、その大会での優勝者に与えられる称号なのですよ。この類の大会は、眞魔国内でも様々な地域で行われておりますが、グランツの大会はその中でも最も名の通った大会なのでございます」 「何といっても『武門のグランツ』だからな」 そう後を続けたのはヴォルフラムだ。 「勇猛果敢な武人を多く輩出しているグランツでの、当主主催の大会とあって、魔族の中でも抜きん出た猛者が集まるといわれているんだ。だからこの大会での優勝者、『グランツの勇者』への評価もまた非常に高い。人間の国にすら知れ渡って、往時の戦の折には、『グランツの勇者』の名を聞いただけで、人間達が恐れをなして逃げ散ったと言われている程だ!」 へえーと感心した声をあげるユーリの目は、男の子らしくキラキラと輝いている。 「でもさ、何でその大会が30年も開かれないままだったんだ?」 無邪気な質問に、滔々と語っていたヴォルフラムがうっと詰まった。そしてその目がおずおずとアーダルベルトに向けられる。 「そいつは」 アーダルベルトが苦笑を浮かべたまま、口を開いた。 「俺のせいだな」 「なんで?」 きょとんと首を捻るユーリ。アーダルベルトの苦笑が深まる。 「渋谷」 ソファでお茶を飲んでいた村田が、親友に声を掛けてきた。 「村田?」 「考えてご覧よ。前の大戦の時、フォングランツ卿は国を出奔した。そして魔族に対して敵対的な行動を、ついこの前までとり続けてきたんだ。そのために、グランツの一族が眞魔国の貴族達からどういう扱いを受けてきたか。君も聞いているだろう?」 「…あ…ああ……」 出奔したアーダルベルトと絶縁し、魔王陛下への忠誠を示す、という対応を取らなかったフォングランツの一族は、魔王陛下に叛意ありとされ、貴族社会からほとんど抹殺された状態にあった。さらにアーダルベルトがユーリの命を狙ったことが明らかになって以降は、眞魔国の歴史からグランツの名がいつ消えてもおかしくない、一族存亡の瀬戸際まで追い遣られたのである。 だがユーリはグランツを滅ぼそうとはしなかった。それどころか、帰還したアーダルベルトに何の罰も与えることなく、両手を広げて歓迎したのだ。さらには、国家的事業である道路普請と上下水道整備工事の最高司令官に任命までした。 ユーリのこの対応のお蔭で、グランツの一族は生き返ったと言ってもいい。 それまでの間、グランツの人々がどんな思いで日々を送ってきたか、同じフォングランツを名乗る友人からユーリも聞かされている。 「フォングランツは反逆を企んでいる。眞魔国の多くの人々はそう考えていたんだよ。そんな時、グランツに腕に覚えのある武人が武器を手にして大量に集まったとしたら、一体どうなると思う?」 村田に質問されて、ユーリは「えっと…」と考え出した。 反逆するつもりだと、疑惑の眼差しを向けられるところへ、たくさんの武人が剣を携えてどっと集まったとしたら……。 あ、と、ユーリが顔を上げる。 「もしかして……いよいよこれから反乱を起こすつもりだって誤解され……る?」 「お前にしては鋭いではないか、ユーリ!」 とても褒めているとは思えないヴォルフラムを、ユーリがムッと睨む。 「その通りだよ、渋谷。だから当主であるフォングランツ卿は武道大会を開催することができなくなったんだ。彼らには、反乱を起こす気など全くなかったのだからね」 「それで、アーダルベルトが帰ってきてもう何も問題がなくなったから、30年振りに開催するってことになったんだな!」 「まあそういうことだ」 アーダルベルトが頷く。 「だからつまり、陛下のお蔭、だな。親父達も喜んでいる。ありがとうよ」 「よせよー、改まってそんなコト言われると、おれ、照れるよー」 満面に笑みを浮かべながらも、頬を染めて頭をコリコリ掻く魔王陛下に、執務室にいた側近一同の頬もほのぼのと緩んだ。 大会は半年後だ。良かったら観にきてくれ。 深い意味もなく掛けられた誘いの言葉を、魔王陛下が実はとっても真面目に受け取っていたのだということを、側近達は半年後に知ることとなった。 大会が開催される1ヶ月前になって、ユーリが突如、眞魔国で最も有名な武道大会を、ぜひ自分の目で観てみたいと言い出したのだ。 しかし、魔王陛下が正式に十貴族の領地を訪れる、いわば行幸となれば、事は大事となる。 それこそ陛下がお通りになる道の整備から始めなくてはならないと言い出したギュンターに、焦ったのは魔王陛下本人だった。 「んなコトやってたら、大会が終わっちゃうじゃないか!」 「陛下、陛下の御幸はそもそも年単位で決定されるものなのでございます。それこそ1年、2年と月日を掛けて、その日のための準備をするものなのです。大会が開催されるのは1ヵ月後ではありませんか。とてもではございませんが……」 1ヶ月も前から予告しておけば十分だろうと、近頃すっかり気遣いの人になったと自慢していた魔王陛下は、「がーん」と声を上げて仰け反った。 その様子に、側近一同が呆れた顔でため息をつく。 そんな中で唯1人、護衛だけが「ちょっと可哀想だけど、ショックを受けた顔も可愛いなあ」と優しげな笑みを浮かべながら考えていた。そして護衛は笑みを変えないまま、さりげなく主の側によると、そっと顔を近づけ、うーうー唸る魔王陛下の耳元で囁いた。 「では陛下、お忍びで出かけてはいかがでしょう」 その瞬間、魔王陛下は「気遣いの人」という看板を速攻で下ろすことに決めた。 目的を完遂するための二つの壁の内、ギュンターという名の壁は、「お願い、行かせて?」と、小首を傾げて上目遣いの必殺技で1発で落した。最大の難関であるグウェンダルという壁は強硬に反対を唱えていたが、 「だって、グランツの人は皆、30年も辛かったんだろ? それが今やっと、誤解も解けたし、大会が開けるって、とっても喜んでいるんだろ? おれ、ずっと辛かったグランツの民が、どれだけ元気になったのか、どれだけ皆喜んでいるのか、その場に行って、おれの目で、ちゃんと確かめてみたいんだ。グウェン、お願い、おれをグランツに行かせて…!」 慈悲深い魔王陛下ならではの理詰めで説かれて、宰相が揺れる。 「だが……!」 「行くもん」 「……っ!」 胸元で合わせた拳を震わせ、朱の差した唇をキュッと噛み、上目遣いで自分を見上げるのはうるうると潤み輝く漆黒の瞳。 ううっと、宰相の喉から無意識の声が漏れる。 「……行く、もんっ。ぐ、グウェンが、ダメって、ゆっても……おれ、おれ……絶対、行く、もんっ!」 ひくぅっとしゃくり上げ、えぐえぐとべそを掻くユーリの目から、ぽろぽろと大粒の涙が転がり落ちる。 「……行っても、いいって……ゆってよ、グウェン……お願い……!」 わ…分かった…! 主から懸命に目を背けるグウェンダルの喉から、ひしゃげたような声が絞り出された。 あまりの愛らしさ、可愛さ、あどけなさ、愛おしさ。そのすさまじいまでの衝撃と破壊力に、まともに目を向けることもできない。 「…行って、来い……!」 その時、真面目な顔つきの護衛が魔王陛下に向けて、人差し指と親指で丸を作り、軽くオッケーサインを出したこと、そしてそれを受けた魔王陛下が、えぐえぐと啜り上げながら、親指をグッと立てて「やったね!」サインを出したことは、宰相閣下と王佐閣下を除く全員、大賢者猊下とか、自称婚約者とか、護衛その2とか…の目にはっきりと映っていたが、皆揃って見ない事にした。 ちなみに某お庭番によると、後に某賢い人が、「良いね〜。一見無垢で可憐な仕草が実に小悪魔だったね! 僕の演出意図を見事に汲んでくれていたよ〜。渋谷、僕が保障する! 君こそ紅天女だ!」と、よく分からない言葉で陛下を絶賛していたという。 ユーリにとって、さほどの障害ではないが、意外な壁となったのはヴォルフラムだった。 「この時期はビーレフェルトで重要な行事が重なっているのだ。僕も準備でちょくちょく戻らなくてはならんし、場合によっては僕が同行できない可能性もある。やっぱり行くのはやめろ!」 つまり自分が一緒に行けないから、ユーリに行くなと言い出したのだ。 ヤだ、とにべもなく拒絶する婚約者にヴォルフラムの怒りが爆発し掛けた。 「お前のようなへなちょこの浮気者、僕がしっかり側にいなくては何をしでかすか分からんではないか! 僕は心配してやっているんだぞ!」 「コンラッドがいるから全然へーき」 「やっぱりこの浮気者ぉ!」 絶対許さん、お前とコンラートを二人きりにするなど……! と、そこまで叫んだとき。 「あ、じゃあ、僕がついていくよ」 あっさりと事を解決してしまったのはもちろん村田だ。 「僕が側にいて渋谷を見張っていよう。フォンビーレフェルト卿、まさか君、僕を信用できないなどと言い出すつもりじゃないだろうね?」 いくらヴォルフラムが興奮していても、逆らって良いものと悪いものとの区別くらいはつく。 という訳で、今回のお忍び旅行はユーリと村田、護衛はコンラートとヨザック、仕事を特別に休んでアーダルベルトが同行する、という形で決着したのだ。 話は現在に戻る。 グランツ城の正門から続く前庭と車寄せ、そして城内に賓客を迎え入れる大扉まで、大勢の人々が威儀を正して整列していた。 正門から車寄せに到るまでは、グランツの城兵達が固め、車寄せから一杯に開かれた大扉の前には、グランツの一族が勢ぞろいしている。 先頭中央には一族の長、フォングランツ卿ウィルヘルムが、そしてそのすぐ後ろには、一族の長老であり「ご隠居様」と親しみを込めて呼ばれる7人の老人達が1列に並んでいた。 彼らの後ろには、ウィルヘルムの4人の弟達とその家族、親戚、縁戚、関係者一同が、血族の順位に従って人垣を作っている。 その中、ウィルヘルムの末弟である、フォングランツ卿ハンスとその家族が集まっている中に、士官学校の制服を纏った少年が1人、ぴんと背筋を伸ばして立っていた。 ハンスの末息子、フォングランツ卿エドアルドだ。 フォングランツを名乗る血族の中では最年少の若輩であるため、血族が居並ぶ中では最も下位に当る場所に立っている。 「おい、エドアルド」 前方に目を凝らし、馬車の到着を待つエドアルドの耳に、ふいに声が飛び込んできた。 「……イヴァン」 顔をそっと背後に向け、エドアルドは声の主の名を呟いた。 エドアルドのすぐ後ろに、ほぼ同年代の少年が立っていた。背の中ほどまで伸ばした金色の巻き毛1つにまとめ、肩から前に流している。硬質の美貌を備えた少年だが、エドアルドを見る眼差しにどこか険がある。 彼の名を、レフタント卿イヴァンという。グランツの支族の中でも1、2を争う名家の跡継ぎだ。エドアルドよりほんの2歳年上という、魔族としては同い年と言って変わらぬ年齢である。 この2人の関係は、ある意味非常に微妙だ。 エドアルドはれっきとしたフォングランツを名乗る十貴族。だが、父親は当主の末弟であり、エドアルドはその父の、これまた6人兄弟の末っ子である。後に一家を成したとしても、グランツの中でどれほど重要な地位を占めるかは丸きり不明である。だからこそ、エドアルドの父は末息子を士官学校に送り込んだのだ。己の人生を、己の力で切り開く力を身につけさせるために。 対してイヴァンは、グランツを主家と仰ぐ分家の1つであり、もちろん十貴族よりは1段落ちる存在だ。中央政界、王都の社交界にもさほど深い縁はない。しかし、少なくともグランツ領内における力は強大だ。イヴァンはその家の跡継ぎなのである。いずれフォングランツの広大な領土と、グランツ本家を支える重鎮となるだろう。 十貴族の一員ながら、将来性が甚だ不透明のエドアルドと、分家ではあるが実力のある名家の跡継ぎ。 その力関係を問われれば、人々は皆、答えに困って首を捻るに違いない。 年齢が近いこともあって、この2人は一族の中で事ある毎に比較された。それがやはり、微妙な影を2人の間に落している。その影が、エドアルドにはひどくうっとうしい。 「お前が魔王陛下の御意に入ったという噂が真実かどうか、これではっきりするな」 主家の一員であろうと、エドアルドに対してイヴァンは敬語を使わない。それを不満に思ったことは1度もないが、今回はエドアルドの端正な顔にわずかな不快感が過ぎった。 「僕はそんな話を吹聴した覚えはないが」 エドアルドの返答に、イヴァンが肩を竦める。 「お前の2番目の兄上が僕の父上に自慢していたらしい。アーダルベルト殿から伺ったと言っていたらしいが……」 その時、「コホン」と小さな咳払いの音が、すぐ隣からした。 エドアルドのすぐ上の兄、フォングランツ卿オスカーがちらりと2人を睨んでいる。 再び肩を竦めて、イヴァンは後ろに下がった。 ふう、とエドアルドの口から小さなため息が漏れた。 「気にするな」 耳元で、兄がそっと囁く。 「イヴァンは常にお前のことを気にしているからな。お前が士官学校に合格した時から、お前に後れを取ったように感じているらしい」 「彼には父レフタント卿の補佐をするという仕事があります。僕の様に、外へ出て何の不都合もない立場とは違う」 「それはそれでまた、複雑な人の情というものが絡んでくるのさ」 エドアルドと10歳も違わないはずのオスカーは、唇の端を上げ、妙に老成した口調で言った。 まとめることも結うこともないまま肩まで伸びた淡い金髪は前髪が長く、顔のほぼ半分を隠すように緩やかに波打っている。 その髪型と、皮肉な、そのくせどこか悟ったような口調と態度。そこに一種退廃的な香りを漂わせる、武門のグランツの一員としてはどこか異端の兄である。 だがエドアルドはこの兄が結構好きだった。 「ところでエドアルド」 兄が言った。 「陛下の御意云々の噂が実はどうあろうと、お前が引け目を感じる必要はないからな」 何に対しても斜に構えてみせるのに、この兄はこんな気遣いもする。 「兄上、それは……」 「お見えになりました!」 エドアルドとオスカーはハッと顔を上げ、急いで姿勢を戻した。 正門を抜け、3騎の護衛を従えて、1台の馬車がやってくる。 「……アーダルベルト」 窓からそっと目を覗かせ、ユーリが声を潜めて言った。 「何か……すごい歓迎なんだけど……」 おれ、お忍びなのに。 魔王陛下の困り声に、アーダルベルトが吹き出した。 「馬鹿だな。お忍びだからこの程度で済んでんじゃねえか。公式訪問だったら、領内に入った瞬間から大歓迎の嵐だぜ? 実際、民を総動員してのお迎えはもちろん、城に到る街道全てを花で埋めようって計画もあったらしい。お忍び旅行だから民にも一切伏せろ、陛下御訪問を誰にも知られないようにしろって通達が宰相殿から送られたときには、かなり不満の声も上がったそうだ。親父達にしてみれば、グランツが陛下の御信望を得ていると内外に知らしめる、平たく言やぁ自慢できる絶好の機会だったわけだからな」 「……そ、っかあ……。おれ、そこんとこ全然考えてなかった。何か……申し訳ない気がするな……」 「君が申し訳なく思う必要は全くないよ? 渋谷」 馬車の中で村田が苦笑しながら言う。でもさあ、と親友を振り返って、有利が本当に困ったように眉を八の字に落した。 「おれ、荷物を下ろしたらすぐに遊びに行こうって思って、色も変えてるし、服も街の人が着る普段着だし……。ほら、村田、見てみろよ、皆正装してるよ。……わー、何かおれ、すごく失礼なコトしてる気がしてきた……」 陛下。声にハッと顔を上げると、窓から今度は名付け親の笑顔が覗いている。 「コンラッド〜」 「お忍びとはつまりそういうことなのですから、猊下も仰せの通り、陛下がお気になされることは全くございません。むしろ、陛下のお忍びについてきちんと国許に知らせなかったアーダルベルトのミスです」 護衛の言葉に、その通りだよと村田が頷き、外からは「おいおい」という不満げな男の声が聞こえてくる。それでも、グランツの人々の期待を裏切ってしまったような気がして、ユーリは小さくため息をついた。それから。 「なあ、村田!」 「何だい?」 「つまり城の人は皆、おれ達が来るのを知ってるわけだよな?」 「君が来るのはね」 その答えにちょっと引っ掛かったが、ユーリは問い質すより話を進めるほうを選んだ。 「だったらさ、もう黒が見えてもいいんだよな?」 「だろうけど……何? かつらとカラコン、外すの?」 「うん。だってさ、こんな風に歓迎してくれる城の人達の前に、変装したかっこで登場するのはちょっと…って思って。服はどうしようもないけど、せめて色くらいはさ」 「君も妙なところで律儀だねえ。ま、良いけどね」 前庭に集結したグランツ城の人々から、一斉にどよめきが上がった。 街の乗合馬車と見紛う質素が馬車から下りてきた二人の少年、そのどちらもが、紛れもない双黒、魔族にとって最大の貴色であり禁色である黒をその身に帯びていたからだ。 もちろん、魔王陛下が双黒であることは知っている。人々は、その色を目にする幸せな運命の瞬間を、今か今かと待ちわびていたのだ。だがどうして2人……。 「……お1人は陛下であろうのう……」 反応できないままのフォングランツ卿ウィルヘルムの背後で、ご隠居様達がひそひそと言葉を交している。 「もちろんそうであろう。だが……」 「よもやもう1人は影武者であろうか!」 「御本人と影武者が並んで歩いてはおかしかろう」 「陛下を害しようとする者がおれば、確かに戸惑うであろうが……いや! グランツにそのような不埒な者は断じておりはせぬ!」 「当然じゃ。しかし王都の者共はいまだ我らを……」 「いや待て、お主ら。双黒をお持ちなのは陛下だけではない。もうお1人おられるではないか。もしかしたら……あの、もう1人、いや、お1人は……」 「ま、まさか! そのような報せは受けておらんぞ! ……だがしかし、もしそうであれば、これは大変なことじゃ!」 陛下がグランツの大地に降り立たれたその瞬間に、歓迎の歓声を上げよう、「魔王陛下万歳!」の声を上げようと、準備万端で待ち構えていた人々は、目に飛び込んできた「2人の双黒」という光景に戸惑い、思わず歓迎の声を飲み込んだまま立ち尽くしている。 「親父殿!」 呆然と見つめるフォングランツ卿ウィルヘルムに、その時、2人の双黒の少年を先導するアーダルベルトの声が掛かった。 「魔王陛下、そして大賢者猊下、ただ今御到着あそばされました!」 おー、アーダルベルトが敬語を使ってるぞ、と村田に向かって囁きかけたユーリの声は、うおおっという人々の、大地をもどよもす叫びに掻き消された。 「なっ、何と! 魔王陛下のみならず、大賢者猊下までもが我がグランツに!」 「た、確かにっ、我が国において双黒といえば陛下と猊下のお2人のみ! しかしまさか……!」 「これまで、どの十貴族であろうと、陛下と猊下がお2人揃って御訪問なされたという話は聞いておりませぬぞ!」 「何という光栄……!」 「我らに対してこれほどの配慮を……! 陛下は……これほどまでに我らグランツを信じて……!」 「それにしても、何とお美しい…!」 「まさしく双黒並び立つ眞魔国……! 言葉では聞き知っておりましたが、何と見事な……!!」 「感激で、私はもう前が見えませんっ!」 魔王陛下、万歳! 大賢者猊下、万歳! 眞魔国、万歳! 魔族に栄光あれ! 絶叫するように歓呼の声を上げる人々の多くが、瞬く間に顔を涙でくしゃくしゃにする中、ユーリは短い距離をアーダルベルトに先導されて進んだ。 そして、右に左に、笑顔を投げ掛け、手を振りながら、同じ様に歩く傍らの村田にそっと囁いた。 「……おい、村田、お前が一緒なの、知らせてなかったのか?」 「知らせた、という報告は受けてないね。ま、良いんじゃない? 嬉しい驚きで感動も倍化したみたいだし。…うーん、渋谷、歓迎されるって気分が良いねえ」 「お前なぁ……」 何だかますます申し訳ない気分に陥りながら、ユーリはやがて感動に打ち震えるフォングランツ卿ウィルヘルムの前に立った。 「初めまして、フォングランツ卿。ユーリです。えっと、息子さん、アーダルベルトにはイロイロお世話になってます。それから、こんな普段着でごめんなさい。お忍び旅行だから、一応変装してて……。あの、突然お邪魔してしまってご迷惑をお掛けしますけど、どうかよろしくお願いします!」 ユーリがぺこんと頭を下げた瞬間、フォングランツ卿ウィルヘルムの身体がふるりと震えた。 魔王陛下が自分に何を告げたかはほとんど聞こえていない。いや、耳に聞こえてはいるのだが、その言葉の意味はほとんど認識されていない。 魔王陛下のこの世のものとも思えない美しさ、愛らしさをその目にしたことの衝撃、同時に、2人の双黒という地上の奇跡が目の前に出現したことへの感動が、フォングランツ卿の体内を激流のように駆け抜けている。 今、この瞬間、30数年に及ぶグランツの苦難は終わったのだ。 魔王陛下と大賢者猊下という、魔族にとって至高の御方を2人ながらお迎えできた今日この日、全ては報われたのだ……! きょとんと小首を傾け、自分を見つめる魔王陛下の顔は、すでに涙の幕に邪魔されて見ることができない。 だがそれに構わず、フォングランツ卿ウィルヘルムは激情の赴くまま、その場に膝をついた。 グランツの当主が地に片膝をつき、最上の礼を陛下に向けて表明した。 それを目にした瞬間、その場に集った人々が一斉に当主に倣い、ざっと地面に膝を着き、頭を垂れた。 「魔王陛下、そして大賢者猊下、ようこそ、ようこそ我がグランツにおいで下さいました! 偉大なるお二方をこうしてお迎えできましたこと、我らフォングランツ一族一同、ただただ光栄に存じております……!!」 グランツの当主が震える声で懸命のその言葉を紡げば、崇敬の念を現す人々の頭はさらに深く地に垂れる。 「…あっ、あの…っ!」 思わずユーリが声を上げた。 「顔を上げてください。それから、お願いですから、立って下さい。おれ、こんな風に跪かれるの、苦手なんです」 お願いします。 その声と同時に、フォングランツ卿ウィルヘルムは、両の肩に手の感触を感じて思わず顔を上げた。 目の前に、大きな漆黒の瞳がある。そこに映って自分を見返しているのは、どこか間の抜けた自分自身の顔だ。 グランツの当主と間近で視線を合わせた魔王陛下が、にっこりと笑った。 「……へ、へい……」 「立って下さい、アーダルベルトのお父さん」 その軽やかな口調に、フォングランツ卿が思わず息を呑む。 「親父殿」 意外なほど近くから、息子の声がした。見れば、アーダルベルトがすぐ傍らでしゃがみ込んでいる。 「陛下は堅苦しいことがお嫌いだ。ここは…そうだな、遠くから遊びに来た甥っ子を迎えるって感じで気軽にやるのが一番御意に叶うんじゃねぇかな? そうだろ? こぞ…陛下?」 今、全然違う呼び方しようとしただろ? 笑いながら、それでもユーリは頷いた。 「うん、そんな感じが良いな。それでお願いします。ね?」 またもにっこりと笑みを向けられて、フォングランツ卿ウィルヘルムは夢から覚めたように目をぱしぱしと瞬かせた。 それからまじまじと幼い陛下の顔を見つめ、ようやく呼吸を取り戻したかのように深く息を吐き出すと、ゆっくりと立ち上がった。 陛下の思し召しだ。皆、立って構わん! アーダルベルトが上げる声に従って、跪いていた人々がおずおずと立ち上がる。 その時になって初めて自分の顔が濡れていることに気づいたらしい。フォングランツ卿は恥ずかしげに袖で目元を拭うと、深々と頭を下げた。 「……取り乱しまして、大変失礼致しました、陛下。あまりの感動に、つい我を忘れてしまいまして……。お恥ずかしいことでございます」 「とんでもないです!」 慌ててユーリが首と両手を振る。 「歓迎して頂けて、おれ、とっても嬉しいです! あ、そうだ、紹介します。お知らせしてなかったみたいだけど、一緒に来ることになった村田健、大賢者です」 「初めましてですね。よろしくお願いします、フォングランツ卿」 ユーリの1歩後ろに下がって様子を見ていた村田が、ゆっくりと前に進み出た。 おお、大賢者猊下…! フォングランツ卿から感動の声が溢れた。 「猊下のお出ましまでもが叶うとは、夢にも思いませんでした。無骨者揃いゆえ、どこまで御意に叶うか分かりませぬが、精一杯のおもてなしをする所存でおります。どうかご滞在中は何なりとお申し付け下さいませ」 「「ありがとうございます!」」 声を揃える愛らしい2人の少年に、一瞬目を瞠ったフォングランツ卿ウィルヘルムは、すぐにホッと頬を緩めると、にっこり笑って頷いた。 「話が纏まったところで親父殿」 アーダルベルトが苦笑を浮かべながら父に声を掛けた。 「お2人を中へご案内しよう。詳しい話は茶でも飲みながらで良いんじゃないか?」 おお、そうだ、とウィルヘルムが頷いたその時。 「これ、ウィルヘルム。わしらも陛下にご挨拶したいぞ!」 「お主ばかり、ずるいではないか」 当主の背後から、わくわくと弾む声がした。 「こりゃまた何とお可愛らしい陛下と猊下じゃ!」 「お肌もすべすべじゃのう。ほっぺをつんつんしてみたいのう」 「ごっ、ご隠居様!」 慌てて振り向くフォングランツ卿ウィルヘルム。 「これから城中にご案内いたしますゆえ、皆様の紹介はその時に……」 「それまでにわしらがぽっくりイったらどうするのじゃ!」 「何せわしら、年も年じゃからのう。やることはとっととやらんと、いつどうなるか知れたものではないわい」 「……グランツ一族の歴史の証人ともいうし、化石とも呼ばれている長老達だ」 アーダルベルトに教えられ、ユーリがずらりと並んだ御老人一同に目を瞠った。 ギュンターなどをうっかり「老人」扱いしてしまうユーリだが、目の前に居並ぶ一団は紛れもない、正真正銘の御老人達だ。 「おじいちゃんと……おばあちゃんもいる、のかな?」 「いるんだろうが、本人達もここまで長生きしたら、自分が男なのか女なのかも忘れてんじゃねぇかな? 全員500歳は超えてるはずだし」 「そ、そうなんだ……」 呆然と答えたとき、すっと傍らに気配があった。 「どなたも眞魔国の歴史に名を残す、高名な武人達ばかりですよ」 コンラートに囁かれ、ユーリはさらに目を大きく見開いた。 「そうなの!? コンラッド」 「はい。士官学校でも必ず教えられる、有名な方々ばかりです。俺が生まれた頃にはすでに引退及び隠居をなされておられますから、お目に掛かるのは俺も初めてですが……」 「……つまり…ご隠居生活、100年を超えてるってこと……」 黄門様も真っ青だろう。 ご高齢の方々には、丁寧に、尊敬を持って接しなくては。 先ずは基本のご挨拶、とユーリが1歩前に進み出ようかとしたその時だった。 「長生きなされておいでのようですが、長老方」 陛下より先に、大賢者猊下が先んじて前に出た。 「最もご高齢なのはどなたで、お幾つなんですか?」 これは猊下! フォングランツ卿ウィルヘルムと長老達がサッと腰を屈め、礼を示した。 「恐れながら」 老人達の中から、腰まで伸びた真っ直ぐな髪と、ほとんど髪と一体化している髭が見事な老人が進み出てくる。あ、何とかオブザリングのおじーちゃん! 思わずユーリが呟いた。 「本年秋の第2月に、568歳に相成り申す」 すげー! 目を瞠り、口を大きく開け、全身で驚きを表現する魔王陛下に、老人が余裕の笑みで頷いた。が。 「……568歳か……」 ふと呟いた大賢者猊下が、すっと視線を逸らし、遠い眼差しを宙に向け、そして。 「……若いな」 しん、と空気が静まり、フォングランツ卿はもちろん、老人達が一斉に目を剥き、仰け反った。 そして、何かを思い出すかのように瞳を伏せる大賢者猊下をまじまじと、今ようやく、自分達の目の前にいる人物が何者なのかに気づいたかのような、畏怖と恐怖すら交えた眼差しを向けた。 4000年なのだ。 例え見た目が7、80歳の少年であろうと、その魂は、繋いできた生命の記憶は4000年分なのだ。 魔族の中でも、人生経験の豊かさにおいて比類なし! と自慢してきた自分達。 だが、7人分の人生経験を合わせても、目の前の少年に匹敵するかと問われれば……厳しい。 どうする? 7人の老人達、グランツの、名づけるならば「チャレンジャーセブン」は互いに目を交し、その意志を確認しあった。 自分達7人の経験を合わせることで、4000年分の記憶を有するこの人物に伍することができるか? チャレンジャー達の瞳に、戦場を駆け巡った往時の光、忘れかけた戦士の炎が一気に蘇る。 その時。 目を伏せていた大賢者猊下が、ふと顔を老人達に向けた。 そしてその目が。 ぱちりと開いて、老人達に真っ直ぐ向けられた……。 「降参でございまするっ!」 真っ青な顔を引き攣らせた老人の1人が、絶叫するように宣言した。 「参りましてございます!」 「我等の負けでございますっ!」 「恐れ入りまする!」 「我ら、揃って猊下の軍門に下りますことをお誓いいたしまするっ!」 チャレンジャーセブンは、結成と同時に崩壊した。いや、大賢者猊下の前に陥落した。 村田が、にっこりと笑う。 ねえ、コンラッド。 魔王陛下が護衛の名付け親を呼んだ。 「……いつ、どこでどんな戦いがあって、何が村田の勝利だったわけ?」 「よく分かりませんが、さっさと降参を表明してくれて良かったです。変に対抗意識を燃やされては、俺達が迷惑しますから」 「……まったくだ」 コンラートとアーダルベルトと、その後ろではヨザックが、やれやれとため息をついた。 「陛下、猊下、こちらに控えておりますのが、我が弟達とその家族でございます。私の妻は既に亡くなり、息子はアーダルベルトが一人という少々寂しいものではありますが、その分、弟達と家族達に慰められております」 早く城内へ、と言いつつも、一族全ての人々が集結し、歓迎してくれるこの場所を、さっさと去ることはしにくい。ということで、ユーリ達一行はゆっくり歩きながら人々の歓迎の意と挨拶に応えることとなった。 ユーリの前に、正装に身を包んだ4名の男性が並んで一斉に頭を下げる。 フォングランツ卿ウィルヘルムの4人の弟達だ。 アーダルベルトがいない間は、実際その弟達がフォングランツ卿ウィルヘルムの心の支えだったのだろう。 そう考えながらユーリは、胸に手をあて、頭を下げるフォングランツ卿達に視線を向けた。 「こちらにおりますのが、すぐ下の弟、ゲオルグでございます。次がオットー、その次がテオドール、そしてこちらが末弟のハンスでございます」 「初めまして、ユーリです。よろしくお願いします」 「ムラタ・ケンです。初めまして」 「ご尊顔を拝し奉り、光栄に存じます。陛下、猊下」 笑顔で頷きかけ、集まる家族にユーリが視線を向ける。その時、見慣れた顔がユーリの目に飛び込んできた。 「エド君っ!」 人々が注目するその前で、魔王陛下が両手を高々と上げ、勢い良くその手を振った。満面の笑顔は眩しいほどにキラキラと輝いている。 「エド君もいたんだ! 久し振りーっ!!」 集まった人々の目が、一斉に魔王陛下の視線の先に動いた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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