流れいく花色の風 |
「…アイリーン、父さんの聞き間違いだね? お願いだよ、もう一度、ちゃんと言っておくれ」 「ごめんなさい、お父さん、お母さん。私、結婚したい人がいます。彼は……魔族、です」 きっぱりと言い切って、姉さんが深く腰を折った。私がいつも自慢する、姉さんの長くて綺麗な金髪が、さらさらと音を立てて前へ流れた。 父さんが椅子に座った。というより、お尻が椅子に落ちた。どすん、と鈍くて大きな音がする。 「……何てこと、何てこと……」 テーブルの脇に立っている母さんが、持っていた布巾を手の中でくしゃくしゃにしている。見ると、目の玉がくるくるとせわしなく動いて、どこにも止まろうとしない。このままじゃ目が回って倒れてしまうんじゃないかな? 弟が眠っていてよかった。ここにいたら、この雰囲気だけで泣き出してしまうだろうから。 ………私、落ち着いている? どうなのかな。よく分からない。今聞いてしまった話が、まだ頭の中に届いていないような、ヘンな感じ。姉さんが言ったことを、私の心が「来るな、来るな」ってそっぽを向こうとしてるみたい。 「…魔族が、どうしてこの村に……」 「沢に……怪我をして倒れているのを見つけたの。近くに、ほら、薬草を集めて乾かす小屋があるでしょう? そこに運んで……、看病したの。彼、ラクシスって……」 「どうして知らせなかった!? 魔族の男なんぞを助けるなど……、どうして!?」 「知らせたら殺されてしまうと思ったのよ! そんなこと……」 「当たり前だろうがっ! 魔族だぞ? おぞましい魔物だぞ。見かけこそ人間と変わらんが、いや、変わらんからこそ恐ろしい化け物だ。ああ、何てことだ、魔族なんぞに化かされて……!」 「違う! 彼はおぞましくなんかない、化け物なんかじゃないわ!」 「邪悪なものは全て魔族が生み出しているのよ? 司祭様がいつも教会で仰っているじゃなの! 不作も旱魃も虫の害も、すべて魔族が、魔王が人間を滅ぼそうとしてやっていることなのよ?」 「ラクシスは違うって言ってたわ! 魔王陛下はむしろ世界を救おうとなさっているって! 誤解してるのは人間の方……っ!」 パンッ、と肉を打つ音がして、姉さんが倒れた。母さんがひゅうっと息を吸って棒立ちになった。父さんが片手を上げたまま、肩で息をしている。そして私は、ただ見ていた。 まるでお芝居を見ているみたい。現実のことだなんて、全然思えない。父さんが、母さんが、姉さんが、何だかとっても遠い。 さっきまで、弟が「お休み」を言って居間からいなくなるその時まで、だっていつも通りだったじゃない? ソファに座った父さんが、眠る前のお酒をグラスに注いでいて、台所仕事を終えた母さんが、父さんのための簡単なおつまみと私たちのお茶受けを運んできて。村の会議で、税金を安くしてもらうよう、ご領主様に陳情団を出すことになったと父さんが話せば、母さんが、私の家にパンを焼く粉とお金を借りにきた家が、今日で5件増えた話をして。 本当に、いつも通りの宵だったのに。 父さんは部屋に姉さんを閉じ込めた。そして村の人を集め、沢の小屋にいる魔族を退治しにいくといって、家を飛び出していった。 母さんはずっと泣いていて、私は辛くなって外に出た。そして、どうしていいか分からないままに、姉さんの部屋の外へ回り、そして…。─そこに、姉さんがいた。 「クィンティ……」 その瞬間に分かった。姉さんは最初から全部覚悟していたんだ。父さんたちが許さないこと、ちゃんと分かっていたんだ。 姉さんはいつの間にか男の子のような格好をしていて、背に小さなリュックを背負っていた。 準備は全部、終わっていたんだ。 「お姉ちゃん……」 「ごめんね、クィン。お姉ちゃん、あの人と行くわ。眞魔国であの人と暮らすの。いい国なんだって。魔王陛下も、とってもお優しい立派な国王様なんだって」 そんなはずない。そんなの、絶対ウソだ。司祭様や大人たちが教えてくれた魔王は、どれも真っ黒で大きくて、角や牙が生えてて、口から火を吹いて、手には剣をいくつも持って、気に入らない者の首を刎ねていた。 でも口から言葉は出なくって、私はただ身体を固くして姉さんを見ていた。目の前の姉さんの姿が、何だか水っぽく揺れてぼやける。 「ごめん、クィン、もう行くわ。あの人が父さんたちに殺されてしまう。クィン、父さんと母さんをお願いね? お姉ちゃんの代わりに親孝行してね? でもお姉ちゃん、絶対絶対幸せになるから、だから…」 ごめんね。そう言い置いて、姉さんは真っ暗な道を駆けて行った。 父さんたちは間に合わなかった。姉さんは、父さんの言う事をよく聞く、物静かで大人しいアイリーンは、魔族の男と共に、それっきり姿を消した。 私はクィンティ・ペロー。15歳。父さんは村の医者をしている。村長さんや司祭さまと並んで、村では顔役の一人だ。もっとも、今年は薬草畑が旱魃でほとんど全滅してしまい、ろくに薬のない状態がずっと続いていて、治療らしい治療ができずにいるけれど。 私たちの国は、大シマロンの隣国で、ずっと大シマロンに従ってきた。属国と独立国との中間で…よく分からないけれど、とにかく大国に頼らないと生きてはいけない小さな国だ。 元々そんなに裕福な国じゃなかった思う。ご領主様は国王様に税を納めなくちゃならないけど、国王様も大シマロンに税を納めていて、だから、私たちの国は税金が他の国より高かった。 過去形でいうのは理由がある。大シマロンがなくなってしまったからだ。 反抗する国を武力で支配して、大シマロンはどんどん国を大きくしてきたのだけど、ついに反乱が起こってしまった。私たちの国の王様も、大シマロンを助けるため多くの兵を出した。でも結局役には立たなかった。 戦火こそ免れたものの、たくさんの大人達が帰って来れないまま、私たちは拠りどころとなる国をなくした。今も、国境では大小の騒乱が起きている。そんな状況が私たちの生活に影響しないわけもなく、ただでさえずっと続く旱魃で作物が育たないこともあって、国も人の心も荒れていった。昔は緑が豊かだったという村も、今では土色ばかりが目立つ。 父さんたち陳情団は、何の収穫もなく帰ってきた。 それどころか、更に税を重くするという通告を受けてきたという。大シマロンを滅ぼした反乱軍が、こともあろうに魔族と手を結んだというのだ(神よ、彼らの病んだ魂をお救い下さい)。そのために、私たちの国も急遽軍隊を強化する必要に見舞われてしまった。働き手も多く徴収されるらしい。─村人達が受けた衝撃は大きかった。 雲が重く垂れ込め、本当なら雨が降ってもおかしくないある日。アイリーンから、思いも寄らない便りが届いた。 姉さんがいなくなって、1年が経っていた。 「どうせ助けてくれと泣きついてきたんだろう。あのばか者が! ちょっとやそっとじゃ許してはやれんぞ」 侮蔑と期待を込めて父さんが言ったけれど、でも手紙はそんな内容じゃなかった。 眞魔国はすばらしい国だ。 魔族の人たちは、人間である自分にもとても親切にしてくれる。 夫にも夫の家族にもよくしてもらっている。 そして。 『─私は今、とっても幸せです。ところで、そちらは如何でしょうか? 人間の国は今大変な状況だと、皆が言っています。どうでしょうか。父さん、母さん、クィン、そしてニコル。こちらに、眞魔国に来ませんか? 縁者がいれば、人間でも移住は難しくないそうです。こちらの義父母が保証人になると言ってくれています。こう書いても信じられないだろうとは思いますが、眞魔国は本当にいい国です。魔王陛下は、民の事を思いやってくださる、それはもう立派な方です。父さんたちに決して後悔はさせません。─これを何よりお知らせしたいのですが。実は私は子供を身ごもっています。出産の予定は……』 「…あっ」 読んでいる途中の手紙を、父さんにひったくられた。顔を真っ赤に怒らせた父さんが、それをくしゃくしゃにして、引き裂いて、暖炉に投げ捨てた。 「呪われろ、呪われろ、魔族め!」 姉さんのこともあって、村の中での父さんの立場が微妙なものになっていることを、私は知っていた。 それでも最初の内は、皆私達に同情的だったと思う。自慢の娘を、魔族に攫われた気の毒な一家だと。でも。 増税の知らせがもたらされた辺りから、皆の表情が微妙になった。 まるで…悪い知らせを父さんが作って持ってきたとでも言いたそうに。 いつの間にか、私の友達が一人、また一人と、私を避けるようになった。弟のニコルが、泣いて帰ってくる事が多くなった。私の家に、麦の粉を借りに来る人がいなくなった。父さんを頼ってくる人も減り、ある時からぷっつりと村の寄り合いに呼ばれなくなった。 「─ぺローの家は魔族の呪を受けた。悪い風はぺロー家から吹いてくる」 優しい司祭様だった。私や弟の名を付け、勉強を教えてくれ、親にも言えない相談事を、いつも親身に聞いてくれる人だった。その司祭様から発せられた言葉が、私達一家の運命を変えた。 ある夜。外が騒がしくなり、私達が不安に身を寄せあっていた時、家の扉が叩かれた。 開けた扉の向こうに、村長さんと司祭様が立っていた。 「………お姉ちゃん……」 居間を出されて、部屋に向かおうとした私の背に弟の声が掛けられた。 振り向いた私に、無言のまま窓の外を指差す。 「………っ!」 窓の向こう、家の周りを、村の男達が取り囲んでいた。手に手に、鍬や鍬や鎌を持って…………。 夜が明ける前。無言の村の人達の視線を背に、私達一家は村を出た。いや、追放された。 「……死にましょう……」 春はまだ遠い。夜明け前の一番寒い風に身体を嬲られながら、私達はとぼとぼと道を歩いていた。 アイリーンの駆け落ち騒ぎ以来、すっかり弱くなった母さんは、このところの心労ですっかり身体の肉を落としていた。父さんに凭れる様に歩く母さんが、ぽつりと呟いた。 「もう……生きていたくない……。皆で死にましょう………」 「おまえ……」 立ち止まって、父さんが母さんを抱き締めた。二人分の嗚咽が忍びやかに洩れてくる。ふと、手に濡れた感触を感じて下を向くと、弟が私の手を握りしめていた。顔がぐしゃぐしゃに濡れている。ずっと泣いていたんだろう。何度も拳で涙を拭ったんだろう。でも拭い切れなくて……。私も思わず弟を抱き締めた。 うーっ、うーっ、と、押し殺した泣き声が私の胸の辺りから聞こえてくる。私は弟の、ニコルの髪を撫でた。 涙で曇った私の視界に、まだ沈まない月の光の中に、幼い頃から見知っている、小さな沼(…昔は湖みたいに大きくて澄んでいたのにね)が映った。 「…あそこで…死ぬ?」 誰に問うともなく、私は呟いた。 沼のほとりに、私達は立った。 「……これまで真面目に生きてきた……。誰にも恥じる事ない人生を歩んできたつもりだ…。それが……どうして……!」 くるぶしまで水に浸かって、父さんが喘ぐ様に、何かに訴える様に言った。母さんがその傍らにしゃがみ込んで泣いている。 私達はここで死ぬんだ。この冷たい、暗い水に身体を沈めて。きっと身体は春まで上がってこないだろう。きっと水草や泥に埋もれて、魚や水の生き物のエサになって。そして。 変だった。本当だったら、自分の想像にゾッとなって、叫びだしてもいいはずだった。なのに、そうならない。絶望のせいで、心が先に死んでしまったのだろうか? ………いや、何だか、違う。 ここで死ぬんだと心が決まった瞬間。お腹の底の方。胸の奥の方。何か熱い固まりが生まれ、それと同時に、胸の中で渦巻いていた哀しみとか、恐ろしさとか、絶望とか、そんな色んなものが一度に、ふうっと、消えてしまったのだ。 頭がスッキリして、何だか胸が軽くなって、そしてお腹に力が湧いてきた。 「……お姉ちゃん……?」 ニコルが濡れた声で私を呼ぶ。私は弟を見下ろして、笑いかけた。 「やめよう」 「…え?」 「お父さん! お母さん! やめよう!!」 両親に向かって、私はきっぱりとそう言った。 「………クィン?」 「本気で死ぬ気になったよね? 今、私達、本当に死ぬ覚悟、したよね!?」 黒から藍色に、空気の色が変わってきた。もうちょっと待てば、あわあわとした晩冬の光の中に、紫色や橙色の雲の帯が輝きはじめるだろう。 「私、今ね。本当に死のうって決めた途端、何だかね、怖いものがなくなっちゃったような気がするの。きっとね、私達、今死んだんだよ! 本気で死ぬ気になったから、私達、もうこの水の中に魂を放り込んじゃったんだよ。だからもう、いいじゃない? 死んだんだから、もう何でもできるよ。何でも我慢できるよ。そうでしょ!? だからもう、行こう!」 「ど、どこへ…?」 私の勢いに押されたのか、父さんも母さんも呆気に取られた顔で、言い返しもせず私を見つめている。私の無茶苦茶な言葉を、それでも待っている。 「それは…えっと………あっ!」 それは天啓の様に、私の頭に浮かんできた。 「アイリーンのところに行こうよ!」 「クィン!!」 両親の、特に母さんの声はほとんど悲鳴だった。 「だってそうでしょ? こんなことになっちゃったの、アイリーンにだって責任あるもん! 一言言ってやんなきゃ。姉さんのバカって、あたし、引っ叩いてやりたいんだ!」 「しかしクィン……。アイリーンはもう、魔物になっているかもしれんのだぞ?」 魔族に身体や魂を汚されたら、もうその人は人間じゃなくなる。恐ろしい魔物の仲間になってしまう。 「だったらなおさら…行こうよ!」 「クィン……」 「本当に死んじゃう覚悟を決めたら、何だってできるよっ。姉さんの魂を救う事だって……きっとできる! お姉ちゃんを魔族から救け出すの。そうすれば誰もあたし達を、魔族の呪を受けた家族だなんて言わなくなるわ。そうでしょ!?」 「クィン…クィンティ…お前…」 「…お姉ちゃん……」 父さんが水の中から出てきた。母さんも立ち上がった。ニコルが私の手を握りなおした。 そうして私達は、今日の最初の光の中を、歩き始めた。 潮の香のする風が強くて、目が開けられない。 「お姉ちゃん、すごいっ、すごいねー! 周り全部水だよっ、全部! 海って広いねー!」 ニコルのはしゃぎ声に、私たち、ずっと救われてる。この子のためにがんばろって思えるから。 私たちは今、眞魔国に向かう船の上にいる。 ここに来るまで長かった。 私もニコルも、今まで村を出た事なんてなかったから、世界が広いって事も知らなかった。父さんだって、都までしか行ったことがないし。生まれた村を出るだけじゃなく、こんな遠い国まで来るなんて…。 旅をするってのがこんなに大変だなんて、私、ホントに知らなかった。 眞魔国に渡るには、魔族と友好的な国に行かなきゃならなくて。その一番近い国がカロリアだった。村を出る前に掻き集めたありったけのお金と、お金になりそうな品を少しづつ売る事で路銀を作って、やっとの思いでカロリアに辿り着いたのが昨日のこと。村を出てから二週間以上経っていた。 私たちはもうへとへとで、どう贔屓目に見ても難民か、新米の浮浪者だ。 がんばって節約してきたから、4人分の船賃は残ってたけど、部屋を取るまではできなかった。私たちは眞魔国に到着するまでの4日間、ずっとデッキで過ごさなきゃならない。 「…でもお天気は上々だし。ちょっと…かなり…寒いけど…。でも皆でくっついてれば暖かいよね。水と乾パンはあるし。うん、大丈夫! ……たぶん……」 無事に眞魔国に着いても、アイリーンの住む場所までどうやっていけばいいのかとか、そもそも人間が魔族の国に入れてもらえるのかとか、魔族にひどい目にあわされたりしないかとか……、色々思うと心細くなるけど……、どうして眞魔国に行こうなんて言っちゃったりしたんだろうって、後悔したりしちゃうけど……。 「お姉ちゃん、アイリーンお姉ちゃんは迎えに来てくれるかなあ?」 手紙は出したけど。 「ねえ、お姉ちゃん? 魔族と人間って、どう違うの?」 お話だけならいっぱい聞いたけど。 「お姉ちゃん?」 「うん……」 船が速いせいかなあ。風が冷たいなあ。……あたし、やっぱり考えなしだったかなあ…。 ちらりと見たデッキの端っこ、積まれた荷物の陰に、父さんと母さんが外套にくるまって身体を寄せあっているのが見える。私たちみたいに船賃がきちきちで、部屋を取る事ができない客は必ずいるんだそうだ。そんな客と荷物を風雨から護るため、大きなテントが用意されている。今は昼間だし、お天気もいいからテントは片付けられているけど。でも風が強いから、船員さんにお願いしてもう一度張りなおしてもらおうかな。 そんな事を考えて立ち上がった途端、また強い風がデッキを吹き過ぎていった。思わず髪を抑えて、身体を縮める。と、薄く開いた目の前に何か軽いものが飛んできた。これは。 「……帽子?」 まるで私に向かってやってきたみたいなものを、私は大して迷いもせず、空中でひょいと掴んでしまった。 やっぱり帽子だ。編み目の揃った毛糸の帽子。……暖かそう。誰のかな? 持ち主いないのかな? だったらいいかな? ニコルに被せてやりた……。 「ごめん! それ、俺の!」 男の子が一人、デッキに飛び出してきた。……イヤだ、私ったら、今なに考えてたんだろ。 「外に出たとたん飛んじゃって…。ホントにありがとー」 恥ずかしくて、顔が上げられない。私、いつからこんな卑しいコトを考える様になっちゃったんだろ。 俯いて目を固く瞑ったたまま、突っ慳貪に帽子を差し出した。誰かの手がそれを受け取る。でも、私の前に立つ気配は全然消えてくれなかった。受け取ったら、さっさと行ってしまってほしいのに。私、今すっごくイヤな顔してるのに。 「…あのー…」 男の子の声。たぶん私と同年代の。……だから早くどっかに行ってよ。 「どこか痛いの? 具合悪いんだったら……」 「違うのっ」 思わず怒鳴ってしまった。この子は全然悪くないのに。 「あなたには関係ないの! だからもう……っ」 びっくりして、声が喉に逆戻りしてしまった。 思わず叫んで顔を上げた瞬間、目に飛び込んできた顔。私とほとんど背丈の変わらない、真正面に立つ男の子─たぶん─の。 私……こんなきれいな子、初めて見た。 赤毛が風にさらさらなびいて。ちょっと寒そうな頬はほんのり赤らんで。大きな目、溢れそうな茶色の瞳は透明に澄んでいる。小さくて低めの鼻。形のいい唇。 どこもかしこも、何も人と変わらないはずなのに、それがまとまったこの顔立ちは、どこの誰にも見られないくらいきれいに整っていた。 何だろう、どこが違うんだろう。……雰囲気? この子から吹いてくる風は、何だか色が違うような気がする。さっきよりずっと透明で、きらきらしてて。 清潔な感じ? 汚さとか嫌らしさとか卑しさとか、そんな濁ったものが、この子からはこれっぽっちも感じられない。その分、ちょっと人間ぽくないような……。 「………そうだ!」 思わず声に出た。ずっときょとんと私を見ていた男の子が、びくっと身体を震わせたけど、全然気にならない。思いついた言葉が、ものすごく気に入ったからだ。 「…天使さまだ……!」 教会に立ってる天使の像みたいに、とっても浄らかで神聖な感じ。うん、そう、それ! 「…あ、あのー……」 「…お姉ちゃん…?」 ハッと気がついたら、男の子は目を瞠いて私をまじまじと見ているし、ニコルは心配そうに私の手を引いている。 「あっ…ごっ、ゴメンなさい! …えっとぉ」 「あの……大丈夫?」 「ええ! もちろん…その…」 困った。ものすごく怪しい女になっちゃった。 焦ってもじもじしていたら、じっと私を見ていた男の子が、にこーっっと笑顔を向けてくれた。……って、かっ、可愛いキレイーっ! 「寒いねっ」 「…う、うんっ」 「どこから来たの?」 あ、話題を変えてくれてるんだ。 「あっと、船に乗ったのはカロリアからだけど……国は─」 生まれ育った国が、何だかとっても遠い。国名を教えてもよく分からないのか、彼は視線を宙に向けて首を捻っている。 「カロリアまで、2週間掛かったの」 「2週間!? そんなに? 馬車で?」 「乗り合い馬車を乗り継いだり、荷馬車に乗せてもらったり…。母さんの具合があんまりよくなくて、歩くのも野宿も無理だったし。でもそれでお金が少なくなっちゃって、船賃もギリギリなの」 「…そっかー…。それで、どこまで行くの?」 「…………しんま、こく……」 「……君、人間、だよね?」 声が出なくて、ただ、うん、と頷いた。人間のくせに魔族の国へ行くなんて、呆れられてしまったかな。 「………姉さんが……魔族と結婚して……眞魔国で暮らしてるの……。赤ちゃんも…できたって。それで…その……」 「そっかー。それでお姉さんを訪ねて行くんだね?」 「う、うん…」 ちらっと見たら、男の子は呆れも軽蔑もしていないみたいだった。それどころか、どこか嬉しそうにニコニコしてる。 「俺、ユーリっていうんだ。君は?」 「あ、あたし、クィンティ。クィンティ・ぺローよ。えっと…皆はクィンって呼ぶわ」 「じゃあ、よろしく、クィン…って俺も呼んでいい?」 「ええ、もちろん! あの、こちらこそ……ユーリ…?」 「うん」 男の子、ユーリがまたもニコッって笑って、頷いてくれた。………うっ、嬉しい、かもっ!! と、いきなり腕をつんつんと突つかれた。え? と下を見ると、ニコルが睨んでいる。 「あ、あー、ごめんねっ。えっと、ユーリ? この子は弟のニコルよ」 「初めまして。僕、ニコラス・ぺローです! ニコルって呼んで下さい。年は10歳です!」 「あ、ごめんごめん。こちらこそ初めまして。俺はユーリです。よろしくな? 年は16歳」 わあ、一つだけ年上なんだー。 さっきまであんなに寒かったのに、何だか胸がポカポカしてきた。我ながらゲンキンな……、と思ったら、いきなりビュンッと突風が吹いてきた。 「さっ寒いねっ」 「うん、こんなに青空なのにねっ」 「中に入った方がよさそうだなー。えっと、クィンのご両親は部屋に…?」 「う、ううん、その…」 「父さんと母さんはあっちにいるよ」 ばかニコル! ユーリはニコルが指差すままに顔を、デッキの端っこ、荷物の間に身を縮こまらせている父さんと母さんに向けた。そしてちょっとびっくりしたように、視線を私に戻した。 「……だから。お金がないの…。お部屋もとれなくて。…あ、でも大丈夫よ、夜にはちゃんとテントも張ってもらえるし…」 何だか泣きたくなってきた。……誰かと触れあったりしなければ、こんな風に惨めだなんて感じなくても済んだのかなあ……? それともユーリだから? 「……お母さん、具合がよくないって言ってなかった?」 ユーリがきゅっと眉を顰めてそう尋ねてきた。 そんなコト、誰より分かってるわよ。でも、だからって、どうしたらよかったの? 黙っていたら、ユーリが「あのさ…」とどこかおずおずと切り出した。 「その…気を悪くしないでもらいたいんだけど…」 「……?」 何だろう、と顔を上げた時だった。 「坊っちゃん!!」 突然の呼び掛けに、思わず顔を声のした方に向けた。 男の人が二人。すごい勢いでこちらに駆け寄ってくる。 「坊っちゃん! 探しましたよ! どうして俺たちに黙って外に出たんですかっ!?」 「ごっ、ごめん、コンラッド。ちょっと外の空気を吸おうと思っただけで…、その、ごめん…」 「もー、勘弁してくださいよー。坊っちゃんのコトとなると、頭のネジがぶっ飛んじまうのがここにいるんですからねー。こいつが暴れると、グリエ困っちゃうー」 「だから、ゴメンって…」 …………坊っちゃん。 私はまじまじと目の前の3人を眺めた。 ユーリの両肩に手をおいて、すごい怖い顔をしている男の人と、何だか変わった髪の色をして、苦笑している男の人。どっちも二十歳くらい、かな? それにしても…。 ユーリって、いいお家のお坊っちゃんなんだ。それにしては服装とかは質素だけど。でも、こんな男の人が二人もお供についてるってコトは、やっぱりお坊っちゃんなんだろうなあ。……まさか、貴族!? ………ってことは、ないか。貴族や大金持ちのお坊っちゃまが、私たちみたいな庶民に気さくに話しかけてくれるはずないもんね。でも…。 「でも坊っちゃんも隅におけませんねえ? ちゃっかりこんな可愛い子とお友だちになっちまったりして?」 「…え? あ、あたし…?」 気がついたら、変わった髪の色─お陽さまの色というか、夕焼け色というか、熟れ過ぎた果物の色というか─をして、でも真っ青な瞳がとっても陽気そうな男の人が、私を見て笑っていた。 「あ、そう、そうだった。あのさ…」 ユーリは言いながら私たちに近づくと、手に持ったままの帽子をニコルの頭に被せた。その動作があまりに自然で、私は拒む事も遠慮する事もできなかった。 「あったかーい」 ニコルが嬉しそうに笑い、ユーリもそれに応えて微笑んでいる。 「あのさ」改めてユーリが男の人、さっき怖い顔をしていた茶色い髪の人に話しかけた。「この子達、眞魔国にお姉さんを訪ねて行くんだって。人間だけど、魔族と結婚して、もうすぐ子供も生まれるんだって!」 「ほう?」 「へー、そりゃめでたい」 「…お姉さんは眞魔国のどこに?」 茶色い髪の人が私を見た。さっきはあんなに怖い顔をしてたのに、今は全然違う。すっごく優しそうで……うわ、とってもかっこいい! それに、目が綺麗。何だか銀色のお星様がキラキラしてるみたいな……。 「……あっ、あのっ、えっと、確か……」 手紙は父さんに破られたけど、住所を書いた封筒はちゃんと取ってあった。何度も読み返して覚えた住所。私は覚えた文字を、ほとんど棒読みで伝えた。 「…ああ、ウィンコット領の…。あそこはいい街ですよ。落ち着いてるし、気候も安定して住みやすい所ですね」 ……………………あれ? 「コンラッド、知ってるの?」 「ええ。以前ウィンコット領に居た事がありますので。その街にも1、2度足を運んだ事があります」 ……………………あれ? 「…クィン、ニコル、……どうしたね? こちらの方は?」 背後に父さんと母さんの気配。でも振り向けない。頭に浮かんだコトが怖くて。 「あ、こんにちは。俺、ユーリっていいます。えっと…今クィンやニコルと話してて。あ、お母さん、身体の具合はどうですか? 寒いのに外で、大丈夫ですか?」 「え?……まあ、どうも御親切に。ええ、慣れない旅をしたものですからちょっと……。でも、何とかがんばらなくちゃ……」 「お身体の具合がよくないのですか? …しかし、娘さんがいらっしゃる街まで、港から結構距離がありますよ? 馬車でも一日二日では……」 ……………………まさか。 「そうそれ、コンラッド。あのさ、この人達、カロリアに着くまで2週間も掛かってて、お金がなくなっちゃったんだって。だから部屋が取れなくて、デッキにいるんだよ。こんなに寒いのに! それでさ…」 「ねえ!」 言葉を途中で遮られて、ユーリがビックリ眼で私を見た。 「あの、ユーリ……あなた、まさか………魔族………?」 私の言葉に、そしてたぶん私の形相に、ユーリは困った様に眉を寄せ、それから「うん」と頷いた。 「うん。俺、俺たち、魔族だよ」 ひ、と私の後ろで母さんが息を飲む。 魔族。 人間と変わらない姿をしているからこそおぞましい、と父さんが言った。 邪悪なものは全部、魔族がつくり出している、と司祭様が言った。 旱魃で作物が枯れてしまうのも、洪水で家や橋が流されてしまうのも、全部魔族のせいだって。 税金が毎年上がるのも、国から配給される食料がしょっちゅう届かなくなるのも、軍隊で反乱騒ぎが起こるのも、全部全部魔族が後ろから糸を引いているんだって。 魔族。 恐ろしい化け物。魔物。人間の敵。 小さい頃からずっと聞かされてきた話が、一気に私の頭の中で渦を巻く。 ユーリが私を見ている。 私を……誑かそうとしたんだ…! 「…お姉ちゃん……?」 ニコルが不安そうに私を呼ぶ。ニコルが……ニコルの……頭に帽子! 私はとっさに弟の頭に手を伸ばし、被された帽子を剥ぎ取った。 「よくもこんなものを弟に被せたわねっ!」 私は毛糸の帽子をデッキに叩き付けた。 「ニコルを汚す気!? 私の弟を魔物の仲間にする気なのっ!?」 頭のてっぺんからニコルが汚されてしまう。ものすごい恐怖と怒りが、私の中で燃え上がった。 ユーリは何も言わない。ただじっと私を見ている。………哀しそうな顔で……。 でもっ、騙されるもんかっ。 私はニコルを抱き締めた。そして父さんと母さんの腕が、後ろから私たちを護る様に回された。 沈黙が、その場に落ちた。 誰も、何にも言わない。私たちは彼らを睨み付けたままで。と、明るい髪をした方のお供が動いた。近づいてくる。 「なっ、何よ! 近寄らないでよ、この化け物!」 何にも言わない。言わないまま、私の側で屈み込み、落ちたままの帽子を拾い上げた。ポンポンと手で叩く。 「……あんたら、これから眞魔国に上陸するんだろぉ? だったら周り全部魔族だぜ? どうすんだよ。ひとり残らずケンカ売る気かい?」 …………そうだった。 私、分かってなかったんだ。たぶん、父さんたちも同じ。 魔族の話があまりにも不思議で。この世のものとは思えなくて。まるでおとぎ話みたいで。「魔族」って呼ばれるモノが、実在してるって実感がなくて。 だから、魔族の国に行くってことを、分かっているようで本当は全然分かっていなかったんだ。 魔族は、想像の世界の幻じゃない。 魔族はこうして、私たちと同じ姿で同じ地上に生きている。ちゃんとこの世界に生きている。 私たちはこの存在と、真正面に向き合って、渡り合って行かなくちゃならないんだ。それが今やっと、本物の魔族を目の前にしてやっと、分かった……! ……アイリーンは。姉さんは、怖くなかったんだろうか。こんな、人間と同じ形で、なのに全然人間じゃない「モノ」と共に暮らす事を。 「さ、坊っちゃん、行きましょうや。これ以上こんなトコにいたら、風邪引いちまいますぜ?」 「ヨザックの言う通りです。部屋に戻りましょう。お茶と、フリンから貰ったケーキを切りますよ。ね? ユーリ?」 ユーリは何にも言わない。ずっと私を見ている。その瞳が、揺れて。そこに浮かんでいるのは、涙、だろうか…? まさか、そんなこと…。 ユーリの様子を見て、コンラッドと呼ばれていた魔族が私に視線を移した。………表情は何も浮かんでないけど、目が、ものすごく、厳しい。……まっ、負ける、もんかっ…! 「…さ、ユーリ」 肩を押されて、ユーリがやっと動いた。 「……ゴメンね……」 小さな声が耳に届く。 何で謝るワケ? もう正体分かっちゃったのに、何でそんな顔でいるワケ? もう私は騙されないのに。 傷つけたなんて。哀しませたなんて。 思ったりするもんか。 罪悪感なんて。感じたりするはずない。 そんなはずない。のに。 どうしてこんなに。胸が。痛いんだろう……。 NEXT→ プラウザよりお戻り下さい。
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