宴の前の嵐・8

「助けて頂きまして、ありがとうございました」
 初めて男と対面した日、男は、痛む身体をおしてベッドに起き上がると、深々と頭を下げた。
 そして、密書を突き付けられ、魔族の密偵であろうと詰め寄られると、男はわずかに顔を歪めたが、すぐに潔くそれを認めた。
「……仰せの通りです。ですが私には……これ以上、何も申し上げることはできません。お助け下さり、このように手厚い看護までして下さった命の恩人に対し、誠に申し訳なく存じますが……それも私の使命でありますれば……。………この上は、シマロンに引き渡すなり、御国にて取り調べられるなり、どうぞいかようにもご処断下さいませ」

「私はまだ少年でしたが、その潔い態度には仰天しました。魔族というのは、きっと舌を何枚も持っていて、保身のためならどんな巧言でも弄するに違いないと信じていたのです。……兄もそうでした。兄は武人の誇り高い男で、ですから、男が本気で覚悟を決めていることが分かったのでしょう。あの時の兄の呆気にとられた顔が今でも忘れられません」

 その日から、 サリィはほとんど毎日、ほぼ一日中男と共に過ごした。
「母は怖れて近づきませんでしたが、それでも王都にその事を報告しようとはしませんでした。兄もです。サリィ様は元々好奇心のお強い方でしたから……」
 直接魔族の方とお話ができるなんて、めったにない経験だわ! そう言っては毎日楽しそうに部屋へ足を運び、話をせがんだ。
 魔族の国には太陽が登らなくて、真っ暗闇だって本当? 魔王は全ての民の声が聞こえていて、気に入らない事を一言でも口にした者は、一瞬で食べられてしまうって本当? それから……。
 最初は戸惑っていた男だったが、サリィの好奇心が純粋なものだと分かったのだろう、数日過ぎる頃には、部屋から笑い声が聞こえるようにもなった。

「……もちろん、サリィ様と男を二人きりにするような真似はしておりません。兄が常にお側におりましたし、それが出来ない時は、私がサリィ様をお護りしておりました。そして、サリィ様と共に、男の話を聞いていたのです。ですから私も次第に、魔族に対して自分達は思い違いをしているのではないかと考えるようになっていました。そして同時に、……二人が日一日と打ち解けて、そしてお互いの理解を深めていくのが……子供心にも分かりました。それが何を意味するかは、長い間気がつきませんでしたが……」
 気がついた事といえば、夜、母と兄が深刻そうに話し合う姿を、やたらと頻繁に目にするようになってきた、というその一事だけだった。
「………傷がだんだんと癒え、体調が良くなってくるに従い、男がとても端正な顔立ちをしている事が分かりました。二人が窓から花など眺めて談笑している姿に私は、何と申しますか、幼い頃母に読んでもらった物語の、姫君と王子の様だ、などと思って見愡れていたのですから、子供というのは呑気なものです」
 手綱を操りながら、ウォルワースが苦笑を浮かべた。
「考えてみれば、わずか14でご結婚、16歳でご出産……。サリィ様は20歳にもなっていなかったその時まで、もしかすると恋などという言葉すらご存知なかったかもしれません。……あの方が常々言い聞かされてきた事はただ一つ、『王族の義務』を果たす事、ただそれだけだったからです。王家に生まれてきたからには、何より背負う義務がある、と。……ご結婚も、ご出産も、すべてその義務の一つであるとして、サリィ様は、果たすべき役目をひたすらに全うされてこられたのです。ガヤン殿に対して、好きも嫌いもありませんでした。まして恋など……。ご信頼されておられたでしょうし、尊敬の念もあったでしょう。しかし……。ガヤン殿にしても同じです。年も離れておられましたし、ガヤン殿にとってサリィ様は、護るべき大切なお方ではありましたが、同時に、ご自分の立場を堅固なものにする基盤そのものでもあったのです。ただ……ガヤン殿について弁明をお許し願えるなら、あの御仁は、私利私欲、己を利する野心や下心などといったものには、全く無縁の男でした。少なくとも……あの頃は……。前王に認められ、必死になって国のため民のため、力を尽そうと躍起になっていたのです。真面目で、真面目過ぎるくらい真面目で………だからこそ……」
 一つ歯車が狂うと、とめどもなく狂っていってしまった……。

「男がほぼ完治した頃でした。サリィ様がとんでもない事を仰せになったのです」

「王都に戻るわ。そしてお父様達に、魔族と密かに誼を通じるように進言するわ」
「……なっ………何を、仰せに……っ!?」
「人間は魔族を誤解しているのよ。私達が長年に渡って、魔族を魔物と思い込んできた事は、とんでもない過ちだったのだわ。今からでも遅くはない。間違いを正して……」
「お止め下さい、姫様っ!!」
 乳母の声は、ほとんど絶叫だった。
「そっ、そのようなっ、そのような恐ろしいことを………っ。……あの男ですね、ああ、あのような魔族に騙されて……。あのような男、助けるのではなかった! もっと、もっと早くに何とかしていれば………っ!」
「ばあや、バカな事を言うのは止めて」
「いいえ、姫様! 魔族と誼を通じるなど、冗談でもお止め下さいませ! そのような世迷い言、姫様の正気が疑われまする! お立場も危うくなりまするぞ!」
 サリィの乳兄妹もまた、必死に言葉を継いだ。
「それに万一、我が国の次代の国王となられる方が魔族を擁護されたとシマロンが知ったら……我が国を侵略する恰好の理由を与える事となりまする!」
「だから………密かに、と言ったわ」
「できる訳がございません!!」
「ねえ、あなた達だってもう分かっているでしょう? あの人が魔物? 化け物? 悪魔? ……違うわ。全然違うわ! あの人は、あの人は………本当に…………」
 そこで感極まったように、サリィは唇を震わせた。瞳が見る見る内に潤んでくる。
 唇を噛んだまま、サリィは彼らの前から走り去った。

「………私は、何も言えませんでした。口にすれば叱られる事が分かっていたので、決して言葉にはしませんでしたが……その頃にはもう、私も魔族が悪魔だとは思えずにいたからです。実は私も、疑問や好奇心を満足させるために、何度かそっと男の部屋を訪れては、言葉を交わしていたのです。ですから……」
 兄がそのまま男の部屋に向かった時、思わず後を追いかけた。
 兄が男を切り捨てるのではないかと怖れたからだ。
 だが、男の部屋を訪れた兄は。

 身を投げ出すように、男の前に土下座した。

「出ていってくれと。サリィ様の前から消えてくれと。兄は男に懇願しました。……泣きながら……」
 このままでは、サリィ様の立場どころか、その命すら危うくなる。
 本当はお前を殺してしまいたい。サリィ様を惑わせたお前を、八つ裂きに切り刻みたい。
 だがそれはできない。なぜなら……誰よりもサリィ様が悲しむから。
 だから。お前が恩を感じる事ができるなら。
 このまま消えてくれ。いなくなってくれ。
「頼むから。……兄は、床に何度も頭を打ちつけて、男に懇願し続けました。私は……それを、兄の側でただ見つめていました。………男は……」
 哀しげに、ただじっとサリィの乳兄弟を見つめていた。
 そして、ふと、何かの気配を感じたように、頭を巡らせた。
「私も、それにつられて視線を扉の方に向けました。そこには………」

 顔を、真っ青に引きつらせたサリィが立っていた。


 それきり言葉を継がず、ウォルワースは真正面を向いたまま手綱を操り続けた。
「……………えと………それで………?」
「それだけです」
 ユーリの問いかけに、ウォルワースが答えた。
「………………」
「………翌朝、男の姿はなくなっていました。サリィ様は、中庭のベンチに、ただじっと座り続けておられました。そしてその後、ミゲル様がお生まれになったのです」
「……………その……男の人は……?」
「分かりません。それから間もなく、シマロンと眞魔国の戦争が勃発いたしましたし……。あのような仕事をしていた男です。おそらくは、戦の中で命を落としたのではないかと……」
「………そうか……」
 ユーリは、ほう、と息をついて前方を見つめた。

 王族の義務として結婚して、子供を産んだサリィ。恋もしらないままでいた彼女の、初めての恋。
 サリィを知ってしまった今となっては、その想いを、不倫だの浮気だのという言葉にしてしまうことは、ユーリにはもうできなかった。

「……………あれ?」
「何か?」
「…えっと……その頃って、カインはまだ小さいんだよね?」
「さようですな。まだ……1歳か、2歳くらいか……」
「そこにはいなかったの?」
 陛下それは、と、ウォルワースが苦笑した。
「眞魔国ではどうか存じませんが、人間の国の王家では、王族の母親が己の手で子供を育てるということはほとんどございません。大抵は、生まれてすぐ乳母の手に渡され、乳母の手で育てられるのです。カイン様もまた、その当時は乳母の元、王都におられたはずでございます」
「そ、そういうもんなのか……?」
「眞魔国では違うのですか?」
 ウォルワースの問いに、ユーリも首を傾げた。よく分からない。でも。
「……いつかおれにも子供ができたら……」

 人任せなんかにしない。絶対、おれの手で育てるんだ!

 心にそう誓った瞬間、ユーリは真っ赤になった。
 自分がコンラッドの子供を産む、と想像しただけで、顔が一気に熱くなる。
「……で、でも……いつか……」
 自分達はもうご夫婦なのだし、いつ子供ができてもおかしくないのだ。
 そう思い至ると、顔の熱は一斉に全身を駆け巡った。心臓がばくばくする。
 ウォルワースとカスミが、きょとんと自分を見つめているのも気づかずに、ユーリは顔を両手で覆い、「うわー、うわー」と声を上げ続けた。

 コンラッドは、子供が好きだろうか? 子育ては母親任せだろうか? いやいや、意外と子煩悩で、結構がんばって協力してくれるかもしれない。そう言えば、ヴォルフが生まれた時、コンラッドが世話をしていたとか言ってなかったか?
 コンラッドが赤ちゃんを片手に抱き、哺乳瓶の温度を確かめている図を想像して、ユーリは思わず頬を緩めた。襁褓を替えるコンラッド、というのも、想像してみると中々楽しい。

 だから、ウォルワースとカスミの表情が急に強ばった事にも、ユーリは全く気づかなかった。

「………陛下」ウォルワースの引き締まった声が、ユーリの鼓膜を叩いた。「落ち着いて、お声をお出しになりませんよう」

 目を凝らして。それからユーリも、一気に襲ってきた緊張に唇を噛み締めた。
 道の前方で、検問が行われている。



 時間を遡ること半日。
 ユーリが、サリィの住む離宮に落ち着いて、話を弾ませていた頃。
 王宮では、大宰相が魔王奪還の命を側近達に下していた。

「……おのれ、忌々しい神官どもが……! やはりこの計画を立てた時に、あやつらを始末しておくべきだったか……! カイン! では、魔王は神官どもの手に落ちたのではないのか!?」
「申し訳ございません、父上。神官や法術師達がいきなり襲いかかってきた後はもう、何が何やら……。部屋は灰色の煙に覆われ、気がついたら魔王はどこにも姿が見えませんでした。外も探してみましたが……」
 殊勝に言って、カインはいかにも申し訳なさそうに頭を垂れた。
「その煙とやらを吸った者は、神官どもを含め、ことごとく深い眠りに入ったようですな」
「何だと? ではそれは、あの役立たず共の法術ではなかったのか?」
 バンディールの言葉に、大宰相が訝しげに問い質した。
「はい。兵士の言葉によりますと、煙の中でいきなり眠気に襲われ、目が覚めた時には、神官や法術師達と一緒になって床に転がっていたそうですので……。カイン様」
 バンディールが、冷たい眼差しを王の弟、親王に向けた。
「眠らずに済んだということは、カイン様は、その煙を吸わずにおれたのですな? それはまた、どういう僥倖で?」
 兄の乳兄弟の疑わしげな眼差しを、カインは冷静に見返した。
「吸ったよ。かなり咳き込んだのを覚えている。それからなるべく吸わずに済むように口を押さえて、手探りで部屋の外へ出たんだ。……煙が出て、すぐに皆眠ってしまった訳じゃない。私が部屋をうろうろしている間も、怒号だの剣の交わる音だのが響いていたからね。私がやっとの思いで外へ出た頃かな。急に中が静かになったような気がしたが、それを確かめる気にはならなかった。早く魔王を探さないとと思ったからね。……何か疑っているのかな? だったらその辺り、お前の配下の者に話を聞いてみたらどうかな」
「もうよい!」
 さらに口を開こうとしたバンディールを遮って、大宰相が話を終わらせた。
「今せねばならんのは、魔王の身柄を押さえる事だ! 街道という街道に、人を立てよ。どんな裏道にでもだ! 道を行くもの全てを調べさせよ! バンディール、神官共の動きから目を離すな。やつらは必ず動く。魔王には大神官の首輪が嵌っているのだ。あれが必ずヤツ等を魔王の元へ導くだろう。いいか、神官どもを出し抜いて、何としてでも魔王を手に入れるのだ。神官も法術師も……いざとなれば全て処分しても構わん!」
 大宰相の言葉に、バンディールが頷く。
「魔王の力は、このガヤンの手の中で、ベイルオルドーン復活のためだけにあればよいのだ!」

「カイン様」
 父の元を辞したカインの背後から、バンディールの声が掛かった。
「……なんだ?」
「先程お聞きし忘れた事を思い出しまして。……魔王の側につけておきましたあの魔族の娘。あれはどうなったかご存知では?」
 少し考える素振りを見せて、それからカインは首を横に振った。
「そういえば……すっかり忘れていたな。……いや、全く気がつかなかった。今の今まで存在も忘れていたよ。確かにいないな。……魔王と一緒にいるのでは?」
 カインのその様子を無表情に見つめていたバンディールは、その答えを受けて頷いた。
「確かに……それ以外考えられませんな」
 それきり、もう興味をなくしたというように踵を返したバンディールだったが、ふと、何かを思いついた様にその足を止めた。
「カイン様」
「……なんだ?」
 バンディールが再びカインに、その疑惑に満ちた眼差しを向けた。
「あなた様の祖国はこのベイルオルドーンです。よもやあなたを育んだこの国を、父上や兄上を裏切ったりは……」
「私は」強い声で、カインはバンディールを遮った。「愛する祖国のためになる事だけを、いつも必死で考えている!」
 ……ならばよいのです。カインの言葉を受けて、バンディールは今度こそカインの元から去っていった。

「………カイン様」
 バンディールの姿が視界から消えて暫く後。物陰からそっとカインを呼ぶ声があった。
 視線を向ければそこに、男達が数人立っている。その内の何人かは軍服を纏っていた。
「……………行こうか」
 しばし男達の姿を見つめていたカインだったが、やがてそれだけ告げて歩き始めた。男達も、無言のままその後に従っていく……。


 同時刻。
 神殿の奥の間では、ローエン大神官の前で神官と法術師達が、床に跪いて畏まっていた。
「………何とぞ、おゆる……」
「誰が、魔王を暗殺せよと命じたのか」
 低く抑揚のない大神官の声に、頭を垂れていた者達は一斉に身体を強ばらせた。
「いつ、誰が、このローエンを越えて命を発する事ができるようになったのか」
「……お、お許し下さいませ、ローエン様! たっ、ただっ、我々は、我が祖国が魔族の蹂躙を受けるに忍びなく、魔物の首魁をこの手で滅する事で、祖国と、そしてこの神殿の誇りを全うしようと………っ!」
 ダンッ! と、大神官の杖が床に叩き付けられた。
 ビクッと身体を震わせる一同。
「いつから。神殿の誇りを云々できるほどになったのか。我らが先祖代々、営々と繋げてきた偉大なる教義、この教えの奥義を全て理解し、全て身につけ、神殿の誇りを我が身一身で支える事ができると堂々口にできる程の大人物になったと主張するならば。そなた、本日ただ今より、私を排除して大神官を名乗るが良い。どうだ。できるか」
「…めっ、滅相もございません! どうか、どうか…お許しを……!」
 一同は、ますます床に這いつくばる様に頭を下げた。
 弟子達のその様子をしばらくじっと見つめていたローエン大神官は、ふと身体の力を抜くと、徐に立ち上がった。
「………魔王には、我が気を込めた首輪が嵌っている。故に、魔王がどこにいようと、私はその気を追っていくことができる。………よい。明日になってから、追っ手を出す事としよう」
 その言葉に、神官の1人が顔を上げた。
「明日……? 明日でよろしいのですか? 今からさっそく……」
「明日でよい。どこへ逃げようと、私の追跡からは逃れられぬ。……その前に、私には今宵これからせねばならない事がある。よって、全ては明日からだ。………だが、その前に」
 部屋を横切った大神官は、控えの間につながる重いカーテンをさっと払った。
「………っ!?」
 神官達が、戸惑いの声を上げる。
 カーテンの奥、控えの間には。
 ローエンと同じく大神官の衣を纏った、やはり同年代の人物が椅子に座っていた。それから彼を護るように、三名の武人─その内の1人は紛れもない女性─が立っていた。
「この御仁は、私の竹馬の友である。久し振りに訪ねてきてくれたのだ。……この度の話を聞いて、我々に協力してくれることとなった。この」ローエンは三人の武人の内の、二人の男を指し示した。「…二人が、明日からの追跡に同行してくれる事となった。大層な遣い手だそうだ。頼りにさせてもらうがいい」
 二人の男が軽く頭を下げる。1人は銀の髪を長く伸ばした、そして瞳まで銀色の、一見魔族とも見紛うばかりの美貌の男。もう1人は、縦も横もがっちりと大きく逞しい偉丈夫だ。
「………あの……ローエン様………」
「全ては明日からだ。……もうよい。皆下がりなさい」
 神官達も法術師達も、何かを言いたげに唇を戦慄かせていたが、やがて全員が二人の大神官に頭を下げ、部屋を去っていった。
 残されたのは、5人だけ。

 ローエンは、暫し凝然とその場に立ち尽くし、閉ざされた扉を見つめてから、大きく息を吐き出した。
 そして、徐に苦笑を浮かべると、控えの間に座ったままの友人に顔を向けた。
「……………出した手紙に、返事をくれるだけでもよかったのだぞ……?」
「直接話をした方が手っ取り早いと思ったのだよ。いきなりで迷惑かとも思ったが……。だが思いきって来てよかったようだ」
 そう言うと、もう1人の大神官は、立ち上がって友の側にゆっくりと歩み寄った。
 そして、言葉もないまま、互いの目を見つめあった。

「………とうとう……この時が来てしまったのだな……」
「そうだな、ローエン。……だが、世界を破滅から救うためには、逃れられない運命だ」
「私の、私達の時代にな……。よもやと思っていたのだが……。だがお前は、もう随分と前にこの時が来る事を予測していたのだな」
「そのために追放されてしまった訳だが。……だが考えてみれば、ものすごい幸運でもあるのだ。先達達が見る事の叶わなかった奇跡を、己の身で体験できるのだからな。私もこの目、この身でそれを見、そして体験したのだが、私の予測など塵にも満たぬ程凄まじいものであったのだぞ?」
「……だがな、だが………この年になって、背負わねばならぬものが……大き過ぎる……」
 それまでの傲然とした振る舞いが嘘のように、ローエン大神官は顔を両手で覆うと、その場に崩れ落ちた。
「………大き過ぎるぞ………ダード……」

 かすかな嗚咽を洩らす大神官を、その長年の友であるダード老師、そして、今現在、新連邦を名乗る新国家を支える若き力である三名、クロゥ、バスケス、そしてカーラは、大きな役目を背負った老人を、痛ましげに見つめていた……。



「停まれっ!!」
 叫びと同時に、兵が数人駆け寄ってくる。
「……お声をお出しになりませんよう」
 素早く囁くと、ウォルワースは御者台から身を乗り出した。
「こりゃあまた……何かございましたので……?」
 殊更のんびりと、ウォルワースが兵士の1人に尋ねる。兵士は1人を残して、全員が荷台に積み込まれた物を片っ端からひっくり返し始めた。荷台にいたカスミが怯えた様に御者台ににじり寄り、ユーリの肩を抱き寄せる。
「…どこから来た?」
 見張りに残っていた、隊長と思しき兵士が、ウォルワースを下から睨み付けている。
「はい、あの、王宮に村の作物を納めに参った帰りでございまして……。私めが今月の当番でございますので、あの……」
「村はどこだ!?」
「はあ…その……クリュッセ村でございますが……」
「クリュッセ? えらく遠いではないか」
「はあ……あの……」
 その時、兵士の1人が近づいて来た。
「何も不審な物はありません。廃品が積んであるだけです」
 兵士の報告に、ウォルワースに質問していた兵士が「そうか」と頷いた。そのまま去るかと思われたが、兵士はふと何かを思いついたように目を上げ、ユーリとカスミを交互に見た。
「………お前の娘か?」
「はい、さようで。……女房が病でございますので、娘を手伝いに連れてまいった次第で……」
「首の辺りをはだけさせろ」
「は? ……申し訳ございません、今、なんと……」
「妙な勘違いをするな。胸を見せろと言っている訳ではない。二人とも喉を布で覆っているだろう。それを取れと言っているだけだ」
「はあ……それは一体……」
「余計な口を挟まんでいい! 喉元を見せればそれで………それとも何か? 見せられんとでも言うのか!?」
 一気に兵士達の気配が緊迫する。
「とっ、とんでもございませんです!」
 ウォルワースは慌てて手を振ると、背後に隠れるように寄り添いあうカスミとユーリに半身を向けた。
「娘達や、兵隊さんがお前達の喉を見せろと仰っているよ。さ、そのスカーフを取って兵隊さんに見てもらいなさい」
 言いながら、ウォルワースは御者台の裏に隠してあった剣を、そっと抜き出した。
「……合図したら、床に伏せて下さい」
 カスミが油断なく視線を巡らせながら、ユーリに囁く。
「何をしているっ!?」
 兵士が叫ぶ。ウォルワースとカスミがそっと頷きあう。その時。

「何だ、ガイスではないか。どうしたのだ?」

 のんびりとした声が上がった。
 ハッと顔を上げたウォルワースが破顔する。
「これは! ロットリン様ではないですか! 御無沙汰しておりますです、はい」
 街道を、馬に乗ってゆっくりと近づいてくる男がいる。身には、上級士官と思われる軍服を纏っていた。
「あ、あなたは…っ!」
 兵士達が一斉に直立不動の姿勢をとり、男に向かって敬礼した。
「街道の監視、御苦労だな」
 ウォルワースが「ロットリン」と呼んだ士官が、馬上から兵士達に声を掛ける。
「何か変わった事でもあったか?」
「はっ。あの…」兵士が、ウォルワース達に視線を向ける。「この、者達が……」
「ガイスか? ああ、この男は俺が昔から良く知っている男だ。怪しい者ではない。……ガイス、久しいな。娘達も大きくなったではないか」
「はい、まことに。このような所でお会いできて、嬉しゅうございます」
「お久し振りです、ロットリン様!」
 士官の言葉に、ウォルワースとカスミがにこやかに答えた。ユーリも思わずぺこんと頭を下げる。
「これから村に戻るのか?」
「はい。お役目も済みましたので」
「そうか。俺もこの先に用がある。途中まで一緒に行こう。……いいな?」
 最後の言葉は、兵士達に向かって投げかけられた。もちろん否も応もない。
 改めて敬礼して見送る兵士達を背に、荷馬車と馬に乗った一行はゆっくりと街道を進み始めた。

「何か起こりましたので? ロットリン様」
「いや、お前達には関わりのない事だ。気にせずとも良い」
「はあ、さようで」
「ところで女房は息災か?」
「それが、ここのところ風邪を引き込んでしまったようで……」

 検問を抜けてしばらく、彼らはのんびりと馬を進め、和やかな会話をし続けた。
 だが、兵士達の姿が完全に見えなくなった頃、辺りの気配を確かめた一行は、すっとその雰囲気を変えた。
「………助かった。礼を言うぞ、ロットリン」
「間に合ってようございました、ウォルワース様」
 士官が馬上からウォルワースに向けて頭を下げる。
「お前がここまで来たということは………ついに、ご決意なされたか」
「はい」
 そうか、と、ウォルワースが頷いた。
 会話の内容は見えないが、とにかくこの人物が自分達を助けてくれた事だけは、ユーリにも分かった。
 士官は、見た目だけならグウェンダルくらい。好きなだけ伸びた挙げ句あちこち跳ねて、おさまりのつかなくなった髪を、無理矢理一つに括っているという感じのワイルドな髪形がやたらと目立つ。その髪だけではなく、全身の雰囲気もどこか野性的な匂いのする男だ。髪が赤っぽいのも合わせて、何となくヨザックに似ている気がすると、ユーリは思った。
 と、男とユーリの視線がかち合った。
 ロットリンと呼ばれた士官は、しばらくまじまじとユーリを見つめ、それからウォルワースに向かってどこか困ったような笑みを浮かべた。
「……あの……ウォルワース様。……その、この、子供……が?」
「そうだ」
 頷くウォルワースの声は、どこか笑いが混じっている。
 まいったな。ロットリンは苦笑を浮かべつつそう呟くと、改めてユーリに対峙した。
「異国の御君にはご無礼致しました。パーディル・ロットリンと申します。かつてはウォルワース様の副官を勤めておりました。……以後お見知りおきを」
「あっ、あのっ……ユーリです。こちらこそよろしくお願いします。……えっと、そうだ。さっきは助けて下さって、ありがとうございました」
 ロットリンに向かって頭を下げると、ぶっと吹き出す音がした。驚いて顔をあげると、ロットリンがくっくと笑いながら、「本当に参ったな」と、頭をがしがし掻いている。
「ロットリン」
 ウォルワースが少し厳しい声で嗜める。
「失礼致しました!」
 笑みを顔に残したままで、神妙に頭を下げると、ロットリンは懐から一通の封書を取り出し、ウォルワースに渡した。
「申し訳ありませんが、準備がありますので私はここでお別れいたします。まだ検問があるはずですので、どうぞこれをお持ち下さい。公式に発行された通行保証書です。これで先ず間違いなく検問は突破できるかと」
「済まんな。後を頼むぞ。………ところで、ロットリン」
「はい?」
「ガイスとは誰の事だ?」
「ああ!」ロットリンがぱあっと笑った。「去年イっちまった俺のじい様ですよ!」
 では! とウォルワースに敬礼したロットリンは、ユーリにも意外な程優雅に一礼すると、徐に馬首を返し去って行った。

「陛下」
 何となく、去って行く男の後ろ姿を追っていたユーリに、ウォルワースが声を掛けて来た。
「私は、陛下を巡り、この国には二つの勢力があると申しました」
「あ…うん」
 慌ててユーリが頷く。
「大宰相と、神官達だよね」
 はい、とウォルワースも頷く。
「ですがもう一つ。陛下がこの国に捕われた事を契機に、大きく動き出した勢力がもう一つございます」
「もう、ひとつ……?」
「そうです。今ここでは詳しく申し上げられませんが……私はこの国に生まれ育ち、この国を愛するものとして、この最後の勢力に期待を掛けているのです」
「……ウォルワース……?」
「ウォルワース様、もう急がねば」
 きょとんと問い返すユーリを遮るように、カスミが言った。「おお、そうだ」と、ウォルワースも手綱を握り直す。
「ここからスピードを上げます。ちゃんとお座りになっていて下さいませ」
「あ、う、うん…」

 ユーリの耳元で、空気が唸りを上げて流れ出す。

 荷馬車は一路、街道をひた走って行った。




 夕暮れ。
 数羽の鳩が、一斉に四方に散って跳び去って行った。
「……これから暗くなるっつーのに、鳩は飛べるモンなのか?」
 両手に酒の入ったグラスを持ち、ヨザックが近づいてくる。
 コンラートは苦笑いしながら、差し出されたグラスを手に取った。
 西の空に沈みかけた朱色の太陽が。東の藍色の空に登りかけの月が。
 自然が醸し出す艶やかな色を肴に、二人はグラスを傾けた。
「………かなり、一気に動き始めたようだな」
「ああ。まったくどいつもこいつも、陛下を利用しようと………」
「俺達も明日の朝には国境を越える。……一気に逆転を狙うさ」
 そうだな、と頷いて、コンラートはグラスを煽った。

 馬を限界まで走らせ、広大な大陸を縦断し、凄まじい速さでこの、国境に最も近い街まで辿り着いた。
 本当なら、このまま闇に紛れて国境を越えたい所だったが、ベイルオルドーン内に潜入している味方と連絡を取り合った結果、翌日早朝に国境のある地点で落ち合う事となった。

「…明日来るのはガルダンだけか? 他には誰か味方が……?」
「協力者がいるという話だが……」
 二人は揃って踵を返し、宿に向かって歩き始めた、ところへ。

 ぶんっっ!!

 殺気に満ちた何かが襲いかかってくる気配に、二人は反射的に仰け反ってそれを躱した。
 ガスッという鈍い音が響き、側にあった立ち木が無惨に折れて倒れる。
「……おお、すまんすまん」
 グラスを投げ捨て、すぐに剣を抜く体勢を整えた二人に、わざとらしいまでにのんびりした声が掛かる。
「……………………何をしていたんだ……?」
 二人が物騒な視線を投げかけた先に、クォードが、抜き身の剣を片手に立っていた。
 無気味なまでに笑顔で、空いた手を振っている。
「いやなに、少々素振りをしていたのだが、何故か鞘が抜けて飛んでいってしまってな」
 すたすたとやってくると、二人の前を通り過ぎ、立ち木が倒れた辺りで腰を屈め、何かを拾い上げた。……確かに。鞘だ。
「怪我をさせずに済んでよかった。もっとも、この程度の物も躱せんようでは、武人としては恥さらしだがな」
 その鞘に無造作に剣を納めながら、クォードが言う。
「……まっすぐに俺達を狙って飛んで来たように思ったが……?」
「気のせいだ」
 ほう、とコンラートが目を眇める。ならば、ばりばりに感じた殺気も気のせいか。
「どうした、コンラート? おぬし、妄想癖はなかったように思ったのだが?」
「妄想癖などない。………少々楽しみだと思っただけだ」
「楽しみだと? 何がだ」
「今年の眞魔国リーグが」
 む、とクォードの顔が引き締まる。クォードは新連邦代表チームの「きゃぷてん」で4番打者だ。
「これほどの勢いで鞘が飛ばせるのなら、さぞかしバットも良く飛ぶだろうな」
「………何だと……?」
「空振りしたバットがすっぽ抜けた挙げ句に場外ホームランというのは、さぞかし愉快な余興になるだろう。皆を楽しませるため、せいぜいがんばってくれ」
「…き、きさまぁ〜〜〜っ!」
 くす、と笑って、さっさと背を向けたコンラートに、クォードが掴み掛からんばかりの形相で唸リ出す。
「……はいはい、ごめんなさいよ」
 回収したグラスを手に、ヨザックが二人の間に身体を割り込ませた。
「クォード殿? 明日は夜明け前に国境越えですよ。陛下が救いの手を待っておられます」
 誰の、とは言わないが。
「素振り、本日のノルマが終わったら、なるべく早くお休み下さいませネ?」
 遅れたら置いてけぼりですから。
 そう言いおくと、ヨザックはコンラートの背を押して急いでその場を離れることにした。
「おおそうであった。このクォード、姫の御ためにも戯れ言に付き合っている暇はないのだ!」
 律義にノルマを果たすつもりなのか、クォードもその場を足早に去って行く。

「……真剣に置いていきたい」
「そう言うなって。あのお人には、やってもらわなきゃならん事があるんだから」
 ムッとした顔で愚痴るコンラートの背を、ぽんぽんと叩きながらヨザックが言った。
「言う通りにすると思うか? あの男が…」
「させるのさ。いざとなれば力づくでも。そうだろ?」
「……ああ、そうだな」
 二人は目を見合わせて、くすりと笑った。

「さ! 俺等も飯を詰め込んで、とっとと休もうぜ。こんな時間に宿に入るのは久し振り、どころか、初めてじゃねーか。あんたの弟は、食事もとらずに寝こけてるぜ!」

 明日はいよいよベイルオルドーン、敵の懐の中だ。



「陛下、あれが目的地、チェスカ村でございます」
 小高い丘の上に立って見おろせば、まるで子供が作った箱庭のように、小さくて穏やかな村の風景が目に映った。
 幾つもの緩やかな丘に囲まれた村は、中心となる広場を取り巻くように家が並び、そのさらに周囲を畑や林、そして牧草地らしきものに囲まれている。村を挟んだ向こうの丘を這い上がるように広がる牧草地には、目を凝らすと牛か羊か、動物らしい姿も見えた。
「……きれいな村だね」
「ありがたい事に、私の領地は国土でも最南端にございます。そのおかげで、まだこれだけの緑も残っております」
 夜を日についで馬車を走らせ、ようやっとの思いで辿り着いた身には、柔らかな緑の広がりが沁みる様に美しく感じられる。
「ウェラー卿達が御到着なされるまで、ここで何とか凌ぎたいと思っております。……さ、参りましょう!」
 これが最後というように、手綱が鋭く振り下ろされた。酷使された馬が、喘ぐように嘶く。
 三人を乗せた荷馬車は、まっすぐに村へ向かって丘を下って行った。



  →NEXT


プラウザよりお戻り下さい。




進んだとか、進んでないとか、もう言葉にするのは止めようと思います……。ふう。

リクエストでは、陛下、監禁されることになっていたのですが、その前にとっとと逃げ出してしまってる状況に、今頃気づきました。ご、ごめんなさい……。

増える増える、どんどん増える登場人物。
まだ増えます………。

皆様のご感想、お待ち申しておりますでございます〜。