宴の前の嵐・7

「陛下、陛下は以前、かつての大シマロンの荒廃した大地を、一気に蘇らせた事がございましたな」
「え? あ…ああ、あれは……」
 あの場所で。まだエレノア達反シマロンの勢力が「新生共和軍」を名乗っていた頃、コンラッドを訪ねてユーリ達がその中心となる砦を訪れたことがあった。その地で、死に瀕したエレノアの孫娘カーラの、命を救うために奮ったユーリの魔力が暴走してしまった事がある。暴走した力は大地を刺激し、そこに眠っていた精霊達を揺り動かし、目覚めさせ、彼らを一気に解放してしまった。
 その結果、砦の半径2キロの大地があり得ない早さで復活してしまったのだ。
 見る見る内に水が、緑が、花が、麦が、様々な果実が、ありとあらゆる大地の恵みが、季節も無視して一斉に実った。端から見れば奇跡としかいいようのない状態だったが、実際はかなり歪な、自然の法則という観点からすれば、あってはならない姿を呈してしまったのだった。
 ユーリにとっては、己の未熟さが生んだ結果として、かなり忸怩たる胸の疼きを伴った思い出でもある。土地の人々からそれはもう感謝されてしまったので、顔にも言葉にも内心を現す事はできなかった、が。
「陛下にとっては、あまりよい思い出ではないと承っておりますが…」ユーリの思いを読んだようにウォルワースが言う。「それでも、人々と魔族を一気に結び付ける大きな契機となりました。それに、あの地を中心にすることで、あの国土を復活させる速度が上がったとも聞いております。……陛下、反シマロンの軍勢が完全勝利を宣言してすぐ、大地を復活させるための正しい儀式を行われましたな」
「うん」ユーリが頷いた。「眞王廟の言賜巫女と相談して、儀式の段取りを決めたんだよな…。ホントは眞王廟を出る事の出来ない巫女達を派遣して、精霊達の集う聖なる場所を探して、それからそこに………」
 あれ?
 ユーリは思わず首を傾げた。
 何か妙な引っ掛かりを感じたまま、ユーリは少女に視線を向けた。部屋の隅から動こうともせず、少女はひたすら身を縮めている。
 そうだ。あの時、巫女達を新連邦に派遣する事に決定して、それから。
「………謁見、をしたんだ……」
 眞魔国建国以来、初めて巫女を国外、それもかつて宿敵であった元大シマロンの地に派遣する。
 その驚くべき事態に、だが予想していた程の反発はなかった。大シマロンが滅んだという事実が大きかったのかも知れない。時代が動いているのだという感動に似た感慨が、人々の中に広がってもいた。
 そして、初の派遣団に対し、ユーリは謁見を行い、餞の言葉を送ったのだ。
 巫女達。彼女達を直接に護る女性護衛官達。さらに兵士達。
 大広間に居並ぶその中に。
「……………そうだ。その中に………」
 この少女が、いた。

「彼女は見習い巫女として、正使である巫女達の世話をするべく、最初の派遣団に参加しておりました」

 ユーリの脳裏で、ようやくその映像がくっきりと形を結んだ。


「ベイルオルドーンは、魔族を悪魔と呼んで忌み嫌い続けてきた国です。その隣国に魔族がやってきて、大地に対しての儀式を行う……。これは地続きのこの国にとって由々しき事態でした。もちろんその頃は我が国もとうに眞魔国と、まあ真意はどうあれ、友好条約を結んでおりましたし、表立って反対する事も、新連邦に対して異議を申し立てる事もできませんでした。それに……魔族が大地を蘇らせるとは、果たして真実なのか、どうやってそれが成し遂げられるのか、それを知りたいという思いもあったのです。結局……大宰相や神官達は個別に人を、カスミのような密偵や、法術師を何人も新連邦の地に送り込んだのです。そして……」
 彼らは、巫女達が聖地を見つけては、復活の核となる、ユーリの魔力を受けた若木の苗を植樹するのを見た。そしてその苗が、巫女達の祈りに応え、緩やかに枝を伸ばすのを見、瑞々しい若葉を繁らすのを見た。
 ある場所では、根元から清水が湧き、ある場所では周囲の土地から新芽が吹いたかと思うと、小さな花が咲き始めた。
 巫女達は、点在するその聖地の精霊達に命を吹き込む事で、国土全体がゆっくりと復活するのだと説いた。
 そして、わずかな怖れを抱く民人達を安心させるように、彼女達はこうも口にした。この儀式によって、大地に魔力が染み渡る訳ではないのだと。復活を望む民の祈りこそが、大地を蘇らせる鍵となるのであり、魔王陛下と自分達は、その切っ掛けとなる力を与えるのに過ぎないのだと。
 魔王が行ったという驚天動地の奇跡ではなかったが、荒れ果てた土地で苦しむ人々にとってはまさしく天の助けである。人々はこぞって聖地を護る事を誓い、また同時に多くの人間達が祈りの旅の同行を申し出た。
 元大シマロンの国土は広大だ。聖地探しもそうそう簡単にはできない。
 巫女達の旅は長くなった。そして、それと比例するように、巫女達に同行する人々─巡礼者も数を増やしていった。
 彼らは自分達の祈りが強ければ強い程、精霊が復活する力が増す事を知り、その奇跡の一助となる歓びを知った。そして魔族とともに巫女達を護り、仕え、聖地探しを行い、儀式の時には共に祈った。
 そして当然その中に、ベイルオルドーンから派遣されていた者達が入り込んでいたのである。

「……その頃にはもう、ある計画が大宰相とその側近、バンディール達軍の関係者との間で練り上げられておりました。そうして、大宰相の命を受けた者達は、巡礼団の中でもさらに巫女達の近くに接近する事を画策し、それを成功させたのです。結果……」
 巫女達の世話係であった少女とも近しくなっていった。
「大宰相はローエン師をも言葉巧みに騙していました。神官達は元々眞魔国との国交をよしとしていなかった。だから大宰相から、魔王の人と成りを確かめたい、その上で友好条約を護るかどうか考え直したいという言葉を受け、協力を約束したのです。神官達は強力な法術師を派遣し、そして…彼女を取り込む事に成功しました」

 部屋の隅で、少女が声にならない嗚咽をもらしている。

「彼女は、魔王陛下を知るものとして、おそらく……自慢したい気持もあったのでしょう。すっかり友人になったと信じた間者達に、陛下の秘密を洩らしてしまったのです。陛下が、その……異世界とこの世界とを行き来なさっているということを……。そして、法術師は彼女にある暗示をかけました」
「………暗示……?」
 ユーリの問いに、ウォルワースが頷いた。
「やがて、巫女の交代が行われました。新たに派遣された巫女の一行を迎えて後、彼女達最初の派遣団は眞魔国に帰還しました。その間、彼女にかけられた暗示は、発動の時を待って彼女の中に潜伏し続けていました。……陛下が異世界に赴かれるその時まで。………その瞬間に彼女にかけられた暗示は動きだし、彼女は……その情報を、この世界と異世界を陛下がどのように行き来なさっているのか……私などには到底理解のかなわぬものですが……とにかく陛下を拉致するに必要な、巫女でしか知り得ない情報を全て、その頭の中に納めたのです。それから彼女は眞魔国に潜入しておりました間者とともにこの国に参り、そして法術師に情報の全て引き渡し、最終的には陛下を拉致するに必要な魔力を提供いたしました。結果……」
 ユーリは、今この地にいる。
「……暗示から解放された彼女は、言葉を封じられた上で、陛下の世話係を命じられました。彼女の……おそらくは一気に襲ってきたであろう罪悪感に付け込んで……」
 ユーリは痛ましげな視線を少女に送った。少女は、今はもう床に蹲るようにして泣いている。
 ユーリは思わず立ち上がり、少女の元に駆け寄った。
 床に膝をつき、少女の両の肩にそっと手をのせる。びくんっ、と小さな身体が震えた。
「……そんなに泣かないで。君が悪いんじゃないんだから。暗示って、つまり催眠術だろ? 法術でそんなのかけられてたら、操られてもどうしようもないって。悪いのはこんな計画をした連中だよ! 君が罪悪感なんて持つ事ない! だからさ……」
 だが少女は、ユーリの言葉にぶんぶんと大きく頭を振った。
 そして涙に濡れた顔を上げると、それを拭いもしないまま、両手を差し出した。思わずその手を握るユーリ。二人の結ばれた手が、淡く光り出す。
『……お許し下さいませ、陛下』
 哀しげな思念が、ユーリの頭に流れ込んできた。少女が、握りあった手を通じて、言葉を送り込んでいるのだ。
『…………私が……彼らに取り込まれてしまったのは……私が未熟だっただけではございません。………どうぞご覧下さいませ。私の………中にありましたものを……』
 少女が心の扉を開く。
 誘われるように、ユーリはその奥にあるものに触れていった。そして……。
 ユーリの瞳が、ハッと大きく見開かれる。

「……………君………コンラッドの……こと……………」

 ユーリの脳裏に浮かぶビジョン。
 眞王廟の柱の影から見つめる姿。背をまっすぐに伸ばして、大きな歩幅で歩く身慣れた姿。
 見つめる目は瞬きもせず、目に焼きつけようとするかのようにひたすらに、だんだん小さくなっていく背を追い続けている。
 胸の甘い鼓動。疼き。そして。

 嫉妬。

『……ねえ、聞いた? 陛下とヴォルフラム閣下が御婚約を解消なされるという話……!』
『嘘っ! ……それまさか、本当なの? あのお二人が? なぜ!?』
 実は意外な程、世俗の噂話が好きな巫女達。
 そこを駆け巡った一つの噂。
『それがね』
 思いもかけない、言葉。
『陛下は、ウェラー卿と恋仲でいらっしゃるんですって!!』
『コンラート閣下と陛下が!?』
 胸を何かが突き抜けていくような衝撃。
 間もなく、それが単なる噂話ではなく、事実なのだと知った。

『………閣下、は……私の名前も、いえ、存在すらご存知ありません。ただ私が……勝手に……。見習いとはいえ、巫女である私が、そのような思いを抱く事すら罪。頭では十分に分かっているのです。でも……でも、心は、気持はどうしようもなくて……!』
 少女が、また辛そうに瞳を伏せた。
『閣下は、お辛い人生を歩まれた方……。陛下と想いを交わされ、それが祝福とともに実を結ぶのであれば、真実おめでたい事。心よりお慶び申し上げようと、そう何度も、何度も心に言い聞かせ……。なのに……日を追う毎に……』
 辛さが増していって。
 声を伴わない嗚咽が、しばらく続いた。
『……大シマロン、いえ、新連邦の地に派遣される事に決まったのは、正直救いでした……。全く違う環境で、忙しく立ち働いて、私自身、鬱々とした思いは消えたと信じておりました。でも……それは消えてなどいなかったのです。私の……中に………閣下への消す事の出来ない想いと、そして………陛下への……何とぞお許し下さい………どうにも、ならない……強い、気持が……」
 嫉妬という名の。

 振り向いて欲しい。私がここにいる事を知って欲しい。あなたを想っていることを…。
 あなたが好きです。あなたの笑顔が好きです。とても好きです。いつも想っています。
 悔しい。あなたが憎い。あの人に、当たり前に愛されるあなたが憎い。あの人の笑顔を独占できるあなたが憎い。手を差し伸べられるあなたが……憎い………!

『………その思いは、私の心の奥底で、ずっと渦巻いていたのです……。彼らは……法術師達は、そこをついてきました。私の中にある、陛下への……卑しい嫉妬心を掻き立て、そして……その負の感情によって私の魂を支配し……私を………彼らの人形にしたのです……! それも全て、私が……自分の感情をいつまでも捨て去る事ができなかったから……。だから……何もかも……私のせいなのです! 陛下をこんな目にあわせてしまったのも全部………私の、醜さのせいなのですっ!!』

 少女の心の叫びが、ユーリの胸をつんざいた。
 叫ぶと同時に、床に崩れ落ちそうになる少女の身体を、ユーリは思わず両腕で抱えるように受け止めた。そしてそのまま、ぎゅっと強く抱き締めた。

 少女の涙の温もりが、胸にじわりと染みてくる。それをしっかりと受け止めて、ユーリはゆっくりと口を開いた。
「………どこが……醜いの……?」
 少女の嗚咽は止まらない。
「人を好きになるのが、どうしていけないの? 好きになったら、自分を見て欲しい、ちょっとでも好きになって欲しいって思うの、当たり前のことじゃないか? ……でもって、恋敵に嫉妬するのも、ものすごく自然なコトだと思うよ?」
 少女の肩の震えが、少しだけ小さくなった。
 ユーリは、そっと少女の手を取り、自分の胸に押し当てた。
「……見て。俺の中。……君に見て欲しいんだ」
 少女がハッと顔を上げる。喘ぐように口を開く少女に構わず、ユーリは目を閉じて心の扉を開放した。少女の中に、ユーリの思いが流れ込んでいく。


 初めて。この人が好きなんだと実感したあの日。
 名付け親。保護者。野球仲間。いろんな名称で呼んで、いろんな形で好きだった。
 でも恋だなんて、あの日、あの瞬間まで、全然気がつきもしなかった。

 好き。大好き。

 自分は子供で、あまりにも子供で、経験不足もいいトコで。だから「愛してる」なんて言葉、思い浮かべるだけで頬っぺたが熱で爆発しそうになった。
 でも。
 恋だと自覚したその瞬間から、想いは甘くて優しいだけじゃ済まなくなってしまった。
 自分をこんなに大切にしてくれる人。
 いつもいつでも優しくて、笑顔を向けてくれて、命をかけて護ってくれて。
 だからこそ怖くなった。

 おれが王様だから?

 おれは? 渋谷有利は? ただのおれは、あんたの何……?
 もしおれが、今いきなり魔王じゃなくなって。新しい魔王が即位して。
 そしたらあんたはどうするの? おれにくれたのと同じ笑顔を、同じ声を、同じ手を、その人に向けるの?

 ………おれを見て。おれだけを見て。有利を見て。王様じゃないおれでも、好きになって………!

 だから。
 恋が叶った時。あんたが「愛してます、ユーリ」、そう囁いてくれた時。
 なんて幸せなんだろうと思った。
 幸せでも涙が流れるってコト、人生初めて実体験した。
 あんたがまたおれの側を離れる事になってしまったあの夜。
 たまらなくて。身体の半分以上、ちぎって持っていかれるような痛みすら覚えて、おれは堪らずあんたの部屋の扉を叩いた。
 そして。そして。そして……。
 誰かを愛して。誰かに愛されて。その想いを二人で確かめあう。
 その痛みと歓びを。
 おれは、あんたに教えてもらった……。

 でも、本当の恐怖はその日から始まった。

 あんたは大人で。おれなんか逆立ちしたってかなわないほど、とっても大人で。
 色んな才能に恵まれて、人望もあって、何より誰よりカッコ良くて。

 ………いつか。飽きられてしまうかも知れない。

 おれはガキで。どうしようもないほどガキで。やることなすことへなちょこで。
 口先ばっかりの実力皆無で、脳筋族の考えなしで。

 ………いつか。捨てられてしまうかも知れない。

 おれの女の部分なんて、身体の中の子供を産む機能だけで、外見は100%男でしかなくて。
 柔らかな曲線なんてどこにもない。まろやかな胸も、くびれた腰も、桃のようなお尻もない。
 あるのはただの野球小僧の身体。

 たくさんの、綺麗な女の人が怖かった。あの砦で。カーラさんが怖かった。アリ−だって、この先、どれだけ綺麗になるんだろうと思ったら、ホントは怖くて仕方がなかった。
 あんたが女の人と話をしているのを目にする度、おれの胸が焼け焦げそうに痛んでるなんて、あんた、想像もしてなかっただろ?
 ホントは……こんな事、絶対に口にすることはできないけど。
 おれ……。
 ヴォルフにすら、嫉妬した。
 だって、あんたのヴォルフを見る目。どれだけ優しいか分かってる?
 あんなに憎まれ口をたたいてる弟を、あんなに優しい目で見つめてて。
 おれは……悔しくて、憎らしくて、あんたを独り占めできないことがもどかしくて……。

 ……おれを見て。おれだけを見て。他の人は見ないで……!
 あんたが気にかける、おれ以外の人なんて、消えてしまえばいい。いなくなってしまえばいい。
 あんたの目に映る、あんたが目に映す、おれ以外の全部が憎らしい。

 ……おれを見て。おれだけを見て。おれ以外、何も見ないで……っ!!


「…………同じだよ……?」
 宙を見つめる少女に、ユーリが囁く。
「君が自分を醜いって言うなら……おれも、君に負けないくらい醜いよね……?」
 ハッと、少女がユーリを見た。視線を合わせ、互いに互いの瞳を覗き込む。
「同じなんだよ。人を、ぐちゃぐちゃになるくらい、好きになっちゃったからさ……」
 ユーリが少女に微笑みかけた。
「恋をしたら、誰でもそこそこ、こんなになっちゃうみたいだよ?」
 ここんとこ、ダイケンジャーの受け売りだけど。
 照れくさそうに、ユーリが笑う。
「経験不足のおれが言っても、あんまり説得力ないんだけど。……いいんじゃないかな? 本気で人を好きになった証拠だよ、きっと。……それで、こんなコトが起こっちゃっても、それは君のせいじゃないよ。君の、君だけの、大切な気持を利用したヤツらが悪いんだ。だから……」

 もう、自分を責めるのは止めてくれよ。

「な?」
 そう笑みを投げかけられて、少女は暫し呆然とユーリを見つめた。
『……………でも……』
「二人でさ!」思いきり明るい声を上げてみる。「あいつら、えっと、大宰相達? ボコボコにしてやろうよ! ぶん殴って、引っ叩いて、跳び蹴りするのもいいよな! ね? 想像してみて? ひどい事したあいつらを、げしげし踏みつけてるおれ達の姿とかさ!」
 少女がふと宙を仰いだ。そして、いきなりぷっと吹き出した。
「やってやろうよ、一緒にさ!」
『………私………力がないですから、叩いてもあんまり威力はなさそうです。……引っ掻くとか、噛みつくとかでも……いいでしょうか?』
「うんっ、ばっちり!」
 くすくすと、ユーリと少女は顔を見合わせたまま笑い続けた。少女の瞳からまたぽろぽろと涙が零れ始める。顔が、泣き笑いに歪んだ。
『……………ほんと、うに………』
「もういいんだ」
 ユーリは再び少女をそっと抱き寄せると、緩やかに抱き締めた。少女の頭がユーリの肩口に埋まる。
 肩に感じる涙の温度は、さっきよりずっと暖かいような気がした…………。

 そのしてどれだけ経ったのか。
 ふわり、と。

 少女の頭と背を撫で続けているユーリの身体が、抱き締めている少女ごと何かに包まれた。
「……………サリィさま……」
 サリィが、ユーリと少女の身体に両腕を回して、抱き締めるように包み込んでいる。
 慈母と呼ぶにふさわしい深い笑みに、ユーリは、張り詰めていた胸の奥がほわりと緩むのを感じた。
「床にいつまでも坐り込んでいては、身体が冷えますわ。冷えは女性の大敵でしてよ? さ、お立ちなされませ、陛下」
 あなたもね? 少女にも微笑みかけると、サリィは立ち上がった二人をテーブルに促した。
「お二人ともお座りになって、テクをどうぞ。熱々ですから、身体も心も暖まります。それから、あれこれ考えるのは止めにして、ゆっくりと眠るのです。明日の朝になれば、太陽と一緒に希望が湧いてまいります。私が、名誉にかけて保障致しますわ!」





「……………………で。こうなる訳デスね…………」
「とってもよくお似合いですわ、陛下! なんてお可愛らしいのかしらっ」

 本当に自然災害など起きているのだろうかと、不思議に思う程明るい陽射しが射し込む朝。
 はしゃぐサリィの目の前には。
 藁色の髪を三つ編みに編んで両肩に垂らし(三つ編みの先には、端切れを縫って作ったらしい粗末だが可愛らしいピンク色のリボンが結ばれている)、いかにも村娘らしい素朴な色合いの、洗い晒しのエプロンドレスを身に纏った少女が、どこかがっくりと肩を落として立っている。
 いかにも情けなさそうな雰囲気だが、残念ながら大きな瞳は前髪に隠されて、その表情までは見えない。ご丁寧に鼻から頬にかけて散らされたそばかすが御愛嬌だ。
「ねえっ、ローガン! 出発前にちょっと採寸してもいいかしら? 私、陛下にドレスをお作りしたいわっ。お色は…きっとどの色でもお似合いね。ええと、そう、白とピンク色のレースを組み合わせて、裾をうんと長くドレープもゆったりと取って……そうだわ、御髪も長い方がいいわねえ。お伸ばしにはなりませんの? さぞかしお美しくなられますわ! 私ね、女の子が欲しかったんですのよ? うんと大切にして、誰より可愛く育てたかったんですの。本当に男の子なんて、つまらないですわ……」
「……サリィ様……」
 こちらは農夫に身をやつしたウォルワースが、額に手を当ててため息をついている。
 サリィが地球にくれば、きっとものすごく気の合う友達ができるだろう、とユーリがしみじみ思ったその時。
 勢いよく部屋の扉が押し開かれた。
「おとっつぁま!」
 …………おとっ……?
 首を傾げながら振り返ったユーリは、思わず「おお!」と仰け反った。
 入ってきたのは、まさしくあか抜けない村娘。
 数歩離れたら、もう覚えていられない程特徴のない地味な顔立ち。生まれ育った村以外世界を知らなければ、興味もない瞳。忍びの技は勿論、敏捷さの欠片も感じられない立ち居振るまい。
「おとっつぁま! 早く村に帰らないと。おっかさまが待ってんだから! 妹も、あんまし奥様のお邪魔をするんじゃないよっ」
「…お、おお……もうそんな時間か……って、カ、カスミ、お前今からそんな……」
 すでに完璧な役造りを終えたカスミの迫力に押されたのか、ウォルワースがあたふたとテーブルに置きっぱなしの付け髭と帽子を取った。
 一瞬で観劇モードに入ったらしいサリィは、「んまあ、あらまあ!」と、頬を紅潮させてものすごく楽しそうだ。そして。

 ……すごい!
 ユーリは感動していた。
 ……これこそ「千の仮面を持つ少女」だ! カスミさんは、すでに「村娘」の仮面を被っている!

 カスミではなく、マヤと名付けるべきだったかもしれない。

 以前クラスメートに読ませてもらい、一時すっかり嵌ってしまった少女マンガを思い出し、ユーリは意味もなく拳を握ってガッツポーズをとった。


 離宮の勝手口を出た所に、すでに大きな荷馬車が用意されていた。
 痩せた馬が2頭、繋がれて所在な気に立っている。
 修繕に修繕を重ねた荷車には、壊れた家具だの引き剥がしたような板切れだのが放り込んであった。
「離宮に食物を運んで、代わりにいくばくかの金と、薪にしたり、自分達で直して使えそうな品を貰って帰る。そういう設定です」
 ウォルワースの説明にユーリは頷いた。ちなみにウォルワースが父親、カスミが姉、ユーリは末娘だ。
 ウォルワースが御者台に上がるのを確かめて、ユーリは離宮を振り返った。
 勝手口の前には、サリィ、執事と乳母、そして少女がいる。彼らの元に、ユーリは改めて駆け寄っていった。
「サリィ様。……本当に、ありがとうございました」
「そのお言葉はまだ早いですわ、陛下。ご無事にお戻りになられることが確かになってから、あらためてお話致しましょう。大丈夫、きっとすぐですわよ」
 はい、と頷いて、ユーリは少女に視線を移した。
「サリィ様、彼女の事……」
「お任せ下さいませ。カインもちゃんと口裏を合わせてくれるようです。彼女は私が責任を持ってお預かり致しますわ」
 本当は、少女も同行させるつもりだった。しかし、それにウォルワースが反対した。
「陛下を追う組織は一つではありません。大宰相と神官達、目的を異にする二つの組織が、相争いながら陛下の御身を狙ってくるのです。なるべく身軽である必要があります。我々としても、陛下を御守りするのが精一杯と思われます。正直に申して、戦力とならない者は足手纏いでしかありません。また彼女にとっても、我々と同行するよりも、離宮に身を潜める方が安全であることは間違いないと思われます」
 考えてみれば、ユーリを護るために刃の前に身を晒した彼女だ。今後も自分の命を顧みない行動をして、傷つく怖れは充分にある。
 結局少女は離宮に残る事となった。
 ユーリの眼差しを受けて、少女が淡く微笑む。
「あのさ」
 はい? というように、少女が首を傾げる。
「名前。まだ聞いてなかったんだよね」
 あ、と少女が小さく口を開いた。
「教えてくれる?」
 そう言って伸ばした手を、少女がそっと握る。
『……ベルティア、と申します……』
「ベル、ティア………。じゃあさ、ベルって呼んでもいい?」
 少女、ベルティアがぱちぱちと目を瞬かせた。
「だめ?」
 ぶんぶんと首を振る。
「よかった。……ベルってさ、何か明るい感じがするからさ! じゃあ、ベル、元気でな。またすぐ会おう!」
 もう瞳を潤ませ始めたベルティアが、うんうんと頷く。
 繋いだ手をもう一度強く握り返し、笑顔で頷くと、ユーリは今度は少し下がった所に立つ、執事と乳母─ウォルワースの母親、に顔を向けた。
「夕べの食事、すっごく美味しかったです。どうもお世話になりました。ありがとうございました!」
 ぺこっと頭を下げると、一瞬身体を硬直させた二人は、「とんでもございません!」と慌てて深く腰を折った。
「それじゃ、行きます!」
 元気に声を上げると、ユーリはくるりと踵を返した。そして自分を待つ馬車に駆け寄り、勢いよく御者台によじ登った。
 手綱を握るウォルワースの隣にちょこんと腰を下ろすと、すぐに馬車が動き始める。
 ユーリは身体を捩るようにして、見送る人々に大きく手を振った。
「またすぐお会いします! サリィ様もベルも執事さんも乳母さんも、どうかお元気で!」
「お気をつけられて、陛下! 大丈夫ですわ。きっとすぐに何もかもうまくいきますとも! ローガン、カスミ、陛下を頼みましたよ!」
「お任せ下さい、サリィ様」
 声を出せないベルは、ひたすらぶんぶんと手を振っている。
 小さくなっていく姿が見えなくなるまで、ユーリは力強く手を振り続けた。


 残骸のような林を抜け、郊外に出ると、不思議に緑が増えてきた。
 木々にも葉が繁り始め、道ばたにはちらほらと花も見える。畑らしい土地には確かな実りもあるようだ。何かの実が、陽の光にきらきらと光っている。
「……なんか、すっごくのどかなんだけど…。これも法術で護られてるからか……?」
 ユーリの呟きに、ウォルワースが「はい」と頷いた。
「それも確かにございます。何と申しましても、作物がなければ王であろうとたちまち飢えてしまいますからな。法術師達の力は、街よりも農村に多く注がれているのです。それと、やはりこの場所が国でも南にあるのが大きいと存じます。国の荒廃は、北より順に広がっておりますれば……。しかし、いずれは人の齎す力など容易く蹴散らす自然の猛威が、この土地にも及んでまいりますでしょう。その証拠に、春だというのに空気がひどく乾燥しております。本来ならこの季節、大気はもっと水気を含んでいるものです」
「……そっか……」
 ここに生まれ育ったからこそ、はっきりその異常が感じられるのだろう。
 それが分かるからこそ、大宰相達は死に物狂いなのだ。そのために……狂った。
 ふう、と息をついて、ユーリはあらためてウォルワースに尋ねた。
「なあ、ウォルワース。これからどこへ行くんだ?」
「私の領地でございます。領地と申しましても、3つの村を合わせた程度のものですが……。その中で、私が信頼しております村長が治めております村に、御案内するつもりでおります。……ご安心下さいませ。魔族について、そして怖れながら陛下につきましても、彼らには充分に話を致してございます。陛下をご不快にさせるような真似は、決してないと信じております」
「……うん。ウォルワースがそう言うなら、全部任せるよ。よろしくな」
「はい。それからウェラー卿御一行にも、その旨鳩にてお知らせ致しておきます。……すぐにお会いできますよ」
 うん。ほんのりと頬を赤らめて、ユーリは頷いた。

 もうすぐ。会える。

 ゆっくりゆっくり、馬車は進んでいく。
 ウォルワースは手綱を握り、ユーリはその隣に座って、カスミは彼らのすぐ後ろ、荷台の枠に背を預けて空を仰いでいる。
 春の陽射しは、その暴虐な顔をすっかり隠して、ただ燦々と地上を照らしていた。
「……なあ、ウォルワース……?」
「はい?」
「あのな……。こんなコト、おれが聞く事じゃないとは思うんだけど、さ。………その……えっと……ミゲルの…お父さんって、どんな人だったの…? サリィ様はどうして……」
 浮気とか、不倫とか。今のユーリには、どうにも口にできない単語だ。
 ウォルワースはしばらく無言で手綱を操った後、ゆっくりと口を開いた。
「………私には、兄がおりました」
「……………え……?」
「領地も、本来なら兄のものでしたが、若くして病で亡くなってしまったのです。……時々間違われるのですが、サリィ様の乳兄弟というのは、私ではなく兄の方なのです」
「……え? あれ、そうなの……?」
 確か、ミゲルはウォルワースが乳兄弟だと言ってなかったか?
「兄が亡くなったのはかなり昔の事ですので。どうもごっちゃになっているようですな。………私が物心つく頃には、サリィ様は本当にお美しい、天使のように愛らしい少女でいらっしゃいました。母も、サリィ様の乳母である事を、それはもう自慢にしておりました。もちろん兄もです。……サリィ様はお優しい方です。歴とした王女殿下でありながら、私達一家に対しても、それはもう分け隔てなく接して下さいました。私にもまるで姉のように……。私は心から……あの方をお慕いしておりましたよ……」
 うん。とユーリが声を出さずに頷く。
「ですから。サリィ様が14歳で夫君を迎える事となった時は……辛うございましたな」
「…じゅ、じゅうよんさい……!?」
 素頓狂なユーリの声に、はい、とウォルワースが頷く。
「サリィ様はいずれは女王陛下となられる身。掌中の玉のように慈しんでおられた前王御夫妻にとりましては、サリィ様のご結婚は親としても王としても重大事。国民を安心させるためにも、いずれは共に国を支えるにふさわしいご夫君と、一刻も早くめあわせたいとお考えになったのも理解できる話でございます」
「……そ、そういうもん……?」
「はい。……サリィ様は14歳でガヤン殿とご結婚。そして、16歳でテラン様を御出産されました」
「じゅうろくさい、で……」
 まさしく、今の自分だ。
「そして、18歳でカイン様を御出産。そしてその後……サリィ様は、あの魔族の男に出会ったのです……」


 その頃、まだ開戦には至っていなかったものの、シマロンを主とする人間の国々と、眞魔国の魔族との間は一触即発の緊張状態にあった。
 シマロンと魔族が間もなく戦争に突入するという認識は、既定の事実として大陸中に広まっていた。それはベイルオルドーンも例外ではない。悪魔と闘う聖戦に参加すべしと、声高に叫ぶ者もいれば、頼まれてもいない戦争に民を巻き込ませてはならない、中立を保つべきだという者もいる。おそらくは他の国もそうであっただろう、侃々諤々の議論がベイルオルドーン全土で展開されていた時期でもあった。

 この頃、サリィは第1位の王位継承者ではあったが、国政に関わっていた訳では決してなかった。
 政治家として辣腕を奮う夫、ガヤンが充分にその代役を果たしていたし、そもそも娘を溺愛していた父王が、その必要を認めてはいなかった。
 サリィは国政を担うに将来有望なよい夫を持ち、次代に繋げる子を産み、若くて健康で美しい。
 父王も、宮廷内の周囲の者も、サリィにそれ以上の何も求めてはいなかったのだ。それで充分だったのである。

「……ある夏の日…。避暑に訪れた北の村はずれで、サリィ様は男を1人、拾われました」
「ひ、拾った……?」
「はい。………母と兄と私……。3人を供に、野山をお散歩されていた時のことです。……あれを見つけたのは、私でした。崖を下った所の河原に、男が倒れているのを見つけたのです。私はすぐにそれを兄に報せ、私達は二人でその男を助け上げました。そうしてすぐに、その男が村人ではないことに気づきました。ぼろぼろでしたが、着ているものは旅姿でしたし、それに身体の傷はほとんどが剣で斬られたものであることも分かりました。顔立ちも、どこか国の者とは違う。………男が、眞魔国の密偵である事に気づいたのは、サリィ様のご命令で密かに男を別荘に運び、手当を施した後の事でございました。脱がせた衣服や荷物を細かく調べる内に……眞魔国に宛てた密書を発見したのです」
 つまりその男は、ヨザックの先輩だった訳だ。


「おそらくは、シマロンにて正体を身破られ、逃れてきたものに違いございません!  すぐに、あやつを牢に入れ、取り調べましょう!」
「怪我をして苦しんでる人を? そもそもどういう罪で?」
 勢い込んで訴える乳兄弟に、サリィはのんびりと答えた。兄の顔が焦慮に歪むのを、ローガン・ウォルワースははらはらと見守っていた。
「ベッドに寝かせておくなどもっての他でございます! 人がましい姿をしておりますが、あれは魔族。魔物でございますぞ!」
「息子の申す通りでございます! 姫様、何とぞ……」
「私は魔族を見たのは初めてよ。あなた達はどう?」
「……え……それは、もちろん、私共も初めて……」
「じゃあ、魔族がどんな人達か、知らないのも同じじゃないかしら? あの人を牢に入れるべきなのかどうか、会って、話をしてみてから私が決めます」
「魔族は人間の敵ですぞ!」
「あら。……ベイルオルドーンは魔族と戦うと決まったの? いつ我が国は眞魔国に宣戦布告をしたの?」
「そ、それは……」
「戦ってもいない相手を、敵などと軽々しく呼ぶのはお止めなさい。種族が違うというだけで牢に入れるなど、それこそもっての他だわ。いいこと、もう一度言います。あの人が悪人かどうか、それは私が、私の目で判断致します」
 父にも夫にも、知らせるには及びません。
 サリィははっきりと断言した。

「……サリィ様、その頃からカッコ良かったんだな〜」
「そうですとも。母などは、サリィ様はお飾りの女王などではなく、立派に国政を切り盛りできる器であられると、その頃から常々申しておりました。前王陛下やご夫君の態度を、それはもう口惜しがって……」
 分かる気がすると、ユーリは頷いた。

 ウォルワースが、大切な思い出を反芻するかのように、穏やかな視線を空に向けた。

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予定の3分の1にも………。
二人分の事情を一気に書こうとしたのが無理だったか……って、次男出てないじゃんっ!?

前よりさらに中途半端ですが……ご感想、お待ち申しております〜…。