宴の前の嵐・6 |
「……ねえ、コンラート? やっと一息つけた訳だし……一つ、聞いていいかしら?」 新連邦の入国管理局で懐かしい顔が揃い、続くすったもんだの大騒ぎの後、馬と装備を整えた魔王陛下救出部隊一同は、休む間もなく全速力で北へ向かった。 そして夜もかなり更けてから、最寄りの街の宿に入り、その日初めてのまともな休みをとることとなった。 翌日の打合せを兼ねた食事をし、食後のお茶を飲む彼らのテーブルには、なぜかクォードとアリ−とレイルが同席している。 「ベイルオルドーンの古狐どもに姫を勾引されるなど……っ!! 貴様ら、姫のお側に侍りながら何をしていたのだっ!? 揃いも揃って役立たずの能無しかっ!?」 管理局の1室で、状況を半分も聞かない内から唾を飛ばして激昂したのはクォードだ。あわや、キレかけたヴォルフラムと大立ち回りを演じるかと思われたが、クォードの剣はすぐに別の方向へ向けられてしまった。 ミゲルがベイルオルドーンの王子と知って、「おのれ奸賊の一味か! 成敗してくれる、そこへ直れっ!」とやりだしたのだ。 コンラートが、「話をちゃんと聞かないなら、これっきりだぞ! ユーリにも2度と会えないようにするからなっ!!」と怒鳴りつけた事でようやく大人しくなったのだが、それも長くは続かなかった。 ミゲルを通じて知り得た情報を全て伝えた途端、クォードが拳を握り、燃えるような形相で勢い良く立ち上がったかと思うと、天井に向かって(本人は天に向かってのつもりだろう)吠え出したのだ。 「おのれ、ベイルオルドーン! 人の皮を被った悪鬼共めっ! 姫への無体な仕打ち、金輪際許すまじっ! こうなれば即刻、動ける限りの兵を動かし、国境に終結させるべし!! 事と次第によっては、即時開戦も厭わぬ! では、さっそく……っ!」 勢い込んで部屋を出ようとする男を止めたのは、結局コンラートの剣だった。 鼻先に剣を突き付けられ、さすがのクォードもぴたりと止まった。 「ミゲルとミゲルの部下の言葉だけでは、何の具体的な証拠にもならない。それなのに軍を動かしたらどうなる? 新連邦は、言い掛かりをつけて他国を侵略する国だと、大シマロンと何も変わらないのだと、大陸中に喧伝したいとでもいうのか?」 もっともな言葉に、「ぐぬぬ…」とクォードが唸る。 「何より陛下は戦を嫌っておられる。何があろうと戦はならぬと常日頃から仰せになっておられる。にも関わらず、ご自分のために戦端が開かれたと知ったら、どれほど傷つかれるか。まず間違いなく、軽々に戦を始めた者に怒りを覚えられるだろうな。きっと」 こほん、と一つ咳払いをして。 「『おっさんなんか、だいっきらいだーっ!』と。仰せになる事、まちがいない!」 無気味にかん高い声に、そりゃ一体誰の物真似だと、ほとんど全員が心の中で突っ込んだ。 だが、クォードには充分脅しになったらしい。 「…そっ、そのようなこと、このクォード・エドゥセル・ラダ、到底耐え切れぬわーっ!!」 …………………しかしそれも束の間。 改めて援助を乞うコンラート達に、クォードだけではなく、アリ−やレイルまでも、彼らに同行すると言い出したのだ。 「ユーリは私達、いいえ新連邦にとって大恩人よ? コンラート、あなたは私達を、恩知らずの卑怯者にするつもり? あなた方が止めるなら、それでも構わないわ。私達は私達で、ユーリを助けに行きます!」 最初は止めたコンラート達だったが、結局、アリ−のこの言葉で、彼らは行動を共にする事となった。 実を言えば、彼らの同行には紛れもない利点があることも、コンラートは分かっていた。 「ここと、ここと、ここ」 馬を並べ、さあ出発というところで、レイルが地図を広げ、順に印をつけていく。 「替えの馬を始め、必要な物資を事前に暢達できるようにしておきます。クォード殿のお名前で、地元の行政府に鳩はもう飛ばしておきましたから」 にっこりと笑うレイルに、「仕事が早くなったな」とコンラートは苦笑を浮かべた。 移動拠点の幾つかに、あらかじめ馬や食料を用意させておくことができれば、時間は大幅に短縮できる。 コンラートの顔と名前は、今ももちろん大きな影響力をもっている。しかし、コンラートはすでに新連邦を離れた身だ。事前にそのような指示を、彼の名前で出すのは差し障りがある。情報を集めるにしてもだ。しかし、それがクォードなら、そして中央でその名を知られつつあるレイルやアリ−なら。 だからこそ、コンラートは彼らの同行を最後まで反対する事ができなかったのだ。 ほとんど真夜中といっていい時間に宿に入れたのも、そこで暖かい食事にありつけたのも、すべて事前の手配がうまくいっていたからだ。 言葉にはしなかったが、コンラートはレイルの仕事振りに、少年の確かな成長を見た思いだった。 食器はそのままで、と言い残し、宿の者はとうに眠りについている。 少ない灯の中で、彼らは静かにお茶のカップを傾けていた。 「………聞きたいこと? 何だ、アリ−?」 うん、と少女が頷く。 「ユーリとのコトはどうなってるの? 進んだ?」 ぶっ、とコンラートがお茶を吹き出す。 「あーらーやーだー。お嬢ちゃん達知らなかったんですかあ?」 ヨザっ、と、焦った声も無視して、横からヨザックがしゃしゃり出る。 「知ってるわよ? 色々と。ユーリからさんざん聞かされてたし」 「聞かされていた、だと?」口を挟んだのはクォードだ。「何の話だ? コンラートと姫は親子ではないか。進むも何もなかろうが」 しまった、とアリ−がきゅっと顔を顰める。横でレイルも顔を背け、額を押さえている。 「……その誤解は、とっくに解いたのではなかったのか…?」 「誤解……? 何のことだ……?」 「…え? ……あれ……?」 ヴォルフラムの言葉に、クォードがきょとんと問い返す。そして。 妙な沈黙が場を覆った。 だがそれは、状況を知らない、もしくは、空気を読めない一人の青年によって破られた。 「陛下と閣下が親子? なにバカなこと言ってるんですか。お二人は婚約なさってるんですよ? 愛しあっておられるんです!」 がしゃんっ。 ミゲルの言葉と同時に、クォードのカップがほとんど落下するようにソーサーに叩き付けられた。 「………な………な、に………」 突如、呼吸困難を起こしたように喘ぐクォード。だがしかし。 「え!? ええっ? 何、ホント? 婚約したのっ!?」 「本当ですか!? どうしてもっと早く教えてくれないんですっ、コンラート!」 アリ−とレイルが思わず身を乗り出してくる。 「……あ、いや、その……ああ、まあ………うん…」 「やだぁ、もう、ホントに早く言ってよぉ! おめでとう、コンラート!」 「おめでとうございます、コンラート。……こうなったら本当に早くユーリを助け出さないといけませんね。ユーリにも、おめでとうって言いたいし」 「ホントよねっ。ねえ、結婚式には当然招待してくれるんでしょ? そうよねっ!?」 はしゃぎ始めた二人と、どこか照れくさそうに頬を赤らめて目を伏せるコンラートを横目に、眞魔国組は顔を見合わせた。 「当事者のユーリが誘拐されているというのに、気楽なやつらだな……。それにしても、婚約は正式に発表したはずなのに。意外と情報とは伝わらんものなんだな」 ヴォルフラムがしみじみと言えば。 「連邦国家ってめんどくさい体制が、完成してない証拠じゃないですか? 国土もでかすぎますし、情報収集と伝達が、きっちり機能してないんですよ。意外な所で意外な欠点発見ってトコですね〜」 ヨザックが諜報部員らしい感想を口にする。 「そんなことよりも」クラリスが口を挟んだ。「あの人の様子が気になるんですが?」 クラリスが指差した方向に、眞魔国組3名の視線が集中する。その先で。 クォードが、ぶるぶると大きく身体を震わせていた。引きつった顔からは、脂汗らしきものも浮かんでいる。 「…………………ちょっと、待て」 きゃいきゃいと騒いでいたアリ−達が、ぴたりと動きを止める。 「……一体、それは、どういう、ことだ……?」 クォードが、鬼のような形相をコンラートに向ける。 「……こんやく、だと? ひめ、と? お、おやこ、ではないか。それが、どうして……」 「俺は陛下の名付け親だ」うんざりしたように、コンラートが答える。「それだけのことで、陛下を養子にした覚えはない。それはあなた方が勝手に思い込んだ話だろう。それに……それは間違いだと、大分前に伝えたはずだが……?」 訝しげに言うと、コンラートはアリ−達に視線を向ける。わざとらしく顔を背ける二人。 「………ク、クォード殿には……その……ちょっと言い辛くて………」 ふう、とため息をつくコンラート。 「……コンラート……っ!」 地を這うようなクォードの声。 「何だ?」 「お主……いたいけな、純情無垢な、世の汚れを知らぬ姫を……そのもの慣れた手練手管で篭絡したのかっ!?」 「てれ……するかっ、そんな真似!」 「ええい、偽りを申すな! ああ姫! 何とお労しい。こんな見かけだけは若い幼児愛好の変質者に玩ばれて……!」 「誰が幼児愛好の変質者だっ!! それに俺はユーリを玩んだりしてないぞ!!」 「………魔族の間では、80以上も年の離れた者同士の婚姻も珍しくはないとでも?」 ぐ、とコンラートが詰まる。 「……80歳と160歳なら…ありですよね。でもまあ確かに、100歳と16歳が結婚すると言い出したら……」 ヨザックはその姿を頭に浮かべてみた。人間年齢20歳と3歳だ。 「変態だな」 間髪入れないヴォルフラムの言葉に、思わず頷く眞魔国組。ちなみに、80歳と16歳でも充分におかしいことは、誰も口にしなかった。 「まあ、母上なら、『愛の前にそんな些細なコト、私、全然気にしないわ!』の一言で終わってしまうんだが……」 「そのような婚約、このクォード・エドゥセル・ラダ、絶対に認めんぞ!!」 「あなたに認めてもらう必要はない! それに……」 コンラートが、きっと眦を上げる。 「見た目で違和感がないからいいんだっ!!」 「……………開き直りやがった」 「開き直ったな。………母上とはかなり方向性が違うが」 「閣下、すばらしい説得力です! ……よね?」 「というか」昔の部下が冷ややかに結論を下す。「隊長の場合、あれ以外、逃げ道がないのでは?」 「………………」 「………………」 「………………」 一日目にして、どうしてこんなに疲れるんだろう。 ヨザックは、すっかり重くなった肩を、くるくると回しながら思った。 俺達、決死の救出隊のはずなのに。 「……いいのか? こんなデコボコ珍道中で………」 ベイルオルドーン王都の外れ。かつては美しい、緑と光に溢れていたのだろう林の残骸の中に、その離宮はあった。 「今は……春、だよね?」 どこか寒々とした景色に首を巡らせ、ユーリは呟くように言った。 ウォルワースが「はい」と頷く。 「王宮の中には、あんなにいっぱい花が咲いてたのに……」 「法術師が力を注いでおりますから王都は何とか……。しかしここは、もうずっと見捨てられたままなのです」 「王様のお母さんが住んでるんだろ? それに、本当なら女王様になる人なんだろ? なのに……そりゃ、まあ、色々あったとしてもさ……」 その辺の心情は、自分にはまだよく分からない。だから軽々しく口を挟むべきでない事は分かっているのだが……。 ちょっとばかり思い悩んでいた間に、馬は枯れ木の間を抜け、離宮の前に立った。 ………うーわー…、言っちゃ悪いけど、かなり…ボロ……? ホラー映画やサスペンスドラマなら、確実に怨霊だの悪霊だのが飛び交ったり、たまたま出会った人々の間で連続殺人が起こる事間違いなし! な雰囲気だ。 ウォルワースの手を借り、馬から下りようとした時、建物の扉が開かれた。中から、老年の男女が足早にやってくる。 「……お待ちしていましたぞ!」 「申し訳ない。世話を掛けます。………さ、陛下、こちらへ」 ウォルワースに促され、馬の影から姿を現したユーリに、その男女は一瞬怯えたように顔を引きつらせ、数歩後ずさった。だが、すぐに何かを思い直したように呼吸を整えると、姿勢と表情を改めた。 「………ご、ご無礼致しました……。あの……どうぞこちらへ……」 深々と腰を折られて、ユーリは思わず苦笑を浮かべそうになった。思い込みとか、刷り込みとか、本当に厄介なものだと思う。いとも簡単に、人を盲目にしてしまうのだから。しかし、少なくともこの人達は、自分達の恐怖心を抑えようと努力してくれている。 だからユーリは、頭を下げたままの彼らが肩を細かく震わせているのを見ないことにして、明るい笑みを浮かべた。 「ありがとう。お世話になります。よろしくね!」 男女がびっくりしたように顔を上げたところへ、にっこりと笑みを投げかけて、ユーリは離宮の中に足を運んだ。 「……うわぁ、何つーか……思ってたよりずっと……」 清潔だった。 外見もそうだが、離宮の中も、かなり老朽化が目立っている。 床に敷かれた絨緞も、色が褪せ、かなり毛羽立ちとほつれが目立っているし、歩くとぎしぎしと音が鳴った。 にも関わらず、玄関ホールは隅々まで掃除されているらしく、密かに想像していたような蜘蛛の巣はもちろん埃も見えない。ガラスもよく磨かれているし、あちこちに修繕の努力も垣間見れる。 ……古いのと汚いのって、一緒にならないんだ……。 何だか大発見した思いだ。 ユーリがそんな事を思いながら、きょろきょろとホールを見渡していると、いきなり足音が聞こえてきた。 ホール中央にある大階段。そこから、女の人が下りてくる。 「……あ……」 顔は薄暗くてよく分からない。しかし、少ない灯にも結い上げた金髪がきらきらと輝いていること、そして手摺を伝いながら階段を下りてくる足取りが軽やかなことからみても、かなり若い女性だとユーリは思った。 だが、ホールに下り立った女性は、どう見てもウォルワースと同年代、もしかするとまだずっと年上のようにも思える人だった。金髪もよく見ると色が大分褪せており、滑らかな肌にも確かな老いが見え始めている。よく見ればドレスもひどく質素で色合いも地味だ。若い女性が身につけるものとは少し違うかもしれない。 しかしそれでも。ユーリの元へ歩み寄ってくるその足取りは優雅で気品に満ちており、彼女が生まれながらに高貴な人であることをはっきりと示していた。 …………すっごい綺麗な人だ……。 ユーリは思わずみとれている自分に気づいた。 年齢なんかじゃない。身につけているものなんかじゃない。 自分がどれ程辛い境遇にあろうとも、決して失なわれない誇り。高慢な訳でも無恥な訳でもない。真の意味で誇り高い人であるからこそ、この女性は、たとえどれほど老いさらばえても、身に纏うものがボロ布1枚になろうとも、堂々と胸を張って人々の前に姿を現す事ができるだろう。 人格そのものから醸し出される美しさ……。 そんな人物を、この世界でユーリはまだ何人も知っている。 …………そうだ、この人。 「エレノア様に似てるかも……」 かつて反シマロンの盟主であった女性だ。今も現役の政治家である彼女は年老いてはいたが、その気品と威厳に、ユーリも自然な気持で頭を下げる事のできた人物だ。 ずっと若いが、この女性にもエレノアに通じるものがある。ユーリは心の中で頷いていた。 その人は、優しげな瞳に、まさしく遠来の客を迎える女主人の、礼儀正しく、かつ暖かさを感じる笑みを浮かべユーリの前に立った。 ………俺は、どんな風に見えるんだろう……。 眞魔国の魔王である自分。奇跡の美貌だの至上最強の魔王だの、根も葉もない噂ばかりが飛び交って。でも、おれも実はかなり「おれってスゴイかも?」なんて、思い上がってなかったか? 生まれながらの貴族でもなく、ろくな王様修行もしてなくて、勢いだけで突き進んで。 ………どうしよー、おれ……。何か、恥ずかしくなってきた……。 生まれながらに身についた気品とか、優雅さとか、誇り高さとか、にじみ出る教養とか知性とか。実はちょっとばかりコンプレックスを持ってるユーリが、頬に熱を感じて思わず俯いてしまうと、すぐ前でふわりと気配が動いた。 「………あ……あのっ……!」 女性が、ユーリの前で跪いて顔を伏せていた。 「あのっ、えと……っ!?」 「初めて御意を得ます、陛下。このような陋屋におみ足をお運び頂けました事、心より光栄に存じ奉ります。私、ベイルオルドーン前王ゴドゥの娘、現王テラン、親王カイン、そして同じくミゲルの母、サリィデラノーア・ラスタンフェルと申します」 あ、とユーリが目を瞬いた。 「ミゲルのっ。お母さん!?」 はい、と女性はさらに頭を深く伏せると、床に手をついた。 「陛下には、そして御国の皆々様には、末の息子がまことにお世話になっております。この度は、大層立派な仕事にも就かせて頂けたとの事、感謝の言葉もございません」 慌てて駆け寄り、床に両膝をつくと、ユーリは細い手首をとった。ハッと女性が顔を上げる。 「……立って下さい、お願いします。おれ、こんな風にされると困るんです。お願いですから……あの、えと、サリぃで、えー………ミゲルのお母さん!」 女性、ミゲルの母、サリィデラノーラは、しばらく目を瞠いてユーリをまじまじと見つめた。それから突然小さく吹き出すと、口元を押さえ、淑やかに、だが実に楽しげに笑い始めた。 「………あ、あのー………」 「お、お許し下さいませ、陛下」 苦しげに、それでも笑いを止める事ができないまま、サリィデラノーラが謝る。 「その……サリィと呼んで下さいますと嬉しいですわ。昔からそのように呼ばれて参りましたの」 「あ……はい! あの、サリィ様!」 またもきょとんとユーリを見つめたかと思うと、再び、そしてさらに盛大に吹き出すサリィ。 どう反応していいのか分からず途方に暮れたまま、ユーリはその姿を見ていた。 コホン。 ユーリの背後で、わざとらしい咳払いの音がする。 振り返ると、ウォルワースが呆れた顔で、いつの間にか床に坐り込んでしまった二人を見下ろしていた。その後ろには、ガルダンとカスミと少女、そして当惑顔の先ほどの老人と老女がいる。 「あ、ウォルワ………」 「ねえ、ローガン! なんてお可愛らしい魔王様なのかしら! ミゲルやあなたが教えてくれていた通り、いいえ、それ以上に素敵な方だわ!」 弾んだ声に、思わず目を瞠るユーリ。 「……サリィ様」ウォルワースが歩み寄ってくる。「お二人でこのように床に坐り込んでおられては、周りの者が困ります。どうぞ陛下の仰せの通り、お立ち下さいませ。それから陛下。……大変申し訳ございません。サリィ様は……」 天下一品の笑い上戸なのです。 やれやれ、とため息でもつきそうな声でそう告げられて、ユーリはぱちくりと大きな目を瞬かせた。 …………何か……イメージが……。 「まあ、いやだわ、私ったらこんな格好で。まあ、陛下まで御一緒させて。あらまあ、私達ったら…!」 またコロコロと笑い出す。 確か、この人は。 この国の第一位の王位継承権者で、本当なら女王陛下になるはずで、でも、魔族と通じて、ミゲルを生んでしまったために宮廷から追放されて、ミゲルと一緒にこの離宮に幽閉されて……。 なのに、笑っている。 こんなにも軽やかに、明るく。 薄暗くて、古びたこの小さな世界を照らすように、きらきらとした輝く少女のような笑顔。 ……すっごく不思議な人だなー……。 でも、ちっともイヤな感じじゃない。ユーリは何だか楽しくなってきてしまった自分を自覚していた。 「狭いお風呂で申し訳ございませんでした、陛下。お着替えは……あら、ちょうどよろしかったですわね? 昔ミゲルが着ていたものなのですが……あ、もちろんちゃんとお洗濯はしてございましてよ?」 さあ、どうぞ、と促され、湯上がりのほかほかした身体と心で、ユーリはソファに腰を下ろした。 お風呂は確かに大きくはなかったが、日本国埼玉県渋谷家の家庭風呂に比べたら倍はある。 水不足も、まだ離宮には及んでいないのか、意外な程たっぷりと湯の張られた風呂で、ユーリは思う存分疲れを洗い流した。鎖の欠片がぶら下がったままの首輪は、外す事ができなかったけれど…。 暖炉の薪が弾ける音も暖かいこの部屋には、ユーリとサリィ、風呂場とこの部屋の行き来の間ずっと付き従ってくれたウォルワース、カスミ、そして少女がいる。ガルダンは場を外しているらしく、姿が見えなかった。 「ありがとうございました、サリィ様。狭くなんかなかったです。とってもいいお湯でした。着替えまで貸して頂いて。本当にありがとうございます」 ぺこん、と頭を下げると、また楽しくて仕方がないと言うようにサリィが笑い出す。 「お許し下さいませね、陛下。私、笑い出したら止まらないんですの。それに私、今………ああ、いいえ、その前に申し上げるべき事がございましたわ」 そう言うと、サリィはやおら姿勢を正した。表情もどこか真剣なものに変わる。 「陛下。夫ガヤンと息子テランの仕出かしました今回の無礼。さぞお怒りとは存じます。許しを乞う資格もない事も存じております。ですが…できうることなら、何とぞ御寛恕、請い願いたく……」 テーブルの向こうで頭を下げるサリィに、ユーリは慌てて手を振った。 「あのっ、止めて下さい、サリィ様! その……確かにこんなコトされて、頭にきてないかって言われたら、その、きてないとは言えませんけど……。でもっ、それはあの人達がしたことで、サリィ様には関係ないと思います。サリィ様にはこうして助けてもらったし! だから、そんな風に頭を下げるの、お願いですから止めて下さい!」 強く口調のユーリの言葉に、しばし沈黙したままのサリィが、ふと泣き笑いの表情を見せた。 「どうぞ、陛下」 ふいに、雰囲気を和ませるような良い香りが、ユーリの鼻をくすぐった。 「……わ、あ……」 カスミと少女が、テーブルの上に飲み物と軽食を並べ始めていた。 ボリュームたっぷりの具沢山サンドイッチ、こんがりとした焼き色も美味そうな菓子。平ベったいクラッカーらしきもの。それからいかにも甘そうな湯気を上げている、ピンク色の何か。カップの中にはとろりとした感じの、白い飲み物が入っている。 「これは木の実を砕いて粉状にして作った、テクという飲み物ですの。身体が暖まってよく眠れますのよ。こちらでは、たとえ夏でも夜は冷えますから、これは1年を通して欠かせないものなのです。それからこちらは……」 サリィの指が、ピンク色の暖かいものを指差した。 「干して保存しておいた果物を、甘く煮詰めたものです。そちらの」と、クラッカーを指さす。「カシルに乗せて頂くと美味しいですわ。……辺境の田舎の食事です。お口に合うとは思えませんが、どうぞ召し上がって下さいませ」 今にも鳴りだしそうなお腹を押さえて、ユーリは「頂きます!」と声をあげると、さっそくサンドイッチに手を伸ばした。 もぐもぐと咀嚼して、こっくんと飲み込んでから、毒味の事を思い出したがもう遅い。 しまった、という思いと、サリィを疑いたくない思いとが相まって、ユーリはまじまじとサンドイッチを見つめてしまった。 「……やっぱりお口に……?」 サリィが心配そうに言うのに、ぶんぶんと首を振るユーリ。 「味付けは違うけど、とっても美味しいです!」 思わず声をあげるユーリの耳元に、ふと誰かが唇を寄せた。 「大丈夫でございます、陛下。ここにはウォルワース様も私もおります。用心を怠ってはおりません。どうぞ御安心なさって、お食事をお続け下さいませ」 カスミだった。その言葉にホッと息をついて、ユーリは一口で残りのサンドイッチを片付けると、クラッカーに果物の甘煮の欠片を乗せ、口に放り込んだ。 「……あ、これもすっごく美味しいです! 桃缶そっくり……」 「よかったですわ。どうぞどんどん召し上がって下さいませね? ああ、こちらの焼き菓子も美味しゅうございましてよ? 先程お出迎え致しました、私の乳母が作ってくれましたの」 「そうなんですか……って、あれ? あ……だったら、あの女の人、もしかして……」 視線を巡らせた先に、ウォルワースが立っている。 「はい、陛下。あれが私の母でございます」 ウォルワースの答えに、ユーリも納得と頷いた。母親はこうしてサリィの側を離れずに仕え、そして息子はずっとミゲルを護ってきたのだ。 皿を全部空にして、食後の2杯目のテク─香ばしい木の実の香りがするココアのような飲み物─をゆっくりと味わっているユーリを、サリィが微笑ましい様子で見守っている。 「……ミゲルから、何度も聞かされておりましたよ。もちろん、手紙でですが。……眞魔国はすばらしい国だと。魔王陛下のお力に護られた、ベイルオルドーンとは比べ物にならない程豊かで美しい国だと。私にも見せたいと何度も書いてありました。人間との混血だと言っても、誰も気にしないで、同胞として当たり前に受け入れてくれる。毎日がとても楽しくて充実している、と」 「ミゲルが……」 母親を心配させまいという気持もあるだろうが、それでもミゲルの言葉が素直に嬉しくて、ユーリはにっこりと笑みを浮かべた。 「陛下のこともたくさん。一体どういう奇跡が起きたら、こんなに美しい人が生まれるのかと不思議でならないと申してましたわ。民への慈しみも深くていらして、魔族は本当に幸せだと」 「そ、そ、そ、そーなんですかぁ……?」 ………ミゲルのやつ、何だってそんなてきとーなコトを〜〜。 恥ずかしくて、顔が上げられない。 「陛下、私……賭けをしましたの」 「……賭け?」 へ? と顔を上げたユーリに、サリィが頷いた。 「宮廷の者達がここにやってきて、ミゲルに眞魔国への使者となるように命じた時。………私、これは息子にとって千載一遇の好機だと思いました。ですから私、ミゲルに申しましたの。眞魔国に行ったら………押し付けられた役目などどうでもいい。二度と、そう、二度とこの国に戻ってくるな、と」 「…………………」 「ミゲルは驚いておりましたが、私はあの子が本当は眞魔国に憧れていたのを存じてました。自分がどれ程夢見ても手の届かない同胞の国……。けれど、もしかしたらというわずかな望みに縋って、懸命に勉強しているあの子を見ていたら私……。例え今生の別れとなろうとも、この手を離さなくてはならないと心に決めたのです。………ただ心配だった事が、ただ一つだけ。魔族の人々は、魔王陛下は、この子を受け入れてくれるだろうかと。もしかすると、さらに辛い日々をあの子に強いるのではないのかと……」 「…………」 「ですが、未来を恐れる余り、この機会を逃してしまえば、ミゲルはこの離宮で生涯飼い殺し、いいえ、ローガンの庇護をかい潜り、必ず命を奪われていたでしょう。ですから、賭けをしました。眞魔国に、魔王陛下に賭けたのです。そして、もしもその賭けに破れたら………ミゲルをさらに苦しむようであれば……私はこの命を断つ覚悟でおりました………」 「………サリィ様………」 「ですから嬉しくて! 初めて手紙を、ローガンが手紙と報告を持ってきてくれて、ミゲルが元気に頑張っていると、いずれは陛下のお側で行政に携れる様、立派な学校への留学を手配して頂けたと聞いた時にはもう! あの子は勉学が好きな子ですから、どれほど喜んでいることかと、私、年がいもなく部屋中を跳ね回ってしまいましたわ!」 ユーリはちら、と、ウォルワース─ファーストネーム、ローガン─に視線を送った。どこか申し訳なさそうに、ウォルワースが小さく頷く。隣でカスミが、胸元でさりげなく両手を合わせ、ユーリを拝んでいた。 どうやらミゲルが、不安の余り仕出かした騒動については、サリィの耳に届いていないらしい。 ユーリはテクを一口飲んで、にっこりと笑った。 「ミゲルは才能があるって、学舎の先生も仰ってました。今の上司も、ミゲルはやる気もあるし、将来有望だって。性格も……とっても素直だって褒めてましたし!」 本当は「素直過ぎる位素直で……」だった。そう言った時のグレイスは、何とも複雑な笑みを浮かべていたように思う。しかし、素直すぎるとどうなるのか、ユーリには今一つよく分からずにいたのだ。 「ああ、本当に!? あの子はずっとここで育ちましたから、人付き合いというものをしておりません。ですから、皆さんに可愛がって頂けるか、その点がとても心配でしたの。………嬉しいお言葉を魔王陛下ご自身から頂けるなんて、私は何て幸せ者なのでしょう!」 心底嬉しそうにそう声を上げてから、サリィはハッと表情を改めた。 「……申し訳ございません、陛下。陛下におかれましては、とんでもない災難、いえ、犯罪に巻き込んでしまったと申しますのに、私ったら……」 申し訳なさそうに身を縮めるサリィに、ユーリも慌てて手を振った。 「ですから、サリィ様には全然関係ないんですから! ホントに気にしないで下さい! おれも、ミゲルの話が聞けてよかったです」 ユーリの言葉にホッとしたように頬を緩めたサリィだったが、すぐにまた眉を曇らせた。 「……サリィ様?」 「………………本当に、お許し下さいませ……。ガヤンもテランも、そして宮廷の皆々も、決して悪人などではないのです。皆……国を救おうと必死で……。でも、手を尽しても尽しても、土地の荒廃を止める事ができず、その上に様々な天災が重なって。今では国土の北半分は、ほとんど荒れ地、それも夏になっても溶けない氷に固められた、荒野となってしまっているそうです。王都はまだ南にありますし、法術で護られていますのでさほどの被害はありませんが……。テランは父親の血を引いた真面目な子で、懸命に働いたようですがどうしても力及ばず、今はかなり心を病んでいるのではないかという報告も受けております。神に祈ってばかりで、ほとんど政務につく事もなくなったと……。そんな息子の側にも居てやれず、力にもなってやれず、我が身が仕出かした事とはいえ……申し訳ないと思っております。………執政として追い詰められたガヤンがこの度の暴挙を仕出かした事も、おそらくは根元に私のことがあるのでしょう。あの人は……今ではこの国の誰よりも魔族を憎んでおりますから………」 ユーリとサリィは、図らずも同時に深く息をついた。 「陛下」サリィが声を改めてユーリに呼び掛けた。「ガヤンは、決して諦めない人です。事ここに至りました上は、どのような策を取ってでも陛下を己がものにしようとするでしょう」 「そして神官達も同様です」ウォルワースも口を挟む。「彼らもまた、陛下を無きものとするため、どんな手を使ってでも追ってまいるでしょう。ここが知れるのも時間の問題かと……」 「えっ!? じゃあ、のんびりなんかしてらんないじゃん!」 早く出て行かないと、サリィに迷惑が掛かる。 思わず腰を浮かせるユーリを、ウォルワースが止めた。 「今夜一晩くらいは大丈夫です。その程度の仕掛けを整えるくらいの力と人脈は、まだ私も持っております。それに、カイン様もいらっしゃいますし、ガルダンも今偵察に行っております。明日は早くに出発するつもりではおりますが、今夜はどうぞゆっくりとお休み下さいませ」 「………ホントに大丈夫なのか?」 サリィの生活をこれ以上脅かしたくはない。 はい、と大きく頷くウォルワースをしばし見つめて、それからユーリはソファに座り直した。 「明日は早いんだな?」 「は。ですので、少々早いですが、今夜はそろそろお休みになられた方がよろしいかと存じます」 わかった、と頷いて、ユーリは再びウォルワースを見上げた。 「じゃあ、ウォルワース、後一つだけ」 は、とウォルワースが畏まる。 「あの子の事を教えてくれ。彼女は……一体何者なんだ?」 部屋の隅で、ユーリの真直ぐな視線を受けて、少女が泣き出しそうに顔を歪めた。 東の空が白んできた。 まだ明け切らぬ街道で、彼らの旅装はすでに整っている。 「おお、今日もよい天気に恵まれそうだ。見よ! 太陽が我らを祝福するかのごとく、眩しいまでに東の空を彩っておるぞ!」 「…………立ち直りの早いお人だな」 「放っとけ」 さくさくと馬の準備を整えているコンラートは、わざとらしく誰かに背を向けている。 「正義は我にあり! 天よ、御覧じ候え! このクォード・エドゥセル・ラダ、必ずや我が愛しの姫を、悪人共や変質者の魔の手からお護り申してみせんっ!!」 「……どうやらお前も誘拐犯と同一線上に持ってこられたらしいぜ?」 「…………………」 「何をしても芝居がかった男だな」ヴォルフラムが近づいてきて言った。「だが、剣士としての腕は中々と見たぞ。夕べも遅くまで剣の鍛練をしていたようだが、空を切る音がかなり鋭かった」 「あれは剣の鍛練ではありません」 否定したのはクラリスだ。 「剣をバット代わりにして、素振りをしていたのです。確か彼は新連邦代表の4番ですし」 呆気に取られるメンバーの中で、ミゲルが「ああ!」と手を打った。 「そう言えば、もうすぐ眞魔国リーグの開催ですね!」 「いざ、参らん! 彼方北の地では、我が愛しの姫が、我の救いを今か今かと待ちわびておられるわ! 一刻一秒無駄には出来ん!」 一声叫ぶと、クォードはひらりと馬に飛び乗った。 「出発だ! 者共、ついて参れ!!」 「誰が者共だっ!!?」 叫ぶコンラート達を見向きもせず、クォードは全速で馬を走らせ始めた。 「……おい、行っちまったぜ?」 「行かせとけ。適当に迷ってはぐれてくれたら大儲けだ」 「コ、コンラート………何だかやさぐれてないか……?」 ヴォルフラムが怖々と兄の顔を覗き込む。 その時、宿からアリ−とレイルが飛び出してきた。 「ねえっ、クォード殿、先に行っちゃったの!?」 「ああ。別に構わんだろう? 居てもいなくても………」 「通行許可証、あの人が持ってるんです!!」 「………………………………追うぞ」 ものすごくイヤそうにコンラートが言った。 北はまだ先。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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