宴の前の嵐・5

 ベイルオルドーンは大陸の最北に位置する国だ。そしてその北の国の、さらに北端に、小さな村があった。
 彼女はその村で育った。
 その村は、ある種特別な存在意義を持つ村だった。
 そこで生まれ育つ者には、名前がない。
 家々の前には樹があり、全て村人はその樹の名前で呼ばれる。
「樅の家の長男」とか「糸杉の家の三番目の娘」とかだ。
 その村で生まれた子は、物心ついた時から徹底的に仕込まれる。
 子供の能力に合わせた、様々な意味での「技」を。
 そして長じれば、その能力を求める者に買われて行くのだ。
 ……人を売る事でしか糧を得る事ができなかった貧しい村が、はるか昔、生き残るために見つけた唯一最大の、それが方法だった。
 彼女は小柄で体力こそなかったが、誰よりすばしこく、身が軽かった。そして頭もよく、器用だった。
 探索と、暗殺の技を仕込まれた。
 そうして13歳で主となる男に買われ、王都にやってきた。
 名前は、与えられる任務の度に、必要に応じてつけた。己の性格すら、任務の内容で変えた。難しい事ではなかった。
 最初の主は、政争に破れ失脚し、死を賜った。宮廷内では珍しい事ではない。その度に彼女は主を替えた。
 そうして最も新しい主から与えられた最後の任務で、彼女の人生が大きく変わった。
 新しい出会いがあった。
 出会ったその人から、名前を与えられた。
 彼女は、それこそが「自分」の名前なのだと知った。初めて、自分が「私」という存在であることを実感した。

 今。
 彼女は、その人が喜んでくれた衣装を身に纏い、全速力で地を駆けている。



 バラバラと。
 部屋になだれ込んできたのは、兵士達だった。そしてその後を追う様に、先程目にした法術師と神官達が飛び込んでくる。
 兵士達は、どうやら二派に別れているらしかった。
 部屋の中央で、剣を構え相対する兵士達。
 ユーリ達に背を向けているのは、大宰相とバンディールの意を受け、その命令に従っている者、そして彼らに剣を向けているのは、神官達に与し、魔族の排斥を願う者達なのだろう。
「陛下、こちらへ!」
 カインが剣を引き抜き、ユーリを後ろ手に隠すように護って立つ。少女も、急いでユーリの傍らに寄り添った。
「裏切り者め!」
「国家を裏切っているのはお前達だ! 魔王を国に引き入れるなど、神罰が下るぞ!」
 互いに罵りあう兵達をかき分けるように、神官の1人、ローエン師の側近らしい男が前に進み出てきた。
「……カイン殿! その悪魔をこちらにお渡しなされ。あなたは王家の中でも唯一の良識とお見受けしている。努々、魔物の偽りの美に惑わされる事のなきように……」
「私は、この方を魔物とは思っておりません」カインが冷静な言葉で男を遮る。「あなた方も、そろそろ狭量な偏見から脱する事をお考えになるべきでしょう。私は決して父達の隠謀に賛同するものではない。しかし……」
 ダンッ、と、法石の杖が床に叩き下ろされる。
「もはや手後れと見た。……ベイルオルドーンの王家は、汚れた魔物の息に染まった! お前た……」

「いい加減にしろっ!!」

 しん、と。
 全ての動きと、時間が止まった。

 背後に隠すように護ろうとするカインを押し退けるように、ユーリが前に進み出る。
「……へ、い……」
 カインの呻くような声を背中に聞いて、ユーリはそれでも振り返らなかった。
 呆気に取られて自分を見る長身の神官を、負けじと下から睨み付ける。
「……いい加減にしろよ。いくらへなちょこなおれでも、そろそろ怒るぞ」
 神官は、愕然とした表情を隠しもせず、ユーリを見つめている。
 魔王が口を開くとは思ってもなかったとでもいうのか、誰もぴくりとも動かない。
「……あんた、あんた達さ、魔族に会ったことあるのか? 魔族ととことん話したことあるのか? 眞魔国がどんな国か、その目で確かめたことあるのか? あんた達がおれのこと、魔物だの、悪魔だの罵る根拠って何なんだよ? 伝説か? 教典にでも書いてあって、疑っちゃだめだとでも言われてんのかっ!?」
 神官や法術師、そして兵士が、ユーリの声に恐怖したように後ずさる。
「魔族だって人間だってな! 全然変わらないんだよっ! 朝起きて、食事して、学校や職場に行って、家に帰れば家族団欒だってあって! 皆で夕食して、お風呂に入って、寝て! 何も変わらないんだよっ! 泣いて、笑って、怒って、恋をして、好きな人に喜んで欲しくて一生懸命料理の練習したり、誕生日の贈り物を選んだり、失恋したらやけ酒飲んだり! 憂さを晴らすために皆で歌ったり躍ったり! あんた達だってそうだろ? 魔族だって、一緒なんだよ! どうして、魔族だから、種族が違うから、悪者だって決めつけるんだよ!? 悪魔だなんて言うんだよ!? 違うってことは、そんなに許せないことなのか? 違ってるからこそ、お互い分かり合おうって、どうして考えてくれないんだよ? 教えられたことを、どうして鵜呑みにするんだよ? 言い伝えを真実だって思い込む前に、ちゃんと自分の目で確かめろよ! 眞魔国はいつでも誰でも受け入れてるんだぞ? いつでもありのままの魔族の姿を見ることができるんだ! 来てくれよ、眞魔国に。あんた達が神官で、法術師で、人を導く立場にあるならなおさら! ありのままの本当の姿を、あんた達の目で確かめてくれよ! 魔族を批判するなら、それからにしろ! ………それもしないで、教えられた事を疑いもせずに垂れ流すなら。自分達がやってきた失敗を隠すために、自分達の立場をよくするために、悪い事全部魔族のせいにしてしまおうというのなら……」
 ユーリは握りしめた拳に、さらに力を込めた。

「……あんた達に、民を導く資格なんか、ない!!」

 喘ぐような、誰かの呼吸が耳に届く。
 ………もっとちゃんと勉強しとけばよかった……。すっげー悔しいよぉ……。
 言いたい事の半分も言葉に出来ない。
 ユーリは、ぐいと乱暴に、水っぽくなった目もとを拭った。

 その場に居合わせた人間は、皆、呆然とその少年の姿をした魔王を見つめていた。
 涙の盛り上がった黒瞳、それを無造作に拭う仕種。足を踏ん張り、拳を握り、唇を噛んで、一生懸命に語る健気な様子。そして……その言葉。
 重要な役目を負っていた1人の法術師が、ハッと気がついたように、ぶんぶんと首を振った。
 これは悪魔だ、これは化け物だ、これは無垢な子供の皮を纏った魔物だ、これの言葉に耳を貸してはならない、その一語一語、すべてが人を惑わすためだけの……だが、しかし………いいやっ!!
 その法術師は、必死に己の役目を思い出した。
「…人がましい台詞を、よくも朗々と……! この悪魔が……っ!」

「…! 陛下っ!」
 カインが叫ぶ。
 ハッと顔を上げたユーリの目前に、男が1人飛び掛かるように近づいてくる。
 避ける間もなく、強い力がユーリの首に掛かり、次の瞬間、彼は床に引き倒されていた。

「…っ、痛っ………え…?」

 抗いようもなく、倒され、引きずられる身体。
「……人の世を滅ぼそうと画策する悪鬼。思い知れ……!」
 男は太い鎖を両手首に絡ませ、それをぐいと手繰り寄せた。ユーリの身体が、またずるりと動く。
 ユーリは、信じられないものを見るように、男の手からのびる鎖に目をやった。
 鎖は、長く伸び、そして、そして……。

 ユーリに嵌められた首輪に繋がっていた。

「…………こん、な……」
 ユーリは自分の姿を確認して、愕然と唇を戦慄かせた。
 目の前に、眞魔国で自分を待ってくれているはずの、たくさんの人の姿が過る。
 いつも側にいてくれる人達。大好きな人達。ユーリを王として、純粋に慕い、崇め、大切にしてくれるたくさんの人達。まだまだ実力不足な自分を、それでも……。

 ……俺は。
 俺は、王だ。
 あの人達の、王だ。眞魔国の王だ。
 例え力はなくても、宰相達がいなくては、ろくに仕事ができないとしても、へなちょこでも。
 いざというその時には。
 そこがどんな場所でも。どんな悲惨な状況でも。
 俺は、堂々と胸を張って、王でなくてはならない。
 なにものからも、目を逸らさずに。
 それが、王たる者の、大切な義務。

 なのに。
 こんな姿を。
 王どころか、人としての尊厳も認めずに。
 獣に対するよりも屈辱的に。
 こんな、姿を。
 あの人達が俺のこの姿を見たら、どんなに悲しむだろう、どんなに悔しがるだろう、どんなにがっかりするだろう……。

 俺の大切なあの人達のためにも。
 大好きな、俺の国のためにも。

 俺に、こんな姿をさせることを、許しては、いけない………!!


 ぶわ、と風が巻き起こる。すぐにそれが渦を巻く。
「…っ! ……何が……っ!?」
「か、風……!」
「まおっ、魔王が……っ! あれを……!」
 渦巻く風の中、部屋の者の視線が、一斉にユーリに向いた。

 真っ青なオーラが、ユーリを包み、炎のように揺らめき始めた。
 それに煽られるように、漆黒の髪が伸びる。
 冷たい怒りを宿した瞳が、すっと神官達に向けられた。

「………許さぬ……」

「か、顔が……変わって………」
「馬鹿なっ、ローエン様の封印が……!」
「魔力を使えるはずがない! そんなはずが……」

 ユーリにつけられた首輪が、急激に光を増し始めた。
 青いオーラに抵抗するように、強烈なスパークが発生する。
「………く、ぅ……」
 ユーリの怜悧な美貌に、苦痛の色が混じった。上がりかけた膝が床に再び落ちる。
「効いている! 封印はまだ効いているぞ! 今のうちに……」
 パン、という音と同時に、鎖が弾けて切れる。
「今の内にっ、殺せ!!」
 悲鳴のような命令が飛ぶ。
 一瞬の躊躇の後に、屈強な兵士が剣を振り上げ突進する。
 ぎん、と魔王の瞳がそれをとらえる。腕が上がる。黄金の光が、兵士の身体を薙ぎ払う。
 だが、一歩遅れて反対側からも兵士が迫っていた。魔王の動きは鈍い。
「死ねっ! 悪魔!!」

 その瞬間。
 ユーリは羽布団のように軽やかな、そして暖かな何かが、自分を覆ったのを感じた。
 金色の糸のような髪が、さらりと視界に下りてくる。
「………あ……」
 少女が。
 身を投げ出して、ユーリを庇っていた。

「くそぉっ、どけ、小娘!」
「構わん! その娘ごとやれっ。どうせその娘も…魔族だ!」
 ハッとユーリの目が見開かれる。
 瞬間、ユーリの身体から青いオーラが消えた。急激に力が抜けていく。
 ……しまった……!
 再度、兵が剣を振り上げた。他の兵士もそれに倣う。
 その時。

 どむ。

 鈍い、何かが破裂するような音が、全員の鼓膜を叩いた。
「……な……」
 何、と問う間もなく、一気に部屋中に灰色の煙が充満する。
 煙は、意志を持つかのように色を濃くし、更に厚く人々の視界を遮った。

「…………えんまく……?」
 咄嗟に少女を抱き寄せ、「煙を吸わないで!」と囁く。袖で顔を覆い、少女が床に伏せた。
 ユーリも手で口と鼻を覆い、目を閉じる。
 誰かが剣を振り回しているのか、金属のぶつかる音があちこちから聞こえてくる。「敵だ!」「同士討ちになるぞ!」「見えない!」「おのれ魔王め!」……たくさんの叫び声、怒鳴り声、次々に何かが倒れる音。
「……へ、へい、か……だいじょ……」
   ごほごほと咳き込みながら、カインの声が近づいてきた。声の位置からすると、彼も床に伏せながら、こちらに来ようとしているらしい。
 何とか三人で、ここから脱出しなくては。
 カインの居場所を確かめようと思ったその時、すい、と別の気配が、ユーリの傍らに現れた。
「お怪我はござませんか? 陛下」
「……!」
 耳元で囁かれて、ハッと頭を巡らせた。開いた目に煙がしみる。
「目は閉じたままで。こちらへ」
 腕を取られて立ち上がる。
「あ、ま、待って! この…女の子と、カインも……!」
 それは、と声が一瞬だけ逡巡をみせる。だがすぐに、「ここから動かずに」と一言いい置いて、その気配が離れた。
 離れていたのはほんの数秒。すぐにその人は二人を連れて戻ってきた。気配が増えたから分かる。
「この紐を手に持って。一番前は陛下です。そう」一本の紐を、三人の手で握る。「私の進むままに、この紐が導くままに動いて下さい。目は開けずに、これからは息も止めて下さい。煙に眠り薬を混ぜますので」
 では参ります。
 声が言い、紐がぐいと引っ張られた。
 それに合わせて、ユーリは走り出した。後ろの二人も同様に走り出すのが分かる。
 部屋の中の怒号は、何故か減ったようではあるが、それでもまだ続いている。なのに、誰にもぶつからないのはどうしてなんだろう。走りながら、ユーリは首を捻った。
 唐突に、部屋の中で声が止んだ。と、同時に、バタバタと倒れる音が響く。
 眠り薬が効いてきたらしい。


「………はぁ……っ。…ごほげほごほ……」
 草の上にへたり込んで、深呼吸を繰り返す。心臓が、お腹から喉までどんどんと跳ね回っているようだ。
 走って走って、もうどこをどう走ったのか分からない。
 途中で「もう目を開けても結構です」と言われ、目を開けて、前を走る濃紺の衣装に全身を包む人の後を追って。はたと気づいて後ろを見たら、カインが少女を背負って、少し遅れたところを走っていた。
 そして辿り着いたのは、王宮を遠くに見下ろす丘の上。
 すぐ側に、カインもぜえぜえと荒い息をしながら坐り込んでいた。傍らの少女が、カインの背を申し訳なさそうに擦っている。
「ご無理をさせました。申し訳ございません」
 見上げると、息一つ乱していないその人が、ユーリに向かって膝をついていた。
「ううん! とんでもないよ!」ユーリが大きく首を振る。「それどころか、助けてくれてありがとう!」
 喜色を満面に浮かべて、ユーリが声を弾ませる。

「会えて、すっごく嬉しいよ! ……カスミさん!!」

 その人─女が、頭を覆っていた濃紺の布を取り去った。どこにでもいる、目立たぬ地味な顔立ちの、だが切れ長の目に輝く瞳だけが、尋常ではない光を宿している女だ。
「はい。クノイチのカスミでございます」
 お久し振りでございます、陛下。
 女がふわりと微笑んだ。

 かつて、ミゲル・ラスタンフェルが初めて眞魔国へ足を踏み入れた時。
 ミゲルの共をしてやってきた人間の、いかにも女官然とした女。
 ミゲルの名付け親、ウォルワースの部下であった、この女こそが「カスミ」だ。

 「カスミ」という名は、ユーリが名付けた。

 ミゲルが王都にやってきて暫く後、ちょっとした話がきっかけになって、ユーリ達は彼女の生い立ちを知った。
 物心ついた頃から、諜報員、そして暗殺者となるべく育てられた。それどころか、名前も持っていないという彼女の話に、ユーリばかりか側近の皆が目を瞠いた。
「名前をつけた瞬間、それは『人』になってしまいますから。それに、名を呼べば、親は子に情を持ち、手放したがらなくなります」
 淡々と言う女に、さすがに歴史が長い国だけあると、王佐が妙な関心をしてみせた。魔族にそのような発想の歴史はないからだ。
「最初は生き延びるために子供を売っていたのが、やがて付加価値をつける事で値が上がる事に気づいたんですね」
 特殊技能があれば、高く売れる。
 コンラートの言葉に、ユーリは眉を顰めた。
「そして、生き延びるためのギリギリの選択だったはずが、年月の経つ内に、それが村の唯一の存在理由となった訳か。……目的と手段が入れ代わる事は、よくある現象だ」
 宰相が弟の言葉に続いて言った。そして、仕事をしてもらう以上、その特殊技能の全てを見せてもらいたい、と女に告げた。
 そうして、彼女は王と側近達の前で、自分が身につけた技術を披露する事になったのだ。

「女の人に、危険な仕事をさせるの反対!」だの、「絶対暗殺なんてさせちゃダメだぞ!」だのと声を上げていたユーリだったが、彼女の出で立ちと技術に、まっ先に手を叩いて喜んだのも彼だった。
「すげーっ! 本物のくのいちだっ!」

 闇に紛れるためという濃紺の衣装は、ほとんどユーリがテレビで見る忍び装束そのものだったし、手裏剣もあればクナイ、まきびしといったアイテムも、名前は違うが使い方は同じ。鎖鎌もあれば吹き矢もある。こうなれば、時代劇大好きなユーリが喜ばないはずがない。
 忍者と女忍者、すなわちくのいちについて一通り講釈し、はしゃぐユーリに、「では、陛下が彼女の名付け親になってやれば?」と水を向けたのはコンラートだ。
「そうして頂ければ、光栄に存じましょう」と頭を下げるミゲル達に促されて、ユーリがつけた名前が「カスミ」だった。
 以前に見た忍者映画のヒロインの名前だ。

 彼女の技術とアイテムは役に立つ。そう判断した宰相は、眞魔国の諜報部員一同はもちろん、軍にも一部それを取り入れる事にした。ちなみにアイテムの数々は、某毒女がさらなる改良を喜々として約束したらしい。
 彼女─その日からカスミ、は、忍びの技を伝授する教官として、王都での時を過ごす事になった、はずだった。

「…ホントに、ホントに嬉しいよっ」
 誘拐され、連れてこられた見知らぬ場所で出会った、紛れもない味方。
 でも。
 ユーリは首を傾げて尋ねた。
「どうしてここに? おれがここにいることを……」
「お静かに」
 ユーリの言葉を遮って、地面に伏せるように促すと、カスミは懐から短刀を抜き出し、構えた。
 緑もまばらな丘に伏せるユーリ達の身体に、次第にリズミカルな振動が伝わってくる。
「…………馬…?」
 そっと目を上げると、夕焼け色に全身を染めて、馬が2頭、こちらに向かって駆けてくる。
「……カスミさん、あれ……?]
 じっと近づいてくる馬と馬上の人影を見つめていたカスミの肩が、ホッとしたように落ちた。
 振り返って小さく微笑む。
「大丈夫です、陛下」
 2頭の馬はどんどんと近づいてくる。
 やがてそれはユーリ達のすぐ近くでスピードを落とし、止まった。
「………あっ…!」
 思わず声を上げて、ユーリは飛び上がるように立ち上がった。
「陛下! ご無事で!」
 先頭の馬に乗っていた人物が、そう叫んで馬を飛び下りた。後ろの人物もその後に続く。そして二人揃って、ユーリ達の元に駆け寄ってきた。
 ユーリが喜色満面に、ぶんぶんと両手を振る。

「ウォルワース!! ガルダン!」

 ミゲルの名付け親、ウォルワースとその部下であるガルダンの二人が、ユーリの前に跪いた。

「ミゲル様が、大宰相達の隠謀にお気付きになり、フォンヴォルテール卿にご注進なされたのです」
 その言葉に、ユーリは思わず目を瞠いた。
「ご安心下さいませ、陛下」
 ウォルワースが、大宰相と同じセリフを口にする。だが、それが齎す安心感は、天と地ほどにも違っていた。
「ウェラー卿始め精鋭の皆様方、陛下をお救いするために、すでにこのベイルオルドーンに向かってきておられます!」
 ユーリの喉がひゅっと音を立てた。
「……………ほんと、に……?」
 は、と二人が頭を下げる。

 コンラッド。

 胸から込み上げる熱いものに耐え切れず、ユーリは思わず顔を地面に向けた。
 熱いものは、今にも目から溢れだしそうだ。

 コンラッド。コンラッド。

 分かってくれてた。
 助けに来てくれる。
 もうすぐ会える。

 ……………しっかりしろ、おれ!

 まだ絶対安心な訳じゃない。
 味方は増えたけど、おれを利用しようとする大宰相も、そしておれを殺そうとする神官や法術師達も、どちらも諦めはしないだろう。
 危険は、まだまだ続いている。
 ここで浮かれててどうする?
 ここで泣いててどうする?

 確実にコンラッド達と再会するために。
 皆で、眞魔国に帰るために。
 今、おれのやれる事をちゃんとしなくちゃダメだ。

 ユーリは、ぎゅっと目を閉じて、流れ出そうとするものを止めた。
 そして、下腹と両膝に当てた手に、ぐっと力を込める。

 踏ん張れ。おれ!

「……分かった、ウォルワース」
 バッと顔を上げ、ユーリがウォルワースに笑顔を向ける。
「それで、おれ、これからどうしたらいい?」
 虚勢を張ることなく、素直にそう尋ねてくる王に、ウォルワースは莞爾と笑って頷いた。
「まずは、ゆっくりお身体を休める場所にまいりましょう」


「………離宮に、行くのだな……?」
 挨拶を受けて後は、ずっと沈黙を護ってきたカインが、そう呟くように言った。
 ウォルワースが頷く。
「そうか。……そうだな。確かにあの場所が、今一番安全な避難所かも知れない」
「………離宮?」
 ユーリもそう口にして、あ、と小さく声を上げた。
 離宮。
 カインやミゲルの母親。本来の、王位継承者。魔族と結ばれてしまった故に、王家の闇に押しやられた女性。その人が住う宮……。
 ユーリはウォルワースの顔を改めて見た。
 ………そう言えば、ミゲルのお母さんとウォルワースは、幼馴染みの乳兄妹だって言ってた……。
「あまり時間がございません。まいりましょう、陛下」
 ウォルワースに促され、ユーリは頷いて立ち上がった。そしてカインと少女を見る。
「……カインは……?」
「私は戻ります」
「え!? でも……」
「いきなり神官達が襲いかかってきて、それから訳の分からない煙が湧いて、気がついたら陛下はいなくなっていた。……事実なのですから、誰も疑いは致しません。私の立場をご心配でしたら、大丈夫です」
 暫しその言葉を反芻して、ユーリは頷いた。それから、あらためて少女に目を遣る。
「……君は、おれと一緒に来て。いいよね?」
 ユーリの言葉に、じっと彼を見つめていた少女は、何かを覚悟したように大きく頷いた。

「じゃ、行こうか」
 そう言ってウォルワースに歩み寄ろうとするユーリを、今度はカインが呼び止めた。
「申し訳ございません、陛下。後、もう少し」
「……何?」
 ユーリが首を傾げる。

「実は……私は父からある命令を受けていたのです」
「命令? 大宰相から?」
 はい、とカインが頷く。
「今宵より先、陛下のお側近くにいて、そして何としても陛下を……篭絡せよと……」
「…ろうらく……?」
 きょん、とユーリが首を傾げる。
 夕陽を受けて、いっそ神秘的なまでに美しい。カインは心に呟いた。
「はい。陛下は、その、男性でもあり女性でもある、と承っております」
「え…あ、そっか、もうこんなトコにまで広がってんだ……」
 頭をぽりぽりと掻くユーリに、カインがはい、と頷いた。
「陛下の、その女性のお心に訴えかけるように、と」
「…? 女性の心に、訴える……?」
 何を? と、今度は反対側に首が傾く。全然分かっていない様子に、カスミがそっとユーリの耳元に唇を寄せた。
「つまりカイン様は、陛下を誘惑し、その御身を己がものにせよと命じられたのです」
「ゆうわく………って……!」
 えええぇ〜〜っ!?
 派手なリアクションに派手な声を上げて、ユーリが仰け反った。顔も真っ赤だ。
 しばし、そのまま固まったようにカインを見つめていたユーリだったが、やがて脱力したように肩を落とした。
「………そんなことまで……」
 誠に申し訳ありません。苦笑混じりにカインが言って頭を下げた。
 ユーリは、ふう、と息をついて、それからしみじみとカインを見上げた。
「……陛下?」
 訝しげに見下ろすカインに、ユーリがくすりと笑う。
「悪いけど……あんたじゃダメだな」
 一瞬きょとんとしてから、カインは小さく吹き出した。
「だめですか?」
「うん。……あんたは、すっごくいい人だし、男前だと思う。でも……おれ、本気で好きな人がいるから」
「お国の、英雄だそうですね。ミゲルが母に宛てた手紙に書いていました」
 うん、とユーリが頷く。
「でもおれ、あいつが英雄だから好きになった訳じゃないけどな。優しくって、強くって、あったかくって、……時々すっごく頑固で、不器用で、どーかしてんじゃないかって位おれのこと大事にしてくれて、好きでいてくれて、おれってヤツを丸ごと受け止めてくれる……でもって、俺も丸ごと受け止めたいって思ってる人なんだ! ……おれは、まだまだ非力だけどさ……」
 えへへ、と笑うユーリに、カインがどこか寂しそうな笑みを浮かべた。
「その方を、心から羨ましく思っております、陛下。……ああ、それからもう一つ」
「まだ何か、命令されてたのっ!?」
 いいえ、と笑ってカインが首を振った。
「陛下のご質問にお答えしておりませんでした」
「…しつもん…?」
「はい。……ミゲルが魔物などではないと分かった後、私がどのような態度をとったのか」
「…………ああ!」ぽん、とユーリが手を叩く。「あれ……」
「何もしませんでした」
「……………………」
「ミゲルは、皆が言うような魔物などではない。その扱いは理不尽極まる。ミゲルは第一王位継承者である母の息子。ミゲル自身に何の落ち度もない以上、彼は紛れもない第三王子。………それが分かっていたのに、私は何もしませんでした」
「…どうして…?」
「怖かったからです。他には何もありません。ただ、怖かったからです。ベイルオルドーンは、魔族を悪魔と信じてきた国です。それを擁護すれば、間違いなく排斥されます。私は……ミゲルのように皆から疎まれ、蔑まれ、無視されることが怖くて堪らなかったのです」
 淡々とその言葉を綴るカインを、ユーリは言葉もなく見つめていた。
「陛下」
 カインの声が、ひときわ静かで、優しくなる。
「無知なまま、教えられた事のみを信じて酷い真似をする者と、真実を知っていながら素知らぬ振りをして、それを正そうともしない者と、陛下はどちらを卑怯者とお考えになりますか?」
「…………カイン……」
「私は」カインが切なげに目を伏せる。「ミゲルに優しくする資格も権利も、あの時になくしてしまったのです」
「……カイン」
「…………殿下」
 ふと振り返れば、ウォルワースとその部下達が、神妙な顔でカインを見つめている。
「殿下、ミゲル様は……」
「もう行け、ウォルワース」カインがウォルワースの言葉を遮った。「お引き止めして申し訳ございませんでした、陛下。さ、もうお行きになって下さい。追っ手はなるべく別の方向へひきつけますので」
「………さようですな」ウォルワースが頷いた。「参りましょう、陛下」

 ウォルワースの馬にタンデムさせてもらい、ユーリは馬上の人となった。少女はガルダンが馬に乗せ、カスミは走っていくという。
「カイン」
 呼び掛けると、ミゲルによく似た面ざしが見上げてくる。
「ほんとに……ありがとう。それから……」
 無言のまま、カインはユーリを見つめている。
「ミゲルのことも、魔族のことも、あんたや親父さんやもう1人の兄貴にも、ああそれから、あの神官達にも、ちゃんと分かってもらいたいって思ってる。とことん話してみたいって。だから……これで終りにするつもり、ないから。だから、きっと…」
 また、会おう。
 ユーリが笑ってそう言う。
 だからカインも、笑って大きく頷いた。

「はい、陛下、必ず。こんな形ではなく、対等に付き合う友人として」

 闇色を濃くした空のした、2頭の馬と1人の女が駆け去っていった。



 朝。
 明けやらぬ港に、霧が立ちこめる。だが、すでにその場所は目覚めていた。
 霧で定かには見えないが、荷の揚げ下しのかけ声がそこかしこで響き、目的を持って行動する人々の活気が伝わってくる。
 そんな中に紛れて、彼らは暫くの別れと旅の無事を祈る言葉を交わしあっていた。

「……あなたには、本当に世話になる。今も……昔も……」
 コンラートの言葉に、ベイフォルト氏が軽く首を振った。
「陛下や閣下のお役に立てて、これほどの光栄はございませんよ。まして、このような目的とあらば尚の事。私どもを思い出して下さいました事、心から感謝申しております」
「帰りもよろしくお願いする。……陛下もお喜びになるだろうし」
 ベイフォルト氏とオルディンが揃って笑い声を上げて頷いた。彼らはかつての、魔王陛下の家出にも一役買っている。
「…鳩をお待ちしております。我々は新連邦の現況をじっくり見極め、商売の道筋をつけるために、暫く滞在致すつもりでおります。お帰りとなれば、どこにいようと馳せ参じます故」
 コンラートは頷いて、それから何かを思い出したように笑った。
「今回はまともに話もできなかったが、帰りはぜひゆっくりと話がしたいな」
「いい酒を用意しておきましょう。……ご無事のお帰り、お待ち致しておりますぞ。それと……」
 これは責任を持ってお預かり致しておきます。
 ベイフォルト氏の言葉に、コンラートは頷いた。そして、貿易商人の手の中に大事そうに抱えられたものに目をやる。
「……お願いする。では」
 岸壁に佇む親子に背を向けて、魔王陛下救出部隊一行は歩き始めた。
 彼らの背後から、ガンバレー、ガンバレーと、エールを送る声がする。
 ………ようやく、正しい使われ方ができたらしい。


 新連邦の港には、眞魔国に倣って入国管理局が設けられている。
 連邦国家誕生より歴史も浅く、どころか連邦の樹立宣言をしたばかりで、今だ国情は安定しているとは言い難い。ゆえに、人々の出入国には否応無しに神経を使うこととなっているのだ。
 眞魔国のそれに比べれば、大分粗末なその建物はすでに業務を開始しているらしかった。
「……もう仕事を始めてんだな。熱心なこった」
 ヨザックが感心したように言うと、コンラートが「いや」とそれを否定した。
「たぶんこれは………」
 呟くように言ってコンラートが建物の扉を開く。
 一歩中に踏み込んだ途端、中にいた職員と思しき人々が一斉に立ち上がった。
「お待ち申しておりました! コンラート様!!」
 全員が敬礼する。
 ありゃりゃ、とヨザックが声をあげる。その時、部屋の奥から走り出してきた人物がいた。

「コンラートッ!!」

 駆け寄ってくるのは二人。もうやがて成人に達しようかという年代の、若い男女だ。
「待ってたわ、コンラート!」
「……アリー! レイルも!」
 コンラートが破顔する。

 かつて、大シマロンに滅ぼされた国の王族。
 祖母が反乱勢力の盟主となり、姉が剣を手に闘う間、戦士として一人前になろうと懸命に背伸びしていた二人の子供。
 そして、ユーリの友人であり、野球仲間。
 コンラートにとっても、多くの思い出を共有してきた大切な存在だ。

「おやまあ、嬢ちゃんと坊っちゃんじゃないか。ちょっと見ない間にでっかくなったな」
 ヨザックの笑いを含んだ声に、アリーが眉を跳ね上げた。
「年頃の女性に向かって、でっかくなったはないんじゃないの? 綺麗になった、くらい言って欲しいものだわ!」
「あーら、これは失礼致しました〜」
「んもう、グリエさんはいつもそうなんだから。………ヴォルフラムは相変わらずプーのまま?」
「………それが久し振りに会った者に対して使う言葉か……?」
 ムッと言い返すヴォルフラム。アリーの隣では、すっかり男らしい顔になったレイルがくすくすと笑っている。
「それにしても…」コンラートが苦笑して言った。「連邦内の通行許可証を発行してもらえればよかったのに、わざわざ来てくれたんだな」
「知らせを貰ってから、すぐにこちらに来て待機してたんです。コンラートがわざわざ連邦内を自由に動ける許可証が欲しいなんて、きっと何か起こったに違いないとお祖母様も仰っておられたし」
「そうよ。どこだって、コンラートを歓迎しこそすれ、拒絶するはずもないのに」
「そうなると、一々顔見せだの挨拶だのしなくてはならなくなる。悪いが、そんな暇はないんだ。一刻も早く連邦を抜けて北へ向かいたい」
「北って……何があったの? 大陸の北へ急がなくちゃならないどんな事が、眞魔国で起きたっていうの? ……ねえ、コンラート……」

「それは、姫のご命令なのか!?」

 突然の鋭い声が、コンラート達の背後から起こった。

 コンラートを除き、一同が一斉に声のした方に顔を向ける。
 ただ1人振り返らないまま、コンラートは盛大に眉を顰め、深々と吸った息を大きく吐き出した。
 のっしのっしと近づいてくる気配に、コンラートがゆっくりと振り返る。

 クォード・エドゥセル・ラダ。大陸でも指折りの美丈夫がそこに立っていた。
 かつて大シマロンに滅ぼされた王国の王太子。反大シマロンの先頭に立ち、仇敵なき今は、自国のあった土地に新連邦自治州ラダ・オルドを建設。その初代統治者となると同時に、連邦中央政府の首脳も勤めている人物だ。
 ちなみに、プロフィールの特記事項として、眞魔国魔王に対するかなりの数の求婚歴と、新連邦代表野球チームの4番打者であることが上げられる。

「……クォード殿。どうしてあなたまでここに……?」
 いやがるんだ、この野郎。
 とは続かないが、ヨザックはそんな、ものすごくやさぐれた声が聞こえたような気がした。
「どうしてだと? コンラート。長年の友であり同志であるおぬしに危急の事態ありと聞けば、親友として駆け付けるのは当然のことであろうがっ!」
「……………いつ俺があなたと親友に………?」
「相変わらずの照れ屋だな」
「……………………」
 思わず剣を抜きかけるコンラートの腕を、ヨザックとヴォルフラムが両側から押さえる。

「おかしな話ではないか、コンラート」
 とにかく話を、と、管理局の一室を借り、ソファに身体を落ち着けたところへ、クォードが第一声を上げた。
「眞魔国とこの新連邦はかなり離れておるぞ。ましてその北となれば、そもそも眞魔国と関わり自体があるとは思えん。だが、おぬしが動いた。とすれば、それは眞魔国に重大な問題が起きたからだ。そしてこの面子と人数……。白状しろ、コンラート。………姫に何が起きたのだ?」



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「骰子」&「精霊」メンバー、再登場です。
よもや、あの人にそんな過去が……。

ところで、お分かりの方もいらっしゃるかと思いますが、陛下の時間軸と、次男達の時間軸、揃っておりません。それぞれの時間でのそれぞれの場面を書いてます。………この辺りに私の文章力の限界が……

この頃、1話の長さが長過ぎるんじゃないかと思うようになりました。
もうちょっと、短く細かくアップした方がよろしいのでしょうか?
それとも、今のままでもいいでしょうか……?

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