宴の前の嵐・4 |
次にユーリが連れてこられたのは、眺めの良い庭園に面した、サンルームのように明るい部屋だった。 部屋の壁の二方はガラス張りで、庭園にそのまま出る事ができる大きなガラス扉と窓は開け放たれ、心地よい風と咲き乱れる花の香りが流れ込んでくる。 部屋の中央には長いテーブルが設えられ、その上にはやはり花々と、そして果物や菓子類、そしてこれから使うつもりなのだろう、食器やグラスが並べられている。 長方形のテーブルの一辺、ゆったり一人分のスペースにユーリが座らされ、そしてかなり距離のある真正面の一辺に国王が座り、というところで、一悶着が起きた。 段取りを壊しているらしい突然の騒ぎは、やたらと細長いテーブルの向こう端で行われているので、今一つユーリの耳に届かない。だが、唯一聞こえてきた、「アレと相対するのは御勘弁を!」という王の金切り声で何が起きたのか分かってしまった。 「……今度は『アレ』かよ……」 もういい加減にして欲しいと思う。そして同時に。 ………あいつが王ってことは……つまり、ミゲルの兄貴ってことだよな? 同じ母親から生まれたはずだから、紛れもなく血の繋がった兄弟だ。 だったら。 こんな環境で、あいつ育ってきたのか……。 父親の違う兄弟。異種の血を引く、たった1人。その血を嫌う人々に囲まれて。 ものすごく身近に、同じような兄弟がいる。彼らもかつて、そのために苦しんだ。 「………そっか、だからあいつ、あんなにコンラッドに憧れてたのか……」 ふと、思った。 ミゲルは。 彼は、ユーリがいまどこにいるか知っているのだろうか。自分の兄や、一応は父と呼ぶべき人が何をしているか、知らされているのだろうか。 知っているとしたら、彼は、ミゲル・ラスタンフェルは、どう行動するのだろう……? 目を上げたら、遠く真正面に大宰相と称する初老の男が座っていた。 テーブルの角を挟んだ右隣に王が、同じく左隣に重臣らしいやはり年嵩の男が向かい合って座っている。遠くて良く見えないが、王は酷く力を落としたように項垂れていた。 そうして次々に、20人程の人間が席に納まり、やがてユーリのすぐ傍らにも男が一人腰を下ろした。 視線を感じて見上げると、王より少し若く見える、金髪の端正な顔立ちの男が座っている。ユーリが顔を向けると、男は慎ましく視線を逸らした。 ………何となく…ミゲルに似てる、みたいな…。 「……申し訳ありません、魔王陛下。お見苦しいところをお見せ致しました。……ささ、食事と致しましょう。粗餐ではありますが、何とぞお許し下さいませ。同席致しておりますものは、皆我が国の忠臣達ばかりでございます。決して陛下にご不快な思いはさせません。なにとぞおくつろぎを」 ソサンってのは、たしか粗末な食事って意味だったよな。 よく披露宴や法事の招待状に書いてある、常套句とかっていうアレだ。 まあ、謙遜好きの日本人がよく使うものではあるけれど。 ……でも。これはちょっと違うんじゃないか? 分厚い肉、ボールにどっさり盛られた新鮮な野菜のサラダ、様々な味わいのソース、かごに山盛り一杯のふかふかのパン。ワインにジュース。そして透明な水。 ユーリはジュースを一口、口に含んだ。そしてそっと斜後ろ、部屋の隅に視線を向けた。 そこには、ひっそりと少女が一人立っている。 自分を誘拐した相手の出す料理を、「どうぞ」と言われて「はい、ありがとう」と口にできるはずがない。 そんなユーリの表情に、大宰相は気分を害した顔もせず、大きく頷いてみせた。 「……私どもの差し上げます食事では、陛下も安心なされますまい。どうぞ御安堵下さいませ」 そう言ったかと思うと、やおら手招いた相手が、あの、ユーリの世話役という口のきけない少女だったのだ。 少女は、食事の皿が出てくる度にユーリの傍らにやってきて、一口それを口にする。そしてしばらく何かを探るように目を閉じ、それから「どうぞ」と言うかのように頭を下げる。 自分と同年代、もしくは年下に見える少女に毒味をさせるのは、内心忸怩たるものがある。 しかしそれを拒絶する事はできなかった。 ユーリにできることは、毒味の度に少女に感謝の眼差しを送り、勧められた皿を、躊躇わずに空にすることだけだった。 「………ミゲルは…元気にしておりますでしょうか……?」 ふと掛けられた意外な言葉に、ユーリはフォークに突き刺した肉をそのままに隣を見た。 ユーリの右側、直角の位置に座る金髪の男が、柔らかな視線をユーリに向けている。 「…えと……?」 「申し遅れました。私は、カイン・ラスタンフェルと申します。大宰相ガヤンの次男、国王テランの弟、そして……ミゲルの兄です」 あ、と思わず口が開く。そういえば、ミゲルは第三王子だと言っていた。当然ニ番目がいるのだ。次男が。 「実にお元気であったとご報告致した折に、ご同席ではございませんでしたかな。お忘れになりましたでしょうか?」 答えたのはユーリでは勿論なく、王弟カインの真正面、ユーリの直角左隣に座る、バンディールと名乗った男だ。 「ご自分の立場も義務も、母国の惨状も忘れて、何やら贅沢な菓子を頬張っておいででしたな」 ふん、と鼻で笑う男の様子に、何となくかちんとくるものがある。 「……ミゲルは元気にしてます。今、行政官になるための修行中なんですけど、先輩達に鍛えられて、初めの頃に比べたらものすごく逞しくなったって皆言ってます」 「そうでしたか…。あの子が逞しく……」 ユーリの言葉に、カインが小さく口元を綻ばせた。 その笑みに、ミゲルに対するなんの嫌悪も感じられなくて、ユーリはホッと息をついた。 冷たかったという家族の中に、少なくとも1人、この人がいたことが分かったから。 それにしても。 ユーリは、 フォークに突き刺したまま、ほったらかしの肉の欠片に目を向けた。 母国の惨状? こんがり焼けた肉は厚くジューシーで、絡まったソースも濃厚で美味い。 目を転じれば。外は薫風が流れ、花々が咲き乱れている。 どこにも、荒廃の影は感じられない。 しかし。ミゲルは言っていた。大宰相も言っていた。国を助けてほしい、と。 だったら……この肉は? 野菜は? 果物は? お菓子は? この綺麗な庭は? これは一体何なんだ!? 「……なあ! ちょっと聞きたい事があるんだけど!」 ユーリが声を張り上げた瞬間、人々が文字通り飛び上がった。 「ビクリ」なんて可愛いものじゃない反応に、むしろユーリの方が戸惑った。 ………やけに静かな食事会だと思ったら。 実は、魔王を迎え、彼らは緊張の直中にあったらしい。 びくついていないのは、ざっと見たところ、大宰相とユーリの側に座るカイン、そしてバンディールの3人だけのようだった。 「如何致しましたかな? 魔王陛下」 何も気づいていないかのように、大宰相がにこやかに尋ねてくる。 「………この国を救って欲しいって言ってたよな?」 「確かに」 「この国が、俺の力が必要な程荒廃してるってこと?」 「そうです」 大宰相が大きく頷く。 「最初は小さな変化であり、たまたまそういう事もあろうと言う程度の異変でした。だが、年々歳々それは酷くなり、他国を襲う異常気象がついに我が国をも標的にしたのだと気づいた時にはもう……。我が国は元々大陸内部の、それも最北部にあり、山の恵みだけを頼りに生きております。水も、雨と山の雪解け水が命の綱。しかし、いつしか天が狂い、地が狂い、土は砂と変じ、水も収穫も激減、民は飢えと乾きに苦しんでおります。なにとぞ魔王陛下のお力で……」 「ちょっと待ってよ!」 ユーリは思わず大宰相の語りを遮った。 「だったら、これは何なワケ!?」 このごちそうは? そして、この丹精された美しい庭は? 「土は砂と、って、それ、砂漠化してるってことだよな? それじゃ、作物なんか実らない。民が窮乏するのも当たり前だ! だったらあんた達、ここで何ごちそうなんか食べてるんだよ!? どうして花なんか、綺麗に咲かせてんだよっ!?」 他にやらなきゃならない事が、山程あるだろうがっ!! ユーリの叫びに、しん、と座が静まり返った。 「……これはしたり」 大宰相の声が、低く響く。 「陛下におくつろぎ頂こうとのせめてもの心尽くし。お気に召しませんでしたかな?」 「心尽くしって……」 俺のために、無理をしたって言うのか? 一瞬ユーリの胸がどきりと波打つ。だが。 「……俺のために、花までわざわざ咲かせた訳じゃないだろ?」 「花がお嫌いかな?」 「じゃなくて!」 思わず席を蹴る。 「花を咲かせるには水が必要じゃないか! その水、どこから持ってきたんだ!? 民が苦しんでる時に、こんな花を咲かせるために……!」 「陛下!」 右側からカインが叫ぶ。 ハッとする間もなく、真後ろから伸びてきた手に両肩を押され、無理矢理椅子に座らされる。 両側から伸びてきた別の手が、ユーリの両の手首を押さえ付ける。 「無礼をするなっ!」 「黙っておれ、カイン!」 「………っ、やめ……っ!」 学生服の詰襟が、肩を押さえていた手に無理矢理外される。弾け飛ぶ金具。 露になった首が、両手で締め上げられた……! 「……ぐ…っ……」 「止めろ!」 次の瞬間、首を拘束していた手が離れた。数人の気配が、後方に飛び退るように消える。だが、首を絞めるものは外されない。思わず身体を捩る。 「………これ……!?」 反射的に喉に手を当てて、気が付いた。 首を絞めていたものは、人の手ではなかった。これは……。 「まさか……」 首輪。 「………っ、何だよっ、これっ!?」 ユーリは自分の首に、ぴっちりと隙間なく巻かれた冷たい感触のモノに触れ、瞬間身体に走った不快な感覚に身を縮めた。 「おお、中々似合っておいでですぞ、陛下」 カッと身の内を走った怒りに、テーブルの正面に相対する男を睨み付ける。 「そのよう目で睨まれますな。後で鏡をご覧なされませ。厳選した、それは美しい法石に飾られた逸品でございますぞ」 「………法石…?」 「さよう」満足げに大宰相が頷く。「誤解されませぬように、陛下。それは陛下の御身を御守するためにつけて頂くものでございます」 「おれを……護る……?」 「その通りでございます。情けない事ながら、この国の者の多くは、魔族を怖れておりまする。そのため、陛下が魔力を持って自分達を害するのではないかとびくびくしておるのでございますよ。そのままにしておけば、陛下を倒そうとする者が現れるのは必定。それには強力な法術を発動するように仕掛けがしてございましてな、魔王陛下といえども、魔力を使うのは困難なものとなっております。陛下が魔力を使えないとなれば、誰も陛下を怖れる事なく、またそのために陛下を傷つけようとする者も現れは致しません。今後は、陛下の魔力が必要な時だけ、この国のためにそのお力を奮って頂く時だけ、外させて頂く事となりまする」 「………こんな事をして、おれの国の者が黙っていると思うのか……?」 自分達の王が、誘拐された上にこんな屈辱的な扱いを受けて、それを許すような臣下はユーリの側にいない。 「それもどうぞ御安心下さいませ」 「………?」 「陛下には、この国にてこの国の大地を繁栄に導くため、生涯をかけてお力添え頂くつもりでおります。……誰も陛下がこの国においでになるとは存じません。どうぞお覚悟を決めて、ご協力下さいますように。さすれば、何一つ不自由ない安楽な生活をお約束致しましょう」 「……………おれを…帰さないつもり、か……?」 ユーリの言葉に、大宰相の人の良さげな笑みが深くなる。 飼い殺し。その単語が、ユーリの脳裏に浮かんだ。 そして、その時ふと。首輪を弄っていたユーリの指が、何かに触れた。 それは、首輪につけられた、金属製の輪、だった。 まるで。まるでこれは。 飼い犬を連れ歩くための。 鎖を………。 一瞬。ユーリの目の前が真っ赤に染まった。腹の底から、堪えようのない強烈な怒りの波が込み上げてくる。だがそれは、腹から胸、そして胸から頭へと登る途中で……弾けて霧散した。 「………ぐ……」 吐き気を伴う、凄まじい不快感。思わず胸を押さえ、テーブルに突っ伏す。 必死で上げた目に、テーブルの向こうの男の優しげな、しかしひたすらに暗い笑みが映った。 「さすがに、大神官が自ら手掛けただけのことはある……。見事なものだ……」 「だが私は、このような目的のためにそれを作った訳ではない」 低く呟く男の声に被さるように、突如、全く別の方向から、全く新しい声が聞こえてきた。 大宰相、そしてその場に居合わせた全ての人々が一斉に立ち上がり、一つの方向に身体を向けた。 崩れるように椅子に腰を下ろし、懸命に深呼吸を繰り返していたユーリも、それにつられて視線を動かす。 部屋に、新たな一団が入ってきた。 ユーリは必死で身体を起こした。これ以上、眞魔国の王として、無様な姿を衆目に、いや……敵に晒す訳にはいかない。と、目の前に、おずおずとグラスが差し出された。グラスを持つのは、ほっそりとした少女の手。躊躇わずにそのグラスを受け取ると、ユーリは一気に中の水を飲み干した。 「……大丈夫ですか……?」 囁くような声はカインだろう。こくりと頷きながら、ユーリは考えた。実際に、気分はかなり回復してきている。 ほう、と息をついて前方を見る。 今し方登場した一団は、その半数が、貴族的ではないがきちんとした身なりの私服の男女で、もう半数がこれまでユーリが見た貴族達と違い、ゆったりとした白いローブに身を包んだ男達である。特徴的なのは、全員が年齢に関係なく杖を手にしていることだ。杖の先には、あの石、内側から発する光に瞬く法石が飾られている。 そしてその中の1人、もっとも年長と思われる白銀の髪、白銀の髭─どちらも真直ぐに長くて、どこまでが髪でどこからが髭なのか、ユーリにはさっぱり分からなかった─の、白いローブを纏った老人と大宰相が、間近で睨み合うように向かい合って立っていた。 「あの方が、我が国の大神官、ローエン師です。白い衣装を纏っているのが神官達。それ以外は皆法術師です。もちろん神官達は全員法術の使い手でもあります」 カインが解説をしてくれる。なるほど、とユーリは頷いた。あの、ローエン師という大神官。 やはり同業者だからだろうか、どことなく元大シマロンにいた、ダード師と雰囲気が似通っている。 「我らの反対を押し切って、魔族と条約を結ぶだけでは我慢できなかったと言うのですか!?」 「魔物の力で己の望みを果たそうとするは、すなわち自らが魔に堕するということ。ガヤン殿、貴殿ほどの方が、それを知らぬとは言わせませぬぞ」 ローエン師の傍らに立つ、いかにも側近という雰囲気の神官達が、横から大宰相への難詰を開始した。 「魔に堕した者がこのベイルオルドーンの執政であるとは、我ら、認める訳には参りませんぞ!」 更に別の声もする。 「…わっ、わたくしは反対したのです!」叫んだのは王だった。「魔王を取り込もうなどと! 神への不敬、わたくしは絶対に嫌だと言ったのです。本当ですぅ!!」 手を無駄に降りたてながら、王が飛び出してくる。そして神官に縋り付くように身体を投げ出し、床に跪いた。 「……見苦しいぞ、テラン!」 息子を一喝し、それから大宰相は、無言のままの老人を睨み付けるように、傲然と頭を上げた。 「ではどうしろと仰るのかな? お主らの益たいもない祈祷に付き合った挙げ句、この国が滅んでいくのを黙って見ておれとでも? ベイルオルドーンは近々地図から消えるだろうとの専らの噂、よもや聞き及んでおらぬとは言わさんぞ!」 「益たいもないとは、何たる無礼な! 神々に奉仕する我らを、国の執政たるあなたが侮辱なされるのか!?」 「本当の事を言って何が悪い。旱魃も洪水も作物が実らぬのも、全て魔族の仕業と言うのはいいが、お主らは何もできぬではないか! 一体何年祈り続ければ、お主らの奉る神は我らを救ってくれるのだ? ……ふん、とんだ役立たずよ」 神官達の間に、ざわりと不穏な空気が盛り上がる。 「その神は」初めて老人が口を開いた。「あなたの先祖が代々大切に敬ってきた、この国の守護神達ですぞ」 「守護と言うなら護ってみせよ。出来ぬなら去れ。今必要なのは、責任を別の者に押し付けることでも、気休めの祈りでもない。この国に水を齎し、実りを齎す、確かな力だ!」 民を飢えさせ、己は平然と肉を口にし、それでも真剣に国を救いたいと願う。 人の心とは、何と複雑な形に織られているものなのだろうか。 ふと。まるで全く別の舞台を眺めているように、ユーリは人の不思議を心に思った。 と。 強い視線を感じて視線を上げる。 「………おお…! 何と…おぞましい……黒!」 まだ年若い神官が、顔を引きつらせ、目を瞠いてユーリを見ていた。 「……! ……魔王…!!」 大神官を覗く全員が、一斉に法石のついた杖を構える。 「………どれほど醜い姿をしたものかと思えば……まさか、このような……!」 「ある意味、同じものだろう。醜さは人を恐怖に陥れ、美しさを人を惑わす。どちらも先にあるのは破滅だ」 「何と見事な皮を被っているものよ。全く無力な子供にしか見えん」 「だが見ろ! ローエン様が、魔を滅ぼすためにお造りになった輪を填められて、全く平然としているではないか! あの華奢な姿形の中には、どれほど邪悪な力が漲っているものか……!」 「背筋が凍る程に美しいな……。見ていると目が腐るわ!」 何だかなー。 あまりの凄い言われように、もうほとんど他人事としか思えない。 ……目の保養と言われた事は何度かあるけど、腐るって言われたのは初めてかも。 実体は、ただの野球小僧なんですけどねー。 あはは。ちょこっと新鮮な気分かも、なーんて。 茶化さないと、とことん落ち込んでしまいそうだ。 偏見という言葉の、底の見えない深さ、恐ろしさ、そしてそのしぶとさに。 だが。 恐怖と猜疑と嫌悪に満ち満ちた視線の中に、一つだけ、色の違う眼差しを感じ、ユーリはゆっくりと視線を巡らせた。 「………………あ」 大神官、ローエン師と目が合った。 ……やっぱり、ダード老師と似てる、かも……。 雰囲気の柔らかさ、優しさは足りない気がするが、醸し出される何かが似ている。 ローエン師は、じっとユーリを見つめていた。 いや、ただ見つめているだけではない。 その視線の持つ力が触手のように伸びて、合わせるユーリの瞳からユーリの中に入り込んでくる。ユーリの内側にあるものを探るかのように……。 一瞬、逆らおうと力を込めた。だが、すぐに思い直して、ユーリは頭に思い描いた心の扉を開き、あえてその内側を相手に晒した。 妙に近くに見える大神官の瞳が、たじろぐ様に揺れる。だがすぐに、力の触手はユーリの中に深く入り込んできた。 ……これ……この力……これは……。 これは、おれをこの国に連れてきたあの……あの力と同じもの、だ……。 「……いい加減にして頂こうか……!」 ドンッ、と、大宰相は杖─こちらは法石とは関係のない─を、再び床に叩き付けた。 扉が開いて、一斉に兵がなだれ込んでくる。 力の触手が、ユーリの中から消えた。 兵達が一斉に剣を抜き、神官や法術師達に向けて構えた。 「大宰相殿!」 「ちちうえ……、こ、このような……」 「言っただろう? 民達はもう、お主らの気休めにも、お為ごかしの祈祷にも、とっくに飽き飽きしておるのだ!」 「飽き飽きしているのは、お主だろう、ガヤン」 大神官の言葉に、大宰相がキッと頭を上げる。 「魔に堕するとは、すなわち私が魔王に頭を垂れ、その支配下に屈し、僕となるということだろう? あいにくだったが、それは違うな」 ほう、と大神官が小さく、どこか馬鹿にしたような声を出す。 「私は魔族に屈したりしない。魔王の僕となりはしない。見るがいい」 大宰相の指が、まっすぐユーリをさす。 「魔王は力をあの輪に封じられ、逃げる事も出来ずにここにおるわ。魔力が使えなければただの子供。……よいか? 魔を引き入れて、それに翻弄されるのではなく、こちらが魔を使うのだ。魔王を私が支配するのだ。その持てる魔力を、私の、この国のために使わせる。僕となるのは魔王の方だ!!」 穏やかな態度で、丁寧な言葉遣いで、理解があるような振る舞いで。 だが。 大宰相。国王の、そしてミゲルの父親。この男こそが。 もっとも魔族を憎み、蔑んでいるのだと。 ユーリはその時、はっきりと理解した。 「………愚かな」 大神官が呟く。 その言葉を受けてか、側近の1人が声を上げた。 「眞魔国がこのままで済ませると思っているのか? 必ずや手痛いしっぺ返しがあると思え!」 「ローエン様!」別の側近が、大神官に恭しく腰を屈めて言上を始めた。「しかし、これは絶好の機会でもあります。魔王が、ローエン様のお造りになった輪で魔力を封じられているのです。今ならば、たやすく魔の首魁を滅ぼす事ができまする」 「下っ端共は我らにお任せを。ローエン様は魔王を……」 「そうはさせん!」 大宰相が叫び、兵達がさらに油断なく剣を構える。 と。 いきなりローエン大神官が踵を返した。 「……ロ、ローエン様……っ!?」 振り返りもせず、ローエン大神官はすたすたと歩みを続け、呆然とする人々を後目に部屋を出て行った。 「………な、なんだ……脅かしおって……」 後には、最初のメンバー、ユーリと大宰相、王テラン、王弟カイン、そして20人程の貴族達が残された。 緊張の中にあった人々は、皆ぐったりと肩を落としている。 「……大宰相閣下……。よろしいのでございますか? これでは神殿と完全に……」 「今さら何を言う!? 神官も法術師も何の役にも立たん事を、我らはこの数年で思い知ったではないか! お前達も、もはやこれ以外手はないとはっきり頷いたではないか!!」 「これ以上、あの役立たず共が邪魔をするようであれば、我らが始末致します」 そう言って進み出たのはバンディールだった。 兵達がすっと道を開け、彼に向かって頭を下げる。 「我らが国軍は、もはや神官共を無駄飯喰らいとしか考えておりません。邪魔になるようなら、皆喜んで神官も法術師も、そしてまだ彼奴らを奉じようとあがく愚か者共も、一気に排除致しますでしょう」 「おお、よく言った、バンディール。それでよい」 つまり。ユーリは考えた。 今この国は、二つの勢力に別れてるワケだよな。 神官と法術師を中心にした、反魔族の勢力。 大宰相と軍を中心にした、魔族を取り込もうとする勢力。 魔族と友好関係を結ぼうって、素直に考えてくれるんだったら、無条件にそっちの人達を応援できたのに……。 誘拐した挙げ句に飼い殺し宣言じゃ、どっちも敵としか思えないじゃないか。 「敵」なんて言葉、誰に対しても使いたくなんかないのに……。 「驚かせてしまいましたな、陛下。……お疲れでございましょう。お部屋にご案内致しますので、どうぞゆるりとお休み下さい。……カイン!」 大宰相が次男を呼ぶ。は、と声を上げて、カインが立ち上がった。 「陛下をおもてなしせよ。………よいな?」 「…………はい」 一言答えて頷いたカインが、ユーリに向き直った。 「参りましょう、陛下」 今までとは打って変わって硬い声のカインを見つめ、それからユーリは立ち上がった。 皿には食べかけの肉。まだデザートも口にしていない。 だがその時、初めてユーリは気がついた。 カインの、そしてバンディールの皿は、どちらも何も手をつけられてはいなかった……。 これから寝起きする場所だと、連れてこられた部屋には窓がなかった。 食事の前まで寝かされていた部屋には陽射しがあったのに、どうやら元気になった途端、逃亡を警戒されることになったらしい。 それは、豪華絢爛な牢獄だった。 「………どうか、父を……お許し下さい、陛下……」 部屋にはユーリの他、カインと、名前もまだ知らされていないあの少女がいる。 「…だったらせめてこの首輪、外して欲しいんだけど。後、眞魔国に、おれがここにいること報せてくれたらもっと嬉しい」 「………………お許し、ください……」 彼を苛めてもしかたがない。少なくとも、このカインだけは、まだ良心的だし友好的なんだし。 「ごめん。八つ当たりした」 「いっ、いいえ! そんな………」 二人で揃って長いため息をつき、揃ってがくりと肩を落とす。 それに気づいて、ユーリとカインは思わず顔を見合わせ、互いに小さく笑みを零した。 カタカタと、テーブルで音がする。 見ると、少女がお茶の準備を整えていた。テーブルの上の皿には焼き菓子のようなものも並んでいる。少女が椅子を引き、二人に微笑みかけた。 「とにかく……お茶でも飲もうか」 「そうですね」 「…えっと、お腹空いてない? 焼き菓子を……。あ、でもやっぱり俺と一緒じゃ食べられないかな?」 ユーリの言葉に、カインが訝しげに首を傾げた。 「あの……さっきちらっと見たら、あんたとあいつ、バンディールだっけ? 二人の食事が手付かずだったから……何となく。やっぱ、おれとか居たせいで緊張して、食欲がなかったのかなって思って……」 ああ、とカインは小さく微笑んだ。 「バンディールも……ああいう男ですから誤解されやすいのですが……。彼もまた、国を思い、民を哀れんでいることに変わりはないのです。ただそのために、手段を選ばぬところがあって……私とは少々、いえ、かなり意見が異なるのですが……」 覚悟の深さが、彼の酷薄な印象を強くしているのでしょう。 カインがしみじみと言った。 「……残された食事は、城の下働きの者に下げ渡されるのです。バンディールが、信頼できる手の者を厨房に置いて、配分させているのです。……皆……辛い思いに耐えております。わずかな量ですし、それこそ気休めではありますが、でも、誰かの腹をわずかでも満たす事ができるならと……」 「そ、そうだったのか!?」 急に、一生懸命食べた自分が恥ずかしくなる。 たぶん真っ赤になったのだろう。今度はカインが慌て出した。 「あ、あのっ! そんなお顔をなさらないで下さい! そんなつもりでは……。それに、あのように国を憂えておりながら、父も兄も重臣達も、誰1人として食事を残す者はいないのですし……」 そこまで一気に言って、カインは哀しげに項垂れた。 「………父は、決して野心家でも、支配欲が強い訳でもないのです。本当に、生真面目なくらい真面目な人で……。第1位の王位継承権を持つ者の夫として、その責務を全うしようと必死でがんばっておりました。しかし……ミゲルが生まれて……」 妻の不義を知ってしまった。それどころか、妻の相手はこともあろうにおぞましい魔族だった…。 「魔族を憎み、荒む心を具象化したかのように国が荒れ、父の心は平衡を欠いていきました……。その上、国を救うには、憎い魔族の力を借りるしかないと分かった時にはもう……」 お茶のカップに手をつけないまま、カインは唇を噛んだ。 「……………ミゲルには……可哀想なことをしたと思っています……」 ユーリは、ハッと顔を上げた。 「……ミゲルは知っているかどうか分かりませんが、あの子が父の子でないという疑惑は生まれた時からあったそうです。最初は、母が宮中に出入りする誰かと火遊びをしたのかと思われていました。しかし、ミゲルの成長が異常に遅い事が分かって……。神官達が問いつめて、相手が魔族と分かった時には、宮廷が大混乱したそうです。当時国王だった祖父が、半狂乱になったとか」 魔族はすなわち魔物、化け物以外の何者でもなかったから。 そう言って、カインは苦笑した。 「そうして、母の王位継承権ははく奪され、二人は離宮に閉じ込められました」 「あの……お母さん、は……?」 「今も離宮に。わずかばかりの女官達と、外へ出る事もなくひっそりと身を隠しております」 「…………もう、ずっと昔の事ですが……」 カインが話を始めた。 もうずっと昔。 共に暮らしていたはずの母と弟が、いきなり彼から引き離され、どこかに閉じ込められてしまった頃のこと。 ある日、カインはある光景を目にした。 「……王宮の外庭、門に通じる人通りの多い道端に、ミゲルが座っていたのです。手に、鞠を持って…」 弟には、魔物の血が流れている事が分かったのだと、カインは教えられていた。もはや弟は弟にあらず、と。どれほど人に見えようとも、その性根、すでに人外のおぞましき存在だと。 5つ程しか年が離れていないはずなのに、当時13歳だったカインと10近く離れて見える。よちよち歩きの幼児にしか見えない弟に、やはりあれは魔物かと、カインは眉を顰めてその姿を見つめた。 「…不思議な事に気づきました。……幽閉されているはずのミゲルが外に出ているのに、誰も咎めない。皆、そ知らぬ顔をして傍らを通り過ぎていくのです。これはどういうことだろうと不思議に思い、私は暫くその場に留まりました。そして気づいたのです。弟が……」 人が側を通る度に、鞠を転がしている事に。 「最初は、誰かを転ばそうとしているのかと思いました。しかし……よく見ると違っていたのです」 鞠は大した力もなく、ただふらふらと通る人の足元に転がっていく。 通りがかった人は、誰もそれに見向きもせず、鞠はおろかミゲルの存在もまた無視して歩き去って行った。 その度に、ミゲルは哀しげに眉を曇らす。その時だけ、幼げな弟の顔が異様に大人びて見えた。 「私はミゲルに近づいていきました。他の者と同じように。そうして……私の足元に、やはり鞠が転がってきました。力なく、どこか諦めたような投げやりな雰囲気が感じられました」 「……それを、カインはどうしたの?」 その問いを受けて、カインはどこか遠くを見るように視線を上げた。 「どうしてミゲルが離宮を出て来れたのか、誰も彼を咎めないのか、そしてミゲルが何を思って鞠を転がしているのか、私には全然分からなかった。だから……」 転がってきた鞠を、カインは無造作に拾い上げた。 そして、ミゲルを見て。 胸を衝かれ、息が止まった。 「ミゲルは……笑っておりました。見る者皆の胸を、幸福感で一杯にする程愛らしい、同時に、涙が出る程切ない笑顔……。私は未だかつて、あれほど美しく、そして哀しい笑顔を見た事がありません……!」 しかし。 「私が呆然としていたのはほんの数瞬。その時、私の手の中の鞠が、誰かの手によって叩き落とされたのです……」 今にも、ミゲルが駆け寄ってこようとしていた、その瞬間だった。 カインはその誰かによって、その場から無理矢理どこかへ連れていかれた。 「覚えているのは、その後、祖父と父にこっぴどく叱られたことです。…ミゲルがそれからどうしたのかも、私は知りません。ただ…」 カインは、そっと瞳を閉じた。 「あの時から、私はずっと考えていました。そして思うようになったのです。ミゲルは魔物じゃない。化け物じゃない。ただ……絶望的なまでに孤独な、ただの子供、だったのだと……。あの子は、分かって欲しかったのです。そこに自分がいる事を。自分という存在が……魔族であるとか、人間であるとか、そんな事は一切関係なく、ただ『ミゲル』という存在が、そこにいるということを、認めて欲しかっただけなのです。あの子は、無視されるのが辛くて苦しくて、自分が存在している事を認めて欲しくて、自分を……見て欲しくて………鞠を転がし続けていたのです……」 「………それで……?」 「それで?」 「うん。それで? カインはその後、どうしたの?」 カインの唇が、自嘲に歪んだ。 「私は……」 その時。 いきなり、不作法なまでに荒々しく、部屋の扉が開け放たれた。 「……! 誰だ…っ!?」 カインが立ち上がり、叫んだ。 太陽は西の空に傾き、天空は東の青から西の茜まで、ゆるやかなグラデーションの彩を纏っている。 穏やかな波もまた、朱と金を弾いて、その音と共にデッキで佇む彼らを包んでいた。 「ユーリ……」 手摺に身体を預けて、コンラートは太陽を見つめていた。 「必ず、あなたを助け出します。必ず…! 信じて、待っていて下さい。何があろうとも、俺は絶対にあなたの元にたどり着いてみせますから……」 ね? ユーリ? そう言ってコンラートが微笑みかけた手の中には、万歳している人形が一体。日の丸の扇子が夕陽に輝いて目に眩しい。 「帰りは、本物のあなたと一緒に海を眺めましょうね……」 「グリエ殿」 「……………何だ?」 「アレ、海に突き落としてもいいですか?」 「……やる時は俺がやるから、もうちょっと辛抱してろ」 疲れた声でクラリスに答えるヨザックが、今度は反対側に顔を向けた。 「…で? あんなのでもいいのか、お前さん……?」 「え? え……あー……うー……も、もちろんぼくのそんけいのねんはかわりませんともー……」 「棒読みだぞ、ミゲル」 かなり粘っていたものの、ヴォルフラムは船酔いでついに撃沈。 陛下。 俺たち、陛下の元にたどり着く前に果てそうです。 船は明日払暁、新連邦の港に到着する。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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