宴の前の嵐・3 |
「…………決闘……?」 ほとんどの者が首を捻る。だが言葉を発した瞬間、何を思い出したのか、コンラートとヴォルフラムが揃って胸を押さえた。そして、今程までの様子が嘘のように、二人して気持ち悪そうに顔を顰めた。 「……ヴォルフ……その話はもうするなと言ったはずだ……」 「……つ、つい……」 う、とヴォルフラムが口を掌で押さえた。 「潔く身を引いたんじゃなかったんですか、閣下? 決闘なんて、いつやったんです?」 「……コンラートが帰ってすぐ……。身を引くと決めたのは、決闘の後だ!」 悪いか!? ヴォルフラムが八つ当たり気味の声で怒鳴る。 「決闘って…。何やったんです? 剣だったら、そんな顔するはずはないし……」 「陛下がご兄弟でそのような決闘をなされることを、お許しになるはずがないでしょう」 訝しげに疑問を口にするヨザックに答えたのは、それまでずっと沈黙を守って控えていたクラリスだった。 「まして、ご自分を巡っての争いなどに。陛下は、剣での決闘は絶対に許さないと仰せになりました。もっと、その……平和的なものにしろ、と」 「平和的な決闘……?」 思いきり矛盾している。が、あの陛下なら言いそうなセリフだ。 「で? 何になったんだ?」 「乗馬の速さを競うとか、酒の飲み比べとか、陛下や猊下や閣下方の間で色々と案は出たのですが…」 「酒はな〜。閣下は笊かもしれんが、隊長は枠だぜ? 乗馬も……」 ヴォルフラムの力では、到底コンラートにはかなわない。ヨザックの言葉に、クラリスが、はいと頷いた。 「剣もそうですが、お二人の実力が掛け離れていて、これでは不公平だという話になりました。それで陛下が、どちらにとっても不利でも有利でもないものを、と仰られまして」 クラリスがちらりと兄弟に視線を送る。それに応えるかのように、コンラートの眉がきゅっと寄せられた。 「………俺は……あの時、一瞬だけだが……ユーリの心を疑ってしまった……」 「僕は……もしかすると、ユーリは考え直したのかもしれないと……期待した……」 「でも結局は」悠然とお茶のカップを手にしたクラリスが、無表情のまま言葉を継いだ。「陛下は面白がっておられただけでした」 で? 焦らすのは好きでも、焦らされるのは嫌いなヨザックが身を乗り出す。 「何だったんだよ、その決闘の中味ってのは!?」 慎ましく言葉を挟まずにいるが、ミゲルは勿論ベイフォルト氏も興味深々の様子だ。 そんな彼らに、コンラートは苦々しくため息をついた。 「……………………………………ケーキの大食い競争」 「…………………はい?」 「だから……」 「…ケーキって……あのケーキ……?」 「あのケーキの他に、どのケーキがあると言うんだっ!?」 ヴォルフラムが噛み付く。 「いやその……あの、甘ったるいフルーツだのクリームだのが乗っかった……」 「ユーリの思いつきで、これでもかというくらい砂糖を叩き込んだ甘いケーキが焼かれて……」 「さらにその上に、たっぷりこぼれ落ちそうな程のクリームが塗り付けられていて……」 「そんなシロモノを食べたのか? ……食べたんだな?」 ヨザックのげっそりした問いに、兄弟が揃ってこっくりと頷く。 「……俺はあれで一生分の糖分を摂取した……」 「………僕も、まだしばらくはケーキを目にしたくない……」 こいつら、真面目に勝負したのか。 決闘の場面を想像すると、何だか果てしなく情けなくなってくる。 ヨザックはため息をつきながら、椅子にどさりと背を預けた。ミゲルもベイフォルト氏も、どういう顔をしていいのか困り果てた様子で、意味もなくテーブルに視線を落としている。ただ1人、クラリスだけが澄ました顔でお茶のカップを傾けていた。 ばかばかしいから、とっととこの話は終わらせてしまおう。ヨザックは心に決めた。 「…で? どっちが勝った、って、そうか、コンラッドが勝ったんだよな?」 投げやりな口調で確認するヨザックに、コンラートがこくりと頷いた。 「苺、1個分の勝利だった」 「……………………」 「同数のケーキを食べて、もうお互い身動き一つ取れない状態で……。しかし俺はどうしても負ける訳にはいかなかった。だから……ケーキを飾っていたあの苺に手を伸ばして………。あんな決死の思いで苺を口に入れたのは、生まれてこの方初めての経験だった………!」 「…………しみじみ語るんじゃねー……」 椅子の背もたれを、ずるずると沈み込むようにヨザックの身体が滑って落ちていく。 「そういうばかばかしいものにしてしまいたかったのでしょうね、陛下は」 クラリスの言葉に、ヨザックの身体がテーブルの下に落ちる直前で止まった。 「ご自分のために、どんな形にしろご兄弟が争うような状況にはさせたくなかった。でもどうしてもそうしなくては御当人達が納得されないなら、辛い思い出となりご兄弟の後の痼りとならないようになさりたかった。それで結局あのような、後になればなるほど笑い話になる方法を採られたのだと思います。……違いますでしょうか?」 座に、しんと沈黙が降りた。 「…………………ユーリ……」 片手で顔を覆うようにして、コンラートが大切な名前を呟く。 ヴォルフラムもまた宙を睨むように、その唇の動きだけで愛する人の名前を紡ぐ。 「さすがに陛下でいらっしゃいます……」 ミゲルが感に堪えたような声で言えば、ベイフォルト氏も深々と頷く。 ただ1人、ヨザックだけが。 やっぱり面白がってただけなんじゃねーかな、坊っちゃん……。 「で?」 「……で、とは……?」 ヨザックの物問いたげな視線に、コンラートが眉を顰めた。 「だから。あんたは一体何を悩んでんのかって話さ」 「………………それはもう終わった話じゃなかったか……?」 「いつ終わった? てか、横道それただけで、何の話もしてねーじゃねーか」 そうだったか? 額に指を当てて考え込むコンラート。 隣のヴォルフラムが、「そう言えば……」と掌の上で拳を弾ませた。 「全く何をやっているんだ! その話をするはずだったのに、すっかり話がずれてしまっているじゃないか!?」 「きっかけを作ったのは閣下ですよ。……ほれ、隊長も無駄な時間稼ぎはやめて、とっとと白状しちまいな」 「……ヨザック……」 ふう、とコンラートが息をついた。心なし、肩が落ちる。 「……コンラート」ヴォルフラムの声が訝しげに揺れた。「まさか、本当にユーリとのことで迷っているのではないだろうな……?」 肯定も否定もしないまま、コンラートは弟から視線を外した。 「………俺は」 小さく唇を噛み、それからゆっくりと口を開く。 「俺は………まだ、ユーリに求婚してないんだ………」 「………………………」 「………………………」 「………………………」 「………………何だと……?」 『おれたちとっくにご夫婦だもんな?』 にっこりお陽さまの笑顔で、照れくさそうに笑ってそう囁いたのは、コンラートの最愛の主。 「俺がユーリの伴侶となるにふさわしいのかどうか、誰より俺が一番疑問に思ってきた。俺のような男に、ユーリを幸せにできるのかと、ずっと……。それに……不安でもあった。…側にいられない時間が、言ってみれば頭を冷やす時間が長過ぎた訳だし、ユーリの気持に変化が起きている可能性も大きい。それも仕方がないと半ば覚悟して帰ってきたんだ。もしも変化が起きていたなら、もう一度二人の関係を見直して……そしてできることなら、ゼロから始め直す事はできないものかと……」 とことん後ろ向きな男である。 パレードを恥ずかしがってただけじゃなかったワケか。 ヨザックは、コンラート帰国時の、歓迎パレード(歌付き)を思い出して一人ごちた。 あの項垂れた姿は、居た堪れない恥ずかしさだけじゃなく、最愛の人の心変わりを覚悟した男が、今まさに失恋という名の処刑場へ向かっていく姿だったわけだ。 それにしてもまあ……。 すでにため息以外何もでない。 「……しかし、戻ってきたらそんな次元の問題じゃなくなっていた……」 『あのさ、3ヶ月や半年先じゃ、早過ぎてダメなんだって!』 『………何が、です?』 新連邦から眞魔国の港に戻った早朝、朝靄の中の大合唱に迎えられ、そのままなし崩しのパレードとなり、昼前にようやく血盟城にたどり着いた。 公式に許されるギリギリの場所まで迎えに出てくれた主に、飛び掛かるように抱きつかれ、じんと胸を熱くし、お互いの頬の間でお互いの涙の温もりを感じ合ったのも束の間、息つく間もなく怒濤の歓迎会になだれ込み、宴会になり、真っ昼間からの飲み会になり、二次会だか三次会だか誰も分からなくなってしまったソレが終わる頃には、とっぷりと日は暮れていた。 そうしてようやく、コンラートは主の部屋で、主と共にソファに寄り添い、一時を二人きりで過ごすことができたのだった。そしてその場で唐突に切り出されたのが、「3ヶ月先云々」の一言である。 『ほら、招待する人もさ、国家元首っていうの? そういうのがほとんどだから、充分余裕がないと出席できなくなっちゃうんだって。そうすると、招待する方もされる方も、すっごく困ったことになるんだってギュンターが。政治的に何とか、って。ホント、メンドくさいよなっ。でもまあ、仕方がないのかもしんないけど。……だからってさ、最短一年先って長過ぎじゃん!? そう思わない、コンラッド?』 『………あの、申し訳ありません……』 一体何の話でしょう。と、続くはずの言葉は口から出る事を許されなかった。主の思考はすでに先へ進んでいたのである。 『グウェンがさ、とにかくけじめとして、予告だけはきちんとしておけって。予告なんてさ、間違っちゃないけど、ヘンな言い方だよな? おれ、笑っちゃったよ』 『けじめ、の、予告、ですか……?』 うん! 勢い良く主が頷く。 『それさえちゃんとしておけば、いずれ招待されるはずの人達も、心づもりしておいてくれるだろうからって。それに、色んな準備も公然と進める事ができるんだってさ。何だかさあ、ちょっと聞いただけでも、すごい準備が必要なんだな。おれ、全部覚え切れなかったよ。あれじゃ準備期間一年って、意外と短いのかもって思っちゃった』 くすっと笑う主に、コンラートはただ首を捻る事しか出来ない。 『……ね? コンラッド?』 『あ、は、はい……』 『あのさ……』 照れくさそうに頬を染め、上目遣いでコンラートを見上げる主─ユーリは、この世の者とは思えない程愛らしい。 『……あの……コンラッドは、さ………おれに、ドレス、着て欲しい………?』 『………は?』 唐突な質問に、脳の回転が追い付かない。 『ツェリ様がさ、何だかすっごく張り切っちゃって………。おれとしては、そのー、何と言うかー、できればあからさまなドレスはご遠慮させて欲しいんだけどー………』 ダメ? 今度は困ったような目で、ユーリがコンラートを見上げる。 『え……あの、俺はその……ユーリが嫌な事を押し付ける気はありませんので……』 『ホント!? じゃあ、礼服でもいい? あ、もちろん晴れの日の衣装だし、それなりにデザインしたのはおれも着たいと思うけどさ。でも、ひらひらふわふわきらきらしたのじゃなくてもいい?』 『…え、ええ、もちろん……』 よかったー! 胸を押さえ、ホッと息をついてユーリが頬を綻ばせた。 『コンラッドがどうしてもって言ったら、おれも覚悟決めなくちゃかもって思ってたんだ! 助かったー!』 ひとしきり安堵の声を上げたかと思うと、ふとユーリが表情を変え、コンラートを見上げた。 『……ユーリ?』 えへへ。いたずら小僧の笑い声を一つ。それからコンラートの胸に抱きつくと、ユーリは頬をその胸に擦り寄せた。 『結婚式なんてしなくても、おれ達とっくにご夫婦だもんな?』 「……ユーリの心変わりを怖れていた俺は、どこまで愚かな男なのかとその時しみじみ思い知った……」 ユーリの覚悟はとっくに決まっていたというのに。 「同時に気づいた。俺はまだ、ユーリに正式に求婚していないということに……。だが、ユーリはもうそんなものは飛び越えてしまっていて」 あれよあれよと話は進み、コンラートの帰国からさほど日を置かずして正式な婚約が発表されてしまったのだ。 「やっぱり俺としてもこれがけじめだと思うし、ちゃんと求婚したいとも思うんだ。しかし、あまり仰々しくすると、俺の覚悟が決まっていなかった事を知られて、ユーリをがっかりさせるような気がするし……。それに……どうしても捨て去る事ができないんだ。………俺で本当にいいのか、と……」 がたん、と椅子が鳴った。 瞬間、集まった視線の先には立ち上がったクラリスがいた。注目を浴びている事にも頓着せず、いつも通りの無表情、ユーリ曰くの「クールビューティー」だ。 「……用事を思い出しました。失礼致します」 すたすたと部屋を出ていく。 「………阿呆」 一言言い捨てて、ヴォルフラムも立ち上がる。そして、額に掌をあて、思い悩む兄を見捨ててその場を去った。 「………あ、私も操船が……オルディンはどうしたかな……?」 肩をぽんぽんと叩きながら、ベイフォルト氏も席を立つ。 ………この貿易業者が20年以上もの間大切にしてきた「ウェラー卿万歳!」の看板に、ひびが入り始めたかもしれないと、ヨザックはぼんやり思った。 それにしても。 何で俺はいまだにここにいるんだろう。 疲れ果てた気分で、ヨザックはテーブルを挟んだ向こうの幼馴染みを見つめてみた。 ……まだ何やら苦悩している。 アホくさ。 ヨザックは立ち上がり、今もどう行動して良いのか分からずにおろおろしているミゲルの肩を叩いて立ち上がらせた。 「……あの……」 「放っとけ。行くぞ」 ガス抜きをし過ぎたかも知れない。 いざという時に使えないと困るかも。 ユーリが絡むと、狂犬か究極のヘタレ男かのどちらかにしかならない男に、ヨザックはげんなりとため息をついた。 「…あ、あの、いいんですか…?」 あの人を放っておいて。ミゲルが出てきた扉を振り返り振り返り、ヨザックに確かめる。 「ヘタレ男の悩みなんぞ、アホらしくて聞いてられるかっての。つーか、あれじゃ悩んでんだかノロケてんだかさっぱり分からねーじゃねーか。………ああ、お前さんはあいつに憧れてたんだったな。どうだ? がっかりしたかい?」 面白そうに顔を覗き込んでくるヨザックに、ミゲルは「いいえ」と首を振った。 「確かに……僕がずっと憧れ続けてきた『ウェラー卿』は、欠点など一つもない完璧な人物でしたが……、それは、そうですね、記号のようなものだったと思います」 「記号?」 「ええ」くすっと笑ってミゲルが言葉を続ける。「ただの記号です。憧れたい、支えとしたい、そんな対象に『ウェラー卿』と名前をつけただけのものです。そこには、僕が望むままの形はあっても、笑いも涙も悩みも存在しません。人ではないんですから。でも、ウェラー卿コンラート閣下は、100年の人生を生きてこられた人です。悩んだり苦しんだりするし、欠点だってある。でも……伝え聞くあの方の行いの数々に、誇張はあっても偽りはないのでしょう?」 「ああ、もちろんだ。むしろ、伝わっているウェラー卿の英雄伝説は、真実の半分も語っちゃいねーよ。あいつが駆け抜けてきたこれまでの人生は………そりゃもう、すげーもんだったぜ? 近いトコで言えば、あの最初の大シマロン行きだってそうだ。半歩間違えてりゃ、今頃あいつは汚名と汚泥に塗れて路傍で骨をさらしてたはずだ」 はい。ミゲルが真摯な瞳で頷く。 「悩みもされるし、人としての欠点もおありになる。それでもあの方は、英雄と呼ばれるにふさわしい行動を貫いてこられたし、これからもそうなさるでしょう。己の名誉も生命も二の次に置いて。………どうしてがっかりなんてできるんです? 僕は、この地上の誰よりも、以前よりもはるかに強く、ウェラー卿を尊敬申し上げております」 あ、一番は勿論魔王陛下ですけど。 いたずらっ子のように笑うと、ちらっと小さく舌を出す。 その様子に、ヨザックは思わず吹き出した。 「お前さん、ホントに変わったなあ。陛下のフリしてた、我がまま言い放題のクソ生意気なバカ王子と同一人物とは到底思えねーぜ?」 「やっ、止めて下さいっ!!」 ボンッと顔を真っ赤に染めて、ミゲルが慌てて手を振った。 「あの頃のことを思い出すと本当に……! 今でも夢に見るんです。ああ、もうホントに! お願いですから、あの時の話はもう……!」 お願いします! 腕に縋られそう言い募られて、ヨザックはげらげらと笑い続けた。 「ウェラー卿は、本当に、その……僕の兄達を殺そうとなされるでしょうか……?」 ひとしきりからかわれ、喚いたり拗ねたりした後、ようやく落ち着いたミゲルは、波飛沫を見つめながらぽつりと言った。 「……あん時はまあ、頭がヤバいトコにいっちまってたからな……。しかし、状況次第によっちゃそうならないとも限らねえよ。お前の兄貴達が陛下にもしも、もしも傷でも負わせてた時には……俺だって容赦はしない。それは分かってるよな?」 はい、と頷いて、それでもミゲルは何かを思い悩むように眉を顰めた。 「ただ………もしその時がきたら……僕は国の裏切り者となるのでしょうか……」 「……ミゲル」 「長年の恨みで兄を売り、魔族の手で殺させた国家の裏切り者。……僕はそう呼ばれるのでしょうか……」 「世迷い言を口にするな!」 口を開きかけたヨザックの背後から、厳しい声が弾けるように飛んできた。 二人が振り返った先に、ヴォルフラムとクラリスが立っている。 「だったら何か? お前の兄が国王として、いや、人として許されざる罪を犯した事を、知っていながら口を噤んでいるべきだったとでも言うのか!?」 怒り心頭の眼差しで、ヴォルフラムがずかずかと歩み寄ってくる。 「…そっ、それは……!」 「それは違うだろう!? ならばお前は正しい事をしたんだ。国のためなどという美名で罪を隠すことが、本当に国家のためになるはずがない。選ぶべき道は、この罪を犯した者を正しく告発し、罪を償わせ、国家を正道に導く事、この一本だけだ。そうだろう!?」 「は、はいっ! 閣下の仰せの通りです。………その、申し訳ありません。浅薄な事を口走ってしまいました……」 「………分かれば良い。離れたとはいえ、祖国と、血を分けた者が関わっているのだ。お前が悩むのも無理はない」 「はい。ありがとうございます!」 「………んま〜、す・て・きっ! かっこいいですわ、閣下ぁ〜」 深々と頭を下げるミゲルの隣で、ヨザックが大げさにしなを作った。 「どこかのヘタレとは、雲泥の差ですわよ〜」 ふふん。ヴォルフラムが軽やかに前髪を掻き上げる。 「当然だ。……いずれユーリも、選択の過ちに気がつくだろう。そう思わんか?」 「実に男前でいらっしゃいます、閣下」 クラリスも淡々とヴォルフラムを誉め上げた。 「失恋が男を磨くとは、先人もうまい事を言ったものです」 ぴしっと音を立てて、ヴォルフラムが固まった。 「この調子でもう4、5回大失恋を繰り返せば、隊長並みのモテ男になること請け合いです」 「……そんなに失恋を繰り返したら、モテ男とは呼べないんじゃ………って!」 余計な事を口にする世間知らずの後頭部を一発はたいて、ヨザックはミゲルの襟首をひっ掴んだ。 固まったままのヴォルフラムの顳かみが、ぴくぴくと波打っている。 「さ! ミゲちゃんもクラリスちゃんも、そろそろ行かなくちゃねっ。じゃ、閣下、お先に失礼しまーす!」 有無を言わさず、ヨザックは二人を連れてその場を退散した。 「……ったく、兄貴はホントに気の良い男だったのに。なんで妹はこんな……」 もと来た道を戻りながら、ヨザックがぶつぶつと文句を言っている。その後ろを、しれっと知らぬ顔のクラリスと、どうして一発食らったのかさっぱり理解できないミゲルが頭を擦りながらついてくる。 3人の足が、先ほどまでいた部屋の扉の前で止まった。 「そういや、隊長はまだここにいんのか?」 「さあ。聞いているのも馬鹿馬鹿しくなって部屋を出てからは、お顔を見ておりませんので」 「お前なあ……。もしまだぐるぐるしてんなら、そろそろ目を覚まさせてやらなきゃマズいだろ? ……おい、隊長、いるの………」 扉を無造作に開けて、一歩踏み込もうとしたヨザックが、ぴくりとその動きを止めた。 「………グリエ殿? ウェラー卿はおいでになるのですか?」 ミゲルが近づき、その肩ごしに部屋の中を覗こうとした。中から何か、声がする。と、ヨザックがささっと後ずさって扉を閉めた。 「グリエ殿?」 「行こう」 さっと踵を返して、ヨザックが歩き始めた。 「どうしました?」 後を追いながら、クラリスも不審気な声を上げる。 ヨザックの歩みがぴたりと止まった。そして、徐に二人を振り返る。その顔は……酢か辛子を大量に口に放り込まれたような、もしくは子供が歯痛に苦しんでいるような、なんとも言えない複雑な表情を浮かべていた。 「グリエ殿? どうなさいました?」 「…………………この世のものとは思えないものを見ちまった………………」 あれは確か。 ミゲルはふと宙を見つめて考えた。 部屋の奥から聞こえてきた小さな声。あれは。 『…………ガンバレー ガンバレー ガンバレー ガンバレー……』 確か、委員会の女達が先を争って手に入れていた、フォンカーベルニコフ卿製作の、『何とか人形、何とか君』陛下ばーじょんの声、だったはず。 「……あれを、ウェラー卿も手に入れておいでだったのか……」 それにしても。 この急ぎの旅に、わざわざ持参してきたのか、とか。 そんな人形で、グリエ・ヨザックにあのような顔をさせる一体何をしていたのか、とか。 思わず首を捻ってしまうミゲルだった。 「鳩が到着致しました! ベイルオルドーンからです!」 突如。オルディンの声が船に響いた。 バンッ、と音を立てて、すぐ近くの部屋の扉が開け放たれる。 飛び出すように姿を現したコンラートは、引き締まった面に緊張の色を掃き、先ほどまでの面影は欠片も残していない。 「行くぞ」 3人に顔を向け、言葉短くそう告げた瞳の奥には、冷たく燃える炎がある。 「おう」 にやりと笑い、ヨザックが動く。 途中ヴォルフラムも合流し、彼らは揃って船長室に駆け込んだ。 目的地まで、まだ遠い。 目覚めは唐突だった。目を開けた瞬間、確かに見ていたはずの夢が光に溶けて消えた。 ………ここ……? 豪奢な天蓋付きのベッド。それを置くにふさわしい、絢爛とした部屋。窓から燦々と降り注ぐ陽の光。 もうかなり慣れた雰囲気の、だが、見覚えのない部屋。 起き上がろうとシーツの海の中でしばしもがいて、やがて起こした上半身は、飛びかかるように襲ってきた目眩にあえなく沈んでしまった。 ………どう、して……? 自分がどうなっているのか、さっぱり分からない。なのに……何だろう、この心臓が鷲掴みされるような不安は………。 「お目覚めでいらっしゃいますか?」 突然掛けられた声に、思わずびくりと身体が震えた。 声は彼が寝かされているベッドから、かなり離れた所から発せられた。 そろそろと、頭を巡らせて見遣った向こうに、男─30代後半か40代前半の─が立っている。 「よろしければ、お身繕いを。我らの王がお待ちです」 「……あの………ここ……」 「お世話はこの者が致します」 男の視線に合わせて顔を巡らす先に、少女がいた。その瞬間まで、そこに人がいるとは全く気づかなかった。だが、それも仕方がないかもしれない。 少女は、まるで這いつくばるように、床にひれ伏していた。長い金髪が床に無造作に広がっている。 「この娘は、口をきく事を封じられております。ですので、ご質問は私に。では」 一礼して男が去っていく。 「………………質問は私に、って、いなくなっちまったら質問もできねーじゃん……?」 ゆっくり頭を持ち上げる。だが、すぐに先ほどと同じ目眩が襲ってきた。片手で額を押さえ、もう片手でシーツを握りしめた時、柔らかな感触が腕に掛かった。 重い目蓋に力を込め、そろそろと目を開いてみれば、そこに先ほどの少女がいた。 今にも泣き出しそうな目─ヴォルフラムと同じ碧の瞳─で、彼を見上げている。 「………あの……」 はたと気づいたように、少女がベッドの傍らに置いてあったグラスを手にした。そしてそれを彼に差し出す。 「……えと……」 一瞬、迷う。その迷いを何と見たか、少女がまた目を見開き、得心したように頷くと、すかさずグラスを呷った。 一口、中の液体を飲み下し、しばらく目を閉じてからもう一度頷き、大丈夫だと言いたげにグラスを差し出す。 今度は彼もそれを受け取った。 冷たい、どこか柑橘系のほのかな香りのする水を飲み干す。 すうっと。喉と頭が冴え渡った。 「………あ…っ」 思い出した。 「そうだ!」 スタツアしてたんだ! 彼─ユーリの脳裏に、親友ともう一つの故郷へと旅立った瞬間が浮かぶ。その時に。 「……あの……妙なものが……」 まるで触手のようなものが。 彼の自由を奪い取り、まるでどこかへ連れ去るように……。 「……っ、あの……!」 反射的に、ユーリは少女の腕を掴んだ。少女が痛そうに顔を歪めるが、ユーリは気づかない。 「あの、ここっ、どこですかっ!?」 少女が哀しげに眉を潜める。 「あ……そか、口が……」 封じられてる、と、あの男は言っていた………? 「あの、えっと………ここ、眞魔国じゃないですよね?」 一拍置いて、少女が頷く。 「……人間の国?」 こくり。 「それは……」 自分はスタツア途中で遭難して、この国の人間に救助されたのか、それとも……。 「あの……ここの人達は、おれが誰か知ってるのかな?」 ………こくり。 「て、ことは……」 偶然たどり着いた、ワケじゃない。最悪の場合……。 「えっと……あの、もしかして……おれ、ここの人間に………攫われたんだったりして……」 いきなり。少女の瞳からぽろぽろと涙の粒がこぼれ落ちた。そして、ゆっくりと大きく、頷く。 ………何てこった……。どうしよ、コンラッドぉ……。 実感が湧かないまま、ユーリは再びベッドに倒れ込んだ。 おれの身代金って、幾らくらいなんだろ……。 ごめんな、ギュンター、グウェンダル。 またおれのせいで、国に負担を掛けてしまう。 おれってば、一体どこまでへなちょこなんだろう。こんなに簡単に攫われてしまうなんて……。 村田は大丈夫だったかな? 無事に眞魔国に着いたかな? だったらもう、皆異常事態に気づいたかな? おれを助けようと……でも、おれがどこにいるのか分からないだろうし、って、おれも全然分かってないし………。 何だか………泣きたくなってきた。 思考に沈むユーリの腕に、再びほっそりとした指が掛かった。 少女がじっとユーリを見つめている。 ふと気づいて、ユーリは頭を上げた。 「………あの、君さ……、もしかして……魔族、だよね……?」 ハッと、身体を硬く強ばらせた少女が、次の瞬間ぶんぶんと激しく首を左右に振る。 「え……でも……」 不可思議な親近感を感じるのだ。それに。 「君さ……会ったこと、あるよね……?」 さらに激しく、少女の首が振られる。 一つ、ため息をついて、ユーリはそれ以上の追求を止めた。 ユーリのその様子を見て取ったのか、少女が今度はユーリの腕を引いた。 「……何……?」 少女が、身体を洗うような素振りをする。そして、部屋の隅にある扉を指差す。 「……えと……もしかして、お風呂に入れって言いたいのかな……」 少女がちょっと考えて、それから小さく頷く。そしてベッドの側の棚から黒い布を取り出すと、恭しくユーリに差し出した。 「……制服……?」 学生服の上着だ。はたと気づいて見直すと、ユーリは上着だけを脱いだ、シャツと制服のズボンを身につけている。 無意識にホッとして、ユーリは上着を受け取った 「……この国の王様が待ってるとか言ってたよな……?」 では魔王誘拐は国家プロジェクトという訳だ。 謎の国王vs魔王。 真っ黒な学生服は、魔王の正装代わりとなるだろう。 よし。 お腹の底に力を入れて、ユーリは勢い良くベッドから降りた。 何が待っているか、まだ分からないけど。 負けてたまるか。 「………これが……魔王か……?」 「これ」って何だ、「これ」って…! むっとして、ユーリは目の前の玉座に座る男を睨み付けた。 男は30代、いや40代に半ば、だろうか。 もしかすると、もっと若いのかも知れない。だが、どこか荒んだような、病み窶れたような、病的な雰囲気が男をかなり老けさせている、と、ユーリは思った。 「……睨んでおるぞ。これは余を睨んでおるぞ…! 不吉な……っ。バンディール、余は呪われたのではないのか……!?」 「御安心下さい、陛下。眞魔国は我が国と友好条約を結んでおります。魔王が陛下を呪うはずがございません」 ……友好国っ!? それがどうして。ユーリは呆然と、王と思しき男とその臣下、広間に集まった人々を凝視した。 ……友好国だなんて、信じられない……。 ユーリの知る友好国は、カロリアにしろカヴァルゲートにしろ、そこに住む人々は誰1人としてユーリをこんな目でみない。こんな、化け物を見るような目で。 「………恐ろしい。一見した所、頑是無い子供にしか見えません……」 「まるで邪気などないかのように見えまする…」 「それが奴らの手なのですよ! 騙されてはなりません!」 「しかし、何と美しい……」 「滅多な事を口になされるな! 彼奴らの術中に嵌ったものと見なされますぞ!」 「いやいや、あの姿で、様々な国の元首を誑かしたのですな……」 「とはいえ、全身にあのような不吉な色を纏うておるのですから。見目がどうあろうと、これぞまさしく魔物である証……」 広間の真ん中で立たされたユーリの周囲で、集まった貴族らしき人々のこれ見よがしな悪意が、ユーリの胸をざくざくと突き刺していく。 人間の、魔族に対する偏見は知っていたはずだった。それを身を持って知らされた事もある。だがここしばらく、人間との関係が順調に進んでいた事もあって、こうもあからさまな態度を取られる事をすっかり忘れ去っていた。 ……魔族の事なんか、全然知らないクセに……っ! ユーリの中で、怒りがふつふつと湧き上がってくる。 我慢する必要なんかない。怒鳴りつけてや……。 ダンッ!! 人々の囁きも、ユーリの決意も弾き飛ばすような、鈍く重い音が広間に響いた。 ハッと目線を上げた先。玉座の隣に、今まで存在しなかった人物の姿があった。 すでに老境に入りかけた男。 柔らかそうなローブを纏い、右手には身長よりも長い杖。顔の半分以上を覆う灰色の髭で、その表情は見えない。 先ほどの音は、この男が杖を床に叩き付けたものだろう。 「……馬鹿者共が……! お招き申し上げた魔王陛下に対し奉り、無礼も甚だしいわ。……テラン、お前もだ……!」 男の登場に、列席する人々が一斉に頭を垂れた。その男が睨み付ける先には国王がいる。 「恐れ多くも我が国をお救い下さるお方をお立たせ申しておきながら、ひとり玉座にふんぞり返っているとは何事! 恥を知れ、この大馬鹿者が……!」 あたふたと、国王が立ち上がる。 立ち上がったはいいが、どうしていいのか分からずにおろおろとする王を無視して、初老の男が高い所からゆっくりと階段を降りてきた。そして静かに歩を進め、ユーリの真正面に立つ。 男はじっとユーリを見つめる。 負けてなるものかと、ユーリも男を睨み返す。 ふと。その身体から力が抜けたとみるや、男はユーリに向かって深々と頭を下げた。 「陛下。このような強引な方法を採りました事、何とぞお許し下さいませ。また……ここに集う者達の不見識にも御容赦をお願い申し上げまする。……陛下を害する気持など、欠片も持ち合わせてはおりませぬ。我らはただ……陛下のお力を持って、我が国土をお救い頂きたいだけでございます」 「………救う…?」 は、と男がさらに深く腰を折る。 「おれの力が必要なら……それに、ここが眞魔国の友好国なら……血盟城にきて、そう言えばいいのに……?」 「確かに。ただ……我らには、時間が残されておらぬのです……」 「……時間……?」 はい、と男が頷く。 穏やかに立っているだけなのに、男からは紛れもない威厳が漂ってくる。その圧迫感に負けないように、<ユーリはそっと深呼吸を繰り返した。 「……えっと……その前に。……あなたは一体……?」 これは何たる失礼を! と、男がわざとらしく慌ててみせた。 「私は、このベイルオルドーンの国王たるテランの父、大宰相ガヤン・ラスタンフェルと申しまする」 ラスタンフェル? 聞き覚えのある名前に、ユーリは小さく首を傾げた。 「………ミゲルは……元気にしておりますでしょうか……?」 「…ミゲ……!?」 「お国にお世話になっておりますミゲル・ラスタンフェルは、私の末子でございます、な、法律上は」 「……じゃあ、ここは……!」 あの、ミゲルの祖国なのか……!? ミゲルから頼まれてはいた。 故国の状況が酷いので、力を貸して欲しいと。 しかし、同じような願いは、人間達のそこかしこの国からユーリの元に齎されていた。 砂漠化を止めて欲しい。水が欲しい。疫病をなくして欲しい。とにかく。救って欲しい。 ユーリは別に、世界の救済事業を繰り広げている訳ではない。 だが、いつの間にか、ユーリなら荒れ果てていく国土を救ってくれるという噂が広まってしまった。おそらくは、かつての大シマロン、現新連邦で引き起こしてしまったコトが、その発端だとは思うが。 噂とは、聞く当人の都合の良いように尾ひれがつけられていくものだ。 今では、ユーリの救済を目当てに、眞魔国と友好条約を結ぶ国も少なくない現状なのである。 その義務はないが、頼まれればイヤとは言えない。出来ない事は出来ないが、出来る事なら力を貸したい。 気分はほとんどボランティアである。 それにしても。 誘拐するか? 普通……。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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