宴の前の嵐・2 |
「眞王陛下ってのもさ、性格あんまりよくねーのかな?」 「今頃何言ってんだい? さんざんな目にも会ってきたじゃないか。アレの性格が良いワケないだろ?」 やれやれ、とメガネの少年が、日本人らしからぬ仕種で肩を竦めた。 言われた方は、「そっかー」と気のない返事でぼんやりと前を見つめている。 「何せ四千年前は、この僕の相棒をつとめてた位だったんだしね」 「それもそーだなー」 「………………あのねぇ」 自分で話を振っておきながら、「じゃあ、僕の性格も悪いのかい?」と突っ込みを入れようと振り返ったメガネ─村田健は、今現在の相棒が深々とため息をつくのを見て肩を落とした。 「……何もさー…」 どことなく浮かない表情の少年─渋谷有利が、力の籠らない声を上げる。 「婚約発表した5分後に、追っ払わなくてもいいじゃん?」 「追っ払った訳じゃ……」 ないんだろうか? 何となく違うと言い切れないものを感じて、村田は宙を睨んだ。「彼」のやる事は今一つ掴み所がなく、深い真意があったとしても、深過ぎてなるほどと思う頃には事が終わってしまっている。 それにしても。 「……こっちに来たと思ったら、今度は全然お呼びが掛からないし。……おれなんて、もう必要無いのかな? もし、あっちに行けなくなったら……もう会えなくなったら……おれ、どうしよう……?」 親友にして相棒、渋谷有利は近頃後ろ向きな発言が多い。 「…………コンラッド、浮気したら…………なあ村田っ、そしたらおれ、どうしたらいいっ!?」 今度は村田が、地面に届いてバウンドしそうな程深くて重いため息をついた。 土曜日の午後。学校帰りに待ち合わせした彼らは、それぞれの学校の制服に身を包んだまま、「店じまい売りつくし、超特価、大安値セール!」を開催中の某スポーツ用品店に向かう途上にあった。店は最寄りの駅から歩いて20分ほどだ。この微妙な距離が、店じまいの要因の一つだろうと考えられる。 新聞のちらしに印刷された、レイアウト重視の地図を眺めながら、二人は初めての道を歩いていた。 その途中有利が、親友を相手に愚痴り始めたのである。 「ウェラー卿が浮気なんてするはずないと思うけどね。……けどねえ、渋谷?」 「……何だよ……?」 「君を悩ませてるのは、ウェラー卿の浮気なんかじゃないだろ?」 「……………中々向こうに行けない……」 「だけじゃなくて」 「…………………………」 「…君、ウェラー卿とのこと、ご家族にちゃんとお話した?」 「……………………まだ」 「……あのねえ……」村田はふう、と息をついた。「ご両親やお兄さんは、君とウェラー卿のこと、丸っきり知らないのかい?」 問われた有利は、少し小首を傾げて考えて、それから小さく首を左右に振った。 「………たぶん……勘付いてると思う。おふくろがずっと何か言いたそうにしてたし……。親父は分からないけど、勝利は……たぶん」 「勝利さんが?」 うん、と有利が頷く。 「前にちょっと……。それから、コンラッドと勝利、二人きりで何か話した事もあるらしいし……。何話したかは、どっちも教えてくれないけど」 へえ、と村田が意外そうな声を上げた。 「あの勝利さんがね……。ま、気づかれているにしろ、やっぱりちゃんと話さないとダメだろ?」 「それは……分かってるんだけど……」 「君のママさん、『いつかゆーちゃんのお嫁さんに着てもらう着物!』なんてのも用意してたぜ?」 「なっ、なんじゃ、そりゃ!?」 「まあそれは大分前の………僕達にとってはかなり昔の事だけど………。なあ、渋谷。たとえこちらでは5分くらいしか経ってなくても、僕達があちらで何ヶ月も、時には1年近く過ごす事もあるんだって事、ご両親達には実感しにくいと思うんだよね」 うん、と有利が頷く。知識として知っていても、実感する事は無理だろう。彼らにとって、有利はいつもちゃんと家にいるのだから。 「だからこそきちんと話さないと、いらない誤解も生んでしまうし、君とご家族の間に妙な溝がうまれる事だってあり得ると思うんだよ。……分かるかな、僕の言う事」 「……分かるよ、村田………」 あのな。 有利が小さく言葉を継いだ。 「ここんトコずっとな……。引っ掛かってるコトがあって……」 うん、と村田が話を促す。 「……最初は、な。あっちで何日暮らしてても、こっちでは何分と経ってないって分かった時、すげーラッキーって思ったんだ」 「うん。分かるよ」 「まあ、テストの前の日に呼ばれた時には参ったけどさ。必死こいて暗記して、よし、完璧! とか思って風呂入った途端にあっちに行って。全部忘れた頃に戻ってきて。……成績めちゃくちゃだった……」 「それは日頃の行いの問題だね。基礎さえきちんと身につけていれば、そんな事は起こらないよ」 「………今の話は忘れてくれ。……とにかく、最初はそうだった。色んな意味でラッキーだって思ってたんだよ。……でも」 「今は違う?」 うん。有利が頷く。 「あっちでさ。眞魔国で、おれさ、おれなりにがんばってるつもりなんだ。いまだにへなちょこだし、失敗ばっかだし、人間の国との友好はかなり進んだけど、それでも問題山積みだし……」 村田は何も言わずに、有利の言葉を待っている。 「それでもさ。おれ、がんばってると思ってるんだ。グウェンやギュンターに負担掛けまくったりしてるけど、コンラッドと脱走したりしてるけど、皆で遊びに行ったりしてるけど、でも………っ!」 それでも! 足を止め、親友を見つめ、唇を噛み。有利はこみあげてくる激情を押さえるように、瞳をぎゅっと閉じた。 「………なのに、村田………」 有利の目が大きく見開かれた。強い光が村田を射る。 「それなのに! ここでは5分しか経ってないんだ! おれがどんなにがんばっても、悩んだり、苦しんだり、傷ついたり、泣いたり笑ったりしても、どんな時間を、どれだけ必死に過ごしてきても! ここではっ」 この世界でおれは、5分前のおれでしかないんだっ! 「おれが眞魔国で過ごしてきた時間が、ここにはない……。なにもかも、向こうで生きてきた全部がなかったことにされてる。リセットされてしまってる……。まるで、向こうでの人生なんていらないって言われてるみたいに……」 「いらないんだよ」 村田の言葉に、有利がハッと顔を上げた。 「地球にとって、日本にとって、日本人である渋谷有利にとって、異世界の経験なんて必要無い。……こちらの世界は、そう断言してるんだよ」 村田の言葉を噛み締めるように、有利は瞬きもせず、親友を見つめた。 でも、村田。 有利が反論を試みる。 「……ここで5分しか経ってなくても、おれの姿が何一つ変わってなくて、日常が日常のまんまで、家族がおれに向ける眼差しや言葉が5分前と何も変わってなくても………おれは、5分前のおれじゃない……。眞魔国で過ごしてきた時間や経験や、いろんなものは、どんなにこの世界がいらないって言っても、おれの中にある。今のおれを作ってる。ここにいるおれは、渋谷有利であると同時に、眞魔国第27代魔王のユーリなんだ。その全部をひっくるめて、おれなんだ。全部がおれ自身なんだ。……なのに……」 「この世界に、自分を否定されてるような気がするんだね?」 あ、と、今度は目を瞬いて有利が村田を見返した。 「眞魔国が、というより、君自身が否定されてるように思えるんだろう? それが辛くて、悔しいんだよね?」 しばらく考えるように村田をじっと見つめていた有利が、うん、と深く頷いた。 「……悔しいんだ、おれ……たぶん」 ごめん。ちょっと照れくさそうに呟いて、有利が歩き始めた。村田もすぐに隣に並ぶ。 「……あのさ、何とかの夢って昔話があるだろ? えっと……ほら、夢で人生を全部経験しちゃうとかって……」 「ああ」村田が頷いた。「邯鄲の夢だね。わずかな時間の居眠りの間に、人生の栄枯盛衰を全部経験しちゃうって話。人生の儚さ、空しさを諭す物語だ。元は中国だけど、色んなシチュエーションで日本にも似たような話があるね。………って、眞魔国は夢じゃないよ?」 分かってるよ、と有利が笑った。 「ただ、何だかさ、この世界にそう言われてるような気がして……。あの世界は夢じゃない。皆は幻じゃない。おれの人生にケチつけんじゃねーって、時々喧嘩売りたくなる時があるんだ」 「世界に?」 「そう。この世界に」 くすくすと、二人は同時に笑い始めた。 午後の陽射しが、ほのぼのと二人を光で包む。 二人はまた、良く分からない地図をあれこれと検討しながら道を進んだ。 「両方の世界にどう関わっていくか、悩んでるんだな。君は」 しばらくして村田が口を開いた。 「………悩んでるってほどでもないんだけど」有利がはにかんだ様な笑みを浮かべて答える。「どっちもホームだって考えてきたけど……おれ自身がそれに耐えられなくなるかもって気がしてる……。うまく言えないんだけど。軸足を移さなきゃならない時がくるのかもって。……あっちも大事だし、こっちも当然大事だし、だからあんまり考えたくないんだけど……考えると怖くなりそうで、考えたくないって気もするんだけど……」 思考が堂々巡りし出した有利の肩をぽんと叩いて、村田が笑みを向けた。 「君は正しく悩んでいる」 「……………え……?」 「君の悩みは正しい。君は正しい悩みを正しく悩んでいる。悩むべき悩みを正しく悩む者は、どれだけ時間が掛かろうとも、正しい道を歩んで、正しい答えに至る。………分かるかい?」 「………全然」 「思いっきり悩め、青少年! ってコトさっ」 「なんだよ、それー」 分かる言葉で言えっての。 あっはっはと笑って小走りに先を行く親友を、有利が追い掛ける。と。 「村田、神社がある」 言われて、横を向いた先に石の階段があった。石段の前には小さな鳥居、横に神社の名前を刻んだ石碑のようなものが立っている。 「ちょっとお祈りしていこーぜ!」 「はあっ!?」 言うなり階段を登り始めた友人に、「君、仏教徒だって言ってなかったかい?」と追い掛ける村田。「日本人だから、いいんだ」と答える有利。 「コンラッドが浮気しないようにお願いしてくる!」 異世界の魔王にそんなお祈りをされたんでは、ここの神様も困り果てるだろう。というか、そもそも魔王が仏教徒ってのはありなんだろうか? ま、世界の他のどの宗教を比べても、仏教程懐の深い世界宗教もないだろうからいいんだろう。魔王が信者でも。 だが、本堂に上がってみて、村田は改めてげんなりと肩を落とした。 『安産、子育てに霊験あり』を唱った由来の立て札。 その隣に、『新車のお祓い、受け付け致します』のはり紙。 どう繋がるんだろう、この二つは。 しみじみしていると、親友の明るい声が村田を呼んだ。 「村田っ、お護りも買ったぞ! これでばっちり大丈夫!」 ………村田がそっと有利の肩ごしに向こうを見ると、売店のおばさん(巫女さんじゃないところが、少々哀しい)が複雑な顔でこちらを見ている。 「……まあ、その内、必要になるかもね、そのお護り」 結婚すれば。その内。 きょとんとしている親友を促して、彼らは石段を降り始めた。 胸につかえていた悩みをわずかでも吐き出す事ができてすっきりしたのか、有利の機嫌はすこぶる良くなったようだ。 「……なあ村田。店についたらさ、ほら……」 言いながら最後の段を降りて、有利は何気なく、先日の雨で残ったらしい、あるかなきかの小さな水たまりに足を踏み込んだ。そして…。 「………え? ええっ!? あ、わ、村田っ」 「あ、来たね。よし」 手を繋いで寄り添うと、次の瞬間二人は一気に水たまりの中に引きずり込まれた。 いつもどおりのスターツアーズ。 何度繰り返しても慣れることのない、独特の浮遊感。そして、渦に無理矢理巻き込まれ、抵抗する術もないまま引きずられていくことへの本能的な恐怖。それらに耐えながら、二人は数瞬の旅の終りを待った。 だが。 ふいに。異様な違和感が村田を包んだ。眉を顰め、すぐ側にいるはずの親友を見遣る。 目を閉じ、渦の流れに身を任せるいつも通りの有利の姿。しかしその次の瞬間、あり得ない物が村田の視界に飛び込んできた。 ………………触手……? 実体があるような、ないような。蔓のような、帯のような、煙のような。不可思議な気配に満ちたものが、突如異空間に湧き上がったかと思うと、のたりと蠢いて有利の身体に巻き付いていく。 有利がハッと目を見開き、自分を取り巻く状況に戸惑うようにその瞳を揺らした。 『……渋谷っ!』 『村田っ! …こ、これ……っ!?』 瞬間。触手が鋼鉄のロープのように実体を持ったかと思うと、有利の身体を締め上げた。 『渋谷っ!!』 『………む、むら………』 魔術? いや、法術か……? 変だ、気配が掴めない。 焦りが村田を包む。 『……あ、ああっ……!!』 ぐいと。有利の身体が、村田とは別の方向に引きずられるように動いた。 思わず、腕を伸ばす。………だが突っ張る指は互いに触れあう事も出来ないまま、その距離を広げていった。 『渋谷!!』 小さくなるその姿。口が誰かを呼ぶように開く。ムラタ。そして…。 そして。 そして、村田の視界から有利が消えた瞬間、彼は眞王廟の中庭の噴水から飛び出した。 「……渋谷が! 攫われた!!」 「…………陛下、が……?」 行政諮問委員会の委員達が集まる部屋で、深刻な顔が並ぶ中、ミゲルが口を開いた。 「…誘拐……された……?」 その言葉に、グレイスが沈痛な面持ちのまま、小さく、だがはっきりと頷いた。 「こちらにお出でになる途中で、何者かの干渉があったのだと、猊下が……。猊下の目の前でどこかへ連れ去られたらしいの。でも…猊下にも、干渉してきた力が魔術なのか法術なのかも分からなかったのですって……。今、宰相閣下のお部屋で皆様が集まっておられるけれど……、一体誰が、どこへ陛下を拉致したのか見当もつかなくて、皆様苦しんでおられるわ。……動きようがないのですもの……。コンラート閣下が……」 途中で言葉を止めたグレイスに、ミゲルは表情を改めてその言葉を待った。 「……静かなの。……フォンビーレフェルト卿やフォンクライスト卿が声を荒げておられるのに、ウェラー卿だけが……怖いくらい静かなの。ただ拳を握ったまま、微動だになさらず、顔を皆様から背けて窓の外をみつめておいでになったわ。そのお姿が……誰よりも………爆発しそうな感情を、必死で耐えておられるのがはっきりと見えて……」 その場に居た全員が、悲痛な表情を浮かべて唇を噛んだ。 魔王陛下とウェラー卿が、どれほど互いを想っているかを。互いの存在がなければ、己の存在もまたないと断言できる程、二人がお互いを大切に想っていることを、彼らはそう長くない付き合いの中で知り尽している。 「……許せないわ! 一体、何の目的があって陛下を………!」 グラディアが会議テーブルに拳を打ちつける。 「魔族に対して敵対意識をもった人間の仕業だろうか?」 「そうとしか思えないだろう? 即位した直後ならまだしも、今国内に陛下を弑し奉ろうと考える者がいるとは思えないよ」 「…そうよね。……でも、干渉してきた力が、魔術なのか法術なのか、猊下にも分からなかったというのはどういうことなのかしら?」 「それは今考えても仕方のない事じゃないかな。…重要なのは、誰が、どこへ、という事だよ」 「敵対意識と言ったが……少し違うと思うな。もし魔族に敵意を持った者が、陛下のお命を縮めようとするならば、こんな面倒な事はしなくて良い。………とすると、目的はおのずから限られてくるんじゃないのか?」 確かに、と全員が頷いた。 選び抜かれた頭脳が、ゆるやかに回転を開始する。 「陛下のお命を奪おうというのではない。とすれば、必然的に陛下の御身を必要とする者達の仕業という事になる」 「無理矢理にでも陛下を引き寄せて、御身を自分達の管理下に置いた上で、おそらくは、そのお力を得ようとする者ってことね」 「しかし、陛下をそう簡単に言いなりにできると考えるものかな?」 「………陛下はお優しい方だからな。弱い立場の者の願いなら、例え敵対する人間であろうとも、あの方はできる限り叶えてやろうとなされるだろう」 「お優しいと言えばお優しい。だが、甘い。……あのお方がお持ちの中でも、最大の欠点だ」 「それを欠点にせず、長所に転換させていく事が、側近の方々や我々の仕事の一つでもあるんじゃないか?」 「確かにね。とすれば、その不届き者は実にうまくやったということになるわ。陛下をただお1人にして、我々から見事に引き離してしまったのだもの」 「……話がずれているわよ。元に戻して」 「確認するよ。陛下を拉致したものは、陛下のお身柄を確保して、自分達の思うようにそのお力を奮わせようとする者達、陛下を利用しようと企てる者達である。いいね? …………ならば、かなり具体的に相手を特定できるんじゃないか?」 「そうだ。…個人でできることじゃない。国家規模での企てだ。とすると、さらに絞ることができる」 「そう……できるよ。…今、切実に魔王陛下のお力を必要とする輩、国を洗い出し………」 ガタンッ、と。 いきなりの無骨な音が、勢い良く滑り出した一同の思考を遮った。 一斉に視線が集中する先に、立ち上がったミゲルがいた。 「………ミゲ?」 どこか呆然とした表情で。 ミゲルが宙を睨み付けていた。 「ミゲ……? どうしたの?」 「………………………分かった………!」 「……これがどちらかの世界で起きた事なら、必ず痕跡が残る。だが、次元の狭間でやられてしまうとね……」 珍しく苦渋を露にして、村田が唇を噛んだ。 宰相の執務室。 魔王の側近、ほぼ全員がその場に集まっていた。 「魔力でも法力でもなかったと……?」 宰相、フォンヴォルテール卿グウェンダルが低い声で確認する。その言葉に、村田は即座に首を左右に振った。 「いや……。むしろ魔力でもあり、法力でもある、という感じがした。両方の力が混じりあって更に強くなっているような、そんな感覚だったな。……一瞬の事だったけどね」 「まさか」フォンクライスト卿ギュンターが、即座に否定の声を上げた。「両者は相反する力です。合わされば相殺されて無力になる……。両者が混じりあって相乗効果を上げるなど……」 「あり得ないと言い切れるのか!?」 フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムが、いら立ちの混じった声を上げる。 「そんな方法を、誰かが見つけた可能性だってあるじゃないかっ。最初から可能性を捨てていては、正しい道を見失ってしまうかもしれんぞ!」 「だがその場合は」グウェンダルが弟の激昂を押さえるように口を開く。「魔王陛下の側近くに、裏切り者がいるということになる」 え? ヴォルフラムが虚を衝かれたように、ぽかんとした顔を兄に向けた。 「そう。裏切り者がいる」 村田が頷き、断言する。グウェンダル、そしてギュンターが、厳しい眼差しで大賢者を見つめた。 「僕達は待ち伏せされていたんだからね」 「待ち伏せ!?」 ひっくり返った声で、ヴォルフラムがその単語を繰り返す。誰かがコクリと喉を鳴らす音がした。 「次元と次元の狭間だよ? そこに通された道は、見る事も感じる事も出来ない亜空間通路だ。どこにでもあって、同時にどこにも存在しない道……。そこに正確に網を張って、通りかかった僕達、渋谷を捕まえたんだ。どれほどの術者であろうとも、何の情報もなくできることでは絶対にない。とすれば、分かるだろう……?」 村田の言葉を反芻するように、部屋の中で全ての動きと言葉が止まった。そんな中、だが、1人だけ行動を起こした人物がいた。 その人物は皆の会話を聞いているのかいないのか、それまで沈黙を守ったまま、ただずっと窓際に立ち尽くしていた。だが大賢者の言葉が終わるや否や、すいとその場所を離れ、やはり無言のまま部屋を横切っていく。 「……コンラート? どこへ行くのです?」 ギュンターの声にも、その人物、ウェラー卿コンラートの歩調は乱れない。 「待て! コンラート!」 「ウェラー卿!」 コンラートの足を止めたものは、兄ではなく、大賢者の声だった。 「ウェラー卿。どうするつもりだい?」 賢者の問いかけに、コンラートはそれすらも時間の無駄だと言いたげに小さく振り返った。わずかに見えるその端正な面は、蝋で塗り固めたように青白く強ばっている。 「………取り調べます……」 低く、平板な声。 「無駄だよ」 一瞬、コンラートの瞳に、危険な、どこか狂的な光が閃いて消えた。 「もう、逃走しているだろう」 「……確認します」 それだけ言うと、コンラートは前を向いて再び歩き出した。 「……か、確認って……どこへ……?」 戸惑いを隠せないヴォルフラムが、助けを求めるように王佐と兄に視線を送る。 その時。ふいにノックの音が部屋に響いた。ほとんど同時に扉が開かれる。 「失礼しますよ」 ぞんざいな言葉と共に入ってきたのはヨザックだ。その後ろに、グレイスとグラディア、そしてミゲルがいる。 その面子を一瞥すると、コンラートはそのままヨザックの横を通り過ぎようとした。話を聞く必要性はないと判断したのかもしれない。 「ヨザック、ウェラー卿を止めて。……眞王廟の巫女達が皆殺しにされてしまいそうだ」 「「眞王廟…っ!?」」 村田の言葉に、ヴォルフラムとギュンターが素頓狂な声を上げる。 だが次の瞬間、コンラートの行く手を遮ったのはその幼馴染みではなく、ミゲル・ラスタンフェルだった。 「………どけ」 向けられる瞳から放たれる圧力に、強ばった顔をさらに顰めて、それでもミゲルはコンラートを見返した。 「………陛下を……拉致した輩が判明いたしました………」 「判明したとはどういうことだ……!?」 思わず立ち上がったグウェンダルが声を荒げる。 「どこだ!? どこのどいつがユーリを勾引したっ!」 ヴォルフラムがミゲルに迫っていく。今にも胸ぐらに掴み掛かりそうなヴォルフラムから視線を外して、ミゲルはコンラート、そして宰相グウェンダルへと視線を移していった。 「……恐れ多くも陛下を拉致し奉ったのは………我が祖国、ベイルオルドーンの国王とその側近と考えられます……!」 カッと。コンラートの瞳が瞠かれた。 彼らが身を任せたのは、眞魔国が誇る高速艇でも、軍艦でもなく、一隻の商船だった。 ビーレフェルト領に籍を置く貿易商人ベイフォルト氏が所有する「嵐の中の奇跡」号だ。 船の持ち主であるベイフォルト・カルバン氏と、その息子で跡取りのオルディンが、今回他の乗り組み員を排し、二人きりで操船していた。今、船は目的地に向け、全速力で波を蹴立てている。 「……閣下」 舳先で船の進む先を睨み付けるように見つめるコンラートの後ろから、穏やかに掛かる声があった。 「お茶を用意しました。一服なされませんか?」 コンラートが振り返った先には、ベイフォルト氏とヨザックがいる。 「お前がそこで焦ってても、船はこれ以上速く進みはしないし、お前も海の上を走っていける訳じゃねーんだぜ?」 斜に構え、どこか皮肉気に言い放つ幼馴染みに、コンラートは詰めていた息をほうっと吐き出した。肩からすっと力が抜ける。 「……そうだな。……お前の言う通りだ」 自嘲の笑みを浮かべ、コンラートは立ち尽くしていた場所からようやく身体を引き剥がした。 今、船には、ベイフォルト親子の他、コンラート、ヨザック、ヴォルフラム、ユーリの親衛隊長を勤めるハインツホッファー・クラリス、そしてミゲルがいる。 「正式の使者を送る事はできない」 宰相フォンヴォルテール卿がそう言った。当然だと、全員が頷いた。 証拠がない。 他国の王を誘拐したと、一国の政府が認めるはずがない。 そして何より、魔王が誘拐されたなどという話を公にする訳にはいかない。 「潜入工作となる。コンラート」 人選を任せる。グウェンダルの言葉に、コンラートが頷いた。 「僕も行く! 行きます!」 叫んだのは、これも当然ながらヴォルフラムだ。 「フォンビーレフェルト卿、君は止めておいた方がいい」 村田の言葉に、ヴォルフラムがキッと眦を上げた。 「なぜだっ!?」 「かの国は法力に満ちております。純血魔族の閣下には……」 ミゲルの言葉に、だがヴォルフラムは怯まなかった。 「気合いと根性で乗り切ってみせる! それに、元大シマロンの土地にいた時も何ともなかったぞ!」 「法術師がいなかったんだ。当たり前だろう」コンラートが呆れたように言葉を吐き出す。「ダード師は早くから法術の限界を感じていて、反乱が起きてからは一切、大地を法力で縛る事をしていないのだから」 「逆にベイルオルドーンは、長らく魔族を嫌悪しておりましたし、神官も法術師も多く集まっています。伝統的に国家鎮護を法術に頼ってもきました。今もその力は国土を覆っていると考えられます」 「……そんな国がどうして我が国と友好条約を……? それに陛下を……」 「背に腹は代えられない。……とはいえ、自己矛盾を起こしている事に気づかないとしたら、その国はもう末期だな」 グウェンダルの言葉に、しん、と沈黙が降りる。だがその雰囲気を払う様に、バンとヴォルフラムがテーブルを叩いた。 「とにかく! 僕も行く!」 「ついて来れなかったら捨てていくぞ」 ひゅっと、ヴォルフラムの息が鳴った。冷徹な言葉を放ったコンラートは、無表情のまま、頬を引きつらせる弟を見ている。 「………………構わん。その時には僕を切り捨てろ」 その言葉に、コンラートが「ああ、そうする」と頷いた。 「僕も行こうと言いたいんだが……」 村田の苦笑を含んだ言葉に、コンラートが冷たい視線を送った。 「護る対象を増やしたくありません。力を分散はもっての他と考えます。猊下はお留まり下さい」 「だね」 軽く降参のポーズを取る村田。 護る相手はユーリただ1人。他の者は全てユーリを救い、護るための戦力。いざという時の捨て駒。 コンラートはそう考えている。それが分かっていて、しかし誰も非難の声を上げられないのは、コンラートが彼自身をも捨て駒と見なしている事が、これもまた明確に分かっているからだ。 例え魔王の婚約者となろうとも、彼はユーリのためなら一瞬の躊躇もなく己の命を捨てるだろう。 「では……行動を開始しよう」 グウェンダルが、魔王救出作戦の開始を宣言した。 「ウォルワース達が、すでにベイルオルドーンに入っているはずです」 ミゲルの名付け親にして、保護者のウォルワースは、ミゲルが眞魔国に渡って以来グウェンダルの下で働いている。今は諸国を巡って様々な情報を集めている所だ。紛れもない人間であるため、魔族の諜報部員とはまた違った活動ができる。 「我々がベイルオルドーンに入るまでには、かなりの情報が得られているものと考えられます。ウォルワースは人望の篤い男ですので……」 人間的な器も大きくて腕も立つウォルワースがいなければ、ミゲルはここまで生き延びてこられなかった。 「あちらに入ったらなるべく早く合流したい。連絡は緊密に取っておけ」 コンラートの言葉に、ミゲルが頷く。 「ベイルオルドーンについて、あなた方は何か聞き及んでおられませんか?」 コンラートに話を振られ、ベイフォルト氏がお茶のカップを下ろした。 個人貿易業者は、小さな規模の商いだからこそ、大商人や諜報部員が入って行けない情報の網の目をも潜っていける。 「……間もなく地図から消えるだろうとの専らの噂ですな。いや、もう噂にすらならなくなっています。元々、商売の魅力に乏しい国でしたし。……昔は北の大国と呼ばれた時代もあったようですが」 「今じゃ見る影もなく、仰々しい名前だけが残った、と」 「国土を切り売りして、名前だけを護ったという者もいますな」 ヨザックの軽口に、ベイフォルト氏が真面目に反応する。 「北方にあるという事が、さて不運なのか幸運だったのか……。人間の世界の荒廃は、北から徐々に始まっております。ベイルオルドーンの砂漠化は、もう止めようがない程ひどくなっている模様です。ですがそれ故にこそ、かの国は大シマロンの侵略から免れました」 「なるほどな。それで、ついに法術に見切りをつけて、ユーリの魔力に頼ったという訳か」 「さんざん催促されておりました……」 ミゲルがため息をつくように言った。 「一刻も早く陛下を国に、と。なぜ魔王陛下は我が国を救いに来てくれないのかと……」 「勝手な事を。国土が荒れたのは、我々とは何の関係もない! ユーリに、人間を救う義務などないんだぞっ!」 激昂するヴォルフラムに、ミゲルも苦しげに頷いた。 「その事はもう何度も…! しかし彼らとの話は常に平行線で。でも、だからといって……まさかこんな真似をするなんて……!」 「ミゲル」 項垂れるミゲルに、コンラートの声が被さる。 「一つ、言っておく事がある」 「……は、はい」 コンラートの固い眼差しに、ミゲルは思わず姿勢を正した。 「俺は怒っている」 異様なまでに静かな声に、誰かがごくりと息を飲む。 返事をする事も出来ずに、ミゲルはぎくしゃくと頷いた。 「俺は、陛下を拉致した者を許さない」 いつの間にか、テーブルにつく全員がカップを下ろし、背筋を伸ばしていた。 「それがお前の親だろうが兄弟だろうが、俺には何の関係もない。そして、お前の国の事情がどうあろうと、それも一切関係ない」 コンラートだけが、手にしたままのお茶のカップを傾ける。 「全員。殺す」 ミゲルは唇を戦慄かせるだけで、もはや何の言葉も発する事ができずにいる。 「お前の覚悟を促すつもりはない。恨むなと言うつもりもない。……お前がどう感じようと、それもどうでもいいことだ。ただ」 伝えておく。 それだけ言って、コンラートはまたお茶を口に含んだ。 ミゲルと同じく言葉をなくした一同の中で、ヨザックは幼馴染みの精神状態をほぼ正確に読み取っていた。 心配とか、焦りとか、恐怖とか、今ユーリを思う全ての感情が、コンラートが内に抱える『怒り』という名の、劫火に炙られる坩堝の中に溶かし込まれ、混ぜ合わされ、すでにぐらぐらと煮え滾っているのだ。 ………こーりゃ、ちょっと突ついたら一気に爆発しちまうわ。 どうしたもんだろ、とヨザックは内心で首を傾げた。 目的地までの道のりは遠い。船を降りても、それから元大シマロン、今新連邦の国内を縦断して北を目指さなければならないのだ。今からこんな状態では、コンラートはとんでもない暴走をしかねない。 冷静に見せ掛ける事もうまいし、冷静に振る舞ってみせる事もうまい。そうせざるを得なかった歴史が、彼に、いや彼らにある。 だが本来コンラートは直情径行の突進型だ。 ……坊っちゃんの側にいる時は、ことさら「大人」でいるけれど……。 そのユーリがこんなことになった以上、「冷静な大人」という箍はちょっとの刺激で脆くも砕け散るだろう。………ガス抜きが必要だ。 さて。 それと分からない程かすかに、ヨザックが頷いた。 「なあ、隊長?」 オルディンが2杯目のお茶を皆のカップに注ぎ終わるのを合図に、ヨザックがコンラートに声を掛けた。 返事をせず、ただ目線だけを向けるコンラート。 「俺が王都に戻って以来、ここんトコずっと気になってることがあってな。………あんた、何か悩みごとでもあるのか?」 訝しげに、コンラートが眉を寄せる。 「……何だと?」 「いや、婚約もして幸せ一杯なのかと思ったら、妙に様子がおかしいような気がしてね。………最初は、陛下がおいでにならないから寂しいのかと思ってたんだが……」 「あ、それは僕も感じていたぞ」 ヴォルフラムが乗ってくる。 「婚約を正式に発表してすぐ、ユーリがあちらに行ってしまったから、そのせいだろうと思っていたが……。 確かにずっと浮かない顔をしていたな。………何かあったのか?」 ふう、とコンラートがため息をつく。 「今、この状況で、何を下らない事を。そんな話は陛下を無事に救出してから……」 「今だからするんじゃないか。船が港に着くまでまだまだ時間は掛かるし、情報は集められている真っ最中だし、取りあえず今の俺達にできる事はなにもない。胸に何を抱えてるのかしらんが、この場ですっきり吐き出しちまえよ。じゃねーと、もやもやした気分のまま坊っちゃんと再会ってことになるぜ?」 「ヨザックの言う通りだ」 かなり強引な話の持っていきようにも関わらず、ヴォルフラムが即座に賛同する。 「ユーリに関係のある事なのか? ………あ、まさか!」 ヴォルフラムが何を思いついたのか、コンラートに向かって身を乗り出した。 「まさかっ、ユーリとの結婚がいやになったと言うんじゃあるまいな!?」 そんな我がままは許さんぞ! 怒鳴り付けるヴォルフラムに、ヨザックが意外そうな目を向けた。 「あれ? 閣下、陛下と隊長の結婚がダメになるのは、閣下にとって喜ばしい事じゃないんですか?」 「バカにする気か、ヨザック! ユーリはな、コンラートを、その、あ、あ、あ〜……愛していると! 僕にはっきり宣言したんだ。コンラートと二人で幸せになりたいとな! その気持を踏みにじる事ができるかっ!? そりゃ、踏みにじってうまくいくものなら、にじってにじって跡形もなくなるくら………いや、そうじゃなく。……ユーリは本当にコンラートを…想っているんだ。だから、もしダメになったりしたら……ユーリが、泣くだろう……? 僕は…」 誰よりも、僕よりも、ユーリに幸せになってもらいたいんだ。 「そのためなら、僕は潔く身を引く。……それが、僕のユーリへの愛情の形……だ」 そう決めたんだ。 頬を赤らめて、照れ隠しのように顔を顰めて、ヴォルフラムはそう言い切った。 「………ヴォルフ……」 コンラートが、こちらはどこか泣きそうに顔を歪めて弟を見つめている。男前だわ、閣下〜、という誰かのうっとりした声も上がった。 「…そっ、そもそも…!」 ちら、と兄の表情を確認して、さらに顔を朱に染めると、殊更怒ったようにヴォルフラムは声を荒げた。 「あんな決闘までしたのに、今さらなかった事になどさせないからな……っ!!」 あんな決闘? →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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