宴の前の嵐・17 |
朝ののどかな光の中を、荷馬車がのんびりと街道を行く。 「………こんなのろのろとしていたら、いつまで経っても国境に行き着かんぞ」 ヴォルフラムが荷台の荷物に背を預けて、何度目かの文句を口にする。 「まだ完全に混乱が治まっていない状況で、こんな人数を乗せた馬車が全力疾走してたら、それこそ怪んでくれと自己申告するようなものだろうが」 「カインがくれた通行証があるだろう」 「出くわすのがカイン側の兵士とは限らない。身元を詮索されるのはできるだけ避けたいからな。ユーリやベルティアは変装しているからいいが、お前の容姿は人間と主張するには整い過ぎている。まして農夫だなんてな……」 「……つまり、僕もユーリのように変装すればよかったと?」 「似合っていただろうな」 ふんっ、と、ヴォルフラムがそっぽを向く。 兄弟の、仲が良いんだか悪いんだか良く分からない会話を聞きながら、ユーリは不思議な気分で天を仰いだ。春の空は、確かに青いのにどこか煙って見える。 お尻の下にはふかふかのクッション。背にはコンラッド。以前馬車に乗った時は、恰好は同じなものの、それは紛れもない逃避行だった。今は違う。側にいるのがウォルワースとカスミだけだった時も、すごく安心していたはずなのに、今の安心感はあの時より遥かに深くて強い。 背にはコンラッド。 気持良くて、うとうとしてきた。 きっとすぐに会えるから。 そう言って、大げさな別れはしてこなかった。 じゃあね、と、明日も会える友人と別れるように、軽く手を振って笑顔で別れてきた。 ベイルオルドーンで知り合い、今ではもう、大切な友達だと胸を張って言えるあの人達。 色んなことがありすぎて。胸を掻きむしりたくなるような、強い思いがありすぎて。 大げさにされたら、泣き出してしまいそうだったから。 いつまでもいつまでも、手を振り続けてくれた人達の姿が、今も青空に浮かんで消えない。 「しっかしのどかだねー。まあ、王都よりも周辺の地域の方が大変なのかもしれないけど」 手綱を握るヨザックが前を向いたまま声を上げる。 「緑も結構豊かだし、風も気持良いし。これが滅びに向かって一直線の国土とは思えねーな」 「王都は法術の加護が強いらしいですしね。しかし北から確実に砂漠化が進んでいるというから、危機感は相当なものでしょう」 側に座っているクラリスが応えている。 のどかに見えるけど、王都の空気も確実に変わってきてるって、ウォルワースが言ってたよー。 そう発したつもりのユーリの口は、実際には小さく動いただけだった。 「………ユーリ、眠いの?」 凭れた頭の不自然な揺れに気づいて、コンラートがそっと囁く。 んー、と頼り無げな、言葉にならない声で答えるユーリに、コンラートが柔らかく微笑む。そしてそうっとユーリの小さな頭を両手で支えた。 ………膝枕……してくれる、のかな……? 態勢を変えられる感覚に、朦朧とし始めた意識の中、ユーリは思った。 だが。その時。 どどどどどっ、という、膨大な数の馬蹄の響きが、進行方向から近づいてくるのが感じられた。 「馬車を脇に…あの、木立の中に入れ!」 コンラートの叫びに、ユーリも一瞬で飛び起きる。 ヨザックが手綱を力強く振り、ほんの少し進んだ所にある、まばらな木立の中に荷馬車を滑り込ませた。そして全員が急いで荷台から飛び下りる。 その間も、全速力で駆けているらしいその響きは、地響きとなって確実に彼らの元に近づいてくる。 「……っ、ユーリッ! 危ないですから、そこから離れて……っ!」 やってくる一団─集団というより、騎馬軍団─を見ようというのか、街道のすぐ側まで出ていくユーリに気づいて、コンラートが声を上げる。そのコンラートより早く、カスミとベルティアがユーリの傍らに駆け寄り、並んだ。 馬蹄の響きは、もうすぐそこまで来ている。地響きは足元を揺らすどころか、頭の中で反響する程に激しい。 「お前達まで一緒になって……! さあユー………」 ユーリの肩に手を置き、ふとやってくる軍団の方向に視線を向けたコンラートは、次の瞬間ハッと目を瞠き、そして。 慌てて顔を背けたかと思うと、手近が木立の影に飛び込んだ。 何事かと側に駆け寄ってきていた仲間達も、わずかの間を置いて、木や荷馬車の影に急いで身を隠す。 「………あれは……」 騎馬軍団はもう間もなくユーリ達の前を、ものすごい勢いで通り過ぎようとしている。 その先頭に、全ての馬の中でも一馬身飛び出た位置で、鞭を懸命に振るいながら馬を操る偉丈夫がいる。 長く伸ばした金髪を激しく風になびかせ、豪華な甲冑で身を固めた男だ。 ひーめー! たーだーいーまーまーいーりーまーすーぞーーーっ!! 何だか叫びが聞こえたような気がする。 だが、馬蹄の響きがスゴイから、きっと幻聴だろう。 騎馬軍団は、路傍で佇む「田舎の村の純朴な三姉妹」なぞには目もくれず、一目散につっ走って……通り過ぎていった。 「………………コンラッド…?」 「はい、ユーリ」 気づかれない内に姿を消し、また気づかれない内にさっさとユーリの背後に戻ったコンラートが、何事もなかったかのように微笑む。 「今の……おっさんじゃ、なかった……?」 「そう言われれば、そんな気も……しますね?」 白々しさなど微塵も感じさせない爽やかな笑顔だ。だが彼らの背後にいる一同は、どれもうさん臭さを隠さない顔でじとっと会話する二人を見つめている。 「そうだ、コンラッド!」 ユーリがすごい発見をしたという満面の笑顔で、コンラートを振り返った。 「どうしました、ユーリ?」 「ほらっ。カインが言ってたじゃん? 新連邦軍がすっごく強くて、あっという間に反対勢力を制圧しちゃったって! あれ、指揮してたのおっさんじゃないかな!?」 「ああ!」 わくわくと期待に満ちたユーリの笑顔に、これ以上ないといった優しい笑みを返して、コンラートが頷く。 「きっとユーリの言う通りですよ!」 「だろっ!?」 コンラートに認めて貰えて、ユーリはこの上なく嬉しそうだ。そしてそんなユーリを見つめるコンラートもまた、表面上は幸せそうだ。だがコンラートのその笑顔が、ふと引き締まった。 「……………会いに行きますか?」 「……え?」 「いえ。彼らはおそらく王宮に向かうのではないかと。今ならまだ引き返せますし。……もしユーリがクォード殿にお会いになりたいなら……」 コンラートの言葉に、んー、と視線を宙に向けたユーリは、だがすぐに頭を左右に振った。 「いいよ、別に。おっさんだって忙しいだろうし。おれの事はカーラさん達が伝えてくれるだろうし。おれはカーラさんやアリ−達と会えたから満足だし」 「そうですか? ……そうですね、クォード殿も残念がるだろうとは思いますが、彼も一国を支える立派な武人ですし。おそらく今は新しい国を手助けする事で頭がいっぱいでしょう」 「うん、だよな。邪魔しちゃ悪いし。……アリ−に聞いたんだけど、おっさんも軍を指揮したら、結構すごいんだってな。コンラッドには負けるけど」 「そうなんですよ。中々使い勝手がいい人物ですので、きっとこの後もカインの役に立ってくれるでしょうね」 「……つかいがって……?」 「とても有能だという意味ですよ」 「ああ、そっか! カインもいい味方ができてよかったねっ」 「ええ、本当に」 「…………うわー、白々しー、っていうか、お腹の中が黒々ーっ」 「そうか……分かっていたつもりだったが……僕の兄はああいう男だった訳だな……そうか……」 「魔族人生、幾つになっても新発見ですね。閣下、おめでとうございます」 「…………あのー、申し訳ありませんが、どの辺がおめでたいのか教えて頂けないでしょうか……?」 周囲の複雑な表情など意にも介さず、ユーリとコンラートはにこにこにこにこと見つめ合っていた。 「………それにさー、コンラッド」 「何ですか?」 「おれさ、後戻りも道草もしたくないんだ。だって………おれ、早く眞魔国に帰りたい!」 ユーリのその言葉に、全員の視線が自分達の主に集中する。 「おれもう、眞魔国欠乏症になりそうだよ。早くおれの国に帰りたい。眞魔国の空気が吸いたい。国の料理が食べたい。でもって、何よりも、眞魔国の皆に早く会いたい」 そう言って、ユーリはコンラートを、そして仲間である全員をぐるっと見渡してから、思い切り背伸びをするように、腕を高く天に伸ばした。 「皆で帰ろう! 一分でも一秒でも早く眞魔国へ。帰ろうよ!」 夕陽の照らされた波飛沫が、黄金色に弾けて目の前を飛び過ぎる。 西の水平線にゆったりと近づきつつある朱金の太陽と、青と朱、そして紫、やがて黒へと至る壮大なグラデーションを、ユーリはいつしか船の手摺から身を乗り出して眺めていた。 「ユーリ、危ないですよ?」 声にハッと気がついて、引き寄せられるまま傍らのコンラートに身を寄せる。 ベイルオルドーンと新連邦の国境を越え、駐留部隊から通行証を得た彼らは、後はひたすら南下を続けた。 途中、たっぷりと商談をまとめてきたらしいベイフォルト親子と合流した後、一行は船を係留してある港に向けて突っ走った。 そして今、ようやく彼らは、ベイフォルト氏が所有する商船「嵐の夜の奇跡」号に乗り込み、最初の夜を間もなく迎えようとしているのだった。後はもう、船が眞魔国の港に到着する日を待つばかりである。 「………この海を……」 「…え?」 「この海を、必ずユーリと一緒に眺めよう。……ベイルオルドーンに向かうこの船の上で、そう心に誓っていたのを今思い出してしまいました」 照れくさそうにコンラートが微笑む。 「……コンラッドは、ちゃんと誓いを守ってくれたよね」 「ええ……それができて、本当によかったです。…………あの。……ユーリ…?」 「ん? なに?」 コンラートに凭れて夕陽を眺めていたユーリが、視線をコンラートに向け、ちょっとだけ首を傾げた。。 ……気のせいか、コンラートの頬がほんのりと赤らんでいるような気がする。……きっと夕陽のせいだろう。 「………コンラッド?」 「え、ええ、あの………その、この船で、心に誓ったことが、もう一つあって………」 「そうなの? なに? ていうか、おれが聞いてもいいコトなのかな?」 「ええ、もちろん! その……ユーリに聞いてもらわないと、話にならないというか………」 そうなんだ、と納得すると、ユーリはコンラートから身体を離して、改めて彼に向き合った。 「何? コンラッド」 「……え……あ……いや……」 ユーリにすれば不可解な程ためらいを見せた後、コンラートはようやく決意を固めたかのように深く呼吸すると、どこか緊張した顔でユーリに向き直った。 「………ユーリ、あの……」 「うん」 「………俺と……結婚、して下さい……!」 決死の覚悟の言葉を聞いて、ユーリはしばし、大きな瞳を口をぽかんと開いていた。 それから、急に切なそうに眉を顰めると、哀しげに俯いた。 「……………ごめんね、コンラッド………」 「……ごめんって………え……ええっ!? あっ、あのっ、ユーリ……ッ!!?」 一瞬で血の気の引いたコンラートが、呆然とした後、身も世も無く慌てふためく。 俯いたままのユーリは、そんなコンラートの様子にも気づかず、深くて重いため息をついた。 「………ホントにごめんね、コンラッド……。おれが地球にこんなに長く飛ばされたりするから……」 「だからごめんって………え……? ……ちきゅう……?」 うん、とユーリが頷く。 「……コンラッドも、早く結婚式したいって思ってるんだろ? 前にグウェンが言ってたんだ。おれがずっと眞魔国にいて、全部の儀式とか済ませて、それでやっと1年先だって……。なのにさ、おれ、地球に帰っちゃったりするもんな……。そしたらその分、結婚式も先延ばしになるんだよな……。ホントにごめん。でも……」 顔を上げると、ユーリはコンラートの胸に縋るように抱きついた。 「……もうちょっとだけ…待ってて、下さい……」 そう言って胸に頬をすり寄せるユーリを、コンラートは密かな安堵のため息と共に見下ろした。そして、ようやく心を落ち着かせると、右手でユーリを抱き締めた。 「……突然変なことを言って申し訳ありません。……ええ、もちろん、俺はいつまでもその時が来るのを待っていますよ…」 ありがと。コンラートの胸の中で、小さくくぐもった声がした。コンラートに、ようやく微笑みが戻る。しかし。 「…………これって、おれの覚悟の問題だと思うんだ……」 「覚悟?」 ユーリの思いがけない言葉に、コンラートが目を瞠る。 「そう……。おれがこんな風にあっちとこっちを行き来するのは………今さらこんなコトいうの、すげー恥ずかしいことなんだけど……おれの魔王としての覚悟がちゃんと決まってないからだと思うんだ。コンラッドとのことも……こっちにいる時は、すぐにでも結婚したいって思うのに、あっちに、地球にいて、渋谷有利でいると………ごめん……こちらが何だか遠く思えて、その、まだこのままでいたいな、とか思ったりして………だからおれは、あっちとこっちをこんなに不安定に行き来するんじゃないかな…とか……」 「……ユーリ……」 「…こんなあやふやな気持でコンラッドを好きだっていうの……コンラッドの、その……お嫁さん……になりたい……って思うの………ダメ……?」 「ユーリ」 耳元で囁くと、コンラートはユーリを抱く右手に力を込めた。 「………それは当たり前の事ですよ、ユーリ。……ユーリはまだまだ若くて、そして、まだまだ家族が必要なんです。父上や母上や……。覚悟なんてね、ユーリ、そんなに簡単に決められるものではないんですよ。悩んで、迷って、それが当然なんです。だから……俺はいつまでも待ちますよ。それに」 コンラートは、ちょっと悪戯っぽい顔でユーリを覗き込んだ。 「勝馬達に俺達の事、まだ話していないんでしょう?」 う、とユーリが詰まる。 ぽん、とコンラートの手がユーリの頭の上で軽く跳ねる。 「……だから、いつか………ゆっくりでいいですから、いつか、その時がきたら……俺と結婚して下さい。ね?」 「おうっ!」 色気のない返事に苦笑しながら、コンラートがユーリの額に軽くキスをする。 それを受けたユーリもまた、くっと背伸びして、屈んだコンラートの頬にキスをする。 そうして二人、笑みを交わしあい、それからゆっくりと唇を合わせた。 ぽってりと大きな太陽は、もう半分近くが水平線の奥へと沈んだ。天頂は次第に闇色が広がりを増していく。 「…………ねえ、コンラッド?」 「何ですか?」 「さっきから気になってたんだけど………そっちの手に持ってるの、それ、何?」 ユーリの指が、コンラートが左手に抱える小さな包みに向けられた。 「あ………コレ、ですか…?」 持っている事に今気づいたという表情で、コンラートがその包みを掲げる。 「これは、その、上陸前にベイフォルト氏に預けておいた物なんです。先程返してもらって、そのまま……」 「預けておいた……コンラッドの持ち物?」 「ええ、その…………」 笑いませんか? ちょっと照れくさそうに苦笑して、コンラートがユーリにお伺いをたてる。 「笑う、って、どうして? おれが笑うようなもの?」 照れくさそうな笑顔のまま、コンラートは答えの代わりに、ユーリの目の前で包みを解いた。 「……………これ……」 姿を現したソレと、しっかり目が合ってしまった。 コンラートの掌の上に立つソレは、両手に日の丸の扇子を高々と上げた、黒髪黒瞳黒い学生服の……。 「アニシナさんがつくった魔動応援人形ガンバリタイゾ−君、おれバージョン!」 思わずコンラート手から人形を受け取って、正式名称を唱えてしまう。 「…です。……側にユーリがいないので、寂しくて………持ってきてしまいました」 その言葉に、ユーリが目を瞠いた。 「……コンラッドが…? おれがいなくて寂しいから……おれの代わりに……?」 「はい。腕に抱いて、一緒に夕陽を眺めたりして…………あらためて想像してみると、ちょっと恥ずかしい姿ですね」 「そんなコトないよっ!」ユーリがぶんぶんと首を振る。「…おれとずっと一緒にいたいって思ってくれてたんだろ? だったら……すごく嬉しい……」 「ユーリ」 残照を受けて朱色に染まる頬が、更に赤みを増す様子に、コンラートの笑みが深くなる。 「でっ、でもさっ」 照れ隠しなのか、ぷいと横を向いてユーリが殊更大きな声を上げた。人形はユーリの腕の中に抱き込まれている。 「もうおれがいるんだから、これはいらないよなっ!?」 え? と一瞬目を瞬いたコンラートだったが、すぐに察して破顔した。 「ええ、そうですね。ユーリがこうしていてくれるから、もう人形なんて必要ありません」 コンラートを見上げてにこっと笑ったユーリは、今度は人形を目の前に掲げる。 「おれの代わりにコンラッドの側にいてくれたんだな? ありがと。…………あのな、コンラッド」 「はい、ユーリ」 「あのさ、おれもさ、持ってるんだ。………ガンバリタイゾ−君、獅子バージョン」 ユーリの言葉に一瞬きょとんとするコンラート。 「獅子………それ、俺の人形ですか?」 うん、とユーリが頷く。 「コンラッドがいない時にね、アニシナさんから貰っておいたんだ。……おれも、人形でもいいからコンラッドに側に居て欲しくて……。あのな、右手に小さな剣を持って、左手にグローブがはまってるんだ。で、両手を振りながら、こう、小首を左右に傾げるって感じで、『だいじょーぶですよ。がんばりましょーね』って繰り返すの」 しばし視線を宙に向けて想像していたらしいコンラートが、ぷっと吹き出す。 「それは…また……微妙な……」 「けど、結構雰囲気とらえてていい感じなんだぜ? おれはお気に入り。……あのさー、このおれバージョン、コンラッドの人形と並べておいてもいい?」 可愛いお願いに、コンラートが大きく頷く。 「もちろん構いませんよ」 「よかった。……そしたらさ、人形達も二人でいられて寂しくないよな……? その、今のおれ達みたいに……」 「ええ、ユーリ。そうですね」 一日の最後の光に照らし出されて、二人は二人でいられる事の歓びと幸せにゆったりと浸っていた。 「…………………………ああいうのを地球では『バカップル』と呼ぶんだと、猊下が仰っておられましたよ」 「バカッブルか……。意味は分からんが、ものすごくぴったりという気がするぞ」 ヨザックの言葉に、ヴォルフラムがやれやれと肩を竦めて首を振る。 デッキの物陰で、じっくりとっくり見物していた一団は、はあーっと大きく息を吐き出した。 「……まあ隊長も、『陛下に求婚する』という障害を乗り越えたようですし、褒めて差し上げてもよろしいのでは?」 「求婚された方が、全然自覚してなくてもか? それにしても、あんな人形をコンラートが持っていたと知って、呆れるどころか喜ぶというのは……ユーリは一体どういう精神構造をしてるんだ?」 「……だからバカップル」 うんうん、と全員が頷く。 「色々語り明かそうと、良い酒を何本も仕入れてきたのですが……無駄になりそうですなあ」 ベイフォルト父が、少し残念そうに呟いた。ユーリが宴会に参加するとは思えないし、コンラートもユーリを1人おいて、自分だけ酒盛りに加わる事はないだろう。だが。 「無駄にはならんぞ」 ヴォルフラムがきっぱりとそれを否定する。 「僕達で飲めばいいんだ」 「そうですよねー、閣下。あんなバカップルはほっといて、俺達皆で語り明かしましょうよ。肴にするネタはたっぷりあるんだし!」 「私も参加させて下さい!」 ミゲルがいそいそと手を上げた。隣でクラリスが「もちろん、私も」と胸を張る。 「あのー」 少し離れた所から、おずおずとした声が上がった。皆の視線が声のした方向に集まる。 「……あれ、ベルちゃん」 見習い巫女のベルティアが、軽装に着替えて立っている。 「私も……参加してよろしいでしょうか……?」 「……構わんが……巫女が酒を飲んでもいいのか?」 ヴォルフラムの問いかけに、ベルティアが小さく頷く。 「…………その……私も、帰国を前に、イロイロと……吹っ切りたいものがございまして……」 「いいじゃないデスか!」 ヨザックが声を上げた。 「皆一緒に飲んで語って騒ぎましょうよ! そうだ、オルディンも、それからカスミちゃんも呼んできましょう。皆でどこかのバカップルをこき下ろしながら飲む酒は、きっと相当旨いですよ!」 そうして平穏な船旅が続き、ついに船は眞魔国の港へと到着した。 「コンラッド! ほらっ、グウェンもギュンターも村田も………あーっ、ツェリ様とグレタもいる!」 手摺から身を乗り出してはしゃぐユーリを支えながら、コンラートは苦笑した。 宰相と王佐までが王の迎えに出てきたのなら、では、今城は一体だれが預かっているのだろう? ぶんぶんと両手を振るユーリに答える馴染んだ声が、次第に大きく聞こえるようになってきた。 ヴォルフラムを始め、仲間達も一緒になって賑やかに手を振る間に、船はいよいよ港に接岸した。 「行くぞ!」 「あ、待って下さい、ユーリ! まだ……」 商船は軍船とは比べられないとはいえ、本来積み荷も乗員も多いしかなりの大型船だ。接岸したからといって、デッキから岸壁に飛び下りたりなどさせられない。 駆け寄ったデッキの中央部分からは、鉄製の階段が岸壁に下ろされ、ちょうど固定の作業が行われているところだった。 「もういいだろ? 下りるよ!」 「あっ、陛下、まだ下の部分の固定が……」 「ユーリ、ちょっと待って……!」 「こらっ、慌てるな、ユーリ!」 だが、駆け寄ってくる懐かしい人々の姿に夢中になっていたユーリに、その制止の声は届かなかった。頑強とは言い難い階段を、手摺に捕まりながらも軽やかに元気一杯に駆け下りていく。 そしてもう間もなく眞魔国の大地に、という所で、固定されていなかった階段がずるりと岸壁から外れた。 その瞬間、ガクンッと階段が跳ね、その衝撃で身体が手摺にぶつかり、そして。 手摺を乗り越えて、ユーリの身体は海へと傾いた。 「ユーリっ!」 「陛下っ!!」 海に落ちる。そう確信して目を瞠いた人々の視界に、そして今にも落ちようとするユーリの瞳に、海が突如異様に渦を巻き、そして青白く燐光のような輝きに満ちるのが映った。 「……う、うそ……まさか……」 いやだ。まだ。瞬間的に、拒絶の思いが胸を占める。 必死で手摺に捕まろうと腕を伸ばす。しかし、焦った指は鉄の細い部品を掴み切ることができなかった。 後は引力に従って、落ちていくだけ。 「渋谷!」 親友の声。 そして。 「…………………おれ、今回誘拐されただけですかー」 「そうだねえ」 「…………………おれ、今回眞魔国に一歩も上陸できなかったんですけどー」 「全くだねえ」 丘の上の神社へと続く石段に。 男子高校生が二人。仲良く並んで腰を下ろしている。 はああああぁぁーーーっ。と、体内の空気を全て押し出すようなため息をつくと、渋谷有利は両膝の間にがっくりと顔を埋めた。 「……なー、村田−。……おれってば眞王に嫌われてるー?」 「うーん、何と答えていいのやら……」 「………皆に心配かけてさ……。謝ることも、久し振りに話すことも、何にもできなかった……」 ぽんぽんと、回した手で親友の肩を軽く叩いてやるが、さすがの村田も慰めの言葉が出てこない。 何となく脱力した気分で、二人は石段に座り続けていた。 だが、そこへ。 「あらっ、いたいた、まだそこに居てくれたのね。……ちょっと、そこのボク達!」 ボクタチ? 座ったまま二人が振り返ると、エプロン姿の年輩の女性が石段をえっちらおっちら駆け下りてくるのが見えた。 間違いなく有利と村田に向かってきていると見て、二人は同時に立ち上がった。 女性は、二人の前で足を止めると、笑顔をまっすぐ有利に向けた。 「ほら、さっき神社の御守り買ってってくれたでしょ? あたしったらおつりを間違えちゃって。神様のものだし、間違えたままにしといちゃいけないと思って追っかけてきたのよ。居てくれてよかったわあ。……はい、これ」 「……おまもり……」 きょとんとするユーリの手をさっさと掴むと、開かせた掌に女性は十円玉を幾つか乗せた。 「ウチの神社、半端な値段の御守が幾つかあって間違いやすいのよね。分かりやすくしてって宮司さんにもお願いしてるんだけど。……はい、確かに渡したわよ。お姉さんか誰かに上げるんでしょ? お護りを贈るなんて、あんた良い子だよね。ウチのお護りは効くのよお。可愛くて元気な赤ちゃんが生まれるように、祈っといてあげるわね。じゃあね」 言うだけ言うと、女性はくるりと振り返り、石段を登っていった。 「………………おまもり……」 ああっ、と声を上げると、ユーリは空いていた手で学生服をばたばたと叩きだした。 「……あっ、あった!」 上着のポケットの中から、小さなお護りをつまみ出す。 「へえ、結構色んな目にあってるはずなのに、ちゃんと落ちずにそこにあったんだ。縁があるのかもね、その安産のお護り」 「全くだよな〜〜………って……あんざん……?」 「そう。さっきのおばさんも言ってただろ? 元気な赤ちゃんが生まれるようにって。ここの神社、子授けと安産の神社だよ」 しばらくじいっとお護りを見つめていた有利が、何を思ったのか途端に真っ赤に顔を染めた。 「大事にしときなよ。いつか役に立つかもしれないだろ? 子授けと安産」 「繰り返すなっ!」 首まで真っ赤に染めて、有利ががなる。 うーうー唸り続ける有利にくすくすと笑いながら、村田はすいとその場を離れ、石段の傍らに腰を屈めた。 「確かこの辺に……。ああ、あったあった」 小さな植え込みの影から拾い上げたのは、二つの学制鞄。 「邪魔になるし、あっちに忘れてきちゃいけないと思って、君のと一緒に咄嗟にここに放り出していったんだよ。どうせすぐに戻ってくるんだしね。ほら、僕達がここを離れて5分と経ってないから、全然汚れてもいないよ。でも、一応中を確かめておく?」 「いつの間におれの鞄まで……」 受け取った有利は、本当に元のままの鞄をじいっと見つめた。 「…………村田」 「何だい?」 「ホントに……ついさっき、なんだな……」 「そうだね。あのおばさんだって言ってたし。お釣の間違いに気づいてから、すぐに僕達を追いかけきたって」 「村田。………この世界は」 村田は何も言わずに、ただ有利を見ている。 「……おれが、渋谷有利である以上のことを、何にも求めていないんだな……」 「当然だろう? ここは地球で、日本で、君は埼玉県民の渋谷有利だ。それ以上の何者でもないだろう?」 うん、と有利が頷く。 それでも。 出会った人々がいる。 この世界とは別の世界で、確かに生きていた人達─出会いに笑って、理不尽さに怒って、孤独に苦しんで、別れに泣いて、それでも踏ん張って人生を生き抜いていこうとしている人達がいる。そしてその彼らと出会って、同じように笑って、泣いて、怒って、悩んで、怒鳴って、必死になって頑張った自分がいる。 駆け抜けた日々がある。その日々が、確かにユーリの中に残したものがある。 痛みを伴って突き刺さったままの言葉がある。 思い出という一言で括るには、それはあまりにも大き過ぎて。 その全てが、消化されないまま、まだユーリの中にどっしりと質量を持ったまま居座っている。 たとえ、地球が、この世界の全てが、それはいらないと言ったとしても。 これは全部、渋谷有利であり、ユーリであり、それでもこの宇宙にたったひとりの「おれ」のもの。 「おれ」の大切なたからもの。 「おれ」の。人生。 「………なあ、村田?」 「ああ、何だい?」 「おれさ、眞魔国のこととか、おれのこれからのこととか、家でもっとちゃんと話してみるよ。それから……コンラッドとのことも、全部話す。………コンラッドと、結婚したいって」 「うん、そうだね。それがいいよ。お父さん達と、じっくり話し合ってごらんよ。………渋谷」 「ん?」 「がんばれ」 「…………おう!」 「さあ、そろそろ行こうか!」 ぐうっと背伸びして、村田がユーリを促す。 「ああ。……って、ドコへ?」 あのねえ。と村田が苦笑して、鞄から地図を抜き出した。 「閉店大セールのスポーツ用品店に行くんだっただろ?」 「……おー、そうだった!」 「忘れてもらっちゃ困るなー」 鞄を持ち直し、分かりにくい地図を眺めながら歩き始める。 「なー村田。地球は全然何も変わってないけどさ。お前の制服だけは大賢者仕様だな」 わずか5分前のブレザー姿とは、全く違う黒い装い。 「こればっかりはね。さすがの僕も、あんなトコロで戻されるとは思ってなかったよ」 「制服の替え、大丈夫なのか?」 「こんなこともあろうかと、ちゃんと用意してあるから大丈夫さ。君もその辺、きちんとしときなよね」 「だよなー。あのさ……」 土曜の昼下がり。 平和な日本の、平和な道を、見た目は平凡な高校生が二人、のんびりとお喋りしながら歩いていく。 穏やかな時間。当たり前の風景。 ほのぼのと大地を照らす陽の温もりと、柔らかく身体を包んだかと思うと過ぎていく風を感じて。 有利はふと右手を天に翳した。 時間は滞ることなく流れ続け、不思議なことなど何一つとしてない。 世界が。そう囁いたような気がした。 →エピローグ プラウザよりお戻り下さい。
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